以徳報怨

松戸市 後藤 守雄

 以徳報怨 Yi de bao Yuan。和風式に読むと″怨に報ゆるに徳を以てせよ″または徳を以て、怨に報いよ″となる。

 原典は、中国三千年の教え論語からであるが、われわれ敗戦時、大陸にとり残された兵たちは、当時、蒋総統の言葉として受けとっていた。

 この布告があったらばこそ、命拾いをしたようなもの金科玉條といえる。

 現在蒋介石の死後の評価、内外とも必ずしも良いとは言えないが、こと終戦処理に関してのみ見た場合、ソ連のスターリンの比ではない。道徳面で推し量ったとき、日本人は完敗である。

 

 あのころ中央軍は対中共軍とは共通の目標=日本軍と戦うということがあったが、その日本軍という標的が消えたとき、両軍はもろにぶつかることになった。本来なら蒋介石はそれどころでなかった筈。日本軍と直接銃火を交えた兵たちも、肉親を殺された民衆も、いだく怨みは全土暴勧化一歩手前、暴発寸前といった時代背景を心にとめ、総統の手腕の評価を見直す必要がある。

 そういう時世に、孔子の教えを引用して、たける中国人民をなだめた彼の度量は、高く買ってやるべきだと思う。とても日本人では真似が出来ない。

 

 だいたい中国人は、日本人と違って、国の方針、ときの政権が示す方向に、一様に向くようにはできてない民族性が根づよい。団結心がないといえば言えなくはないが、反面、集団狂気におちいる危険性はうすい。

 この本質は現代でもいえる。

 民衆の心の奥底には、現政権に対しても、どこか冷たいものを持ちつづけている。

 ところが「以徳報怨」だけは違っていた。国民全休、敵対していた中共軍側も賛意を示した。

そこに敗戦後満州で発生した″中国残留孤児″のような世界でも例をみない善行が生れた。

 これが蒋介石の考えついた言葉であったらあるいは、そうはいかなかったかも知れない。中国には三千年以来、孔子を上回る思想が生れていない。そうした歴史的背景もある。永い年月、戦乱に明け暮れた中国大陸という土壌が人民を育んできたからか。

 

 私は昭和ニ十年九月三日夜半、天津駅頭で米海兵隊に拿(だ)捕され、すぐ捕虜収容所にほうりこまれた。

 それまでは曲りなりにも三度の食事にありついていたが、捕虜にされたとたん、食事は一日二回粟のお粥さんが飯盒(はんごう)のふたに一杯と、味噌汁は中子一杯が五人で回し飲みの食事がつづき、副食はほとんど配給されなかった。

 大部分の兵は三十歳前。いくら毎日ゴロゴロしていても、一週間もそんな食生活をつづけていたら、腹の皮が背中にくっつくようなひもじさを味わった。

 天幕の生活で荷物の整理整とんの出来ない寝起きであったことと、他人の私物の区別もしにくいこともあって、食物の盗難さわぎが続発した。

 

 私は見るにみかねて、代表となって中国軍の炊事場へ残飯をもらいに行った。

 以下、中国語でのやりとりであるが、便宜上日本語におきかえて表現する。

 「捕虜の分際で、立ってものを言うとは、貴様生意気だ。土下座しろ!」

 水のうったばかりのたたきに私は座った。

 「なに!残飯が欲しいだと。日本軍はなぁ中国兵を捕虜にすると、飯も食べさせないで殺したではないか------どのツラさげて来た」

 ・・・沈黙数分(足の感覚が凍て付いてくる)

 「見たところ階級も同じ。君の立場も分るヨ。この粟の上残飯、座り賃にあげよう。」

                              朝風4号掲載 1988.11月

慟哭の満州 1.2

富士市 橋口 傑

はじめに

 日本が敗戦して四十年を経過し、今日、戦後生れの方はむろんのこと、戦中生れの人でも、戦争の記憶は全くないか、または無いに等しい年代の方達が、今の日本の社会生活の中枢として活躍する時代となりました。

 さて、戦争とはー体なんでしょう!。

 戦争とは、映画などで見るような「一味方が勝つ」と決まった、あんなーカッコいい」もんでは決してありません。ズバリ言って一生死を賭けた殺人ゲームーであります。

 このことを、戦争を知らない世代にまず見極めさせなければなりません。私達が歩んだ、先輩達も歩いた、こんな愚かな戦争への道を、決して、決して、若者達の時代に二度と再び歩かしてはならないんです。では、その為に、私達戦争体験者は何をしたらいいんでしょうか?。

 

「二度と戦争をしてはならない!」

「二度と戦争を起こさしてはならない!」

 ということを若い世代に対して″根気強く語り聞かせる″とともに、戦争の事実を、体験を通してのありのままを後世に伝えるために、機会ある度に語り継ぎ、記憶の確かなうちに記述して残す必要があると思います。

 

 今や、世界の大国は、他の国に負けじと軍備を拡張し、いわんや、一瞬にして世界も滅亡しかねない「核兵器」の生産競争を行ない、この核兵器を振りかぎして他国を威嚇し続けています。

 理由の如何を問はず「人類の滅亡」に直結するこの種の兵器の生産及び使用に対しては、世界で唯一の被爆国民として私達は決して許すことはできません。

 また防衛のための戦争ならと、是認するむきもありますが、専守防衛などと称して他国をも攻撃するなど、もってのほかと言いたいものです。

 

 私は旧満州で何回も「死」を賭けた戦闘体験をいたしました。

 ソ連軍の進攻によって、東満州の山中の逃避行、数度の戦闘と負傷、捕虜生活、謝文東匪団における数度の戦闘や、勃利地区の旧開拓団跡地の単独踏査などです。

 

 現代の若者達に「満州とは」と関いても、「知らない」と答えるのではないだろうか。しかし、あの満州では、昭和二十年八月八日から約一年の間に二十三万から二十五万人もの日本人が死んだのです。

 それも、開拓団員の家族などの、いわゆる開拓関係者が十九万人も犠牲になり、関東軍の兵士は僅かに四万人であったのです。これは、余りにも哀しい話ではあるが、隠しようのない事実なのであります。

 

 誰も予期せぬのに「ピカーッ」と光って「ドーン」という一発の音と共に一瞬にして犠牲となる戦争もあれば、戦後四十年たった今も、その後遺症に悩む戦争の犠牲者もある。それに比べると、満州での犠牲者は、戦闘によるものはその十分の一か、もっともっと少ないかもしれない。

 

 じわじわと首を絞められるように体力を消耗し、燃え尽きて果てていく、その前日の夜は、故郷への想いを切々と語りながら翌朝には冷たい骸となっているのである。 また、吾が手で毒薬を呑み、或いは銃や手榴弾で命を絶ってゆく、そして最も愛する自分の子供まで、自らの手で殺していく、殺しかねて捨ててゆく、突然、親に見放された幼い命は日を経ずして消えていく。

 この中で、全く幸運にも中国人に救はれた命もある。それが、自分の名前も知らず、ただひたすらに肉親を探し求めている残留日本人孤児である。

 

 ともあれ、戦争のあるところ必ず犠牲になる人あり、それも多くは若者、それに兵士以外の全く武器を持たない民間の人達が、その傍杖を食う、それが「戦争」なのです。

 

 昔の日本の「天皇」の存在は絶対的で、それを利用した軍部によって厭悪なしに戦争にかりたてられた。今からの若者達が無軌道に走り、無関心で、真実を知らず、この世の中の中心世代となった時、この世の中は一体どうなるのだろう。戦争に巻込まれることはない!と、誰が断言できるでしょうか!。

 

 私は、私自身の戦争体験を自叙伝の形式で記述し、例え一人でもいい、これを読み、戦争の悲惨さを知り、「戦争!許すまじ!」

 と叫んでくれる人が生まれたとすれば、それで、私の初期の目的は達した!と言えよう。

 世の中の人々が、せっかく、この世に受けた「生命」を大切にしてほしい、と念じてやまない。

 

1、開戦前夜

 昭和二十年八月七日、その日私は、軍用トラックで勃利から東安への道を走っていた。

勃利、東安間は約二百キロ、大半は、上り下りが、それぞれニキロから三キロぐらいある丘陵の連続であり、低地は湿地帯となり、高地には、楢、白樺、赤樺などが群生する山林となっている。特に東満の六月から八月の初めは、蜀薬を始め、春の花、夏の花、秋の花が一斉に開花し、あたかもお花畑の中を行くが如き見事さであるし、飛び跳ねるたびに尻尾の白さがとても可愛いい、ノロ鹿の集団がいつも見られ、時には狼の群れも見れることもある。この道、モウモウと砂塵があがるが天気さえよければ、まことにに結構な道である。

 

 天気がよければの話で、道路とは名ばかりで、巾、深さ共に一米くらいの側溝を堀り、その土を盛土したばかりの道である。石の混じらない所では、一度雨が降ると、途端に泥んこ道に変身する。

 トラックも、チェーンを巻いても立往生してしまうほどの文字通りの泥んこ道である。これは、この原野の中の道路に限らず、比較的大きな街でも、メイーン道路以外は全く同じ状態なのである。(このことが、避難に大きな障害となった)

 

 乾き切った道を土埃をあげながら快調に走っていると、行手の丘陵の上に見慣れない飛行機が姿を現わすや、グーッと機首を下げた。

「ダ、ダ、ダダダ・・・」

「伏せろ、機銃掃射だ!」

 思はず首をすくめたが、何がなんだかさっぱりわからないうちに、機首の長い、まるで黒い蛇みたいな飛行機は、これまで聞いたこともない鋭い金属音を残して飛去っていった!

 こんな思いがけぬ出来事のために、東安と宝清への分岐点にあたる大東開拓団に着いたのはすでに夕刻、それにしても、今まで見たこともないほど、恐ろしく赤い夕陽だった。

 

 八月八日、大東開拓団の朝、東の方で間断なく砲声が響いてくる。

 「関東軍の演習にしては変だなあ!」と、話していると、警備電話による情報により、ソ連軍が越境攻撃してきたことが知らされた。

 この開拓団は、東安市まで約百キロ、ソ連との国境からでも百二十キロそこそこ、戦闘はすぐそこで行なわれているのである。

 「まさか、突然!」驚愕は団員、家族の中を走った!ただ違ったのは、この開拓団が義勇隊開拓団であったことであった。

 

 第一次義勇軍でそれなりの集団訓練を受けていた。時間を要せず、整然さを取戻し、八月八日の昼には全員、団本部に集合した!そして翌日には、全員勃利に向かって出発できた。

 勃利地区開拓団のうち、勃利義勇軍訓練所と大隅義勇隊開拓団、それに佐渡開拓団の近くには満人部落があり、入植時に農耕地の接触から多少の紛争もあり、土地を少しでも奪はれたことのある農民は、日本の開拓団、義勇軍のことを屯匪、或いは屯賊と呼んだ。

 しかし、竜湖、大東、北星などの義勇隊開拓団は全く末開の原野の真只中に入植し、その日に夜露をしのぐ家を作り、翌日から、暑い日も、酷寒の冬もしのげる家屋の建設と荒地の開墾に挑んで来たのである!。

 思えば、本当に原始的な建築方法で地面に穴を堀り寝床を作るのである。目的地に到着するや、いきなり、号令一下、地面に穴を掘る者、近くの木を切って桂を作り、骨組を作る者、草を刈る者 (洋草と呼び背丈ほどもあるチガヤの一種)屋根に洋草を乗せ、寝床にも敷く、これらはみんな訓練所での実習の成果でもあるのだ。

 最も近い漢人部落でも四十キロ、こんなに人里遠く離れた原野への入植は、満人とのトラブルもなく、蓄音器以外は何の娯楽もないところではあるが、それだけに絶ち難い愛着のある土地でもある。

 

 そんな思いをしながら、東安街道まで出て見て驚いた。東安街道は、関東軍の車両、馬、徒歩のラッシュではないか。それも国境へ向うのではなく勃利の方へ、明らかに撤退しているのである。

 それも、日頃の関東軍にない全くの無秩序がはっきりわかる「逃げる」という表現がふさわしい有様なのである。

 「どうしたんですか?」 将校に尋ねた。

 「我々は、命令によって牡丹江まで撤退し、捲土重来をはかる」というのだ。捲土重来といったって、その間に残された人達は一体どうなるんだ!

 急ぎふっ飛んで帰ると、団にも「緊急避難」の指示が出ていた。

 そして既に出発の準備に忙殺されていた。

 その時、前途を占なうのかのように激しい雨が降り飴めた。

 

第一次大東義勇隊開拓団

 団長 泊 清志(北海道)応召中

 軍事 高橋  ( ?  )応召中

 農事 長波  (北海道)応召中

 医師 有川  (大 阪)在団

 首脳のいない開拓団、有川医師以下約百二十名(男二十五名、女性七十五名、老人子供一一十五名)こんな構成はひとり大東開拓団のことではなく、近くの開拓団全てが大同小異の状態だった。

 「動くトーチカーなどと表現され、ソ連軍にとって、むしろ関東軍以上に警戒されていた「満蒙開拓青少年義勇軍」という武装集団の実態は、実はこうだったのであった。

そして装備も、藤堂式歩兵銃(大正末から昭和初期)とその半数ぐらいの三八式歩兵銃だけである。

 

 有川医師は団員全員を前に訓辞した。

 「今、直ちに出発しても、半分も行かずに夜になります、従って、出発は明朝五時とします、持物は、リュックに入れて、自分で背負えるだけとします、着替え、冬物を持つこと、勃利に行ってみないと、どうなっているのかわかりませんが、とにかく、男の人を中心に、勝手な行動をとらないようにして下さい」 相変わらず雨が降りつづいている。

 

2、逃避行

 八月十日、昨日来の雨はまだ降り止まず、勃利への道の困難さを予想させるようだ。

開拓団内の家畜は使用する馬を除いて全て放遂された。放たれた牛馬等、いつもならのんびりと草を食むのに、あいつらも異常を感じるのか、悲鳴をあげて走り回っている。

 「お父さん、馬が!」

 「うーん、あれたちにもわかるのかなあー、かわいそうに、達者でなあー」

 最少限の持物に限定しての馬車での出発、誰一人として涙せぬ者はいない。流れ落ちる涙を拭こうともせず 住み慣れた吾が家、吾が村、吾が開拓団に 「さようならー、さようーならー」必死に手を振り、泣きながら叫ぶ。放たれた馬の数頭が暫くは追尾していたが、それも住みなれた小屋めざして駆け去っていった。

 

 そんな感傷は、東安街道に出た時、いっぺんに吹飛んでしまった。いつもは、ほんとに静かな東安街道!吃驚した!自動車の騒音!馬の噺き、それに怒声、一体どれだけの車が通ったのであろう、街道は泥沼と化していた。

 

 そんな中で、最初に耳に飛込んできた言葉はまことに奇怪そのものだった。

「捲き返しのために転進するんだ!軍が優先だ!よけろ、道をあけろーっ」

 怒鳴りながら軍用トラックは、民間の車や、馬、徒歩の人達にまで泥水を跳ねかけて走り去ってゆく。この喧騒の中に、悲惨さ、前途の多難さを感じさせる何かが!

 暫し傍んでこの有様をみやった。

 

 大東開拓団にもトラックが二台あったが、必要な食糧等を積んでいたため、人はみな馬車を使っていた。これは、少しは賢い方法であったかも知れない、この泥沼の中、民間の車は次々と立往生していった。その主要な原因の一つは、通常、代用燃料(薪)を使用しており、こんな泥沼を走るには力不足であった。

 

 それにしてもよく降る。このどしや降りに、泥んこ道。歩く者にとってはたまったもんではない。たちまち、靴の中まで泥水が入る。足は真白く潤けてしまい、そのうちに皮が剥げてくる、そして血が滲んでくる頃は歩行も困難になってくる。

 裸足で歩いたほうが楽なような感じがしてくるのか、裸足で歩くことを試みる人も出てくる。

 幾らも歩かないうちに傷つけてしまい鮮血が出るようになる。今度は靴もはけない。

 シャツなどを引っ張り出して足をぐるぐる巻きにして歩き始める。そのシャツも血が滲み真赤になりながら歩く姿は悲憤としかいえない。

 

 こんな雨の中、泥沼のような道を歩くことは、日頃歩き慣れている人でも大変である。「マメ」をつくってしまうとたちまちにして最悪の状態になってしまう、「歩く」ということがこんなにも大変で、苦痛なものかを味うことになった。

 これは人の足だけの問題ではなく、馬も同様である。

 出発が急であったために蹄鉄(足の裏に取付ける金具)の点検をしていなかったこともあって、先ず蹄鉄が外れてしまう。そして遂に蹄が割れてしまう,満州馬と呼ばれる在来の馬に比べて日本の馬は、はるかに弱く、この蹄が割れてしまったら、もはやこの馬は荷物を曳くどころか歩くことも困難になってしまう.少しでも荷物を軽くして馬の負担をやわらげるために人はできるだけ歩く。

 

 開拓団を出発した時二台あったトラックも、二十キロぐらい走ったところで放棄してしまったし、殆どの人達が約八十キロの泥道を休みもせずに歩き切ったことになる。

 「皆んなに遅れてはならない!うしろからソ達軍が追いかけてくる!」

それだけの恐怖がつのり、夜半になって漸く勃利県公署に到着した。

 

 八月十一日、疲れた体も夜明けと共と一段と激しくなって、銃声と、飛行機の爆音で、又も緊張の極に達してきた。

 驚いたことに勃利の街は、ほうぼうで銃声がし、何ケ所かで火炎と見られる黒煙が立ちのぼっていた。

 特に関東軍兵舎のあたりでは盛んな黒煙が上がっている,既に無人と化しているらしい軍施設付近では既に略奪が始っているらしい。県公署周辺には、まだかなりの数の日本人が、それも武装しているためか、不穏な空気は感じつつも、まだまだ暴民による襲撃の危険は切迫していなかった。

 

 当日午後、牡丹江方面行の最終列車の運行が決った。老人、婦人、子供達が優先に、あるだけの客車、貨車を連結して、通路といわず、デッキ、客車の屋根の上まで乗れるとニろには乗り、縋れるところには縋って勃利駅を発車した。

「これで、安全なところまで行ける!」

と、乗車している全員がほっと安堵の胸をなぜおろしたに違いない。

 

 不思議なことに、この列車には、軍人、警察、施政官などの家族は一人も乗っていなかったのである。徹底抗戦をするはずだったこれらの家族は、いち早く安全圈に逃れ去っていたのである。

一部の人を除いて。

 

 この最終避難列車の発車を期にして、勃利街は一段と不穏の度を強めていったが、奥地からの避難民は、時には集団で、時には三三五五とひきもきらず、県公署を目指していた、夕刻、快晴となり、「アブ」ーと呼ばれるソ連戦闘機来襲し、二、三度機銃掃射をしたあと引返していった。

 

 八月十二日、快晴、朝からソ連軍機による空襲ひきもきらず、先ずは「アブ」と呼ばれる戦闘機が超低空で機関砲による掃射をくり返していく。主に市北西部にある関東軍施設を目標にしているようだが、高台にあるため、県公署からよく見える。

 逃げ惑う人々の姿が見えるが、関東軍はすでに影も形もないはずだし、恐らく、略奪をほしいままにしていた満人達に、その被害が出たのではないだろうか,

 

 二波、三波と来襲した後、今度は、爆撃機が姿を見せた。それも、東安街道沿いに一列縦隊で一機、又一機と、爆弾を落し乍ら飛んでくる。超低空で飛ぶ胴体から黒いものが落される、尖光が走る、黒煙が上る、同時に物がはじけ飛ぶ、街の中央のメイーン道路の真ん中に、見事に一列に落してくる。

 今も、この道路を通って、たくさんの日本人が歩いている、東安、宝清方面からの避難民の列である。

 道路沿いの家には皆、大戸を下し、窓も閉め切っている。遮蔽物はーつもないところへ爆弾を落されるんだから大変、蜘蛛の子を散らすように逃げまどう、その真只中に落ちてくる。

 爆風と共に人間が吹飛ばされ、叩きつけられる。まるで映画だ!悪夢の一瞬でもある。

 その時に、初めて 「ドカーン!ドカーン!と爆発音が聞こえてきた。

 「逃げろ!」

 「横に走れ!できるだけ遠くに去れーっ!」

 「溝の中に伏せろーっ!」

など叫びながら右往左往する、私もとっさに側溝の中に転がり込む、途端に至近距離に 「ドガーン!」と落ちた。

 「ドガーッー」

と背中に、かなり重いものが落ちた。続いて「バラバラバラッ」と背中に一杯落ちてきた。

かなり地響きがしたので至近距離に落ちたのであろうと、上体を持上げようとしたら何だか重いものが乗っかっているようだ。体をひねって首を廻してみると、何と、荷車の車輛(トラックの車輛と同じ)が乗っかっているのである。

 

「助かった!」

『虻』は、なおも執拗に右から左から、繰返し繰返し、機銃掃射をして行く。

 「ダダ!ダダ!ダ!ダ!

主翼のところから尖光が走るのがよく見える、操縦している飛行士の顔も見えそうなくらい超低空で狙い撃ちしていくのである。

 「バシーッー」

 「あーっ、熱っ!」

左腕の間接のところに僅かに痛みを感じる。上衣の袖に穴があいている、腕をまくって見ると少し焼けたような傷がついている、そうだ、あの音からして、どこかに当った弾丸がはねてきてここに当ったのであろう。

 

 爆撃機は、県公署を過ぎると左旋回し林ロヘの街道沿いに爆弾を落しながら去っていった。 勃利街全域で、銃爆撃音の他に銃声が各所で一段と激しさを増して、県公署内に待機していた日本人の緊張はことさらに高まった。

 「この場所に我々が止まることは、勃利を目指して避難してくる人達の為には絶対に必要である」

 [間もなく、ソ連が進攻してくる、その時、軍もいないのに、今の我々で、一体、なにができるのか!」

 続く 

  朝風3号掲載 1988.7月

慟哭の満州「関東軍は、再び帰ってくる見込みがあるのか」

富士市 橋口 傑

「いつまでも、ここに残って、ここに残っている人達の命はどうなるんだ!」

 責任者達の間では議論沸騰し、なかなか結論は出なかったようだが、今朝からの波状空爆と、満人達の不穏な動きに直面して、「これはいかん!」

 動揺はその極に達した。遂に、 「全員、牡丹江めざして避難せよ。準備でき次第、各隊ごとに即刻出発せよ!」

 

大東、竜湖、大隅の開拓団員約五十名、それに義勇軍訓練所の若干名に、一般の人達も加えて約一00名、四隊に分れて出発した。トラックで、馬車で、それに徒歩で、空襲の合間を縫っての出発であった。

 この時点でも東安方面から続々と避難の人達が到着する。

 「勃利も駄目です、牡丹江をめざして出発して行きました。皆さんも一緒に行きましょう」の言葉に愕然。

 「まだ後から来る人もたくさんいるのに」

 「私達もそれを考えていままで待機していたのですが、情勢から、それもできなくなったのです」

 

 私も最後の一団で出発した。全く危惧を抱かないままに、こともあろうに「勃利県公署警務課」と白も鮮やかに大書された墨塗りのトラックで出発した。出発後間もなく、近くの家の蔭から、土塀の隙間から狙撃され始めた。荷台からはこれに応戦し始める。

 「突走れ!街外れまで突走れ!」

速度を落せば、それだけ狙われ易い。一杯アクセルを踏む凸凹の道で車は大きくバウンドする それでも構わず突走る、荷台では応戦どころではない、ふり落されないようにつかまるのに精一杯、漸く危機を脱出した。

 

 それにしても私自身、この街に十指に余る親交を深めた人達がいた。それだけに、こんな状態になっても、この街に銃口を向けるにしのびなかったのに、どうしてこんなことにと思わず涙がこぼれそうになった。

 感傷に浸たれるほど危機脱出!と思いしや、今度は荷台から、

「飛行機だ!飛行機だ!」

と絶叫する。深い谷間を走るこの一本道、右に左に大きくカーブしながら走るこの一本道、道路を歩いていた人達が、一斉に山肌に向って走る!トラックが、馬車が、主のないまま道路上に残される。走れない老人が、幼児を抱いた婦人が道路上に跨まってしまう。

[いかん!」

と思っても助けに行く勇気もない。狭い谷間を勃利の方から二機づつ並んで、二波、三波と、爆弾を落してくる。爆発が起きる度に車が吹飛び、馬や人が吹飛ばされる,その爆弾の後には機銃掃射が追討ちをかける。伏せたすぐ横五十センチ位のところに、

 「ビシーッ!ビシーッ!」

と土煙りをあげて銃弾が突刺さる。回りでも悲鳴があがり、絶叫も聞こえる。飛行機の飛び去ったあと、断末魔の様相が回り中で見られたが、最早この時は、そんな犠牲者をかえり見る余裕は誰にもなかった。身内が居れば身内と、そうでなくはただ無言でただ歩き始めるだけだった。追い立てられる羊のように、「ゾロゾロ」と道路に出て来て後はひたすら南をめざして歩く。

 この時既にトラックはなく、自分の馬だけは離すまいと必死だった。

 

 漸やくにして虎山に到着した。この時の情報によると、既にソ連軍は林□街に進出しており、道路沿いの南下は不可能とのことである。更に、あの最終の避難列車よりもソ達軍の林□駅進出の方が早く、亜河駅にて運行を停止したとのこと。もちろん乗っていた人達は、全て徒歩で山中を迂回中とのこと、老人、婦女子、病人が大多数を占めたこの集団、どんな行く手が待っているのか、さぞ大変であろう。

 

 その夜の話し合いで、我々も山中を迂回し、牡丹江方面に向う、と決まった時、当惑した。

 それは、あの避難列車にも乗せなかった一人の人物のことである。大東開拓団本部で事務をとっていたことのある、佐々木末雄さん、(確か岩手か青森の出身と記憶している)が、私達の一行に居た。

 この人をどうするかということである。約半年前から精神分裂症になり(自分の用もたせない状態)この先、山中の逃避行に面倒を見ながら連れて行くことは、到底不可能な話で、では、いっそのことここで命を縮めるかとなると、とてもそれを自分の手ではできない。それをやろうという人も出ない。皆んな頭をかかえこんでしまった。考えに考えた末、「若しも、ひょっとして、誰かに助けて戴けることがあったとしたら」との結論を出し、それを念じながら、一軒の家に幽閉し、水、パン、その他私達が携行できない物を全部残し、入口に釘を打った。

 

 「佐々木さん、勘べんしてな、私達の明日さえ、さっぱり見当もつかないんだよ」

耳元で話しかけたが、うつろな目で私の顔を見つめるだけだった。

 「出発つ!」

我々のグループはこの時、大東、大隅、竜湖開拓団の人達総勢約四十名、各自で持てる限りの食糧(乾パン、塩、米など)と小銃(藤堂式、三八式)に各自で弾丸百五十発、肩にはかなりずっしりと重みのかかる出発であった。

「皆さん、もはやこれで、四面皆これ敵、友軍のところへ着くまで一瞬の油断もできないようになってしまいました。その時々の判断は、全員の相談で決めますが、緊急の責任者の指示は、必ず守って下さい。それに、各自が持った食糧は出来るだけ食い延ばすこと、いつの日食糧にありつけるかは全く期待はできません。人を頼りにすることは絶対にできません。自分のことは自分で、これが鉄則です!」

 

 ただ南へ、これだけの目標で敵中を歩く。どの顔を見ても、引きつり、悲憤な緊張感が読みとれる。当初、やはり国道沿いに歩き始めたが、時を経ずして又もや飛行機による機銃掃射に見舞われ飛行機による銃撃からの逃避と、「林□からソ達軍北上」との噂から、危険回避のため山中に入った。それでも後の方で銃声が激しくなり、頭上を掠め飛ぶ。

 必死に山の上へ、立木の中へそして果てしない密林の中へ、密林の彷徨へ。

 何日たったろう、いつしか多数の人達が通ったらしいところへ出た。欝蒼と生い繁る唐松、蝦夷松などの大木、昼間でも薄暗く、足元はじめじめと湿り、いたるところに苔むした倒木あり、岩あり、もともと道などなかったところを何百人、何千人、或いは何万人もの人が踏み固め、道らしきものができているのである。それも、岩、倒木などの障害物を取除くわけではなく、これらを避けて、迂回に迂回を重ねていくのである。

 近道をしようとすればそれだけ体力の消耗につながり、果ては道に迷うことにもなりかねない、即ち、単独行動をとることは道に迷い「死」につながることは誰もが知っている。従って、人の後を忠実に辿って行くしかないのである。登ったり、下ったり太陽の光を唯一の方向と頼りとして歩くのであるが、その頼りの太陽が見えずば、方向すらも確かめる術もなく、夜は、全く歩くこともできず、木の根元、岩の蔭に寝たのは幾日。

 

 同じ道を歩いている老人達に体力の限界が見え始めている。私達が、虎山を発つ時に携行した食糧、最大限に食い延ばしたとしても、せいぜい一週間、老人や婦女子が背負ったものは、おそらく四日分とはあるまい。子供を連れた人々にあっては、それよりも更に短いはずだ。その食糧が全て墨き果てたはずの時期でもあるし、その肉体的な苦痛に加えて、この逃避行に対する絶望感の大きくのしかかつて来はじめた時期でもあった。見る人が皆、確実に痩せてきている感じがする。それに加えて連日歩くことで足に傷をしたり、雨の日も濡れたままで寝たりで風邪を引いたり、蚊やその他の虫に剌されたあとが化膿したり、皮膚病になったりと、悪条件が重なっていく。遂には発熱したり、足の怪我や皮膚病によって歩行できない人の姿が日を追って増えて行った。

 

 行倒れになった老人が手を挙げてなにやら訴えている。口元に耳を近づけて間いて見ると、

 「水、水をくれ!」

そして、

 「殺してくれ!」

と言っているのだ。もちろん殺すことなどできるはずもないが、何度か、水筒の水を分け与えたことがある。

 「分け与える」とは尊大な言いかたではあるが、この山中でまる一日歩いても呑める水にありつけるかどうかわからないほど貴重品でもあったのである。

 呑んだ人の中には、両手を合せ、涙を浮べていた婆さんもいたし、水を呑ませれば、そのまま事切れるんではないか、と恩われる人もいた。水をーロ、□の中に入れてやると、

 「ゴクーン!】

と、喉を通し、頭をコックリと動かしたのでお礼を言ったのかと恩ったら、そのまま息を引取っていた中年の入もいた。

 それが末期の水と予期できるのに、それでも水を与えることが是か非かは別として、もう駄目だ!と恩われる人に対しては「楽に死なせる」ことこそ人道的であったかもしれない。

 それから数日の山中逃避行は、修羅と地獄の世界であった。

 足が腫れ、靴をはくこともできず、ポロ切れで足をぐるぐる巻きにし、それでもなほ、歩くこと

もできず四つん這えになって皆に尾いて行こうとする人、杖にすがって足を曳きずっている人。

かと恩えば、全く放心して座っている人。

 「元気を出して。元気を出して!」

と絶えず声を掛けて歩いたが、首を横に振って、

 「もう駄目です。」

と、自分の限界を感じているらしい入、

 「有難う!頑張ります。」

と、懸命に自分に鞭うっている人、

「助けてぇ!!連れてってぇ!!」

と、しきりに哀願する人、それぞれの体力の差もさることながら、逃避行の始まりから、困難な中にも自分を大切にし慎重な行動が、多くの人々の運命を決めていった。

 

 若い者と老人婦女子の一団、どうしても若い者のペースに巻きこまれ易い。自分か加っている集団から取残されることは考えるだけでも大変なことであったわけで、自分が、集団について行くためには、邪魔になるもの、負担になるものは省かなければならない。

 その現実が、歩を進めるほどに、悲惨というのか、悲愴というのか、言葉に言い尽くせない状況が次々と展開していく。

 

 この大密林の中で、赤ん坊の泣く声、四囲を見回すと、大木の蔭に、まだ生れて二、三ケ月か?と思える幼児が寝かしてある,

 「たったいま、この木のところから女の人が急いで立去りましたよ、連れ戻しますか。」

 「やめとけ、捨てていったんだよ、もう、戻ってくるもんか!」

 「この子、どうしますか?」

 「俺たちじゃ、どうにもならないよ!このまま見捨てるしかないな!」

その横を

 「お母ちゃん!お母ちゃん!」

と火のついたように大きな声で泣きわめきながら、三、四歳の女の子が走ってゆく。

これもおそらく母親に見捨てられたのであろう。

 歩を進める毎に、悲惨なドラマは続く、多く目につくのは、小さい子供が一人で歩いていることだ。声を出すにも出なくなったのか、ただ時折、しゃくりあげながら、それでも皆んなが行く方向に歩いて行く。精も根も尽き果てたかのように、崩れるように座って首をうなだれ、そのまま息を引取っている老人あり。それでも前に進もうとしてか、大地に爪を立てたまま悪絶えている中年の人、母が死んでいるとも知らず、なお、その乳房を両手に挟んでしやぶりついている幼児、目を覆いたくなる有様が次々と展開されてゆく。そしてー瞬悪を呑んだ!

 

 「かわいそうに、一体、なんのためにこんな死に方をしなきやいけないんだ!」

と叫びたくなった。

 それは、夫婦であろう初老の男女が、手をしっかり握り合って、一緒に首を吊っているのに出会った時です。恐らく、この場所まで助け合い、励まし合ってきたであろう。なのにどうにも歩けなくなった老妻、あるいは夫が、[もう、とてもこの先、私自身どこまで歩けるかわからないし、お前も足だけでなく心底疲れ果てているようだ。」

 

 「おじいさん、この先、勃利江へ着いたとして、それから先どうなるのかねぇ!」

 「それはわからないが、これで日本もおしまいかもね、私もこれ以上、生きて行く気力もなくなった。いっそのこと」

 「おじいさん、一緒にあの世に行こか!」

 「うん、早く楽になろう」

 そんなことで老妻の手助けをし、首を吊ったものではなかろうか?この人もどこかの開拓団に息子達と共に入植したものであろう。が誰にも見とられず、淋しく密林の中で死をえらぶ、「こんなかわいそうな話ってあるかい!」誰もが、やるせない情感を□にしていた。 

         続く

 朝風3号掲載 1988.7月

慟哭の満州 逃避行 ……

富士市 橋口 傑

 「ウームッ!」

一息ついてフーッと気がつくと、何だか異様な臭い、思わず中腰になってあたりを見回す、と、何と、四、五米下流の草の茂みのそばに、紫色にパンパンに膨れあがった屍体、そしてー瞬息をのんだ!。何と上流にもあった、馬の屍体もある。馬は屠殺したものらしく、殆んど骨だけになっていた。

 調べてみると都合八つの屍体があり、そのどれもが、水辺ぎりぎりのところに、俯伏せになって顔を水の中につけて死んでいるのである。恐らく、この人達は断末魔の体に鞭打ってこの川辺に到着し、一ロの水を最後に息を引取ったものであろう!どれも川の中に突伏しているのがそれを物語っているようだ。

 

 さて、いつになったらこの密林から脱け出せるのだろうか、なんだか、同じところを堂々めぐりしているような危惧が頭の中でだんだんと色濃くなってきた。

 その時、全く突然に″パーッ″と、いきなり目の前が明るく開けた、本当に嘘のように、広々とした草原に出たのである。しばし呆然とこの極端な変りようを見やった,

 

 草原の前方左手には、かなり大きな部落が見える、そしてその又先には更に峻険な山の連らなりが見える。

 「これからどうする!」

 「とにかく、あの部落に立寄って食糧を頼んで見てはどうだろう?」

 「危険である、かもしれない!だけど、この際はそんなことを言っておれない、よーし、行こう!」  

 

 草原に、一歩足を踏み人れた途端!

  「ヴヮーンー!」

 文字通り″ヴヮーン″と、「蝿」の大群が舞立った、あたり一面真黒になるほどのハエの大群である。そして恐るべき腐臭である。そこにあった屍体は全裸で、頭髪の半分抜け落ちた頭、見聞かれた目、

  「ウヮーッ!」

 肝をつぶして一瞬飛びさがった。目玉が動いたのである。

  「こんなに腐乱しているのに、そんな馬鹿な?」

 大きく聞いている口、その口からむき出した歯、よく見ると口の中から″ウジ虫″が這い出して来た。

  「あー吃驚した!」

 目も、口も、鼻も、すでにウジ虫の蠢きが見られたのである!言いようのない腐乱臭は足を竦ませ、吐き気を催させる。

 

 「これが我が身の明日の姿かもしれない」

 背筋に冷たい汗が流れ、血の気が失せるのがはっきりとわかる!更に進むにつれ屍体の数が増えそれが既に白骨化したものやらあり、死亡した日時の違いを示している!

 「私を含めて五人で先に参ります。残りの人達は百米ほど間をおいて尾いて来て下さい!皆さんこの近くにある屍体は全て全裸です、恐らく殺されて剥ぎとられたものでしょう。悪くすれば一戦交えなければならない!かもしれません。もちろん、戦闘はできるだけ避けて南へ行かなければなりません。しかし、最悪の場合は血路を開いて?ということだってあります。銃に弾丸をこめて、安全装置を外して、さあー行きましょう!」

 

 これらの屍体が何を意味するのか定かではない、が、ここに迪りつくのが精一杯であった、という見方よりも、前方にある部落との関連がある!と考えたほうが適切かもしれない。

 高々と赤い旗の翻る部落を目指して、一歩、又一歩と近づいて行く。途中で何度か腐乱臭が襲い″ハエ″の大群が舞立つ。

 近づくに連れ、この部落の異様さが、なんだか気にかかってしかたがない!部落を取巻く城壁には何本も赤い旗が高々と掲げられており、これは、その後に見た全ての村々に掲げられており、それは″ソ連軍″或いは共産軍の続治下を意味するものである!したがってこれに近づくことは、ものすごい冒険であり、いきなり一斉射撃を食うかもしれないのだ。

 全員、銃を肩から外しいつでも発砲応戦できる姿勢でそろそろと城門に近づいていった。 城壁は殊の他高く、城門は閉ざされ、人影一つ見えない。城壁外側に掘られた濠も異常に広く深い、ひょっと濠の中を覗いて仰天した。密林の中、草原の中ならいざしらず、集落の表玄関である城門の前に、住いの近くに強烈な腐乱臭もかまわず紫色にぶくぶくと膨れあがった屍体を放置してあるのである!それも一糸纏わず、背中のところに大きな傷痕を見せてうつ伏せに、あわてて反対側の濠の中を見て、思わず、

  「これはいかん!気をつけろっ!」

 と叫んだ。こちら側にも片手のない屍体がこれ見よがしに放り出してあるのだ!銃を握る手に思わず力が入り、一歩二歩後退する!

 

  『告訴nimen !快走ba!蘇聯兵来拉!」

  「快走ba!」

 城壁の上から声が落ちてきた!

  「食糧を少し譲ってくれませんか」

  「日本軍に殆ど強奪されてしまった、これ以上は駄目だ、早く立去りなさい!でなければ、私達も力で対抗するしかありません!」

 望桜の覗き穴から声が返ってくるばかり、さらに望桜、城壁の各所から銃口が出されるにいたっては、もう、この場から離れるしかない。

  「明白了!」

 痛む足をひきずり、その部落をはなれる。

 次に行き当った部落は、少し小さく、これも城壁高く″赤旗″が翻っている。まだ、かなり距離もある!と思っているといきなり

  「パーン!パパーン!」

 つづいて四、五発!しかし頭上高く威赫射撃と思える弾丸が飛んだ!そして、それに呼悪するかのように、左手にある高梁畑、bao米(トウモロコシ)畑の方から喚声があがる。

  「打!打打!」

 またも撃ってきた。狙いは大きく外れている、が、ただの威嚇でもなさそうである!

  「退れ!右の方へ、右の方へ退るんだ!」

 身をかがめ、再び山の方へ退避するしかなかった。追跡がないことがわかったとき、皆んなで額を集めて考えた。

  「こんなことでは、満人部落に近づくことはできません。どうしたらいいんですか?】

  「この様子では、近くの満人集落、いや、満州全土がこんなことになっているんでは」

  「なんとかして牡丹江へ、一日も早く行くしかない!そこには関東軍がいるはずだから!」

  「とにかく、南西の方向に進みましょう。そうすれば、牡丹江の川に必ず行当るはずです。あとは、川に沿って歩けばよいはずです」

  「もう一息です。さあ行きましょう!」

 又しても密林の中をひたすら南へ、牡丹江(川)をめざした。そして名も知らない小さな川に出あったところで一つの出来事が発生した。

 

 あの日、勃利駅を出発した最終の避難列車は亜河駅で運行を中止したのです。ソ連軍が林口駅を席捲する方が早かったためです、が、二日から三日遅れのはずの私達と、今は一緒に歩いている一婦人が、

  「もう駄目です!これ以上はとてもご一緒できませんし、これ以上皆さんの足手纏いになるわけにもいきませんいどうかお顧いいたします、ここで殺して下さい!」

 と言って。川のそばに座り水で髪を梳き、両手を合わせ合掌し始めました。

もはや、何と言っても動じない構えでした。氏名は忘却しましたが(堀さんといわれたような気もする)確か大隅開拓団の方で、ソ達が進攻してくる二日ほど前に痔の手術をしたとか、さすれば、これまでの避難行は大変なものであったろう。四面、皆敵とはっきりした今、この婦人なりに覚悟を決めたものであろう。

 

 男たちの間では、誰も、あまり積極的な発言をしない。それは、最後に重大な処置が控えているからである。

 これまで同じ開拓団の人達が肩を貸したり、交代で背負ったりして、それはそれは大変な苦労をしてきた。これからさき幾日かかるか見当もつかない避難行に、本人も同行する人も到底耐えられないのとちがうか!

 若しも緊急事態などで置去りにするようなことがあったとしたら、いっそのこと本人の言うとおりここで死なしてやったほうが!と結論が出されたものの、そんなら誰が?となると、これを決めるのがまた大変だった。

 同じ開拓団の人がその手助けをすることに決まり、

  「さあー急ぎましょう!」

 と言われ、銃を持ち立ちあがったものの、歩くこともできないほど、脚がガタガタ震えている。

手も震えている。至近距離で構えるその手の震えが、こちらにも伝わるほどに!

 見ている我々は、突然の出来事にただポカーンとしているばかり拳を握りしめ、それでもジーッと見つめていた。

 「皆さん、本当に有難うございました!」

 「おねがいします!」

 「バーン’!」

 銃声が谷間にこだまし、婦人は俯伏せに倒れ、真赤な血汐が辺りを染めた。

 二、三度痙攣して静かになった。

 「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 撃った人の突伏した背中は大きく揺れ、さかんに詫びを言いながら泣くその傍で、見守る我々も後から後から流れ落ちる涙を隠す者とてなかった。

 しかし、考えてみると、こんなに多くの人に見守られて逝った人は、むしろ幸福だったのではないだろうか?

 この頃、会う人達にたくさんの万死んだ力話を聞かされた。

 ※ 一軒の家の中などで、婦女子などが集団で自決。(主に手榴弾などにより)

 ※ 主に青酸カリなどの毒物による自決。

 ※ 銃などにより、誰かに射って殺してもらう。

 ※ カミソリなどの刃物により血管を切る。

 ※ 首をくくる。

 自分の意思で命を絶つ方法として、この様な方法が用いられた、が、命を絶つ手段として、かなりの数の団体で″青酸カリやカミソリ″などを分配したのも事実であった。

 ともあれ、多くの人に見守られて死ねる人はまだ幸せで、多くの人が、

 ※ ソ連軍の銃砲爆撃の犠牲。

 ※ 反乱軍(旧満州国軍)による襲撃の犠牲。

 ※ 土民の襲撃による犠牲。

 ※ 飢餓、それによる栄養失調による死亡。

 ※ 病気による死亡。

 ※ 邪魔になる!として殺される(老人、子供、負傷者、病人など行動の負担になる者)。

 ※ 同じ日本人同志での争いによる犠牲。

 ※ 戦犯その他、過去の圧迫搾取への報復として処刑。

 こんな死にかたをした。

 これまでの数日間で、どれだけの自分で自分を処置する「術」を持たない老人、子供達が哀れな野垂れ死にをしていったことか!更に、日を追うごとに幼い子供の一人歩きがやたらと目につくようになった。それと反対に、老人の姿を見かけるのがめっきりと少なくなったような気がしてきた。

 子供達は、もう泣くことを忘れ、それでも決まって大人達の歩く方向に懸命に歩いている。

 服は破れ、靴もなく、切り傷や虫に剌されて痛々しく化膿し黄色い膿をたれ流している者もいろ。

 

 これまでに、大東開拓団の人達とは接触がなかった、が、大東開拓団の人達の消息は知らせてくれた人がいた。

その話の中にその気高さに頭の下がる一つの話がある。

 それは、大東開拓団の診療所長をして居られた有川先生の奥さん。確か大阪の出身と覚えているその奥さん(当時四十才~五十才ぐらい)が、肉親とほぐれている幼い子供達を連れて歩くようになり、子供が二人も三人も連れだっている、と、ごく自然に、次々に一人ぽっちの子供達が集まるようになり、私に教えてくれた人が会った時には二十数名の子供達の集団になっており、有川さんを中心にみんなが助け合っていたとか!私は遂にこの一行と出会うことはなかったが、後日談として、この一行がソ連軍に収容されたとき、この有川さんを中に囲んで、子供達は、しっかりと有川さんに縋りつき、有川さんは優しく子供達の肩に手をおいていたという。

 そして、有川さんはソ連軍から、将官級の厚遇をもって迎えられた!と人伝に聞き及んでいる。  

     朝風4号掲載 1988.11月

慟哭の満州 「日本軍が無条件降伏をした!」

富士市 橋口 傑

 「日本軍が無条件降伏をした!」という噂が流れてきた。

 「そんなことはあり得ない、謀略だ!」

 と否定する声がある、一方では、「ソ連の大型機が悠然と飛ぶ姿や、関東軍の反攻の話一つ開かない。これは、本当かもしれないとの考え方も次第に高まっていった。

 しかし、だからといってソ連軍のいる所へ出頭したら、一体どうなるんだ?

 受けるであろう虐待のあれこれがすぐ想像され、これも、とてもできない。

 「だとしたら、我々は、今からどうしたらいいんだかね!」

 「とにかく、牡丹江(川)に早く着くことだ!そしたら、牡丹江市は近いはずだから、なにか?の答えが出るのでは」

  「よしっ!決まった。それから考えることにしよう」

 

 山の尾根らしいところに出た。少しづつ少しづつ下って行くと、さほど広くはないが砂利を敷きつめたきれいな道にでた。

  「今の太陽の位置からして牡丹江(川)は右だ、この道だと何かあるか?わからない、一列に並んで歩きましょう、それぞれ二、三米の間をとって下さい!」

 ところが、ものの一粁も歩いたろうか、先頭から、伝令が飛んできた。

  「川だ!とっても大きな川で、鉄橋があり、対岸には家がある!」

 全員川の見える位置に身を伏せた。

  [私が確かめに行きます、後五人ぐらい同行して下さい。私達が合図したら一斉に渡って下さい!」

 「お願いしますー!」

 若い者ばかり五人、走った!約三百米、いっきに走った!橋の対岸にある家の壁に貼りついた。

何事も起こらない。ぐるっと家を一周する、家の中は勿論周辺に目を配る、なにも起こらない。

家の扉をあけて見る。鍵もかかっていない、銃を構え、パーッと踏み込んだ!誰もいない。

  「よし!合図だ!全員、銃を構え、皆んなが渡り切るまでここを確保するんだ」

 そんなことを固唾をのんで見守っていた人達は、

  「ウワ~ッ、ヤッター!」

 喚声をあげ、我先に駆け出す。何しろ、この橋が渡れなかったら、上流も下流もそれぞれ一日以上歩くか、舟を探すしかないのである!先発隊が出たとき 「何事もありませんように!」

 と両手を合せて祈念して声も出さず、瞬きもせず、ジーッと見守っていたんですから雀踊りしてワーッと走り出した。無我夢中で駆け渡った!(現在、色々なる体験談、記録を読むと、この橋をめぐってかなり攻防の犠牲がでているようである)

 

 川沿いに上流(牡丹江市)に向って歩き始め、ふと川面を見て驚いた。屍体が流れているのである。それも見渡しただけでも十幾つ、上流に少なく、下流の方に多く見られ、岸辺に引掛っている屍体もかなりの数にのぼるようだ。流れに乗って、五つも十も一緒になって流れていくものもある。

 裸体もあるが、衣服を着た者が多い。衣服の様子から、日本人であることは明らかである。中にはかなりの傷を負った屍体もあるが、銃によるものではないようだ。死後も新しく四~五日と見られる。

 それにしても、一度に流れるのではなく、このように二粁も三粁も、いや、私達が見ていない間にも流されていたかもしれないので、半日も一日も、それ以上も流れ続けたとしたらその数は、見当で言っても何百か?いや何千人かもしれない。(この原因については後述)

 「これは上流で、牡丹江市のほうで、何か重大なことが発生したに違いない!」

 目指す牡丹江市に不吉な感じを抱かせたが、それは、直後に現実のものとなった!

 

 「牡丹江市もソ達軍の手に陥ちた、日本は無条件降伏をしたし、ソ達軍の元に出頭し、捕虜の身となるか、どんなことをしてでも東京城を抜け、朝鮮に出て帰国を図るしかない!」

という情報がもたらされた。

  「オイーどうする!ようやく川を渡れた、というのに」

  「皆さん、聞いたとおりです。本当の責任者のいない私達の集団では、一緒に行動するのも、また別れるのも勝手です。だけど考えてみると、今日の橋を渡った時といい、この前の襲撃された時といい、もっと小さい集団であったら、どうなっていたか?はわからない。これからも、我が身を守る手段のーつが集団の中にいる!ということを忘れないで、力を合せて行きましょう!」

 そこで急速、再び山中に入り、横道河子を径て東京城から更に南へ向うことを決めた!

 そして三度山中へ入った。

 

 その直後に本当にいまわしい出来事が起きた。

 ある下士官(伍長)が、僅かの食糧(乾パンー袋)を餌に日本婦人に対し暴行に及んだのである!

飢えに飢えている人を食糧を餌に欺すことはいとも簡単なことで

  「食糧を分けてあげるよ!」

と言われ尾いて行ったら暴行された、何しろ疲れ切っていて抵抗しようもなかったというのである。それに食糧といっても乾パンー袋だけだったというひどい話なのである!

 避難行が始まって半月余り、体力の消耗も限界に至り、女性の生理現象はとっくに止まり、まだ若い男性ですら性欲のかけらも影をひそめている、というのに、この避難を続ける同胞を守るべきはずの軍人が、自分達は食糧を持ち、体力を保っているために、性欲の吐け口を求めて、一番欲しがっている食糧を餌にする、なんとも破廉恥なことか?未だ若く潔癖であった私達のグループは、これが許せなかった!

やにわに銃を取りあげた。

  「この野郎!こい!」 銃口をつきつけた。

  「何だ!どうしたんだ!貴様ら、皇軍を何と考えていやがるんだ!」

  [何だと!無条件降伏しておきながら大きな□を叩くな!貴様らこそ、余るほどの食糧があるなら、皆んなに分けてやったらどうだ!」

下士官のグループの中から曹長が出て来て、

  「お前ら!食糧を脅し取ろうというのか?」

  「ふざけるな!この伍長の野郎が、食糧を餌に、あの婦人を強姦しやがったんだ、こんなときになんて恥知らずだ!それがあんた達の言う″皇軍″か、あとでたっぷりと正してやるから待っとれえ!」

  「オーイ、他の者は、こやつらを警戒しとけ!」

  伍長を山の中に連れこんだ。

 「俺が悪かった、助けてくれ!」

必死になって懇願するこの伍長に対して四人が銃口を向けた!

 「やめろ!やめてくれ!ー」

大声で喚ぎながら逃げ始めた。

 「バァーンババァーン!」

 四つの銃口が一斉に火を吹いた!銃声が谷間にこだますると伍長は一瞬飛び跳ねるようにしてぶっ倒れ、ピクッビクッーと痙學して、それっきり動かなくなった!

  「オイッー次はあの連中だ!」

  「おんなじことばっかしやっているあの連中もやっちまえ!」

一斉に、このグループをめざしてとって返した、が、このグループ、伍長を見殺しにしていち早く遁走していた。

 もっとも、もともと横柄な日本の軍人、この頃は更に、同じ日本人すらも食いものにするほどに士気も節度も落ちぶれ果て、狡猾さだけが残るものになりさがっていたのである。

 

 第一の目標でもある川(牡丹江)を渡る!ことは達成したが、次のことは、これまた避けることのできない危険極まりない”鉄道と国道の横断”という大仕事である!それを成し遂げねば、日本へ帰ることはおろか、次の目標である東京城へ向うことすら不可能なのである。

 白系露人の住む部落を通り、森林鉄道沿いに更に一日、製材所のある所で更に一泊、もう一山越せば横道河子である!すぐ近くに目標の鉄道、国道がある!と思うと何かしら緊張の度が高まる。

 

 その晩は、鉄道及び道路横断の時、どうしたらよいか?について話し合った。

「私達のグループは、知っている限りの他のグループと比較すると若い。これは、迅速果敢を要する!と思われるこの行動には、うーんと有利だ!と思えるし、ね!」

  「ところで、あのむこうにいるグループ、ですがね?」

  「ああー、あの女、子供のたくさんいるグループですか」

  「あれが、つい先程から、もめてるんですよ」

もめるのも当り前かもしれない。何しろ、この鉄道と国道、要所は厳重な警戒を敷いているに違いない、従って、比較的発見されにくい夜間に、これを突破するのが妥当であろうし、とすれば先ず一番に邪魔になるのは誰が考えても子供、それも聞き分けのない″幼児″である。子供が泣いたり不必要な音を立てたりする恐れが多い!

 そんなことが、危険な行動の前の段階で話に出ると、それに該当する子供を連れた親達にとっては大変である!懸命になって子供達に教える。

  「どんなことがあっても声を出してはいけないよ!」

  「どうして?」

  「どうしてって、声を出したり、音を立てるとソ連兵に見つかってしまうからよ!」

  「ソ速兵に見つかったらいけないの?」

  「露助に捕まったら殺されるんだよ!」

これで聞き分けられる子供はまだいい。聞き分けのできない幼い子供を抱き抱えた親達は途方にくれた。

 

 「その子供、どうするの!」

 「連れて行くんなら、私達とは別に行ってよ!傍杖くうのはごめんだよ!」

この避難行のなかで、子を持つ親達にとって最悪の危機であった。親達といっても両親揃っているのはなく、殆んど全部が母親だけである!それが、

 ″皆んなと離れ、子供を連れて歩くか?″

 ″子供を捨て、皆んなに尾いて行くか″

 との二者択一を迫られたのである!それも、即決断せよ!

 ″或る人は、泣きながら幼児の首を絞めた!そして、出発直前まで、しっかりと抱きしめていたが、出発のとき、裏山にソオーッと置き、その上に小石を積重ねていた。

 ″或る人は、殺してもやらず、泣きやまぬ吾が子を、この家の中に置いたまま姿を消した。

 ″或る人は、子供が油断した隙に、裏口から逃げ出した。この子供達は後になって母親のいないことを知り、必死になって探すことだろう。

が或る人は、しっかりと吾が子を抱きしめ、グループの皆んなの出発を放心したように見送っていたが、子供を抱いたまま、同じ方向に歩き始めた。

 

 「大和撫子」私が子供の頃に聞かされた大和撫子は、世界で一番、情愛深い女性である!と尊敬もし、見ていただけに現実に、今ここにある女性達は、自分の子供も、自分が生きんがためには捨てるのか!と言いようのない失望すら感じるのである!

 これは、私白身の若さと、その人達の身になって物事を考える余裕すらないためであったと、今は思うのではあるが、その時失望を感じたのは事実であった。

 

 私達のグループには幼児はなく、子供といっても、言い聞かせればちやんと、聞き分けのできる年令であったし、現実にそんなにも悲壮感は湧かなかった、が、この地点での子供達の犠牲はかなりのものであったように見受けた!

 歩ける子供達は、それでも大人達が行った達を必死になって、昼となし夜となく追いかけていくことになる!その事実は、私達が鉄道を横断した際、いやというほど思い知らされた!

 

 二番目に問題となったのは″馬″である。

 今までの利用価値は甚大であった。しかし、これから先は隠密行動を阻害する因に?今までに比べて集落の密度の高い地域を通過する度合いが高くなり、常に″身を隠す″ことが必須となり、その為に、たった一頭だけ残っていた馬もこの際処分しよう、そして、その馬の肉で少しでも体力をつけて出発しよう!と一決した。

 

 三八式歩兵銃の銃口を馬の眼と眼の間に当て引金を引く。

 「パキゥーンー」

 銃口を当てているだけに鈍い音をたてる。一瞬、僅かに飛び上った感じがして″どおーっ″と横倒しになった!

 これまでに、たくさんの人々や馬の屍体や死にざまを見てきたが、苦労を共にしてきた馬を射殺する心境は、また何と表現したらよいのかわからないが、まったくいゃな思いのするもんである。

 大きな焚火をはじめ、腰の帯剣を使い、皆んなで解体を始める。それぞれが思い思いに焼いて食べる。終いには全く見知らぬ人までがたくさん加わっている。

  「うーん、食べたぁー」

  「これに醤油でもあったらなぁ!!」

 なんて呑気なことを言っている時、

  「パーン!ーババァーン!」

 突然銃声がした、かと思ったら、頭上高く弾丸が飛び、「ガガァーンーガガァーンー」と爆発音も起った。焼肉の広場は、一瞬にして蜘蛛の子を散らすような大騒ぎになった。

 なけなしの荷物は家の中にある、取りに行く暇があるか?

  「落ちついて!銃をとって!荷物をとって!」

  「そっちじゃない!こっちに集まれ!」

 いくら怒鳴ってみたところで聞く耳のあるはずもないが、みんな勝手に逃げ惑うばかり。

 ようやく平静を取戻した時、まだ時折銃声はする、が、そう切迫している様子もない。

  「集まって!すぐ出発するぞっー!」

 まだ時折銃声がしているなか、先程焼いていた馬肉を、ポケットなどに、まだ半焼きのままで詰めこんで出発した!

 

 その時の情報によると横道川子の方から、森林鉄道沿いにソ達軍がゃってくるらしいとのことであり、山中方面で鉄道横断をすべく出発した。

 我々のグループだけでなく、他のグループも、あの半焼けの肉を持って出たものと思う、が、この半焼け馬肉が原因で、一層の体力消耗を来たすことにもなったのである!

 再び山中に入り南をめざす。同じ山中でも、地図の上に確認できる地点を出発し、真南に向って行けば、どの地点に到達するのか、はっきりした目標があるだけに、方向の上では不安はないものの、しかし、 ″日本の無条件降伏″が確かであるため、清人、及び朝鮮人たちが、日本人に対してどうであるか、未知である。

 ″ソ達軍に発見されてはならない! 出来る限り集落を避ける。

 ということであるため、今までより更に困難なものになりそうな緊張感があり、常に先発隊を立て、状況、物音に全神経を尖らし、先発隊が異常を確かめながらの行動となった。

 

 そして、翌日の昼頃、皆んなが昨日の馬肉を食べている、私もポケットに手を突込み一つを掴み出して□に持っていった。

  「ウヘーッー」

 思わず吐き気がしそうな臭いに襲われた!あの屍臭にも似た臭いである。

  「オーイッーやめろ、食べるのやめろ!」

 各自で持っていた肉を全部捨てた、が、この時は既にかなりの量を食べた人もおり、その夜翌朝にかけて次々と下痢をはじめ、なかには熟を出す人も出てきた!

 それでも、一歩たりとも歩みを停めるわけにはいかない。下痢で用足しをしていると、その分だけ皆なに遅れることになる。その遅れをとりもどすために走っ追いつく、追いついた頃にはまた便意を催してくるのである!その繰返しに耐えきれず、遂には暴れ流しながら皆んなに置去りにされまい、と懸命に歩く人も出てきた!下着だけでなくズボンね糞に汚れ、その臭いは強烈であったが、誰もそのことを口にせず、気にも止めず、ただただ、無意識に前の人に尾いて歩く、離れないように!ただそれだけで!

  朝風4号掲載 1988.11月

慟哭の満州 夜明け直後、微かに気笛を聞いた!

富士市 橋口 傑

 「オォーッ気笛だ!鉄道が近いぞ!」

 「これを越えたら、いよいよ満州へ向えるぞう!」

 「今度こそ露助かいるぞ!いよいよ気をつけないと大変なことになるぞ!」

 と言いながら、何故か歩く足にも武者震いに似た震えを感じる!

 「震える」といえば、俗に言う武者震いとはこのことを言うのであろう、と、思うが、遠くの方で砲声や銃声がし、これに向って我が身も近ずこうとしている。

 

 即ち、戦闘に参加しようとするとき、異様に足が震える。いや、足だけではない休全休が震える!それも、最初のときは自分でもびっくりするほど震えるのである。銃声を特に怖いと思っているのでもないのに足が震える、自分で止めようとしても止まらないのである!

 その後に何回も戦闘に参加したが、頭上高く 「ピューン!」 と弾丸が飛び始めると必ず足が震える、銃声、砲声がだんだん近くなり、弾丸が 「ピューッ!」 と耳元を掠めて飛んだり、 「ビシーッー」 と、足下に音を立て、土煙りがあがる頃には全く不思議にカ震え万は止まり、音がする度に首を竦める程度になってしまう。戦闘になん回参加しても、全く同じように起きる震え、この武者震えが″気笛を聞いただけで起きた″これで見ると極度の緊張のときに起きる現象であるらしい。

 

 気笛をはっきりと聞き一つの尾根を越えた。次の尾根を越えた途端全く身近で列車の轟音!そして夥ただしい数の自動車の響き!思わずパーツーと身を伏せた!

 稜線の木の間がくれに見えるのは、間違いもなく″浜綏線″の線路とその向う側にある道路である。

 

 浜綏線は、見たこともない赤塗りの貨物列車が走っているが、一体何輛連結しているんだろう!夥ただしい数の貨車をつないで走って行った!

 列車が通ったあと向う側の道路を見ると、これも日本軍では見たこともない恐ろしくデッカイ幌をつけて、それも車輛が十個もついている!

 幌の後を開いているので兵士を満載していることもわかる。中には砲を曳いて疾駆して行くのもある。それもまた夥ただしい数である。

 「オーイッ!見ろよ!戦車だ!」

 「デッカイなあ!」

 戦車の行列である!戦車の上に兵士達が鈴なり、十台、二十台、あの大きさでは日本の戦車などとても大刀打ちできるもんではないしろものではある!

 

 「おいっ!あれは、捕虜になったんだよ!あれ!」

 関東軍兵士の隊伍である,銃も持たず、剣も持たず、あの威張りちらしていた関東軍が一転していかにも捕虜らしくノロノロと足どりも重く、牡丹江の方向に歩いて行く、その行列と共に歩いているソ連軍の姿も見える!

 一時間ぐらいもかかって、二、三百人もいたろうか、この集団が通り過ぎたときは既に陽も西に傾いていた。

 

 陽が暮れるまでにもう少し詳しく鉄道や道路の様子を知りたいために、少しずつ、少しずつ斜面を下りていった。

 線路の手前二十米位までは潅木が茂り、線路は左側は直線が続き見通しが良い、が、右側は、かなりのカーブになっていて非常に見通しが悪いようだ!線路から道路まで約七、八十米、その間は腰丈ぐらいの雑草が繁っており、道路の向う側はまた雑草の繁る原っぱが百米ぐらい、そして更に田んぼが続き、約二粁先には河岸に柳条の繁る石何が流れている!

 その石河の先に 更に田んぼが続き、遥かに見える山までは、ここから見ると、約五粁、少なくとも夜明け前に、あの山に登りたい。いや登っていなければならないのである!

 

 これだけ見極めた時は既に陽は西にぐーんと傾き、まっ赫に映え始めた!二本の鉄道線路がその夕日に映え、血の流れのように見え、この横断の並大抵でないことを感じさせた。

 石何の流れも真赤に光って見えた。

 

 全員に、次のことが伝達された。

 ※ 出発は、今夜半とする。

 ※ 暗くなり次第、線路の近くまで前進する。

 ※ 列車の通過は、凡そ二時間に一回と思われるので、列車の通過後、直ちに決行する。

 ※ 夜間には、ソ連兵による警備が厳重である、と思われる、その隙間を縫って、一人づつ     突破する。

 ※ 先の人が道路を横断し終ってから、次の人が出発する。

 ※ 道路の横断に際しては、車のライトの照射を浴びないよう万全を期すこと。

 ※ 道路を横断したら、一気に川まで、再集合場所は石河河岸とする。

 ※ 声はもちろんのこと、足音もたてないように。

 ※ これらに違反した場合、発見され、本人は無論のことグループ全休にどんな災いが招か   れるか、を自覚すること。

 ※ 今から、出発時間まで、できるだけ眠り元気を取戻しておくこと。

 

 この日、道かなる山脈に落ちる夕日は殊の他に赤く、明日の好天を予想させ、さすがに秋、田園には黄金の穂が揺れ、夕暮れともなると、づーんと寒さを感じるようになっていた。まだ落日の明るさの残るうちに、と、少しづつ斜面を下り線路に近づく。

 列車の通過は二時間に一回ぐらいだからいいとして、道路のあのトラックの量、アメリカ製のGMCと呼ばれる大型車をはじめソ連製のトラック、それにジープなどがひっきりなしに右から左ヘ左から右へ疾走していく。殆んど幌を掛け、中に何を積んでいるのかわかる術もない、が、時折、アコーディオンらしい楽器に合せて合唱しているのも聞こえる。

 

 「ウワーッーまた来た!」

 誰かが小ざく叫んだ、左手、遥か彼方から、夕陽に向ってキャタピラーの音を響かせ、あのスターリン戦車の集団だ!異様に長い砲身も、夕日に真赤に映えて一層不気味である!砂塵を捲きあげて十五台通過していった!

 戦場に楽器とは、私にとっては奇異に見えたが、約半数の戦車の上には一台に十四、五名の兵士が乗り、一人の兵士の弾くアコーディオンに合せて、合唱しているのである。なかには自動小銃(通称マンドリン)を片手で指しあげ、なにかを精一杯に表そうとしている者もおり、唄う歌は″カチューシャの唄″であった!

 

 やがて夜半であろうか、昼間の喧騒も嘘のように静かで、而も、幸か不幸か半弦の月が僅かに地面を照らし、線路も白々と光を発している。向う側の道路も白く乾いて見える!軍用トラックも時折、五台、十台と通過するだけで、ソ連兵による特別な監視もないようだ!

  「出発!」

 合図とともに一人、また一人と線路を横断し、道路も横断して行く!三人、五人、十人と次々に横断して行った。

″列車が来るんでは!トラックは来ないか″見守っている我々こそ息も詰まる思いで、ジーッーと凝視続ける、と、突如!

  「おかあちやーん!」

 と、可細い子供の叫び声!左手の潅木の繁みの中から

  「ドッキーンー」

  一瞬心臓も止まるか?と思えるくらい吃驚仰天した!背中がズーンと寒くなった!

 よく″髪の毛が逆立つ思い″と言われるが、自分でも顔から血の気が失せるのが解るくらい吃驚した!というのは、我々のグループにこんな声を出すような小さい子供はいないはず、とすれば、当然別のグループが近くに来ているのか?

 潅木の中を眼を皿のようにして固唾をのんで見やった!月光の中に浮出した子供、四、五才か、それもたった一人でノコノコと林の中から出てきて、そのまま、線路の方へ歩いて行く。

 

 私達が鉄道を横断するに当たって心配したように、この子供の親達も「若しかして」こんな心配をしたあげくこの子供を置去りにしたのではあるまいか?

 または、この地を目前にして母が死んだのでは!それでも日本人の歩いて行く先を本能的に知るのか、こうして、たった一人で、それも南をさして歩いている。

 この子だけではない。この東満州からの避難のコースは、私達のたどったコースと大同小異であるがこのコースで果たして幾人の子供達が親にはぐれ、又は死に別れ、或いは置去りにされたことだろう。

 その中の幾人かはこうして唯一人で夜となく昼となく迷い歩いているはずだ!どんなにか淋しいことか、どんなにか親が恋しいことか!

 それでも、この子供を連れて行くことはできない。若し、この子が死ぬようなことがあった、としたら、それは私達が見殺しにしたものだ!このことは生涯、私の脳裡から離れることはないであろう。

 

 私の番だ!ソオーッと線路に足を踏み人れた。中腰で右を見、左を確かめた「誰もいない、汽車も来ない」枕木の上をツツーツーと走る!石ころでも蹴飛ばして音を立ててはならないからだ。

 線路をこし、草むらに身を伏せる!かなり遠いが自動車だ!直線なのでライトの光が微かに届く!

 ″どうしよう、このまま走るか!道路を横断すべきか、待ったほうがいいのか!

 一瞬のことではあるが、この判断の間違いは、自分だけではなく後に続く人々の生命にもかかわる。一瞬の判断から私は後方に向ってが待て″の合図を送った!

 煌々と照らす、魔物の目のようなライトの二条の光!かなりのスピードで飛んでくる。遠い光がぐーっと近くなり、目の前の草一本一本がくっきり見えるほどパアーッと明るくなり、さーっと暗さを取戻す!次の光が寄ってくる、遠ざかる、又来る!

  「どうか見つかりませんように!神さま!」

 少うし顔を持上げては 「まだ来る!」

 と息をひそめる、ものすごく長い時間に思えた。

 最後の一台が、ものすごい土埃りを舞いあげて走り去った!

 瞬間私も跳ね起きた!走った!一気に道路を突切り、向う側の草むらに飛び込んだ。突伏したのも一瞬で跳ね起きるや更に勢をつけて走った。何回か躓いて転びながら、ただもう、あの川まで!と懸命に走った!

 

 「石河だ!」高さも十米もあろうか、川辺に生い茂る柳の蔭。待つほどに次々と集まってくる。「原君!渡れそうな場所を探そうよ」

 川幅は四十米ぐらい、見るほどに深そうな澱みもあるし結構に流れの速いところもある!

 「中に人って見るか!」

 流れは速そうだけど浅いのでは?と思える場所に踏みこんだ!十米、腰まで来た。二十米、臍まで、かなり流れは速いが、足の下が砂のようであり、何とか持ちこたえられそうである。

 そのまま深くならず向う岸まで着いた!そしてそのまま斜に、皆んなの待つ位置まで下ってみた。

  「こりやあ駄目だ!」

 流れの澱んでいるところは背もとどかないくらい深いのである、その結果を皆んなに報告した!

  「もっとさがせば、まだ浅いところもあるはずです、が、そんな悠長なことを言っている時間などありません!助け合って渡りましょう!」

 見回すと、どうやら全員無事に鉄道横断を果たしているようである。

 

 無事に渡河を終えると、平坦な田んぼ道を一路南へ、ただ、避難行中に夜間行動したのは始めてである。大半が密林の中の避難であり夜間の行動は不可能だった、し、満州の原野で集団から逸れるのを防止するためであった。

 だが、今度だけは違う!浜綏線のすぐ南側、耕地に禿山、昼間行動すれば忽ちにして見つかってしまう。そのためにも、夜の明けぬうちに鉄道の見えないところ、即ちソ連軍の目の届かないところまで到達しなければならないのである!

 

 夜を徹してあるかなければ安全圈に到達し得ない。途中で眠くならないように!と昨日は昼間に「睡眠をとっておくように!」

 と指示があったのであった!しかし、列車の音、トラックの音、果ては戦車のキャタピラーの音などで、それにしても緊張している神経に″眠れ!″というのが無理なくらいで、殆んど一睡もできなかったのである!

 

 広いところを歩くのと違って、田んぼの畔道など狭いところを歩くのであるから、一列になって歩く、おまけに半弦の月も西に傾き暗くなっているので、自分の前二、三人しか見えないのである。

 ひたすら前の人の背中を頼りに歩く!

 鉄道横断という緊張から解かれて一挙にものすごい睡魔が襲ってきた、これは私だけではなかった。殆どが、ただもう惰性で足を前に出している状態になってしまった。

 歩きながら眠る、こんな状態のとき前を歩いている人に突当たって足が停まる、と、立ったまま眠ってしまうのである。

 前の人が歩き始めたときに気付けばいいのだが、気付かずにいると、次の人も、またその次の人も次々と同じ姿勢で眠ってしまうのである。

 

 私自身もどうしようもない睡魔に襲われた。しかし、なんとも気持ちのいいもんです。惰性で歩いている!停っている前の人に″コツーン″と突当たる、そうすると自分も立停まる、そして立ったまま眠ってしまう。歩いている時は全然ちがい、そのまま″スーッ″と眠ってしまう、この眠りが何とも言い表せないほど気持ちがいい。

 その眠りの深さが時によっては重大な結果をもたらす、ひょっと気が付いてみると前の人が居ない!暗がりによく透して見ると、僅かに人の動く気配が見える!慌てて後の人にも合図して迫いかける、若し、気がつくのが一秒、或いは二秒遅かったら、間違いなく前の人を見失っていたであろう!

 夜の行動で前の人を見失ったら、前の人達を探し出すことは絶望である。暗闇のうえに灯も使えず、声も立てられず、現にこの夜、私達のグループも離ればなれになり、四十数名いたのが夜明けには約半数になっていたのである。

 おそらく、二組にも三組にも分裂したのではないか?と思われるし、これが子供連れであったら、もっとバラバラになっていたのではあるまいか?

 

 出発時に予定した山の頂上に到着した時には、夜は白々と明け、昨夜必死に歩いたあたりが一望できた。よく見ると、あれも日本人であろう、一列になって歩く姿が遠く右手の丘にも、私達が通ってきた田んぼあたりにも見える!

 私は、ベターッとその場に座り込んだ、何だかひどく疲れた感じがする足がひどく重いのである!

 ひょっと目の前の枯草を見ると白い霜が降りていた!寒さは目の前に追っているのだ。

 

 しっかりと夜も明けてみると、すぐ近くに別のグループのー群がいた!その人達もまた昨夜、ちりぢりになったらしいとのことである、そのなかには親とはぐれた子供もいた、この人達の昨夜の渡河は大変だったらしい。

 僅か三十米から五十米ぐらい、深さも私の臍ぐらいしかなかった(このグループの人達の渡った場所はもっと深かったかもしれない)、それに流れは少し早かったが、昨夜渡ったときは水が非常に温かく感じられた。まして下痢をしている人の多かった私達のグループでは、これ幸いと、汚れた衣類の水洗いをした者がたくさんあったくらいだ。

 

 渡河地点の違いと、老人、婦女子の多かったこのグループは、この河を渡るのに大変な苦労とたくさんの犠牲を強いられたようである。足腰の弱っている人が流れに足をとられて流される、更にそれを助けようとした人までが足をとられる!

 暗夜の出来事で人々は動転し、誰がなにをしているのかさっぱりわからない状態に陥ってしまった。

 あの時の状況からして、かなりの水による犠牲者がでたんではないだろうか?

 本当のことは、こんなに散り散りになってしまっては尚さらに誰が、どうなったかさっぱりわかりません!ということである。

 

 この二つめグループが一緒になって更に南への避難行を続けることになった。

 「さぁーて、これから、また大変ですけど、日本に帰るために、少しでも、一歩でも、南へ向って歩きましょう!」

 この時には既に、足どりの軽い者は一人としていなかった!みんな、南ヘ!の執念だけで足を引摺っているだけだ!

 斜面の急な、それでいて立木の少ない山岳が多くなり、山間には水田が広がり、それとはっきり判る朝鮮人の集落が俄然多くなってきた!もちろん、どの部落にも、 「近づくと危険だぞーっ!」

 と言わんばかりに高々と赤旗が翻っている!

 

 できるだけ集落に近づくことを避けながらの南下を続けていたが、今日は、また何とも不思議でならない?

 右手の山の尾根を騎馬が走る!銃声が、この谷間にこだまして、いかにも私達を追立てるような感じさえするのだ!

 右の谷に人れば戦闘をも覚悟せねばならない、応戦の気力も失せている私達は左手の谷間に歩を進める。

 しばらくたってから、今度は左手の尾根に再び騎馬が現れ威赫射撃される。それも狙って撃っていないことが明らかにわかる行動なのである!

 

 「自分たちの部落に、俺達を近づけないためかなぁー!」

 そんなことを言いながら右に逃げ、左に追われ精も魂も書き果てたそのあくる日、谷間の向うに土塀に囲まれた朝鮮人部落、戸数四~五十戸のこの部落にも赤旗は翻ってはいるが、いつかの部落のようにものものしさは感じられない!というよりこの部落を避けて回り道をする気力も体力も、既に失われていたのでもある!

 

 「ほんの少しの時間でいいんですが休息させてくれませんか?そして、できたらー食事を少し分けていただけませんか、満州の金なら持っているんですが!」

 平身低頭して懇願した。当然、にべもなく追立てられるものと思いきや、

  「承知しました!ゆっくりと休みなさい。漬物だけだけどご飯も用意しましょう!」と言われ、一瞬、みんなぽーっとなった、だれもがわが耳を疑った!

 だがすぐに、「この朝鮮人達は、我々日本人のことを、こんな世の中になって可愛想だ!と思ってくれているんだ!」と思いなおした。

  「有難うございます!有難うございます!」

  「この思は決して忘れません!」

 みんなが、口ぐちに礼を言った。涙を流して感謝のことばを述べている人もいた。

 思い思いの場所に稲藁を敷き疲れ切った躯を横にすると、忽ちにして死んだように眠りに落ちた。無理もないことで、勃利を出発してもう二十五日間もたっていたのに、屋根の下に寝るのはこれで三回目なのである。言いしれぬ安心感のうちに眠っているのであろう、皆んなの寝顔は安らかだ!

 

 一時間近くも寝たろうか?鼻をくすぐる米の飯の匂いに眼がさめた!誰に起こされたのでもない飯の匂いで眼がさめたのであった!二十日ぶりぐらいに見る白いご飯に白菜の朝鮮漬、ふうっと眼頭が熱くなった、涙が、ついホロリと落ちた。

 続いて出そうになる涙を我慢するのに苦労しながら頬ばった。

  「おいしぃーっ!」

 ご飯の温かさだけでなく、人の心の暖かさが更に胸に熱く、回りの人を見ると、皆、下を向いてその眼から涙がしたたり落ちている!拳で鼻をこすりあげている人も見える。

 

 この幸せな!感謝の念も、一瞬にして吹飛び、増悪の念に変わろうとは思いもしなかった! その僅か数分の後に、何もかも信じられない事態が起きた!

  「有難うございました!」

  「ご恩は生涯忘れないでしょう!」

 などなど、それぞれの感謝の胸の内を口に出して礼を尽くし、もちろん、なにがしかの金銭を置くことも忘れなかった。

  「では、出発しよう!」

 

 と家の外に出て驚いた!ただもう忘然と立ちつくした!頭の中がボーッと空になったようだ。 何と、部落の人口にはソ連軍の、あの重戦車が、砲門をこちらに向けて並んでいるし、その前にはソ達軍兵士が自動小銃を構えて並んでいる!

 私達の居た家から部落人口までの広場の両側には、日本軍の軍服を着て、日本軍の階級章にもにた、まるで日本軍そっくりの襟章をつけたー群が、小銃、拳銃を構えて膝撃ちの姿勢をとっている!

 私達が正気を取戻すのを待っていたように、大尉の襟章を付けた朝鮮人が私達の前に進み出て来た!

  「あーっ、この人は!」

 皆んなが、あっけにとられて呆然となった。何しろその人が、つい先程、笑顔で我々を迎え入れてくれたあの朝鮮人ではないか!

  「クソーッ!ソ連軍到着まで我々を足止めする親切ごかしだったか!」

 くそおーっこの朝鮮人野郎めぇーー腹の中が煮えたぎる思い。

 

  「日本帝国は、無条件降伏をしました!戦争は終わりました。皆さんも武器を捨て降伏しなさい」 声高に宣言した。

 「?・ ・ ・ ・ ・ ・」

 思わず顔を見合わせた。不確実な情報として!ではあるが、日本が敗けた、無条件降伏したことは、すでに十日ぐらい前に耳にしていたものの、自分からソ連軍の前に出頭し、投降する気分にはなれず、今日までにただひたすら南へ向って歩く、せめて海の見えるところまで、なんとしても行かねばならない思いに固まっていた、のである、が、これでは″万事休す″である。

 「たとえ戦ってみても、これでは、いとも簡単に全滅の他ない。これでは、手も足も出ないよ!言われる通り降伏しよう!いいですね!皆さん!」

 みな、ただ無言で肯ずき、これを承知したのである!

 そして件の朝鮮人大尉から、ソ連軍にもその旨が伝えられたのである。             「逃避行」終り。

  朝風4号掲載 1988.11月

一山砲兵士の追想(1)

飯塚市 永井 潔

軍隊は運隊である                                   

 戦史を読むと「不運な部隊」が随所に顔を出す。私が二年余り所属した、山砲兵第四十聯隊(四国善通寺編成)もその一つだったと思う。或る日突然、山砲兵聯隊のみ、中国戦線よりビルマ戦線に転進させられ投入されたのは、陸戦史上最も悲惨と言われたインバール作戦であった。そのため私が在隊した第六中隊のインド・ビルマでの戦没者数は百名を超えその七割強が戦病死であった。

 まさに鬼哭啾啾である。私は悪運が強かったのか後述する事情で除外され、内地の留守業務担任部隊〈善通寺西部第三十六部隊)に転属となって帰還した。

「天国と地獄」の違いであった。だから私は、今なお、これらの戦友達に対して後ろめたい思いを抱いている。

 昭和十四年(一九三九年)、占領地警備を主任務とする師団が十個編成された。俗に三十台師団とよばれるもので師団番号と編成地をあげると、第三十二(東京)、第三十三(宇都宮)、第三十四(大阪)、第三十五(東京)、第三十六〈弘前)、第三十七(熊本)、第三十八(名古屋)、第三十九(広島)、第四十(善通寺)、第四十一(宇都宮)の各師団で大陸各地に派遣された。

 

 第匹十師団(通称鯨)は、十一軍(通称呂集団・司令部漢口)の戦闘序列に編合され司令部を湖北省咸寧に置き、同省東南地区に各部隊を配置してその任務に就いた。同年十月ごろであった。

 山砲兵第四十聯隊はこの師団の師団砲兵として綱成されたらので、駐屯地は左記であった。

 

連隊本部、観測中隊         咸寧     

第一大隊木部第二中隊        大治

第一中隊              大橋舗

第三中隊              陽新

第二大隊本部、第六中隊       楠林橋

第四中隊              通山

第五中隊              白覚(?)橋

第三大隊木部、『第七~第九中隊   馬橋

 

 ※第一、第二大隊は山砲,第三大隊は十榴。山砲中隊は九四式山砲、十榴中隊は九一式十榴を 夫々四門装備する。

 

 昭和十六年(一九四一年)三月十一日、楠林橋に駐屯する第六中隊長安宅中尉に申告する初年兵の一団かあった。総員七十三名で、私もこの中にいた。

我われは、昭和十五年(一九四〇年)徴集の現役兵第一陣として、昨年の十二月一日に善通寺西部第三十六部隊(山砲兵第五十五聯隊}に入隊約三ケ月の教育を受け、山砲兵第四十聯隊に転属を命じられこの日到着したのであった。

 

 この付近は湖北省も南端に近い山間地帯で松が茂り、つつじや菜の花も喫いている。故国日本に似ており、早くも我われの郷愁を誘った。だがこの地域はマラリヤ、コレラ、腸チフス等が多発し通山病と名けけられた悪性皮膚病の蔓廷する所で油断はならない。同年兵の戦没第一号は長岡二等兵で、彼の頑健な肉体も腸チフスには勝てなかった。

 

 それ以上に我われを驚かしたことがある。ほとんどの者は自分達の任務は占領地の警備が主で、戦闘もせいぜい残敵の討伐程度と考えていた。またその相手む鎧袖一触と軽視していた。

 だがこれはとんでもない間違いで、敵は勇敢で戦意も旺盛だという。

 「柄つきの手榴弾を七、八発持って突撃して来るゾ。ボヤボヤしとると無事に員数{生命のこと)を持って日本に帰れんゾ」と、聯隊編成時よりの上等兵は話を結んだ。

 

 彼は昭和十四年(一九三九年)十二月の中国軍の「冬季大攻勢」の凄さ、昨年の宜昌作戦での激戦の模様を詳しく語ってくれた。しかし、私の耳底に強く残ったのはこの終りの言葉だった。

 彼は我われと交替で帰国したので顔は無論、名前すら覚えていない。

 敵兵ばかりではない。中国住民の抗日意識も強固で、占領地域内は別として、一歩離れればもう敵地で、抗日スローガンが随所に見受けられた。百万人近い大軍を派遣しながら、我が軍が実際に支配するのは僅かの大都市と、それを結ふ点と線のみというのが実情らしい。

銃後の国民には何一つ真実を知らせてはいないのだ。どうやら我われの前述は暗く長いぞと思った。しかしこんな会話が可能な時代では無く、独り胸の中に秘めるのみだった。

 

 我が聯隊の装備する九四式山砲は、口径七十五ミリ、放列砲車重量五三六キロ、最大射程八三〇〇メートルである。

 一個中隊には四門(四個分隊)あり、一個分隊の編成は分隊長(軍曹か伍長)以下二十三名(分隊長、弾薬班長各一名、戦砲隊砲手六名、弾薬班砲手四名、駄者十一名)と、駄馬十一頭である。 射撃は分隊長の指揮で戦砲隊砲手が行う。戦闘中は、弾薬班長(伍長か兵長)の指揮にて駄者、駄馬等は駄馬位置に退避し待機する。弾薬班長と弾薬班砲手は駄馬位置の警戒と自衛のため三八式騎兵銃(弾薬三十発)を携行した。九四式とは、神武紀元二五九四年(昭和九年、一九三四年)に、三八式とは、明治三十八年こ九〇五年)に制定されたもので、明治時代の銃で戦っているのには驚いた。

 

 山砲は辛い兵種で、砲兵将校の体験者山本七平氏も「山砲は人類に軍隊なるものが出現して以来最も苦痛を与えた兵種」と、その著書「私の中の日本軍」で述べている。

 戦闘は行軍の後に開始されるのが常で、戦場の日夜は行軍の連続となる。苦しくとも歯を食いしばって必死の思いで歩かねばならない。ここは敵地、落後は死につながる。「小休止!」の号令がかかれば、その場にどたんと休める歩兵が羨ましかった。

 歩く兵はなにも歩兵ばかりではない。山砲もほとんどの者が歩く兵隊である。歩兵銃やその弾薬が無いので行軍は幾分楽だが、待ちどおしい「小休止」には一仕事がある。九四式山砲は一馬又は二馬で挽曳する。繋駕という。これなら砲車と馬を繋ぐ轅桿をはずせばよいので「テンホの甲」である。  この言葉は中国語の「頂好」からきた兵隊語で、最高の好ましい状態を示した。我われはよく使った。

 

 しかし華中の戦場には道らしい道はなく、たとえ有っても敵の手でズタズタに破壊されていた。

従って、山砲は常に分解し駄載(六頭)して行軍する。駄載で「小休止」になると山砲は直ちに卸して馬を休ませる。山砲は分解しても砲身・砲架・揺架はいずれも百キロに近い。山砲を卸してもすぐには休めない。水を汲みに走らねばならない。兵隊の飲む水ではなく馬に与える水である。兵隊は一銭五厘でいくらでも召集できるが馬は高い。何百円もする。馬は兵隊よりもずっとずっと大切な兵器である。水も近くに有るとは限らず、汲んで来てヤレヤレー休みと思ったとたん「出発用意!馬に載せ」の号令が無情にも響く時も多い。

 

 だがこの苦労なんか序の口である。砲兵操典には「山砲ハ歩兵第一線ト共ニ……`」と明示して、山砲の果敢な推進を強調している。敵トーチカの銃眼や機関銃等の射撃は五百メートル前後よりの急襲射を旨としている。

 敵陣近くの放列予定位置(砲兵陣地)まで駄載で進入しては馬がやられるので絶対にやらない。兵隊が担いで運ぶことになる。これを分解臂力搬送というのだが、重い物を担ぐのでタマがきても、身を縮めることも走ることも難しい。

 

 小銃の有効射程は約三百メートルと聞くが、五百メートルも決して安全圈ではなかった。

 歩兵は一木一草も利用して身を遮蔽し得るが、山砲の砲手は身を伏せて操作は出来ない。特に目標を照準する二番砲手は砲の脚に腰を下ろさねば操作出来ない。姿勢は高くなり極めて危険であった。最もいやなのは側方に迂回されることである。九四式山砲の方向射界は左右二十度である。従って左又は右側方を射撃するには射向を変換せねばならない。この際も高姿勢となるので標的になり易い。

 

 接近する敵兵に対しては榴霰弾を使って零距離射撃を実施する。発射された榴霰弾は砲口前二十乃至五十メートルで、包蔵された二七〇個の弾子(一個約十グラム)を横広がりに飛散させ敵兵を殺傷する。

 前にも述べたが華中の戦場には道路らしい道路は少なくたとえ有っても敵の手で破壊されていた。そのため野戦重砲は勿論、十榴、野砲の戦場進出は困難であった。

 従って大半の作戦に参加するのは山砲のみで、砲兵即ち山砲であった。そのうえ山砲の砲数も少なかった。一個中隊に山砲は四門あるのに作戦に出動するのは常に二門だった。正確に表現すれば中隊長の指揮する二分の一個中隊で、二分の一は欠である。当然のこと、山砲一大隊と言っても火砲数は六門しかなかった。二分の一は欠である。この砲兵力よりも中国軍のそれはなお劣勢であった。この「欠、欠、欠」の貧弱な砲兵力で戦うのが慣性となったまま太平洋戦争に突入してしまった。

 「砲兵は耕し、歩兵は収穫(占領)する。」これが近代戦で、太平洋戦争ではこの砲兵に航空機、戦車が含まれた。

 ガダルカナル島の撤退もニューギニア島ブナ全滅の悲報も知らず、我われは今日も中国軍と戦っていた。

 昭和十八年(一九四三年)三月三十日で、場所は湖北省石首県高基廟。揚子江と洞庭湖に扶まれた水郷地帯の一寒村である。

 午後二時ごろ、約六百メートル右前方の家屋に拠る敵機関銃の制圧を友軍歩兵より要求された。 現在位置での射撃は適当ではない。薬師神小隊長は約百メートル右前方の墓地を新陣地とした。 我われは直ちに臂力搬送で陣地を変換した。目標は直接照準射撃により一発で撲滅したものの、その直後、密かに右側方に迂回した敵兵に狙撃されて私は腰部を負傷した。「虫の知らせ」か、この陣地変換は気が進まず親友の高市上等兵(のち兵長、松山市出身)と、砲架を共に担いで泥田を渡りながら「高市ョー寸イヤナ地形やで-」と囁いた。彼はインパール作戦で戦病死したので残念ながら、当時を語る術はない。

 

 戦場に来て早くも二年になる。この間大小六度の作戦に参加した。あわやの思いを数度したこともある。だが悪運が強かったのか、カスリ傷一つ受けたことはなかった。

 「今日は不運やったなぁ-」と、衛生隊の暗い土間の担架で溜め息を何度も、何度もついた。あの狭い砲側に小隊長以下八名の将兵がおりながら負傷したのは私だけ。射ちこまれた銃弾はせいぜい数発だった。それなのに二発もあたっている。この夜、「不運、不運」と嘆いたタマは、実は「幸運」のタマだったと感謝するのはーケ月ほど後である。

 

 其の夜思いがけぬ事態が発生した。山砲は、歩兵部隊をこの地区に残したまま、元の駐屯地馬橋に帰還するという。意外であった。この石首・華容地区は歩兵第二三四聯隊(愛媛県松山編成)と我が山砲第二大隊の新警備地になったと間いたばかりなのに。合点はいかないが、朝令暮改は軍隊の常である。大して気にもせず、「早くよくなって戻ってこいョ」 「有難う。道中気を付けて帰れョ」と、お互いに笑って別れたが、ほとんどの戦友とはこれが永の別れとなった。

 

 山砲兵聯隊が師団からまるまる抽出されて、ビルマに派遣されるという話を間いたのは武昌陸軍病院に後送された四月中旬で、一瞬我が耳を疑った。師団には師団砲兵として、野砲又は山砲いずれか一つの聯隊がある。言葉を替えれば一個聯隊しか無いのである。その山砲兵聯隊をまるまる抽出して新設師団(第三十一師団、通称烈・東京編成)に与えるとは。だが、この一見、破天荒とも思われる抽出命令が、私を含めた小人数の者達に僥幸をもたらしてくれた。これが半分や三分の一程度の抽出なら、この幸運は絶対になかった。

 

 第四十師団(通称鯨)は山砲兵聯隊を抽出された後も、作戦兵団として華中、華南の各作戦に参加している。

 五月一日、武昌陸軍病院に来院の白石聯隊長は、我われ入院患者に対して、西部第三十六部隊(山砲兵第五十五聯隊補充隊)転属を下令したのちビルマに出発した。私はその二十一日に同病院を治癒退院して内地に向った。

 ビルマに行く戦友達には申し訳無いが嬉しさで一杯であった。幸い道中は無事で六月二十日夜には懐かしい善通寺に到着した。

 本当に「テンホの甲」たった。

 

 運命の軍令陸甲第二十四号は三月二十二日付である。これに基く措置命令が最前線の我が中隊に届いたのは、前述の如く私の負傷した数時聞ののちであった。

 戦場の第一線に立たされる将兵にとって、高級指揮官の’優劣、良否は運命の岐路である。インバール作戦を陸戦史上最も悲惨なものとした要因は、「作戦中止の時期を徒らに遷延させた」の一語に尽きる。ガダルカナル島の撤退は、「俺一人が悪者になって主張してやろう」と言った山本五十六大将の勇気ある決断で実施された。

 だが、牟田口、河辺の両軍司令官には、共に、その勇気はなかった。この作戦実施の経緯から判断しても、この両人にその責務が有ったはずだが、責任の回避と、そのなすり合いに荏苒と日を過ごした。アラカンの豪雨の中では毎日数百人もの将兵が死んでいるという時に。戦友の面影を偲ぶ度に、その無責任さに憤慨し「軍隊は運隊だった」と、慨嘆する。

 

 インパール作戦失敗後更送され内地に帰還した河辺中将は、軍人最高位の大将に昇進し、航空総軍司令官に就任した。「負けても大将」である。

 国家存亡の重大な時機に於いて、なおかかる年功序列人事が行われるとは、全く呆れるほかはない。敗戦は武器の優劣やその過不足などという単純な事のみが原因ではなかったと、戦史を読む度に痛感する。

 

 高木俊朗氏のインパール作戦四部作の一つに「憤死」がある。

このあとがきに、河辺正三元大将の胸像が郷里の小学校の敷地内に建っていると書かれている。アラカンの豪雨の中に、糧食も、薬も与えられずに朽ち果てた畿万の将兵は、どのような思いでこれを眺めているかと思う度に胸が疼いてならない。                        (以下次号)

朝風5号掲載 1985.5月

慟哭の満州 3

富士市 橋口 傑

捕虜生活                                 

 戦争に敗れる!ということは、こんなにも悲惨なものなのか? これはもう、生活ではない。

中国人や朝鮮人は戦勝国の人か?

ソ連軍兵士は略奪もほしいまま、これが戦争に勝った者の特権であるのか?

 

武装解除

 全員が広場に集合した。ソ聯軍士官の立合いの中で武装解除を受ける。一人一人が次々と広場の中央に進む。自分の銃や手榴弾、帯剣にいたるまで山積みにしていく。

 

山と積まれた上に、

 「さよう-なら!」

ホーンとほうり投げる抛り投げる。

 「ガシャーッー」

と、うつろな響きがして、もう我々に武器と名のつくものは何にもなくなった。全員が、完全に武装解除されたのである。

 この瞬間から、我々には、何事が起きても″抵抗″する力が失くなってしまったのである。

 武装解除が終った途端に、今度は約二十名のソ聯兵士全員が、私達の中に割って入って来た。

 思い思いに身体検査を始めた。間近く見るソ連兵! 赤い髪の兵士あり、黒い髪の兵士あり、それに青い瞳! 西欧的な顔だちあり、明らかに東洋的な顔つきの兵士もいる。ハルビンや佳木斯で白系口シヤ人を見慣れているのに、″赤系″というだけで何かしら恐ろしさを感じるのは、私だけだろうか? 薄い、汚れた夏服に、異様に大きな先の丸いゴム製の軍靴、いかにも貧しそうなこの兵たち。

 

 私達のグループは別として、私達と同時に武装解除されたらしいもう一つのグループなどは、関東軍の軍人グループでキチーンとした服装をしており、このほうが、誰が見ても豊かな国の兵隊に見える。しかし、武器は違う。ソ連軍兵士が、無造作に肩に掛けている自動小銃は銃身は短かく、丸い薬莢の中には七十二発の弾丸が入っており、これが瞬時にして発射される、何のことはない全員が機関銃を持っているようなものだ。それに軍用トラック(実はアメリカ製が大半だった)、日本の軍用トラックとは比較にならぬ程大きく、それ以上に、 「すっごい!」と思ったのは″戦車″である。日本の軽、中型戦車には乗った経験もあるので、全く比較にならない!と見た。

巨大な車体、それに、戦車自体の長さにも負けないほどの大きく長い砲身!あの道路横断の時に見た、あの速さ、魔物という感じの巨体などに見とれている、と、突如 「ダヴァーイー」胸をこずかれた。どき-っとして目を開くと、まだ若い兵士が、大い人差指を下に向け、 「ダヴァーイー」と言う。

そして、さかんに私の靴を足で蹴るのである。思わず手を振った。

 「靴は駄目だよーっ!

 「タヴァーイ!」

 大い指を、こんどは胸に差しながら連発する。なお、しぶっていると。ガッーン‥と一発、向う脛を蹴りあげられた!

 しぶしぶと靴を脱ぐ。

 「オー、ハラショーー ハラショー!」

 喜びの声をあげた。そして、自分の靴を脱いで、それを指差し、チョコーッと頭を振った。″これでいいか?″とのしるしなのか? あの男が、こんな大きな靴を!と思えるくらいのしろものだった。

 あっちでもこっちでも、「ダヴァーイー」の声と共に 「ハラショーー」の喚声があがる。この喚声があがるところでは誰かが物を奪われ、しかも、ソ連兵にとって好ましい物を得たとき狂喜して喚声をあげる。それは、時計、双眼鏡、革ベルト、革靴、軍服、その他指環など片っ端から奪取られた!。

 

 目欲しいものを見つける、と、それを握み、片方の人差指を立てて、「ダヴァーイー」と叫ぶ。少しでも拒もうとするなら、その指を胸に突きつけて、「ヨッピオースマーイー」とくる。

 それでも拒もうとすれば、次は銃を胸に突きつけ、「ダヴァーイー ダヴァーイー」それでも、モゾモゾしていると、「ガァーンー」と銃掌で一発ぶっ叩かれ、強引にもぎ奪られる。

 私自身は、靴(日本軍の軍靴)だけ、それも、代りの靴をもらったので全くの幸運であったのかもしれない。寒さを迎えた時だけに、靴、衣服を強奪された人には、この後、日を追うごとに強烈な憂き目を見ることになる。

 

 ただ一回の掠奪によって、我々の様相は一変した。何といっても、武器がないため、全く抵抗する力、意欲を失くした。この一時間ぐらいの間に、″ボロ″を纒った一団に変身したことである! 履物を奪われ、身体に似合わぬドタ靴を履いているもの、裸足の人、衣服を剥ぎとられ裸同然の者、汗と泥にまみれたうえに破れたソ勝兵士の服を着た者、夏のシャツー枚だけの人など、人によっては裸同然になった。

 

 ソ勝軍による掠奪が終った後、今度は朝鮮人保安隊が入替り奪い残したものはないか?と、探し回る、そして今まで親切にしてくれた家々の人まで加わった。

 そして、私達にとって、青天の霹靂ともいうべき、全く予期せぬ出来事が起きた! あれほど親切にしてくれた人達のなかから一人が私達の前に来て、言った。

 「お前ら日本人には、三十六年間の恨みがあるんだ! これから、そのお返しをしてやる!」 「このやろう!」 「バシーッー」片っ端から頬っぺたを叩いてゆく。その恨みとやらの一発が、私にも、 「バシーッー」と鳴った。

 思わず悔し涙が湧いてきた。

 「汚い! 何と朝鮮人は、汚ねえんだ!」

「八月七日まで、あいつらは、『俺は日本人だ!』といって満人の前で威張っていたくせに!」 

「全く掌をひっくり返したように変りやがって!」

「それにしても三十六年間の恨みってなんだい!」

この三十六年間の恨みというのがなんなのか?お互いに話していると、「朝鮮は、日本によって三十六年間統治され、たくさんの朝鮮人が、この東北に逃れて来た。しかし、日本は、この東北を統治下に置き、以来、朝鮮に在住する同胞はもちろん、東北に在住する朝鮮人も、言うに言われぬ虐待を受けて来た。今度はお前等が、それを味わう番さ!」(東北とは中国に於ける東北をさす。山海関を境にして東側を東北と呼んでいる。関東軍の呼び名もこの山海関の、東側ということで″関東″とつけられた)

 

 初めて納得できた。我々は何も知らなかったものの、朝鮮人としては、こういう見方をしていたのか? ここにいる朝鮮人らが日本の軍服を着て、日本軍とそっくりの階級章をつけて、大尉だ、中尉だ、少尉もいる、伍長もいる。一つ星はいないようだ、が、日本軍の借り衣をして、勝手に階級章などつけやがって、一夜にして大尉か! 馬鹿にしやがって! と唾を吐きかけたくなるほどの噴りを感じる。

 

 その軍服の上に″赤い腕章″を巻いて、今度は、ソ連の手先になろうというのか? 本当に見事な変身ぶりではある。叩かれた頬に当った手さえも、たまらなく汚ならしく、この時から、どんなことをされても、朝鮮人の言うことなすことの一切が信用できなくなってしまったのである。

 私達だけでなく満州国内に居た日本人の殆どが、多かれ少なかれ同様の仕打ちを経験しているのではないだろうか?。

 特に新京(現在の長春)で「チャーズ」と呼ばれた残酷図絵を経験された人達もあると聞き及ぶ。これらも、対日感情のもつれも含んだ仕返し!と見るむきもあるくらいである。

 ソ連軍兵士、そして朝鮮人に、とことん剥ぎ奪われた我々は、見るも無残な″ボロ集団″と化した

 そして、 「ダヴァーイー ダヴァーイー」の声に追い立てられながら連行されることになった。

 

-―連行-―

 

「ダヴァーイーダヴァーイー」

恨みの朝鮮人部落を後にする。約百五十名、その中に軍人約五十名であった。

 前後と、十米おきぐらいにソ連兵が、計十名ほど同行している。一見したところまだ若く、二十才そこそこであろうか、そんな年齢に見える兵士達は、みんな坊子頭で、チョコナンと帽子をかぶり、薄汚れた夏服である。

 絶えずポケットから″ヒマワリ″の実を取り出して食べている。中国では、古くから色々の種子を炒って食べている。(一番多いのがヒマワリ、その他に西瓜、南瓜など)が、ソ聯軍人がものを食べながら歩いているのには驚いた。日本の軍隊では考えることもできない光景である。若い兵士も年輩の兵士も皆同じように食べている。将校ですらも同じように食べている。口の中にポーイッと無造作に二、三個放り込む。口をもぐもぐさせ、 「バリーッ、パリーッー」と音を立てて殼を割り、 「ブーッー」

と殼だけ吐き出す。それはそれは器用なものである。

 

 二時間ほどで広い街道に出た。そこには何百人もの日本人の行列があった。キチーンとした服装で歩く軍人の集団もあれば、私達の比でないくらい惨めな姿の集団もあった。もちろん婦女子も老人も含まれているが、婦女子といってもソ聯兵の暴行を恐れて、殆どが頭は丸坊子、そして男の服を身につけ、顔や手は泥などで汚して醜くしている。しかし日本人独特の体形や歩き方、それに、女性には男の真似をしても隠し得のない線があり、 「よっく見ると、女性であることがわかる!」

 

 その危惧は、まもなく現実のものとなって表れた。

 幌をかけ、兵士を乗せた軍用トラックが私達のそばを通り抜けたとたん徐行をしはじめた。兵士が二人降りて来た。行列の中に割って人った。いきなり、小柄な日本人を捉えると担ぎあげた!、

 「助けてー!誰かー!誰か助けて-!・」

 金切声があがった。その声はまぎれもなく女性である。しかし、誰一人として制止しようとしない その回りには、屈強な関東軍軍人がたくさん居た。が、誰も素知らぬふりをしている。私達も十四、五米ぐらい後方に居て、同じく何の手出しもできなかった。担ぎあげられた女性は、そのままトラックの荷台の上ヘ! それが、何を意味しているのかはっきりわかりながら誰も手出しができない。抵抗の方法を持たない。トラックの荷台からは自動小銃を構えて、ソ連兵が睨みをきかしていたのである。

 トラックは、ややスピードをあげて走り去った。

 すると、それに入れ替るように、またもトラックが徐行して来た。女性達は、人の蔭にかくれたり、その場に跨ったり、ソ連兵から我が身を守る行動をとりはじめる。少しは気丈な人がいたようで、 「兵隊さん達! なにやってんのー! 同じ日本人も守ることもできないんかよー!」

 「本当に情けない関東軍だね! 聞いてあきれるよ! まったく」

そんな罵声を投げつける。それでも一言の反発もできない関東軍兵士達は皆、素知らぬふりをして歩きつづける。

 

 その時、まるで放り捨てられるように、一糸纏わぬ女性が荷台から放り落され、その上に衣類が投げられた。

 「ハラショー!ヤボンスキーハラショー!」

高笑いと共にトラックは砂塵を巻きあげて走り去った。

 恐らく何十人ものソ連兵に輪姦されたものであろう、殆ど虫の息だった。それでも他人ごとと考えてか見ぬふりをして通りすぎて行く。

 私達と行動を共にしていた初老の婦人が、私達を手招きをした。

 「貴男達!こっちに運んで!」

 その婦人の言うままに、この女性を道路の傍の草むらまで運び衣類をつけてやる。その初老の婦人が、「この人はヽここにいるたくさんの日本人女性の身代りにされたのよ! だのに、なぜ!なぜなのよ-! 皆んな知らん顔をするのよ!」

  犠牲者となった女性を抱きしめながら泣きだした。

 「これが日本人なの! こんなじゃないよーね! ねぇ-!」

 私達の顔を次々に見回しながら、なおも叫ぶ。

 「おばさん! 達うよ! 日本人は、おばさんの言う通り、もっと仲良しで、もっと他人のことも心配し、協力する人間なんだよ」 私達も、皆んなも、本来は、同胞をかばい、どんな事態でも一致協力して難に当る国民性を持っているはずであった。ところが、最悪の事態に直面したとき、同胞どころか、親も子も捨てて自分だけが生きる道を選ぶような人間であったことがわかった。それどころか、後になってわかったことだが、同胞を売り、自分だけがいい目を見ようという輩がたくさんあったこと、このために中国でもシベリヤでも忍耐の日々を送った日本人か数しれずあった。

 

 激しい"キャタピラー"の音!、 「ハーッー」と振り向くと、あのスターリン戦車群だ。みんな一斉に道路から退避して、草むらの中を歩き始めた。

 巨大な砲身を、これ見よがしにふり立てて、戦車の上には、自動小銃を胸の前に横抱きにした兵士が十五名ぐらい乗っており、声高らかに″カチューシャの唄″を合唱している。

 私達の、この惨めな姿を見下してあの誇らしげな姿、何台目かでははアコーディオンの伴奏つきで高らかに歌っているではないか!

 「ヤボンスキー!」

人差指を大きく突出して指差し、何事か声高に叫んでいる兵士もいる。なかには、指差しながら唾を吐きかける奴もいた。次から次に砂塵を吹き掛け疾走して行く。カチューシャの。唄の意味を知らない人にとっては、又となく恐ろしく、忌わしい歌として聞こえたはずだし、この歌を、こよなく愛唱していた私にとっては、この時のソ連兵士達がどんな気持でこの歌を歌っていたのか?どうしても理解ができなかったし、それから四十年もたった現在でも、テレビ、ラジオでこの歌を聞くとどうしてもあの時の戦車の響きと、兵士達の勝ち誇った顔が思い出される。

 

 《カチューシャの唄》

 

  リーンゴの花はほころび

  川面にかすみ立つ

  君なき里にも

  春はしのびよりぬ。

  岸辺に立ちてうたう

  カチューシャの歌

  春風やさしく吹き

  夢が湧くみ空よ。

 

 

蘭崗収容所

 途中で野営一泊、蘭崗飛行場跡に到着した。大きな格納庫跡に収容された。捕虜になってここに来るまでの間に、避難中の疲労が一挙に出てきたのか、極度の緊張から一変して、希望も目的もなくしてしまった?極端な精神的な変化も重なって体調も狂ったのか、蘭崗に到着と同時に衰弱と病

気が目につき始めた。

 

 蘭崗での最初のソ連軍から給付された食事は″黒パン″であった。均等に分配すると握りこぶしほどもない大きさであり、満足な食事もとっていなかった日本人にとって、当然美味しいはずのものであったが、″パクーッ″と口にして、皆が一様に、

 「まずいーね!」

と顔を見合せた。呼び名どおり焦赤色をしたパンでボソボソとし、おそらく暖いうちなら美味しく食べられるかも?。

 それはさておいて、その晩は、約一ケ月半ぶりで、それもなんの心配もなし屋根の下で、朝まで眠れる!という安心感も得て本当に安らかな眠りの夜であった。ただ、この。安らかな眠りのなかに実は恐ろしい悲劇が、たくさんの人々の休の中で陰惨な蠢めきを始めていたのである。

 

 その夜半には、もう数え切れないほどの人が、歩くどころか、立上がることも困難なほど手や足が腫れ始めていた。明らかに栄養失調からきたものである。翌朝には、もう十指に余る人が既に冷たくなっていたし、翌日の夜ともなると、全く目が見えない!と訴える人々がおそろしくたくさんいた。これは夜盲症である。これにしても、整然と夜間行動のできる軍人達の集には皆無で、一般人にだけ発病しているのではないか?と思われた。

 私自身、ここに着いた翌日には足が腫れ始めた。指で押えると爪が隠れてしまうくらいになって

いたし、妙に全身がけだるく、歩くこともいささか困難になってきたし、立ったり座ったりするときの″力″の無さは、自分でもびっくりするくらい、ほんの少し衛生知識のあった私は、 「これはいかん! 何とかしなければいかん!」格納庫の回りを歩いて見た。

 「あったぁ-、あれだー!」

 すぐ近くに畑があり、そこには、取り残した大根や白菜の小さいのが無数に残っており、何回かの降霜にもめげずまだ青々としていたのである。急いで畑に入り、手当り次第に取ってそのまま食べた。腹一杯食べた。そのうえに持てるだけ持って帰り、グループの人達に、 「こんなもの-、と思わずに食べなさい。今の私達にとってこんな青い野菜は、一番大切なんだよ!」とすすめた。涙を流さんばかりに押しいただいて、食べる入もあれば、全く見向きもしない入もいる。

 「明日はー緒にとりに行こうね、」

と話していたのに、今日は誰も一緒に行こうとしない。

 「ひょっとしたら、もう一つもなくなっているんでは?」

の危惧をよそに、行って見ると、誰もとって行った形跡もない。比較的体力のある人達にとっては 「なにも、こんなものを食べなくても!」と思って見られているだろうし、「欲しい、食べたい!」と思っている入は、もう既に歩いて行くこともかなわないのかもしれない。個人的な体力の差もさることながら、大きな部隊が、そっくり行動を共にしていた集団、と、同じ軍人でも戦闘を経て小さい、バラバラになった集団とでは格段の差があり、更に一般人の集団は、それよりもず-っとひどい状態になっていたのであった。

 

 いとも簡単に、″取りに行ってきた″と言っているものの、私自身、その実、半分這うようにして取りに行ったもので、戻って来たときは額に冷汗いっばいの状態だったのです。しかし、これが私にとっての″命の糧″になった!と、今でも信じているし、この青い葉っぱ一枚に涙を流して喜んだ人もいるのです。

 いつの世でも″食生活″は、人間の生活の中で最も重要な一部分です。この”食”によって人を

喜ばせることもできるし、″食″を重要な制裁の用具にすることだってあります。

 日本の家庭では、何かと言うと、

 「めしも食うな!」

が出たものです。個人のわがままが時には家長の感情に触れ、こんな結果になることが多いのですが、″制裁″という意味の場合が多くありました。

 

 ″制裁″といえば、日本の軍隊の中では″食事抜き″が制裁として頻繁に採り入れられたものであった。同じ釜の飯を食っても、上官、古年兵には美味しいところをこんもりと盛り、初年兵の分に盛りつける頃には残り滓のようなところになってしまうのである。初年兵は、「食事始め!」の号令と同時に、飯の上にお菜を乗せ、その上から汁をぶっ掛け、 「ぎぶ、ざぶ、ざぶ!」と、一気に掻き込むのである。なにしろ、日本軍の食事時間はたしか二十分であった?と思うが、食事時間の他に後片付けなどの時間がとられてありませんので、当然、食事時間中に食事の後片付け、それに次の予定のための準備もしておかなければならず、悠長に構えて食べている時間なんてないわけで、食べる、というより、むしろ掻き込む、流し込むといったほうがビッタリの、ほんの二分か三分ぐらいでした。時には盛りつけされた飯を前にして上官、古兵による説教や制裁を受けて全員食事抜きだって日常茶飯事の如く行われたものです。

 

 ″捕虜″になってみると、階級の差別は廃止され、軍人の襟から階級章は消えた。一応、差別をなくした、が、その部隊では、昨日まであった階級意識を捨て得ず、意識の中は勿論のこと、行動の中にも残っていることがはっきり窺えた。

 以前に、威張って兵士を虐待していた元班長や古年兵遠の殆どは戦々恐々の日々を過ごし始めていた。虐げられていた兵士達の仕返し、暴動を恐れていたのである。必要以上の挙動をしなくなりやたらに人の顔色ばかり気にしているのが、おかしいくらい目につくし、部隊そのものも、暴動を恐れて様々の鎮撫の手段を講じていたようだ。

 こんな状態の中でも、″食事″となると一斉に目の色も変ってくる。

 当番にあたった人の切り分ける〃黒パン″にグループ全員の眼が集中する。収容所での班編成は十五名、私達の班には十五才の少年から六十才の元陸軍少将まで、現役の軍人、元軍人、それに開拓団員との寄合いであった。それらが車座になって見守る中でバンを切り分けるのである。均等に切らなければならない。どれが自分にあたるのかもわからないし見守る眼は真剣である。元少将閣下でさえも、

 「オーイ、オイ、これは小さいよ!」

 「ホーラーあれが少し大きいよ!」

などと指差す。

 軍隊内で″将官″といえば、そこらの兵士では□をきくことすらも難しいくらい、高い雲の上の人であったし、人格、品位共に卓抜したものである、と見ていたのにこの有様、拳ほどもない黒パンの、その中でも少しでも大きいものにありつこうとする、あさましいというか、まるで餓鬼としか言いようがない。

 「どうぞ!」

というと、一斉に、自分の取ろうとしていたパンに手が伸びる。悪くすると一個のパンに二本も三

本も手が伸びることもなりかねない。こんなとき、よく喧嘩になる。

 「俺のだ!」

 「俺のほうが早い、俺の目の前にあるのだ!」

など、それぞれの言い分を譲らず、終には、取っ組みあいの喧嘩になってしまう。食い物の恨みはなんとやらで、一回やってしまうと、その後もしばしば衝突を繰返すほど根が深くなっていくものである。 「このー馬鹿者っ! 今、いったいどんな時だと思ってるんだ! 日本人同士で喧嘩してる場合かっ! いいかげんに頭を冷やせ! それでもしたけりゃ、ここを出て行けっ!」

 班長である髭の獣医さんの一喝が飛んだ。漸く、二人共に恥かしさを取戻したのかシューンと凋んでしまった。

 

 元将官といえども、このようなありさま、飢えは極度に達していた。何十人も枕を並べて寝につくが、誰もあの苦しかった逃避行の話や、激戦の話をしない。

 「早く日本に帰りたいねー」

 「いつ帰れるかね-」

 「私の故郷はねぇー、宮崎県の椎葉の近くでね-、耳川の流れには鮎がたくさんいてね-、子供達は胸まで水の中に入り箱眼鏡で見ながら、竹竿の先についた針で引掛ける、チョン掛けといってね!、よく獲ったもんです。」

 「ふぅーん、僕の故郷も同じでね、川は小さく鮎はあまりいなかったけど、鰻がよくとれましてね!」

 「まだ、母が生きていて、帰りを待っているんですよ、母がね-」

と言って鳴咽をする人もある。どこの誰とも解らぬ人でも故郷の話ともなると、しんみりと聞けるもので、話すにも聞くにも限りがない。

 「今日はもう寝ましょうか、またあした話しましょう」

もはや、外は明るく外気がやけに寒く、頭から被っていた毛布の襟が、白い霜がついていた。外はおそらく真白く霜に覆われていることであろう。もう、白い凍てついた冬の到来なのだ。

 「もし、もう起きましょうか、今日も天気がいいようですよ! もう起きましょうよ!」

返事がない。おかしいなぁ-、と思いながらゆすって見て、

 「ウワァーッー」

と驚いた。休全休が″ゴローン″と動いた。硬くなっている。「若しや」とおそるおそる顔を覗いて見てびっくりした。死んでいるのだ! 昨夜は、故郷の話をして満足したのか、いい想い出を胸に眠ったまま、灯が消えるように死んだものであろう。隠やかな死に顔であった。

 この人だけではなく、毎日、毎朝、何人もの人が、その殆どが苦しむでもなく、全く人に知れぬようにひっそりと息を引取っているのである。ただ、決まって前夜は、故郷の話、父や母や、奥さん子供の話をし、「早く帰りたいなぁ-、お母さん、待っててよ-、もうすぐ帰ります!」

と呟いていた。

(以下次号)

朝風5号 1989.5月

追加 慟哭の満州(5)

富士市 橋□ 傑

牡丹江鉄橋爆破事件

 満州に於ける戦争秘話として、全滅、或いは集団自決が何名、何+名、何百名と新聞や雑誌等に記事として時折見かけるが、鉄僑爆破による大量殺戮は伝えらわていない。

 事実はこうです。

 

 掖河、樺林間で壮烈な肉弾戦の行われたのが八月十五日その、つい前々日の十三日夕刻、林□方面からの最後の避難列車、何両連結で何名乗っていたのかは、全く定かではない。

 ただ、この時の状態や、私達が見た勃利駅出発時の避難列車の状況からおしはかってみても、おそらく四~五十両編成、それも客車、有蓋貨車、無蓋貨車等合せての列車で、それに、こぼれ落ちそうなほど、屋根の上まで満載していたであろうし、おそらく、どう考えても一千名以上が乗車していたはずだと思はれる!

 

 それが牡丹江めざして驀進してきた。八月十三日には既にソ聯軍は林□街に進攻していたはずだし、それに追われて、全速力で、無人と化した樺林駅を素通りしたのであろう。

 先にも述べたように林□駅を起点にして図佳線佳木斯方面と東安方面の二つに分かれるが、佳木斯、勃利方面からの最終列車は十二日に勃利駅を出発し、亜河駅で列車を放棄している。

 これから見てここで言う避難列車は鶏寧、東安方面からのものである、ということができる。

 

 さて、一方では、牡丹江の川で、ソ聯軍の進攻を足踏みさせよう?と考えた関東軍では、この大河に架かる橋の破壊を決めた・誰が企画決定をして、誰が実施したのかはわからない。が、関東軍軍人がした、ということは確かな事実である。

 ところが、全く不思議な事実が一つあります?。牡丹江市に道(鉄橋)と一つの国道(自動車道、コンクリートの永久橋)の三つの橋があった。

 

 凡人の私でも、あの時、橋を爆破するとしたら戦車、トラックが通るであろう自動車道を、まず第一に爆破するであろう?。だのに、なぜ、図佳線の鉄橋を爆破したのか。壮丹江というこの川の一線で一時的にもせよ、ソ聯軍の進攻を阻止するためであった、とすれば、先ず自動車道を、次に浜綏線を、その後が図佳線というのが至極当り前の順序であったろうと思はれるのである。

 こんなことから、関東軍のなしたことが今だに理解できない。ともあれ、橋桁の落ちてしまったところへ、樺林駅を素通りした列車がフルスピードで突込んできた。

 

 水しぶきと、悲鳴を残して次々と牡丹江の水の中に突込んでいった・無蓋車や屋根の上に乗っていた人たちは、一旦水の上にはじき飛ばされたであろうと思はれる、が、恐らくそのショックで助からなかったのではあるまいか。

 それに、この辺りは水深約二十~三十米、客車、貨車が折重なって沈んだ時に窓がこわれたり、扉が開いたりしたのもあったはずで、それでなければ二度と浮き上がることはなかったであろう。それに、あの水量、水流では貨車自体も次第に下流に押し流されていったはずである・住民の話によると、何日も後になって全く不意に何十もの屍体が浮き上がってきたことがある、ということだから、沈んだ貨車等が水圧によって、何かの拍子に動いたために死体も流れ出したものである。

 私が二道月子で見た無数の屍体は、まぎれもなくこの時のものであろう。

 

中国資産椋奪

 満州パルプ工場に到着した翌日、朝から作業開始である・正確には「満州パルプ株式会社樺林工場」で偽満州国成立直後に、日本の国策事業として創業したもので、周辺の豊富な木材を利用していた。面慎二十万坪ぐらいで鉄道も引込まれ、牡丹江市からも高い煙突から吐き出される煙が望見されたものでしたが、あの苦難の逃避行を続けた「大青山」の原生林も伐採が予定されていたようです。

 

 「ソ連は、満州から、中国の国家的財産になるはずのものまで掠奪して行った。」

と、先にも述べたが、この満州パルプの工場内の全ての機器も解体(壊さないように取外す)し持去ったのです。

 私達が常識的に考えても、平和産業の一つであり、日本が敗戦した以上、その主権は、当然中国にあり、ソ連か戦利品として取るべき性質のものではないはずであるのに、約二百名の日本人捕虜が、毎日ノミと金槌だけでコンクリートを折り機器を取外すのである。

 私達が取組んだのは一辺が四米ぐらいの水槽でしたが、半月近くもかかってようやく一個取外した。ソ連兵士が絶えず監視し、少しでも手を休めるものなら、「ヤボンスー、ネーハラショー」 などと怒鳴りながら指差し、時には銃□をも突つけて威赫される。私は背が高いためか人よりも憎まれ要注意人物とされているらしい。胸に拳銃を突きつけられ、いきなり両手でバァーンと突飛ばされた。

 余り突然のことで仰向けにひっくり返り尻と頭をいやというほど打ちつけた。尚も人指指で指差しながら、さも憎にくしげに、「エッピオー スマーイ」を連発する。

 こっちだって怒り頂点に達しているものの、災いは他に及ぶために、同僚に制止され、しぶしぶ握りしめた拳を動かす。

 日本人が十人ほど、手に手にハンマーやノミを持ち、一方自動小銃を構えたソ聯兵士、一時は、剣悪な空気とはなったが、若し私が屈辱に耐えかねて手を出したとしたら、それこそ私だけでなくそれこそ大変なことになったであろう?と後でゾーツとする思いがした。

 

 この工場の隅っこ、物陰、機器の裏などには、これまた数知れない遺体があった。砲撃のためであろう、瓦礫と化した中にも手足が見える。

「オーイ、ここにもあるぞ!一

 作業の途中に再三声があがる。既に白骨化した遺体を見ても、全く気に留めないようになってしまったこの頃ではあるがこの頃私達の身の回りからも毎日のように一人また一人と死んでいった。 十一月、牡丹江は凍結し朝起きて見ると毛布の上に麻袋を掛けて寝た襟元は霜で真白になるほどどの寒さ、「人の事」なんて考えている暇なんてありはしない。自分が生き延びることで懸命、精一杯なのである。

 

 解体作業の宿舎は、満州パルプの元社員宿舎であった。そこから社丹江の河岸までは僅か五十米ぐらい、朝な夕なに河岸に出ては破壊された鉄橋を見ては手を合せた。それは、なせこんなにも多くの同胞が水に呑まれて死に、ソ聯戦車に蹂躙されて死に、長い長い逃避行の末に枯れ果てて死ななければいけないのか?その単純な疑問に悩んでいたのである。

 

 同僚と二人で□ずさんでみた。

  ここは御国を何百里

  離れて遠き満州の

  赤い夕日に照らされて

  戦友は野末の石の下

 

 樺林の解体作業で、私が意識的に。サボをしていたのには、ソ聯に対する憤懣やるかたない心のうちが少しずつ現れたにすぎない。中国兵やアメリカ兵に同じことをされたとしても腹も立たなかったはずだ。というのも、なにしろ日本人は中国人に対しては数限りない暴虐を働いてきたし、その恨みでこき使われ、多少の犠牲が出た、としてもこれはいたしかたのないことであるし、アメリカ兵にだってこの大戦中にどれだけの犠牲者を出させたことか、文字通り戦って、敗れて、捕虜になって、それならいたしかたのないこと、と諦めもつくというものである。

 

 だけど、ソ聯と日本は一体どうだって言うんだ・ポツダム条約が云々と言うけれど、八月八日に一斉に国境を越え、終戦まで僅かに一週間、わずかに抵抗はあったとしても、あたかも無人の荒野を行くが如く、これは戦争というものではない。日本の降伏は時間の問題とわかってからの参戦。漁夫の利を得るための参戦であったはずだ。損失をすることなく利を得る、正に火事場泥棒のやり方で参戦した。そして日本軍の物資を戦利品として獲得するのはまだ話はわかるが当然、中国の国家的財産となるべきはずの施設などまで根こそぎ奪っていった。このソ聯のやり方に、どうしても素直に従う気持にはなれなかったのである。

 

 樺林でも、夕刻になるとソ聯軍の大型トラックが五台、十台と到着し、翌朝には機器を積込んで出発して行った。夜には、エンジンの下に炭火を置き常時保温していた。兵士達はトラックの傍らに焚火をし、その横に毛布の防寒外套を着たままの姿でゴロリと寝ている。余程寒さに強いものと見える!。

 酷寒の季節を迎える頃、樺林での作業を終え、あの忌わしい戦場跡を通り掖河に向った。往路と違い忌わしきもの全てが雪という汚れない白いベールで覆い尽くされていた。

 

掖河収容所

 掖河収容所・この収容所は軍人だけが収容されている。東満州の各地から撤退(戦闘を放棄しての逃避)の末、殆んどの部隊が集まったのは横道月子、牡丹江市、東京城、鏡泊湖、蚊河あたりであった。

 ハルピン、古林から以東の各地に点在する収容所から牡丹江市を経由して、浜綏線で掖河から綏芬河に至りここから国境を越えソ聯の町グロデコーウからシベリヤ各地に護送されたのである。

 掖河はこのシベリヤ護送の拠点であったと同時にその部隊がシベリヤ抑留可否の撰別所でもあったのである。

 

 各地から護送されてきた部隊で特に問題のないものは、そのまま国境を越えることになる、が、問題のあるものは一旦掖河で待機して様子を見るか、或いは問題のある者だけを掖河に残す!ことがされた。問題点とされたのは病気である,それも最も恐れるのは伝染病である。

 満州では発疹チフス、腸チフス、赤痢、天然痘などの流行が激しく、天然痘については日本人が種痘を受けているため仮痘で済んでいた。その他に栄養失調、脚気、夜盲症などがあった、が、脚気、夜盲症などについては麦を食べ、小豆を食べればすぐ癒る!病気のうちには入らない・としていた。

 

 それともう一つ、軍人と民間人を最終的に区分する場所でもあった。

 こんな場所であるだけに収容者の状態は、全く想像を絶するものであった。

 犠牲者は、やはり栄養失調が主であった。死に様も哀れなら、死後もまた、これ以上の哀れさはないであろう。

 毎日、何人か何十人かが還らぬ人となる。

 朝起きると先ず、同室で死んだ人を外に担ぎ出して並べる。

 朝食が終わるとこの屍体の埋葬を行なうのである。縦横、深さともに四米ぐらいの穴を堀り、その中に屍体を放り込む、零下三十度の屋外に放置されていた屍体は固く凍っているので、「カラーン・カラーンー」と、まるで薪でも転がすような音をたてて転がる・それを「まるで沢庵漬だねー」と言はしめたように、キチーンとべていく。

 一並び終わったところで屍体が見えない程度に土か雪をかけ、またその上に屍体を並べる。

 一つの穴には少なくとも二百体ぐらいの遺体が納められている。

 が、この遺体の全てから埋葬前に衣類が剥ぎとられていたことはいうまでもない。

 

 こうして、一千とも二千ともいわれる日本人の墳墓の地と化した掖河はその翌年が大変たった。

 この屍体が臭い始めたのである。その臭気は秋まで続き、付近の住民は大変に悩まされ、地区政府もその臭気の除去と防疫に大変な労力を要したのである。

 こういう状態は、各地の収容所で多かれ少なかれ発生した事実であるが、その土地、その時の状況によってこの屍体の処理に大変な違いが生じた。

 

 ※掖河の場合、大きな穴を堀り薬剤散布することによって処置できた。

 ※阿城収容所の場合、春になったらと、いち早く予測した県政府の命令で、早春二月末(東満では零下二十度以下の酷寒)防空壕跡などに無造作に放り込まれていた屍体を、収容所の難  民を狩り出してーケ所に集め火葬にした。

 ※ハルビン、浜把園小学校の場合、小学校内の空地に穴を堀り屍体を埋葬した。中庭が一杯になった、寒くなり地面も凍り、ほんの申訳けほどに土をかけただけになった。雪解けと共に腐臭と野犬の群れに付近住民の迷惑は想像を絶するものであった。

 ※余り知られていないのに長春の難民がある。 

  これは終戦直後の各地の収容所とは全く異質のもので、終戦後一年半も経て発生した、国共内戦の峡での犠牲者なのである・死んだら死んだまま、時には解放軍の兵士がやって来て屍体を何か何処かに山積みにしたともいわれ、死者の数は三千とも四千ともいわれています。

 

 この長春市郊外での惨事について知る限りのことを書きますと、

「何故」

 と疑いたくなる節がたくさんあります。

 国境地域からの避難民ももちろん居たが、長春市に永年在住していた人達がたくさん居た。

 国境地帯と違い、そうそうに逃避できたろうーにと思われるのに、沢山の在往者が残っていた。

 

 ここ長春市は、日本の降伏と共にソ聯軍が進駐してきた。その後、国民党軍が進駐、そして東北民主聯軍、再び国民党軍の手中に、更に「?子」という悲惨な事実をも生んで東北民主聯軍(中国東北人民解放軍)と、統治者がめまぐるしく変り、全く異なる性格を持った統治者への対応に大きく戸惑った。  

 

 この最後の国民党軍支配の時期は、中国の国共内戦にとっても大きな転換期でもあり、中国人民解放軍にとっては戦術転換期であり、国民党軍はこれを境にして崩壊の一途を辿ることになった。

(比較的強大な部隊にいる地点は直接戦闘するのを避け包囲して投降を待った。その間に周囲をどんどん解放していった)

 

 長春市は、人民解放軍の戦術にとって試金石ともいえる一戦となった。郊外での散発的な小競り合いは別として、はっきりとした攻防戦は一度もなかった。それのみか、鉄条網で包囲されて全く孤立化してしまった。物資は全て空輸に頼るのみとなってしまったのである。

更に、それに追打ちをかけて一九四七年(昭和二十二年)の晩秋には長春の街の電気が消えた!この頃には、僅かに空輸によって存在を誇示している国民党正規軍以外は飢餓の極に達していた。特になんの貯えも持たない日本人は凄まじい飢餓とのだたかいに投げ出された。

 長春の街から犬の姿が消えた。(犬は人間の食糧になった)

 

「希望する日本人には、解放区へ行くための許可証を発行する」

という話が流れた。

 解放区に行けば食べ物はふんだんにあるそうな、解放区に行けば自分の希望する仕事をさしてくれるそうな、などなど良いことずくめの話を聞かされると全ての日本人が地に足がつかなくなる。次々に長春市政府に許可証の発行を求めた。

 

 長春市に張りめぐらされた鉄条網の一角に長春市からの出□があった。喜び勇んでここを出ていった。

 解放区に来たぞ。

 と思ったにちがいない、ところが、ここには鉄条網が二重に張られていた。

そしてそれぞれーケ所の門(出入□)が設けられていた。これは「チャーズ」と呼ばれ(番人がいて出入りを見張る狭い出入□のこと)長春市側で「出るだけ」再び長春市内に戻ることは絶対に許されなかった。なんのことはない、ただ日本人を長春市内から厄介払いするためだけの門であったのである。

 

 反対に解放区側の門は開かすの門であった。それでもーケ月に一回ほど開かれ、限定された数、指名された人だけが解放区へ立入ることが許された。

 このチャーズの中で、何千人もの生きている人々は、一体どんな暮しをしていたのであろうか。 柵の中であるから、例え金を持っていたとしても食糧が買えるわけではないし、話しによると、息絶えたと見るや、ウオーと寄り集まってその屍体を奪い合って食べた?とか。

 奪い取った手や足を、手に持って食いついていた?とは、身の毛もよだつ地獄絵が展開されたことだけは間違いない。

 

 この解放区側の門を警備していたのが朝鮮人の部隊であった。

「朝鮮人部隊の汚い仕打ちのために、多くの日本人が死んでいった」という噂も、案外本当かもしれない。

 本当の数字はわからないが、このこの解放区側の門を警備していたのが朝鮮人の部隊であった。

「朝鮮人部隊の汚い仕打ちのために、多くの日本人が死んでいった」という噂も、案外本当かもしれない。

 本当の数字はわからないが、この〃チャーズ〃では数千人が死んだと言われている。(六十二歳)

                                朝風7号掲載 1990.6月

   (略画、写真の省略、地名のカタカナ書きなどをしました。編者。)

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読後感想  

        福岡県 白石 文紀

 慟哭の満州(5)の牡丹江鉄橋爆破事件について感想を書かせてもらいました。

 

 満州の開拓地から命からがら、苦しい逃避行の末にやっと乗れた汽車が行き着いた先が地獄とは、関東軍(日本軍)は何と言うことをしてしまったのか、胸が痛くなる。

  自国の民を守らず、軍隊の方が先に逃げた話はよく聞くが、自分達が見捨てた民の退路を断ち、列車ごと大河の底に沈めてしまう様なことをした、こんなことを日本の軍隊がやったというのは初めて聞きました。 

 死亡者の数でも決して少なくないはずなのに、こんなことが問題にならないのは理不尽です。

  こんな形で祖国に見捨てられ殺された方々は、さぞ無念であったろうと思います。

 (それから、このような話の中で「関東軍」という言い方をよくしますが、若い人達にはこれが日本軍の一方面軍であると理解できてないことが多いので、出来ましたら注釈を付けていただきたいと思います。)

                 2013.11.02