読後感想文

内地沖縄編(2)の私の戦場体験~追加がんばる戦時輸送船の8つの体験記を読んでの感想です。

 

もの凄い(他の表現が思いつかない)体験描写だ。

 

小説を読み進むのとは訳が違う。

何度も何度も同じ箇所を読み返さなければ先へ進めない。

長崎の原爆資料館で見た写真が重なる。

 

これらの体験記を手渡されたとき、最初はツラツラと目を通して、「死体、悪臭、胴体だ・・・・」などの活字が飛び込んできて、目をつむってしまった。

私には読めそうにない、気分が悪くなる、と。

 

 ・・・・が、「言葉で表現することができないほどの恐ろしさを体験して、真に平和を守り抜くことが、生き残った者の義務」の箇所に目が触れた時、最初から読み直そう、読み切ることが、私の「平和への願い」に通じることだと気づいた。

 

読み終えた。

  ・・・・平和を願う者として、壮絶な体験を通して、平和を願う方々の心を感じた。

 

                  戦争が終わって生まれた、フォークソング世代    M子

私の戦場体験記 (米軍硫黄島上陸後の攻防戦記)

七期・十七分隊 大曲 覚

 

 この半世紀の長きに亘る時の流れが、あの苛烈で悲惨な戦争を忘却の彼方に埋没させようとしている。しかしあの戦争は決して風化させてはならない。

 私は、平成の語り部として、二度と再びあのような戦争に導かれることのないよう切に祈って当時を振り返り、率直に拙文の体験記を披歴したいと思う。

 

 外気が少しヒンヤリとした、どんよりと雲の垂れこめた港町、シアトルで列車に乗せられた。MPの腕章を付けた士官が「これからサンフランシスコに向かいます。」とだけ説明をした。

 それから三日後の朝七時頃、MPがやってきて三〇分後に終着駅オークランドに着きます。下車の準備をしてください。無事に輸送を終わることが出来ました。皆さん有難う感謝します。」と言って立去った。

その後数分して、三名の黒人兵がジャップ、サレンダー、サレンダー」と叫び、はしゃぎながらやって来た。何のジョークを言って騒いでいるのかと思って彼等 を見ると、その中の一人が新聞を高々と揚げて私達に見せびらかした。”JAP UNCONDITIONAL SURRENDER"のデカデカとした横文字が目に人った。

 

 あゝ、日本は敗れたか日本は降伏したかと心の中で呟いた。車内もわりと静かであった。

収容所生活では、自由に新聞や雑誌を読むことが出来たので、ヤルタ会談やポツダム宣言、それに八月初めの新聞に間もなく日本政府が宣言を受諾し、降伏する だろうという記事も掲載されていたので、この時点ですでに状況は掴んでおり、割と冷静に受け止めることが出来たのだと思う。(歴史に「もしも」は無意味だ が、この時もし政府が速やかな決断を下していたならば、広島、長崎の悲劇は避けられていた)

 駅に降りると”JAP UNCONDITIONAL SURRENDER"の大横断幕が目に入ったが、誰一人話し合う者もいなかった。

 

 二世の下士官が、私達を自動車に乗せ港に向った。あまり大きくない波止場で達絡船のような小型の船に乗船した。空間に刻みこまれたように、紺碧のサンフランシスコ湾をひとまたぎにしているゴールデンブリッジの達景が目に入った。

 あ!あれがゴールデンブリッジか、悲惨な戦争や敗戦の悲しみを忘れさせる穏やかな景色、大きなキヤンパスに描かれた風景画を見ている気持であった。

 二世の下士官が、橋の方を指差し、橋の下に停泊しているあの赤十字のマークを付けた大きな真白い船、あれは日本の病院船だ。病院船(多分、水川丸か)に偽装して日本軍は南方戦線(比島方面)で兵士や武器、弾薬を輸送していたので米軍に拿捕されたのだと説明をした。

 

 更に声を震わせ、私は父や母から日本は武士道の国だ、武士道の精神で何事も正々堂々と行動する国民だと聞かされた。多くの二世達もそのようなことを父母 から聞かされ、そして信じ、誇りとして米兵に負けぬよう欧州戦線で戦った。仲間達の多数が傷つき、そして又戦死した。彼等がこのことを知ったらどんなにか 残念に思ったかと語った。眼前の絵葉書のような景色が一瞬私の目から消えた。「止めることが出来た戦争なら、なぜもっと早く止めなかったか」虚脱感が覆い かぶさってきた。

 船はエンジェルアイランドに着いた。

これが、私の昭和二〇年八月十五日の思い出です。

 

 マリアナ諸島から飛び立つ空飛ぶ要塞B29が日本本土爆撃に最大の障害となったのが私の赴任した硫黄島であった。硫黄島は太平洋上の陸上戦闘で、住民を巻き込まず、日米四つに組んだ唯一の戦場であった。

 硫黄島は東京、サイパン島からそれぞれ一二○○キロに位置し、東西四キロ、南北八キロ、二〇平方キロの全島火山の孤島であるが日米双方にとっても極めて重要な価値があった。

 では、米軍の硫黄島奪取は、米軍にどのような戦略的効果をもたらしたのであろうか。当時の米軍の記録に依れば、占領後マリアナ諸島から日本本土爆撃に 向ったB29のうち、被弾による損傷などで硫黄易に不時着したのは二二五一機に達した。このB29の搭乗員二四七五一名は、大平洋の藻屑とならずに済ん だ。

また、米軍の歴史を通じて、最も凄惨かつ損害の大きかった戦いの舞台ともなった。米軍がこれまで、世界で戦った戦争で敵の戦傷死者数より、自軍の戦傷死者数が多かったのは唯一この硫黄島の戦闘であったとも報じられている。

 

 日本海軍の作戦は、「水際撃滅」即ち上陸してくる米軍を波打ちぎわで、これを撃滅するという作戦であった。

 大本営より参謀が数名来島し、陸軍から栗林兵団長以下の幕僚、海軍から市丸司令官、南方諸島海軍航空隊司令兼警備隊司令井上大佐以下幕僚四名が参集して 合同作戦会議を開いたのは昭和十九年十月初めのことであった。この時私は、井上司令のカバン持ちで同席した。海軍の防備参謀浦部中佐は、中央部の意向であ ると前置きして「海軍側で兵器、資材すべてを輸送し提供します。陸軍より兵力を出して、第一飛行場の周囲に、トーチカ陣地を約三〇〇個、何重にも構築して いただきたい」と述べた。

 

 大本営から来島したN参謀は直ちに反論した。「サイパン、グアム島で、海岸砲がどれほどの‘時問を保ち得たか承りたい。マキン、タラワ島の海岸トーチカ が、どれだけ効果があったか教えて欲しい。ペリリーュウ島が持久戦に耐えた戦訓をご存知でしょう。何千機という飛行機の爆撃、何百門という艦船からの砲撃 に、正面きって応戦しようなんて話になりません。今迄の戦訓が、それを教えているのではないですか。

二五ミリ機銃をト-チカに入れて、敵艦船に対抗するなど論外です・四○センチ主砲でトーチカなど吹っ飛びますよ。海軍側にそれだけの輸送力で資材と兵器を 投入可能ならば、摺鉢山と第二飛行場元山地区、大阪山地区に陣地構築をして欲しいのです」と単刀直入に説いた。

 陸海軍双方で長時間の激論が繰り返された。最後に兵団長は「N参謀の意見に同意する」と決断を下した。

 兵団長は、あくまで水際作戦に反対の態度を堅持したが、島の陣地構築には、資材、兵器、特にダイナイト、セメントが重要であったが、それより海軍の協力 を重大なことと考えていた。後日になって、資材の半分を海軍の要求通りに水際のトーチカ陣地構築に使用し、残りの半分を陸軍の使用に任せるという折衷案を 示し、海軍側浦部参謀も納得した。

 十月から陸海軍共同で、昼夜兼行の地下壕及び迎撃用トーチカ作りが始まった。地下壕掘りの初めは、穴が小さく狭い為、一人か二人で穴掘り作業をした。 四、五〇度に昇る地熱の熱さと発散する硫黄ガスのため、せいぜい十分間程で交替する作業であったが、それでも壕内で倒れたり、這いつくばって出口までやっ と辿りつく、困難極まる作業であった。

 

 一方ジリジリと焼けつく、砂浜のトーチカの構築作業は入海戦で進めたが、これも「暑さと渇き」との戦いで、作業中掛け声や笑いを浮かべる気力もなく、血 便をたらしながらもくもくと働いた。毎日、日射病と脱水症状でバタバタと倒れ、病棟に送られる者が続出した。陸海軍の一部上層間に、あまりにも体力の消耗 が激しいので、米軍が上陸した時に戦闘不能という伏態に落ち入ってしまうのではと心配して、一時作業の中止もやむを得ずという意見が出されるほどであっ た。

 

 昼はB29の二〇か三〇機編隊による爆撃、夜間も必ずー、二回の爆撃が毎日続いた。このような伏況下で、陣地構築の作業が、米軍上陸までの約五ケ月間続いた。

 十一月下旬に入って、アメーバ赤痢と生鮮食糧の欠乏で栄養失調の患者が急増した。病棟に収容しきれなくなり、物資輸送の帰りの船を利用して、横須賀の病 院に送り返した。一月初め、横須賀の病院より、硫黄島の患着は殆ど到着後三、四日で死亡し、助かる見込みなしとという理由で今後送ることのなきよう通達が 来た。

 

 二月十一日、トーチカ構築がほゞ完了し、地下壕も、七、八割方出来上がり、紀元節の式が行われた。その直後、米機動部隊がマリアナ基地を発進北上中との報が入り「乙」配備の指令が司令部より出された。

 硫黄島の日本軍守備兵力は、陸軍一五〇〇〇名、海軍警備隊五〇〇〇名、航空隊一二○○名、設営隊その他約一〇〇〇名の約二二〇〇〇名。

 米軍は、八〇〇隻の艦船、四○○○機の航空機、海兵隊と陸軍で七〇〇〇〇名を擁したと聞いた。

 

 二月十六日、海面を埋めつくしたこの大船団は、十九日の上陸開始迄の三日間、昼夜別なく、夜間には艦船から数千発の照明弾を常時上空に打ち上げ、真昼の ような伏況にして、三〇分間に八〇〇〇発という凄まじい艦砲射撃と数千トンの爆撃を間断なく続けられた。この砲爆は半紙一枚に一弾という激しさでもうもう とした砂塵で島が夕着れのように暗くなった。

 私は壕内に伝わる砲爆撃の轟音と地響きで、この硫黄島に上陸して来るのではなく、島全体を海中に沈めに来たのかと思った。

 真暗な壕内で身も凍るような死の恐怖に連日さらされた。戦死を覚悟していたとは言え、人間は長時間にわたって、そのような覚悟をいつまでも保ち続けることが出来ず発狂する着が統出した。

 

 摺鉢山の山容は岩肌をむき出しにされ、崩れ落ちた。草木が吹き飛ばされた平坦な島が、一層真っ平に変容してしまった。

 十九日九時二分、第一陣が南海岸に上陸した。十八時から十九時頃、日本軍の隠蔽布陣の臼砲隊、砲兵隊、海軍の高角砲が一斉に火を吹いた。米軍側の記録に よれば、最も強烈で恐怖を与えた兵器は、海軍側で第二航空廠派遣隊と航空隊協同で開発した噴進砲であった。これは、爆撃用の六〇キロ、二五〇キロの爆弾を ロケット噴射させるもので、幅四〇センチ、長さ三メーター位の板でV字型の樋を作り、その中間に三脚をつけたオモチャのような簡軍な装置であった。手軽で 持運び出来、撃ち終ればすぐ壕内に入れることが出来、敵の標的とならなかった。角度を四五度にした時が約二〇〇〇メーター位爆弾を飛ばすことが出来た。

米軍は突如轟音とともに目で追うことの出来る早さで空から降り始める火の玉に度ギモを抜かれ、次の瞬間無数の弾片と強烈な爆風に、蝟集していた米兵たちはバタバタと傷死し、恐慌状態に陥った。

これは大空襲と同じような惨状に引き込んだ。体が真っ二つに折れ、首や手足が飛んだ死体がいたるところに散乱した。

 人間の肉の燃える異臭と硝煙が全島に漂っていた。

 

 三月八日、十八時、総攻撃の命を受け、一ケ月余りが過ぎ、四月に入ると日本軍の組織的な戦闘は終りを告げた。

 無指揮状態の集団と化した日本軍は、壕の奥深く隠れていた。壕内は高温と熱気で兵士等は素裸で、おもいおもいの格好で横たわっていた。時々無意味にのろのろと動く様は、人間というより動物に近かった。

 総攻撃の命令は、各中隊ごと、そして小隊ごとに、四、五ケ所の通過地点と時間を指定され、擂鉢山に向かうというものであった。

 

 私は、総攻撃の夜、西戦車隊本部壕の陣地に紛れ込んでしまい、西中佐の説得で、この部隊に合流した。

西中佐は昭和七年ロスアンゼルスのオリンピックに於いて、馬術に優勝し、金メダルを受賞した)以後西中佐が自決される最後まで行動を共にした。

 この日の総攻撃は、硫黄島守備隊全軍で出撃に出たと思っていたのが、航空隊と陸軍の一部の旅団であったことを西中佐から聞かされた。その時、西中佐が 「兵団長は総攻撃で全滅することを避け、各人あくまで生き残り、最後の最後まで抵抗するのが硫黄島の戦法だ。二〇時、兵団司令部より、旅団と南方空に総攻 撃中止の命令が出されたはずだ」と話をされた。

 私は、中隊、小隊がバラバラとなって集まった航空隊の兵約三〇〇名程を戦車隊の各中隊に分散した。

この時、追浜時代十七分隊の中村と十六分隊の吉田も紛れ込んで来た。共に健在を喜び合ったのも束の間、中村はそれから二時間後、敵弾で戦死、吉田は十一日の昼、火炎放射器の攻撃を受け戦死した。

 戦車隊での戦闘は、すでに全車両を砲爆撃とM四戦車の攻撃を受け失っていたので、M四戦車に対し、特別肉迫攻撃班を編成して戦った。その肉迫攻撃とは、明日、敵戦車が攻撃して来ると予想される地点に、三ないし四名一組として、五から八組、毎夜出撃した。

 明け方四時頃までに指定地に着き、その付近に散乱している友軍の戦死者七、八名をかき集めて、戦死者の腹を裂き、臓物を取出し、自分の上衣のボタンをは ずして、胸のあたりに押し込み、またズボンの破れた部分から押し込んだ臓物をはみ出たせて、死体群の中に入ってあたかも自分が死んでいるかのように偽装し た。

 死者のギョロッとむき出した目の視線が鋭い矢になって、皮膚を貫き、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。

その矢は幾千、幾万本にも感じられた。私は歯をくいしばって、この非人間的で残忍な行動の汚辱感と戦いながら、冷静さを失うまいと必死だった。ピユッ、ピ ユッと弾丸がかすめ、間断なく周辺に作裂する砲爆の轟音で地面が揺らぐ、風を裂いて突刺さる鉄の破片、黒煙、白煙そして砂塵が優々と立ちこむなかで、体と 並んで横たわり、じっと敵のM四戦車を待った。段々と意識が混濁して自分が生きているのか、死んでいるのか、分からなくなった。

 ふと、首筋や顔を這い廻るウジ虫で我に返り、臓物を取り出された戦死者の身が、明日の我が身か、戦死してもまだ死体となって戦闘を続けなければならぬとは・・・・「あ!これが戦争か!」と心の中で呪った。こんな作戦自体もはや末期的兆候だ。

 この決死の特攻作戦は、戦果をあげることが殆どなかった。M四戦車は八〇メートルかー〇〇メートル先から機銃掃射をしながら前進し、六〇メートル位にな ると今度は、火炎放射攻撃に移り焼き払いながら前進して来た。この攻撃で、辺り一面真黒に焼き払われてしまう。十キロの爆薬を持ってM四戦車に近寄ること など到底不可能であった。

 硫黄島には、ただ一つの川もなければ、また井戸もなかった。水は雨水以外一滴も得られない島であった。水を飲めず「渇」で何千という兵士が「水、水!」と叫びうわごとを言いながら死んでいった。

 こんな時、まわりの者が誰も水を持っていないかというと、決してそうではなかった。水の入った水筒を二つも三つも持っている者もいた。皆、自分が死ぬ時 にはせめて一口の水でも飲んで死にたいと思っていた。生きることよりも水をのむことだけが唯一の望みであり、願いであった。もし敵に壕の入口を塞がれ、三 日も四日も壕を出ることが出来なくなれば、水汲みも出来なくなる。そのため今、横で水を欲しがりながら死んで行く者に対し、一滴の水も与えることが出来な かった。

 三、四日間、水を飲むことが出来ず、頭の中が水、水と水のことで一杯になると、他人の水筒の水音がごうごうと流れ落ちる滝のようにも、又サラサラと流れ ている山合いのせせらぎにも聞こえた。兵士達は壕内を歩く時は、水筒を胸に抱えて音を立てないよう注意深くなった。水筒の水音を聞き、突然発狂して人の水 筒にしがみつき、殺し会うことも希ではなかった。負傷者は、誰もかえりみる者もなく、うんうんうなっていれば、「うるさい!」と叱り飛ばされ、時には一気 に首をしめられて殺される始来であった。

こういう光景も、自分一人生きるのが精一杯で、それをとやかく言う者はー人もいなかった。もはや敵は米軍だけではなく同僚達でもあり、更なる緊張と警戒が必要となった。

 五月に入ると、砲煙に覆われ、数万の将兵の血潮に彩られた、かっての戦場にも、小さな青い車芽が出始めた。自然は人間達の殺し合いとはまったく無関係に、忠実に時を刻み、季節を巡らせていた。

 戦闘中に米軍が捨てたり、残していった水や食糧を探し求めてさまよう兵士と出合うことがめっきりと少なくなった。何処かの壕内で死んでしまったのだろうか。

 来車の壕に対する掃討作戦は日一日と激しさを増してきた。毒ガスの量も日増しに強くなり、種類も多くなった。別の壕に移ろうとすると、壕にいる兵士等 が、どこで手に入れたのだろうか来車の自動小銃を向けて中に入れてくれない。二、三人でも壕に入ってくると、人数が多くなり、来車に発見され易くなるから だ。その時に、水筒の水を与えるか、水のある場所を教えるかすると中に入れてくれた。米兵の捨てた煙草の吸殻の火を借りるにも、水を一ロ飲ませろ、いや半 口にしてくれと交渉するありさまであった。

一ロの水とは、水を飲み、喉がゴックと鳴るまでで、半口とは、ゴックと鳴る前までとの「決まり」があった。水をもらう方は、深呼吸を何度も繰返し、準備運 動をしてから水を飲んだ。反対に水を与える方は、約束以上余分に飲まれないように、相手の喉元に耳を押しあて、聞き耳を立てて喉音をチェックした。

 水のある処を知っている兵の後をつけて行くと途中で、凄い剣幕で途い返された。一人でも多く水汲みに来られたらその分早く無くなるので、絶対に水のある 場所を知らせなかった。その貴重な水というのも、敵の砲爆で水槽が破壊され、水とは名ばかりの泥水であった。その上、米兵が一寸とした水たまりにも黄燐弾 をぶち込んで行くのでひどく苦く、時には戦死者の肉の断片が混ざって、歯に詰まることさえあった。

 五月十日頃、三月八日総攻撃に出て、戦車隊での戦闘、そして北地区銀明水辺りから、金剛岩、東海岩、日の出海岸、神山海岩と経て、やっと南方諸島海軍航 空隊本部壕に辿り着いた。我家に帰った思いであった。壕の上は既に水軍の飛行場が拡張されて、四発の大型機や小型戦闘機が並ぶ飛行場になっていたのには驚 かされた。三時間ほどかかりやっと人口を発見出来た。壕内の番兵が四、五入銃を突き付けて壕への這入を阻んだ。当然のことなので慌てず/俺は南方空の大曲 中尉だよ、一緒に連れていた兵士が更に「大曲分隊士だぞ」と叫んだ。番兵は自分では判断できないため一度壕内に消え、暫くして駆け寄って来て「南方空は三 月八日の総攻撃で既に解散した。今さら南方空の者だと言っても壕に入れることは出来ない。

これがT飛行長の命令です」と言って引返して行った。もう何処へも行くことが出来ず、人間性を失って野良犬のようになっていた我々は、壕内に向け威嚇射撃 をし、番兵を追っ払い、壕内に突入した。壕内には一三○名程いると聞き驚いた。今の時期にいくら大きい壕と言っても十四、五名でこれ程の人数のいる壕はな かった。壕内では、我々の這入を嫌がる者もいたが歓迎してくれる者も多数いたので助かった。

水部の壕だけあって、水の入ったドラム缶がまだ六、七〇本あるという。乾燥野菜、缶詰、水、乾パン、何でもあるという感じだ。水は一日一回水筒に配給、一日置きに、おにぎりーケだが飯も食べられた。

 毎日危険をおかして水や食糧漁りをしなくて済み、龍宮城でのような生活で、少し人間性を取り戻して来たような気がした。しかし、この壕でも二、三日おき に、二、三人一組をロベらしのため、斬込隊と称して壕から出した。壕の掟として一旦壕を出た者は絶対二度と壕に入れないと定めていた。壕を出される時に武 器として手榴弾二個と水筒一杯の水、乾パンを与えられた。手榴弾は自決用でもあった。

 ある時、T飛行長の一団が敵の飛行機を分捕り、内地に帰ると壕を出た。壕内の者は、斬込隊の命令で壕を出される心配がなくなったので非常に喜んだ。しか し、一時間位で壕に帰って来た。飛行長が壕に入ろうとした時、兵士の一団が入口を塞ぎ「俺等の同僚達が、貴方々の命令で斬込隊として壕を追い出される様に 出ていった彼等が壕に引返し、土下座して涙を流しながら壕に入れてくれと頼んだ時、一度壕を出た者は二度と壕に入れない、これは壕の掟だと言って彼等を追 い返したではないですか。同僚達は何処かで死んで行ったのですよ。この同僚達の為にも絶対に入れることは出来ない。この掟は貴方々自身が定めたものです よ」と泣きながら抵抗した。

 T飛行長が、外で私の名を呼ぶので近寄って行くと、兵士達は私をさえぎり、新参者の大曲中尉の出る幕ではないと怒ったが、私は武士にも情けと言うものも ある。ここは一夜だけと言うことを条件を付け、兵達も了解した。ここに至っては、翌日出て行かざるを得なく、その後の消息は誰一人として知る者はいなかっ た。

 米軍の攻撃は、朝十時頃から夕方四時半頃までと日課が決まっていた。壕に対しての最後の手段は水攻めであった。私は、壕脱出が一日遅れた為、二度も水攻 めを受けた。米軍は、水攻めの時は必ず、明日は水を壕内に入れると予告し、余裕を与えてくれた。初めての時は、兵士達はバケツリレー式で入れるぐらいに甘 く考えていた。逆にこれでたらふく水が飲めると喜んだ。しかし実際は、何と海水であった。米軍は、海岸からポンプを使いホースを繋ぎ合わせて滝のように流 し込んできたのだ。凄まじい勢いで流れ込んだ海水は小一時間程で腰の辺までになった。真っ暗な壕内は恐怖の為パニック状態になり、右往左往の大騒ぎとなっ た。

 ぶくぶくと浮かぶ死体、おびただしいゴミや汚物を掻き分け、蟻の巣伏になっている壕の中を高い所、高い所と探して逃げ惑った。海水が入ってくるのが止ま り、暫くすると、誰もが予想もしなかった事態が起った。大音響と共に壕内は火の海となった。はっきりとは判らぬが、海水の上にガソリンを流し込み、ダイナ マイトを仕掛けたのだろう。逃げ遅れて、上半身を焼かれた数十人の姿が、真赤に燃え盛る炎の中に映った。彼等の「助けてーー」という悲鳴と絶叫が壕内に響 きわたった。まさに地獄絵を見ているような凄惨な光景であった。炎の中で、もがき苦しみながら「水、水、水をくれ!助けて!」と絶叫しながら近寄ってしが みついた、その人はそのまま死んでいった。

 自分が助かることしか考えなかった私。水のーロも飲ませてあげなかった私。極限を生きのびて、この手記を書きながら戦場で死んでいった人達の怨念が容赦なく襲いかかり、その罪の深さにおののいた。

 義務だ、盡忠報国だと応召された彼等は、水を飲みたくとも水はなく、食べたくとも良糧もなく、「渇きと飢え」に耐えきれず死んでいった。

 人間性を失った人間はどれほどあさましくなるか、そしてけだもののようになった人間を見た私は、その後人間性というものをどう信じたらよいのだろうか。

 戦争は残酷だ、悲惨だ、恐ろしいと言葉で人は表現するが、そのような言葉で表現することが出来ないほどの恐ろしさを体験して、真に平和を守り抜くことが、生き残った者の義務だと切に思う。

 硫黄の臭いに覆われ、全島が聖地化した戦場も、歴史のひとこまとしてやがて忘れられてしまうのだろうか。

 硫黄島で戦死された、戦死者への負債を担いつつ生きて行くということなしに、私は今の自分の生を続けて行くことは出来ない。

 私には、「戦後」はもう訪れないかも知れない。

 最後に第四期飛行機整備予備学生の方々が手記を上梓されるに当たり、私の体験記を掲載させていただき感謝し厚くお礼を申し上げます。

平成六年九月

大曲 覚

 

 (編者附記)

 我々四期の教官をされた水谷良雄少佐は後に南方諸島空・副長兼整備長として硫覚島に赴任され、この凄惨な戦闘で、最後に摺鉢山に向けての総攻撃で戦死されました。

 心から御臭福をお祈り申し上げます。 合掌。                  

 

朝風105号掲載(2007.12月)

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読後感想文 

 

 ガダルカナル・タラワなどの米軍との攻防で行われた日本軍の斬り込み作戦ーという説明がついた多数の兵士が砂浜に転がっている写真を何度か見たことがあるが、今日はこの砂浜で果てた斬り込み兵士の死顔が不思議に安らかに見えてきた。

 

何故、安らかに見えてきたのだろうか? 

この島で果てるまでの数ヶ月がどれだけの地獄だったのかをこの体験記から教えられたからです。

 

 1.日本から物資を輸送してきた船で返された負傷兵が3・4日で死亡するので、今 後「硫黄島からの患者は助かる見込みがないので送るべからず」の通知が来た。   

(日本から遠く離れた南の島で、命を掛けて戦っているのに、せめて故郷の土に してやる優しさも無いのか。無念!)

 

 2.M4戦車に対し10Kg爆薬を持って戦死者の内蔵を自分の腹の上に乗せ、死体の 横に横たわる。(こんなことまでしていたのか?でも米軍はこんなことでは騙されない)

 

 3.米軍が地上を飛行場として使用開始、でもその下でゲリラとなって地下に隠れて いる。しかし、米軍からは壕に大量の海水を入れられ、油を入れられ火を付けられる。そして、味方からは口減らしのために壕から追い出され、自決用の手榴弾を持たされ斬り込みにー胸が苦しくなりました。

 

                 2014.01月 福岡県 白石

あの日の豊川工廠

本田 まさ子

 八月七日も朝から暑い日でした。食事当番が準備に行く時になり、皆ホッと一息ついて顔を見あわせました。これが虫の知らせでしょうか、次の瞬間、皆んなの目にか心にか、いぶかりの色がうかびました。工場のごう音の中にいながら奇妙に静かに、しずんだ冷めたい感じでした。

 其の時です。スピーカーが「全員退避」の絶叫をあげたのは。非常袋に命じられていた自分の機械の部品、スパナ、ペンチ、小型ハンマー、バイトを入れて全力疾走で防空壕に。壕に入るか入らぬうちにキーンというものすごい音、そのまま失神、どれほどの時がすぎたか、「苦しい、助けて!」の声に気がつくと、あたりはまっくら、母を友を呼ぶ声も次第にかすかに、やがてきえると、真の闇と真の静寂、時々砂の落ちるサラサラという音さえ恐ろしくなります。

 呼べど叫べど助けはこず、疲れはててしばらく恐ろしい沈黙の後、「助けて!」「おーい生きて.ぞ」の声。上の土は取りのぞかれたが身動き出来ない。私の体は胸まで埋まり、左足は天井の梁におさえられている。やっとの事で掘り出されて呆然自失、あの威容を誇った工廠が跡形もなく消えてしまっている。目に入るのは月面のようなクレータばかり。同じ壕に入っていた十三人が死に助かったのは三人、壕の二つの入口近くに爆弾が落ち、私達のいた方がわずかに離れていたために命びろいしたのです。ほんの少しずれていたら、ほんの少し奥に入っていたら死んでいたでしょう。其の日は歩けないのでおぶさって女子寮につれていかれ一夜を明かしました。

 翌日、びっこをひきひき工場跡に行きました。片付けきれなかった死体、ちぎれた手足、大きな穴の途中に顔だけ見える死体の鼻が欠けているのがなんともあわれでした。

 組長から歩けるならすぐ帰るように言われ、家へ帰りました。

 そして八月十五日、其の日の空はあくまでも澄みわたり、あれ程美しいと思った事はありませんでした。「これでゆっくりねむれる。もう逃げまわらなくてもよい」、安ど感で胸がーパイでした。

 

 朝風3号掲載(1988.7月号)

鬼畜米軍に助けられて

荒川区  本田 まさ子

 この五月、友人の病気見舞いに沖縄へ行き、半日時間がおいたので観光タクシーで戦跡めぐりをしました。話は自然に内地の戦災の話になりました。見物も終わり頃、彼がポツリポツリと語りました。

 

 彼の父は新婚三ケ月で応召、そのまま帰らぬ人となり、彼は米軍の沖縄上陸の日に生まれ、彼の母は、へその緒も切れていない彼を抱いて一族と共に防空壕にかくれました。

 食べる物は何もなく、乳など出るはずもなく、わずかに持ってきた黒砂糖を水でとかして飲ませていたが、栄養失調で死ぬばかりとわかった時、彼の母は覚悟を決めました。

ここにいても死ぬばかりだ。米軍の所へ行ってみよう。赤ちゃんくらいは助けてくれるかも。そう決心して、赤ちゃんをだいて手をあげて米軍の前に出て行ったのです。すると、思いもかけず、すぐに病院につれていかれ、ミルクも与えられ軍医が手当をしてくれました。

 

 それならと、身ぶり手ぶりで一族のかくれている所へ米兵を案内してして一族共に助かりました。

 守ってくれるはずの日本兵に多くの人々が殺され、自殺をしいられ、鬼畜と教えこまれたアメリカ軍に助けられた彼は言いました。

 日本軍がこなければ、こんなに多くの人が死ななかったろうに、日本軍なぞこなければよかったんだと。

             朝風1号掲載 1988.2月

きのこ雲~私の軍隊生活、広島在隊まで

高野 真

 昭和十三年一月十日、これは当時陸軍の定期の入隊日が決まっていた日であり、外地部隊は若干の違いはあったが、私も甲種合格、現役兵として、三島野敬重砲兵二連隊に入隊した。

 

 丁度前年七月七日、支那事変が始まり、古参兵は続々と支那大陸に出征して行った。その後の補充として、我々も間に合わせる如く、日夜猛訓練が続き、口腹日もほとんど外出も出来ないまま四月第一期の検閲となり、どうやら実戦に使える程度になる。

 

 時四月二十九日の天長節に、直ちに中支戦線に出動命令が出た。神戸港出港直前、一等兵(ニツ星)に進級、五月五日中支鎮圧に上陸、現地において尚演習訓練が続いた。

 

 私は初年兵時代、駆者(馬に乗り大砲を引く)に編入されたので、愛馬心は非常に強かった。その当時、同じ中支に三島野戦重砲三連隊より編成された、富田部隊かおり、除洲方面の作戦をやっていた。

 

 この頃「麦と兵隊」などの軍歌が流行していた事を覚えている。やがて我々部隊にも出動命令があって、八月四日夜半、揚子江上に浮かぶ、七千屯級の貨物船に、馬も車も兵隊も乗船、上流に向かって走る。

 

 初年兵の我々には、どこへ行くとも知る由もなく、途中数回、敵砲撃を受け、これに応戦しながら二大二日位で下船、そこは安慶であった。直ちに行軍体系に入り、出発。その頃私は強度のマラリヤに罹り、非常に苦しみながら、隊と行動を共にした。

 

 作戦目標は、漢口攻略戦であり、部隊は大別山を越えて敵の背後に出て、平漢線の遮断である。まず揚家洲、湖子光洲、羅山、信陽と進み、毎日雨と泥滓と、疾病との斗いである。

 

 中支の田には、稲が稔り、もうすぐ刈り取れる頃、これを踏みにじり、戦火の中で全たく収穫せず、悲惨な状況である。

 

 信陽城の攻撃が連日続き、三日位で落城となり、南下体勢に入る準備中、十月十五日、下士官候補生として下命され、内地に向け、帰還命令が出た。藤田軍曹の指揮により十五名原隊三島に帰還した。

 

 十四年四月一日より、豊橋陸軍教導学校に入校、六ケ月教育終了。伍長に任官。原隊で初年兵教育に専念、その他、士官候拙生の班長もしていた。十五年九月、干葉の砲兵学校に校附下士官として転任、専ら学生教育に。

 

 この頃より、砲兵気象を学んで、これが私の生命を取りとめた大きな要因となった事実が、後で判った次第である。

 

 昭和十九年九月十日、重大任務で広島行きが内命された。海上特殊要員とあるだけ、何も判らないまま連隊本部甲書記に、書類の内容を見せてくれ、と質したら、二男、三男で後顧の憂い無き者とあった。内心覚悟はしていたが、全く別の兵種で死ぬのはと複雑な気もした。

 

 九月十九日、東京発十時三十分の急行で、一行五名で盛大な見送りを受けながら、見るもの、話す戦友、皆んな、これが最後の別れと心に誓いながら、広島行き車中の人となった。

 

 九月二十日午前四時広島駅下車。一度も来た事のない軍部広島。大きな街はまだ眠っている様に静かで、五名がぶらぶらしていたら、各方面から同じ任務で来た下士官が、駅に数名見えた。話し合って見ると、皆同じ任務である。伍長、軍曹、曹長と各種の階級ではあるが皆⑨の特攻隊要員であった。

 

 八時頃街のようすもわからぬ間に、船舶司令部の係官に引率され、何町やらも知らぬ寺の本堂に集結し、そこで編成され、江田島と船舶練習部行きとに分けられる。何んの仕事も無く、練習部に遊ぶ事十数日、この非常時に、任務も与えられず、空白の毎日に、一同不満やる方なく過ごした。

 

 その頃戦況は、台湾沖天空中戦、及び沖縄列島に、敵は進攻作戦中であった。数日後、高野曹長は砲兵出身であるから、福山の船砲一連隊に出向せよと単身福山へ。

 

 福山船砲一に着いて、十七中隊、軍司隊、名前もおもしろいなと思っていた。中隊長軍司中尉より、高野曹長は、一週間後出発する予定の、馬郡山丸にて、摂関砲小隊長として、比島の決戦輸送に、直ちに準備する様命じた。

 

 諸事準備中、明後日乗船と日が迫った日連隊本部より電話にて連隊副官に呼ばれ、お前は何か特業があるかと聞かれ、砲兵気象習得を話した。副官は、それだ!。明早朝広島船舶司令部に行く様に、と内命され帰隊、その旨中隊長に話す。軍司中尉も、それは困る、比島行きが決定しているので、と副官は俺の命令でなく、司令部よりの命令であるので、直ちに交代者を決定せよといわれた。事務室にいた井上曹長と私と、交代したその時が、運命の別れを知る人もなかった。後日比島決戦輸送は、途中敵の魚雷攻撃を受け、二十隻の船団は悉く海中に没したのであった。

 

 丁度その頃、何故気象要員を必要であったかというと、大型船は無くなり、小型船舶で輸送を続ける事になるため、それには海上の気象変化に大きく左右されるので、事前に予測する必要があった。

 

 急に作戦命令で、気象部隊が編成された。私の名簿も人事部で発見され、気象習得という事で、福山より呼び戻されたものであった。 

 

広島気象教育隊(暁部隊)在隊

 教育隊は編成され、市内と宇品の中間位の所で、なんの建物を利用したものか、私は同隊の人事係として服務する事になり、大多忙な毎日を送る様になった。一応部隊の形は出来たが、非常に粗末な兵舎であり、又内容も入って来る兵隊、下士官、将校に至るまで、寄合世帯、精神的にも団結という点、大変だとつくづく感じた。

 

 隊長は現役少佐で、飛行機乗りの気象専門家で、将校の中にも、神戸の海洋気象台長の宇田道隆氏もいた。これ等の人々の指導で、一夜漬けでも、役立てねばと、必要に迫まられ急造された部隊であり、せっぱつまった作戦の一端も判る。

 

 折りしも、沖縄戦は、苛烈の度を増し本土の防衛は最早や一刻の猶予も許されない状況に入りつつある。我々部隊もこれに呼応する如く、茨城県那珂湊より太平洋沿岸に二十二ケ所、西は朝鮮の木浦まで、○水上特攻基地が造られ、そのーポストに将校一、下士官一、兵三計五名の気象要員の配置を完了し、太平洋沿岸の海上気象を暗号電報にて本部広島に送り、作戦行動についていた。

 

 七月中旬頃、近くの呉軍港を敵の大型空母より発進せるグラマソ艦戴機により、連日の三日間、日夜連続、延べ二四〇〇嗅による大空襲を受け、軍部広島も刻々と迫る戦火に緊迫した時に入った。

 

 呉を攻撃した爆撃哉か、広島上空に三哉進入したが、その内一哉を宇品上空で撃墜した事があったが、広島市内にはほとんど被害はなかった。

 

八月五日の原爆前夜下宿先で

 その日も夕方五時、部隊より下宿先に帰り、夕食と思う頃警戒警報発令され、食事も半分位ですぐに部隊に出向配置につき、各兵の部署の指揮をしてやがて夜に入る。

 

 部隊にある、気象暗号受信機で情報を聞く。当時は各地方の地方名を昔の名前で発表した「日向の国から安芸の国」方向に大型機○○機進入。と最初のうちはとまどったものだが次第に慣れてきた。

 

 その夜も警戒警報解除されたのは、六日午前二時頃と憶えている。下宿先でも皆起きていた。蚊に食われながら廊下に座っていた。それからE十分位、種々話しをして床に入る。静かになると、なお外の蚊の羽音が耳につく。蚊張の外は大変な蚊の大軍だ。知らぬ間に眠りについた。

 

 ここで下宿先の一家の内容をちょっと書いて置く。吉田様宅は四十六才の女主人。数年前主人に死別。その町内に借家五軒を持ち、奥さんは生花と茶道の教授とか、仲々の美人であり、ピアノで有名な和田肇さんのおばさんに当る人で、山口県出身。長女K子さん二十才、長男H君十八才、次女F子土二才は、母の実家山口県へ学童疎開していた。

 

 奥さんは六日早朝、市内の疎開した建物の片付けのため町内一戸一名づつ奉仕隊として出掛ける事になっていた。その夜も具さんは笑いながら「明朝の食事は娘にまかせてあるからよろしく」と。

 

 長男H君は夜勤で、広島市役所近くの搬送工事局に出て行っていた。私は吉田様にお世話になり、まだ一週間目だったので、家庭の様子もよく知らない時だった。

 

 この打ち解けた会話が終って、明朝ばらばらになって、死出の旅に入ろうとは、運命の神といえども知る由もなかった。

 

八月六日 悪魔の日

 連日の空襲警報下。軍民共に疲れていた。その朝も確か七時頃と思うが、娘が私を起こしにきた、「高野さん、又敵機らしいですよ」。吃驚りした様に起きあがりながら、毎日の日課のようにも思いながら、急いで着替えている頃、警戒警報が発令された。廊下に出てガラス戸に貼ってある十字や×字のテープの間から上空を見た時、高度七千位いのB29に間違いなし。夏の朝の太陽にきらっと白く光って見えた。

 

 奥さんはもう町へ出た後だった。床もそのまゝにして、朝食もそこそこに部隊に向かって飛び出した。下宿より部隊まで徒歩で十五~二十分位で行けた。部隊到着直前に警戒警報は解除された。

 

八時十五分、きの子雲の下の苦しみ

 空は雲一つなべ、快晴である。今日も暑そうだ。夏の太陽は燦々と照り付ける。

部隊は八時に朝礼で営庭に出る。私は公用で比治山にある船舶砲兵団司令部に行く事になっていたので、望月見習士官と同行中だった。

 

 八時十五分、一瞬目も眩むような閃光、あっと思った瞬間、思わず左後方上空を見た私の目に、黄色とも澄色ともいえない火の玉を見た。

左の顔面に 熱い! と手をやった時、暖かい風に吹き上げられ、身体が浮き上って、右前方に走る様にのけぞり倒れた。その距離は五・六メートルはあるだろう。

 

 そこまでは覚えていた。その後何分泣か不明だが、我れに返った時は、右腕の白いシャツの袖が血で真赤に染っていた。びっくりしてさぐって見たが、痛みもない。気付いた時はそばにいた少尉の頭からの出血であり、私の負傷は右手の指をガラスの破片で少し切った程度のものだった。左のほゝは赤く浅い火傷で、ヒリヒリする。やがてー皮むけたが、今はなんでもない。部隊にとび帰ったが、大混乱であり、直ぐに負傷兵の救出に。

 

  兵舎は爆風で右方に倒れ、左の炊事の建物が右に倒れ、その近くにいた兵十数名が下敷きになって重軽傷を負った。

 

 部隊の人事係である私は、その負傷者を連れて、部隊の決まっている医療機関であるア隊に、歩行も困難な兵を激励しながら着いて見ると、意外に我々の部隊同様、被害甚大で多数の重傷者もいる様子である。

 

 軍医も片手を骨折し、首から縄で吊り、激痛にたえながら衛生兵を指揮したり、負傷者の治療に懸命であった。だが肝心の医療器具及び薬剤等が破損のため、この補給のみちさえもつかず、ほんの応急処置である。順番を待つ負傷者は横になり、又はうずくまり、ただ太陽だけが照りつけ、物影を探しながら、右に左にさまよい歩く者、地のくぼみ、倒れた建物の蔭を求めて、治療も忘れたように苦しみ、ただぼう然としている。

 

 その時、中天高くきの予震が、手を出せば届く様に、もくもくと立昇っていた。段々高く無風状態のように見える。

 

 私の連行した兵数名中、二名が行方不明となり、私も時々左ほゝに手をやる、触れるとなお痛む。

 

だが負傷兵の掌握に懸命である。先の二名はとうとう発見できず心配していたが、後日判ったが似島に運ばれ、治療していた事を捜しあてゝほっとした。

 

 部隊に帰り、太古少尉が部隊内の営外居住者の家庭を巡回してくれ、被害の状況を見た結果、私に、「君の下宿先は大変だ。奥さんは全身火傷で重傷だ。娘さん一人で一生懸命介抱しているが、君も部隊が一段落したら、早急に行って、介抱してやってくれ」といった。

 

 私が下宿先へ走ったのは、十一時頃だと思う、その時刻に御幸橋附近を宇品方向に向かって表通りに出た時、電車通りは避難の人で、あの広い通りが負傷者で、市内より郊外へと、あてもなく小走りに、又は人に背負われ、あるいは手を引かれ、車でござの上の人は最早息絶えたらしい老人。

 

 それ等の人々が、一様に顔は男女の区別もつかない程真黒く、お化け同様、着衣は血まみれとなり、全部爆風で脱がされ、ことごとく上半身裸、血まみれの着衣は身体にはり付いた人、両腕にぶらさがっているものは着衣ではなく皮膚なのである。思わず目をそむける場面ばかりだが、この人々はまだ元気な人であった。

 

 爆心近くから歩いて、こゝまで来た人々、やがて時間が過つに従って、道路端や、物蔭にうずくまり、倒れて行く人は数え切れない様になってきた。

 

 私が下宿先へ着いてみると、奥さんは防空壕入口で倒れ側に娘さんがおろおろとして異様な悪臭がしていたので、娘に尋ねると「火傷には便所の水が良い」といわれたので今、母さんの身体につけた。

 

私は奥さんの身体を見た。背中、顔、両足、両腕全部火傷、腰部のみ巾の狭い帯の下だけが火傷を免れた。

 

 美人の奥さんの顔はあの時以来、思い出すことは、今でもどうしても出来ない。火傷の黒い顔だけが残っている。

 

 この日から下宿先の悲劇は始まった。苦しい大火傷にあえぎながら「私はどうなってもかまわないから、長男のH雄の安否を願います」私の顔を見ると必ずその言葉が出る。私は急ぎH雄さんの勤める電話局に行って見た。市役所の隣りで電話交換手をしていたが、半分鉄パイプ製の丈夫な椅子に腰かけていたがために、爆風で屋根が落ち、そのまゝ圧死していた。引き出そうとしたが、屋根の重みでどうしようもない。間もなく後方より猛火が追ってくる。既に焼死体になっていた。私が発見した時は二名同じ場所にいて、火の中で見届け、帰路市役所裏の池を見て又驚いた。池の形の通りに、火傷した人々が、水を求めて水辺に顔を入れて死んでいた。外に入れるすき間も無い位だ。市役所前の広場には多数の負傷者が「今晩は皆眠るなよ眠ると死ぬぞ」と、男の人が声を大にして注意していた。その人も焦く大火傷していた。

 

 下宿に帰り、H君の真実を奥さんに話したら危険と思い、適当に話しをしておき、内心実に苦しい思いをした。娘に話しをしたら、覚悟をしていたものゝ一瞬血の気を失った様だった。悪夢が現実となってしまったのである。

 

 隣りの山中さんに相談して、山中さんと娘と三名でH君の遺体を取りに浴衣を一枚とゴザを持ってリヤカーを引いて現場へ行く前に、死体集結場所を見せて、惨状の大なるを見て、H君の遺体に近づいたがよい、とわざわざ遠回りをして、死体の累々と重なっている場所を通り、無言のまゝH君の遺体の場所に着いた。

 

 私が更に驚いた事には、同年令位いの二遺体は、焼き過ぎた魚の如くになっていた。両名とも今朝元気な姿で出て行ったH君とは、信じられない。何か間違いであって欲しいと思うくらいであった。

 一つは顔と胴体、一つは頭も手足も無く、胴体だけだった。後で種々話題が出たけれども、その時は必然的に顔のある方がH君に決めて、浴衣を着せ、リヤカーに乗せて、山中さんと娘で引いて帰した。

 

 その後私は、昨日入院した下士官の安否を捜して陸軍病院に向かったが、現場を見て、全く見当もつかない、全員死亡しておりその姿は前に述べた通りで、ぼつぼつ収容が始まっていたが、まだ火勢は強く、どうする事も出来なかった。だが捜さなければ遺族に済まないと、昨日入院した部屋の焼け跡の、土間の土を封筒に入れて帰りかける。山中さんと娘がこっちへもどってくる。「どうしたか」と、尋ねると「弟は金歯を入れてはいない。この人は前歯に金歯が入れてある」。との言葉に、それは間違いだと、もと場所まで行き、胴体だけの遺体の確認を急いだ、胴体の腰部に鍵を発見し、その鍵がH君所持の物であることで、確認をして引き替えて帰る。裏の畑で焼きなおして遺骨とした。奥さんには知さずに仏壇に入れて置いた。

 

 奥さんの方は、毎日背中の広い火傷のガーゼの貼りかえ全市停電でローソクも無く、油ならなんでも火をつけ、灯火に利用し、夜の医療だったが、日増しに息くなってゆくのはどうすることも出来なかった。

 

 私は日中は部隊と市内とで、救援作業に忙しく、夜も十時か十二時の帰宅が多かった。一週間位は着のみ、着のまゝであった。夜下宿へ帰ると、隣組班の方々が治療を待っていた。近くの防空壕の中を捜したり、出来るだけ治療に歩いたが、傷は一向に治る方にはむかなかった。その時一緒に治療に当ってくれた、部隊の下士官兵も、実に良くやってくれた。 

 

 終戦と奥さんの死

 八月十五日がきた。早朝より正午の放送のある事を知らされ、救援の手も力の抜けた様な状態になって来た。病床に伏す奥さんも終戦を知った。「残念な事だが遅かった」の一言が今でも耳に残っています。

 

 十七日夜奥さんは急変した。練習部に各地から応援に来た軍医を頼んで診断してもらったが、結果は、私を戸外に呼び出し、奥さんは明朝か、昼頃は駄目だといわれた。被爆後奥さんには、部隊より衛生兵を頼んで、毎日ブドー糖と、カンフル注射を続け、今日まで命を、又苦しみを引き伸ばしただけかと、愕然としながら、夜は明けた。

 

 早朝から今までより苦しみは激しくなったが、その日のタ方不帰の人となった。

 H君の死も知らずに…………

 八月十八日午後五時頃だった。 

 

救護活動に入る

 当日午後三時時頃、司令部より命令で、我々教育隊にも、負傷者以外の可動人員は、全員市内の救援に出動すべしとの命令が来た。

 

 主として、市内中心部孤塁町、八丁堀付近にと、直ちに三ケ班編成。憲兵隊司令官の指揮下に入る。

 

私は各班の連絡任務と、班員の食糧及交代用具にかけ廻った。負傷者の多くは「兵隊さん水を下さい」「水をください」と哀願するのみ、中には大声で「水位いけちけちするな」と、どなる人、立ち上がる気力も無いまま静かになったら息を引き取った。

班員は自分も直接被爆しながら、救援作業に繰り出されたが、余りにも眼前の悲惨さに、我を忘れて夢中で救援作業に服し、実に良く働いた。

 

 毎日猛火と照り続く太陽の下で、腹は減れど食欲はなく、三度の食事も忘れがちで、救援作業は毎夜半まで続いた。

 

夜半に気温の下がる頃一服し、その場にゴロ寝の事もあった。三日目頃から救援隊の中にも、疲労の邑が見えはじめ、落伍する兵も出て来た。

 

 下痢、腹痛、吐き気を訴える者等、諸症状を発見し、その頃仁科博士が広島で放射能の検査をした事を知った。

 

 放射能とは何か、それまで我々にはほとんど無縁のもののようなもので、今さらながら、あの時の事をふりかえって、無謀としか思えないし、又知らなかったので、救援作業も出来たのであろう。

 

 大きな戦争が続けられているのも忘れて、当面の救援にたゞ夢中であった。 救援は三日頃より遺体の収容に入いる。

 

死体収容 

 三日日頃より遺体の収容に入いる。死体も真夏の太陽下で、相当痛み始めていた。だが大きな火傷を負った人々は収容先で、その後一週間位で九十%は死んで行った。

 

 各川に浮流している水死体の収容は、川岸に近い所では色々な方法で引き寄せ、集めたが、手の届かない所では、流れている死体が多く、あらゆる舟などを使用して収容され、相生橋東詰原爆ドーム下、元安川に浮流している死体。

 

 この川はおびたゞしい水死体であった。こゝの死体は潮の上下が非常にはげしく、この付近は軍人の焼死体も多く見られた。爆風で川へ飛ばされたのか、熱さに耐えられず川へ避難し、そのまゝ水死した者か、猛火に逃げ場を失い川へ飛び込んだと想像される。

 

 皆ぶくぶくふくれ鼻から泡を吹いていた。水に漬った死体は、皮膚がすっかりふやけて変色していた。強くひっぱると皮がツルリとむけたり、やがて陸上での焼死体も腐敗しはじめた。同じようにツルツルと手のつけ様もなく、最初は全員気持悪く、数を扱ううちになれてきて平気でやった。救援作業から死体収容まで、我が隊も約一週間出動したが、兵隊はたゞ黙々と良くやった。今でも救いの神の姿と思い出し、頭のさがる思いは私だけではなかったろう。

 

 今度どこかで、もし原爆投下があった場合、放射能の真只中に世界人類で一人でも救援に入る者があるだろうか。とつくづく思っている。

 

火葬始まる

 各救援隊は、死体を収容しちょっとした広場があればそこへ。集積場と変ってゆく。

 作業前の計画も何もない、集まった死体をあゝしよう、こうしようといっているうちに、死体はだんだん悪臭を発し、一時の間も処置の手間どるを許されない。誰の命ずるやも知れぬ間に、あちこちよりその場の命令で火葬が始まった。

 

 十、二十名くらい一緒に、地面に穴を堀り、壊れた家屋の木材を積み、その上に遺体をのせ燃やしている間、次々と準備してゆく。何処の誰やら不明のまゝ、火葬された。

焼き終った場所には、骨と灰を取り集め、何町付近の人々と立札をして置いたが、我々が広島を離れる頃もまだ沢山の骨灰は、雨ざらしのまゝであった。

 

二次放射線

 救護班の兵隊は、作業中にも発見されたが、全員下痢症状があった。当初は、これは暑さ負けとか、日射病とかいっていたが、多かれ少なかれ、一次二次の放射能の影響があったものと思われる。

 

 やがて広島より離れて、各々郷里に帰った兵隊の、その後の諸話を総合してみて、一様に四・五年位いの間に、種々症状が起きている事は、私達が会をつくって、初めて判明したもので、その頃政府の補償もなく、医療補助もされず、判らないまゝ何年か苦しんでいたものだ。

やっと手張交付になった頃は、重傷者はほとんど死に直面していた。我々富士地区にも数名の人が鬼籍に入っている。

 

 年月を経るに従って放射能の恐ろしさがはっきりして来た。

昭和四十九年十月、当時別れ別れになった部隊の人たちと、戦友会が初めて東京で開かれ、住所の判明した者同志が集まり、話題はやはり原爆の思い出と、健康状況の良否だった。

 

 なかには数名の死亡者も判明してきた。病名も判らず、苦しみ続けた戦友が次々に語る原爆の後遺症はみな同じであった。

 

 未だ手帳交付を受けずにいた人も数名いたが、知らずにいた者はほとんどなく、全部の者が、世間に知られたくない、又は子供が結婚するまでは……と、の理由が多かった。

 

 誰にも話さずに、一人苦しみ続ける被爆者、昨年も広島で戦友会があり、その後手帳交付の証明を私と望月氏と一一名で、六名の証明をした。

 

朝風1号掲載 1988.2月

戦時中の病院勤務

西那須野町 福田 ミチ

 戦中は、女子と言えどものんびり家に居るわけには参りません。徴用がきて、軍事工場で強制的に働かねば成らない時代でした。姉のすすめで石橋病院へ見習看護婦として勤務することになりました。その頃は、すでにお米も配給、衣類も切符になり、大変な生活を強いられておりました。

 

 病院とて同様、食事は配給だけですから少いけれど、皆平等に食べられるはずなのですが、食堂に行きますと、そうではありませんでした。

 農家の親ごさんは娘可愛いさに、賄のおばさんにお米やお芋、野菜等をつけとどけしておきますので、その人達の御飯は大盛で、お菜も多く、魚は身の沢山ついているところが配ぜんされるのです。私は頭のそばとか尾のところばかりでした。町に住む者は、とどける物が無いのです。悲しかった。

 「頭をだされたら人のかしらになれ、しっぽをだされたら人の舵をとれと教えてくれてるのだと思って食べなさい」と言って聞かせてくれた祖母を思いだし、我慢をしたものです。

 

 勤務が終ると、六時から十時まで、看護学の講義、そのあと夜中、二時三時まで自習、外来の診察室の掃除を済ませて寝るので、毎日の睡眠時間は三、四時間でした。寝すぎて掃除に遅れると正看にいじ悪されるのが辛かったのです。

 

 空腹を満たすため、夕方早目に町に出て、駄菓子屋に売っているふかし芋を一皿買い、かくす様にバックにクに入れて持ち帰り、病院裏の桐林の陰で、そっと食べたものです。その時の美味しかったお芋の味は今でも忘れません。

 患者さんに頂いた玉子を食べずに家に持って帰ったこともございます。たまたま休暇で帰るため駅のホームで待っておりますと、臨時列車がノンストップで走り抜けて行きました。車中には白衣の勇士が乗っており、九輛も十輛も連ねて通り過ぎました。

 

 その数日後、東京の大空襲があったのです。空中戦も見ました。まるで鷲にスズメが向っていく様な戦です。B二九の速さにはとても追いつきません。暫らく眺めておりますと、日の丸の翼をひらひちとひるがえして、友軍機が落ちていくのです。夜空に照明弾が落され、円を画く様にゆらゆらと暗闇を照らし、そのあと真赤な炎が地上から空に向って吹き上る様子は、中国攻略のニュース映画の如く目に映りました。

 

 次々と東京方面から逃げて来る人の群、列車のデ。キや屋根の上にびっしり張りついている人、人、人……

 怪我人が病院に運ばれてきました。顔は炎であぶられ、二倍にも腫れ上り、目はふさがり、複いていたゴム長靴は上だけで底は焼けとろけ、睡の骨が白く露出している状態でした。その方は二日程で亡くなりました。

 

 私はこれを機に従軍看護婦を志願したのです。

 

 戦争はむごい、絶対してはいけないのです。

 

 朝風2号掲載 1988.5月

私たち親子の戦時

沼津市 ハ代 美栄子

 昭和十九年の暮から二十年の一月頃、戦況も末期、雪が時々降って東京は寒い日が続いた。当時暖房は火鉢と僅かの炭火しかなく、うちでは火鉢は幼児に危ぶないので猫ゴタツ(陶器の黒い小さいコタツ)にふとんを掛ける程度であった。幼児二人は綿入れの着物風洋服に胸あてのついだ暖いズボンをはかせて、着たきりスズメで夜もねかせた。というのも、その頃は毎夜三度位空襲警報発令で、殆んど安眠など出来ず、ひる間恙亦、幾度となく、防空壕を出たり入ったりしていた。

 

 そんな状況にも拘らず、日本の東京の空から爆弾やしょうい弾など落ちるわけがない、我が国の軍隊の守備と偉力を心底から、まだ信じ切っていたのである。何たる無知。そして神国日本教育の恐ろしさ。

 

 然し三月、下町が壊滅、ラジオも新聞もと絶え、一週間位たって初めて真相、惨状を知ったのである。そして四月末赤坂の家、強制疎開、五月新宿で罹災となる。

 

 雪に降り込められた赤坂の冬、お米の遅配が二週間も続き、闇のルートを知らぬ私共は、ほとほと困った。附近に食料と名のつくもの、店は何もない。思い余って知人にSOSの電話をして、食料の購入を依頼した。しんしんと雪の降る夕方、知人の奥様が小麦粉を背負って都電でかけつけて下さった。丁度その頃配達の牛乳屋に心付けして、牛乳を可能な限り入れて欲しいと頼んだ。一日一本との制限を解いて、五本入れてくれた上、バターとチーズをも入手出来た。かくてその日の夕方は栄養高い食事を子供達に与え得た。野菜の配給は時々あり大根二本位。一本は雪をかきわけて土に埋めておく。その他、固い馬肉一切れ。タイピストのOさんが、お葱だけ煮ても、おいしいわよといって、葱をおすそ分け下さる。肉なし葱鍋は子供達も喰べる。

 

 裏通りの住宅に、大会社の重役がおられて、ねり石鹸があるけれど、と奥さんに言われ、ドラム缶一杯買い、それを左隣の会社の課長さんの依頼で炭一俵と交換し、暖房と煮炊きに使った。都市ガスは制限されて、昼間途中で止まり、未明に起きて煮炊きをする家が多く、結局いつでも半煮えか、おかゆになる。

 

 薪の配給は全然ない為、下駄箱をこわして燃したり、借家の羽目板など皆、むしって燃していると近所の女中さんに聞いて、たまげた。

 

 風呂は勿論湧かせない。浴場も休業。昼間釜でお湯を湧かし、台所の土間で行水。大急ぎで子供二人を次々洗い、着換えさせてコタツに入れる。最後に自分は拭くだけ。よくまあ風邪も引かず、又子供達の泣く声は一度もなかった。三才七ケ月と、一才ニケ月の二人は仲よく遊んでいた。

 

 去年の師走、四十二年振りで逢った二十才のタイピストが私の子供二人と暇をみては遊んでくれて長女はよく歌い、ご本を読んでとせがみ、毎日楽しかったわねと、思い出を語った程、明かるい、ひとときもあった。私は夜十二時頃迄、灯を遮蔽して毎晩殆んど急ぎの書類をタイプに打って明朝の現金収入にしていたから、子供二人はタイプの音が子守唄らしく、母を確認して安眠していた。空襲警報で起こす時も「しっかり、しっかり、アンヨ、アソヨ」といって手を引くと、泣かずにコックリした。子供心に緊張したのだろう。

 

 それが、どんなに懇命な努力であったか如実に知ったのは、戦後二年位たって沼津で初めて狩野川花火大会を催した時、作裂する花火の音に、五才半の子が大声で、恐いといって祖母にしがみついて泣いた事である。「空襲じゃないのよ、あれは花火よ」といって抱きしめたが、あの東京空襲の時、一声も出さず、泣かず、黙々と逃げた子は、極度の緊張で恐さに耐えていたのだ。生死をかけた親の必死の姿勢が子供心にも伝わったのであろう。人間生まれ、生きるという事は、何と深渕をも通過する事か。

 

朝風2号 1988.5月

風船爆弾(2)

金沢市 福岡 重勝

 昭和19年9月千葉県東部76部隊に応召した。この部隊は砲兵科に属する「気球連隊」との事であった。

 

 昭和15年から3年間の軍隊生活を北支派遣軍の歩兵砲中隊の精鋭と自負し討伐に明け暮れ、18年現役満期除隊となった私には内地にこんな部隊がある事を初めて知った。  この部隊は将校、下士官、兵に至るまで殆どが召集兵であり徴集年次も昭和2年兵(39才)~16年兵(25才)までいろいろ、又兵科も歩、砲、騎と種々雑多であり、出身地は東北、関東、北信越が多く古年兵の中にはーツ星もいた。

 

 入隊後の教育訓練によりこの部隊は極秘の「ふ号作戦」即ち「風船爆弾」の放球部隊と教えられた。

 

 ここで「風船爆弾」の概略を説明しておこう。

 この爆弾の放球場所は福島県勿来地区、千葉県一ノ官海岸、茨城県大津地区の一帯であった。

 一宮基地は風が強いので直径高さ共に20メートルの防風壁を建てた、勿来、大津は周囲を小高い山に囲まれているので天然の風除けとなり又秘密を保つ上でも絶好の場所でもあった。

 

 気球の直径は10メートル、こんにやく糊で和紙を幾枚も貼り合わせた、いわゆる紙風船だ。

 奇抜と云うか奇想天外と云ぅのか日本人の考えそうな事である。水素ガスの充満により浮揚させる。

 

 この気球から吊り下げられた10本の麻ロープの元には「高度保持装置」と称する精密電気機器が装備されていた。これは陸軍登戸研究所が2年の歳月を費やして研究考案したものである。

 

 昨秋から冬にかけて太平洋上8千~1万メートルの亜成層圏は最大秒速70メートルの偏西風が吹き荒れていると云う、薄暮から払暁の無風時を選んで気球をこのジェット気流に乗せアメリカ大陸まで飛行させる。途中気象の変化或いは水素ガスの漏洩で気球が下降すれば装置が感知して備え付けの砂袋が落下しその軽みにより再び上昇し飛行を続ける。

 

 50~70時間でアメリカ本土上空に達し、搭載の12キロ爆弾が投下され同時に気球及び装置は自動的に燃焼炎上し証拠は一切残らないと云う仕掛けである。

 

 第2次大戦中に日本本土からアメリカ本土に向けて超長距離爆撃を敢行したのはこの部隊だけであり、世界史にも珍しい事実として記録されているようである。

 

 爆弾を風船にし搭載して1万キロもあるアメリカに果たして飛ぶのだろうか我々も半信半擬だった。しかし9千個の打ち上げに対し3百個が到達しその被害は僅少と間いているが、爆弾落下地区の住民にしてみれば、何処からどのようにして爆弾が落ちてきたのか驚きでもあり戦々恐々でもあろう。このよぅな心理的効果を狙ぅたものと思われる。

 

それにしても風船爆弾打ち上げ初日の記念すべき日(19年11月3日)誤操作により爆発事故があり3名の尊い犠牲者が出たことは忘れることはできない。勿論戦死として葬られたが心から冥福を祈りたい。

 

 この部隊は大本営直属部隊であり12月には天皇陛下が侍従武官を差し遣わされ状況をつぶさに巡視された。又支給された兵器や被服類はすべて新しいものばかり、特に冬軍衣袴は物資不足の折りにも拘わらず贅沢な羅紗製一装用であった。

                             完

朝風5号掲載 1989.5月

風船爆弾
風船爆弾

がんばる戦時輸送船

平塚市 梶山   登

 

甲板員になり輸送船に乗る

 

 タンカーアカツキ丸の会社から又船に乗らないかと手紙が来たが、会社が神戸なのでことわりの手紙を出す。一ケ月がすぎた。家に居てもどうにもならないので、横浜海員紹介所に行く。

 

 所員が、どこの会社にするかと聞いたので、さて、どこにしようかと考えていると、正面の壁に大きな海図が掛けてあった。その海図に東洋汽船株式会社と出ていたので、所員に東洋汽船にと言ったら、チョット待ってくれとの事。待つ事数+分、身体検査に行ってくれというので、指定病院に行く。心中心配だったが検査合格。安定所に見せると所員が、会社に行ってくれと言うので、東洋汽船はどこですかと場所を聞いたら、東京丸の内だという。

 

 私は東京は一度も行った事がない。東京駅の前の東京海上ビル内と聞いて、何とかなるだろうと思いながら電車に乗った。

 

 東京駅に着いたが、出口がわからないので駅員に丸の内はどこかと尋ねたら、心よく教えてくれた。外に出たが海上ビルが分らない。又尋ねた。やっと海上ビルにたどり着いた。ビルに入ったら今度は船会社が何処かわからない。又尋ねる。やっとの思いで会社に着いた。昭和十五年、十五歳の夏だった。

 

 会社に着いて乗船に付いての書類を受付けの人に渡す。一時間ぐらい待っていたら、家の方に電報をうちますので、見廻り品を持ち会社に来て下さいとの事だ。

 

 家に帰る。一ケ月たらずで会社からすぐ出向くようにとの電報が来た。家を出る時、母親が淋しそうだった。四人兄弟の末だから仕方がない。又家に居ては今とちがって生活が大変だ。

 

 会社に着いて船員係に会って行先、船名、又旅費手当を受取り神戸支店に向う。今度は甲板員見習として乗船する事になった。まさか、此の会社に見習から操舵手まで勤めるとは。

 

 神戸に朝早々着いた。海岸通りまで電車で行く。支店の正面出入口で、一時間余り侍った。夜行で疲れていた。用務員の人がトビラを開けてくれたのでビルの内に人った。朝八時、社の人が出て来たので、乗船地はどこですかと間いたら、広島に行ってくれとの事、すぐ旅費を受取り広島に向う。広島出張所に着いて船の所在を間く。船は「輸送司令部」のある宇品港に泊っているとの事で社員と同行した。港の入口に衛兵が立番していたのにはおどろいた。おじぎをして通る。通船にて沖に居る「福洋丸」に乗る。

 

 一等航海士に会い甲板長に引き会わされ船室に行く。甲板部は船首だった。大室だ。食堂及寝室であり私のベットがきまり毛布をもらう。身廻り晶をかたずけ仕事を始める。

 

 船は古い大正八年製で、五千四百トンの貨物輸送船だ。戦争前はアメリカに行ったそうだ。タンカーは新船だったが、赤錆が多いのにはおどろいた。甲板長と船内各室によろしくと挨拶廻り、終って夕食用意、午後四時に終る。夜は電気がつかない。石炭節約のためランプを使用した。何だかいそがしい内に一日が完る。甲板長が明日パーサーと海運局に行くようにと云う。雇入れましたと船員手帳に海運局印が無いと働けないのだ。夜十時ベットに入る。

五時起床、食堂の清掃を完ってデッキに出て空を見上げたら少し夜が明けてきた。朝食の用意、食器を調理場に運ぶ。甲板員十名臨時船員五名計十五名分の食事用意が出来たので、皆を起す。操舵手はブリッヂで、当直にはミソ汁を別にしておく。舵手は陸上の役付きで、そまつに出来ない。

 

 船員生活は上下の関係がきびしい。それでないと仕事にならない。食事完ってかたずけ、パーサーと海運局に行き、日用品を買い正午帰船、今日から甲板員又軍属になったのだ。

 

 仕事は食事用意とセーラの仕事、目が廻る忙しさだ。乗船して十日目、新潟に向け出港、空船である。内海は波もおだやかで気持ちが良い。門司にて船用石炭を積んだ。日本海は波が高い。気分がわるいが仕事はつづく。スピードは八ノット、三日かかって新潟に着く。

 

 上陸、買物して夜帰船、朝陸兵を乗せ出港、朝鮮ラシンに行く。陸兵を下し、今度は大阪に向う。

 

 まだ日中戦争だったので気がらくだったが軍命で上陸も出来ない事が多くなった。中国大陸へ自動車や馬をよく運んだ。カラフトに材木、北海道に石炭を積取りに行き、東京で下す。平塚の家に帰れたので、気持ちもらくになった。

 

 半年がすぎ見習も終り、セラーになった。一等運転士が藤沢の人だったので何かと助かった。受けもよかった。岡山県玉野でドック入り。仕事もおぼえ気分もラクになって来た。ドックを出て宇品にもどり待機命令。今度はタイワンに向け出港、航海中甲板長がハッチの上のキャンバスに日の丸を書き出した。何だかおかしかった。

 

 明日はタカオ入港、入港用意をしていたら、エンジンのボルトが取れた。これでは航海出来ないと、機関員が言っていた。船は内地に向け航海しだした。ドック入りだ。スピードも出ない。ドックに十日居た。

 宇品在泊、上陸を許され全員ニコニコだった。広島の町に行ったら海軍兵が多い。おかしな事もあると思っていた。命令が出て、急ぎ船体を平時の色に塗りかえよとの事、三日かかった。私は社船にもどるのかと内心うれしくなった。長いこと家にも帰っていない。手紙は出せない。

 

 塗り終ったら大連に向け出港、大連は雪だった。入港と同時に今度はネズミ色に塗りかえよとの事、寒さ身にしみた。塗り終ったらその日は十二月八日だった。

 

 朝方船長より日米開戦の話がなされた。私達は今度は敵が米英では大変な事になると話し合った。

 ただ無事で日本に帰れる事を祈った。満州の陸兵が乗って来た。軍服は全員夏服だった。どこに行かれるのですかと聞いたら日本に帰るのだろうと言っておられたが、出向け地は何も出ていない。

 

 陸兵が乗船したので雪の大連を出港した。

乗船部隊は自動車隊及高射砲隊、船は無防備のために高射砲をハッチの上にすえた。どこに行くのやら、ただ走るだけだ。

 

「福洋丸」やられる

 大連を出港して甲板長より本船は馬公に向っているとのこと、甲板員と兵隊で潜水艦見張りの毎日だ。

 私も二等甲板貝になった。本給も二十五円から三十五円になり又五十五円となった。航海手当など入れるとたいした金になった。

 それより嬉しいのは私の下に見習が居る事だ。少しはらくになったが、命の方はいつ無くなるか、それを思うと良い仕事ではない。しかし後には引けない。

 

 船には護衛艦が付いてくれた。大連を出て三日目に馬公に入港した。入港して驚いた。輸送船と軍艦でいっぱいだ。沖で泊りだ。やれやれと何とかここまで来た。此の先がわからない。船内は兵隊でいっぱいだ。水も節水だ。兵隊の中に平塚の人が居てなつかしかった。その人は伍長だった。

 戦後一度会ったが、その後長い事会っていない。元気でおられるだろうか。

 

 夜は船内はうす暗い。今は戦時だ。アメリカ航路がなつかしく思われる。当直もなく、良く眠れた。朝七時起床、又船が入って来た。一週間すぎた。船長上陸、いよいよ出港間近だ。船長帰船、出港用意の命令が下った。行先不明なり。

 

 本船には備砲も無かった。高射砲隊が乗船したので砲を前部甲板上に据えた。船長より話があり本船はマレー半島シンゴラに上陸するとの事、私は無事に日本に帰る事が出来るだろうかと不安になった。全船団数四十数隻、見事なものだ。此の船団の内何隻無事でおられるかと思った。

 

 東支那海はウネリが高い。兵隊の中には船酔の者も出てきたが、皆がんばっているようだ。シンゴラに着く二日前に三十隻ぐらい本船団と別れ南方海上に去った。

別れた船団はジャワ島上陸だった。大連を出港した時は寒かったが、今では半ソデ半ズボンだ。トビ魚がスーっと波の上をとぶ。

 平時だったら気持ち良い航海だ。これから戦争が完るまで、苦労がつづくだろう。明日はシンゴラだ。

 

 自動車隊下船用意がはじまる。甲板員もいそがしくなってきた。敵前上陸なら早く荷物を下さなければならない。甲板員の仕事だ。平時なら下す用意だけで良いのだが。用意完了、各自見張りに立つ。ウネリも高くなってきた。明日の上陸うまく行くだろうか心配だ。

 

 朝がきた。午前十時頃第二回シンゴラ敵前上陸がはじまった。横揺れがはげしく、自動車を下す事に難行したが、六台全部下し完った頃、急に台湾向け出航の命令が出た。出港用意、マレー半島をはなれる。

 

 上陸には苦労した。自動車を舟艇に下すのだが、4トン車がやっとだった。ぶつけるわけには行かず、やれやれだった。

 船も走りだし、見張り当直があるのでベットに入る。朝食事におこされデッキに出て、他の船はと見たが、我が船一隻で航行している。昨夜は上陸地への爆撃がひどかったそうだ。私はベットの上で知らなかった。

 

 シンゴラを出て四日目、水が残り少ないのでサイゴン(現ホーチミン市)港に寄り水を取る由。

 

 サイゴンに入港したら上陸しよう。日用品も無くなってきた。サイゴン港は川をのぼる事四時間、その川も真直ぐでない。登ったり下ったり、入港まで気がぬけない。川巾は、五千トンの船でぎりぎりだ。風もなく暑いのにはまいった。

 

 やっと着いた。川の中央にイカリを下した。半分上陸が許された。上陸したら衛兵にゴチゴチ言われた。内地に帰れて良いなあ、俺は帰れないのだと云う。気をつけ、で聞くのである。暑いので汗が吹き出た。

 

 私は十七歳だ。私達船員も命がけで働いて居るのだ。と言いたかったが、心の中におさめた。

 町に行きサンダル靴や日用品を買い、コーヒーを飲み帰船した。

 三日後出港、川口にて四隻船団を組む。我船は砲が有るので一番船だ。他の船には砲もない。勝てるわけがない。サイゴンを出る時に他の乗組員が注意して行けと言っていた。サイゴンを出て三日後、明日は海南島だ。そこまで行けば、まず安心だ、と航海士が言っていた。

 

 その日は朝八時より当直なので、早く起きた。朝食を少し食べた時、ドーンと音がした。甲板員が船尾をやられたと言って入ってきた。私はハッと思い、急ぎ船尾の方に行った。ハッチの中は海水でいっぱい。兵隊も海水の中に居る。ロープを下げ、十名程上げた。ケガ人もいる。ケガ人はボートに乗せる。船はエンジンルームに海水が人ってエンジンストップ。機関員は上ってこない。我々は海水を止めに行ったが、とても止まらない。

 

 デッキに出た。他の船はと見れば、敵潜水艦が浮上して砲撃しているが、さいわいに当らない。我が方も撃ち出したら、敵潜は急ぎもぐった。我が船もエンジンが動き出した。陸に向けて一時間半走った。砂浜に着いた時、なんとか助かったなあという気持ちでいっぱいだった。船首ハッチには、弾薬がいっぱいだった。船尾でよかった。船首だったらたちまち轟沈しただろ。

 

無事母港に帰る

 敵潜にやられて一夜が開けた。我が福洋丸は砂浜にのり上げ船体は少しかたむいているが、沈む心配はない。食事を完り休んでいると航海士が、沖にイカリを入れるぞ、と言ってきた。甲板長にその事をつげると、スタンバイの号令が出た。

 甲板員達は船倉からワイヤーロープを出しにかかる。予備のイカリの所に行く。

 予備のイカリといっても五千トンのしろ物、どおして持ち上げるかがもんだいだ。

 エンジンルームは海水がまんぱいで、蒸気は無し、何事も手作業だ。滑車を使った。  ボートでは乗らないので、他の船から上陸用舟艇を使用して、それで沖の方に運んで下した。舟艇は日本に帰るまで借用出来たので助かった。

 

 我が福洋丸も安定した。船長はサイゴンに行き不在、どうなるのだろうか。毎日その話ばかり。

 七日間が過ぎた。朝方船が我が船の後方に碇泊した。軍艦だった。七日間も船の中に居たらどうなっていたのだろうか、「バカ」にするなと皆と話し合った。

 十日目に明治海運の明優丸が来た。前部ハッチの弾薬及兵隊を引取に来たのだ。五日ぐらいかかった。明優丸及僚船は出ていった。淋しくなった。仕事もなく毎日ぶらぶら、急に食事も良くなってきた。 

 ただ船長の帰りを待つだけ。長くなると日用品が無くなる。又、船底の飲み水も海水が入るようになってくる。どこか船底がやられているのだろうか。数日が過ぎた。 飲み水も塩からくなってきたので、ボートにて陸に「バケツ」を数個持って取りに行く。川の水であるのにはおどろいた。

 

 水が無いと、何とも毎日水運びが仕事になった。洗濯もままにならない。時々行水、それも水だけ。風呂にはいりたい、日本に帰りたい、どうなるのだろうか。船長の帰船を待つのみ。船にアンナン人が来るようになった。タバコを持って来るが、紙くさいが、背にはらは変えられない。

 

 やっと船長が帰船した。話によれば我が福洋丸を浮上させる作業船が、我が船に向っているとの事、いそがしくなる。船内の話では船尾ハッチの中で夜、「リン」が出ると言う話が出はじめてきた。「ハッチ」の中にだれかいるのではとの事、船尾に行くのが何となく気味が悪くなってきた。

 

 一ケ月目に作業船セイハ丸五百トンが来た。船は小形だがエンジンが大きい。乗組員も多い。何とか日本に帰れそうだ。それも途中でやられなけれぱの事だ。浮上するのに何日ぐらいかかるのかも、まだわからない。作業員が船底にもぐらなけれぱわからないとの事、又調べに数日かかった。

 やっと浮上したのはーケ月後だった。

 

 船尾の魚雷があたった場所はそのまま海水が出たり入ったり、船腹には穴があいたままだ。

 サイゴンのドックに行く事になった。エンジンも整備され動くようになった。浮上したら船尾に兵隊が一名死んでいた。陸にて埋葬した。兵隊十名の死体は骨にして明優丸で先に帰した。船員四名は不明のままなり。

 

 サイゴンまで五日ぐらいかかった。長い航海に感じた。サイゴン川を上って行ったら他の乗組員が手をふってむかえてくれた。死ななくて良かったと思った。サイゴンのフランスドックに入ったが、おおまかな修理だけ。約一ケ月居た。船長はそのままでホンコンに向け出港した。十七年三月ホンコンに入港、九竜ドックに四ケ月、元形になってドックを出て、南支カントンに向った。鉄材を積みホンコンにもどり待期。

 

 軍令により三井の七千トンの船を日本まで引いて帰れという。引いて帰るならば軍艦を付ける、引かなければ単独で帰ってくれと云われた。

 ホンコンの沖で三日間引いてみたが、大いロープ又ワイヤーが切れるので「だめ」にきまり、仕方がない、単独で帰る事になった。

 

 中国大陸を左に見て、朝鮮フザンより九州八幡港に無事着いた。十日間かかった。八幡港より宇品港に八ケ月ぶりに帰れた。宇品にて上陸、心をいやした。瀬戸内海がとてもきれいだった。

 

 司令部より船を助けた事によりほめられたそうだが、戦死した船員はどうなったのか、今でも心に残っている。

 

松島沖で命拾い

 南方の輸送も完り、宇品港碇泊も早くも十日も過ぎた。今度はどこ行きだろうかと内心思う。毎日は上陸できない。乗組員中半分は上陸出来るが、宇品は輸送司令部が置いてあるので、門には衛兵所があり、兵隊が立哨している。

 出入の時に上陸証明を見せなければいけない。気を付けで、どうも又兵隊によっては何かと聞かれる。何のために陸に上がるのかさっぱりわからないので、上陸も見合わせる事も多くなる。又一人者は家族もちに帰ってもらう。

 

 司令部より船長らに呼出しがあり、野菜の積込み、又船内用品を陸に下すようにとの命令が出たこれは陸軍御用船が解かれるのか、そして会社に戻れるのかと話しが出はじめた。しかし、本船は北海道「オタル」港に向け出港するとの事だった。

 イカリを上げ広島を出た。が、太平洋は敵潜がうようよ、無事に北海道に行けるだろうか。又毎日見張りだ。夜も休めない。

 

 三日目、大島を左に見て進む。千葉犬吠埼に向っている。本船は大正八年に出来た船で、スピードも八ノットで遅い。宮械県松島沖で朝方木船を追いこした船があった。その船を見て室に入る。

 

 見張りの任務があるのでベットに入る。十六時頃食事で起される。船が揺れない。泊っているのと間いたら本船は松島湾内に居るとのこと。どうしてと聞いたら、本船を追いこした船が敵潜に沈められたので急拠退避したとの事、命拾いしてよかった。

 

 一日泊りの翌朝、松島を出る。航海中に沈められた乗組員はどうしただろうか。助けられただろうか。宇品を出て六日目、北海道オタル港に入港した。

 

 積荷は材木だ。材木を積むと、京浜に行く。ヒョットしたら家に帰れるかな。ただ又帰りに敵潜の心配がある。無事を祈るだけ。オタル碇泊五日、六日目出港、積荷が材木だから、やられても何とか助かるだろう。良い方にしかとれない。しかたがない。港を出たら死ぬだけか。

 

 オタルを出て三日目に横浜に着いた。明日は家に帰れる。十八年の夏だった。デッキで仕事中にフラフラして気持ちがわるくなったので、航海士に申し出たら、病院に行ってこいと言う。友につれられて病院に行ったら、すぐ下船するようにとの事。船にもどり手つづきをして下船した。

 

 この福洋丸は広島に帰り、のちバシー海峡で沈んだ。何人助かった事やら。夜間だったので人数は少なかったと思う。今でも思い出す。

 

 病院に三ケ月通院した。先生に、どうですかと間いたら、あまり良い返事ではなかった。時節がら長くも休めないので、東京の会社に行くと明日午前中に会社に来るようにとの話。家に帰り母親に言うと、どうしても行く気かと、何回も言うので、今は船に乗らなければいけないのだからと、荷物をまとめて東洋汽船に出向いた。

 

 会社には五名程居た。東京海上ビルの食堂にて会社の人と食事をして、夜行で広島に向う。広島に着き、会社の人に連れられて暁部隊に渡された。部隊の人間といっしょに兵舎に入る。

 

 いろいろ間いたら、我々は徴用船員との事。ひどいもんだ、会社の人間も何も言ってくれなかった。私は服をぬぎ軍服に着替えた。それから毎日軍事訓練がつづいた。兵隊と同じだった。訓練はとてもきつかった。

 

 一ケ月が過ぎ、乗船が言いわたされた。これで兵舎を出られる。ホッとしたが、今度はどこに行くのやらと思いながら宇晶港に五名で向った。

 

 朝風5号掲載 1989.5月