虜(とりこ)物語

松戸市 後藤 守雄(84歳)

 捕虜の扱い方ぐらい、そこの管理する側の民族性を表すものはない。筆者は、 最初、アメリカ軍、ひきつづき蒋中央軍(当時の中国代表)間接的にはソ連。 この国ぐらい、元首スターリンの個性まるだしで暴れた国も珍しい。 振り返って日本軍は、士道に背くようなことはなかったのか? 映画『戦場に 架ける橋』は決して作り話ではなかったと信じている。 本文はこの私が、終戦直後から、復員完了するまで、中国で体験した実話である。 自分史中心に申し上げると、昭和19年の12月23日、我が家の長男誕生か ら、翌々年の昭和21年3月25日わが故郷岐阜駅に上り列車から降りた時点が背景。

 

 わが所属部隊は、終戦直前の8月1日付けで朝鮮軍の傘下に転入を命ぜられ、 先発小隊・本隊に後尾小隊と分かれ、それぞれ、長江を渡って京漢線の起点漢口より夜間走行行軍で北上を開始した。私はつい先の6月末に、武昌陸軍病院を退院したばかりで、病弱兵ばかりの後尾小隊に入っていた。

 

 昭和20年(45年)の8月15日正午の天皇の玉音放送は、この一行、誰も聞 いていない。この列車行軍は、夜が明けると停まってしまう。列車から降ろされ ると、線路に近い部落にもぐりこんで、食事を摂ったり、眠ったりしていた。 即ち大休止をしていた。今も耳にこびりついてはなれないような周辺警備の動 哨から聞いた。 「半島出身の兵士が大挙して集団脱走して日本軍の持っている食糧を盗りにく る。各隊とも持参している食材の保管には十二分に注意されたし」 「どうやら、この戦争は終わったらしい」

 

  軽いうわさ話しが耳に入るようになった8月18日の朝、河南省の省都=鄭 州駅に列車が入るや、すぐこの軍用列車から全員が降ろされ、編成を解かれた。 「各隊から命令受領者を当地の軍司令部へ差し出せ!」この街には、第十二軍 の司令部があった。 私が三年前、現役時代に所属していた軍司令部である。(この司令部には、 誰か知人の一人や二 人は居ると思います。 命令受領は、是非、私に)志願して小生が軍司令部に出 向いた。

 

 軍司令部に入門するなり、私は、先ず軍通信所を訪ねた。通信所の所長が、小生とは全くの同期同年齢の 生田(いくた)曹長であった。 早速、事情を話し、軍の参謀の許へ案内してもらった。彼には赤紙召集の経緯 を。ここで我々は正式に終戦命令をもらった。

 

 「自分達は、朝鮮軍に参加するため京城に急行中である。なんとか山海関まで くらい行けるように、軍用列車を出してもらいたい」…と二、三時間待たされた。

 

 「次の条件を呑むなら、一列車、とりあえず、山東省の済南まで出す。あとは 済南の駅に頼め 」条件とは、「開封の街で遭難した日本婦女子約百名を済南の 居留民団に引き渡してもらいたい。この列車には最後尾には小型戦車一台と小隊 長以下一個小隊の戦車兵をもつなぐ。それでよいか?」 とてもいやと断れる雰囲気ではなかった。 開封駅で列車を再編成して、我々は婦女子の車に分乗して出発を待った。この 婦女子の集団は、全員丸坊主、着衣は黒ずくめの異様な団体である。本人達は変 身したつもりでいるらしかったが、男性の目で改めて見直すと、胸の隆起と、腰 周りの丸味は隠しようもなく、むしろ、別の意昧での男の野心をそそっている。 決して我々日本軍兵士とは目を合わせないよう、伏せていた。

 

 あえて、遭難の模様は聞こうとはしなかつた。何れにしても彼女たちには連れ 合いがいたはずなのに、一組も夫婦づれは見当たらなかった。 無蓋貨車で小一週間、済南までの旅であった。 いくら水気を節しても、生理現象は停めようがない。男の兵士は、貨車と貨車 の繋ぎ目に足をかけ、まあ、馴れればなんとか放尿出来た。

 

 女性軍は、ちょっと列車が停まると、貨車から線路脇に飛び降り、男の兵士の 目が上にあるにもかかわらず、さつと黒 いズボンを降ろすなり、放尿した。 今でもあのときの真っ白な臼のようなお尻は夢に見る。 開封を発って二、三日目ごろだった。

 

 列車が徐州平原に入ったとき、前方のレールが二、三本、はずされ、機関車が 急停車して、脱線転覆を阻止した。 とはるか二、三キロ先の部落の方角から、黒い集団がこちらに迫ってきた。 同行していた戦車隊長の提案で、戦車砲を使って三発ほど、村のはずれに着弾 させた。とたんに集団は村内に消えた。

 

 同行の兵士全員が車から降りて、はずされたレールを復元して、機関車の前進 を待った。復元工事でモタモタしているうち、機関車は火を落とせない。 とうとうボイラー内の水切れとなる。今度は近くの畑の井戸を探して、リレー で水を運ぶこととなった。 バケツリレーで小半日かかった。やっと列車は走れるようになって、目的地の 済南に着いたのは9月2日深夜になった。

 

 ここで大事な預かり品を居留民団に引き渡して、我々は貨物ホームの床でねた。 三年前、昭和18年 (1943年)九月、私はこのホームから内地帰還している。 9月18日、現役満期除隊した。 この日正午の時報は、沼袋のマンションの自室の青タタミの上で聞いた。

 

 現役時代、縁の深かった済南駅の炊き出しの温かい味噌汁を腹一杯頂き9月3日早朝、津浦線を上って天津に向かった。 北へ小一里走ると黄河の鉄橋にかかる。鉄橋からIキロほど上ったところに は、私か現役時代建てた電柱がまだ健在で、朝風に、気持ちの良い唸りを挙げて いた。

 

 昭和16年(1941年)の四月から六か月かけて済南ー武定間二百キロ間八條の半 永久電柱を三千本建てた。 その健在ぶりをこの目でたしかめたときは、私は感涙にむせた。 筆者はこの9月3日昼間は、かつての現役時代の楽しかった思い出に終日浸れ た。夜半天津駅ホームヘ列車が入るなりアメリカ軍海兵隊に捕まって、いわゆる 虜(とりこ)となり、海岸の収容所に入れられた。ちょうどそこには当時として は有名な歌手渡辺ハマ子一座も居て、我々新参者をなぐさめてくれた。

 

 沖縄の戦場からもうこの天津まで米軍は転回してしてきていた。 一日三食、全く旧日本軍の仕来たり通りの食事をもらった。 10日ほど経ったところで、今度は蒋中央軍が重慶からぞくぞく降りてきて、こ の収容所も米軍から中国兵に管理は替 わった。 とたんに一日二食。しかも汁物は、飯倉の蓋に一杯を五人の日本兵は回し飲み となり、腹の皮が背中にくっつく思いを味わった。

 

余り腹がへるので、代表して炊事場へ出向き、土下座までした上残飯を鉢一杯も らったことがある。今も悔しい思いが胸につかえている。 一日二食は、中国軍の手であった。当時の中国内戦は、決戦の山場にきていた。 蒋中央軍は内部補強のため、旧日本軍の航空兵・砲兵・自動車兵・通信兵に限 り大募集をかけてきた。条件は一日三食である。

 

 この時点、私は、戦争の大義など、どうでもよかった。一日三食に嵌まって、 手を挙げた、同行者30名ぐらいはすぐ 唐山に移った。 運転手つき蒸気機関車一台が足だけで、毎日、機関車に乗って山海関までの保線をやった。 ある日のこと、この街の城壁の見える郊外で保線中、街からの連絡者を収容し た。5名中到着したのは2名。 「ヘイタイサン、タスケテクダサイ。イママチデハ、ソ連兵ガキテ、女タチヲ 小学校ニアツメ夜伽サセテ、一夜ノ労賃ハ、ニギリメシ三個。女タチハ、ソレデ 母子クラシテオリマス」

 

 私は司令部まで案内するのがせい一杯でした。このとき、軍装はモーゼル拳銃 一丁のみ、実弾六発。

(おわり)

朝風65号掲載 2003.9月