横浜市 小沢 政治
◆個室での身上調査
各十字路の角隅に道路標識代用に日本兵の頭蓋骨を置くとは、この頃の米兵も心は荒れていたのであろうが、pw(戦時捕虜)に対する当たり、紳士的であった。
呼ばれてキャンプ内にある個室に入ると、机の上に煙草とコカコーラ瓶一本が置いてある。
お互いに机を前にして椅子に腰かける。
「さあ、これからお話を始めましょう」と白人ではあるが、日本語はなかなか上手であった。 聞いてみたらば、「東京に住んで居たことがある」という。
部隊関係のことは余り聞いては来なかつた。私の母の生家が横須賀であったので、そこを本籍地に申し立ててあった。
そのためか軍港内の様子を重点的に聞いてくる。
「どんな艦船いたか。大きな艦船は見なかったか。街の様子はどうだったか」と、よく分からないので困ったが、前々に見たことを適当に答えておいたが、この適当がまずかった。
次の二度目の身調査の時に、同じことを聞かれると、前回、どんなことを云ったのか覚えていないので、調書と合わぬのである。こんな時でも怒らないし、怒鳴るようなことはしない。このような温厚な米国人気質には感心してしまった。
「嘘を云ってますね」
と、膝の上に置いた書類を見乍ら、ニヤリと笑っている。
「今日はこれまでにします」
と、追求して来ない。コーラーを飲み、煙草の残りをもらって自室に戻ってくるのである。
人肉喰った日本兵捕虜、哀れ
このグアム島の収容所に一ヶ月位おかれたが、ある時のこと、昼食が終り自分のバリケードに戻る途中で、米兵ガードマンに呼び止められた。周囲を巡察している番兵である。
「ついて来い」と云っている。行った所は食堂で一人分の食事を持たされて彼は収容所の外れの方へと歩き出した。
向こうに犬小屋より少し大きめの舎が目に入った、中に一人のpwが入っていた。
入り口に食事を置かせ、「帰れ」と云う。どうやら罪人が入れてあるのだなと感づいた。
自分のキャンプに戻ってから、先輩のpwに、あの小屋のpWは何かと聞いたところ、「奴は敗残兵の時、ジャングルの中で人間を殺して喰った奴なのだ」という。
少し深く聞いてみると、単独生活のとき、島民の父とその子供、中年の叔父、この三人を銃で撃ち、その肉を木の枝に吊しておき、食料としていたのだと。
投降した島民が、米軍にこのことを告げて、捕まった奴だと。
その肉の味は、子供のは水っぽく、年寄りのは硬くてうまくない。中年の肉が手頃にうまい、と云っていたとか。 こんな話を聞かせてくれた、この人喰いはその後どうなったか?
ハワイ収容所で見せつけられたもの
私は一ヶ月後ハワイの収容所に向け、米軍の戦時輸送船に乗せられて、金属製の寝台ではあったが、出てくる食事の内容が仲々の上等で、食べたいのだが、船には弱く、茄で卵がつくのでそれのみを食べていた。周囲の連中は漁師だったとかで、私の分までよく食べてくれた。
何日かして船は、真珠湾に入港した。
海水の透明なことには驚いた。船舶は相当いたが、わが艦船は少なかった。軍用トラックに乗せられて収容所に向かう。
二輪のパトカーが先導していた。このためか交差点は赤信号でも停車しなかった。
山の中腹までの道路の両脇には船舶用とみられるプロペラが並べてあった。
行ども行けどもプロペラである。大きさも一定している。こんなに物のある国、物量豊富な国と戦ったのでは勝てないと、戦場以来再び、改めてこの時に感じた。
谷間にある旧兵舎のような収容所に入れられた。俗称サソリ谷と云うと、あとで聞いた。ここでの食事の量は充分にあった。
バラ線の向こう側にある収容所は、沖縄の民間人男子が収容されていて、そこは日二回の給食のようで、こちらと同じ様なものらしいが充分すぎる分量の盛りつけで、支給されていた。
(次号へつづく)
朝風59号掲載 2003.2~3月
◆谷間の収容所生活
このサソリ谷の収容所では、作業といえば、周囲が谷間なので、草刈りである。
サボテンの大樹の群生が、あちらこちらに茂っていた。その実を食べることは、やらなかったが、赤紫色をした小判型の厚みのある実であり採りづらい所にあった。 給食には満足して居たので、採る気が起きなかった。
ある時、一団がこれをもいでいたが、「欲しい」とも思わなかった。
キャンプの中に誰かが、その実をころがしてあった。今にして思えば、話の種に一つだけでも、食べておけばよかったと思う。
翼に白い丸い紋をつけたカラスに似た鳥が時々、谷を渡って行くのを見た。
あれに似た鳥が中国広東の奥地の空にもいたなアと、現役時代を想い出させた。
◆郊外の芝刈り
米兵舎敷地内の芝刈りを日課作業として、班毎に、駆り出されたことも有ったが、黒人米兵が一人ついているだけで何も云わぬ。
腰を下ろして休んでいてはいけないが、鎌を動かしていればよいのである。
急がせたり、追い立てるような使い方は、しなかった。
空に浮かぶ白い雲を眺め乍ら、手をユックリと動かしておればよくて、隣のPWと話を交わすことだけは止められた。
どこまでやらねばならぬ、ではなくて、やっていればよいのでよいが、お偉方が見廻りに来た時は、ハバー、ハバー(早く)やれという。
早く日本へ、転勤になりたい。フジヤマとゲイシャガール見たいとのこと。
給料の半分は、故郷の母に送っているとのこと、仲々のよき青年であった。
ある時はこんなことがあった。僅かの面積だけを、割り当てられ、ここを三人で芝刈りをやれという。
一日をもたせるのには、芝草を一本、一本起こして根元の近くで切る、大へんな気の長い、心の修養を必要とする作業である。
三人の中の一人は、ある大学の教授で、何かを教えてあげたら、そのお礼らしく、木陰の涼しい処で、修行の除草となったと宿舎に戻ってから云っておられた。
◆マリンの収容所
住みなれた頃に移動で、こんどは、海岸近く、砂地に二階建て棟で、マリン部隊の管理だとか、主として硫黄島のPWが、まとめられていたようで、ここは湾の近くであり、遥か向こうの湾内から大型飛行艇が、飛び立ったり降りてきたのを眺められた。
この収容所内で、編成された組織は、いつの間にか、陸軍一等兵の大学教授が、中隊長のような存在となり、対外交渉から事務一切をやって下さった。海軍も陸軍の下士官PWでも、この人の受けてくる、米軍よりの指示命令には、逆らう者はなかった。
給食はマリン米兵士と同じものを食べさせてくれて、上等の食事内容であって、時々は米兵宿舎前で上映した映画を、PWキャンプ内に貸してくれた。
ところ、どころでPWの英語堪能者が、説明してくれたのでどうやら、理解することができた。
復員後に、この映画が、我が街で上映されているのに出会ったことが度々ある。
日本本土発行の新聞紙が、差し入れられたり(デマ新聞紙だと云って信用しない者あり)。
地元発行の商業新聞紙(日本文『ハワイタイムス』ト『布畦報知』の2紙が入った。
地元のこの新聞紙より日時がおくれて入る日本本土発行の新聞記事の内容が、合っているので、私はこのニュースは信用していた。 (次号へつづく)
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谷田川・註
小沢さんが「監視兵」でなく「看視兵」と書かれたことに強くひかれました。それは表記の問題ではなく、看視兵の勤務ぶりもどこかのんびりしていますね。
早く国へ帰りたい、のではなく 「早くフジヤマ、ゲイシャガールの日本へ転勤になりたい」というのも愉快です。
当時、私はそんな兵士たちを待ち受けるための銀座の歓楽施設でバイトをしていました。
当時の『ハワイタイムス』など、どんな記事が載っていたのか、私はとても興味があります。
朝風60号掲載 2003.4月
(前号より続き)
収容所四方山話
▲キリスト像
住み心地の良い、この収容所から移動となり、次は日米開戦の時、日本が空襲したオアフ島のヒッカム飛行場の近くにある大きな収容所であった。
どうやら落ち着いたある日のこと、「故郷に便りを出すように」とスイス領事からだと、用紙が配られたが、これは出す者がいなかった。
PWの身の上が知られたくないのである。
時にはキリストの布教で米人宣教師が見えたことがあったが、真面目に聞く者は居らず、配る小冊子をもらっておくだけだったが、読む本も無く、日本文なので一応読んでみたがヽ砂を噛むような気分でその気になれなかった。
ある一人のPWが芥捨て場から拾い上げたネックレスのキリスト像を吊り下げていたところ、それを見つけた黒人の番兵が、彼に握手を求めタバコを与えて丁鄭に扱っているのを見てそれからは、同じような物が欲しくて、芥漁りも細かくやるようになり、笑止の至りであった。
▲給食
相当に大きな食堂でPWが賄いを行っていた。食事の内容は、まあまあであり昼の弁当は朝食がすみ、出口の処で渡された。
紙袋に入り一人一ケ、一斤の食パンはサンドイッチになっていて、卵焼きに他一品、乾果実プルーンガ少々入っていた。
大きなバケツに甘味なしコーヒーが置いてあり、各自水筒に注ぎ持ち帰る。連日同じものである、これを持って各班毎に外部の作業に出るのである。
▲クリーニングエ場
軍専用品を取り扱う民間工場であり、男女共民間人の米人と日系人が働いていた。この中に交り働くのである。
トラックで搬入されてくる布袋入り洗濯物は入口で品分けされて各コースに分かれ、洗濯され、その末端では、各所有者毎に纏められて、茶色紙に包装し紐かけとなる。
これは機械がやるので、ついていればよいのである。
入口の品分け係は衣類のポケットに、入れ放しのライター、小銭、缶切り、ナイフ等いろいろ出てくる。欲しい物は自分のポケットに入れていた。
従業員の時間厳守には学ぶところが、大いにあった。中間で休憩時のベルが鳴る、ピタリと手を止め持ち場を離れて行くのである。
お客である各所有者の衣類を個人別に積み上げてゆき、そこでベルが鳴れば、手を離すので崩れてしまう。又、元からやり直さねばならぬのに、やめてしまうのである。
さっさ、と場内売店か休憩室へ行ってしまう。昼食時も作業終了時も同じこと。
どの作業持場も同じことで、区切りよく纏めてから去るのが常識と思っていたが、考え方は異なっていた。区切りをつけて去ろうとしたら叱られたことがあり、作業中は怒ったように、口をきかぬが、態度で指示する。だがどの方々も人情味はあった。
▲食堂の皿洗い
復員軍人専用の食堂であった。午前中は周辺の掃除や機械によるジャガイモの水洗いで、調理給食品には手をつけさせなかった軍人が食事に来る前に、PW一同は、仕上り料理を昼食として食べさせてくれた。
一応予定人員が去ってから、金属食器の洗い方である。
各人が荒く洗って去るので大して手間もかからずに片付けられた。
この食堂の従業員軍人は、よい人ばかりで、収容所内に持ち帰りたいものは、「欲しい、下さい」と云えば渡してくれた。料理品の残り物や、調味料までも。これを使い夜は収容所内で特別食の宴会が始まることもあった。
▲葉巻たばこ
この食堂の主任将校が、ある時一本づつ葉巻きタバコを支給してくれた。理由はベビーが生まれたからとのことで、日本語で「おめでとう」を云ったのだが、通じたかどうか分からなかった。
この一本は大切にして復員のとき持ち帰ったが、香が抜けてしまっていた。
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谷田川・註
インパール作戦では、日本軍の進撃路は「白骨街道」と呼ばれるほど日本兵の白骨で埋まったと言われています。戦闘があったわけでもないのに。餓死です。
補給線のない前線の兵士のすさまじい飢えを思うと、物質的(とくに食料)には「恵まれた」状況ですね。帰国後、どのような意識の変化が起きたでしょう
(つづく)
朝風61号掲載 2003.5月
収容所四方山話1
▲野菜畑作業
この将校の指示で、一同は軍用の野菜作りをIからやることになる。
ある丘にジープで連れて行かれて「ここを畑にして野菜を作れ」という。伐採開墾から始めるのかと思っていたらば、三日程してから連れられて行って見たところ、ブルドーザーで、宅地のようになっていた。グループの中に一名、専業農家のPWがいたので、仕事は捗った。野菜種は後からいろいろ持って来た。豆作り棚用に必要な材料を要求したら、ジープで製材所に連れて行かれ、そこの従業員に仕事を差せて、PWは見ていただけ。
この農園もナス、ピーマンができかけた頃、我々は復員で引き揚げとなった。
▲収容所内の畑
給食の質と量は、まあまあであったが、お新香らしきものはキャベツの細切りの酢漬けで缶詰ものであり、これでは満足できず、塩漬けの野菜が食べたくて、所内の空き地に各自が小さな畑を作り、現地邦人に頼み、赤カブの種を入手して蒔き、これが一ヶ月くらいで食べられる位の大きさに育ち、手作りのお新香で、うまかった。
▲売店の開設
ここの収容所に移されてから、労賃らしきものが支給された。一日当たり九〇セント?だったと思う。
一冊のチケットが支給されこれで米軍人開設の売店に日用品を求めに行くのである。但し、アルコール類は無かった。タバコ、石鹸、文具等、数の制限はあったが購入ができた。
このチケットの使い残りは貯金という形で預けて、復員の時日本円に換算されて渡されが、このため復員直後の生活に大へん助かった。
貯金形式は信用していなかったため、渡されて本当に驚いた。当時の為替相場Iドルが15円の頃で、世は一ヶ月五〇〇円の封鎖(預金)時代(月収五〇〇以上は現金がもらえず、これより余剰額は封鎖といって強制貯金で下ろすことができないという制度)で、この時二〇〇ドル近くを現金で渡されたのであった。
▲一成人学校
所内の空き室に、教室を開いてくれた。作業より戻り夕食後から消灯時間までの二時間位で先生はPWの中から教授の資格を待った人が、主として英語と初歩の歴史であった。
筆記具の帳面と鉛筆は米側から支給してくれた。この歴史学科の時、舌禍事件が起き、その後、この学校はいつとはなく、自然閉校となってしまった。
この当時はPWの中に「日本、勝った党」と称する者が居て、日本の敗戦を認めず、民主主義に国情が変化していくのを信じない人がいて、成人学校の先生の言葉の端をつかまえて問題にしはじめたのであった。
PWの中に、ある方面から流れてくる日本勝ち組の流言が耳に入り、これを信じていた人々なのでした。
所内売店から石鹸を多量に求めてきて、各宿舎前に置いてある防火用水入りのドラム缶の中に投げ込んでは消耗作戦と称する行動もあった程でした(日本艦隊来るを信じ)。
ある時この流言が飛び散ったことかあり、収容所のはるか前方、山の向こうへと行く気で、PW二名が脱走した出来事がありました。二日目に捕まったという現地新聞記事で知りましたが、所内ではそれ程の騒ぎにはなりませんでした。
偵察する気だったのか、合流する気であったのか? その辺りのことは判りませんでした。
▲PW劇団
一ヶ月に一回位の割合で、所内広場に野外芝居がかかりましたが、一部の衣装は現地邦人からの差し入れ物、鬘をはじめ小道具類は、全て何かを利用しての作品で、赤城山の国定忠治や、瞼の母とかいった有名な劇が多く、次第に知れ渡り、時には米軍家族連や、現地邦人も見に来ていることがありました。
役者はこの道が好きな人ばかりなのですが、あの長い台詞をよく覚えたものだと感心してみておりました。
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谷田川・註
農園のための耕地づくりは、米兵がブルドーザーで。売店で必需品をかうための「給与」?支給。しかも一ドル十五円(当時日本国内三六〇円)、成人学校、野外劇、一見牧歌的な南の島の捕虜生活も、次号では戦争の内面をえぐる体験に迫ります。
(つづく)
朝風62号掲載 2003.6月
収容所四方山話2
▲所内の夜
どこから手に入れたのかトランプで、煙草を賭けての遊び、手作りのマージャン牌、これも煙草が賭かっていた。中には身代わり出勤を賭ける者もいた。(診断の結果、休養日をいく日かもらった者が負けて、相手と入れ替わり出勤するのである)
あるとき、この休養の取り方の手口を耳にしたことがあった。診察室では米軍医が、診てくれるが、PWの軍医も、そばについて居るのである。
申し出る患部は「睾丸が痛む」というのである。深く聞かれたらば、故郷に居た時も、時々に起きたと答える。「どう治療したか」ときかれたら、「静かにしていて、二、三日すると癒った」と云うと「静養していろ」と診断が下る。これでいく日か休養がとれるのである。これは本人から直接聞いたことではないので、真偽の程は分からないが、替え玉出勤があったことは確かなことであった。
この軍医の質問で「戦地は何処か」と聞かれて「硫黄島」というと診断もしてくれずに「帰れ」と追い出される。
身近の肉親が戦死されておる戦場なのだと、聞いていた。「あの軍医の時は絶対に硫黄島とは云うな」と、知らされていた。
▲戦場体験話
トランプ、花札、マージャン。このグループ以外に一つの自然と集まるグループがあった。
ここは自分の体験談、聞いた話、いろいろ出てくる戦場、戦闘話である。
ご遺族の方々には聞かせたくない話が出てくるが、五十八年過ぎた今なので、執筆してもよいのではないかと考へて筆をとります。
▲戦車に向かっての肉弾攻撃
爆弾の入った箱の上部の中心に臍がある、ここから出ている紐を首輪の如くかけて、箱は両手で持つ。箱を前方に出せば(両手を延ばす)紐は引き張られて、箱は爆発する。
これを持ち米軍戦車の底部に飛び込み、自分も四散してしまうが戦車の底部に穴があき、擱座する。
この目的を果たすために、前日戦車の来た道の脇に隠れて待機しているのだ。狙撃兵がついて来ているので見つかれば撃たれる。
前日に死んだのだと見せかけて倒れていても、この戦法は米兵も知っていて、確かな戦死体であっても、必ず一発は撃ち込んでから進む。
これを避けるための手段が次の如くである。近くの戦死者の腹をあけて、体内から臓器を取り出す。
これを自分の身体にのせて、死んだ真似をして待機しているのである。
人間、最期ともなれば、どんなことでも、やれるものであると思った。この姿で死んでいる者には、狙撃兵も、さすがに念のための一発は撃って行かぬと考へた戦法なのである。
それは、やれなかったが、幸いか、その日は戦車は来なかったので陣地に帰ったという。これまでして戦車への肉弾攻撃が戦場というところなのです。
▲末期の水は小便の水
孤立してしまった壕内でのこと、日中は弾雨激しくて出られないし、夜に入っては次々と撃ち揚げられる照明弾が明るすぎ、米陣地も近すぎて出られない。
重傷者に手当ての衛生材もなし、取り巻く戦友たちも、自分の持っている水筒には水は、すでに無し、重傷者は「殺してくれ、水をくれ」と激しく訴える。
一同は考えた末に、飯盒の中に、仲々出てこない小便をして、どうやら溜まり、これを末期の水として与えることにした。
飲み下したかは聞きもらしたが、自分で飲んでみたが、苦くて、とても飲めたものではなく吐き捨てたと語っていた。
残り少ない水筒の水をチビリ、チビリとなめるように飲んで、戦闘していた体から出る小便なのだから、相当に濃いものであった筈だ。今でも私は飲料水を口にする時、この話が思い出されて、感謝し乍ら飲み、味わっている。
亡き戦友が、もし本土に帰れたら、水道の蛇口に口をつけて腹が破れる程、飲んでみたいと云っていた言葉を思い出す。
(つづく)
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『朝風』5月号、37頁の谷田川氏の註、
有難きお言葉。
「故国に帰還したときが終わりでなく、その後の生き方のようなことに少しでも触れて・・・」云々とありますが、まったく同感で、これからそれに触れて行きたいと思っております。
戦友会に入会は勿論、激戦場への遺骨収集奉仕にも10回以上(1回14日~28日)渡島しております。
ご遺族の渡島参拝船便、航空便にも、度々案内人として渡島しております。
現地、上陸作戦のあった南海岸において、日米合同慰霊追悼式にも3回、参列しました。
本年は3月12日、盛大に行はれ、米側は500名、日本側C11機で60名位が参列しております。
戦場には各部隊の墓標碑が80柱近く建立されております。
遺骨収集団員が、毎年2回渡島しておりますが、2万名玉砕の内、未だに8千名ぐらいまできり遺骨が収集されておりません。
これらに関する記事も、順次投稿して参りたいと思っております。
谷田川さん、十分お体に留意なさってお過ごし下さいますように。
谷田川・註
小沢さんの体験談は胸の奥深くをズンと扶られるような中にも、ほっと安堵する人間性にふれることを嬉しく思っていました。そのわけが分かりました。
かつての激戦地へ遺骨収集奉仕の渡島10回以上。日米合同慰霊追悼式への参列も3回も・・・。
私が町田での小学校教師の時代、六年生の女子はこんなことを言ってました。
「おじいちゃんは毎年、群馬県の山奥の戦友のお墓参りに行く。
おじいちゃんのこんな大事なお友達を殺してしまう戦争なんて絶対ゆるせない」
朝風63号掲載 2003.7月
捕虜収容所内の夜話
海軍医務科壕内の悲劇、これは壕内最期近き頃の脱出者の話である。
夜話は体験者が語り始めるのだが、この時は信じる人が少なかったようだった。
硫黄島の北地域にあった海軍医務科壕とは、海軍病院のことであり、兵団指令部壕近くで、西海岸近くの内陸部、丘の麓にあった。
南海岸に上陸してきた米軍は、南東地区を苦戦の末に突破し、北地区の兵団指令部壕へと迫ってきていた。
兵団周辺の防備陣は固く、米軍の戦況は進捗しなかったが、毎日少しずつ、陣地は突破されていった。
明日はこの医務科壕も危ういという情況にあった時、戦傷者も重傷で動けない者は除き、それ以外の者は、壕外 に出て戦えということになった。
その晩、奥の方に収容されていた重傷で戦えない者約五〇名位は、入り口近くの者から順次、軍医が注射により、一足先に天国へ旅立たせ始めていた。
この軍医は暗い壕内で呟いていた。
「生命を助ける教育は受けてきたが、生命を絶つ教育は受けていない」と。
この時の情況を語ったPWは、奥の方で横臥していたとのこと。このままここに居たのでは、やがては自分の番がくると考え、脱出することを、心に決めて暗い壕内の負傷者の横たわる脇を這って少しずつ抜けきり、壕口の外に出たが、もう進む体力もなく、そのまま周辺に居たところ夜が明けてしまい、そのうちに米軍の来襲となり捕まったのだと。
遺骨収集
私は戦後、遺骨収集団員で渡島し、責任者から、調査班で北地区を歩け、海軍病院跡を、見落とさぬように特によく探すようにと指示された。
元島民の方の証言によると、自分の家の庭先に壕口があった。この島で一本きりない白い花の咲く樹があったとのこと、北地区では同じ所を何回もよく歩いたが、その樹は誰が行っても、遂に見つからなかった。
何年かして、ある年のこと、この壕の上部西側の丘の上の陣地に居た通信隊の生還者が遺骨収集団員で参加してきて、自分の居た陣地を見つけ、この下の方に病院壕があったと昔を思い出し、旧厚生省の団長に申し出て、「機械力を使わせて欲しい」と。
当時の壕□の辺りは、谷間の底にあったが、米軍が何かの都合でこの谷間は埋められて平原となっており、彼の脳裏にある地形とは、全く異なるわけで勿論、白い花の咲く樹がある筈もなく一面のネムの樹のジャングルである。 (白い花の咲く樹とは、ミカンの樹であったことが後で判る)
彼は機械力のブルドーザーとユンボを運用する機械班員の近くに付きっきりで平原を掘り下げ、その土砂を他所に押し出す、同じことを六日間も行い、谷間は出来たが壕の口は出てこない。
七日目に団長が「他の所でも機械力でやりたい場所がみつかっており、今回はこの位にして、一応中止し、次の機会にしてくれ」とのことである。
彼は「この場所に間違いないので、では、あと半日やらせてください」とねばる。この半日の作業で、見事に壕口が出てきたのであった。
証言どおり奥には、頭を並べて遺骨が眠っていたのであった。
収集班員一同が壕内を整理はじめると、一体のミイラ体が発見されて、調査の結果、身元が判明した。
焼骨式までには、少しの日時があったので、団長は本土に連絡。東北地方のある県に兄弟がおられることが判り、急濾、この方を現地に呼び寄せ(自衛隊航空便で来島)対面してもらったことがありました。
上司の命令により、順次注射を打った軍医はその後、地上戦闘で戦死されております。
この話の後日談があります。
この軍医の方の奥さんが裏日本のある県におられます。あるとき地区で慰霊祭が行われ、その席である遺族の方から、「私の夫は、あなたの主人に殺されたのだ」と言い出し、ひと騒ぎあったとのこと。
これを後日聞いた硫黄島協会(生還者と遺族が会員)の役員でもあり、遺骨収集責任者として先頭に立ち、度々渡島奉仕されております旧陸軍の将校で生還者ですが、次の年の慰霊祭に参列し、この件に触れて発言、「当時のあの情況下、上司の命令であり お国のためだとこれに従い、そして後に戦死されておられます。ご遺族を責めないでください」と述べられたと聞いています。
英霊に対しご冥福を心からお祈り致します。
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谷田川・註
今月も小沢さんから「ほっと安堵する」部分にもふれられる体験談をお聞きできて嬉しく思います
小沢さんの内面に形成された厳しい中にも、温かい人間性の源の一つは遺骨収拾団の活動ですね。
上官やアメリカ軍人のなかにもいい出会いをもたれて、私はほっとします。
(つづく)
朝風64号掲載 2003.8月
収容所四方山話3
▲南方孤島よりの脱出
ハワイの私のいた収容所では、夜ともなれば、賭けマーヂャン、トランプ花札とあちらこちらで賑やかなものであったが、ある一ケ処では、戦場談義で盛り上がるところもあった。
ここでは体験談であるため、話が次々と繋がっていくのである。
硫黄島戦場の苦戦が手を取る如く判っていくのであった。裏話に近いものまで、飛び出すので、それは本当か?と疑いたくなる話も出るが、手柄話ではないので信じる他はない。
こんな雰囲気の班内で、一人寂しく、どこのグループにも入らず、ぽつねんとしている骨格のよいひとが居た。
ある時、「あんたは島の何処に居たのか? 部隊名は」と聞いてみた。
「私は皆さんのように戦場に居たのではない。南方の小さな島の守備隊として勤務していた」と、その生活の様子をボツボツと話し始めた。
島の名を云ったが、聞いたことの無い名であった。班長以下四〇名ぐらいきり居らぬ島、船便が来らず、弾薬は勿論のこと、食糧も何も届かぬ孤島、沖の方には米艦が巡航しているだけ。
▲食糧の欠乏
大半が栄養失調で寝込んだきりの状態であり、木の若芽を摘んできて、茄でて絞り、握り飯ぐらいの大きさにして一人一個の割り当て。その作業もできない者が多くなり、ゴロゴロと寝込んでいるばかり。
一日中、摘み歩き、夕方になり戻つてから茄で上げ、一同に少し宛てだが配る有様で、その若芽も摘む処が無くなつてきた。
油虫を捕えれば上等で、空き缶の中に入れ、火の上で棒で中を掻き混ぜて、羽を焼き落とし、胴体だけにして食べる。これは上級食品で、蝸牛が見っかれば、まず、殻を除き、塩はないので、空き缶の中に入れて、唯々ひたすら棒で掻き廻すだけ、その内にネバネバが取れてくる。これで何とか食べられるのだとか。
時には蛇を見かけることかあり、身体が弱っていて体力が無く、蛇の方が素早くて、とても捕まらない、と。
▲暗黙の了解
兵の間では、日常こんなことが秘かに囁かれていたと。「俺が死んだら、肉を食べて、生き残ってくれ」と。 埋葬場で送別式典が営まれ、解散時刻に近づく頃には木陰、岩陰の聞からチラチラと隠れている人の顔が見える。引率されて埋葬隊が去っていくのを待っているのだそうである。
「食べたことがあるのか」と、彼に聞いたが、そこまでは答えなかった。公然の秘密であり、暗黙の諒解となっていたことは察しがつく。
▲禁断の木の実
部隊の監理下にある周辺広くは、許可なく木の実、つまりバナナ、パパイヤ、榔子の実等をとってはならぬ、この禁を破った者は、死刑に処すと厳命されていた。
ある時、彼は若芽の収穫量心は沈みがちで一人トボトボと帰隊の途につく。
その道筋の土手にある樹の実の一つに手をつけてしまった。
このことが聞もなく隊長の耳に入った。死刑は免れない事実である。隊長は、「日頃、お前は隊員のためによくやってくれ、今回も自分のためではなく、やってしまったことなので、」とすぐに死刑は執行せず、隊の近くの木に宙吊りにされてしまった。
三日経っても降ろしてくれない。熱帯の焼け付くような炎暑下である。夜になると戦友が水や若草葉の茄であげたものを□に入れてくれた。
▲脱出
三日目の夜遅く戦友が近づいてきて、「お前、吊されていて、その内に干物になって死んでしまう。俺が網を切ってやるから逃げろ。
明るくなるまでに、海岸に出て、米艦船に向けて褌を振れ。助けに来てくれるだろう」と、彼は云はれた通りに実行した。
これを見っけた米軍からは海岸に向けて砲弾が飛んできた。米艦からは砲陣地に向け艦砲が撃ち込まれた。
友軍の砲は沈黙した。沖の米艦からはボートが来て彼を乗せてくれた。
このような身の上なので、ハワイの収容所では小さくなって居たのであった。
▲励ましの言葉
「あなたは、いい戦友のために、そこまで働いたのだから、何ら卑下することは何もないよ。一旦は干物化して死んでしまうところだったのだから、これから先の人生を大切に生きなさいよ。小さくなっている必要はないし、pwはみな同じ平等なのだから、堂々としていなさいよ」と励ましてあげた。
「他の棟では、旧軍隊組織の階級意識が生きておるところもあるが、この棟は、それは無いから安心して居なさいよ」と教えてあげた。
この棟は親米派の一団と云はれていて、別の目で見られていた。特に危害を加えられるようなことはなかったが、米軍側からは特別優遇されることもなかった。
素直に日本の負け戦を認めていたまでのことで、班内に沖縄空爆の特攻隊員の生き残りの方々が、居たことも敗戦を認める材料になっていたと思う。
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谷田川・註
いろいろ手を尽くして当時、南方の島に遺棄された兵士の写真を探しました。
木の芽、草の芽を摘んで茄でている写真がありました。しかし、こんな写真を写した人がいること自体、小沢さんの記述の実態からかけ離れていますね。
(つづく)
朝風65号掲載 2003.9月
▲捕虜収容所内の夜話
私的制裁常習者を海中に葬る
班長であったらしきpwの人の話である。
夜話の会談中、周囲の人々が驚くような暴露話や裏話を出すので、この人も何か一言発言したくなったらしく、ポソリポソリと語り出した。
この人が陸軍か海軍かは分からなかったが、米軍が明日にでも上陸作戦に入るのではないかという時になっても、相変わらず、いつものように部下班員に、私的制裁を加えていた者がいた。
ある時のこと、闇の中でなにかひと騒ぎがあったナと感じていたが、その夜の点呼には報告の声が後に、一名不足しているのは分かっていたが、強いて正さぬことにして解散とした。
戦闘に入れば全員戦死と定められた運命にあるので、何も云はなかった、と。
この発言者が、この宿舎の何処のあたりの寝台にいる人なのか分からなかった。
日中に顔を見たかったが、遂にそれ以上のことは分からなかった。戦場では、弾丸は前方からのみ飛んでくるとは限らないと、聞いてはいたが、この話は満更、嘘でも、でっちあげでもあるまいと私は、薄暗い室内の片隅で語られる、小さな声を聞き逃すまいと、聞き入っていたあの時。
▲飲料水の困窮
戦闘中の極度に困窮していた話となった時、2~3人の者が相談していた。どこからかやって来る友軍を撃ち、その水筒を奪うことを話し合っていた。
「それだけは、やめろ」と強く止め、やめさせたことがあると、このような発言をしていた人ふがいたが、力を入れてくり返し云っていたので、本当らしいと察しがついた。
そんな苦境の情況下、米軍戦死者の指輪を集めていた奴を見たとか。何処から集めてきたのか日本貨幣を、ごっそりと持っていた奴がいたとか。常識ででは考えられない話を聞いた。
▲ある壕内のできごと
戦闘中のことであると、次のように、くり返し強調していたpwがいた。その壕は大きくはなかったが、第一線に斬り込みに出て負傷した各隊からの兵士のみが、入っていた壕内のできごとである。
ある日、米軍の偵察兵にみつかり、明日は必ずここへ攻撃兵が来ると判った夜のことである。割合としっかり動ける負傷兵は一団となり、どこかへ脱走、移動して行ったが、残る十七名の重傷者に対し、生水の入った一升ビンー本と、生米を飯盒に一杯を残し、缶詰他食べ物は全て持ち去り出て行ったと、これは十七名の中に入っていた人の、いかにも悔しそうに語る物語りであった。
人間、誰れでも最後は、自分が一番可愛く、命を大切にと思い、行動するものであり、重傷者であろうと、よき戦友であろうと、面倒はみてはいられない、ということになるのであろう。これが究極の戦場の姿ではないだろうか。「何処かで奴らに会ったら、仕返しをしてやるのだ」と、息巻き、興奮して発言していたが・・・・。
別項〔遺骨収集奉仕〕
▲嘘を告げて逃げてきた
この人は敵弾が雨の如く降ってくる中を、傅令を命ぜられて、ある部隊へと走った。どうやら探し当て、たどり着き、壕の入り口に飛び込み、階段を下り奥の目的の室に到達し、任務を果たした。
すぐに入り口へと駆け登り外に出ようとした。その手前に大きな岩石が、砲撃により転がり込んでいる。その下に二名の兵が下敷きとなり挟まれて動けず「助けてくれ」と叫んでいる。自分一人ではどうにもならないし、他部隊の壕内でのこと、下にはこの隊の者が大勢居るのに誰も助けに上がって来ないのだ。
弾雨は激しく、入り口近くには誰も近寄らないのである。
「今、連絡してくるから」と云い残し、嘘を告げて、弾雨の中に飛びだし、我が部隊へと走った、と。
この嘘を告げて逃げ帰った一兵卒の人と戦後遺骨収集奉仕で、共に歩いたことがある。
この壕を見つけ、調査に入ろうとしたらば、彼が昔、此処で云々と言い出した。
その岩石周辺をよく見たが、小片骨も見当たらなかった。
これは何年か前に来た遺骨収集団員の手で収集済みであったのか?、 これを見て彼は「何年も気がかりでいたことが、解決できていてたいへん安心した」と呟いていた。
彼はその弾雨の中を弾薬倉から砲陣地へと弾薬運びに奮闘、奮戦し、暗夜一列になって進行中に前後の戦友が被弾し、倒れたことがあるも、彼は生還でき、この時まで戦後永らく心に重荷を背負って、生きて来たのであった。
ホッとした心のその安定感を得られた瞬間の気持ちは、十分判る気がした。渡島し収骨奉仕に来た甲斐があったネと声にかけてやった。
この帰路ジャングル内の丘の斜面で彼は、地上でご遺骨をみつけた。「あの時の戦友の一人かも知れない」と、渡されていた白い布袋に納めて肩に担ぎ歩き出した。
弾薬を担いだその肩で、今はお骨を担いでいると、私は彼の後ろ姿を見ていた。
(つづく)
朝風66号掲載 2003.10月
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谷田川・註
「気掛かりだったことが解決できて安心した」
小沢さんの記事には、いつも、ほっとさせられるところがあります。
それだけに、貴い命を落とされた方、奪った戦争への憎しみが増します。
▲兵士が銃を捨てた時
それは自決を決める時である。進むこともできず、退くこともできなくなった時であり、捨てれば、その先の将来に処罰があること等は、考える余裕もない一瞬の決意であった。
▲投身に至るまで
南地域で生き延びた残存兵と、旅団長以下約五〇〇名が、命令により、北地域の師団長壕へと、合流するために夜行軍で、台地を占領中の米軍には、気づかれぬように、東海岸際近くを行進、東の水平線の空か、薄明るくなる頃には、その辺り近く自然洞穴や、友軍の出撃あとの、空いている壕に分散して入り込み、暗い夜の来るのを待つ。
日中は米軍偵察兵に見つかり攻撃される壕もあった。我が中隊も二日目の日中に、分散待機中に見つけられ攻撃され、相当多くの犠牲者が出た。
夕刻になり、米軍は引き上げて行く。 暗くなってから中隊長以下入壕中の壕表前に残兵は整列した。
此処まで来る途中で、海岸線近くは旅団長の一行が、その他の一行は少し内陸側を、我が中隊は最も内陸側を進行していたことは後々になってから知った。
整列地帯の近くには、日中の戦闘で、戦死者が相当斃れていたが、そのまま出発、行軍に移った。
間もなく艦砲射撃で崩されたのであろう、砕かれた岩石がゴロゴロで、枯れ木のような、お化けのような姿の樹々が立っている。
戦闘前はジャングルであったと思われる所に来た。
先頭を歩く道案内の兵が、「この土手を降りると、その先が目的の師団壕□であります」と、中隊長に報告した。屈んで夜空の明りで、見たところ、ここは盆地であるような気がした。
報告を聞いた中隊長は後続の兵に対し、「小休止」と一声発した。間もなく出発の号令がかかる。
▲捕捉全滅さる
この時ヽ周囲の丘らしき高台の八方から、機関銃の一斉射撃である。どうやら十分に引き寄せられたらしい。どこに伏せたらよいのか判らない。
目の前にあった少し大きめの岩石に抱きつき、銃弾のくる反対側へと廻る。弾着が近くなると、反対側へとくるくる廻っていた。
一斉射撃は一旦止んだ。その隙を狙って、何やら少し茂っているように見える方向へと駆け出し、走った。上部を砲弾で払われてあるような、大きな木もあり、その下部を走った。その時、誰か二人が共に走つてきていた。
私は先頭を切って走っていたのであった。
又撃ち始めたが、ここまでは来たらず、外れていた。
走るのを止め、前方を見ると、闇のの小さな灯が眼に入った。あれが目的の壕だと直感した。
姿勢を低くして近づいて行った。この時は三人だったが無言である。その灯は師団壕を攻略のため遠巻きにしていた米軍戦車群の一団であった。
エンジンがかかった。こっちにやって来る。横っ飛びに逃げた。どの方向に向けて逃げたか判らない。
この時は三人一緒に走ったが、エンジン音は追ってきた。
走っているのは自分一人になった。
走った先は崖の止まりで、端に来ていた。もう進めない。逃げる所はない。岩壁を銃底で思いつ切りつつ突き削るようにして一歩足を下ろす。その先の下を同じようにして削る。
残る足を下ろす。背を壁に付けて、この繰り返しでどうやら地上より人影は消えたわけである。
背中は岩壁に押し当てて背負ったような姿勢である。頭上にエンジン音はしていたが、その内に消えた。戻って行ったことが判る。
▲投身 最期を図る
一安心して戻るために登ろうとしたが、周囲に握るものが何もない。暗いのでよく判らない。この状態ではどうにもならない。
廻れ右をして上へ登っていけない。岩壁を背にして貼り付いたようなものである。
登れないことを知った。この時、自決を覚悟した。中隊は全滅してしまっている。ここまで生き残って居るのは俺一人だけなのだ。すでに出発の時には、砲撃戦で、全弾を撃ち尽くし、そのあとの白兵戦でも、生き残って、この行軍に加わった。そして、ここまで来た。部隊は全滅なのだ。もう生きる必要もない兵なのだ。俺は死ぬ運命にあるのだと悟った。
その時、ここまで持ってきた日本軍人にとっては、生命より大事としている銃を、まず飛び込む先に投げた。壁底についたであろう時間だが、なんの音もしない。この下は打ち寄せる波が砂の盛り砂州なのか? 肩に掛けた防毒面も、外して投げることにも気づかず、そのまま眼をつぶり飛び込んだ。
スーつと地下の穴に吸い込まれていくようで、永かったような、短かかったような、やっぱり永かった。さらさらした自然の盛り砂の中に落下したのであった。どこも痛くない。
死んではいないのだと気がつくのは早かつた。
▲着地、そして回生
首のあたりまで潜り、砂の中より、這い出すのには時間はかからなかった。
目の前の少し先には、白波を立てて巻き上ってくる海の水。辺りには誰も居ない。
凸凹した岩石もない。頭の上は今、自分が飛び下りた岩壁が黒く、ヌーつと立っている。
波打ち際を当てどもなく歩き出したが、身体はどこも痛くはない。俺は助かったのだ。生きているのだ。助かったけれど、これからはどうしよう。
この先、極楽があるのか、地獄が待っているのか。何か頼るものはないかと、ボーつとしながら、水際の砂の上を歩いていた。どこに行くという当てもなく。
▲地獄に向いて歩いていた
どの位歩いたか? 前方に何か黒い固まりが見える。近づいて見ると、人の固まりの一団である。
人間の仲間に入れた。生きている人間の仲間に入れた。生きている人間の仲間に、ここで我を取り戻した。「何でここに固まって居るのか」と聞いてみた。
俺は声が出た。口がきけた。
あの時射撃されて以来、発声していないのである。黒い一団の一人が教えてくれた。「この先の白波に突出している岩に上り、向こう側に行こうとすると内陸台上から撃ってくる弾に当たりコロリ、コロリと海の中に倒れて消されてしまう。進めないのだ」と。
私もそこに屈み込んで黒い一群の中に入る。撃ってはこなかつたが、やがて東の空がうす明るくなってきた。明るくなれば集中射撃を喰うことは判り切っている。意を決して群れをかき分け、前の岩石に上り、向こう側に飛び降り、水際を歩きだした。大丈夫だったので、後に続いた者がいた。
撃ってきた。海の中にと倒れていく。米軍陣地では、気が付いたのであろう。撃ってくるのだ。水際を離れ、自然洞穴を探し、潜り込んだ。そこには短銃自決した屍がいた。枕元に短銃と缶詰がIヶ置いてあっつた。
(つづく)
朝風67号掲載 2003.11月
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谷田川・註 小沢さんの『戦場よ、さらば』を読み始め、ニューカムの『硫黄島』を読んでいます。死者日本軍2万、米軍3万。唯一米軍が日本軍より多くの犠牲者を出し、米本国で議論が沸騰した作戦。
日本軍はほとんど全員玉砕。
そんなあやふやな知識の検証のし直しをしたいと思っています。
よろしくお願いします。
硫黄島全滅
▲はじめに
投身自決を図ったが、落ちた処は、打ち寄せる波が押し上げたのか、砂が盛ったように高くなっていて太陽熱のためかサラサラ砂に成っていたのだ。
首の所まで潜ったが、蹟き乍ら這い上がる。身体はどこも痛くなかった。波打ち際を歩くうちに、前方に日本兵の一群に出会う。
丘より撃ってくるために、進めないで待機中の一団であった。夜が明けかけたので、群れをかき分けて突出岩盤の上を乗り越え、突破する。
波打ち際を進むうちに、内陸側の岩淵に洞穴を発見し、中に入ると、そこは短銃で自決をしたのか一人、上向きで横になっている姿の日本兵を見た。枕元に缶詰が一ヶと、短歌が置いてあった。前号でここまで記しました
▲屍体より缶詰を頂く
この時、俄かに空腹を感じた。二日前に僅かの乾パンを食べただけであったのだ。
仏様のものを頂いては申し訳ないと思ったが考えたら自分も同じような境遇に近いのだと思った時、頂くことの悪は感じなかった。
本人が枕元に置くとは不自然だ。
この洞穴を後にして出て行く者が、せめてもの心尽くしで、捧げて行ったのであろうと思った。これをすんなりと頂いた。武器も食料も持っていない身なので、この短銃も頂くことにした。
缶詰は魚肉玉の煮付けであった。他の者は脱出して行ったと考えると、この洞穴に居るのは危ない。夜が明けて外が明るくなれば、米軍が残敵討伐に来るであろうと、推察し、この中に居るのはキケンと考えた。
そこを出て、何処をどのように歩き、何処の穴に入ったのか、ぜんぜん記憶にない。
南の方向、摺鉢山の方向に、歩いていたことだけは分かっていた。
艦砲射撃で一木一草吹き飛ばされて、一面の赤土と化していたが、歩く途中で、自分の背の高さ位あるレモン草の畑が一ケ所あり、その中をかき分けるようにして歩いた記憶が残っている。
幾日目であったか、暗い夜を歩いていて、何となく決死の行軍に出る前の、自分の中隊壕の近くに来ているようであった。
やがて平坦な処に来た。これを見て地形がつかめてきた。出撃前の中隊壕のある丘を見つけ、その下部にある壕口を見つけた。
全員戦死しているのに自分一人だけ、元の巣に戻ってきて入るのは、すまないような気になった。
入って居れば、その内に、誰か一人位は戻ってくる者もあるだろうと思い、暗夜の外部から暗い壕内へと入って行った。
人って少し進み、左折すると、右のポケット穴に、白兵戦の時、重傷を負い、そのポケットにねかされていた兵士が、一人いることは分かっていた。
総出撃に際し隊伍について行けぬので、「殺してくれ」と云っていた。
少隊長が短銃で腹部を撃ったが、返り血が、銃口より入ったらしく二発目が出ない。
近くに居た私の三八式歩兵銃を「よこせ」と云って取り上げ、これで最期を決めたという行動があった。
この屍体があった筈だ。あれば、この壕は自分の中隊壕であることに、間違いないと考えた。
手さぐりで暗い中を側面伝いに進んだ。この辺りと思はれる処に、ポケットがあった。地表の少し上を手を進めて行くうちに、屍体が手にふれた。
あった。間違いなく、自分の中隊壕だ。自信が持てた。引き返して奥へ進む。その先は貫通しておらず、行き止まりである。
手前に玄米の俵が積んであるのが分かる。
途中のドラム缶には半分位の飲料水が入っているのも分かった。この辺りで横になり休むことにした。
▲敗残兵の一人暮らし
これからが、敗残兵の一人暮らしが、始まったのであった。いく日経っても、戦友は一人も入って来ず、戻って来た者は無かった。
私か戦車に追われる前の、あの米軍の雨のような銃撃で全滅したのであろう。あの包囲網を脱出できても、ここまでは戻れず、何処かで戦死されたものと思うようになった。
「いつ死のうか」「どうやって死のうか」「何処で死のうか」そんなことばかり考える日々であった。話しかける相手もなし、生臭い戦場に、一人うろつく。死に損ないの一兵士と化したのであった。
冥途を彷徨う人間であったのだ。
この時の体験が後に、生還できて戻り、内地の日常生活で、精神的に大へん役に立った。うまい空気と水があり、温かい米飯に、塩をかけただけの食事でも「うまい」「幸せだ」と感謝できる心が自然と湧いてくるようになっていた。
一応終と致します
朝風68号掲載 2003.12月
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谷田川・註
今、教師に戻れたらこの文を読ませて小学生だったら「この一人ぼっちの兵が、君のおじいさんだったらどう思う」と聞いてみたい。
大学生だったら「この兵士のその後の運命(人生)を、具体的に想像してほしい」と聞いてみたい。