軍馬考

 須賀川市 佐藤 貞

臨時招集

 戦争末期の昭和19年4月私にも赤紙が来た、本来なら丙種合格のやせ男で兵隊になど無縁なのだがとうとう兵隊にとられた。

 朝鮮羅南の師団通信隊に入隊、ここで馬の轡(くつわ)嵌めの訓練を受けた。

  おっかなびっくりの「ど新兵」を馬も侮って十分に暴れる。これが初めての軍馬との接触である。

 

  3ケ月足らずの教育が終わって直ぐ40師団通信隊に転属になった。中国に渡って漢口の向側の武昌の「大東亜寮」という馬鹿でかい建物で、桂林近くの40師団通信隊への追及を待った。

 

 ここで南京から武昌まで遠路馬を曳いて来た部隊から馬を引き継いだ、南京から武昌まで直線で500kmある、何日かかったか知らないが大変な苦労だ、引率の兵は名残を惜しんで馬と別れた。 たてがみには馬の癖を書いた布が結ばれていた。

 

老軍馬との付き合い

 私が御者を命じられた馬は蹄の大きな徴発された老馬だった。19年8月15日十五夜の月が登った頃、武昌を出発本隊追及への行軍になった。馬は疲れると私の肩にどっしりと顎を乗せ青臭い息を吹きかける。

 前の馬について行くのに、のろい老馬の手綱を腰に結んでを懸命に引っ張った。然し、足の怪我で鬣にぶら下がって歩く私を懸命に引き摺ってくれたことも有ったし、馬は夜目が効くので夜行軍では助かった。

 

 只、馬体検査ではいつも上等兵に叱られた、懸命にブラシを掛けても毛並が悪いし、大きな蹄は傷んでいて蹄油を 塗っても綺麗にならない。蹄鉄兵も持て余すほどの形の悪い蹄だった。

 蹄の手入れで脚を抱えると、私の腕にどっしりと重みを加える、3本脚で立っているのが辛いのだろう。

 

 この老馬も長沙近くで一晩唸って死んだ。横になっている馬の口に旨く水が入らなくて末期の水を幾らもやれなか ったのが心残りだ。太い注射をしてくれた獣医将校も叱らなかった、寿命らしい。

 

 赤土を掘って何とか埋めた、馬体の形に掘ったが固くて深くは掘れなかった。班長が木を削って「軍馬考久号の墓」と書いてくれた。獣医将校から名を聞いて来たようだ。 

 

困難を極めた曳馬行軍

 中国軍は撤退する時、橋を破壊しトンネル内には機関車などを脱線さして日本軍の追及を妨害してあった。

 このトンネルを通るとき兵は隙間を何とか通ったが、馬は屈めないから通れない、鞍を外たり、地面を掘り下げたりしててやっと通ったことも有った。

 昭和19年の大晦日には一晩中行軍した道が悪くて滑らないように「おーら、おーら」と休みなく馬に注意を与えた。

 

 衡陽に着いて全部の馬を余所の部隊に引き継いで馬無しの行軍となったがその分、歩きが早くなって楽では無かった。

 

楽をした馬当番

 広東の先の江門と言う所で米軍上陸に備えるとかで待機していたことがあった。

 若くてエリートの隊長は「米軍等来ない」と言って兵を十分に休養させた。

 歩兵隊などは連日防空壕掘りをやっていたそうだ。砲も戦車も無く米軍が来たら悲惨な結果になったろう。 

 

 馬当番の時はバナナの林に馬を繋いで昼寝しながら友といつも故郷の話をした、草は部落の子供達が残飯と交換で幾らでも持って来た。

 

 古参兵は麻雀に夢中で私らを苛める暇は無かった。

 

 兵も馬も幸せな1ケ月程を過ごしたが、米軍は中国に上陸しないで直接本土に向かったとかで急遽北上を始めた。南船北馬で迷路のやうな水路を工兵隊のダイハツに乗ることになって馬と別れた。

 

馬の飼料

 馬の飼料を軍から支給されたのは広東に着いた時に一度だけ有ったそれは10センチ大の煎餅のような固形物で、栄養が強いので少量に分けて与えた。

 その外は草か藁が主食で、馬が満腹する程刈ってくるのは大変だった。それに馬は食べるのに時間がかかり朝一番に与えても満腹にはならない、十分に食べていないと行軍中に道脇の草に頸を伸ばすので曳にくかった。

 勿体ないがたわわに実った稲を刈り取って与えたことも有った。疝痛を起こさないよう水を沢山飲ました。

 

馬に蹴られる

 同僚がマラリヤに罹って彼の馬も私が面倒を見たとき、不慣れの馬の後ろを通ったら見事に蹴られた、馬の尻に触る程近くを通ると蹴られないし、蹴られても転ばされる位で済むがこれを守らなかった罰だ。

 

 また馬に鞍を付けるとき頸の方から乗せていたが、古参兵は尻の方から乗せるのが決まりだと言い張る、蹴られるからと言っても無理に尻から乗せたら見事に蹴られた、古参兵を蹴らないで私の下腹を蹴った、馬は人を見るとはこのことだ。大便の時出血したが報告した班長に無視された。

 

落馬

 私らの馬は無線機の木箱を鞍の両側に乗せて運ぶ駄馬で乗馬では無い、馬洗いの為に少し遠い池迄行った時、仲間の真似をして裸馬に乗ってみた。

 途中私は見事に落馬して気を失った、水を掛けられて息を吹き返したら皆の顔が輪になって私を覗きこんでいた。何でも前の馬に蹴られ棒立ちになって私は落馬し気絶したそうだ。

 

現地の馬

 日本馬の外に現地では支那馬やラバ、ロバ、果ては牛、水牛にまで荷を運ばせた。

 ラバはロバの雄と、馬の雌との一代限りの交雑種で背が低く、利口で、強く、細い橋も渡れるので便利だ。日本馬は威勢は良いが、ラバ程利口では無い。

 

馬を盗まれた

 朝食の用意で忙しい時、脇の道を余所の部隊がどんどん通過して行った。出発準備を始めたら馬が二頭足りない、脇の立木に繋いでおいたのだが通過部隊に盗まれたらしい。長蛇の列を古参兵が追い掛けたが見つからなかった、鬣などを切って馬相を変えられたようだ。班長は輜重隊から二頭借りてきて間に合わした。

 

たき火に寄る馬

 馬は臆病で淋しがりで兵を頼る。寒い夜焚火をすると尻を焚火に近寄せる、火傷する程寄って来る時も有る、馬は裸なので寒いのだろう。

 

馬の水飲み

 馬は一日に飲む水の量は30L以上必要で、兵は馬が飲む時の喉のゴクンゴクンを数える、少ないと塩を舐めさした りして飲ませる。1回のゴクンで1合程飲むそうだ。

 暑い日に池で飲ませたら200回も飲んだ、通りかかった獣医に報告したら、良く数えたと褒められた。  

 飲むのが少ないと疝痛になって転げまわって苦しむ。

 獣医はホースを尻に差し入れぬるま湯を注入して腸の中を洗い流す、ホースを抜くと臭い大量の糞が迸り出る。兵は湯に浸した藁束で馬の腹を懸命にマッサージする。 

 

 行軍中の短い小休止でも兵は荒野から水を探して来る、何回も運ぶのが辛くて馬がもっと飲みたいのに無理に水嚢を口から引き離して脚にザブリと掛け捨てる。

 馬には悪いが如何にも十分飲んだように古参兵に見せ掛ける細工だ。こうでもしないと兵は腰を降ろす暇も無い。

 

輜重隊と行軍を共にしたことが有る

 彼らの馬の扱いには驚嘆する、僅かの小休止でも鞍から荷を卸しアキレスを草でマッサージする。班長は真似をしろと言うが新兵だけで出来る訳が無い。古参兵にもさせろ。

 

泥中に捨てられた馬

 連日の雨で酷い泥道となった道を行軍していた時、道端に手綱を切られた馬が泥の中でもがいていた。

怪我か病気で動けなくなったのを前の部隊が置き去りにしたらしい、動けなくなった馬は蹄鉄を剥がし射殺するらしいが、射殺に忍び無くて置き去りにしたのだろう。遠くからでも頸を伸ばして追いつこうとしているのが見えた。

 

馬の事故で自殺した兵

 馬を繋いでいた場所の近くに蛸壷が有って、これに落ちて引き上げるのに手間取り出発が遅れた事が有った。怒った髭軍曹は御者の田辺(仮名)を物凄く、しばいた(四国弁)。

 翌朝手榴弾で胸を抉られ池にのめっている田辺が見つかった。

 私は使役に出ていて現場は見ていない、田辺は馬曳きが上手でトラブルの時はいつも世話になった威勢の良い男で、田舎の会津では馬車曳のベテランだったそうだ。

 野営の時、薄暗くて蛸壷に気が付かなかったのが恨めしい。

 

軍馬の末路

 敗戦後、蕪湖で引き揚げを待っていた時、また馬との付き合いが始まった。

 接収を待つ50頭程の軍馬が広場に繋がれていた。痩せた馬の尻は尖って牛のようだった。馬には浅い木箱に少しばかりの燕麦を入れて棒で押して与えた、餌を持って近づくと抱き込まれて危険だった。

 その少しばかりの燕麦も前脚でひっくり返すので地面に散らばって馬は食べることが出来ず日毎に痩せ細った。

 寒くなっても広場に繋がれた儘の馬は氷雨にガタガタと10センチも震えて立っているのがやっとだった。私が馬当番の氷雨の夜2頭盗まれたことが有った、足跡を辿ったが部落の石畳みで辿れ無くなって引き返した。

 週番将校に報告したが咎めは無かった。盗まれて馬は幸せだと思った。中国人は大事にしたことだろう。

 炊事係が、と殺して私らに食わしたこともある。仲間と涙しながら口にしたが肉は固くて顎が痛くなる程だった。これが生きている兵器と言われた軍馬の末路です。

 

 使役で町に出た兵が、日本の馬に中国の将校が乗っているのを見かけたと言うのを聞いて「良かった、良かった」と皆で喜んだ。大陸から兵は復員したが軍馬の復員は無かったと言う。

 

 内地の軍馬だが敗戦の時、甥は馬を貰って安達太良山麓の村に帰って来た。内地に居ても馬は故郷に帰されることな無かったのだ。

 

馬魂碑 

  旧日本軍では軍馬を生きた兵器として軍馬補充部の馬や、農家から徴発した馬を戦地に送つた。西郷の軍馬補充部白河支部跡を訪ねたが、昔遠足で行った時の馬の走り回っていた緑の丘は無かった。

 

 徴発馬の数は支那事変から終戦までの間だけでも60万~70万頭になったそうだ。しかし程んとの馬は故郷に帰ることなく異国の地で果てたそうだ。

 靖国神社には戦没馬を偲ぶ慰霊の像がある。私もお参りしたが立派な乗馬で私らの曳いた駄馬とは縁遠いエリートものだった。

 毎年4月7日には戦地に歿した馬たちを偲び慰霊祭が行われるそうだ。

 

 因みに徴発馬は昭和16年頃は600円位で農家から買い上げたそうだ。当時の私の月給は40円位だった。

 

 日清戦争、日露戦争の馬魂碑は沢山有るが以後のは余り建つていない。やはり敗戦の性だろう。物凄く大きな自然石の馬頭観音を見たことが有る、私の背丈の倍も有って小高い丘に建っていた。

 写真を探しても見つからない、東堂山の近くだが、うろ覚えだ。再訪して見たい。        

    朝風誌に未発表のものを掲載 2016.06.01

蚊と兵隊

須賀川市 佐藤 貞

 私は中国の湘南省や広東省の野戦で蚊にさんざん苦しめられました。私にとって蚊を防ぐ唯一の方法は草を燻して戸を閉め切って蒸し風呂のような部屋に寝ることです。それも効くのは始めだけです。

 あまり酷い時には雨外套をすっぽりと被ります今度は暑さの為に眠れません。その為に兵はいつも睡眠不足でした。下士官は頭に被る提灯のような蚊帳を持っていました。避難して誰もいない大きな民家に宿営したことが有りました。ここで蚊帳の付いた寝台に寝ることが出来ました。極楽とはこの事かと思える程ぐっすりと眠れました。

 

 また、夕方大便をすることは禁物です。お尻に真っ黒に蚊がたかって排便どころではありません。

 長沙の近くで夕方雨の中を行軍していたとき、一人の戦友が疲労の余り泥淳の中に倒れました。先に進んでしまった仲間に助けを求めて戻って来たら、土手に寝かして置いた戦友の顔に蚊が真黒にたかっていました。寸分の隙間も無いとはこの事だと思いました。恐らく放置していたら蚊に攻め殺されたことでしよう。

 

 マラリヤに侵されて気が変になった戦友もいました。夜たき火で宿営していると、あらぬところを指さして青い火がちらちらしている等と気味の悪い事を言います。皆は狐つきになったと言って居ましたが、高熱の為だったのでしょう。事実、夜小用に抱えて行くと、私に掴まる彼の手が、ブルブルと震えて丸で狐か狸に触られているように感じました。 ようやく小さな町について野戦病院に連れて行ったら、軍医が、起立も良く出来ない戦友にビンタを与えました。弛んでいるからだ、と言う言い分でした。きっと軍医も次々と来る傷病兵に自棄になっていたのでしよう。

 不動の姿勢というのは決して動いてはいけない姿勢なのですが、マラリヤ蚊は叩いても良いと特に許されていました。尻をピンと上げて刺す蚊です。

 

 米軍から分捕ったドロップ程の大きいキニーネを整列した兵は水無しで飲まされました。目を白黒させてやっとのことで飲み込むと、いつ迄も喉がひりひりしていました。

 今は蚊の音も滅多に聞けません。平和のありがたさをつくづくと感じます。

       朝風31号掲載 2000.9月

大晦日の夜行軍

須賀川市 佐藤 貞

 

 昭和十九年十二月、私ら補充兵を集めた本隊への大追及部隊は長蛇の列をなして目的地、道県へと毎日行軍を続けていた。ここは中国湖南省長沙から衡陽への軍公路である。

 

 大晦日の行軍なんか有り難くないが一日も早く追及する為には仕方がない。夕方衡山と言う小さな街を通過する。民家に入り込んでいる警備隊の連中盛んに忘年会らしいものをやっている。羨みながら素通りする。

 

 街を抜け丘陵を次から次へと越して、うつらうつらとして夢見心地で歩く。流石寒い、それでも手綱を持った手だけはびっしょりと汗をかいてしまう。夜になると馬も至っておとなしい、寝ぼけ眼で前の馬の尻にぶっつかっても蹴られない。軍公路は広いので星明りでも歩けるが、夜目の効く馬が頼りだ。

 

 先発した幹部候補生の大和田ら数名が宿営地を設営することになっていた。一晩中行軍しそろそろ空が白んでくる。この辺は茶畑が非常に多い。茶畑の丘が次々と有ってどれを見ても皆同じに見える。霜がびっしりだった。

 

 大和田らが軍公路に迎えに出ていた。軍公路を逸れて細い道に入ったが、案内にたった大和田が、設営した宿営地を忘れてしまって丘をいくつ越しても見つからない。日は高くなる、腹はへる。よその隊は落ち着いたのだろうか、わが隊だけが当ても無くさまよっていた。とうとう大和田が大きな声で泣き出して、皆に済まない済まないと詫びる始末。皆、暗澹たる気持ちになる。無理も無い、どこまで行っても同じような茶畑と丘ばかりだ。普通、別れ道には大量の紙などを目印に撒いて置くのだが、それをやらなかったのが悪かったようだ。

 

ようやく丘のかげに一つの無人部落を見つけて落ち着いたのが昭和二十年の正月だった。

 

朝風32号掲載 2000.10月号

少年兵物語 魚雷とグラマンの襲撃

越谷市 滝口一男

 昭和十九年十二月三十一日の夕方、横なぐりの吹雪の中を貨物船を改造した兵員輸送船団が門司港を出発した。船団は護衛の駆逐艦を含めて十一隻のようだった。そして玄海灘に向かった。

 

 われわれの船室は粗末な、奴隷船のようなものだった。部屋は俄作りの二階の床を張った物置で、窓はなく、背中合わせに座るような狭さだった。そして薄暗い部屋には電球は一個だけで、出入り口だけが明るいような状能心だった。

 

 玄海灘に入ると、荒れ狂う海の中で乗員たちは船酔いのため一睡もできずに新年を迎え、新春の朝食は喉を通らなかった。こうした悲惨な生活を強いられながら、船団は朝鮮海峡、東支那海そして台湾海峡の基隆沖にさしかかった。

 

 時は昭和二十年一月七日の真夜中、ドカーンという大きな爆音が響き、船がガクンと揺れた。実は、一隻の船が魚雷にやられたのだった。そして船団を脱落した。果たしてどれぐらいの被害があったのか知る由もなかった。だが、想像しただけでも胸が痛んだ。そして、それから先の航海の不安が皆んなの心をよぎった。

 

 その不安が現実化したようなハプニングが我らの船に勃発したのである。台湾海峡の新竹沖あたりでエンジンが故障した。そのため船団から離れ、はぐれ船は、一隻だけ、ノロノロと南方の方へ進んでいた。

 

 同期で同じクラスの陳君は「わが故郷は近く、向こうにかすかに見える気がする・・・」とため息を吐いた。台湾出身の彼の心情に同情し、自分の「ふるさと」をも想った。

 

 それは昭和二十年一月九日の早朝六時半頃のことだった。私は船尾の方から甲板の桟橋を渡って船の舳先にある自分の部屋へ行くところだった。すると、背後の方から数機のグラマンが発砲しながら攻撃してきたのである。

 私は必死になって桟橋を飛び降り、船の真ん中の倉庫の部屋に飛び込んだ。部屋は真っ暗で、乗員でぎっしりと満杯だった。そこヘグラマンの機銃掃射が真っ赤な鉄棒のようになって部屋の中を突き抜ける。

途端に、絶命の声が各所に起こった。悲鳴の中に「お母さん」と叫んで戦死していった少年兵もいた。甲板の迎撃兵もバタバタと倒れていった。

 

 機関室に爆弾投下を受けた船は運航不能で火災を起こして傾いていった。退船準備命令で船中のすべての木片を海中に投下し、戦死者を甲板に運び日の丸の旗を広げて冥福を祈った。 ところが、その中に陳君がいたのである。(陳、陳・・)と叫んでも既に犠牲者となっていた。

 

 両親や兄弟姉妹がいる自分の故郷の近くで彼は戦争の犠牲になったのである。

 戦争とは何と残酷なものだろう!それは少年兵としての初めての経験と時間だった。

 

 退船命令と共に舷側にはロープが吊り下げられ、袖口で掌をカバーして滑り落ちた。

 海面は重油が一杯で呼吸も出来ないほどだった。重油圏の外まで泳ぎだし、やっと捕まった丸太は潮流でグルグル回って疲れるばかりだった。

 船から投下された筏を目がけて泳ぎ着き、命綱で体をくくり、傷ついた戦友を筏の上に乗せて激励し合った。船は南への潮流を漂っていた。

 

 ところが、グラマンは方々に浮いている筏を目掛けて波状攻撃をしてきた。急いで筏の下にもぐって避けたが、運の悪い戦友は犠牲になってしまった。

 一月の台湾海峡の海は寒く、そして冷たく震えが止まらない。朝飯も食わず水も飲めない海の中、時計も止まり、太陽の位置だけが午後、夕方を知らせてくれる。

 寒さ、空腹、疲労が重なって眠くなる。眠ったらおしまいなので戦友が互いに殴りあって眠気をさました。眠って覚めない戦友は黒い肝汁を吐いて、泡を吹きながら溺死していった。

 

 太陽が沈み絶望という言葉をかみ殺しながら流れている筏を、目本の海防艦がライトを照らして見つけてくれたのは正に暗夜の光明であった。

 甲板から降ろされたロープをやっと肩に掛け、引きずりあげられた。しかし、疲れ果てロープを途中で手放して、暗い海に落ちこんで亡くなった戦友もいた。

 引き上げられた船上で乾布摩擦を受け、ミルクを少しずつ頂いて、毛布にくるまれたまま前後不覚の眠りに襲われた。

 まだ明けやらぬ港に上陸したのが台湾の高雄港であった。

       朝風33号掲載 2000.11月号

眼鏡と兵隊

須賀川市       佐藤 貞

 私は臨時召集された時、不覚にも予備の眼鏡を持たなかった。

 誰にもアドバイスを受けなかったので気がつかなかった。

 羅南で慌ただしく教育を受けて直ぐ中国の戦地に転属となった。教育中は私的制裁の禁止とかで眼鏡を飛ばされることは無かった。

 

 中国の野戦で眼鏡の受難が始まった。

 湖南省の泥ねい膝を没する軍公路を一晩中夜行軍して夜が明けてもあたりは明るくならない。後ろの大学出のど近眼の眼鏡は泥の壁で真黒だった。私のも同じでそれで明るくならなかったのだ。

 その眼鏡の泥を拭くものが無くて困った。体中泥だらけでどうしようも無い。舌で嘗めて泥を取っても明るくはならない。フンドシを引っ張り出して是れで拭いてやっと空が明るくなった。

 泥の付いていないのはフンドシ位だった。泥を拭いて夜が明ける夜行軍が毎日続いた。

 

 次の受難は馬の尾で眼鏡が飛ばされてしまったことである。朝出発前忙しく飼葉を与えていた時、振った馬の尾が顔に当たって眼鏡が何処かに飛ばされてしまった。薄暗い敷き藁の中を懸命に探したが出発までにとうとう見つからなかった。そのまま行軍となったが眼鏡がないと遠近が分からなくて足を踏み外したり、つまずいたりで散々だった。

 戦友の持っていた蔓の無い眼鏡をタバコと交換してやっと手に入れたが度数などは問題外だった。細い針金を見つけて蔓を作って何とか使えるようにした。

 無いよりは増しで助かった。

 

 次の受難は何とも言えない人間不信の出来事だった。民家に宿営していた時、敵機の襲撃があって皆クモの子を散らすように逃げた。

 古参兵は慣れたものでさっさと原野に逃げ出していた。私も自分の銃を持って避難した。

 敵機が去って戻って来る時に古参兵に掴まって、物凄いビンタを頂戴した。ビンタで失禁した小水が軍袴を伝わって軍靴に流れ込んだがどうしても止まらなかった。

 彼の言い分は、自分の銃だけ持って逃げるとは何事だ、古参兵のものは可笑しくて持てないのかとのことだった。己は素手で逃げたくせにこの言い分であった。私は古参兵の連日のビンタに備えて耳に眼鏡を紐で縛っておいたのが悪かった。ピンタで眼鏡の玉が外れて二つとも飛ばされて傍らの池にスイスイと右左に揺れながら吸い込まれて縁だけの眼鏡になってしまった。

 この縁だけの眼鏡は今も記念にとって有る。夕方池に入って足探りしたが見つかる道理は無かった。そしてまた眼鏡無しの苦難の行軍となった。

 

 余談だが、私は野戦で戦友愛に恵まれたことは無かった。私は今でも四国に好感を持っていない。転属になった先が四国善通寺の四〇師団だったからだ。

 東北人の何事にもトロイ私は、四国男児の気に入らなかったのだろう、毎日がビンタの明け暮れだった。

 然し彼らにも同情すべき点は有る、七年も八年もの野戦暮らしですっかり荒れ荒んでいたのだ。

 

 最後に眼鏡を運良く手に入れたことを書きます。

 湖南省の民家に入り込んで無線通信機を設置し、暗いので壁のレンガを外して窓を造った時、壁の中か

らお茶ツボがころりと出て来た。中には銀貨数枚と金の指輪が4コ入っていた。

 指輪と言っても指に巻けばどうにでも変形する金らしい針金だった。避難する時に壁に塗り込めたのだろう。

 銀貨は重いから捨てたが指輪だけは頂戴した。悪いと言う気持ちは無かった。

 

 良く、俺は戦地で何も悪い事はしなかった等と言う人がいるが、最低これ位のことはしている。元々人の家に勝手に入り込んで寝泊まりしたり、食料など頂戴しなかった兵はいないだう。

 この指輪を持ってどんどん南下して広東の南の江門と言う町に逗留した。何でも米軍の上陸に備えての配置とのことだった。この町は治安の整った賑やかな所で、慣れた苦力に一個売って来るように頼んだら、あれは偽物だったとタバコー個だけ持って来た。

 

 外出許可の出た日に自分で貴金属店に行って交渉した。小さな量りで何度も計っては値段を言うが、こちらも野戦帰りで相場が全然分からない。

やめた、と店を出ようとすると、先生先生と呼び戻されること数回、駆け引きの潮時と思って二万円余りの大金で換金した。この金で立派なメガネ屋に入って二つの眼鏡を手に入れた。

 

その後本土防衛に向かうとかで、また大陸を引き返して長江(揚子江)まで辿り付いて敗戦となった。

 

 湖南省のお茶ツボを隠した人はどんな人だったのか、戦地の慣れで済まないと言う気持ちは無かったが、眼鏡を手に入れて有り難かったのは事実である。

 お蔭で無事帰国しました、心からお礼を申し上げます。

      朝風35号掲載 2001.1月号

溜め池の水を抜く

須賀川市 佐藤 貞

 中国湘南省の農村は日本の農村風景と良く似ていて懐かしかった。 秋になって重く実った稲穂も刈り取る農民が居なくて徒に倒れていた。 私らはその稲を勝手に刈り取って籾、玄米、白米にして食べた。道具は皆民家のものを無断使用し、用済になった農具は大概焚き物にした。

 

 所々に溜め池があってそこには魚がいた。その魚を捕るために日本兵はあちこちの溜め池の堤防を我勝ちに切っていた。

 私らは、古参兵の指導で竜骨車と言うキャタピラ風の揚水具を何台も並べて池を干した。 鯉に似た魚がいくらか捕れた。

 

 避難先から帰って来た農民はどの溜め池も水が無いのをみて、声を上げて泣いたに違いない。

 溜め池の水を抜かれて翌年の田植えはどうなったことだろう。もっとも翌春に日本軍が居なくなって田植えが出来る状態になったかどうかは知る由も無い。

 

 僅かばかりの魚を食べたくて溜め池を干す心理は一体どういうものなんだろう。故郷では皆良識のある良いお父さん達の筈だ。戦争は良識を簡単に吹き飛ばしてしまい、恐ろしい事に人が変わってしまうのだ。

 

 ど新兵の私ではあったが無罪と言う訳には行くまい。私らは実った米を微発したばかりでなく来年の米まで略奪したことになる。詫びる言葉も無い。

  朝風41号掲載 2001.8月号

南京の町を彷徨する大部隊

須賀川市      佐藤   貞

 昭和十九年四月羅南を出発、約一週間で南京対岸の浦口に朝方着いた。皆水不足に悩まされていたので揚子江の水を掬って我勝ちに飲んだ。日が登ってから見たら汚い褐色の水で勤物の死骸なども浮かんでいた。これが始めて接した中国の水で後々まで水には苦労した。

 

 船に乗せられて揚子江を渡る。三十分以上かかったから四キロ位の川幅だろうか。

 私達戦線に追及する大部隊は巨大な興中門とか言うのをくぐって南京市同に入る。人力車、胡弓の音、原色の看板、チャイナドレスの娘、露天商、喧騒と匂いに圧倒される。

 

 この下町を過ぎると立派な大通りになって大きな商店や事務所が並んでいてまるで銀座のようだった。

日は頭上高くなったが朝飯どころか一滴の水も無く皆顎を出し始めた。小休止の時には日本軍としての見栄も外聞も無くペタペタと路上に尻を下ろす。

 商店から中国人がバケツに水を持って来てくれるが生水は厳禁と言うことで汗を拭くのに使った。

昼になっても飯は無し、ある自転車屋の前で小休止したら、日本人の奥さんが、「兵隊さんは可哀相だ」と言って泣参ながらお茶を飲ましてくれた。有り難くて自分たちまで泣きたくなった。

 敗残兵のようで三十分お孝位に休まないと行軍出来ない。郊外に出て、あるアパートの前で小休止をした。そこには家庭菜園に親指位のキュウリがなっていた。我勝ちに取って口に入れた。

 

 出て来た日本人の奥さんが「みんな取って食べて」と言ってくれた。折角育てたのに残念なことだったろう。その上お茶の接待でテンテコ舞だった。

 

 本当に顎を出す兵が出る。私は割合元気だったので戦友の銃や背嚢をもってやる。仕舞には兵を抱えて歩く。中国人が袖に腕を突っ込んで不思議そうに見ていた。

 夕方ようやく化け物屋敷見たいな宿舎に着く。炎天下、朝から飲まず食わずの行軍で宿舎に上がる力が無くて地面に転がっている兵もいた。

 何でも引率将校の連絡が悪くて宿舎が決まらず、炎天下の南京の町をさまよったようだ。そんな訳で着いても飯は無く、固いパンを貰ったが喉を通らなかった。

 横になっても猛暑と胸のどうきが収まらなくて、酷く疲れていたが眠ることが出来なかった。このように大部隊が彷徨うことが後でも何度かあった。

 

 武昌を出発して宿営する部落に辿り着けなくて暗い夜道を何時間も彷徨ったこともあった。

 また、中支から南下して広東に入ったときも、朝方着いたのに午後まで市内を彷徨ってやっと宿舎に入った。

 私は只の兵隊だから分からないが、一体日本軍の指揮連絡はどんなことになっていたのか呆れたことだ。

 会員の中には元将校とか部隊長などの方も居られることと思いますJこんなことは無かったでしょうか。

朝風43号掲載 2001.10月号

マラリアで狐憑きになった兵

須賀川市  佐藤 貞

 中支の長沙付近の水渡寺と言う部落に少し逗留したことが有る。米をとぐ奇麗な小川も冷たくなって来た。

 田辺戦友はマラリヤが相当進んで皆に狐つきだと言われるようになった。

 

 皆で焚き火を囲んでいる時に、あらぬ方を指さして「あそこに青い火が燃えている」とか、「夕べ田舎の親に会って来た」とか変な目つきでぼそぼそと話す。夜中に用便に付き添うと彼の手はぶるぶる小刻みに震えて、何だか獣に触られたように感じる。

 

  何日も食べないので痩せこけて馬に乗せるのにやっとだったが、長沙の野戦病院に送った。付き添った兵の話では、軍医はふらふらの病兵を並べて「お前ら弛んでいるからだ」と物凄いピンクを食らわしたそうだ。軍医も連日の多くの病兵の入院に頭に来ていたのだろうか。

 

 二度と会うことは無いと思っていた田辺と偶然合ったことがある。後で何処かの鉄橋を渡っていた時、自動車隊に追い越された。暴れる馬を必死で抑えている脇を、徐行するトラックを運転していたのが田辺だった。話す暇も無く声を掛け合うだけだったが太って元気そうだった。

                                  朝風45号掲載 2001.12月号