ガ島戦に生きて

伊東市 関野 治次

 昭和十八年一月二十日午前十時、ガタルカナル島アウステン山守備の私達部隊は米軍の戦車を伴う海兵隊に包囲された。

 

 守備隊本部には各中隊より拠点を死守して全員が玉砕した悲報が続々と報告されてくる。本部書記は迫撃砲の集中射で全員が負傷し動けるものは武川曹長と私だけになった。

 正午頃、本部と大中隊の間に発煙弾が打ち込まれ、艦砲射撃と迫撃砲の集中攻撃を受け守備隊本部の「タコツボ」は約半数が吹き飛んでしまった。陣地内にあった樹木は全部倒壊し足の踏み場もない、そのなかから重傷者を捜し応急手当を行ったが、砲弾破片創のため傷口が数ケ所あり手の施しようがなく、皆出血多量で眠るように死んでいった。食糧も補給されず、医薬品もなく、栄養失調症となり、下痢、マラリヤを併発し、そして最後は砲弾破片創で死んでいった仲間たちに対し埋葬も出来なかったことを申し訳なく思う。

 

 見晴台方面の海兵隊は午前中より更に増強され戦車四輛とジープ数台が確認された。午後一時頃であろうか、支隊司令部より伝令がきた。撤退命令である。守備隊長は各中隊の動ける将校を本部に集め撤退の要旨を次のように説明した。

「現在の戦況は皆の知るところである。守備隊は今夜半を期して見晴台及び「イヌ」陣地に対し総攻撃をかけ突入を計る。突入成功後は部隊主力と合流し再びルンガ岬の敵前上陸に参加する。動けないものは陣地に残置し最後まで戦い自決せよ。生きて虜囚の辱めを受けるな。」

 長時間の飢餓の後がこの状態で進むも死坐するもまた死であった。

 

 そしてその晩の突入目標も決定し死に対する整理もつき突入命令の来るのを待った。向かい側のスピーカーが、君が代を前奏し、明瞭な日本語で次のように語りかけて来る。

「勇敢なる日本兵諸君、戦いは終わりました。武器を捨ててこちらに来なさい。暖かいコーヒーとパンやミルクをあげましょう。貴方がたの生命は条約によって保障します。今晩中にこちらに来なさい、明日は貴方がたの陣地を総攻撃します。生命を大切にして早く日本に帰りましょう。日本軍は飛行機も輸送船もなくなりました。貴方がたの食糧も近くなくなるでしょう。早くこちらへ来て休みなさい。そして早く戦いをやめましょう。」

 

 このような効力のない放送をくりかえし続けている。すでに食糧も途絶えて一週間になる。調味料に使用していた海水も残り少なくなった。前回の海水汲みは、戦死者二名を出した。蟻の巣も、陣地付近は取りつくした。土色のトカゲも食べつくしいなくなってしまった。死の直前になっても食べることが脳裏から離れない。思うことは食べることのみである。

 

 午後四時頃であろうか、大隊副官小瀧中尉に呼ばれ、部隊伝令として私と武川曹長は陣地を脱出し司令部に行くことになった。絶食同様の日が続き動くのも嫌な私達であったが、命令となれば仕方ない。命令の要旨を通信紙に書いた。

 

  一、陣地変更命令は受領した。

  一、守備隊は初志命令通りアウステン山の保持に専念し米軍を最後まで陣地に引き付け全軍の犠牲になって働きます。

  一、陣地変更は現状況では出来ません。動ける者をもって今夜半、前方敵陣に対し突入を計ります。配属部隊を含め約一〇〇名である。              以上

 

 武川曹長は功績関係書類を、私は戦死者名簿を、それぞれ図のうに入れ、赤錆びた拳銃を刀帯にしっかりとくくり付けて、軍刀を杖代わりにし、スコールの霧を利用して包囲陣を脱出した。

 丸山道を約四キロ位歩いたところで私はマラリヤの熱発で歩行ができなくなった。武川曹長に緊急伝令なので先に行くように促したが残って手当をしてくれた。

 熱にうかされ死んだように休んで翌朝は早く目が覚めた。上空では相変わらず敵戦闘機の哨戒が続いている。

 米軍の豆マイクロホンに注意しながら郷子林とジャングルの関を進み、敵の分哨らしきところに着いた。付近は缶詰の空き缶と食べ残しの食糧が沢山あったがすぐは手をつけず、しばらく付近の様子を伺い、安全を確認して給与にありついた。半月ぶりの食糧らしき食べ物であった。

 夕暮れを利用して出発し郷子林を進むこと約二時間、海兵隊の砲兵陣地らしきところにつき当った。先頭の武川曹長が海岸の地形偵察、私が山側の地形偵察とそれぞれ区分して、落ち合う場所を決定し分哨らしき物の発見につとめている最中、海岸方面で自動小銃の発射音を間いた。若しやと思い落ち合う場所に待ったがこなかった。やむなく近くのジャングルに入り、明日まで様子を見ることにした。

 翌朝武川曹長がやられたのを確認して(武川の死体を道路下に埋めた)先をいそぎ所属部隊を探したが不明であった。

 連絡所らしきものがあるので行ってみると、同期生の牧野かおり支隊は昨夜撤退したという。この時初めて部隊の撤退が分かった。

 私も第二回目の撤退に間に合いボーゲンビル島で部隊の状況報告をし任務を終了した。

                              朝風1号掲載 1988.2月

「雪は汚れていた」を読んで

別府市 武田 裕

 

 先日.発売と同時に「雪はよごれていた」を購読したが、私が従軍したビルマ戦線で、開戦の本当の理由を知らずに徒死した大勢の庶民兵士を想い憤りで胸が無くなった。

 

 軍閥が政治権力を手中にしようと、若者を煽勤してテロを指示した。事がなると叛乱の汚名をきせて死刑にすると、真相を闇の中へ消してしまう。

 已の手を汚さずに権力を手中にした連中が当時の皇軍の指導層であり、開戦を計るとは怖ろしいことである。 

 

 私が所属した第五十五師団長「H」中将は、自分より階級の下の者を人間と思わない自己中心主義の狂人でサディストであった。

 

 私たちと同じ戦列で戦った三島の重砲の大橋少尉は、師団参謀の指示により重砲を破壊して敵中の脱出に成功、大勢の部下を救った。

 

 しかし、師団長は「砲兵が砲を捨てて逃げ戻るとは何事だ。なぜ全員玉砕しなかった」と数十回殴打した。その夜大橋少尉は拳銃自殺をした。

 私は月明の壕の中でこのニュースを聴いた。当時(十八年十月頃)の私たちは飯盒の蓋に雑水を一日二回食べて戦っていた。空腹の余り山中のいたる所を堀り、山芋を発見しては捕食にしていた。敵側に面した斜面の山芋を堀りに行き狙撃されて死者も出た。 

 

 ある日、師団参謀が前線視察に来ると聞いて、ついでだから食糧も運んで来るに違いないと信じた。

 だが持って来たのは大隊長へ日本酒二本のみであった。敵と対峙している山の陣地を視察した参謀は「ここの隊は士気旺盛である。いたる所にタコツボがある」と言った。

 また、師団長へ「みやげ」と称して兵士たちが命懸けで堀った山芋を十キロも従兵に持たせて下山した。

 師団長は食事の副食物が少くないと文句を言って、関係将兵を毎日殴打している噂を聴いたのもこの頃であった。 

 

 兵士たちの大方は敵の死体から剥ぎ奪った被服を体に合せて切り捨てては着ていた。 戦闘帽も切れ端で手縫いした。脚絆も千切れたので敵のを拾いズボンの裾だけを巻いている者もいた。

 彼は捕虜になったら「お前はどっちの兵隊だ」と訊かれると皆を笑わせた。

 

 インパール作戦の「林」集団長、「M」中将も「H」師団長と同型の男であったからあの惨敗を招いたのも必然であった。

 ビルマ方面軍最高司令官「K」中将は二十年四月士句にはすでにビルマから遁走していた。敵中に孤立した幾十万の部下を見捨ててである。

 

 しかし、その〈功績により大将に昇進〉したという。最優秀近代兵器を使用する巨大国家を相手にして、古色蒼然たる兵器と前近代的無謀作戦の末路は決定していた。

 階級的権威を誇示するだけの軍刀を近代戦に携帯する愚を彼らは認識していなかった。

 

 文明国家の士官は佐官級でもカービン銃、自動小銃を携帯して戦った。熱帯のジャングル戦に有効な武器の開発に無頓着でありながら南進を決行した。

 彼らは補給の確立できない作戦は思考外であり、人命を無意味に損耗する作戦も除外した。死守や勝算のない戦いを命じる指揮官を恥とした。

 前近代的な白兵突撃には大量の火力で撃退した。

 死を美化せずたとえ捕虜になっても生き残り再び銃を執り戦うのを名誉と誇った。

 

 皇軍は重傷による不可抗力で捕虜になった者が脱走して帰隊しても死刑にした。

 近代戦の中で皇軍の将軍や参謀は神がかり的で巫子程度の価値しかなかった。

 人間の能力を最高に発揮するために補助するのが兵器の定義である。皇軍は兵器と共に人命を犠牲にする人間魚雷や特攻機を決戦兵器と自称し、「これぞ大和魂の精華」と言葉に酔い痴れた。

 

精神至上主義の将官や参謀は「神風」が本当に吹くと信じていたというから笑止を通り越して哀れである。

 権力の座で保身と階級の昇進に現つをぬかす男たちが煽動する「滅死奉公」に惑わされて、加害者を演じた自分の愚鈍が悲しい。

 

 それよりも、職業軍人の謀計によりビルマの戦野で徒死した仲間たちを憶うと胸が張裂ける。私は今までビルマを訪れたことは一度もない。これからも訪れようとは思わない。

 

 豪雨にうたれ、泥にまみれて餓死する仲間たちを置去りにして生き残った怨念の地を訪れるのが怖しいのである。訪れてもなんと言えばよいのか言葉を知らない。「鎮魂してくれ」と涙を流して祈れば心の傷痕が消えるのだろうか。

 

 私は戦友という言葉を避けている。「友」とは信じ合う者をいうのなら、私には資格はない。「友」を裏切ったのだから。私はビルマの遺骨収集に熱心ではない。

 友人の和尚から「人の魂魄は終焉の地から離れない」と教えられたからである。

 

 慰霊碑を建立すれば仲間たちの怨念が鎮魂するとは思えないし、また鎮魂しなくてもよいと思っている。生き残った私を永久に怨むがよいと思うからである。怨念が怨霊となり開戦と敗戦の責任者を呪殺すればよいと願っている。

 

 小説「ビルマの堅琴」の中で遺骨を弔うためにビルマに残る兵士を美化しているが、知人の青年が感動したと洩すのを聴いて慄然とした。

 死者を弔う行為は宗教儀式による自己満足である。本当に戦争を憎悪し、風化させないと祈るなら自己満足の否定から始まる。

 

 闘いの場では殺すか殺されるかの選択しかない。そこには正義も邪悪もない。あるのは破壊と殺戮だけである。

 

 人間の持つ倫理感の全てをかなぐり捨てた狂気の世界であり、感動などある筈がない。「ビルマの堅琴」の著者は、人間の肉を食らう程の戦場に身を置いたことのない幸福な人である。

 

 開戦と敗戦の責任を繰っていけば、一体どこえ辿り着くか興味深い。

 雪はよごれていた」は「皇軍はよごれていた」の皮肉であろう。

 私なりの思いで読んだ感想である。

                   朝風2号掲載 1988.5月

屈辱の日々

横須賀市   河野 正人(七十二歳)

 印度洋上に浮かぶアンダマン群島を防衛していた我々日本軍部隊を武装解除の為、英軍が南アンダマン島に上陸してきたのは、終戦後の十月七日の事である。

 その日、三輪部隊長以下全将兵が銃機類を携行して中央広場に集合した。

定刻になり全将兵が不動の姿勢をとっている中、英軍の将校を乗せたジ‐プを先頭にトラック三台が統いてきた。

 ジープから降りて来た英軍将校は、コールマン型のひげ髭を蓄え、栄養のゆきとどいたピンク色の肌をしたダンディな大尉である。

 彼はカーキ色の軍服を着用し、右手に1メートルほどの華奢な細い鞭を持ち、軍帽の帯と襟章の朱色が一際目立っていた。

 後続のトラックからは頭にターバンを巻いた色黒の印度兵がドカドカと下車して来た。 彼等は一様に鼻下に髭を生しいずれ劣らぬ大男揃いである。

 私達は銃剣片手に目をギョロつかせた印度兵に異様な不気昧さを感じた。

 

 部隊長の号令によって全将兵が英軍将校に向かって敬礼をする。将校はそれに答礼を返すと、傍のハンガーロンハットを被った長身の下士官(通訳)と何やら話し合っていた。

 暫くするとその下士官が我々に向かって

 「皆さん休んで下さい」

 とたどたどしい日本語で言った。「休んで下さい」とは不動の姿勢をとっていた我々に対して、体を楽にしてよろしいといった意味のことか。

 

 武装解除は、緊張と重苦しい空気の中で行われたが、我々が懸念していたほどの事もなく無事に終了した。しかし武器を取り上げられ、丸腰になった我々は急に身の回りに空澗がひろがり、一抹の侘びしさを覚えた。武装解除によって英軍の捕虜になった我々は、翌日から彼等による強制労働に従事させられる事になった。

 

 我々は夜の明け切らぬうちにニッパハウスの宿舎を出発し、陽の落ちるまで重労働に汗を流した。 当時我々の三度の食事といえば、専ら雑穀混じりの雑炊で、その中に芋の葉や未熟果のパパイヤを刻みんだ物が入っている最低の給養である、そのカロリー源は1200カロリー程度で、英軍の重労働に耐え得るには2500カロリー乃至、3000カロリーを必要とした。

 

 その低カロリーによって栄養失調症、悪性のマラリヤ、アメーバー赤痢などに罹る患者が続発し、常時作業に堪え得る兵は中隊の三割にも満たなかった。作業に従事する兵てすら全員が栄養失調だったのである。

 当然我々が毎夜見る夢は天丼、カツ丼、寿司といった食い物の夢ばかりでだった。夜空にきらめく満天の星が金平糖に見え、青空にぽっかり浮かんだ雲があんパンや大福に思えたのも宣なるかなであった。

 女の夢などついぞみた事はなかった。すっかり元気の消沈した下半身は死火山同様であった。

 好きな煙草は何ケ月もお目にかからなかった。英軍が上陸してきた当初こそ印度兵(彼等は最初のうちこそ不気味な存在に思えたが、日が経つにつれてお互いに下級兵同士の誼で親近感を持つようになっていた)と物物交換して煙草を手に入れる事が出来たが、それも物件が切れると後はパッタリだった。

 

 そのうち兵達は、印度兵が捨てた煙草の吸い殼を拾って吸う様になった。その行為はひどく惨めに映った。世界に冠たる日本兵も、遂に落ちるところまで落ちてしまったのか。

 しかし兵隊達はなりふり介わず恥も外聞もなかった。「衣食足りて礼節を知る」とは、正に的を射た言葉である。

 

 ある日、それを見かねた一将校が我々を目の前に集め、「お前達に一事注意しておく事がある。

 日本は今次大戦に武運つたなく敗れたが、お前達はかりそめにも帝国陸軍の軍人である。その軍人たる者が、英兵が捨てた吸い殻を捨って吸うとは何事だ!

 お前遠は恥を知らんのか!そんな卑しい行為は日本帝国の威信にもかかわる。今後、その様な行為は絶対にしてはならん!」と痛烈に面罵した、しかし兵達の多くは(何が威信だ!戦争に負けりゃ将校もへったくれもねぇんだ。そんなに侮しかったら腹一杯飯を食わせて尻からヤニの出るほど煙草を吸わせてみろよ!)

と腹の中で反発し、不満を募らせていた。そして以前ほどおおっぴらではないにしても吸殻を捨う兵は、依然として後を絶だなかった。

 

 朝早く我々が英軍宿舎の前の広場に集合すると、英軍将校と通訳がやって来て、我々に何処そこの場所に何名、何名と人員を指定された場所に分散され作業に従事する。その作業にもいろいろある。 その中で我々に最も嫌われている作業と言えば、ドラム缶の運搬作業、武器弾薬類の運搬投棄作業、その他道路構築などである。反面糧秣倉庫の作業は誰からも喜ばれた。と言うのもその作業は危険性が少なくいろいろと余得があったからである。

 

 その日私に割り当てられた作業は銃器弾薬類の運搬投棄の作業であった。その作業は大変な危険が伴う。日本軍が貯蔵してあった小銃弾、機関銃弾の弾薬箱を大発艇に積み込み、沖合に出てそれを海中に投棄するのだが、六千発入りの弾薬箱は相当の重量だ、その箱を二人掛かりで持ち上げ、イチッ、ニッ、サンの掛け声諸共海中に投げ込むのだが、その際艇が大きく左右に揺れて栄養失調で軽くなった私の躰も、弾薬箱と一緒に海中に放り込まれそうになる。本当に命がけの作業だった

 

 荒縄で束ねられた三八式歩兵銃も無造作に海中に投げ込まれた。日本陸軍の象徴とも言われた三八式歩兵銃も鉄屑同然だった。その姿は、我々敗残兵の哀れな運命を見る様で胸が痛んだ。兵の分身として、片時も肌身から離す事がなかった三八式歩兵銃が、かくも無惨で悲惨な末路を辿ろうとは誰が予測し得たであろうか

「岡野、舟艇の作業って何んだろうな?」

 と多田が私に訊く。

「さあ俺にも判らねぇな」

 五人じゃ、まさかドラム缶運びじゃねぇだろう」

 横から平山が□を挾んだ、今日、私と多田、平山、富田、渡辺の五人は舟艇の作業を命じられた。小人数なのてドラム缶運搬の作業ではないにしても、とに角軽い作業であって欲しいものだとそう願いつつ五人は作業場の舟艇へと向かった。

 

 舟艇は兵員及び戦車を運ぶ大きな船で、船首が前方に開く構造になっており、船の後尾に艦橋があって、そこに兵員室及び食堂、炊事場等が備え付けられていた。

 舟艇までくると艦橋には四人の英兵が陽気に話し合っていた。上船した我々を待っていた仕事は洗濯であった。洗濯物は彼等が身につけていたシャツ、ズボン、上衣等であったが、その中に彼等のパンツが混入しているのを発見して我々五人の顔色がサッと変った。

 「畜生ーイギリスの野郎、俺達を何だと思っていやぁがるんだ!いくら俺達が負けたからといって、五年兵にパンツを洗わせるとは、俺達をコケにしやがってー-」

 多田は眼を吊り上げて怒り心頭だ。

「冗談じゃねえよ、俺は手が腐ってもこんな物洗わねぇぞ!」

 平山は不貞腐れた□調で言った。いくら英軍が戦勝国だからといって、敗戦国の我々に何を押しつけても介わぬとでも言うのか、いくら戦争に破れたからといって我々にも人間としての尊厳や自尊心というものがある。我々にパンツを洗わせるとは、これ以上の屈辱があるだろうか。

 

 しかし我々にとってこの上ない屈辱も、考えて見れば捕虜になった我々の宿命でもある。我々は耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、国家再建という大事な使命が残されている。それが我々に課せられた義務でもあるのだ。ここで、我々が息巻いて憤満をぶちまけ英軍とゴタゴタを起こしても始まらない。我々の胸の中には屈辱感が墳り続けていたが、考え様によってはドラム缶運びや、弾薬運搬等の重労働に比べ、洗濯は数段楽というもんである。私達は悔しさいっぱいの侮辱に耐えながらしぶしぶ洗濯に取り掛かった。洗濯場には今や我々にとって貴重品ともなった石鹸がゴロゴロ無造作に置いてあった。

 「兵長どの、ある所にはあるもんですね」

 富田が目を丸くして驚いていた。

 

 食堂のテーブルの上に大きな丸型の容器が乗っていて、その中にコーヒーが沸かしてあった。英兵はそのコーヒーを我々に飲めとしきりに勧める。我々は待ってましたとぱかり砂糖をゴッテリ入れて何杯もお代わりをした。皆何となくすっきりした気分になってきた。

 そのうち英兵は我々の所ヘチョイチョイ顔を出しては笑顔で話し掛け煙草をくれた,その陽気な笑顔には勝者の奢りは一片もなく、むしろ友達のやうな気安さだった。先ほどまで悲憤慷慨していた私達はすっかり表情も和らぎ笑みを漏らすほどになった。

 昼は一時間の休憩がある。その間に我々は昼食を摂ったが、粗末な少量の食事はあっという間に終わった。余りにも詫びしい食事に、誰もが終始無言だった。それにひきかえ、英兵の食事は我々が目を見張るほどの豪華さてあった。

 

 テーブルの上には分厚いハム、レタス、チーズ、バター、パン、ミルク、スープが所狭しと並び、ボリュームたっぷりのサンドイッチがのっている。そして彼等の国民性でもあろうか.、食事時間にたっぶり時間をかけ会話も陽気ですこぶる愉快そうであった。私たちはその分厚いサンドイッチを横目にして羨望の色を隠す事が出来なかった。

 飲み放題のコーヒー、ゴロゴロと無造作に置いてある石鹸、彼等の豪華な食事風景、その格差をまざまざとみせつけられて私は、

 「戦争は大和魂だけでは到底勝てるものではない

と心中深く認識させられたのである。

 

 英兵たちは食事が終わると我々にテーブルを片付けるよう命令した。散らかったテーブルの上には、食べかけのサンドイッチや全然手をつけてないものもあった。我々はそれらを逸速く流し場まで運ぶと我れ勝ちに□の中に詰め込んだ。勿論彼等が食べ残したサンドイッチもである、それは何とも浅ましい限りであった。その姿は人間の本能をむき出しにした飢餓人間だった。我々は生き延びる為に日本陸軍の名誉ある兵士としての矜持をうしなっていた。いや誇りなどこの際どうでもいいというのが本音だった。

 

 この船艇は戦車を積んでいなかった.ガランとした船内はキャッチボールが出来るほどの広さだ。船内の片隅に三角形の材木が積んである。この材木は、おそらく戦車を積んだ時の楔に使用するものてあろう。

 昼食後英兵は船内で子供の様にふざけ合っている。明朗そのものだ。我々は材木の上に腰を下ろし、そんな彼等をニヤニヤしながら眺めていた。英兵の中に茶目ッけのある剽軽な兵がいて、その兵がいきなり我々に向かって両手を広げると、

 「ヘイ、ジャパニーズ、ジユウドウー」

と言って来た。多田が不審そうな顔で

 「あいつ何て言ってんだ!河野」

 「何だか柔道をやろうと言ってるらしいな」

 その兵は我々と同程度の体格をしておりただ違う所といえば、栄養が良好で血色が良いこと位のものだ。不意に横から富田が

 「兵長どの、一丁英兵の野郎をぶん投げて下さいよ!」

と私に無体な事を言い出した。

 「なに!お前、またそんな無責任な事を言い出しゃがって

 「大丈夫ですよ、兵長どの」

 「何か大丈夫なもんか!」

 

 富田は・我々の部隊が南方に転進の途中九竜に寄港した際、埠頭で開かれた中隊の相撲大会で、私

が続け様に四人を投げ飛ばした実績を覚えていて言い出したものらしい。

  「よお-し、じゃ一丁やってみるか!」

 そう言って私は英兵の挑戦に応じゆうくりと立ち上がった。

 私は柔道にそれほど自身があった訳ではない。ただ中学二年まで柔道部に籍をおいていた関係で柔道の初歩的な基本は多少心得ていた。英兵の挑戦も半ば余興の様なもので、勝ち負けはどうでもよい事だ。しかしやる以上遊びとはいえ、私は何としてでも勝とうと思った。それに英兵と私は体格も同程度であり、私はたっぷりのコーヒーとサンドイッチを腹にいれたせいか、何となく力が出そうな気がした。

 

 外人は概して上半身が強く、その腕力は相当のものである。二人が組み合うと案の定英兵はぐいぐいと押してきた、私も負けずに押し返す。すると英兵は顔を紅潮させむきになって強く押してきた。その時私は今がチャンスだと思った。相手の力を逆用する事は柔道の基本でもある。私は相手の右腕を突っ張り気味に、左腕を手前に引き込みながらサッと右足を払った、いわゆる足っ払いというやつである。これが又私自身びっくりするほ程見事に極まって英兵はもんどり打って床に横転した。

 「わぁー・・・・・ わぁー・・・・・」その成り行き如何にと真剣な眼差しで見詰めていた英兵も多田も平山も一斉に大きな歓声を上げて手を叩いた。見物の英兵たちは自分の仲間が、ものの見事に横転したのが余程滑稽に映ったのか腹をよじり大□を開けて笑い転げていた。

 

 横転した英兵はすぐ立ち上がり顔面を紅潮させていたが。それほど晦しそうな色は見えなかった。そのうち彼は両手の拳を目の前に突き出すと、

 「ネックスト、ボクシングー」

と言ってきた、私は慌てた。

 「冗談じやねぇよ!」

 今日という日まで、連日過酷な重労働に耐え、病気や怪我に極力留意し、これまでに何とか無難にやってきたのは何の為か五体満足で無事祖国の土を踏みたいという切なる願望があったからである。そんな大事な鉢を拳闘なんかで顎の骨でも外さねたら大事である。まして拳闘のケの字も知らない私にとって分の悪い事は自明の理である。

 「オー ノウーノウー」

 私は慌てて手をふり首を横にして断った。それでもやろうとしきりに迫る英兵に、この次にしようと言って私はやっと其の場を切り抜けた。

 

 英兵たちは、捕虜の身である我々に対し、高慢な態度で接する事はみじんもなかった。戦争が終われば「昨日の敵は今日の友」といった友好的でさわやかな態度であった。私はそんな彼等の姿勢に心中深く揺さぶられるものがあった。(つづく)                              

 朝風11号掲載 1922.11月

生と死の岐路

浜松市 吉岡 芳郎 69歳

 昭和十九年九月初頭。私達、陸軍航空通信学校第八中隊に所属する三百八十人の乙種幹部候補生の半年にわたった教育が終了し、全員が伍長の階級に達ん。終了日の翌日、全員が中隊前の営庭に集合させられ、中隊長、猪川大尉からそれぞれの赴任すべき任地が達せられた。

 「名前を呼ばれた者は返事をして、その場に立て」

との指示が与えられ、次々と名前が呼ばれ出した。営庭に腰を下ろしていた仲間は、ハイ、ハイ、と返事をして立ち上がった。

 「以上二十八名の者は、任地、マニラ」

 「以上十七名の者は、任地、シンガポール」

そのとき中隊長から達せられた我々の任地は、北千島、満州、中国、台湾、ビルマ、ジャワ(現インドネシャ)、タイ、その他のアジヤ全域にわたっていた。

 

 「以上、名前を呼ぱれた者には、ただ今から五泊六日の外泊を許す。現品(米と缶詰め類)と汽車の乗車券購入証明書をもらい、各班長の指示を受けて直ちに出発せよ。なお、名前を呼ばれなかった者は、そのまま内務班で待機。」

 以上で任地の発表が終わった。私の名前は遂に呼ばれなかった。

 内務班に戻ると、いやもう大変な騒ぎである。私の真向かいの寝台にいた和田という戦友は、外泊の支度をしながら、

 「シンガポールだなんて言ったら、お母さん、びっくり仰天するって」

などと、にやにやしながら言っていた。しかし内心は得体の知れない不安感で一杯なのを、強いて平静を装った軽□で紛らわしていたのだろう。北海道や樺太に家のある戦友もいて、彼らが汽車と連絡船を乗り継いで家に帰って来るのに、五泊六日ばかりの日数で間に合うのだろうかと、私は彼らのために心配した。

 

 既にその年の七月に、サイパン島がアメリカ軍の猛攻を支えきれずに陥落して東条内閣が倒れ、日本が全戦線で敵に押されに押されているらしいことは、詳しい情報は何も知らされていない我々にも肌で感じ取れていた。こんな時期に日本本土を離れて連い任地へ赴くことは、生還の保証がほとんど望めない、死出の旅路への出立に等しかった。その任地へ無事に着けることさえ困難な海上輸送の状況らしかった,

 「ただ今から五泊六日の外泊を許す………」

とは家族と最後の別れをして来いということである。そして彼らは一斉に外泊に出発して行って、私がいた第八内務班には、三十二名の班員中、たった二人だけが残った。第七、八、九、の三つの班が第三区隊で、中隊は全部で十二班あり、三個班ずつが集まって一区隊を形成していた。

 

 周囲は急に静かになり、第三区隊九十五名中、たった七人だけが残され、その七人が第八班に集まって、ぼそぼそと寂しい夕食を済ませた。

 夕食後暫くすると、中隊の勝本曹長という上官が、

 「吉岡おるか」

と第八班にやってきた。

 「はい、おります」

と私が答えると、勝木曹長は、

 「お前は明日おれと一緒に東京の調布飛行場の東部百三十五部隊に転属だ。そのつもりで支度をしておきなさい」

と言った。この人は兵器掛り下士官で、我々とあまり接触はなかったが、若く、言葉づかいも丁寧で、少し気取り屋だが、上官づらした尊大な態度が全く見られない人だった。

 

 「曹長殿、その百三十五部隊というのはどういう部隊なのでありますか」

と私が尋ねると、勝木曹長は、

 「うん、おれも詳しいことは分からんが、なんでも帝都防衛航空隊の通信を担当する部隊で、新設中隊がいくつかできるんだそうだ。その中隊に来る東北、北海道からの未教育補充兵のお前は教育掛り、助教をすることになるだろう。第三区隊長殿からもお前が優秀な通信手だと推薦があってな」

そういって勝木曹長は去った。

 

 「いいなあ、吉岡!」

その場にいた六人の仲間は、曹長が去ると私に向かって一斉に言った。私もこみあげてくる嬉しさを隠しきれなかった。

 内地に残れる! それも東京に!

このときになって、先刻、営庭で名前を呼ぱれて任地を達せられた連中がー,斉に最後の外泊に出発し、名前を呼ぱれなかった極く少数の我々だけが中隊に残された理由がわかった。

 

 日本内地に対する外地の戦場。それは生と死の岐れ路である。その赴任地の明暗の差はあまりにも大きい。外地に赴く者の前途には苛酷な戦場と、ほとんどー〇〇%に近い戦死の運命とが絶望に彩られて待ち受けているのに対し、日本内地は未だ無傷である。わけても天皇の居城のある東京は、軍がその威信に賭けても護り抜くだろう。私は超安全地帯への赴任である

 これこそが、我々少数の者が先刻、中隊長から名前を呼ぱれなかった正にその理由であったのだ。

 

 苛烈を極める遠い戦地へ出発することになった大勢の者の前で、「お前は東京」とはさすがの軍隊も言うに忍びなかったのだろう。だから彼らが一斉休暇でいなくなった隙に、私は東京の部隊へ明日出発するのだ。彼らの羨望の眼に触れないように、こっそりと。もちろん私には外泊休暇などなかった。そんなもの、いらない。遠い外地へ出て行く者の目には、内地に残る私など、永久外泊のように映るだろう,

 

 区隊長の村山少尉は、私を優秀な通信手と言ってくれたそうである。つい先日も私は区隊長の□から直接、そんな風に言われた。それは卒業演習で第三区隊が豊橋の演習場へ出かけて、水戸の本校と無線通信の演習を交わして五日後に帰隊したときのことだ。第三区隊全員が集められ、区隊長、村山少尉から卒業演習に関する訓示を受けた。村山少尉は水戸の本校で我々の無線を傍受していたそうである

 「九月○日の十時から三十分間、本校基地と交信した通信手はだれだ。あんなでたらめな発信をして。三区隊には吉岡とか伊丹、小笠原なんて優秀な通信手がおってどうしたのだ」

 村山少尉に怒られながらも、私は嬉しかった。区隊長が真っ先に私の名を挙げて、優秀な通信手と言ってくれたのだから。

 

 この水戸の航空通信学校第八中隊の乙種幹部候補生三百八十名は、全員が昭和十八年十二月一日入営のあの学徒出陣兵である。東条首相の徴兵猶予停止命令によって、大学や高専校の学窓から学業を中断されて軍隊に入隊した者ばかりであった。私は最初、仙台歩兵第四連隊に入営し、通信中隊に配属されて、四か月間、みっちりとモールス通信の基礎を叩き込まれた。次いでこの水戸の航通校の募集の通達に応じて、昭和十九年四月に航通校に入校した。入校後、通信技術を既に習得している者は既修者と呼ばれ、通信と全く関係のない他の兵科から入校してきた者とは最初から区別されて教育を受けた。その既修者と来修者の割合は三対七位で、私は航通校入校の当初から優位に立っていたのである。前記の伊丹や小笠原も既修者だった。そして、中隊長に名前を呼ぱれず、任地が不明で中隊に残っていた三十名足らずの仲間たちも、いずれも既修者ばかりであった。

 

 思うに外地への任地が達せられずに中隊に残された者は、旗色の悪くなる一方の戦局の推移に備えて、日本本土防衛のために内地の航空基地に配属され、来るべき本土決戦の通信要員にされるのだろう。そのために航通校の幹部は、技倆優秀で、どこの部隊に出しても恥ずかしくないと認めた者だけを、航通校教育の面目に賭けて日本内地ぺ残したのだ。外地へ向かう者の中に、多少、技倆未熟の者がいたとしても、外地から航通校まで苦情は来ない。

 幸運としか言いようのない天運に恵まれて、私は生と死の岐れ路を「生」の方に向かって越えることができた。以来五十年、私のこれ以後の人生の途上で遭遇したあらゆる不運、失敗、悲哀などというものに対して、私は苦もなく諦めることができた。もしあのとき、中隊長に名前を呼ばれて五泊六日の外泊をし、戦地に向けて出発していたら、私の人生は二十二、・三歳で終わっていたろう。だからあれ以後の人生は言わば余禄である。このことに思いが至れば、私はあらゆる苦難にも平然と耐えることができた。

 

 戦争が終わって一年後の昭和二十一年夏、私は半年間同じ釜の飯を食って外地へ出発して行った航通校の仲間の、その後の運命の一端を知るこどがーでぎた。秋田県の戦友に米をもらいに行った帰途、羽越本線に乗って鳥海山を左に見ながぎゅうぎゅう詰めの満員列車のデッキに立っていた私は、偶然にも、あのとき外地要員になった隣の七班にいた小川という戦友にぱったり遭遇しだ。

 彼は私に言った。

「君の班の国吉だの、みんな戦死したぞ。バシー海峡で輸送船が撃沈されてな。八隻行っておれの乗っていた船だけ沈没しなくて、なんとかマニラまでたどり着けたんだ」

 

 彼の話はこうである。彼らが外泊から帰隊しても、すぐには出発しなかうたそうである。大洗海岸へ行って海水浴をしたり、地曳網を引いたりして遊び、このころはもう教育期間中は鬼のようだった各班長も、にこにこしてー緒にはしやいだそうである。彼らは私達少数の者がいないのに不審を抱き、班長に、

 「吉岡だの、どこへ行ったんですか」

と尋ねたそうである。班長は「わからない」と答えたそうだ。そして出発の日が来て、彼らは内地の港を出航して南方戦域に向かう途中、十月半ばのある夜、台湾南方のバシー海峡でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、彼らの乗っていた輸送船八隻中、七隻が沈没。海軍の二隻の護衛駆逐艦も一隻沈没、一隻大破。

「おれの乗っていた船も機関がやられてな、満足に走れないんだ。よく沈められなからたもんだよ。アメリカの潜水艦の魚雷が無くなっちまったんじゃないかな」

 

 彼はいたづらっぽく言って、苦笑した。彼の□から出た国吉(くによし)という戦友は豪快な男で、班のりーダー格たった。彼は未修者で、シンガポール組だった。また外泊の直前、シンガポールだなんて言ったら、お母さん、びっくり仰天するってと、強いて軽□を叩いていた和田も、当然、国吉と同じ船に乗っていたのだろう。

 あゝ!           

 航通校を卒業して二か月と経たないうちに、彼らは南瞑の海の藻屑と消えたのである。   

 

 あの昭和十九年後半ともなれば、日本海軍もたび重なる海上決戦の果てに、その水上艦艇の大半を喪失し、陸兵を満載した船足の遅いおんぼろ輸送船の護衛に回す艦艇など、もうほとんど底をついていた頃である。そういう状況を知悉しながら、なおかつ南方戦域に陸兵を送る作戦を企画、立案した陸軍上層部の将軍や参謀は一体、兵士の命をなんだと思っていたのか。彼らは輸送船など十隻行って二、三隻も目的地に着ければ御の字と思っていためだろう。そういう連中こそ真づ先に輸送船に乗り込むべきなのに、彼らは東京の大本営でぬくぬくとし、殺されたのはみな、前途有為の若い下級将兵だけであった。彼らのやったことは悪魔の所業である。兵隊のいのちは天皇陛下にこそ捧げ奉るべきものとの、明治以来の皇民教育に絶対の自信を持っていた彼らは、兵隊のいのちなど、虫けら同然にしか思っていなかった。戦争初期にこそ目本にも相当数あっ.た優秀な快速輸送船も、戦争の長期化とともにアメリカ側の攻撃によって撃沈され、この頃には日本には船足ののろい、旧式のぼろ船しか残づていなかったのである。そんな船に兵士を乗せて南方戦線に送る作戦を彼らは平然と決定したのだ。

 

 昼は制空権を握ったアメリカ空軍機が上空を乱舞し、夜はアメリカの潜水艦がうじゃうじゃと待ち構えている魔の海域へ、日本のぼろ船の集団が、ろくな護衛もつけてもらえずに、よたよたと出て行ったのである。こんな日本輸送船団を撃ち漏らしたら、それこそアメリカ軍こそどうかしている。しかし彼らは見逃しはしなかった。その技術力と物量とに物を言わせて、日本輸送船を徹底的に攻撃、撃沈した。

 

 しかし、その撃沈された日本輸送船団の一隻一隻には、前途に無限の可能性を秘めた、日本の優秀な若者の大集団が乗っていたのである。

 思うに戦死の形態は多種多様であろうが、乗っていた輸送船の沈没による戦死ほど悲惨なものはなかろう。運よく海上に投げ出された人には救助される機会も残されたろうが、甲板へ昇る梯子が僅かーつか二つしかない輸送船の暗い船底の、蚕棚のような寝台にぎっしりと詰め込まれ、窮屈な眠りを強いられていた大勢の日本兵が、魚雷のすさまじい爆発音と衝撃で、裸電球が一瞬にして消え、漆黒の闇の中にどっとぱかりに流れ込んで来た海水の奔騰に巻き込まれながら、なんとかして上部甲板に通ずる梯子にたどり着こうと必死にもがいている姿と、その瞬間の彼らの絶望感とは想像に余るものがある。彼らの意識は瞬時にして杜絶し、彼らは船体と共に、再びは浮かび上がることのない千尋の海底へと沈んで行ったのである。

 

 彼らとて、いつの日か、懐かしいふる里の鎮守の森を、もう一度見たかった。必ず生きて帰って来ると約束して別れて来た、いとしい恋人が待っていた,愛する相手と結ぱれて、幸せな家庭を作りたかった。家業を継いで、父母に孝養を尽くしたかった。五十年後、六十年後までも生きて、もって生まれた天寿を全うしたかった。このような、人間として当り前過ぎるほどの願望の何一つとして叶えられることなく、この上もなく健康で、何の罪も犯していない若い若い男の集団が、彼らが神がかり的な軍国主義の荒れ狂うこの国に生まれてきたという、たった一つの理由のために、生を享けた国の愚劣で残忍な戦争指導者どもの生けにえになって、大海原の海底深く沈んで行かなければならなかった。

 

 以来五十年。その水漬く屍も、海水の作用と歳月の経過とにより、今や白骨もぼろぼろになり、原形も止めぬほどに朽ち果ててしまったことだろう。

 しかしながら、この世に尽きせぬ未練を残して逝った彼らの魂魄は、夜ごと夜ごと深い海の底から海面まで浮かび上り、ほの暗い薄緑色に点滅する怨念の炎となって、五十年後の今もなお、広大な夜の大海原の至る所に、ほのかな燐光を放ちながらゆらゆらと揺れている。

 

その魂魄の揺れる夜の海上の何万米か上空をチャラチャラした服を着て、年末年始の休暇中の海外旅行ブームとかで、外国の歓楽地へ遊びに出かける金満国日本の若いOLの集団が、はるかなる眼下の暗い海面の、そのまた何百米か何千米下の暗い海底に横たわっている五十年前に白骨とならねばならなかった若者と、ほぽ同年輩の若い男たちに、人目も憚からずに、しどけなくもたれかかりながらジェット旅客機に乗って飛んでいる。                 

 朝風11号掲載 1992.11月

空襲下の「トラツク島」ー伊169浮上せずー

石渡 栄吉

                               (提供 笹原 佐太郎)

 

 トラック島を語る時、珊瑚の美しさと、陽に映える島々、スコールの過ぎ去った後の緑の美しさと、ここを訪れた万人が表現する言葉である。これに加えて、個人的に印象に残る体験、生活等も夫々特っている。

 昭和十九年二月の大空襲を境に、前は極楽浄土のような天国の生活だったと言う、後は一歩間違えば三途の川を渡ってしまうような地獄の苦しさを味わった生活だった。食糧難を経験をした苦しい時代。ここまで来るのにも、いろいろの体験があった。

 

私のトラック 

 風雲急を告げる昭和十八年九月末、マーシャル群島クエゼリンヘの交替要員に指名された。いろいろと準備に追われた末、十一月十八日特殊潜水母艦平安丸に乗船出港することになった。

 造兵。造機、造船合わせて総員三十六名で、誰一人として明日の命もわからぬまま、横須賀軍港逸見波止場より、夫々の家族の打ち振る日の丸の波のなか、沖に停泊の平安丸に向かった。

 この日は千葉館山沖に仮泊翌十九日仏暁南方戦域に向かって出港するとの事慣れない艦内で眠る。

 

 途中の航海は敵潜水艦に脅えながらもなんとか無事トラック礁瑚に入港することが出来た。

 早速ここでは、魚雷、弾薬、日用品等を陸揚げし、二、三日時間を費やしクエゼリンに向けて出港するものと心待ちにしていたが、何か様子がおかしい。

 あまり詳しい事は我々下っ端の工員には伝わってこないが、どうも機関長の話によると、今マーシャル群島海域は、軍艦でも危なく近寄れないと言う。ギルバート作戦と言って、この海域は米国の艦艇で一杯とのこと、十一月二十五日にはマッキン島、タラワ島守備隊の日本将兵は玉砕したという確かな情報も入っていると言い、一先本艦はトラック島に留まると言う命令が出されたと機関長より聞かされる。これから我々はどうなるのか、艦を下りて待機するのか、身の振り方を心配した。

 

 幸い良い話が飛び込んだ。平安丸は潜水母艦であると同時に、工作艦の機能も備えている。このまま平安丸を基地にして、艦船の修理をせよと言う事が決定、嬉しい話になった。それ以降我々は平安丸で寝食を共にし、艦船の修理に当った。環礁外は依然として敵潜水艦の監視下にあったが、環礁内は至って平穏な状態が続いて平和そのものの様に感じた。

 

 年が明け昭和十九年元旦、餅で祝い正月気分満点、大いに士気を鼓舞する。静かな様だが戦況は日一日と下降線を辿っていた。二月四日の米偵察機の飛来に始まり、忘れる事の出来ない二月十七、八両日の敵艦載機による大空襲となった。我々もこの艦上で何時吹き飛ばされるかわからぬ状況下で、休む事なく機銃の弾丸運び、弾丸込めと駆けずり回り敵機と対戦した。洋上に落下の爆弾に艦は大揺れに揺れた。海面も土色に濁った。激戦の凄さを感じた。此所秋島と夏島間の海面だけでも二千発以上の爆弾が落ちたと言う。十七日の奮戦も空しく十八日夜半ついに平安丸も機関室に直撃弾を受け火災発生これが命取りになり、総員退艦命令が出され、兵員は警備隊に工員は工作部にご厄介になる。それ以降我々は四工作部を基地に艦船修理に取り組むことになった。

 グループは平安丸で仕事をしてきた面々で、共に仕事をすることが多かったような気もするが、同じ職場同志なら誰とでも仕事は出来た。

 

 私のボーシンは石上文正さんで、二人で潜水艦修理によく出掛けたが、敵機の空襲も激しく、一日に二回潜航したことも度々あった.航走中でないので空襲警報が鳴る度、命令は沈座急げだった。急いでハッチを閉め配置に就く。非常ベルが不気味に響く。先づ****開け、何番何番全開、次から次へと答えが返って来る。続いてベント弁開け、空気の抜ける音が不気味に聞こえる。慌ただしく潜航停船中の潜航だけに難しい。前にのめったり、後に傾き生きた心地がしないが四十米も沈めば着底するので気を落ち着ける。やがてバリバリ コソゴソと珊瑚礁の壊れる音がすれば完全に着底である。気が楽になる。暫くすると、遥か遠くに落ちる爆弾の詐裂音が聞こえてくる。これで空襲は終わりだ。何とも言えない地獄から解放される。間もなく警報解除が伝達されると待望の浮上。水面に出た時の皆の安堵感が全身に伝わってくる。こんな毎日を送っていた。

 

 それは四月四日のこと、工事の下見と言うことで、朝一番の通船で石上さんと二人で伊169潜水艦に行くことになり、この艦はもう十日以上前に入港しているので大した仕事もなかろうと、何も持たずに行ったが、艦内に入り機閲兵と話している処によるとピストンリングの交換の様だ。改めて出直すと言うことで、一応工作部に戻り、午後行く事にした。

 午前九時頃か。空襲警報。我々は工作部道路向こうの土饅頭の防空壕に無事だったが、もうこの頃は地上攻撃が主で、海上はあまり被害がなかったが、重大事故が起きていたのだ。警報は解除されたがヽ伊169潜水艦は浮上してこない

 

 外に三隻か四隻の潜水艦はいたが、浮上している。何か事故があったのか、大騒ぎとなり不安が募る。詳細は分からないが生存者がいるという。何時も潜航するときは、隔壁ハッチは閉めるので浸水してもそこだけで防げる様に潜航している。どの区画に浸水したか様々の憶測がなされた。

 揚弾筒のハッチを閉め忘れたのではないか、機関室の給気筒のハッチを閉め忘れたのではないかとか、これによって司令塔中央部に浸水、浮力を失い浮上困難になったのではないかと言うことだったが、想像だけで、詳しくは全然わからなかった。慌ただしく救出作業が始まった様だが、空襲下の作業で思うにまかせず三日三晩救出作業が続けられた様だが、万策尽きて見捨てられた。

 

 当時夏島に上陸していた艦長始め公用便等含め幾人か助かったが、多くの乗員は艦と運命を共にしたのだ。その後も艦の浮上作業や、遺体収容作業も試みられたが思う様に進展しなかったと言う。

 この事故のあった後も他の潜水艦の仕事に行ったが、潜航するのが何か恐怖を感じる様に思えた。何時又同じ様な事故が起こらないともかぎらない。潜航中は話声も小さく、物音一つさせず、静かに空襲解除を待ったものだ。

 作業等物音のする仕事は厳禁だった。最後は無事浮上を祈るだけだった。一つ間違えば二の舞を踏む事必定、浮上作業の行われて居る海上付近を通る度、私も石上さんもあの時工作部に戻っていなかったら、海底に眠る霊となっていたろうと思うと、人の運命は判らないものだとつくづく思った。伊169潜水艦の兵員と共に二人の工員も艦と運命を共にしたのだ。

 紙一重の運命のいたずらとしか考えられない。

 戦没なされた方々の御霊安かれとご冥福をお祈り致します。合掌