決死隊の玉砕(1)

北茨城市 石森 武男

一、出動命令

 昭和二十年三月、繰り上げ徴兵で会津若松に入隊、即日心の準備もないままいきなり、北支戦線要員として冬軍服を渡された。

 戦闘訓練を何一つ受けてない身で前線出動は、まさに死を意味するものだった。だが出陣前夜、突然命令の変更で待機となった。

 翌日から安積永盛小学校に宿泊して、古年兵らを交えて萱山を開墾し馬鈴薯植付けなどして、自活作業しながら次の命令を待った。

 

 そして一ヶ月後「初年兵だけ原隊へ戻れ」との指令により、身支度して郡山駅に若松行き列車を待っていると、偶然実家近くの知り合いの女性に出合った。

 「これからどこ行くの」と聞かれ、とっさに思いたった。人気のない所へ誘い「俺達、朝鮮羅南に虎部隊要員となって戦地へ行くらしい。家の人にそう伝えてくれ」と頼みほっとした。武運長久を祈る千人針の腹巻きを縫ってくれた彼女に、伝言を託すと心おきなく原隊に戻れた。

 

 そこには同郷の先輩である某軍曹がいて、何かと世話をやいてくれ勇気づけられた。

 若松駅を軍用列車で出発したのは夕暮れで窓を鎧戸で暗くした車内では戦地への不安と期待に沈黙して誰も語らず、やがて窓の隙間から見る東京の街は焼野ヶ原であった。

 そして名古屋、大阪の大都会も空爆で破壊され廃墟と化していた。

 「これで戦争は勝つのか?」不安ばかりを胸に博多から乗船。玄海灘を駆逐艦に護られ、魚雷攻撃もなく無事に釜山上陸を果たせた。これが日本と大陸を結ぶ最後の運航となった。

 

 列車で羅南に到着。歩兵291連隊の5中隊に編入。竜岡(草冠が付く)廠舎で一期検閲を終えて帰隊した一月入隊者と合流した。

 そして間もなく学徒動員で召集された現役朝鮮人初年兵が我が5中隊にも何十名か入ってきた。

 

 七月初旬、連隊は野戦部隊、泰2114部隊を編成、北鮮国境警備の任務をおび、入隊間もない朝鮮人初年兵を交えた先発隊が列車で国境近い慶源の月明山に陣地構築に入った。

 豆満江の対岸の山並にソ連兵舎を遠望する月明山の裏の沢に、後続本隊が駐留する廠舎(草ぶき屋根の掘っ立て小屋)を突貫作業で作った。

 食料欠乏して夜山を下り、近くの民家に大豆や粟などを石鹸やタバコと物々交換して急場をしのいだ。

 これらの事には朝鮮人兵士は大へん重宝したが、廠舎作りには怠けてばかりいて全く役立たず、作業は大幅に遅れた。従って小屋が未完成のうちに本隊が到着、入居と同時に大雨が降り雨漏りで大騒ぎとなった。

 

 先発隊は本隊に戻り、横穴洞窟堀りを続けた。

 その壕堀り作業も大詰めになった頃、郡山出身の某二等兵が動哨中に空腹に耐えられず、近くにある輜重隊の馬糧である豆かすを盗み、焼いて食べている所を巡回中の週番将校に見つかり、処罰を恐れて其の場から逃亡した。 ヤブに隠れて山を下り豆満江を泳いで満州側に渡り、満人民家に押し入り食事や衣服を強奪して逃走を続けた。

 通報で駆けつけた憲兵に捕まり、素直に従ったが隙を狙って帯剣を抜き憲兵の背後から突き剌した。

 だが瞬時に身を繰され捕縛されてしまった。とも知らず我々は中隊全員で山狩りや里の民家を捜索したが、関東軍の通告により事態の結末を知った。

 逃亡、銃投棄、強盗、殺人未遂等々、窃盗に始まって数々の罪状は、軍法会議の消息も掴めぬうちに、ソ連と開戦になった。

 

 月明山から峰続きの馬乳山にかけて布陣した我が軍と大激戦を展開した。

 八月十五日未明、敵兵は豆満江を対岸から筏で渡河を決行。敵戦車は砲身を上に向けて水中を進攻してきた。その背後から援護する敵戦車の砲弾が、月明山々麓の軍用油タンクに命中、慶源の町を黒煙で包んだ。大規模を誇る敵の機動部隊の猛攻に対し迎え撃つ我が軍の火砲は情けないほど貧弱であった。

 

 ちょうどその頃、戦車肉迫攻撃特訓のため会寧嚀部隊に派遣されていた西本小隊の遠藤一等兵が訓練終えて隊に戻る途中だった。

 昼は隠れて夜間、敵の進攻を防ぐ為工兵隊が破壊した鉄道線路上を歩き二昼夜かけて月明山に戻った。

 接近する敵に対し休む暇もなく、睡眠不足で綿のように疲れた体を歩哨についたが、睡魔におそわれ半分眠っていた。

 その時、幸か不幸か伝令が来て本部に呼び戻された。中隊本部前には決死隊の鉢巻きをした西本小隊が整列していた。

 「これより馬乳山に苦戦中の四中隊の援軍に出動する」 日の丸に決死隊と記した鉢巻きをして、西本隊の一員として、林中隊長の激励訓示を受けた。

 「長い間戦闘訓練に励んできたお前達が、これより激戦地へ向かうが、いよいよその成果を見せる時が来た。お国の為に最後の一兵まで戦ってくれ!」

 

 この力強い、いや惨い訓示に武者ぶるいして出発。

 獣道をかき分けて進む山中は陽がとっぷりと暮れていた。隊列の最後尾に 一人遅れぎみに歩く上館上等兵がうなだれて「誰か交替してくれないかな、俺は絶対死ねないのだ。生きて帰る約東があるんだ」。

 一人言を何度もつぶやいていた。

 

 故郷に残した老婆と妻子を思っての事だった。妻子ある兵は彼ばかりではない。

 遠藤軍曹など各分隊長、幹候生の渡部久一戦友など沢山いる。

 機関銃手の渡部幹侯生は、羊の毛を紡いで、新妻が夜なべして編んだ腹巻を「俺は死ぬんだ。生きて帰れないから、お前が生きて帰ったらこれを家内に届けてくれ」と言って戦友の深谷候補生に遺品として託した。だが当の深谷もシベリヤに抑留され目的を達していない。

 

 決死隊という片道切符で死出の旅に出た西本小隊は、砲声も途絶えた闇の中を音も沈めて進み、馬乳山を迂回して敵の背後から突入する計画だった。

  闇夜に敵陣の中を察知されぬようI晩じゅう一睡もせず、居眠りしながら木の幹に衝突しては眼を覚まし、夜が明けたころ上館上等兵が「腹へったな」と勝手に携行食に手をつけた。小隊長は「この先の黄波部落で食糧調達して朝食にする。もう少し我慢せい」と話しているうち、豆満江対岸から敵の砲撃が始まった。地軸をゆるがす砲撃を身近に、隊員は戦場の実感がひしひしと骨身にしみた。

 

 黄波部落に入る橋は爆破で落下、民家には人影もなく豚や鶏など家畜だけ残っていた。黄波にいた三中隊の一部の残兵が西本隊に合流。増員したところで無人民家の豚一頭を徴発、そこにあった斧で遠藤一等兵が一撃で仕とめた。

 あとは朝鮮人兵士が探し出した穀物で栗飯を炊いて腹ごしらえして休息をとった。

一時間ほど仮眠した後、西本小隊長が近くの三中隊本部より情報を入手、「敵は近くにいる」として斥候を出し、三百メートル後方を前進、二時間後に目的地の基洞部落に着いた。

  (つづく)

      朝風55号掲載 2002.10月

決死隊の玉砕(2)

北茨城市 石森 武男

最後の一兵が生き残る

 小隊は部落を抜け、豆満江沿いの鉄道と並行する道を進むと、先を行く斥候が前方の橋の手前で休止したので、近くに敵は無いと判断した小隊は小休止した。その直後、頭上七十メートルの山頂からいきなり銃撃を食った。

 「敵だ敵だっ」「散開して射撃開始っ」小隊長の怒声がとぶ。敵の銃撃に怯えた朝鮮人兵は、我れ先にと固まって河原の芦の中へ逃げ込んだ。

 付近に遮蔽物は何一つ無い広い河原だ。小隊も全員芦の茂みに散開するしかなかった。実戦体験のない西本小隊長の判断の誤りだった。即座に反撃開始したが大軍を誇る敵の火力は落雷の様に轟く。対する味方の火力は軽機関銃と擲弾筒一基だけ。それに実戦体験のない小銃ばかり。

 

  「軽機は何しとるかっ」渡部候補生の軽機がようやく火を吹く。「軽機はどんどん撃って小銃は逐次後退せよっ!」  隊員が動く度に芦の穂が波打って揺れる。そこを目がけて敵弾のスコールが降り注いだ。敵は自動小銃と狙撃銃の集中攻撃を弛めない。

 遠藤一等兵は後方に独り離れていたので、敵の銃撃を友軍の誤射では? と疑い、しばし戸惑ったが、路肩のわずかな窪みに伏せた。

 もたもたしたせいで敵弾は小隊の方へ集中、自分の方へは弾丸が来ない。しかし目の前では全員猛烈な射ち合いをしている。次々と戦死者がのけぞる。負傷者は続出する。それを見て戦友らは味方の援護射撃をせずに居られない。射てぱ必ず反撃喰らうに決まっている。死ぬ覚悟で引き金を引いた。三八式小銃だから槓杆引くのがもどかしい。夢中だから

 

 何発射ったか覚えがない。そのうち身辺に敵弾がぶすっぶすっと集中してきた。

 とうとう敵に狙われてしまった。雷鳴の轟きに降り注ぐ銃弾が、遂に遠藤一等兵の腰に命中。大腿部を貫通して火の激痛が走った。

 反射的に傷を押さえた手の四本の指がすっぽり入るほど大腿部の弾丸の出口の傷は大きい。遠ざかる意識の中、おびただしい出血に無意識で三角布を出し、太ももに巻きつけ結び目に棒切れを差して渾身の力で絞りあげた。

 

 大軍の敵の大攻勢に味方の銃声はたちまち衰えた。目の前の芦草がなぎ倒され、需れゆく戦友の屍で河原は血の海の地獄さながら。

 屍の中を泳ぐように右に左にと匍匐後退してゆくうち、渡部射手が全身に銃弾をうけて戦死。

 軽機が沈黙して味方の銃声が途絶えた。

 近くにいた阿部禧学兵長が渡部候補生の手から軽機をもぎとり再び火を吹く。

 が瞬間にて『迫撃砲弾か? 頭半分とぱされて戦死。 四中隊回想録より』

 

 傍に朝鮮人古年兵の金山一等兵が「弾丸が腹から肛門に貫通した。苦しい。殺してくれ」と叫ぶ。

 それを見過ごして更に後退する。戦況は絶望的だ。

 味方の銃声が絶えた。敵の銃声も止んだ

 

 これまでの交戦時間は三十分に満たない。

 呻き声は上館上等兵だ。「遠藤っ、俺やられた。早く衛生兵呼んでくれっ!」悲壮な声で絶叫する。苦痛に堪え、衛生兵を呼べども返答がない。(頭蓋骨吹っとび顔だけの秋山衛生兵の姿を発見し、涙ながらに冥福を祈る=相艮氏手記より)

 

 絶望的な上館上等兵を後に後退すると、血だるまの西本小隊長が軍刀を杖に膝をつき、額面半分をもぎとられ全身蜂の巣に射ちぬかれ、腹部に腸がとび出して壮烈な最後の姿で立つ。

 阿修羅の形相ばかりの中で俄かに死の恐怖が襲う。

 更に呻き声に近付くと、芦の中に分隊長の遠藤晃軍曹が倒れて、「両足とも大腿部を貫通した、俺は助からないからお前が状況報告に行けっ」と叫ぶ。だが遠藤一等兵は「自分もここで最後まで戦います」と言った。「お前はまだ動ける。出来るのはお前だけだ。命令だ。早く行けっ」腸をえぐる悲壮な怒声で言切れた。

 

 銃を草むらに隠し分隊長の最後を見届けて匍匍また匍匍、遅々として進まない。

 戦友たちの屍を盾にしてその間を右に左に「何としてもこの場を脱出せねば!」

 血の海を泳ぐように夢中で地獄の河原を脱出に成功。轟音に振向くと敵の手榴弾投下らしい音だ。

 西本小隊は完全に壊滅した瞬間だ。脱出が一歩遅かったら地獄だった。

 ヤブの中に身をひそめていると、沿道を大声で勝利を誇らしげにソ連軍が撤退して行く。息を殺してやり過ごした。

 かなりの大部隊だ。敵軍が全部撤退したのを確かめ逆方向にある三中隊本部に約何キロかの道程をがむしやらに走った。と言っても半身不随の手負い獅子だ。

 暑さと出血で喉が乾き激痛に気が朦朧として何度も水辺に行ったが、水を飲めば出血多量になって必ず死ぬと知っていた。そして、とうとう水を飲まずに我慢して走り通した。

 

 夢遊病者の様に無意識で歩いた。気力だけが体を動かした。

 「西本小隊の戦闘状況報告しないうちは絶対死なない」 任務意識が彼を支えた。

 遠ざかる意識の中をやっと黄波部落に到着。本部近くなって気のゆるみか極度の疲労なのか、路上に意識を失った。

 

 任務遂行に死力を尽したが肉体生命には限度がある。呼吸と共に生命は終えるが遠藤一等兵にまだ脈があった。 然し仮死状態である。どのくらいか空白の時間が過ぎた。

 大声で誰かが顔を叩いた。自分が今闇から出て黄色い大気の中にいる。「俺は生きている」傷口に手が這った。

 軍服が血糊でかぱかぱに硬くなっている。生地の色がない。どす黒く塗りつぶされている。五体の感覚がない。

 本部近くで血だるまのまま倒れていた所を五中隊の兵士が見つけ担ぎ込んだと言う。「助かった」という安堵感から再び意識が遠のいた。昏睡状態の中、状況の質問をすると、朦朧とした夢の中で無意識に答えていた。

 それは奇異と言うしかないと本部隊員は驚いていた事を後で知らされた。そこで脱がされた服を見て改めて驚いた。ボロボロである。

 

 一人の兵士が「戦争は終った」と告げた。そしてトモンに集結して武装解除するのだと。

 

 負傷者はトラックに乗せられ隊列の最後尾に続いたが、車は途中で故障して立往生。

 窮した衛生兵が、民家から徴発した荷車に乗り替えた。悪路を曳く鉄車輪の荷車に寝て、ガタゴト揺れる衝撃が腰部の傷を否応なく叩きつける、歯を食い縛って激痛に堪えていた。

 

 背中の毛布の下に、ごつごつ当る異物があるのに気付いた。手の先でまさぐると、毛布の下には軍刀らしき物が二本隠されてある。照り付ける炎天に汗だくになって、愚痴も言わず荷車を曳く古年兵に感謝こそすれ訴えなど出来ない。上官から預かった軍刀の護衛の為に、負傷者の下に隠したことを後で知った。

 

 内心、ソ連に見つかったら命はない、とはらはらしていた所へ前方からソ連将校と下士官が近付いてきて荷車の停止を命じた。

 その下士官が片手に拳銃を握り一方の手で遠藤の体に掛けてある毛布を、ぱっとめくった。

 拳銃の筒先を見つめ「もうだめだ」と観念して目をつむった。

 

 ソ連将校と下士官は、どす黒い血糊がべっとり付いた腰部を見て、首をかしげると顔をしかめて毛布を元に戻し、それ以上探索はしなかったので一応ほっとした。

 緊張で硬直している負傷者を横目に将校は「ダワイ」と身振りで荷車の前進をうながした。

 ほっとしたのも束の間、その先やたらとソ連兵が増え、何度も停止させられたが無事通過した。

 

 トモンの対岸の南陽町に入ると至る所に赤旗万才の赤いビラが張られ、沿道に並ぶ朝鮮人は敵意露骨に日本兵を蹴り、唾を吐きかける。敗戦の悔しさをしみじみ実感した。

 

 南陽からトモンへ豆満江に架かる国境の橋トモン橋を隊列が真ん中辺りまで渡った時、大隊長の停止命令。その大隊長が荷車に近付いて、背中の下に隠した日本刀を出し、大声で叫んだ。「お前たちは捕虜になったのだ。悔しかったらこの川に飛び込んで死ねっ。

 逃亡したい者は勝手に行けっ」と吐き捨て、日本刀を抜いて振りかざした。

 「剣道の達人は居らんかっ。吾れと思わん者は出て来いっ」と叫ぶ。「俺は殺される」遠藤一等兵は直感的にそう思った。

 

 隊長の威厳と言うより丸っきり鬼顔である。遠藤(以下敬称は略す)は心臓が凍った。「負傷した俺が手足まといなので、この場で首を切り、遺体を河の濁流に投げ込む気だ」 狂気の沙汰だ。

 と誰もが周りから大隊長を凝視した。

 「戦場で拾った命もここで最後か」。遠藤は死を覚悟して目をとじ、成り行きを待った。

 しかし大隊長は遠藤の顔を見つめたまましばし沈黙、一瞬、目をとじて軍人の魂と言われた日本刀を、一礼するや両手に捧げて豆満江の濁流めがけて投げ棄てた。

 それまでその場の推移を、遠藤はあらぬ誤解していた事にようやく気付いた。

 己の命を守り、軍を守る軍刀を濁流に投じる時の大隊長の心中はどんなだったか? 今でもそれを推しきれない。 

 

 筆者はその隊列の前の方にいて、橋上で隊列の停止号令に足を止め、大隊長の怒声を聞いたことを覚えている。が軍刀投棄の話をきいたのはシベリヤに抑留中の事だ。

 小隊長西本正一見習士官は決死の援軍を命ぜられ、死地へ向かう時、部下にした朝鮮人兵をどこまで信用していたか、誰も知る由はない。

 

 日本人に抑圧され虐げられた彼等の心の奥で、密かに反日感情を育てていた様に思う。

 それは開戦直前の頃、陣地構築に従事した彼等が、参戦を嫌い、昼夜を問わず逃亡を重ねたからだ。その都度、部落捜索や山狩りして連れ戻したが、全く反省はなかった。

 困った中隊長は「今度逃げたら死刑にする」と全員に約束。それでも虎視耽々と脱走の機会を狙った。

 業を煮やした林中隊長が朝鮮大兵を舎前に集め、首謀者Aを衆の面前に座らせ死刑を宣告した。

 「見せしめにお前を死刑にする」と白刃を彼の首に押し当て、頭上に振り上げるや気合いもろとも切り降ろした。彼は首に手を当て大声で「アイゴー」と泣き喚いたが峰打ちだった。

 

 後、西本隊に参戦した朝鮮人は逃亡の機会を失い、芦の河原で全員戦死。他の朝鮮人兵は武装解除を待たず、戦場から姿を消していた。

  (つづく)

      朝風56号掲載 2002.11月

決死隊の玉砕(3)

北茨城市 石森 武男

生と死のはざまに

 銃弾貫通するも奇跡に生き残った遠藤一等兵は、野戦病院になっていたト門町公会堂に収容された。その夜のこと。ベッド際の窓ガラスが真っ赤に輝く大爆発があった。深夜になって重傷の兵隊が続々と運びこまれてきた。それらは野戦重砲隊の自決者達であった。

 

 遠藤は重傷の彼等に寝台を譲り、自分は床板に直接ごろ寝した。突如大量の負傷者到来に一人の軍医と三人の衛生兵では、手当が充分に届かず、翌朝、そのほとんどが死んでいた。

 敗戦の通告に重砲隊は全員自決を宣言、広場に弾薬を山と積み、周りに円座して樽酒を酌み交わした後、束の空に宮城を遥拝、天皇陛下万歳を斉唱し、弾薬を爆破したという。

 

 一方、遠藤一等兵は困ったことに、悪い赤痢に罹っていたのを知らなかった。激しい下痢で眠る暇もないほど便所通いに追われる。

 公会堂は外便所なので、その往復にへとへとに疲れ、遂に公会堂前の畑に横たわり、便を垂れ流した。立つことも出来ず畑で夜を明かした。

 翌朝、軍医が遠藤の居ないのに気ずき捜し歩いた結果畑にぐつたり伸びている彼を見て驚いた。

 

 軍医は遠藤の下痢をアメーバ赤痢と断定即時そこから離れた朝鮮人民家の一軒家に隔離した。何の手当もなく唯絶食を命じ、何日も飲まず食わず一人放置された。

 ヨーチンの染みたガーゼを詰めこんで傷口が化膿して、そこに蝿がたかって姐虫が発生、針をさすように傷を食い荒すのだ。追っても払っても蝿と姐は絶え間なく傷を食い荒らすその痛さは頭の芯まで達して替えようがない。

 

 長い絶食で身体は衰弱して目眩いがする。動くのもやっとで、このままここで野たれ死にするのか、と悲観していた矢先きに、この家の家族らが避難先から戻ってきた。

 

 傷の痛みと極度の下痢で衰弱した体で家の中を這い回り、便を垂れ流し放題で、そこらじゅうが便だらけだ。おまけに土足で座敷にごろ寝している。

 家人はかんかんに起こって殴りかかった。気力をふり絞って必死に身を躱すと、家長とみるその男は激高して斧を持ち出し、振り回して殺そうとする。逃げ場もないし逃げる気力も残されていない。

 

 またもや遠藤の身に死の危険が迫った。絶体絶命、宇宙の法則か、どんな生物も土壇場になると無意識に命乞いをするものだ。例外なく遠藤も手を合わせて命乞いした。

 だが家長の怒りは収まらない。敵意をむき出しだ。遠藤は畳に腰を横たえたまま身辺の器物を持って抵抗、睨み合うこと数時間。

 そこへ運良く衛生兵が傷の治療に来てくれた。地獄に仏だった。「早くここから出してくれ」必死に衛生兵を口説き落とし、治療もそこそこに、やっとの思いで元の病院に戻ることが出来た。だが、来てみれば院内は負傷者が多すぎて、少ない医療陣の手に余り、死者の遺体さえ放置してあった。その死臭が病室に充満するも手の下しようがない。

 そんな中、幸運にも遠藤は絶食療法が効いて下痢も治り、衛生兵が作る白米のお粥のお陰で日ごと力が付いてきた。

 苦痛なのは傷に詰めたガーゼ交換する時だ。生身に焼けた火箸を刺すような苦しみだけは我慢できなかった。

 

 一方、遠藤の原隊である五中隊は停戦通達を受け、西本小隊の玉砕も知らずに下山した。ソ連軍に投降する為八月十八日夕闇をついて月明山陣地を下った。

 敵はまだ山の中に潜在すると想定して、沈黙を守り、やぶの中の獣道を音を立てず手探りで下った。崖を転落したり谷川の流れに足を掬われたり、大河の激流を胸まで浸って渡り、土手を這い上がって街道に出た。そこに待っていた本隊と合流、路面に腰を据えて夜が明けるのを待った。

 

 綿のように疲れた体を銃にもたれ居眠りも出たが、思ってもみない停戦に興奮して白みかけた空をぼけつと眺めていた。

 すると、目の前に掘ってある戦車壕の向こうから誰かが来る。「コツ、コツ」と靴音がゆっくり近付く。暁の空に透かして見ると、着剣したライフルを抱えたソ連兵のい影は、戦車壕の向こうで立ち止まった。

 異状を察知したか、じっとこっちを凝視して動かない。こっちの暗い路上に座った数多の日本兵が固まって時折りわずかに動く。

 その黒い群集の中から突然、降伏を告げる白旗が「ぬーつ」と揚がった。驚いたソ連兵は銃を上に向けて乱射すると、一目散に逃げて行った。

 

 本隊はその後を追うように出発した。間も無く馬に乗ったソ連軍将校が数人駆けつけて、我々の進行を停止、大声で何か叫んでいる。私はこの時ロスケを初めて見た。

 赤ら顔に赤ヒゲに赤っ毛、背がニメートルもある怪物だ。拳銃片手に自動小銃を背負って、仁王様のような奴らだ。力ずくでは到底勝てないと思った。

 

 「ト門に集結して武装解除する。途中で抵抗すると全員死ぬ事になる」と部隊長付き通訳が言った。ソ連兵はきびすを返して走り去った。

 何十キロか歩いてト門橋を渡った右側の広場で武装を解いた。他の部隊の兵が座っている。広場の中央は兵器の山だ。

 陛下から預かった軽機関銃を命の友として大切にしてきたが、敗戦という悔しさから私は機銃をその場に投げつけた。戦争へ決別の瞬間である。

 

 身体検査をする若いソ連兵が私(筆者)の体を震えながら触るので、大きく咳払いして足元に唾を吐くと、奴は驚いて私を睨み返した。隣に並んだ管野戦友が密かに手榴弾を隠し持っているのをソ連下士官に見つかった。

 白沢伍長がとっさに管野の顔を殴った。するとソ連下士官は怒って白沢伍長に烈火の如く抗議した。

 「兵士を殴る野蛮な行為は許さない」と言うのだ。

 怪物に似合わない善良な心を持っているのだと初めて知った。

 

 我々は武装解除広場沿いにある無人の満鉄社宅に宿泊した。久しぶりに畳の上にごろ寝して、わずかながら解放気分を味合った。一隅で古年兵ら数名が脱走を計画、深夜に豆満江を泳いで朝鮮側に逃亡した。

 一方、将校たちはソ連軍に連れ去られ、いつの間にか姿を消していた。以後の統率は下士官が当った。

 そんな中、飛田戦友が顔に大火傷を負う偶発事故が発生居合わせた深谷幹候生が即刻彼を病院に担ぎ込んだ。 幸い火傷は大事に至らず、飛田を病院に残して帰りかけた深谷が、寝台に横たわる遠藤とばったり遭遇した。

 遠藤より状況を聞いて驚き、急いで宿舎に戻って戦友たちに報告、こうして西本小隊玉砕の事実を初めて知ったのである。

 

 本隊の方はここから「日本に帰す」と言うソ連兵の指示に従い、遠藤たち負傷兵を野戦病院に残して延吉の集結所に向けて出発した。残された遠藤一等兵は、銃弾貫通の傷も少しずつ肉が盛り上がり、やっと歩行が出来かけた頃、ソ連兵のトラックでト門駅に運ばれ汽車に乗せられた。

 そして着いた所は満州の敦化陸軍病院であった。立派な病院で患者も多かったが日本人看護婦がいて傷病兵に対して頭が下がるほど献身的な看護をしてくれた。何度も死ぬ目に合った遠藤もやっと安心できた。

 

 傷が治れば日本へ帰れると思っていた所ヘソ連兵が突然なだれこんできた。いち早く察知した看護婦らは既に身を隠していた それで、白衣の下に軍服を着て戦闘帽をま深かに被っていた意味がやっと分かった。

 ソ連兵は夕方には必ず女漁りにきた。奴らは女がいないと患者の時計や万年筆を強奪して帰った。

 ある時、一人の看護婦が避難が間に合わず、助けを求めて遠藤のベッドに潜りこんできた。

 震える彼女を抱き疎め、押し潰すように庇って隠し、奴らが帰るのを確かめてから解き放し、地下倉庫に逃がしてやって事無きを得た。

 

 こうしたドサクサに常時緊張と不安で神経をピリピリさせながら、大胆に看護を続ける意志を支えたのは、大和撫子という大義名分なのかも知れない。

 お陰で曲がりなりにも歩ける様になった頃、「自分で歩ける者は日本に帰れる」という話が出て、「多少無理してもみんなと一緒に先発で帰りたい」と考え、傷が治った振りをして我慢し乍ら歩行訓練に励んだ。

 これが天国と地獄の分かれ目となったのだ。この時、重症を装えば何んなく日本に帰れた筈。とも知らず、唯単純に帰国できるものと思い、敦化駅から汽車に乗った。周辺にうろつくソ連兵の策略とは、まだ気付いていなかった。

 時すでに十月も末の頃である。満州の厳しい冬は目の前に追っていた。乗った列車は吉林からハルピンヘ、この駅で二昼夜の貨車生活をした。駅には自活用のナベやゴザを抱えた、現地を逃れる邦人婦女子や老人たちでごった返していた。

(つづく)

      朝風57号掲載 2002.12月

決死隊の玉砕(4)

 北茨城市  石森武男

シベリヤ送り

 ハルビン駅で帰国列車を待つ邦人婦女子らが「一緒に連れてって」と懇願するのを振りきつて、遠藤たちを乗せた列車は北に向かいチチハルを通過、国境の町満州里に到着。

 みんな帰国を疑い出したが「シベリヤ鉄道でウラジオから帰るのだ」と言うソ連兵、ひたすら歩いた。カンボーイ(警戒兵)の怒声を耳に地吹雪の中を進む。落伍したら終わりだ。足の早いカンボーイに遅れまいの言葉を信じる。多少の不安はあったが、「戦争が終わったのだから間違いなく帰れる」と言って、走る列車の中でその夜はぐっすり眠った。

 

 夜が明けて通過する駅名がロシア文字で現在どこをどっちに向かっているかも分からない。それまで一度の給食もない。事前に入手したコーリャンやモロコシなど雑穀を、短い停車時間で生煮えのまま食うから、下痢をする者が続出した。だが貨車には便所がない。既に誰かが便器用として味噌樽の空いたのを車内に持ちこんでいた。 四十人程座れる箱貨車の隅で便をするが臭い、停車時に急いで便を始末した。

 

 そして十日余り走り続けて海辺に出た。列車が停止して「日本海だ」と喜んで波打つ岸辺に出て水をなめてみた。それが真水だった。そこは海ではなく、歌でも有名なバイカル湖であった。辺りはもう粉雪吹く真冬であった。

 みんな尻餅つくほど落胆した。騙されたとようやく気づいた。ソ連兵が笑ってる。

 「畜生ツ」怒ってもどうにもならない。

 

 諦めるか、 ダイセット駅で乗り換えて五十キロ先のネベリス駅で下車。そこから七十四キロ地点の収容所まで徒歩だ。

 雪の上をひたすら歩いた。カンボーイ(警戒兵)の怒声を耳に地吹雪の中を進む。落伍したら終わりだ。足の早いカンボーイに遅れまいと急ぐ。下痢など体力の低下した者ばかりで歩きが遅い。

 

 雪の上に倒れた仲間を庇い助ける余裕もない。自らの命が危ない。残酷だが落伍者を雪の中へ置き去りにした。 この移動で何名か犠牲者がでたが、その後の消息は知らない。命からがら収容所に辿りついたが、日増しに寒くなる。

 ろくな食事も、ろくな防寒具も与えられずに作業だけ厳しい。未踏の原生林を伐採して鉄道を敷く仕事だ。第二シベリヤ鉄道とするバム鉄道である。

 

 最も苛酷な労働条件で、枕木の数ほど死者がでた。

 気象条件も最も悪い地域だ。零下四十・五十度の寒気に空気も凍る。呼吸するのも辛い。

 体力はぐんと低下して環境は生命力を奪う。飢えを伴う寒さは人々を絶望に追いやる。

 「戦場で死ねばこんな思いしなかった」悔しさに歯を食いしばり 「玉砕の中で一人生き残った俺が、こんな所で死んでたまるかッ」 故国を思い浮かべては決意新たに我が身に鞭うつ作業を続けたが、負傷の痛みが激しく耐えられなかった。遂に日本軍医に泣きついて、やっとの事で診療所に入室した。

 

 しかし入室して何日目かにソ連軍女医の診断で「外傷治っているから明日から作業だ」それでまた吹雪の現場に追い出された

 たとえ何日でもペーチカ暖房のきく室内で慣れた体が、厳寒の作業に堪えられはしない。ふたたび軍医に泣きついた。その軍医の名はわすれたが彼の計らいで医務室勤務になった。

 ソ連女医の目は厳しい。ソ連では三十八度以上の熱発以外は病気と認めない。傷を見ては「仮病」と見倣して作業に追い出す。のイタヂごっこを繰り返した。

 

 大寒波と食糧不足と疲労に精神的ダメージに推し潰された仲間たちは続々死んだ。

 自分が生きる事にのみ全精力を注いだ。

 こうして何とか魔の冬を乗り越えた。四月末から五月にかけて雪解けが進み、野山に青い芽が出て、生き延びた喜びを知った。

 カラ松の新芽を摘んで食った。名も知らぬ草やキノコを食って飢えを凌いだ。

 夏になって収容所に井戸堀りを命じられた。地下約三尺掘ると下は永久凍土が1メートル以上ある。

 石の様に硬い凍土を堀りくと下は地熱で凍らない。砂地で掘り易く、すぐに地下水が湧き出る。水質が良く飲料水にした。

 

 六メートル深さになると側壁が崩れて埋没しそうになる。慌てて矢板を打ちこみ命がけで掘った。

 「よく働く」と褒められて三本の井戸を掘った。危険で苛酷な仕事だが、飯の増配があるので断れなかった。それが終わって、また鉄道工事場に出た。

 

 大量のブユとアブの大群に悩まされ、さらにシベリヤダニに襲われる。痛みを感じた頃はダニが肌深く食い込んで血を吸い大豆ほどになっている。熱病を媒介して脳炎を併発、死ぬ者もいる。

 夏に冬に、いつも死は目の前にあった。

 

 その夏も駆け足で去り、秋がなく、木枯らしの風が一夜で銀世界になる。そして二度目の魔の冬を迎える。その頃、皆体力は極度に低下している。ノルマも低下した。ノルマを維持するためロスケの監督は、時間を延長して強圧的に作業を続行した。異常に気付いた日本側の作業隊長が、現場まで迎えにきて、ソ連監督と談判してやっと帰った事もしぱしぱ。

 

 厳冬期になってまた傷が痛みだした。我慢して作業に出ていたが、とても堪えられず、作業隊長に申し出て、所内の火元取締り役を命じられた。暖炉掃除や燃料配りの他、作業員のワーリンキ(冬靴)乾しなどで忙しい。

 

 けっきょく楽はできず、真面目性分が働き過ぎにて、極度に衰弱し骨と皮に痩せた。

 女医の身体検査で、素っ裸で立ち並ぶ仲間同志が後ろから「肛門が突き出て見える」まで痩せた。

 その検査で遂に最低クラスの四級にまで堕ちた。もちろん作業不可能と認められ別の収容所に転送、一定期間養生することになった。

 

 この収容所に移って軽作業しながら少しずつ快方に向かった。雪も解け若葉が萌えて野山が新緑に包まれた六月に入り、休養中の四級患者全員にダモイ命令が出た。

 だがダモイと言っても騙され続けてきただけに、貨車に乗ってもやはり不安はあった。そしてナホトカに到着し、海を見てやっと安心した。

 

 船を待つ間は建設現場で働いた。夜は収容所で徹底した共産主義教育を受けた。

 帰国できるならと疲れも我慢して教義を受けた。

 こうする内に前ぶれもなく乗船命令が出た。岩壁に待つ大船に、それがソ連船とも知らず、みんな喜び勇んで乗った。船はナホトカを出航すると船首を北に向け、数時間かかってウラジオに入港。そこで誰もが裏切られた事に気付いた。

 

 そして湾内に孤島のように浮かぶ巨大な船体に横付けされた。ここは千人は楽に入れる水上収容所で、病院まである。「ここで一生を飼い殺しにされる」と言うデマが飛び交いがっくり力を落した。

 到着早々、夜間作業に追い出された。岩塩をバラ積みした貨車に塊った塩をツルハシで砕き降ろす作業だ。他に石炭や木材の貨車降しや船積みなど。二ヶ月余り働くうちに今度はマラリヤにかかって入院した。

 

 この入院がきっかけで、帰国への幸運を掴んだ。それはこの病院に働く会津高田出身の衛生兵が、同県人のよしみだと言って軍医と相談し手掛かりを作ってくれた。

 その軍医が「病弱者に帰国の機運がある。自力で歩ける者は即退院して汽車でナホトカに行け」と言う。帰りたい一心で遠藤は無理に退院した。

 

 岩壁まで小舟で行けたが、岩壁からウラジオ駅まで約三キロの道は、歩き出して間もなく隊列から脱落、付き添った歩哨兵が見かねて、近くに停車した路面電車に単独で乗せてくれた。

 満員のソ達人に支えられ無事に駅に到着。

 ホームで汽車を待つ間にもマラリヤ熱は容赦なく発生、苦しんだあげく、ぐったりしたままナホトカ行き夜行列車に乗車。翌朝ナホトカに到着、岩壁に待つ病院線高砂丸に乗船を果たした。

 

 日章旗はためく甲板には日本人看護婦が出迎え「お帰りなさい。ご苦労様でした」と、一人一人にねぎらいの言葉は、引揚者の心を打ち、感動で胸いっぱいになった。

 舞鶴では、ミンミン蝉が鳴く桟橋に婦人会の人々が大勢出て「誰か故郷を思わざる」の歌を声高らかに合唱して迎えられた。

 

 遠藤君にとってこの歌は、故郷久之浜小学校の先輩で歌手の霧島昇の懐かしい歌である。

 シベリヤでも仲間たちと故国を偲び慰め励まし合うのに唄ってきた歌でもある。

 この歌に感動して高まる里心を列車に乗せ、生きて再び我が家の土を踏めた事は奇跡であろう。

 出征して二年半の復員だが、それは何十年にも思える長い年月であった。だが生還を喜ぶ暇はない。戦死者の家に玉砕状況を告げねばならない。気は重く断腸の思いで告げ歩いた。

 

 以来毎日欠かさず冥福を祈り続けている。

 その為に戦友会も発足して十五年になる。

 ソ連軍に阻まれ、埋葬も出来なかった北朝鮮の戦野に、友の屍を弔うまで私達の戦後は終わらない。

 (本文は遠藤一氏の手記を参考にした)  終

   朝風58号掲載 2003.1月