元日本軍隊の懺悔物語1

仙台市  本郷 勝夫(81歳)

 今現在、イラクで戦争が行われている。戦争は人間が人間でなくなり又、人を殺し、虐げ、苦しめることを平気で行うまでに人の心を変えてしまう。

 あの先の戦争を体験した一人の人間とし、反省もし、 懺悔もし、半世紀前の事実を今、勇気を出し沈黙を破り、当時の上官は勿論、戦友達もこの世に数少なくなった今、生きている人間の一人として、日本軍が最悪の非道を行った事実を書き残したいと思いペンを執りました。

 

苦力(クーリ)のこと

 私は敗戦末期の昭和十八年から二十年八月十五日の終戦の時まで、軍隊での体験ですが、初年兵で湘桂作戦(一名南支第一号作戦とう)に参加させられた一人の最下級の兵隊として、上官の言うがままに行動しなければならない一兵卒でした(『戦陣訓』に基づいて)。

 作戦中、当時中国大陸の戦闘は歩くことが大半でした。行軍移動中の荷物の搬送(主な物は食糧と炊事道具に付随する品々)を苦力と称する中国の住民の若い男性を徴発(強制連行)してきて、荷物を担がせ行動するのでした。

 大半の部隊の行動は夜間(制空権をアメリカに制覇されているので)で、道は田園の畔道のような狭い道、又山岳地帯の険しい悪路ばかりの行軍でした(軍用道路は大方破壊されている)苦力達たちには罪人のように腰紐をつけ、十字肩紐などの苦力も居て、兵隊と共に歩くのでした。

 小休止の時、腰紐を切って逃げる苦力も居て、気が抜けませんでした。逃げられた兵隊は自分でその荷物を運ぶ運命となるのです。

 苦力は奴隷です。 行軍が終り、宿営地に入ると、その苦力達は一室に閉じ込められて、監視兵が立哨して見張り、食事は粗末な物を与え、用便は監視付き。そして残酷にも使い捨てでした。弱った苦力、病気になった苦力は唯々、放り捨てるのでした。

 苦力にも労力苦力と、部隊で手なづけた通訳苦力が居ました。通訳苦力は十五、六才の少年で、作戦の出発行動地点から手なづけて、部隊と一緒に行動し、通訳や雑役に使い、名前も勝手に適当につけていたのでした。

(例)石松とか三郎とかの外、勝手にいろいろ部隊によって付けて働かせていました。

 その苦力(少年)達も日本敗戦となった時、悲劇が起こったのでした。

 作戦約二年間、遠方地へ転戦約二千キロ(後方の兵站部隊と連絡不能地)の行動を共にした少年苦力達は、敗戦と同時に手放し、帰すのですが、少年達は泣いて「一緒に兵隊さん(中国語でシーさん)、連れて日本に帰ってくれ」と懇願するのでした。それもその筈、帰る道も分からず、食糧のあてもなし、中国人仲間、同胞から日本に協力したということで迫害を受けることを知っていた。しかし、敗戦国軍が戦勝国の国民をどうすることも出来ず、唯々帰れと追い返すのでした。

 少年達の結末、そして運命はどうなったのか。一人の下級兵には分かりようもなく、唯々戦争の悪と悲惨を強く感じつつペンを執りました。

 

以上わずかの記憶を記しましたが、ペンを執っているうち、靖国神社への小泉首相の参拝のことが重なり、思い浮かびました。又、靖国を参拝する国会議員のことを。

戦さを起こし、作戦を指導、命令した、東条以外、高級軍人(参謀本部・又、作戦部長の面々)が祀られている神社に、中国人はどうして、どんな理屈をつけても、あの悪行を行った人を祀る神社へ日本国の首相がお参りすることなど考えられません。それを内政干渉などという身勝手は小泉首相、いや現在の戦争を知らない指導者達に老兵は怒り嘆きながらペンをおきます。

朝風76号掲載 2004.8月

元日本軍隊の懺悔物語2

 仙台市  本郷 勝夫

徴発

無謀極まる戦さだった。

いくら反省・懺悔しても納まらない。だから今、ペンを執った。

 

 人間、飲まず食べずには生きられない。先の戦争は一口に言えば、精神力で生きろと指導者は言っていた。

 

(一例)「軍隊は不可能を可能ならしむるところである」と、絶対服従の兵隊を、連絡のつかない島に上陸させ、又、大陸では何千キロ先の奥の奥まで兵隊を送り出し、島でも大陸でも食料は送らず、弾薬は送らず、医薬品は送らず、何もかも孤立状態の戦いを強いられ、生きるためには現地で調達する外には手はない日本の軍隊だった。その調達は「徴発」という名で「強奪」「カッパライ」「盗み」の集団となった。

 

 「徽発」とは納得の上、物品を搬出させ、譲り受け、金銭を支払うことをいう。私の体験した「徴発」は、約一年半余り命令によって行われた。作戦進行中の部隊は現地で物を盗みながら命をつなぐのだった。作戦中、宿宮地に着くと、先ず部隊が一番先に行うのが物資の調達からはじまる。先ず各班から何名かの兵隊が出て、徴発隊を編成し、出発前には部隊長又は副官に出発の申告をする。「徴発隊長以下00名、只今より徴発に行って参ります」「ご苦労。気をつけて行って来い」 「頭~あ、中」の号令で出発する。

 帰ってくると、責任者は徴発品の具体的な品々を報告する。まさに山賊の山分け同然。その後、各班に分けられる。多量の物資を徴発して帰ると褒められる。少なければ叱られる。これが日本軍隊の泥棒集団だった。

 

私の徴発体験を!

 最下級の兵隊は班に残って古参兵の顔色を伺っているより、徴発に出て、解放される時が自由に行動出来、そして自由奔放に物探し、カッパライが出来る時なので、のびのびする。

 家探しで米、塩、油などを見つけた時は嬉しい。褒められるのである。家で飼っている鶏・アヒル・豚などを追い回して捕らえる。鶏などは放し飼いなので、逃げ回る。それを棒切れを持って追い回す。鶏の足を叩いて骨折させて捕らえる。そういう方法は古参兵からの伝授である豚の解体なども二、三人で「アッ」と言う問に肉や臓器を鍋の中に入れる。料理などは見事な野戦のご馳走となる。炊事用の燃料は、なんと人家の家具をたたき壊して燃やすのである。考えてみると豚は中国では嫁入りの時持参する高価な物の一つ家具は大変に高価な、重要な財産である。それは当時の日本軍には通用しない。そんな日本兵を称して「日本の鬼子」と中国では言っていた。中国語では、(陰でリーベングイズと言っていた)。

 

 作戦中は物資のあるときは腹一杯。物資のないときは道の雑早を食べながらひたすら行軍、行軍の連続だった。後方の平站地の野戦倉庫からは何ひとつ届かない。唯々、その日その日の行き当たりばったりの食料獲得暮らしだった。

 

 物資の調達に併わせて、若い男性の強制連行(苦カに使用)、又、若い女性を強制連行して来ての、将校連中と古参兵の性の捌け口の道具に使用。将校連中と古参兵はなりふり構わず大満足していた。

「徴発」とは強盗・窃盗・強姦・家屋破壊・放火。あらゆる罪名のつく数々の悪事を行うのだった。

 老兵はいま懺悔する。そして自虐する。

 

コレラ患者兵の末期

 コレラという伝染病は怖い。出合った者でないと、理解できない。私はそのコレラ患者を最下級の衛生兵の一人として見た。

 作戦中、中国戦線のある所でコレラという伝染病が蔓延した。症状はコレラ菌に冒されると、忽ち下痢症状になる。くだる物は白い米の研ぎ汁のようなものが、三〇分おきぐらい出る。それは体の脂肪と水分が排泄されるのだ。三日位で顔が変わる。顔の皮がしわしわになり、生まれたばかりの子猿のような顔になる。それを称して「コレラ顔貌」といっていた。

 

 そのようなことが作戦中の軍隊の中に突然起こる。敵の弾に当たって亡くなる兵隊より、病気と食料不足の栄養失調で命を落とす兵隊が多かった。コレラは目に見えない敵の弾のようだった 薬はなく、時間もない。唯々見殺しにするのが当時の野戦病院だった。コレラは水分を多量に排泄するので、患者は衛生兵に「水をくれ」と懇願するが、部隊命令で「患者に接することはまかりならん」の厳命だった。理由は消毒が完全にできないからだ。ひどい命令だった。日本軍隊の知られない残酷物語だった。愚者に接すれば自分もコレラ患者となるので禁じられていた。

 

 ある時、ある地でコレラ患者が多数発生して、我が第一野戦病院に多数運び込まれて来た。どうすることも出来ない野戦病院だった。唯、預かっているだけ。一室に閉じ込めて置くだけ。その間、患者は衛生兵に飯盒を差し出して「水を呉れ」と懇願する。患者は体は衰弱していても、頭はしっかりしている。唯々見ぬふりをするだけ。「辛かった」「申し訳なかった」これが目に見えない戦争の残酷だった。 

 

 又、その上の残酷もあった。我が病院部隊に前進命令が下される。その時、患者の処置に困る。搬送部隊の患者輸送隊の衛生隊も来ない。その時、悲劇と残酷が起きる。

 部隊長命令でコレラ患者収容の家屋に火を放ち、部隊は前進するのだ。

 唯々、合掌するのみ。

 

 理由は後方友軍部隊への感染を防ぐため。後を振り返らず前進するのみだ。

 生きたままの火葬となる。もうこれ以上ペンは走らない。ご免下さい。済まなかった。六十数年前の現実。戦争の悪。何も知らない患者のご遺族の方がた。どのような死亡公報が届いたでしょうか。最下級兵にはわからない。でも今、ひとりの人間として懺悔している。   

朝風77号掲載 2004.9月

元日本軍隊の懺悔物語3

仙台市  本郷 勝夫

戦闘部隊の兵と非戦闘部隊の兵のこと

 戦争は前線部隊と後方続部隊があって成り立つのであるが、当時私が体験した野戦の現状には格差があった。

 最前線の部隊の兵は、命を落とす割合が多いことは百も承知だが、そして軍隊という集団には、軍隊の飯を多く食べた古参兵は階級を無視することが屡々あったことを体験した。吾々最下級兵には、不思議だった。その一つの例を記憶を辿って記す。中国のある日ある場所での出来事を私は見た。私は所属部隊第一野戦病院の経理室勤務兵だった。病院の経理室は患者の給食を司る仕事で、あの中国戦線の拡大で、患者は続出、食糧の補給のない現地調達が思うように食糧が補給できない。患者には一日一食。それも粥汁一杯を給与するのが精いっぱい。大方は栄養失調で病没してゆく。

 当時の病院は病院の機能を発揮することが出来ない。栄養失調患者に与える栄養剤とも薬とも、米ぬかを煮立て上の部分をすくい上げそれを飲ませ、また、米ぬかを当たり鉢で摺って薬包紙に入れ与える。唯々、患者を一時預かり、衛生隊という患者輸送隊に申し送り、後送するだけの仕事だった。

 ある時、師団司令部の経理部から、命令が部隊に来た。その命令の内容は「現在地より00方面十五キロの00部隊の駐留地で米と塩が多量に徴発されたので病院患者の糧抹受領のため00部隊に向かって出発せよ」とのこと。

 病院の副官の経理室責任者、主計少尉に下命があった。経理室主任班長・主計軍曹に主計少尉から命令があり、私がその軍曹の随行兵を命ぜられた。受領隊の構成は、我が病院付の行李班〔輜重兵)と馬十五頭だった。敵の中を受領に行くので、師団命令で歩兵科の兵隊・分隊長(伍長〕以下十五名が護衛兵として派遣されて来た。

 出発して約十キロ位の所で小休止。人・馬共々休む。ところが歩兵分隊の兵隊が隊列を離れ、しばらくするとどこからか中国人の女性を連れて来た。三歳ぐらいの女の子どもと一緒に。女性は「アイヨー、アイヨー」と手を合わせて泣く。すると、小休止している兵隊の目の前で、五、六人の兵隊が女性の恥部をいじくりまわし、わいわい騒ぎ囃している。しばらくすると女性はぐったりして動かなくなった。子どもは側でワイワイ泣き叫ぶ。その状況を見ていた私の上官の陸軍主計軍曹は唯々目をそらし黙認している。分隊長は伍長なので、私は軍曹が上官と思っていたが、下級兵の私には本科の伍長にもの言わぬ。私の班長を情けなく思った。後で班長に、あの時、なぜ止めさせられなかったかを勇気を出してきいたら、班長は本音をはいた。軍隊は戦地では〔本科)、歩兵、その他の兵は非戦闘部隊の言うことなどきくものでなく、言えば兵隊同士の争いになるのだとのこと。最下級の兵隊にはわかったようなわからないような複雑な気分で班長の言葉をきいた。ましてやお前らを護衛してやっているのだと高慢の感違いしている兵隊となっていた戦闘部隊の護衛兵達だった。

 最下級兵が体験した日本軍隊の古年兵と新兵、戦闘兵科と非戦闘兵科の野戦での現実の出来事だった。 完

 

 書き終わって元大日本帝国陸軍の軍隊の内状の一端をはんの僅かの二年余りの短い期間、外地での体験を思うがままに記したが、長い長い、日本の国の軍隊にはいろいろあった。今、思うと、一番に思われる事は「朕」という一言が絶対罷り通っていることだった。今は「朕」は人間となり、人間は平等と自由を勝ち取ったように思われるが、又、少しずつ、いつか来た道に戻りつつあるように思われて、心配だ。

 絶対に戻ってはいけない。戻らないように一人一人が戦争の悪を語り合いそれぞれの子や孫達、日本の将来のため頑張らなくてはと思い、記した。

 平成十六年八月十五日 敗戦日 記

朝風78号掲載 2004.10月

我が青春の真空時代(1)

仙台市  本郷 勝夫

 我々の幼年期・少年期・そして青春時代にはいろいろな事件があった。昭和十五年、日本は皇紀二千六百年という勝手な節目を利用し、国威宣揚のため、絶好のときとして益々国の存在を内外にアピールした。

 昭和十六年十二月八日、アメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。一つの目標に向かってガムシヤラに進まされた。

 昭和十八年から敗戦の昭和二十年八月十五日、そして復員。日本再建復興一社会人となるまで、いま振り返ってみようと思い、ペンを執った。

 

赤紙が来る

 昭和十八年、我れらの年代の同級生の徴兵検査は六月頃終わっており、甲種合格者は十二月十日入隊ときまっていた。私は第三乙種合格の補充兵なので入隊の日取りはきまっていない。甲種合格は戦場に行く覚悟でいる。皆んなで話し合って同級生の壮行会を行って、元気づけて送ろうと話がまとまり、私が幹事役になり、男女共々壮行会を盛大に、楽しく、記念写真なども写し、別れを惜しんだ。今、その写真を見ると、半分以上が戦場で散っていることを思うと、人の運命は分からないものだとつくづく思われる。

 やがて私にも決定的なときが来た。

昭和十八年十一月二十八日、赤紙の召集令状が釆た。それも同級生の荒孝治君が、朝九時頃、そろそろと玄関に現れ、「勝ちゃん、あんたが先に入隊することになったよ」と言って、過日壮行会をしてもらったのが悪かったように、身を縮めて、赤紙を渡してくれた。彼は役場の兵事課に勤めていたので、直接私に届けてくれたのだったが、人の命は一寸先は誰にもわからない。

 彼は甲種合格で十二月十日、仙台の二十二郎隊に入隊して、外地(南方)勤務を命ぜられ、船で護送される途中台湾沖でアメリカの潜水艦の攻撃を受け、海底の藻屑と散ったと後で聞いて、唯々披の人生の短さを悲しみ、冥福を祈るだけだった。

 私に赤紙が来て、入隊日の十二月一日まで五日問しかない。五日の問に何をしてよいやら、たゞだゞ焦るばかり。

親も子を戦場に送る複雑な心境でいる。当時は子供を戦場に送り出すことを喜ばなければならない世の中の環境で、毎日毎日、親戚や友人・知人が祝いに来る。氏神様に武運長久のお墓参りにも行ったり、千人針の腹巻きなどをもらう。

 そんな多忙な五日問も過ぎ、入隊の日が釆た。十二月一日朝十時、駅前に五人の人が集まる。知らない近郷の人々だつた。愛国婦人会・国防婦人会.在郷軍人会・青年団・町内会の人々・隣組・同級生・友人・知人、多数の人々の顔が見える。嬉しいのか悲しいのか、又死ぬのか、色々頭の中をよぎる。

涙が出る。乗車して三十分で仙台駅に着く。父と母が同行して二十二部隊に到着。そこでその瞬間から天皇陛下の赤子とされる。営門を入る。父と母が手を振って送る。今思うとそこから先は地獄だった。人間として扱われないところだった。

 

軍隊生活の始まり

 入隊して感じたことは、火の気が全く無いこと。そして上級と下級では人間と動物の差ぐらいあることだ。

 私服を脱ぎ、軍服と着替える。私服は宮門の待合所で待っている親に渡す。

その時、親は吃驚した顛でわが子の軍服姿を見る。よれよれの夏服の上衣とズボン。帽子はソフト帽子を戦闘帽に改良したものに星のマークを張りつけたプカブカもの。軍靴は左が十文半、右が十一文の不揃いの靴。その姿で親に会ったものだから、共々情けない気持ちで別れた。

 今思うと、そのときから日本は負けていたのだった。もう裟婆のあったかい空気はない。兵舎の冷たい風。古参兵の冷酷な扱い。ピリピリの毎日。初年兵と古参兵の同居で、目の開いている問は、右を向いても敬礼、左を向いても敬礼、外に用事に出るときも大きい声で、「ダ゙レソレ二等兵は、何なにの用事で、どこそこに、何しに行って参ります」と言って行かねばならない。帰って来たときも、「ただ今、用事が終わって帰りました」と入り口で直立不動で大声で言って入るのだった。声が低かったり間違うと、古参兵はべットの上であぐらをかいて居て、 「今言ったこと聞こえなかった」とやり直しを命ずる。軍隊という集団は、入隊すると一時期、何びとも一つ星の最下級兵として一線上に身をおかされる所である。

 毎日の日課は多忙だ。一寸の休みもない。午前中は体を動かす訓練、午後は外地へ出発するときの注意や、渡航のための予防注射。船が攻撃を受けたときの避難訓練などの十二日問だった。

 入隊して一過問位過ぎた頃、ときどき同年兵に面会が来て、営門の待合所に面会に行く者が五、六人居た。私は不思議に思っていた。それは班長から注意事項として堅く言われていたことは、「お前ら、いついつ出発するようだから、面会にくるようになどと連絡すると、街のあっちこっちにスパイが居て、お前らの乗った船は途中で潜水艦にやられて海の底だ」と脅かされたので、私は正直にそのことを堅く守って家にハガキ一枚出さなかった。

 あるとき、私に面会に釆た人がいる。班付の兵長からの呼び出しである。だれだろうと思い乍ら兵舎の階段のところに行ってみると、家の三軒隣の人で、仙台陸軍飛行学校勤務をしている陸軍衛生曹長の東山さんという人だった。

公用で師団司令部に来た帰り、父からたのまれて面会にきてくれたとのことで、東山さんは私に「いつ頃、仙台を発つのだ」と言う。私は班長から厳しく言われていたので、、言わなかった。

 私は大体分かっていた馬鹿真面目だった。東山さんは、「私は軍人だから信用しなさい」と言う。父にだけ言うからと。おそるおそる「十二月十四日頃」と言う。その後心配で心配でたまらない。大丈夫だ、相手は軍人だからと自分に言い聞かせて納得させた。

 その後結果的に、東山さんが面会に釆てくれなかったら、誰にも見送られないで仙台を離れるのだった。当日父や母、おばさんが来ていた。その日は十一月十四日だ。時間はわからない。

 

行き先のわからない出発

 十四日の午前二時、非常呼集め声で起こされ、慄ただしく軍装を整え、営庭に集合、整列した。馬上ゆたかに輸送指揮官の四方大尉が抜刀している。

将校に下士官・兵共々、 「カシラ~ナカ」の号令で出発する。ザック、ザックと軍靴音高く二十部隊の衛門を出る、途中民家の人々が小旗を振って見送ってくれる。

 駅前の広場に到着する。驚いたことに見送り人が多勢居た。熱気むんむんその中に憲兵は目を光らせている。そのとき、父と母から私に声がかかった。

東山さんから十四日とだけで時間がわからないので、十三日の夜から来ていたとのこと。どこの家の人々もそのように、早くから仙台に来ていたようだ。

いろいろの食物を作って持ってきている。食べな、食べなと言う。食べられない。少し車中に持ち込んで食べた。

隣の兵隊も同じようだ。今、あのとき何を会話したか覚えていない。

 送る者、送られる者、。たゞたゞ複雑な心境の短い時間だった。見送る人はホームには入れない。兵隊は続々とホームの彼方に。そして車中の人となる。鎧戸が下ろされた車内。午前二時四十分、列車は静かに駅のホームを離れる。私は三十分でふるさとの駅を通過することがわかっているので、列車のデッキに出て、ガラスのくもりを手で拭いて見なれたふるさとの駅、そして通過する鎮守の森がぼんやりと見えた。その時、二度とこの駅と森を見ることができるだろうかと思ったとき、涙が出る。列車は走る。鎧戸をおろした車内はむんむんとした。若い者の熱気で熱い。列車はノンストップで走る。

 夜が明け、窓から外を見ると日暮里駅。そこから山の手線に入り、渋谷を通過している。車内に号令がかかり、宮城と明治神宮に最敬礼をさせられた。

列車は品川から東海道線を走る。名古屋に停車。ホームの婦人会の襷にエプロン姿の人々の湯茶の接待を受ける。

列車は走る。三日日の午前に到着したのが下関だった。続々と下車し軍装を解いたところは民営旅館に分宿。船待ちのため一週間雨戸を閉めたまま電気の燈りの生活。一歩も外へ出されない。スパイ予防とか。今考えると馬鹿げたことだ。

朝風83号掲載 2005.3月号

 

我が青春の真空時代(2)

仙台市 本郷 勝夫

外地への出発

 いよいよ出発の日が来た。12月も中旬、寒い中を冬外套もない夏軍装だ。船に乗り込む。門司港で輸送船に乗換え、十隻の船団を組んでの出港だった。

 甲板に出てだんだんと港が遠くなり、人家も見えなくなり、速くの山々だけがぼんやりと見える。日本とも別れ果たして二度とこの日本の地を踏めるのかと思ったとき、無性に涙が出る。

  一日経ち、二日経つ。船は護送船団で前後左右を駆逐艦二隻に警護されながら進む。どこを目指しているのか判らない。寝床は船底で馬と一緒。糞の臭いでぶんぶん。食事も喉を通らない。

 船は進む。やがて海の水の色が茶褐色に変わる。だれかが「上海沖だ」と言う。中国大陸に行くのだとその時わかる。陸地が見えるまで近づく。上海の河口は見渡す限りの河幅で両岸が霞んで見えない。揚子江の雄大さにみな驚く。

 

第1歩は南京上陸

 船は揚子江をのぼる。約三日位で南京に上陸した。

 郊外の揚子兵站の仮宿舎に入る。その頃は一月になっていた。その宿舎は風通しがよく、寒い。寝れない。食事は少なく、腹が空いてたまらない。夜中に起きて炊事場に行って、捨ててあるコゲを盗んで食べ、空腹を凌いだ。

 やがて寒い宿舎を出発して目的地へ。一日だけ輸送列車に乗せられ長江埠と言うところで下車して、そこから行軍となる。ところどころに宿泊する。中国人の民家の土間に藁を敷いてのゴロ寝。中国独特の臭いが鼻について寝れない。豚、犬、アヒルなどが白由に部屋に入って来る。

 又、行軍。四日目頃、広■という街に入る。城壁に囲まれた大きな街で賑やかだ。初めて見る中国の街。珍しい。

 楽しい。しかしわれわれにはお金もないのでたゞ眺めるだけ。湯気のあがっている饅頭は目の毒だ。一週間の行軍で目的地の部隊の駐とんしている荊門に到着する。その日は昭和十九年十二月八日だった。思い出すと仙台を出発して赴任地の到着するまで、五十日かかってやっと着隊した。

 

初年兵物語り

 着隊した部隊は、中支派遣軍第十三師団第一野戦病院・鏡第六八一五部隊だった。荊門は小高い丘の上で、小川が流れ、環境のよい野戦病院だった。構成は本部・発着部(患者のカルテ及び死亡者の処置をする)・治療郡(外科)・内科・伝染病科・薬剤部・経理部・その他病院付属の行李班(輸送部)だ。

 

 二、三日はのんぴりお客さん扱いだ。古い兵隊達は内地の様子を聞きたくて寄って来る。 三日目から教育が始まる。もう、一分一秒のすきもなく体は忙しい。気合が入る。ピリピリした生活となる。本科の教育が始まる。(軍事基礎的教育)銃を担いで毎日オイッチニ、オイッチニ。夜は学科教育。約一ケ月の教育訓練終了する。その頃、内地からの慰問隊が来て、患者や兵隊が一緒になって演芸やら歌や音楽等に暫く心は内地に。特に女性には患者も将校も兵も目を輝かせていた。

 

 荊門の病院生活も少し慣れた頃、部隊内が慌ただしくなる。身の回りの整理をしろとか、部隊内の片付けをさせられたり、何が起こっているのか我々初年兵にはさっぱりわからない。だが古い兵隊達の話しをしているのがときどき耳に入る。

 いよいよ来るときが来た。昭和十九年四月二十日、湘桂作戦(別名南支一号作戦)であった。部隊の出発も極秘のため、夜の出発となる。我々初年兵には何がなんだかわからず慌ただしく荷物をいっぱい背負わされての出発だ。唯々部隊の一員として歩くのみ。全く昼夜兼行の行軍をつづける。漠川公路を通過し応城付近を経て、四月未に第一集結地の新溝というところで大休止の命令が出る。そこで約二十日位滞在する。

 

 食糧、兵器、弾薬整備のための滞在だった。我が第一野戦病院は患者療養所の開投命令が出て、患者の収容と我々には術生兵の教育が行われた。通り一遍の教育で身が入らない。浮き足立っている。五月二十日、いよいよ出発。作戦に入る時が来た。初年兵は各部所に配属の命令がでる。私は経理部配属を命ぜられる。揚子江を渡河するため、漢ロに向かう。。続々と各部隊が集まってくる。我が部隊は船待ちのため、三日間路上に寝る。 いよいよ乗船命令下る。次々と船に乗り込む。対岸に夜中に上陸する。雨が降っている。唯々歩くのみ、昼も夜も無我夢中で、泥濘と悪路に悩む行軍となる。五月二十五日、第二回目の集結地の白■橋というところに入る。そこで「鏡兵団」から赤尾師団長名の一字を取って「鹿兵団名」と名づけ、偽装した。部隊はそれぞれ前進する。

 

 どこをどう歩いているのか我々には少しわからない。ただ落伍しないよう前の者から離れないようついて進むだけ。その頃遠くから砲声が聞こえてくる。その時初めて戦争に参加しているのだと気づく。自分は弾の下をくぐり抜けることが出来るのかなと思うと涙が出る。一過間位行軍すると幕早山系の険しい山岳地帯の行軍となる。各部隊は胸を突くような坂を登り、又降り、馬は足を踏み外し崖下に転落する馬も。難行軍が連日続く。

 

 ある日、山の頂上の行軍で、兵も馬も疲れて夢遊病者のように歩く。水筒の水は飲み干し、どの兵の水筒一滴の水もない。その日、山の頂上はやけに暑い。私は無意識の中で「お袋、水をくれ」小さな声で言う。間もなく、あら、不思議や。前の方から「前方に水あり」と聞こえてきた。

 はっと気付いたその声を信じて歩くと、約十分ぐらいでその場に行くと、兵隊達は我先にと湧き出る泉から水筒に水を入れる。ゴクゴクと飲む。その泉のそばの岩の壁に「ラムネ」とか「サイダー」とか「氷水」とかの落書きがいっぱい書いてある。それを読んでスーツとする。

 又その頃は入梅のはしりの霧雨も我々の行軍を悩ます。

 

束の間の大体止

米軍機狙い撃ち、再び行軍

 ヘトへ卜に疲れて六月二日朝方、長寿街という所に到着し、そこで病院開設の命令が出て大休止となる。部隊は十日以上の難行軍のため、疲れ切ってホッとしてそれぞれの宿舎を作りはじめる。又、患者収容のため多忙だ。私は自分の衣類や靴、又古参兵の洗い物などを持って近くのクリークに洗濯に行く。一人ノンビリと久し振りの朝の太陽を浴びていた。

 

 その時、アメリカの「P51」戦闘爆撃機が突然姿を現した。急降下してきた。ワー、もう駄目だ、と思い乍らその場に伏せた。その瞬間、物凄い爆発音がすると同時に体に感じる震動。体を起こし、すぐ自分の体を確かめる。大丈夫。助かった。間もなく病室の治療病棟の方が騒がしくなった。担架で負傷兵が続々と運び込まれて来た。工兵隊が3kmぐらい先の渡河点に架橋作業中、朝の飯盒炊さんの煙りを敵の飛行機が見つけ爆弾投下されたとのこと。 六月三日、患者を衛生隊に申し送り、病院を閉鎖して慌ただしく前進する。

 

軍隊は運隊

 その頃、雨がしとしとと降って道は泥沼と化し、人馬共々の難行軍となる。

 間もなく山系に入る。道は狭く、急な坂あり、断崖あり。その上降雨で土は軟弱。駄馬は足を取られて前に進めない。馬の背の荷物を落として、身軽にしてやって、馬の尻を兵隊が押して前進。又、背に荷物を積んでの前進だった。衛生兵もぬかる路を一歩一歩前進。銃が重い背妻が重い。 六月六日、官渡市というところに夜到着し病院開設の命令が出る。その頃、兵隊用も患者用の物資、特に主食がない。部隊は直ちに徴発隊を縞成して、物資の補給をしなければならない。

 

(注・「徴発隊」とは日本軍の集団の窃盗団である。軍は戦線拡大のため 補給困難なり、現地調達が余儀ない作戦となる。参謀本部には参謀が多勢いたが、交戦参謀の数が多く、輸送補給出身、即ち輜重出身の参謀が一人だけとものの本に記してあった。戦う兵士のもとに物を運ぶ、送り届けることに重きを置かず、唯々精神力を強いての無謀な作戦だった。これ以上に苦しんだのが南方の島々の兵隊だった)

 

 六月九日、病院閉鎖の命令で又々前進。今回は歩兵百十六聯隊の大坪聯隊長の指揮下に入っての行動となる。

 その頃、アメリカの飛行機の攻撃を避けての夜行軍の連日で苦しむ。道は悪く、暗い。前方の兵隊の銃の先の白い布を目当てに歩くのだった。

 転ぶ、又起きる。どの兵隊も疲れ、ロをきかない。やっと宿宮地に着く。初年兵はすぐ飯盒炊さん飯炊きである。暗いうちに行う。飯盒に水を求めてさ迷う。死臭のするクリークがある。その水で米を洗い、飯を炊く。そんな事を気にしていられない。朝そっとクリ-クに行ってみると、馬が水ぶくれになり、腐って五、六頭浮いていた。

 

 その頃、衡陽という敵の牙城がなかなか陥落しないので大本営、又中支派遣軍ではそこに強力な師団を応援投入する作戦のため、我が第十三師団に命令がくだる。直ちに衡陽に向かって前進。何とその距離二〇〇㌔も離れていたので昼夜兼行。休みなしの行軍。人馬共々ヘバッている。命令なのでやらなければならない。

行軍中大雨にあい、大洪水の中、腰までつかって歩いたこともあった。六月十七日頃、醴陵と言う街の郊外附近を作戦の都合で昼の行軍をしていた時、部隊は敵の飛行機の襲撃を受ける。二名戦死。三名の負傷者が出る。その時、軍隊は運隊と言うことをつくづく恩つた日だった。

 私の前方十米を歩いていた同年兵の一人が即死した。私は助かった。これ程「運」ということを感じたことはなかった。彼に合掌するのみ。

 

衡陽大作戦

 七月五日、部隊は来陽と言う街の郊外の三楼橋というところで大休止の命令が出て、今までの疲れを癒すことが出来た。

 直ちに病院開設命令が出る。患者はぞくぞく入って来る。南支の夏は暑い。そこで私の班に事件が起きた連日の猛暑と疲労のため、一人の兵隊が発狂し、自分の帯剣を腹部に刺し自殺事件が起きた。精神に異常がきたのだと思われる。

 

 七月二十三日、三楼橋の病院を閉鎖して、目的の衡陽に向かう。ぎらぎら照りつける真夏の太陽のもと、日影をもとめるものとてもない道を喘ぎ喘ぎの行軍。米軍の襲撃をを警戒しながら、七月二十六日、衡陽東南の郊外、蓮花糖と言う部落に病院を開設する。

 

 衡陽作戦は中国軍の精鋭軍が頑強に抵抗してなかなか陥ちない。六箇師団をつぎこんでの攻撃。第十三軍司令官横山勇中将みづから衡陽に進出しての直接の指揮をとる大作戦だった。病院にはぞくぞくと患者が運ばれてくる。私は経理室勤務で行李班の兵隊の飯炊きを指図する、飛行機の襲来があるので炊事場はむしろで窓をおおい、五分間で火を燃し、水をかけて釜で蒸して終り。すぐ炊事壕から全員逃避する。夕方日が落ちた頃、患者に配る。その頃は飯は臭いがする。おかずは塩汁。

 最前線の現実の姿の作戦は線の軍隊ではなく、点の状態で孤立。後方から弾薬も食糧も医薬品・その他一切補給なし。

 

 その中の一人に郷里の小学校の同級生の一人・佐藤富雄君が入ってきた。担架に乗せられ見る姿ないほど弱っている。疲労と栄養失調で倒れたとのこと。最後になけなしの米を都合して、ローソクの焔で炊飯して食べさせた。後日、我が病院から転送されて間もなく戦病死したとのこと。後日、遺族に届いたのは骨箱に入った紙切れ一枚に氏名だけだったと。残酷。

朝風84号掲載 2005.4月号

我が青春の真空時代(3)

仙台市 本郷勝夫

戦線が延びる、物資の補給がない

 八月に入って衡陽作戦は完了した。中国軍軍長・方先覚将軍は投降して来た。九月十一日、衡陽の陥落後、軍の再編成と立て直しがあった。患者を後続の病院に引継ぎ、今度は全県に居る敵を攻撃するため、行動を起こす。九月に入っても猛暑が続く。

 

 毎日毎日、敵機の襲来に神経を使いつヽ九月十九日、全県に到達して休養となる。これからは敵機の飛行基地桂林を攻めるための休養と、軍備の補給などのため駐留する。日本軍の快進撃と作戦地区の拡大で、軍と軍との間が百K以上離れてしまい、物資の補給がままならず、自給自足の状態だった。

 

 十月二十五日いよいよ桂林に向かって行動を起こす。突出する岩山があっちこっちに見える。草や木も色づき秋の訪れが南支那の山や野にも見られる季節となっていた。

 その頃の兵隊の衣服も軍靴も補給がないので、ボロボロになっていた。ある者は支那服を着て歩いている者もいた。自分の軍服は背嚢にしまい込み、いぎ決戦のとき着るよう上部から通達が出る程、物資の不足となる。

 

 食料はその場その場で徴発に頼り、物のある時はあり余る程あり、無いときは何もなく、水だけ飲んで過ごすことも屡々あった。我が病院は桂林の南の郊外の馬面墟という部落に十一月六日開投して駐留する。

十-月十四日桂林が陥落した。十一月十七日、患者を輸送する衛生隊に申し送り師団を急追する。わが第十三師団の戦闘部隊は貴州省の首都宣山を陥落し、独山というところまで進撃して行っているとの情報が入る。

 

 桂林郊外の馬面墟に長い間病院を開設駐留している間、師団とは遠く離れてしまい、急追する。警備のため、百十六聯隊の一ケ小隊との行軍となる。 敵機の襲撃に悩み乍らの急追行軍だ。

十一月の末頃、柳城という街に到達する。ほっと一休みして、又、急追。十二月に入り、南支といっても朝夕冷気を感じる。竜江を渡河し崖のような河岸と険しい山沿いの道を敵機と残敵の攻撃を避けながら夜行軍をする。宣山の西方の良山沖という所に病院開設の命令が下る。

 

突如高熱、すわマラリヤか?

 その頃、私は体調が悪く、高熱病に罹る。そのとき幸運と奇跡がおこる。軍医の珍断を受けるとマラリア熱とのこと。薬、リマオン錠剤をくれる。服薬する。その頃、薬剤部勤務の古参兵今野兵長がふらりと入って釆て、私の様子を見て、「本郷、マラリヤなどでなく、回帰熱でないか(注・回帰熱病とは虱が媒介する熱病で、マラリヤと間違える)」

 そのまま部屋を去る。十五分ぐらいしてやって来る。今度は薬の入った注射器(20∝)を持って、「腕を出せ」と言って皮下注射をして、出て行った。三時間ぐらい経つと嘘のように高熱が下がった。自分も戦友達も吃驚り。

軍隊というところは過酷なところ。

 

 夜行軍。一夜二十K位の行軍で同徳郷という部落に着く。暫く休養が出来る。今野兵長を訪ねると、三日前に他の部隊に転属したとの事。お礼も言わず、「なぜ」「どうして」私の部屋に?何もわからず、今生きている。あの時の薬名は「サルバルサン」という。

 

「散発」した食糧が「盗難」

 同徳郷で病院開設する。貴州省に入ると中国人の性格も湖北省、湖南省の人々と性格の違うことがわかる。まず、女性は大変に労働仕事に従事し、働く。(注・湖北・湖南の女性は「テンソク」といって足が小さい)男性はきわめて粗暴で、行動は動物のように敏捷で、夜に行動する。地形は石灰岩で、鋸の歯のような山の中で生活している「苗族」という。

 

 そこで我が経理部で事件が起こる。

作戦中、徴発(カッパライ)してきた部隊の食糧の「牛」や「豚」を保管していたところ、一晩のうちに全部盗まれてしまった。(注・もともと盗んだもの)主計中尉・下士官等々・・・部隊長から「オーメダマ」頂戴。又宿舎の銃が盗まれるという重大なことも起こる。

夜、不寝番が動哨中に部屋に侵入、盗むのだった。油断も隙もできない土地だった。軍規も負け戦の状況なので厳しくなく済んだようだ。他の部隊でも住民のためいろいろと事件が起きたようだ。

 四ケ月以上同徳郷駐留。開設した病院も閉鎖の命令が下るときが来る。

朝風85号掲載 2005年5月号

我が青春の真空時代(4)

 仙台市 本郷勝夫(81歳)

反転作戦

 昭和二十年五月四日、桂林作戦の反転作戦が下令される。退却する前に反戦する作戦を都安作戦と言った。軍団が下がるため一応押し返しの作戦だった。中国軍に弱味を見せるなら嵩に掛かって襲いかかるので、師団本部が下がる問の押さえの作戦だった。

 

 五月二十日、部隊は持てるものの一切を持って、元釆た道を夜行軍で、柳州を通過、桂林を六月中旬通過する。

敵は攻撃して追って来る。それはそれは大変な後退行軍だった。南陽を過ぎた頃は八月になっていた。(これまでの走行距離一八〇〇キロ)

 

敗戦のときがきた

 八月十八日(注・敗戦日より三日遅れ)湖南省祁陽県賞陽同で停戦の詔勅換発ある。ポツダム宣言受諾の大命下る。そこで敗戦を知る。敵の飛行機の襲撃もなくなりホッとする。部隊の中の空気はさまぎまだ。悔しがる者、気が抜けたようにボカンとしている者、人それぞれの心境。

 

 部隊は貴陽同を出発する。八月末、長沙という大きな街に入る。そこで長年、苦力(クーリ)兼通訳としていた中国人を帰す。(注・作戦中はおおくの住民を拉致し、荷物の運搬に使用していた)苦力は「一緒に日本に連れて帰ってくれ」と懇願する。帰るに道が判らず、住民には日本軍の協力者としての報いが怖いと言う。敗戦国の軍隊にはどうすることも出来ず、唯々少々の物を与え帰すのだった。戦争にはこのような惨酷なこともあった。

 

  完全に武装解除され丸腰となる。長沙のような大きな街では、住民も日本の負けたことを知っているので、物を強制、強奪する者が出て、油断が出来ない。特に将校、下士官の官給品を狙う。

 

捕虜生活

 十月七日揚子江岸の九江の郊外に到着する。そこで中国軍の「揚兆麒中将」の管理下に入る若干の薬品と医扱品その外・自衛用の小銃十五丁が部隊に与えられる。其の二、三日後、二十キロ東方の江西省彭決県・長里湾を指定され病院を開設する。

 

 農村地帯で気候も温暖。そこで復員船を待つ。当時蒋介石総統の「以徳報怨」ということで揚子江沿岸の兵約百万の日本兵に、一日一合の米を配ってくれた。でも腹が空くので農家に働きに出て、不足を補う。又、住民の医療も行う。

 

復員船がくる

 昭和二十一年五月になって帰国命令が出る。五月十九日、長里湾の病院を閉鎖して、出発準備にとりかかる。二十日、部落住民の見送りを受けて長里湾をあとにする。二十五日、中国船に乗船し、揚子江を下る。二十六日、南京に到着。兵站宿舎に入る。南京から列車に乗り、上海に向かう。そこで又々強奪がある。中国の警護兵や列車の機関士が組んで、日本兵の物品を狙う。時計や万年筆が目当てだ。機関士は要求した品を持ってこないと列車を出さないと将校に言う。敗惨兵の哀れさをまざまぎと見せられた。今迄の報いと思い諦める。

 

 上海に到着。飯田桟橋の倉庫に仮泊する。船舶不足で船待ちが長引く。

六月十四日、上海市政府前の広場に集合。荷物の検査後、十六日上海港を出港する。天気は上々。快晴。波穏やかな玄海灘を船は故国に向かって進む。

 三日目に島影が見えた。当日上甲板に出て、日本の国の緑の山々を見て、涙が出る。萬歳する者、皆んなの顔は綻んでいる。海岸線に人家が見える。人影も見える。本当に遷れたのだと実感が湧く。上陸したのは浦賀港だった。

 

懐かしい故郷に帰る

 上陸許可がおり、嬉しさいっぱいで下船する。初めて見る星条旗。そして進駐軍兵。宿泊所に入る前にDDTを頭から噴霧される。復員関係書類や若干のお金と乗車券をもらって列車に乗り込む

 

  東北に帰る兵隊を乗せて列車は走る。東京駅を通過し、秋葉原の高架線を走る。一面焼け野が原。内地も大変だったのだと思い乍ら上野から常磐線を走る。水戸を過ぎ海岸線を列車は走る。戦争が終わっても海の水は相変わらず、何事もなかったかのように穏やかな海岸に向かい、波が打ち寄せている。

 

 平和ってよいなあと思いつつ、列車はなお走る。出征するとき通過した鎮守の森も、駅も無事だ。とうとう駅に看いた。たった一人の復員兵。郷土の街も人影は少ない。疲れているのだ。戸はみな閉じてあり、活気がない。敗惨兵のポロポロの姿で、突然、家に到着。両親も弟・妹も吃驚して迎えてくれた。あの芙瀕は今も忘れない。

 

 入浴させられ、さっぱりした衣服に着替え、やっと普通の人間となった。

 私の長い真空の青春時代は終わった。ふるさとは無事だった。

  平成十七年二月記

朝風86号掲載 2005.6月

鬼哭啾啾

足利市 藤倉 勝三

 あれは瞬時とはいえ、私が抱いた唯一の殺意であった。

 

  一九四三(昭和18)年、東満(中国北東部)の国境地帯に漸く訪れた初夏の雑草のいきれに、私は少年の頃、ふるさとの山野を遊び仲間と転げ回っていたのをなつかしんでいた。

  ゆるやかな起伏をなして、左右に何処までも続く丘陵の一点にある私達前面には、ソ聯の二つの山が鋭い山頂を雲間にちらつかせながら、不気味に迫ってきていた。

 

 この歩兵部隊に入隊した時、小柄の部隊長が、「ソ聯と戦えば、劣等装備のわが部隊は全滅する」と明言したのに、私は少なからず驚いた。

 関東軍(満州とは中国の北東部を指し、そこに駐屯する日本陸軍部隊)は無敵だと喧伝されていたからだった。

 

 戦後、流行した「異国の丘」の作曲者はこの地区のソ聯軍との激戦で負傷し、捕虜となったことがあるという話を聞いている。

  この初夏の一日、私達初年兵は軍の攻撃に備え、蛸壷(縦に深く掘った一人用の塹壕で、敵の戦車はその地点は分からず、下にいる者は安全)を掘らされていた。

  初年兵係のⅠが、私の掘り方が悪いと言って激怒し、直立不動で立っている私を穴の中に突き落とした。顔中泥に塗れ、口まで泥を含み、あまりの無残さに憤激の情、押さえ難く、右手は発作的に牛蒡剣(銃剣の俗称)を握りしめていた。握り締めていたあの感触は未だに忘れられません。

 Ⅰはこの一件を上官に報告しなかった。 これは極めて重罪であり、Ⅰも責任を免れないからである。

 

 反戦、反権力、大衆と共に生きた巨匠と言われた山本薩夫の描く“戦争と人間゙ にも、出てくるノモンハンの死闘で一人の日本兵が蛸壷の中で発狂して、両手で泥を口中に押し込み、口をもぐもぐさせながら、「おかあちゃん! 今何時だ。おやじはもう寝たか」と絶叫するシーンに、胸にたぎる熱き情感を押さえることができない。

 

 ノモンハンこそ誠に鬼哭啾啾の地の最たるものの一つで、私の細やかな回想の旅路の必須の通過点の一つであるとの思いを強くした。

 ここではⅠに戻りますが、彼が私の同年兵Hに加えたリンチの惨忍さには、唯唯には言葉を失うのみであった。陰鬱な夜の内務班の、暗い電気のもとで少し間をおきながら、Ⅰは20分を超えてもリンチの手を弛めようとしない。

  知らない者同士のけんかでも普通は相手をあそこまで痛め付けはしない。

  Hがやられる毎に他の初年兵達は顔をしかめ、目をつぶる。親がこれを見たらどんな反応を示すだろうか。たとえ絶対天皇制のもとでも、死を賭してもⅠとたたかう父親がいても当然のことだろうと思う。Hは顔全体が赤黒く異常に腫れ上がり、光を受けて異様な、そして不気味な輝きを見せている。瞼は眼球を覆い尽くさんばかりに下がっている。Hは一週間ほど、味噌汁が喉を通らなかったようであった。

 

 Ⅰの顔貌はひたすらに己れの狂気に酔い痴れている凄まじい形相であった。私達はHがやられる度に目をつぶり、顔をしかめながら、その鬼畜にも劣る行為に耐えていた。この時のⅠの顔貌はひたすらに己の狂気に酔い痴れている凄まじい形相であった。

 戦後、私はHを訪ねています。でも彼は私があのリンチに触れても、苦笑するのみでした。戦友会にも出なかったようです。

 

 時は流れて60余年になりました。今は唯々、生死の境を彷徨しているⅠの意識の回復を祈るのみです。私はと言えば、身長もあり、人相も悪く、ひどく殴られた方です。不服づらをしていて恭順の意を表すような態度はとれなかった。

 底に鋲を打ち込んだ皮スリッパーで顔面をぶたれたのが初めてのリンチでしたが、あまり痛くて涙が出ました。

 軍隊では身長順に並ぶので、私はいつも最初にやられます。どうしても前半にぶたれる方が強い力でやるので損をするとよくぼやいたものです。

 

 初年兵にとって初めての長期の秋季演習の時です。当時の歩兵としては大足でしたので、被服係のTという下士官は、戦時用の新品の軍靴を貸与してくれました。足にできた水腫れが膿んで靴下に張りつき、手当ても出釆ず、絶えず片足を引きずって歩きました。

  

あの時の苦しさ、悲しさには泣きました。行軍中、落後者が出ることはその中隊「120名前後までの集団」の恥となります。私は古参兵の罵声を浴び、後ろから突かれ、それは惨めな姿としか言いようがありませんでした。演習も終わり、漸く兵営に着いた頃は私の片足の靴はすっかり変形していた。

 

  Tは私を下士官室に呼びつけた。彼はやや小柄で青白く、少し寄り目でした。凄く興奮して私を待ち構えていた。木刀を手にして。「恐れ多くも畏くも、小銃は天皇陛下から授与されたもの」として扱われたが、よもや軍靴までもそう思ってはいなかったと思ったが、彼は木刀を大上段に構えたが、同室にいた一寸珍しい一字の苗字のKという下士官に背後から抱き押さえられた。

 Tは北の国のSという都会で健全との由です。御多幸を祈ります。

 

 6月号2002年で、室井幸吉さんもリンチの多様性にふれられていましたが、世界のどこの国で、あれ程に奴隷的に兵を苦しめたのがあろうか。軍隊内務書1934年、によれば『兵営ハ苦楽ヲ共ニシ死生ヲ同ジフスル軍人ノ家庭』としている。“天皇の軍隊”(大江志乃夫)には、私的制裁のさまざまな方法が述べられている。肉体的苦痛と奴隷的屈辱感に喘ぎながら、必死に生存しなければならぬ空間がなんと、家庭とは!唯、唯、言葉を失うのみである。

 

 亡くなられた藤原彰教授は、自らも職業軍人で中国の戦野におられた方ですが次のように述べられている。

 「兵士の人間性をいっさい認めず、日常生活の行住坐臥のすべてにわたる規制を行って、この中で服従を習性とする戦う奴隷に仕立て上げようとしたのである。(中略)

  軍隊家庭主義は、家族主義の一面である相互扶助や、肉親の愛情に置き換えられるような観念を全く欠いたものであった。

 そこには殴打、拷問、侮辱などが上級者の恣意にまかされるという私的制裁の合理化を生み出すばかりであった。 (中略)

  軍隊が国民にとって監獄に等しい圧制と束縛の場所であるかぎり、徴兵に採られることは国民にとって苦痛であった。(中略)  

  軍隊内では、『徴兵、懲役一字の違い』と歌に唱われていた。

 

 兵士として長く戦野にあった作家伊藤桂一さんの作品は極力愛読させてもらいましたが、次のように述べられています。

「私的制裁が、人同性の蹂躪であることはたしかである。しかし、それは制裁されている時点においてそうなったのであって、その時期を過ぎ切ってしまうと意味は違うのである。

 いじめられて鍛え上げられた兵隊は、耐久力があって敏感で、戦地へ出たとき環境に早く馴れる。ということは死ぬ率が少なくなるのである。これだけははっきりしている。とすると、私的制裁は、兵隊を殺さないための蔭の力になっていたという言い方もできるのである」 (『兵隊たちの陸軍史』)

 

 続けて伊藤さんは、

「日本軍に対して激しい抗日戦を展開した中共軍には私的制裁などなかったが実によく戦った」と言われ、私的制裁は従って、天皇の軍隊が理想の軍隊に及ばない、というひとつの人間的弱点を示しているようである、とも指摘している。

 

 私は小説『真空地帯』(野間宏作)に深い感動を覚えました。

 私の経験に照らし合わせても、思い当たることが多々あり、あまりにもリアルに描いてあるからです。

 フランスのフイガロ紙の論評は次の通りです。

 「どんな本をを読んでも、また、軍隊のどんな記憶をたどってみても、フランス人はここに描かれた軍隊社会の観念を得させることはできないだろう。数多くの階級が厳格に区別され、各階級の差によって服従させ侮辱し、殴打し拷問する権利が上級者に生ずる。上級者は常にこの権利を行使する。(中略)

 

  そこには年齢、境遇、千差万別の人間が集まっており、市民生活における価値は一切消滅している。そして宮廷に見られるような細かい礼式によりすべての関係が律せられている。不思議極まることに世俗的な礼式と幼稚な蛮行とが肩を並べている」

 

 私は前述の伊藤さんが言われる「私的制裁は兵隊を殺さないための陰の力になっていた」というくだりに極めて釈然としない感があります。結果的にはそうであっても、人間の専厳があの蛮行によって侵されることは絶対に認められないと思っている。

 

 西欧やアメリカの知的世界では今日でも民主主義の基本理念とか、その主義の基礎づけと言うことなどが何百年以来のテーマとして繰り返し論じられていると言われており、キリスト教の精神がヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなしていることと学べば、フィガロ紙の述べていることは当然なことであると思います。

いまから約 年前の日本人がお気に入りの赤穂義士の討ち入りの頃、イギリスではすでに基本的人権があり、大多数の国民に受け入れられていたと言われている。

 

 戦後、民主主義の言葉が日夜、氾濫していた。私は一時、教職にあったことがありますが、私も含めて多くの教職員達はオームのように機械的にこの四文字を繰り返し言うのみだった。

  言い遅れましたが、勿論、戦時中も個人主義者の方々も居られたわけですが、その時代的人物の一人は石橋満山であったと思います。彼は戦後の総理大臣でもありましたが、病気のため早く総理大臣の座を去りました。かつての日本の歴史の実際を知らぬ政治家の連中や言語道断な「新しい歴史教科書をつくる会」に是非、聞かせたいのは、次の湛山の「大日本主義の幻想」の一節である。

「もし、わが国にして支那又はシベリャをわが縄張りとしようとするならば、満州、台湾、朝鮮、樺太も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない…(以下略)

      (以下次回)

朝風86号掲載 2005.6月

中国戦線従軍の記録

沼津市 久田 二郎

四、徴兵検査

『船もろとも死ぬ海軍をひた避けし徴兵検査のかの日も遠し』

          ☆

 六十年以前の若者と現代の若者の、置かれる立場の最大の相違点は「徴兵検査」の有無ということだろう。かの時期、若者には満二十才になると「徴兵令状」が来て、軍人の執行官による身体の検査を受けた。体格により甲乙丙丁と格付せれ、甲種合格になると半年以内に「入営」して兵隊になるのである。甲種の息子を出した家庭では、赤飯を炊いて祝ったものだが、それは世間ていを考えてのことで、本人やその親の気持は複雑であったと思う。入営を嫌って人差指を切落したり(銃が使えない)、醤油を飲むと動悸がはげしくなるので検査に落される話などを聞かされた。

 

 私の徴兵検査は、世をあげての軍国主義の昭和十五年であった。当時私は東京に居たのだが、簡単な手続きで検査を東京で受けることも出来たが、そのまゝ本箱地の滋賀県で受けることにした。それは兄の入れ知恵によった。東京よりも田舎のほうが受検仲間の体格が良いだろうから、検査結果も下位になるのではないかという計算であった。

さて、実際に検査場に集合してみると仲間の多くは各地の商店への丁稚奉公していた者が多く、その体格は私と大差はなかった。東京の方が、スポ-ツなどによって体格は向上していたのかも知れなかったのである。

 

 検査の結果は、耳の疾患から第二乙種の工兵であゎ、即入営は回避された。それでも、いつ召集令が来るか、心おちつかぬ日が続くのである。

 徴兵検査を済ませたその足で、同村の仲間十一名で町で写真をとりそれから料理屋へ行った。検査の夜は公然とタバコを吸い酒を飲み女とたわむれることが黙認された村のしきたりのようになっていた。

開戦の前の年であり、軍隊の暗い印象と死の恐怖を払いのけるように皆よく酒を飲んだ。その夜は、家へ帰ることは考えていないようであった。料理屋のほうでも事情はのみ込んでおり、白く顔を塗った女が幾人も用意されていた。

 

 そのころの私は酒もタバコも飲むことを知らなかった。土地の鯉料理がうまかった。夜も更けて、私はひとり自転車を借りて野道を帰った。翌日、半てんを着た中年の男が勘定をとりにまわって来て、「一人安い人がいるのだが、あんたか」と聞いた。私はだまって高いほうの受取をもらって払った。何か、もやもやしたものをふっ切りたい思いがあった。

 

 昨年夏、帰郷した私は十人の徴兵検査の仲間をたずねた。会えたのは三人であった。七人は戦死、七人とも墓地に遺骨は無いということであった。

 

五、戦場と死

「庄司が死に我れが生きしは分秒の差のことなりきいのちかなしく」

         ☆

 昨年一年間「実録第二次世界大戦」のテレビを見ていたとき、私はいつか正座して膝に手をおいていることがあった。夜中の番組だが、寝ころんで見ることは絶対になかった。

 砲弾や爆撃で死んだ兵士や市民の顔を、私は或る種の感動の思いで見る。敵軍に占領された都市の住民の不安な表情を見るとき、私はその住民と同じおののきを覚える。その感動やおののきは、ドイツやイタリー、イギリスやフランスの、どの国のことでも同じである。戦争はどの国であっても、一兵士や一市民にとっては、自分の意志とは無関係に始められたものであった。

         ☆

 私は戦場で多く見てきた敵味方の屍体に、さしたる感興を覚えなかった。その死体は、むごたらしく無惨なものであったが、その時は死を哀れむ感情にとらわれた記憶がない。その時は、私もいつ死ぬか分らぬ状態の時であったからであろうか。人の死を悲しむのは至極当り前のことだが、それは、死に対して安全な立場にいるという前提があってのことである。殺すか殺されるかの戦斗状況では、相手を殺すという意志は、自分を生かそうとする意志と同じ意味をもつ。果敢な攻撃精神は自分の生命を守るために発揮される。有能な指揮者は、いかにして部下を殺さずに戦うかを考える人であろう。だから、戦場における真の勇気とは、殺すか殺されるかの対決の場を、多くの味方から引離すために敢えてひとり行動するところにあると云える。大勢に影響のないところで好んで敵対することは、個人プレーであり一種の悪趣味ともいえる。ある戦斗で、激戦の合間を水を汲みに川べりへ来たら、目と鼻の対岸に敵兵が水を汲みにきており、顔を見合わせて苦笑いの思いで訣れたという話を聞いた。それが人間の本当の姿であろうと思った。

          ☆

 平和な時代の家庭の中で、殺すか殺されるかの戦場を写すテレビをどうして寝ころんでなど見られようか。銃弾を避けてうずくまる兵士、泥濘の道を疲れきって行軍する兵士-どれも六十年前の自分の姿である。顔に布をかぶせて担架で運ばれる兵士、ざん壕の中で身をもたせかけたまま死んでいる兵士、それは、分秒の差で私自身もそうなり得た姿ではなかったか。今、こうやってテレビを見る立場にいられることを思うと、私は厳粛な思いにならざるを得ない。妻や子供たちとの団らんの和やかさは、あの時の分秒の差で他人ととって代ることがあったのである。

 この事の事実としての思い出は、戦死した椿原繁久と庄司賢一の二人にかかわる。椿原は、私らの小隊が一列になって行軍していたとき敵機に襲われ私のすぐ後ろで直撃弾を受けた。庄司は、私と昼食の順が前後した為に死んだのであった。椿原と庄司の名は、私の生涯忘れ得ぬ名前である。この話を子供たちにすると、子供は、きまって真剣をかたい表情になる。

 

六、敵前渡河

「敵前渡河の切羽つまりし身の緊り今の世の何にあたるか知らず」

          ☆

 支那戦線における彼我の陣地は、きまって河を境界としていた。南船北馬の言葉があるように、中南支の地方は至る所に河が流れておりその大小によって、川、河、江、或いは水の名がついていた。河が住民の生活に与える影響は驚くほどであった。公共的な色彩の極端に乏しい社会であったから、橋などのあろう筈もなかった。舟もまた極端に少なかった。私たちが軍用の舟で対岸へ渡ると、そこには今まで見ることもなかった花々が咲き乱れていたりすることがあった。川をはさんで、言葉の訛りも違うということであった。

 だから、戦斗はきまって渡河から始まった。私が戦場で始めて死の実感をもったのは、最初の戦闘経験である常徳作戦初動時の敵前渡河で同年兵の児玉乾が死んだ時である。

 私たち工兵の任務は、折たたみ舟で歩兵を対岸へ渡すことである。

 

 渡河用の折たたみ舟は鉄製で、四人で担いで運搬した。月のない暗闇の河岸に下りて隠密裡の渡河作業であった。目と鼻の対岸には、敵の機関銃座が並んでいることは分っていた。腰の剣には布を巻いて音を消し、軍靴は地下足袋に代えていた。いずれは敵に気づかれる事は分っていたが、犠牲を少くする為に出来るだけ隠密な行動が必要であった。それでも、舟のきしむ音、棹が流れに刺さる音などから敵は気づいたらしい。対岸から猛烈に射ってきた。至近距離から射ち出す銃弾が、ぷすぷすと岸の土に刺さる音、装填し着剣した銃を持って鉄舟の中に身を伏せる歩兵、立ちあがって棹を使う我が工兵、もはや強行渡河である。

 我々工兵の中から選りすぐった棹手は、主に漁師・船頭の経験者であり、手拭いの鉢巻きを帽子の上からしていた。降りそそぐ銃弾のもと、応戦は何もせず、ひたすら歩兵を対岸へ渡す任務のみがあった。

 

 やがて、対岸へ取りついた歩兵が、突撃していく喚声が聞こえた。空が白んできた。

我々の小隊は、土手の下の砂浜に集まった。円形に座り中で焚き火をした。もう敵の弾は飛んで来ない。11月下旬の河畔は、汗の引いた体に寒かった。皆、言葉少なかった。

その時、誰かが「おい、児玉どうした」と言った。児玉の上着の前が、赤く染みているのが焚火の明かりに写った。「ん?」と言ったか、児玉はそのまま前に打伏した。

 棹を使っていた児玉は、腹部を銃弾で射抜かれていた。緊張と寒さで硬直した身体は、苦しみを超越して、しばらくの時間の身体を現状維持したのか。

 軍医が来て診たが首を振った。児玉は雨の如く降り注ぐ銃弾の中を、立ち上がって棹を使っていて、腹を撃たれたのだ。工兵として、名誉な戦死の場面である。

 そこへ連隊長が馬で来た。馬を下りた連隊長は寒風の中で外套を脱いだ。そして児玉の遺体に丁寧な敬礼をした。その初老の目にしばたきがあった。小隊長に「二階級特進にする」と告げて去っていった。

今、この場面を思い返すとき、軍国主義の罪悪を超えて、私は厳粛な気分になる。

 

八、塩の汗

『疲るれば黄の小便が出る軍隊の経験をいま徹夜あけに見る』

          ☆

 激しい運動や労働をして、額に汗を流したり、身体中が汗ばむことは日常ある事だ。だが、その汗が出尽して、あとに塩をふく状態になることを、今の世に経験する事はそう給々あることではたい。或いは その状態を知らず一生を過す人が、これからは多いのではあるまいか。身体を極端に酷使すると、汗は塩に変るといぅ事を兵隊のとき私は屡々経験した。

 

 昭和十七年七月十五日、私は召集令により京都伏見の中部四十一部隊に入隊した。すぐに三ケ月の初年兵の猛烈な一期教育を受けた。それは、それ迄の青年期の情緒的雰囲気とは余りにもかけ離れていた。

人間が、人間の意志も自由も無視する見事な命令と服従の社会であった。京都の夏は暑い。草いきれの匂い立つ演習場で我々二十一才から三十才のごちゃまぜ補充兵は徹底的にしごかれた。その極致は戦斗訓練にあった。

 

 完全軍装に偽装をほどこし、鉄帽をかぶり防毒面を着用、着剣した銃を持つ。これだけで、がんじがらめの身体は立っているだけでも相当の重圧である。その格好で炎天の下仮想敵に伺って突進する。敵陣近くになるとほふく前進(地に伏せ銃を両手で支え両肘でいざるように進む)をする。ゴム製の防毒面は顔面に密着して吸入する外気は少ない。目は眩み息は絶えるかと思う。訓練終了、防毒面を外した顔に、べったりと塩が浮いていた。昨年、宇治の戦友会への途次に見たこの場所には高層アパ-トが立並んでいた。その窓々に干された布団の色彩が私の感慨を誘った。

 

 戦場とは、いつも弾が飛んで来たりするわけではなく、その殆んどは歩いている時間であった。どの目的でどの地点まで歩くのか、兵隊には分りようはなく、ただ遮二無二歩くだけであった。背のうの皮が肩に喰いこみ、携帯する前後百二十発の銃弾が腹背を締めつけ銃はやたらと重かった。常態の時なら一時間毎の休憩があるが、交戦する砲声が前方に近づいてくると歩速の統制もなく走るように部隊は進んだ。どの顔にも汗が塩となって縞をなし、銃を支える腕の肘から汗が滴り落ちた。

 戦斗の場が近づくと、鉄帽をかぶり銃に弾を込め剣をつける。己れの生命を守る為に他の生命を奪う準備である。その時の兵隊個々の表情はどうであっただろうか。それは、今の平和な世では見ることのない、必死の場に持つ人間の表情であったと思う。

 地面の少しの突起に身を陰し乍ら進むのだが敵の銃眼に捉えられ、射すくめられて身動きならぬ。退がることも進むことも出釆ない。草の根をつかみ、目を見ひらいて、状況の僅かの変化を待つ。疲労とか空腹とかの意識すらない。やがて後方の友軍に重火器が届き、その偉力で敵の射撃に弛みが見えた時に兵は後退、攻撃は一時中止となる。

 ざん壕に戻った兵は、みな無口であった。銃を放りだして小便をした。赤に近い黄色の液体であった。

朝風90号掲載 2005.10月号

戦友

大田区 井ノ口金一郎 

 私達はすでに、敵の射程圏内の真っ只中にいた。

「バツ、 バツ、 バツ」

空気を引き裂くように飛来する銃弾の音は、間隔が短く、彼我の距離の短さをうかがわせる。敵が発射するチェコ機関銃の銃弾は、耳元をかすめ目の前の稲穂を千切ってゆく。

「ヒユル、ヒユル、ヒユル、ヒユル」

 時たま迫撃砲の砲弾が、気味悪いうなりを発しながら、頭上をとんでゆく。昨夜から休みなく続く不眠の戦闘で、疲労は頂点に達していた。

 敵は日本軍のくることを予知し、山腹に幾つものトーチカを築き、徹底した擬装を施し、所在の確認さえ困難にさせ、ぬかりない態勢で日本軍の到来を、手ぐすね引いて待っている。

 

 山麓に広がる田や畠に散開して、ジリジリと山腹に迫る日本軍を眼下に見下ろし、銃砲火の雨を浴びせてくる。各々のトーチカから発射される銃弾は弾幕を作り、身動きひとつできない。稲田に伏せたままの長い苦しい時間が続く。

 機関銃に、二十発入った弾倉に詰め替えする時だけ、わずか弾幕が途切れる。その間隙を盗んでは、わずかに前進する。

「八番、出るぞ!」

私の前に伏せていたK一等兵が、大きな声で次の遮蔽地に選んだ饅頭型の陣地へ向かって身を起こし、畔に片足をかけたとたん、

「うううう」

と、一声残して水田に倒れ込む。

 

「畜生」

腹の底から怒りがこみ上げてくる。何かしなくてはと、頭に血が上った状況の中で考えるが、何の策も浮かばない。ましてや「戦友」の軍歌にみられるようなゆとりは全くない。

「九番出るぞお!」

K一等兵に思いを残しながら、私も次の地点に向かって機敏に行動を起こす。一躍進は三〇メートルと、歩兵操典に記載されているが、実際の戦場では思うに委かせない。ひたすら敵に肉薄するだけである。しばらく前進を続けるうちに、後方に見方の連射砲隊が到着したらしく、双眼鏡に補足されたトーチカが、ひとつ、ふたつと破壊されてゆく。まさに力強い援軍である。砲弾が命中するたびに、私達の間から喚声があがった。

 

 時間の経過と共に、あれほど激しく降り注いでいた機銃弾も散発的になり、この地点での勝敗の帰すうははぼ決まったらしく、聯隊本部は前進を一時停止する。私達の作業小隊も本部にならって停止する。ほどなく私と野崎にK一等兵の遺体を後方の部落まで運ぶよう、命令が出た。途中の部落に寄り、太い竹二本を使って急造のの担架を作り、遺体の場所へ急いだ。軍衣の肩半分を血に染めて、水面にうつ向きに倒れ込んでいたK一等兵は、すでに息は絶えていた。私達が遺体に近づくと、その時だけ私達をねらって銃弾が集中してきて危険なので、身を軽くするため墓地のかたわらに野崎と共に背のうを下ろし、遺体の処理に当たる。

 歩兵にはもったいないほど、骨太で上背のあるKの遺体はさすがに重く、畔道をたどる足許はふらつき心もとない。やっと背のうを置いた場所にもどり、担架を静かに置く。

ヤレ、ヤレといった気持ちで、墓石を背に一息いれる。戦闘も一段落し、遺体も一応収容したとなると、今まで張りつめていた気持ちもゆるんでくる。墓石に背をもたせかけながら、漁師あがりの野崎が、「メシでも食うか」とぽつりともらす。

 

 すでに午後三時は廻っていよう。昼食を食べるいとまもないままに、この時間になってしまった。脇に転がっている背のうに目を向けると、たしかに先ほどまで、背のうにくくりつけてあった飯ごうが、共に姿を消していた。私達が遺体の収容に没頭していた隙を突いて、背のうのそばを通過していった他中隊の兵隊が、行きがけの駄賃とばかり、持っていったのであろう。取る取られるは戦場の常とはいえ腹が立つ。止むなくKが残した彼の飯ごうメシを、二人で分け合って食べる。食事後、遺体を命令された部落の或る一軒の農家の土間に下ろす。

 

 体力にものをいわせて、その時々に私を助けてくれたK。彼の遺体を見つめながら、頭の中は空っぽで、何の思いも沸いてこなかった。ただこの土間に転がって、無性に眠りたかった。夕闇のせまる頃、私達の小隊も本部と共に帰ってきた。昨夜もろくに寝てないので、今晩はこの部落に泊るだろうと勝手に判断をする。夕食をすませたら、早速遺体を焼くに足る薪を準備しておかなくてはならないと考えていたところ、「夕食後、明日の二食分を携行し、今夜半〇時に出発する」と本部から命令が出る。

 

 命令とは常に非情なもので、遺体を火葬に付す時間さえ与えてはくれない。薪なら、急ぐ場合は家でも壊せば用が足りるが、火葬には、少なくても五、六時間は必要であろう。Kの戦友は私であり、できることなら、小隊のみんなに弔ってもらいたかった。心中、彼にわびながら、彼の右腕をひじ関節からナタで切り落し、火葬に付すゆとりができるまで、私が携帯することになる。片腕以外の遺体は、なるべく人に踏まれそうもない、庭の一隅を選んで穴を掘り、小銃、帯剣、弾薬等の兵器類は残し、その他身に着けていた装具一切を一緒に埋葬する。

 

 二、三時間の仮眠の後、何事も無かったように隊列を整える。出発前の人員点呼にそなえて、各人で身に着けた装具の員数の自己点検を、星明かりの中で完了する。今日からは日の丸の旗にくるまれたKの右腕も、遺骨として本部へ渡すまでは、私の大切な員数として、新たに加わったのである。 この日から炎天下の地獄の行軍が毎日続いた。軍衣は汗が吹き出て、それが乾燥をくり返して、あちこちに塩の紋を作った。装具の重さに耐えて、黙々と足元を見つめて歩く行軍は、死の苦しみである。首から下げたKの片腕は、歩くたびに左右に小さくゆれ、疲れてくるとうっとうしく、戦友の腕とはいえいらいらしてくる。首からつるした片腕は日を経るごとに悪臭を増し、行軍中でも包んだ旗の間から、蛆は途切れること無くポロ、ポロと落ちてゆく。休憩時など腕を包み直そうと、旗を広げると、ナタで切った腕の断面には飯粒をびっしり詰めたように、蛆がうごめいていた。

 

 常に敵兵の浮腫した死体を何体となく目にしてきたものの、自分の首から下げた腐乱した腕との行軍は、それが戦友のであったがために我慢できたと思う。その辛い行軍も数日で乾燥が進み、黒褐色の干物となり、蛆もわかず、臭気も薄らいでいった。

 それから一か月、幾度かの敵との遭遇を経て、「火田」という部落に着き、ここで二十日近く休養することができた。火田での休養中、戦死者の兵器を本部へ返納したり、Kの右腕も茶毘に付し、遺骨として、本部へ渡すこともできた。

 

 分隊の仲間の見守る中、農家の庭先で薪を積み、ミイラ化したKの腕を乗せ、点火する。燃え盛る炎をみつめながら、ひとしきりKの話しが出る。私達の部隊が旧満州の錦西で、ソ連を仮想敵に見立てて、タコツボを掘ったり、戦車代わりの大八車を、棒爆雷を模した棒切れを持って追い廻していた。一九四三年の秋だったか、Kは現地召集されて入ってきた一人で、翌年、河南、湖南省へ転進のため、部隊内に作業小隊が編成された時、彼と同じ分隊に配属となり、気の合ったのも幸いして、戦友としてのきづなをより深めた。作戦に参加してからは、事あるごとに私を助けてくれた。私が行軍で足元がふらついてくると、私の小銃を持ってくれたり、食糧を発見した時など、私が背負う分まで、笑いながら自分の背のうに収めてくれたK。その披はもう居ない。薪をくべながら、彼との出会いからひとつ、ひとつが思い出される。

 

 読経の声も無く、供花もなく、米の粉でダンゴを作って供えたのがせめてもの彼への供養であった。奇しくもこの日は八月十五日であり、ほんに寂しい葬送であった。

朝風91号掲載 2005.11号

「長台関」の悲惨事

 大田区 井ノロ 金一郎

 

 夜来の雨は朝の出発時にも衰えを見せず、地面をたたきつけるような勢いで降っていた。軍公路を進む部隊の歩度は延びず、とりわけ、挽馬隊の聯隊砲や大隊砲、それに聯隊行李班等は難渋を極めていた。

 部隊が京漠線沿いの長台関に着いた頃には、ふんどしまで雨は浸透し、重装備は更に重く全身を覆い、背の負いひもは板のように固くなり、肩に食い込み、泣きたい思いであった。

 降りしきる豪雨は行き場を失い、部落の両側に広がる水田を埋め、さながら、一面の湖水と化し、歩いている軍公路をも没するような勢いであった。突如、「後へてえーでーん(逓伝)しょうきゅ-し(小休止)」

 

 先頭の本部から発せられた命令は、小隊ごとに受けては後ろの小隊へと、風雨をついて伝えられてゆく。降りしきる雨中の行軍で疲労は頂点に達していた。欲も得もなく、ぬかるみの道路へ背のうを背負ったまま、次々に倒れ込んでゆく。間もなく乗馬小隊の数騎が、泥水を蹴ちらしながら後方へ走り去っていった。

 

 すでに、挽馬隊は本部から遅れておるし、一般中隊でさえ、このまま雨中の行軍を強行すれば、指揮掌握は難しくなり、不測の事態も起こり得ると本部が判断した結果、部隊を宿泊させる前提として、一時間はど前小休止した軍公路沿いに、軒を接して並んでいた商家を偵察のため走らせたものと、私なりに解釈した。

 

 しばらくして乗馬隊は帰って来たが、本部からの命令は直ぐには出なかった。やはり軍公路沿いの商家には、後続の部隊がすでに占拠してしまっていたのだろう。「宿舎近し」の思いで、物憂くなった身体に、当てのない宿舎探しの行軍が更に続くのかと思うと、気力も失せてくる。

 

 それから間もなく、「各隊は周辺の部落に、それぞれ分宿すべし」と、意外な命令が出された。

 「周辺の部落」と言われても、もう周囲は簡単に歩いて行ける状況ではなかった。部落に続く狭い農道や畦道は、すべて水面下にあった。瞬時にして出現した湖水に浮かぶように、数軒ずつ点在する農家を求めて、どのようにして辿り着けばよいのか。思案に余る難事である。ましてや、先遣隊が振る目印さえ、夕闇の中ではしかと目にすることもできなかった。

 

 右の肩には小銃、左の肩には工兵用の柄の長いスコップ、背中には重い背のう、そして、腰の廻りには百二十発の弾薬入れ。その他、諸々の装具を身にまとって、決められた農家へ通ずると思われる畦道を探り当て、摺り足で一歩一歩と、全神経を足の指先に集中して前進する。十米が百米にも二百米にも感じる。

 刻々と増え続ける雨水は、奔流となり、音を立てて流れており、膝も没する深さである。畦道の路肩は歩むほどに崩れ、水面へも何回か落ちる。死の淵を何回か垣間見ながら、その都度気力をふり絞って畦道に這い上がる。

 

 あちこちで仲間を呼び会う叫びが、風雨にかき消されそぅになりながらも聞こえてくる。漆黒の闇の中で誰かがまた落ちたのか、足元で「バシャ、バシャ」と、もがきながら手で水面をたたく音が聞こえたが、間もなく静かになる。

 運悪く用水池に落ちたのであろう。それを知りながら、手を差し延べるだけの余裕は私にはなかった。相手を救おうとすれば、私も命を賭けなければならなかったから。地獄絵図そのままの状況の中では、すでに軍隊としてのまとまりを欠き、「烏合の衆」と化した集団は、他人と係わる心のゆとりを失い、我れ勝ちに、それぞれの農家へ辿り着こぅと、必死になって水面下の畦道をさぐりながら歩いてゆく。

 軍公路から百米か百五十米はどの距離しかないであろう部落まで、三時間前後はかかったと思う。やっとの思いで作業小隊の宿舎に入った時には、「助かった」という気持ちだけで、我が身を土間に転がした。

 

 時おり、室を間違えて入ってくる他中隊の兵隊、特に年次の若い兵隊が入ってくると、古参兵が、「バカ野郎、ここは作業小隊の室だぞおー」と声を荒らげて追い返していた。全身濡れそぼった身体で、この夜はどのように過ごしたのか、今では思い出すこともできない。

 

 翌日は、前夜の豪雨もうそのような五月晴れとなったが、見渡す水田は相変わらず一面の湖水であった。地面に長々と、銃をしっかり握ったまま死んでいる者、壁に背をもたれて死んでいる者等、私が仮泊した農家の周辺でも、数人の死者を数えることができた。恐らくこの周辺で亡くなった兵士達は、自分達の宿舎が見つからないまま、疲れ果てて眠るように死んでいったのであろう。そっとその死者達に手を合わせる。

 

一般の社会なら、昨夜のような緊急避難を余儀なくされる状況下にあっては、行きずりの人でも、家に入れるのが当然である。ところが「間違いは正す」とする融通のきかない建前論が先行し、他中隊への底意地の悪さも手伝って、あたら助かるべき命まで落とさせる破目になってしまうのである。

 

 兵官生活の中では、「軍隊は星の数(階級)じゃねえよ。メンコ(食器)の数よ」と、古参兵が幹部候補生への皮肉もこめて、話しているのをよく耳にした。たしかにその自信は行軍、戦闘ともなれば力を発揮した。

 私も当時は三年兵の古兵の古参になりつつあったが、未だ私より年次の上の先輩がいたし、それ等の先卒に抗してまで、他中隊の兵隊を室へ入れる勇気は無かったし、それ以上に私も、兵官生活に馴れてしまい、人間本来の「情」を失っていたのではないかと思う。

 

 それから一週間近く、遺体処理もかねてこの地で休養をとった後、部隊は、京漠線打通作戦の最終目的地である、信陽へ向かって出発したのです。公式記録によると、この地、長台関での一夜の死者総数は、師団(作戦出発時約二万名) で、百六十六名という数字であったが、私がその後、漢口で聞いた話では、三百六十余名であった。

 

 戦わずしてこれだけの犠牲者を出したのは、私が軍隊生活の前後を通じて初めての体験であった。また、亡くなったのは全て兵隊であったし、背負う荷の軽かった将校からは一名の犠牲者も出していないのである。

 兵隊は葉書一枚でいくらでも集まる、とする人命軽視の産物であり、この夜の自殺行為的命令を出した指揮官の責任こそ、間わるべきである。

 

 敗戦前年、五月中旬の出来事であった。

朝風92号掲載 2005.12月

戦争とは英霊とは

仙台市 本郷 勝夫

 戦争とは、人と人の殺し合い。そして憎しみ合う愚かなことである。

 戦後六十年を経て、先の大戦、そして敗戦と言う現実の歴史から切断された人間が、大多数になった今、元軍人、いま老兵はどうしても語り残して終わりたい一心でペンを執る。

 

 戦争は敵、そして住民を殺めるだけでなく、ときには友軍も殺めることもあった。そのことは個人としては忍びがたいことではあったが、命令という厳然とした規則で行われるのである。

 

 六十年前、軍隊在籍中、私は太平洋戦争末期の頃、中国大陸で行われた作戦に参戦させられ、私は野戦病院勤務の最下級兵だった。

 ある日、ある所で「コレラ」という伝染病が蔓延していた。目に見えない敵である。罹患すると体の中の水分と脂肪がどんどん排泄されて衰弱する。

 その患者兵士を一室に閉じ込め、収容しておくだけ。そこでまた、命令が下る。患者兵との接触が厳禁される。只々コレラ患者を閉じ込めておくだけの野戦病院。理由は薬は無し、水は無し。(リンゲル)消毒薬は不足。接触すると感染して部隊が全滅し、また他部隊にも感染の恐れがあるので、接触厳禁の命令だった。

 

 そのあとが残酷だった。我ら野戦病院に移動前進の命令が下る。その時、部隊長命令で上官の命令は大元帥陛下の命令である。

 囲いの中のコレラ患者兵の家屋に火を放って前進移動とのこと。戦争とは残酷極まりないものである。

 

 あの時の兵隊の遺骨は大陸の奥地のどこかに放置されたまま眠っている。遺族には白木の箱に氏名だけ書いた紙切れ一枚が届く。そして戦後大陸に遺骨収集団などというものが行ったことは聞かない。 当時の状況は、米軍に制空権を掌握されていたので、火を燃やすことは出来ず、そのまま放置したのが現実。

 

 いま、国では英霊と言って靖国神社に祀ったという。死人に口なし。命令と言って患者を焼き殺し、遺骨は大陸の地に放置。遺族には戦死とか戦病死とか国から言われ、そう思うことにしていると考えると身の縮む思いである。

 

 決して靖国の社などに安らかに眠ってなど居ない。ましてや命令を下した大本のA級戦犯と一緒では、恨みと怒りこそあれ、安らかになど眠れない。

 一日も早く安らかに眠れるところに霊を安置することを願う老兵である。

                                   合掌

朝風93号掲載 2006.1月

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担当者 佐藤、注

 私も中国の衡陽付近の部落に宿営中、夜中に非常呼集で急遽部落から離れたことがある。

 日本脳炎患者が発生したので別の部落に移動するという命令だった。

 古参兵の話しによると、コレラ患者を農家に閉じ込めて塀の外から水筒を投げ込むだけで、暫くすると火を付けて燃やしたこともあったと言う。

農民拉致

戦場体験映像保存の会 大田区 井ノ口 金一郎

 任務は工人一万八〇〇〇人の拉致命令

 「ヒジョ、ヒジョー」

 営外の中国人の民家へ声が聞こえないように衛兵は声を殺して各班ごとに非常呼集を告げてゆく。兵営を取り巻くように立ち並ぶ民家へは、常に八路(中国共産八路軍)の影を意識するように教育を受けていたので、衛兵もその辺の配慮を忘れてはいない。

 

 「非常」と聞けば、時刻を意識するゆとりはない。暗闇の中で手早く床を整理し、装具を身に着けて、炊事に駆け込む。水筒には飲み水ならぬ醤油。飯盒には味噌を詰め、古兵の分まで背負い袋に米を入れる。討伐や部落掃討となれば、常に一個分隊(12人)の食糧は、分隊所属の二、三人の初年兵が携行するしきたりになっていた。

 

 すでに舎前には各隊が整列を終えており、駆け足で自分の分隊の列に加わる。衛兵の敬礼を受けて、中隊は趙各荘屯を後に00部落に向かって出発する。氷点下15度にも下がる北支の夜を衝いて、黙々と行軍は続く。ホカホカするように防寒服に唐辛子を入れる古兵もいた。

 

 私達の中隊の主たる任務は、一万八〇〇〇人の中国の工人が、昼夜三交代で働く、深さ七道抗には極度の神経を使っていた。その他、兵営周辺の町や村の警備や、翼東地区の大隊及び聯隊の討伐にも参加した。

 

「宣撫」地区

 中隊が駐屯する趙各荘周辺の宣撫地区(宣撫が行き届いていると、日本軍が一方的に信じている地域)の村からは、毎朝決まって各村長が認めた紙片を、中隊の衛兵所まで届ける義務を負わされていた。その紙片には、八路軍またはその便衣の何人かが部落に泊まったとか、通過して行ったとか、事実に基づいて記入することが求められていた。日本軍は怖いので各村からは毎朝確実に村の誰かが連絡文を持参した。ところが、いつも判で押したように「平安無事」という内容が続くと、その部落は疑いをかけられ、中隊づきの軍属で、金という名の通訳(実は密偵)を、マークした部落へ送り込むのです。金通訳は周辺の部落へ出入りしており、何人かの情報提供者も確保していたのです。

 

 余談になりますが、この日から数か月後、金通訳は趙各荘の町の娘と結婚し、新婚気分も抜けきらぬある日、マアントウという部落から外れた廟の前で、全身を蜂の巣のように射たれてあたら短い人生を断つことになるのです。それから数日後、後町の広場で、盛大な金通訳の中隊葬が営まれ、三日間の渡る葬儀中、白無垢装束で棺に打ち伏すようにして泣いていた中国人の新妻の姿を、今でも思い出すことがあるのです。

 

 ところで今晩も、おそらく金通訳の情報に基づく出動であることぐらいは、何も知らされていない兵隊であっても、おおよその見当はつく。行くほどに、目指す部落は暁闇の中に眠っていた。中隊は一人一人の間隔を五十米ぐらいにあけて、部落から逃げ出す者がおれば「誰何」して挿らえるか、なお振り切って逃げる者は射殺してしまおうと、部落を遠巻きに包囲するようにして畠地に伏せる。寒気はしんしんと肌を刺し、十分が一時間にも長く感じる。しばらくして東の空があかね色に染まり出す頃、選ばれた十名ほどが銃に着剣したまま、匍匐前進を開始する。

 

 包囲した部落の中で行ったこと

 部落に着くとともに突入した尖兵は迅速に行動を起こし、一軒残らず室内を捜索する。寝込みを襲われ、慌てふためく住民を、一人残らず広場へ集める。集め終わると合図のために、銃を発射する。部落の周囲を固めていた中隊は、合図を待っていたように広場へなだれ込み、集められていた住民の周囲を囲む。銃剣が装着され、弾丸が込められた小銃を水平に保持した百余名の兵隊に囲まられた輪の中で、住民は男女の別なく衣類の前をはだけさせられ、一人一人しらみつぶしに調べられてゆく。調べる目的は、八路軍の便衣を捕らえることであり、大金を持ったり、手帳や万年筆を所持していたり、頭髪や身なりが整っておる者は、農民らしくないという理由で、当然のように便衣の疑いをかけられる。直観的に「臭い」と思われれば、強引に中隊本部へ連行される。この日連行されたのは一人であった。一旦連行されたら、ほとんどの者が元の部落に帰ることは難しかった。初めは喚き、哀願していた若い男も、いつしか悄然とした姿で引き立てられてゆく。

 

 本部へ連行された日から連日、金通訳の立ち会いで、特高による思想犯同然の拷問が始まる。拷問が一区切りつくと、衛兵所の控室へ連れてきて、休ませたり、食事をさせたりして、再び拷問の室へと、衛兵所の間を、一日何往復かする。

 

 私が衛兵勤務に就いた日、たまたま拷問の憂き目に遭っていた男の見張りをしたことがあった。戦場でお互いに銃を向け合った相手でないだけに憎しみも湧いてこなかった。便所へその男を連れて行く途中、彼が営庭に落ちていた木切れを拾った時、(何、すんのかなあ)と一瞬怪訝に感じたが、板扉を開け放ったままの便所で、彼が用を足し終えてから、先程の木切れで尻を拭う様子を見た時、「ああ、あの木切れは紙の代用を果たしたのか」と、合点がゆきました。

 

 それから一年後、揚子江を越えて湖南省を転戦中、およそ新聞紙一枚、雑誌一冊目にしたことはなかった。あちこちの便所を見たり使ったりした時、偶然にも、趙各荘屯営で拉致してきた男の、便所での仕草を思い出したのです。庭に作られた粗末な納屋の周囲には、農機具が雑然と置かれており、その真ん中を二枚の踏み板が渡してあり、その下は大きな便槽で、その横に稲わらを十センチメートルほどの長さに束ね、その真ん中をこぶ巻きのように結んだ、尻を拭く代用品が散らばっているのを見ました。私達の侵略によって、この地方の住民は尻を拭く紙一枚にも事欠く生活に追い込まれていたのです。

 

 話が少し本題からそれましたが、…又、元に戻して進めます。

 拉致した男への拷問は、一週間にも渡って続くこともざらにあった。便衣でないことが、拷問の末にわかっても、釈放したら日本軍の宣撫工作に支障を来たすという理由からか、疑いが晴れて、中隊の営門から出て行く姿を見たことがなかった。

 

 敵地(侵略した他国)で戦う戦略

 八路軍が日本兵を捕まえた場合、彼等は日本兵を殺すどころか、日本兵当時の階級を二階級昇進して、八路軍の新兵教育のコーチとして厚遇してくれるという話を、真偽のほどは不明でしたが、そのような噂が兵隊間では伝わっていました。事実とすれば、それはまた、日本軍を攻撃するひとつの手がかりになっていたのではないかと考えています。

 

 日本は兵隊の生命を軽視し、軽視された兵隊はまた、相手の生命を軽視する。それに引き換え捕虜の生命を重んずる八路軍は、自国の国民は勿論、兵隊の生命をも同一視することにつながると思います。

 両極端な考え方の相違は、戦場での駆け引きにも表れていました。八路軍が日本軍を攻撃する場合は、必ず高りゃん繁茂期を選びました。攻めるにしろ退くにしろ、背丈まで伸びた高りゃんは、身を隠すには恰好の遮蔽物でした。砲といえば命中率の悪い迫撃砲ぐらいで、普通はチェコ機関銃(日本軍の小銃弾や軽機関銃の弾丸も使用できる)一丁で一個分隊を編成していた。時には日本軍のより性能の良い、外国製の重機関銃にもお目にかかった。ですから、優勢な装備を誇る日本軍に対して、真正面から戦いを挑む愚は避けました。彼等が仕掛ける戦いはほとんどがゲリラ戦で、それこそ神出鬼没の戟いを挑むのに、高りゃん畠は不可欠の要素であったのです。

 

  一九四二年の秋、そろそろコウリャンの刈り入れの時季も近づいたし、八路軍の蠢動も今年は終わりだろうと、たかをくくっていた矢先、唐山の日本人経営の紡績工場が襲われ、反物千余反が強奪された事件が起き、この小都市に在った聯隊本部の幹部連中も、足元をすくわれ、慌てたことと思います。当時、私も聯隊本部に居り、この事件を知りましたが、この事件では彼我とも一名の犠牲者も出なかったと聞いております。また、敵地で戦う日本軍の動静は、全て彼らの掌中にあるようなものでした。

 自然の高低差や地の利を存分に駆使した奇襲で私たちはずいぶん苦しめられました。まさしく、最小の犠牲で最大の効果を挙げた八路軍の戦略であったと思います。このように生命に対する彼我の両極端な考え方の相違が、根本において、今次の戦争の勝敗の帰趨を決めたと私には思えるのです。

(この項おわり)

朝風95号掲載 2006.3月

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 HP担当 佐藤注: 私は湖南省でクリ-が何も無くて小石でお尻を拭くのを見ました。

日本軍前線部隊の内実

戦場体験映像保存の会 大田区 井ノ口金一郎

 戦争中私は中国の華北、ついで東北部、そして華北をへて華中へと、一兵士として四年間中国にとっては、招かれざる殺人者として向うへ送られました。戦争をつきつめていけば、所詮は、大量殺人、大量破壊、そして入間の平常心まで狂わせてしまいます。

 大分以前になりますが私の友人が、「国へ帰れば善良な一国民が、戦場では農家へ略奪に押し入ったり放火したり、その上暴行や殺人が何故平気でできるのか」 と、戦場での兵士の行動について、疑問を感じていました。その後私も戦場の状況を頭に浮かべ色々と考えてみました。

 

食糧の途絶えから、略奪へ

 たしかなことは「今生きている」という、たった一つの儚い望みしか抱けない戦場で、後方から送られてくるはずの食糧が途絶え、今食う米も無くなれば、後は餓死するのを待つだけです。ところが、戦うことが全てに優先すると教えられていた、当時の私達は、食糧が逼迫した状況に追い込まれれば、たとえそれが日本の農家であっても押し入ったと思います。ケースは違いますが、それを実証したのが、日本兵の多数の沖縄住民を銃殺した事件ではなかったかと思います。ですから、食糧が底をつけば、当然のように付近の農家へ押し入りました。

 

 では何故食糧が送られてこないのかといいますと、道路が中国軍によって寸断されていたからです。後方には食糧は、倉庫に腐るほど積まれていましたし、運ぶトラックもありましたが、肝心のトラックが走れる軍公路は、中国軍が退却しながら、道路周辺の住民を総動員して、数百米間隔で破壊してしまい、日本軍はそれを復旧する力はなく、ために、車両による輸送は不可能となり、弾薬だけは馬の背に託して、私達の前線まで届けられました。

 

 ところで、食糧は米一粒送られてきませんので、止むなく、徴発という名の略奪に走るわけです。徴発に行くからといって、誰一人止める者はいません。下士官、将校でさえ私達兵士が略奪してきた食糧によって飢えを凌いでいたからです。

 考えてみれば、日本は自らが資源か無いからと勝手な理由をつけて、私達を中国へ押し入らせ、武力を背景に資源をあさり、膨大な略奪をほしいままにしていたのですから、日本は中国に対して、二重の大罪を犯していたのです。

 

塩無しの一週間余を来陽で

 日本が敗けた前年の秋のことでした。広東と桂林を左右に分ける分岐点に衡陽駅があった。その近くの来陽の郊外に、飛行場を作るため、私達の部隊もこれに参加し、二か月余りこの地に駐留することになりました。

 色々な調味料が潤沢に出廻っている今の時代からみたら、犬猫でさえ顔を背けるような、ダシも入らず、しょう油も味噌もなく、岩塩だけの味つけが日常化している食生活の中で、貴重な岩塩がこの地に着いた頃から乏しくなり初め、十日を過ぎた頃にはきれいさっぱりで、仕方なく塩の替わりに、手元にあった唐辛子を使いました。

 

 千切りや輪切りにした大根に、真赤な唐辛子をまぶした様子は、見た目には色鮮かに映りますが、汁を飲むなり輪切りの大根をかじると、口内がカアーとして、急いでメシをかっこむというわけで、塩なしの一週間余は、踏んだりけったりの日々でした。

 

 このような食糧事情の中で、私達の作業小隊からも、飛行場建設のために毎日十名の使役が狩り出されていきました。地面をならすローラーの替わりに、ドラム缶に砂利が一杯に詰められ、それを八人で引っぱる人力主体の工事が進められていたが、毎日使役の人員をそろえるのが大変でした。

 なにしろ、まともな食事をとることの少ない前線にありましては、洗たくする石けんもなく、風呂へ入れる機会も少なく、身にまとったボロボロの衣類には、シラミはたかり放題で、アカだらけの身休に疥癬ができ、おまけに毎日誰かがマラリヤで熱発をしているという、まさに満身創痍の状況の中で、ローラー替わりのドラム缶を引く作業は、正直こたえました。

 

 ところで、私達が駐留していた村落の周辺に広がる水田に、充分に実った稲穂は、順調に事が運べばすでに刈り入れが終っていたはずであった。刈り入れの時期を過ぎてなお放置されていた稲穂は、以後降りつづく日本の梅雨を思わせる秋雨にさらされ、芽さえも出し初めていた。

 刈り入れを目の前にして、侵略者である私達日本軍の来襲に会い、しばらくの問とはいえ、年でもっとも大切な収穫の時期を、歯ぎしりしながら村を去っていった働き手の農民の口惜しさは、私達には推し量ることはできません。

 

 食べる物とて無くなった村落の年よりや子どもが、あっちこっちの畦に身をかがめるようにして、稲の穂先だけを引き抜いては、手許のかごに一本二本と入れている様子が、遠くから望まれました。

 村人が食べる主食は、芽さえ出しかけているたんばの稲をおいて他になく、それと同時に、略奪によって胃袋を満たしている私達にとっても、条件は同じであった。略奪による私達の食事が粗末であったのは当然としましても、常に略奪されっぱなしの無抵抗な農民達の暮らしもまた、私達兵士以下の極貧の中で、じっと耐えていたことを思い出すと、心が傷みます。

 

 「火田」における、農民刺殺の顛末

 記憶が正しければ、華中の「火田」という村落に駐留していた時のことです。

 

至上命令 「苦力(クーリ)10名連行」

 「下士官を長とする兵四名は、明日払暁を期しA部落方面に出動し、捜索の上苦力(クーリ)十名を捕え、本部へ連行すること」

 直ちにその場で、下士官を含む兵五名の氏名が読みあげられ、その内の一名に私も加えられた。 「火田」という村落で、二十日近くに及ぶ休養も終りに近づいたある夜の日夕点呼の時であった。日直下士官は本部からの命令受領の内容を、張りのある声で忠実に私達の作業小隊につたえた。

 

 真夜中不寝番に起こされ支度を始める。三名は徒手帯剣(銃は携行しない)とし、私と他一名が銃の携行を言い渡される。隠密行動をとるため、帯剣は帯革(バンド)に下げず、脇差しのように差しこみ、銃の負い革は、音を発しないようひもでしばり、布で包む。軍靴の替わりに地下足袋をはいて出発する。左右の水田に落ちないように注意しながら、星明かりを頼りに下士官を先頭に兵四名は、黙々と農民を捕えるためにA部落に向って畦道を辿る。

 

 私達がひとつの村落に止まる限り、駐留している村落は勿論のこと、周囲十粁ぐらいに散在する村落には、老人や幼児を残してほとんどの村民は、陽のあるうちは山中で時間をつぶし、夜中になるとそれぞれの家へ帰り、食事をし弁当を整え、明け方には再び山中にもどるという生活を、私達日本軍が他の地へ移動するまで辛抱強く何日でも続けています。

 

 不運にも日本兵に捕えられたら、それこそ一生を棒に振ることにもなりかねません。男なら「苦力」として駄馬替わりに、戦死者が携行していた銃や帯剣、駄馬を失った本部の荷物を、前後の籠に入れ天秤棒で担わされ、果しなく続くであろう日本軍の作戦行動に、犬猫のような扱いを受けながら、体力の続く限り、何百、何千粁と歩かされるのです。そのことを骨の髄まで知っている農民が、やすやすと日本兵に捕えられるはずがないのです。

 

 火田の宿舎から一時間余も歩いたでしょうか、暁暗の静寂の中に、目指す村落が目前にせまってきました。四周に土塀をめぐらした一軒の農家を取囲むと、私の目の前の土塀の上で何かが動く気配を感じた。じっとしていれば私も気つかなかったが……。土塀の内側から目だけ出して、山へもどる人達の身の安全を守るために、外の様子をうかがっていた「見張り」だな、と直感し機敏に次の動作に移る。見張りなら、急を告げに家屋内に走るだろうし、それなら、山へもどる人達は入口からとび出してくると判断し、私も急いで入口の門へ走る。ところが、相手は私の判断の甘さをついて、今しがた見張りが立っていた場所の土塀を乗り越えとび降りた。直ぐ気がつき後を追う。

 

 男は前のめりになりながら、裸足で必死に駆ける。しばらく後を追っていくと、行く手を遮るように、小川の流れがとびこんできた。「しめた」と思ったのは私の側だけで、相手は勝手を知った小川を水しぶきをあげながら対岸へ渡ってしまった。渡ろう渡るまいか逡巡しているうちに、彼我の距離は遠のいてしまい、夢中で二発射ってしまった。私はおどしのつもりで銃口を空に向けて射ったのに、彼はその時だけ畠地に身を転ばせたが、直ぐ起き上がり走り去ってしまった。

 

 私が思わず射ってしまった二発の銃声が、この時には未だ、取返しのつかない結果を生んでいたなど知るよしもなかった。農民を捕えそこなった口惜しさだけで、頭の中は一杯でした。小走りにもとの農家前にもどると、待っていたのはY伍長のたたきつけるような怒声であった。

 「バカ者/何で勝手に銃など射つんだ。お前のおかげで、部落中の農民は逃げてしまったんだぞ」 弁解の余地はまったくなく、私は直立不動の姿勢のまま、「ハイ」「ハイ」と繰り返しながら、自分一人の功を焦った挙句、ドジを踏んでしまった自分が情けなかった。

 

 半ば目的を失った私達の分隊は、部落中央の広場へ入っていった。家々では朝の仕度をしているのであろう、どの家からも炊煙が漂ってはいたが、日本兵の乱入によって、村落は不気味なほど静まり返っていた。家の構えで目星をつけ、どやどやっと台所に踏み込むと、老人が幼児をかかえこむようにして、おびえた日差しで「殺さないでくれ」というかのように、哀願する姿が目に入ってきた。誰かが 「ホイッチー」(向うへ行け) とどなると、老人は土間の一隅に幼児と共にうずくまる。私はかまどにかかっていた鍋の蓋を取ると、米粒も定かでない重湯状の朝食がブツブツとたぎっていた。私達は銘めいに粥を椀に盛り、唐辛子を細かく刻んで油で妙めた塩辛いお菜で、腹ごしらえをして再び広場へ出る。

 

哀願する老人と子ども 一員数だ。運行しろ一

 念のため、もう一度部落を捜索する。 命令を出すY伍長の口調にも、いっもの元気さはなかった。捜索をしたが、予想通り一名の戦果も得られず、いまいましい気持を抱いてY分隊は帰途に着く。

 部落を外れて田の畦道に向う道すがら、ぽつんと建っている一軒家に人影らしいものを発見し、みんなで入っていくと、五十才を過ぎたと思われる男が、土間に筵を敷いて寝ており、傍に少年が付きそうように、腰を下ろしていた。話しかけると、少年は片言の日本語で話してくれた。

 実は二人は親子で、以前は南昌で農業をしていたが、その地で日本軍の剣部隊に捕われ、この地まで苦力として、三か月以上も剣部隊と共に行動してきたが、父親が病気でたおれ、剣部隊でも仕方なく二人に対し、若干のカネを支給し解放してくれた由。ところが、父親が発熱し、止むなくこの空家で昨日から休んでいるとか。バスも列車も走っていない戦乱の地で、病人の父親をかかえて、故郷の南昌まで何か月かかるかわからない彼は、徒歩の旅の苦難の道程を話せば、「それでは、気をつけて帰んなよ」と、いうぐらいの情を日本軍は持ち合わせているだろう、という思惑をこめて話してくれたのだと私は受け止めました。ところがY伍長は 「員数だ、この二人を連れてゆく」 と、冷たく言いはなったのです。

 

 少年はY伍長の表情から身の危険を感じ、父親のかたわらにうずくまった。兵士二名が少年の両脇から腕をつかんで、連行しようとすると、少年は表情をこわばらして抵抗した。わめき暴れる少年を、有無をいわさず力で引き立てます。私と兵士一名は、寝ている父親の両脇にまわり、起こしにかかるが、肉体を消耗しっくした父親は、やっと支えられて起き上がり、せきをしながら訴えるように話しかけてくるが、言葉が通じない。二人で両脇を支えるようにして歩き出すが、足許が定かでなく、この父親を本部へ連行するのは大変だなあと思いながら歩き出す。ヨロめきながら歩く農夫に業をにやしたのか、Y伍長が 「その農夫を置いてゆけ」 とどなったので、私は正直なところほっとして、かかえていた腕をふりほどき、先頭に追いつこうと走り出すと、農夫は、転んでは起き上がりながら、畦道を何か細い声で叫ぶようにして、後から追ってくる。それを見たY伍長がいらいらしながら 「井ノロ上等兵、農夫を刺してしまえ」 と私に命令を下した。

 いくら今日の失敗の原因が私にあったはいえ、こんな無法な命令だけは何としてもきけなかった。

 「俺も三年兵だ、刺すんならY伍長が自分でやればいいんだ」 口には出せなかったが、無性に腹がたってきた。

 「井ノロ刺せ」

 再びY伍長の声がとび、私は「ハイ」とも「刺せません」とも言わなかった。すると、脇に居た偉丈夫で強気なS一等兵が、私の気持を察するように「上等兵殿」といいながら、私の持っている銃に手をかけながら、Y伍長の表情を窺うと、間合を置かず、Y伍長は語気鋭どく 「S一等兵刺せ」 と、三度目の命令をくだした。S一等兵は、私から受けとった銃に、自らの帯剣を取りつけ、畦道をやっとの思いで歩いてくる農夫の左胸郡目がけてひと突きすると、農夫はそのまま脇の深田に、腰からくずれるように沈んでいきました。凝視する私達の目の前に、まさかと思わせるように、今沈んでいった農夫が、頭から泥水をかぶって両手をあげ、苦しげな表情をしながら、畦道を探している様子を見て、S一等兵がダメを押すように再び突くと、二度と水面には浮かんではこなかった。父親の殺されるのを目の前で見せられた少年は、泣きわめき暴れていたが、強引に本部に連行されました。たしか敗戦前年の夏のことでした。

 この少年の心には、この日を限って「日本憎し」の思いが、強く強く刻まれたことと思います。

 

三光作戦

 中国の人達にはどんなに頭を下げても、詫び足りないことばかり犯しながら、兵士自身はラジオも聴けず新聞も読めず、ただ黙々と食って寝て歩くという、けもののような明け暮れの中で、敵に遭遇すれば相手に銃を向けるだけの、「戦う機械」 に自分自身が次第に陥っていくような生活でした。

 農家へ押し入っても罪に問われない無法地帯の中で、初めは食糧だけが目当てだったのが、たび重ねるにつれまして、罪の意識も薄らいでいき、時には感情の赴くままに放火や暴行、そして、いきがかりとはいえ、それが殺人へとエスカレートすることもありました。今だから言えるのかもしれませんが、食糧が無くなったから、農家へ略奪に押し入ったでは、相手側の納得は得られませんし、「仕方なかった」という言い方も同じです。

 

 戦場での兵士の狂態を今静かに振り返りますと、何も食糧が無くならなくとも、このような事態は当然起きたのではなかろうかと、推測します。食糧の途絶えたことは、狂気へ走るたんなる起爆剤でしかなかったと私は判断いたします。飢餓状態、食物に限らず 戦場における兵士は、食物だけでなく全ての面で飢餓状態に陥っていました。兵士にとって村落へ押し入ることは、欲望を満たす恰好の機会でありまして、そこに女が居ればそれは性欲の対象でしかなく、銀貨を見付ければポケットに入れるし、中にはツヅラの中の反物を、腹にグルグル巻きつけている者もいました。まさに百鬼夜行の夜盗集団そのものであったと思います。相手がノーと言えばなぐるけるは日常茶飯事で、ときにはそれが、殺人へと移行することもありました。

 

村を捨てて、逃げる農民の思いは

 私達の部隊が近づいたことに気がつけば、彼等は、村落から村落へドラなどをたたいて知らせます。私達が村落へ押し入った時には、老人や子どもばかりで働き盛りの者は、ほとんど姿を隠してしまいます。彼等は逃げる時には、豚やにわとりは、私達に食われないよう小屋から放ち、家貝類は薪にされないよう、全て池に投げこんでありました。

 

 私達の部隊が二、三日でも仮泊すれば、米、豚、にわとりはいうに及ばず、酒や蜂蜜にいたるまで鱈腹食べられ、余れば携行食として持ち去られてしまいます。その上無ければ困る鍋釜の類まで、出発間ぎわに銃の床尾板などでぶち壊して、農民が もどってきても再び使えなくしてしまう光景も、一度ならず見てきました。これこそ三光作戦の名残りを見る思いでした。

 「三光作戦」とは、一九四〇年頃、 昭和でいえば一五年頃から日本軍が、中国共産党のゲリラと、ゲリラを支援する民衆とを離反させる目的でたてられた、対ゲリラ作戦で「殺しつくす、奪いつくす、焼きつくす」という、文字通りの皆殺し作戦で、幼児まで殺したのは、成長して共産党軍の兵士になるのを防ぐためであり、町や村を焼きはらったのは、根拠地を作らせないための方法でした。鍋や釜を出発間際に壊すのも、むべなるかなの思いが致します。

 

 軍国美談をぶち壊した内務班 必ずしも安穏とはいえない今日の生活ではありますが、戦場での兵士の狂態も、一般常識ではとうてい判断できません。これらの兵士の行動も、つきつめていけば、平時における兵営生活にその原因があったと私は考えています。

 軍に入って初めて読まされ、有無をいわさず力で暗記させられた、皇軍としての「軍人に賜わりたる勅諭」や「戦陣訓」、それに内務班規則を含めた典範令と呼ばれていた、軍人のテキストの内容にそったかたちで教育が行われ、その上に、「私的制裁」がストップされるような施策が実施されていたら、それこそ偽りでない、本物の爆弾三勇士や木口小平などの、軍国美談は数多く生まれていたと思います。それをぶち壊したのが、典型的な男子社会が作り出す、いびつな内務班生活にあったと考えています。兵士の絆を深めるための内務班が、皮肉にも「私的制裁」によって結びつきが壊されていたのだと確信しています。

 入隊して直ぐ言われたことは、新兵の一年間は 「白い歯を見せるな」 どんなことがあっても、一年間は笑うなということです。次に 「禁煙、禁酒」

 

新兵いじめ

 嗜虐 屈辱 卑猥…古兵の慰みもの。

 私自身は吸わず飲まずでしたので、苦痛は感じませんでしたが、好きな者にとっては、酒はともかくとして、一年間の禁煙はこたえました。酒保へ隠れて買いに行かなくとも、加給品として、タバコは週に四、五個支給されるので、吸う者にとっては重ね重ねの苦痛だったと思います。

 「お前達の替わりは一銭五厘でなんばでも集まるんだ。」 「でもな、馬は葉書一枚じゃこないんだよ」私達は馬以下の存在であり、消耗品であり、葉書一枚でいくらでも集められる存在なんだと理解しました。

 内務規則に決められていないことでも、助手や班長の口から出る決まりは全て守らなければならず、一度禁を破れば恐ろしい制裁が侍っています。新兵の一年間はむごい厳しい禁欲の生活でした。

 

 他の班の新兵ですが、我慢ができず営庭の便所の中でタバコを吸っていたところ、窓ガラスの隙間から煙りが洩れているのを、運悪く通りかがった班付き助手に見つかり 「火事だ、火事だ/誰か水を持ってこーい」 声に答えて数人の新兵が、水の入ったバケツを持って現れると、ガラス戸をこじ開け、中へ数杯の水が浴びせられました。濡れそぼった新兵は早速助手の内務班に連れこまれ 「お前そんなにタバコが吸いたいか、ヨーシ、ヨシ、今尻からヤニの出るほど吸わしてやんから」 と、猫がネズミをいたぶるように、口の辺りにうす笑いを浮かべながら、濡れた衣服のままに直立不動で立つ新兵の口に、休む間を与えず次々にタバコを食わえさせ、新兵は顔面蒼白になりながらも吸わされ続き、鼻の穴にまで差しこまれ、自室の新兵への見せしめも含めた体罰は終ったそうです。

 

「井ノロ、ワンと鳴け テンチンやれ」

 今度は私自身のことですが、一期の教育も終り原隊復帰して幾月かたった頃でした。靴の踵を減らして営庭を歩いていたところ、他の班のモサクレに捕まりました。

 古兵達の靴の修理は、修理技術を修得した縫工兵が直しますが、新兵の場合は、自分で修理するよう言われていたので、当然、自分の怠慢に当るわけで、早速その場で靴をぬがされ、靴を靴ひもで結び四つんばいになってひもの中心を食わえ、犬の恰好で各内務班を廻ってくるように言われました。

 

 「この野郎」と、腹の底から口惜しさは込み上げてくるが、抗することはできず、四つんばいのままひもを結んだ靴を食わえたみじめな恰好で 「井ノロ二等兵まいりました。井ノロ二等兵は履いている軍靴の手入れが悪く、〇〇一等兵の命令で、各班にあいさつ廻りするよう言われ、ただ今参りました。」

 新兵らしくはきはきと、精一杯の声で口上を述べます。すると暇をもて余している古兵連の哄笑をかい、とり分け三年兵の中でも進級が望めない「ワル」で、中隊内の厄介者になっている、通称「モサクレ」と呼ばれている連中が、各班には一人や二人は居りまして、その者達の餌食になることは、覚悟しなければならなかった。

 

 「ワンと鳴け」 モサクレからの容赦のない第二声がとんできます。私は言われるままに犬の鳴き声をまねます。するとモサクレから第二声がとんできます。 「声が小さい」

 私は更に大きな声をはり上げて、モサクレの怒声に答えます。次には「チンチンをやれ」 私は今度は両手を前に出し、両足をそろえてピョンピョンととんで犬のまねは終ります。犬に飽きたモサクレは、今度は急に声を落とし描なで声で 「お前東京に彼女がいるだろう」 とか「手紙は月に何通ぐらいくるか」とか、特に女性問題では下劣な質問が多く、うっかりその手に乗ったりなどして、ニヤニヤしようものなら、相手の仕掛けた罠にはまるようなもので、その後には手荒い体罰が待っており、その手にうっかり乗るわけにはいかないのです。でも、その手のたぐいに乗らなくても、最後には握り拳で両ほほをなぐられ、外へ突きとばされました。

 

 犬にされたのですから手は使えません。口の周りを泥だらけにしながら、再び地面に転がっている軍靴のひもを、懸命に食わえようとしながら、自分がなんとも哀れでやり切れず、こんな行為をさせられた口惜しさで、靴の上に涙がポクボタと落ちたのを、今でも思い出すことがあります。

 この後命令された通り残りの三個班を、似たような扱いをされて終り、その後私に命令をくだした古兵に終了の申告をして、私に課せられた「教育?」は終りましたが、「この野郎」という思いは今だに消えておりません。

 

執拗なまでの 人間性の否定「戦う機械」

 内務班生活では、三日に明けずやってくる体罰、その体罰を受けるたびに、新兵はいつとなくこの責苦からいかにしたら逃れられるかを、懸命に考えるようになります。その行き着く先は、手抜きをやろうが泥棒をやろうが、見つからなければ全て良し、とする軍隊生活の哲学を肌で学習していくのです。

 新兵の一年間はそれこそ涙、涙の明け暮れの中で過ぎていきます。靴下一足、飯椀一個でも盗られれば、それを盗り返せる者が幅をきかせる社会であり、建て前と本音がこれほど極端な社会も珍しく、正直者ほどなぐられました。

 

 内務班生活に耐えられなくなった仲間が、一人は病院に入りたくなり、毎日のようにしょう油を隠れて飲んだり、もう一人は、精神に異常をきたしたような振るまいに及んだりしたのを、この目で見てきました。 天皇を中心に据えた、厳格なスパルタ教育で、新兵を「戦う機械」として作りあげていく、精神道場としての役割を担ったのが、内務班ではなかったかと思います。

 ところが、徹底的に仕こまれたものは、執拗なまでの人間性否定の陰湿ないびりや粗暴なしごきによって、内務班の秩序は保たれていたのです。軍隊的要領や「員数の付け合い」といった、人間社会の堕落といい、また、いやらしさなどをいやというほど教えてくれたのも内務班であり、却ってそれが今にして思えば、私の戦後の生き方に、反面教師としての役割りを果してくれたのだと考えています。

          1994.11.19 (74才)

朝風96号掲載 2006.4月

中支戦線参戦記

御殿場市 渡辺 健二

入隊から出征まで

 昭和十二年(一九三七)徴兵検査で甲種合格となり、遅蒔きの勉学を断念しなければならなくて、正式な就職先を得るのも難しく、アルバイトで生活費を稼ぐだけの無為の日々を過ごした。

 入隊先は静岡歩兵三十四聯隊と決まり、居住地の小石川区竹早町から出発に当り、他の入隊者と共に五名で、町内会の方々大勢集まって下さって、盛大な出征式を祝って頂いた。

 

 祝辞を述べて下さったのは町内に住む、共同印刷社長の大橋様で、答辞は他の者が皆引っ込んでしまい、止むを得ず私が挨拶した。病気で帰郷していた際僅かな期間であったが、地元の青年団に参加し、当時盛んであった弁論大会を見聞したり、一~二度壇上に立って雄弁?をふるったこともあった。他の方はそんな経験が無いのでしり込みしたので、下手ながらもお茶を濁した。

 

 一流会社の社長に比べ無学無職の一青年が、形式的な場の挨拶では有っても、激励の辞とそれへの謝辞を交わしたのである。その後当時の共同印刷社長を引き継いだ令弟の大橋芳雄様に、知遇を受けることになったが、何と不思議な御縁であった。

 

 帰郷して正月を送り、又地元の人々の盛大な見送りを受け、駅迄の約四キロメートルは乗馬に跨り、幟旗や日の丸の小旗の中を進み、御殿場駅から列車に乗り静岡に赴き、歩兵第三十四聯隊に入隊した。前年に支那事変が始まっており、滅私奉公と云う観念の元の出征であり、家族親族を始め知人に到る迄、最後の別れかも知れないとの思い故、熱烈な送り出しになっていた。

 

 歩兵第三十四聯隊は武勇優れた部隊として有名で、軍神として崇められた橘大佐を生んでおり、志気盛んであったし機関銃中隊の大隊砲小隊に配属されたが、この中隊は身丈の高い者が選ばれると云うことで、身長一六六、四センチは当時はやや大男の部類だった。

 戦後の経済成長によって、日本人の食生活が大幅に向上し、栄養十分となり身長も急激に伸びており、若い女性の群れに混じると小男になってしまう。

 

 開戦二年目になり始めて迎える初年兵であり、現役二年を延長されて三年兵となった満州帰りの先任兵達は、うつ憤暗らしも手伝って、その指導や対応は熾烈を極めた。一期の検閲を終えて後、通信兵の教習を受けて三ケ月過し、新たに設立される第十五師団に転属命令を受け、歩兵第六十聯隊第三大隊機関銃中隊大隊砲小隊に配属された。

 

 二の第十五師団は後目印度のインパール攻撃に参加し壊滅的大惨害を受けた。転属しない三十四聯隊の同年兵達は、一足先に中支戦線に出征し、多数の戦死者を出す苦闘に見舞れた。編成を終えた十五師団は八月になって中支派遣が決り、出征に先立ち原里村の村長に伴われて母が面会に来て、沢山牡丹餅を作って持参したので、皆に分けて味った。呉で貨物船に乗り猛烈な台風に悩まされながら上海に着き、列車で南京を経て蕪湖に到着した。

 

 十五師団は南京地区警備司令部として南京に本部を置き、六十聯隊は蕪湖に本部を設け周辺の警備についた。三十四聯隊は敵の主力軍と真っ向こうから衝突し、激戦によって大被害を受けたが、後方警備の十五師団は分散した敵との対戦で、比較的被害は少なかった。転属せず原隊で出征したなら生死の程は判らなかったが、これも運命の岐路だった。

 現役四年兵となって満期除隊したが、満二年九ケ月の戦陣生活の中で、所属した大隊砲小隊は一人の戦死・傷病者が無かった。またこの小隊は格別の功績が無く、一人も敵を殺さなかったが、これは共に幸いだった。

 

大陸の虫の大群 話題二つ

 南京から任地の蕪湖へ向かった際、途中で鉄橋が爆破されていたため、徒歩の行進となったが、暗闇の中を行軍中に左程遠からぬ所から銃声が起り、演習と違い始めての実弾で緊張させられた。

 足掛け九年支那大陸に在住したが、如何にも大陸らしい風物として、虫について忘れられない出会いが二つあった。

 

 その一つがこの行軍の時に出合った蛍の大群で、何十万か何百万匹とも思われる程が、一斉に点滅して四辺が明るくなったり、暗くなったりするのだった。路傍にある樹木にもいっぱい止まっており、これが歩調を合わせたように点滅を繰り返すので、恰もクリスマスツリーを思い起こさせ、蛍の樹と云いたい程であった。子供の頃近くの田圃で見た蛍の群れは、沢山と云っても精々数百匹位で、全く比較にはならないのである。

 蛍の大群の照明は暗夜の行軍にも役立ち、大分長い距離続いていた。揚子江に近いデルタ地帯でクリークが多く、ホタルの生活環境には最適地であるが、この年が異常発生であったか否やは、知る由も無いが、開発の波の及ばぬのを祈りたい。日本にこのよぅな場所があれば、それこそ名所として観光価値が高いが、中国であっても若し以前の様な大群が見られるなら、日本人の観光客が訪れると思う。

 

 大陸ではバッタが大発生し、全ての植物を食い尽くしたり、列車を止めるなど大被害が起きることが知られているが、これに遭遇する機会は無かった。群がること雲の如く、韻なること雷の如し、これは或る虫の群れの表現であるが、島国育ちの日本人には想像に絶することで、到底思い浮べることは不可能であろう。何とその正体は蚊であり、余りにも虚構が過ぎた誇大妄想的と思われ、流石に白髪三千丈と云うお国柄だと考えられた。

 

 蕪湖に駐留して間も無く、前線の歩兵隊の援護のため、大隊砲一門の一個小隊が派遣されることになり、揚子江沿岸から少し離れた小部落三山鎮に出向いた。四辺は沼地やクリークが多く、近くに三つの頂きが有る小山があり、この山の名を取った名の小さな村落だった。陸地が少なく四囲が殆ど水に覆われているので、蚊の発生には最適な場所だった。

 一匹の蚊でも相当五月蝿いが、此処の蚊は何千何万匹が空中を覆う程で、眼の前が恰も霧か霞が掛ったようで、これは群がること雲の如しが左程誇大と思えないのであった。蚊の羽音も賑やかであるが、雷の如しの方は誇大表現と云わざるを得まい。

 余りの蚊の多さに窓は蚊除けの金網を張ってあるが、人の出入りに伴って侵入するものは防ぎようも無く彼等へ献血は防げない。

 歩哨に立つ時には戦闘帽蚊除けの網をつけて防ぐが、首の後ろまでは防ぎ切れず腫れあがったり、手も蚊に狙われた。この蚊の中にはマラリヤ菌を持つものが含まれ、刺されると感染発病することがあった。マラリヤ菌には毎日発熱する熱帯熱と、一日おきの発熱の三日熱があり、私は両方の感染で高熱に苦しめられた。

 

アメーバー赤痢とマラリヤのWパンチ

 水に囲まれた三山鎮に派遣され、雲の如く群がる蚊の襲撃に悩まされ、終に陥落してマラリヤの高熱に苦しんだ。マラリヤの高熱は、毎日夕刻になると発熱し、四十二度以上の高熱で体温計の目盛が無い所迄に達し、胸苦しさや意識が朦朧となる厄介な病気である。

 始めは一日おきに発熱して三日熱であったが、忽ち毎日発熱する熱帯熱も併発した。三山鎮駐留部隊ではマラリヤ熱の患者が大勢出たが、ドイツから輸入された特効薬の量が少なく、罹病者に充分行き渡らず、中々回復しないので皆長く苦しんだ。

 

 マラリヤの治療が進まない中で、更にアメーバ赤痢に罷ってしまい、Wパンチの悪病に苦しむ羽目に陥った。生物などは殆ど給食されず原因の心当たりは無かったが、食器などの洗滌に綺麗な水が使えなかったことも考えられた。激しい腹痛と下痢で苦しく、腹の中の食べた物は全て下痢しても、更に僅かな液状のものが下り、十五分か二十分おきに便所に通い、血の混じった水便となった。

 小学生の頃健康優良児の表彰を受けたことのある健康体で、このような病苦は初めてで死んでしまうかと思われる苦しさだった。

 

 そんな中で近くの部落に敵が侵出して来たため、急遽出動命名が下った。一時間の間に何回も便所通いをして激痛の状態では、到底出陣は無理であり、分隊長に申し出て免除して貰う外は無かった。赤痢の方は、医薬の効果で程なく痛みが納まり下痢も止まったが、マラリヤは治らなくて、毎日夕刻近くなると四十度以上の高熱が出た。そんな中で蕪湖の中隊へ帰還命令が出て原隊に戻ったが、武漢攻略戦に参加する臨時部隊を編成するためであった。

 

暴れ馬 小隊全員の命を救う

 前線の三山鎮から原隊に戻り、武漢攻略戦の臨時編成部隊の小行李に選抜された。陸軍の中に砲弾や食料・物資を輸送する部隊があり、その任に当たる兵を輜重輸卒と云い、軍の中では一番軽く見られる部署で、小行李に回されたのは不名誉と思われた。軍の命令は絶対服従で拒むのは不可能で、大隊砲の砲弾を運ぶ小行李として、各自一頭宛馬を受け持った。直接戦闘に参加するのでは無いが、砲弾を運搬補給するため、常に大隊砲に近い前線に居るので、危険度は戦闘部隊と変わらなかった。小行李隊員は各自が一頭の馬が割り当てられ、万一の場合の自衛の為の小銃も携行し、装備は一般歩兵と同じだった。

 

 大隊砲小隊の場合は砲や馬を取扱うため、小銃は全員は持たないので数が少なく、砲弾も運ぶ馬と共に小隊内にあった。

 武漢攻略戦は長期長距離の進撃で、小隊自ら運ぶ弾薬の量は多くないので、弾薬輸送専門の小行李隊が編成されたのである。攻略戦に向かう部隊は夫々貨物船に乗込み、最前線近く迄行って下船し、上陸して攻撃戦に入るのであった。

 我々小行李隊も馬や弾薬と共に、蕪湖の港で乗船して揚子江を遡航して、戦線に向かうことになった。

 

 小行李隊員として私が受け持った馬は、徴用されて来て何の調教も受けていないらしい野性的で、頑強な体躯で気の荒い稀代の悍馬で、人の命令に絶対従わなかった。砲弾を積むための鞍を装着するのにも、五~六人が総掛りで、くつわを持って押さえる者、前脚を折り曲げて持上げる者、尻尾を押上げる者と、二人掛りで鞍を馬の背に乗せて腹帯をつける者と、大騒ぎでやらねばならなかった。それだけの人数で取掛っても中々うまく行かず、失敗して幾人かが蹴られる始末で、直接担当の私は誰よりも多く蹴られていた。前脚を高く上げ後脚だけで立上って襲い掛かったり、大きく口を開けて噛み付いたり、急に反転して後脚で蹴りつけたり、この馬のため生傷が絶えなかった。

 

 こちらが少しでも弱気になると一層狂暴になって荒れ狂い、よく云う人を見る力だけは勝れていた。

出発までに少しでも調教しないと使いこなせない感じで、手には細長い革の付いた鞭を持ち、手綱は数倍長くして、馬を円形に走らせて、中央に立って鞭を振うのである。馬が襲い掛かれば長い皮の鞭で容赦なく打ち据えるので、鞭の皮がしなって当たり大層痛いらしく、円形に走り廻るしか方法は無い。長時間これを続けるので流石の悍馬も疲れ、馬の暴力的な馬力 (エネルギー) よりも、人間の智力の方が優ることを知らしめた。

 

 何回かこの調教を行い、幾分かおとなしくなった感じは有ったが、調教不十分のまま乗船の日を迎えた。貨物船は舷側が高いので、馬は他の重い荷物や大きいものと同じようにクレーンで吊り上げて船倉へ下すのである。何人も掛らないと鞍さえ着けられない荒れ馬ゆえ、積込みに困難が予想されているので、先ず第一番にこの悍馬を積込むこととした。

 それまで大きな荷物がクレーンで吊り上げられたのを目の当りに見ていて、自分の運命を予知したらしく、鞍を着ける時以上に狂暴となって、手が付けられず、その船に積込むのを断念しなければならなかった。

 

 予定を変更して次の船に積むことになったが、また同じ失敗を繰返すと後の船が無いので、皆で協議して対策を考えた。矢張り最初にこの馬を積むこととし、大勢で取押さえて頭にすっぽり毛布をかぶせ、吊上げ用の腹部の毛布もしっかり縛り付けた。厚い毛布で何も見えなくなった悍馬は、為すこと無く吊上って、船倉に納まった。他の馬も吊り上げに恐怖を感じて少々暴れるものも有ったが、無事積込みが終わり出港した。

 

 揚子江を遡って九江を過ぎたあたりだったが、少し離れた斜め前方を進んでいた貨物船の真中辺りに、突然大きな水煙が立ち昇るのを目撃した。凄まじい轟音が響き渡り、暫くして船体が二つに分れ、舳先と船尾が立上る形となり、あっと云う間に沈没してしまった。

 重慶軍の浮遊機雷に衝突したものらしく、海軍が慎重に掃海を行ったのであるが、見逃されたものが、有ったらしい。

 

 その船には数百人の将兵が乗船しており、戦線に赴く前に全員が無惨な戦死を遂げたのは、痛恨極り無い惨事だった。奇しくもその船は、自分が受持つ悍馬が暴れた為め積込めなかったもので、若し毛布作戦などを成功させていると、小隊全員人馬共に揚子江の藻屑となったであろう。嫌われ者だった荒れ馬のお蔭で、全員が爆死しなかったのは、奇跡的な僥倖だった。

 

 下船して、武漢攻略戦に随行した。食糧不足の中で強行軍もあり、流石の悍馬も私に逆らわず従い、銃弾の中、運命共同体となった。この馬独特の鋭い感覚から敵の攻撃を予知し、そのお蔭で生命が助かったこともあった。他の馬の殆どは苦難に耐え切れず倒れたり、使い物にならず落伍したが、気の強いこの馬は最後まで活動し、武漢三鎮の武昌へ入城を共に出来た。

 

 現役四年兵を退役し蕪湖の日本郵船出張所に勤務し市中へ買物に出掛けた折、突然路傍から大音の馬の斯きが起こり、驚かされた。それは部隊が駐留しており沢山軍馬が居て、その中の一頭が大きく噺いて、私を呼止たのだった。一見してそれは武漢攻略で生死を共にした彼の馬であり、栗毛で横腹に白い毛が線状にある特長で、間違いなく見分けられた。

別れてから三年も経ており、服装も軍服から背広に変わっているのに、よく見分けて呼んで呉れたと嬉しさが込み上げて来た。近づくと私の肩に頭を乗せ、頬を擦り寄せて来て馬の頭を抱いて感涙に咽んだ。

 

 この馬の担当の兵隊さんも呼んで貰い又その話を繰返し、別れる際人参を沢山買ってやって貰うように頼み、他の馬の分までと少し余分にお金を預けた。 この隊は重砲兵部隊で、陸軍で一番大きな大砲を挽く軍馬が沢山おり、その中でもこの馬は最優秀であり、荒れ馬だったとはとても想像出来ないと言われた。数日後また馬に会い度くて現場を訪ねたが、部隊は他へ移動してしまい空地になっており、移動は機密に属するので、行方を尋ねる術も無く、再会出来なかつたのは残念千万の思いだった。

 

 それから六十年余りを経て、愛馬の名前も失念し申し訳無いが、命の恩は忘れ難い。

 元禄時代からの先祖代々が眠る我が家の旧墓地には、この家のため働いて亡くなった馬達の霊を祀る馬頭観世音の碑があり、春秋の彼岸とお盆には、必ず命の恩人の馬を思い出しながら香華を手向けている。

朝風96号掲載 2006年4月

胆だめし-中国山東省での加害体験-

鰍沢町 三神 高

八路軍掃討戦

 一九四二年八月上旬、衣五九師団五三旅団独立歩兵第四二大隊五十君部隊は山東省臨清県陶鄭一帯にかけて、大掃討戦を続けていた。

 

 陶鄭からさほど遠からぬこの辺一帯は、八路軍(中国共産党軍)と農民が密接している為か、日本車がどこに行っても人影はほとんどどなく、みんな避難していた。八路軍を探すため幾つかの空っぽの村を通り過ぎ、約三六キロ近く歩いた。やっと私の目に棗の木に囲まれたー〇〇戸ばかりの部落が見えた。

 

 村の輪郭がはっきり見え出した頃、部隊は村を大きく包囲しぴったり止まった。「停止」分隊長のどら声が私たち初年兵六、七人の方をにらんで「男は全部捕まえろ、家畜も集めろ、いいか、出発のときは火をつけるんだ」、こんな命今はどこの村に行っても同様だった。

 

 師団命令か何かわがらんが、せっかく少し休めるかと思う矢先、「突っ込め」、分隊長が真っ先に村に向かって駆け出した。そして私も行軍での足の痛みも忘れ、飛び込んで行った。私は他の兵三人と牛の鳴いた畑の方に飛び出して行った。村はずれの畑に茄子も胡瓜もひからびて死んだ様にうなだれていた。乾き切った畑に掘り起こされた水引の溝だけが、ニすじ三すじ、真新しい土肌をのぞかせ、黒々と隣の村まで続いていた。

 

 その中を今しがたまで野良仕事をしていた夫婦者が、七、八歳の子供の手を引いて大きな牛を追いたて、畑を横切り駆けて行く姿が目に人った。パンパン、静けさを破り私の銃口から白い煙を吐いた。瞬間親子は立ち止まりすぐ地に伏せた。銃声は親子の前進をさえぎった。黒髪を乱した母親は子供をかばい壕の中で一塊になっている処へ、「動くと撃ち殺すぞ」と怒鳴り、胸先に銃剣をつきつけた。

背の高い農民は二〇を少し越していたらしい、如何にも頑強らしい節くれだった手で牛の手綱をしっかりにぎり、妻や子供をいたわるように此方を向いて、「我是老百姓」、私は百姓だと言った。「牛をよこせ」伊藤が牛の手綱に手をかけた。「不行」、だめだ、男の手は絶対渡さないと顔色を変えた。

「何、此の野郎、反抗して見ろ、殺してやる」、無理矢理泣きすがる親子を足で蹴上げた。妻は乳房を蹴られたので苦しんでいた。それを見向きもしないで牛に近づき「伊藤、この牛、保安隊に預けて来い」と、私はピンハネされても五百円くらいにはなると胸算用した。「アイョー我是牛」、うちの牛だと叫ぶ親子に子供も激しく泣き、母親の足元にころがり込んだ。

 

 私は「何てうるせえ餓鬼だ、やかましい」と子供の頭を蹴飛ばした。頑が裂け血が流れ出した。そして母親の胸を染めた。紫色の唇をふるわせながら彼女は立ち上がり、「鬼子」とののしった。

その形相にどきっと立ちすくんだ。「おい早く連れて行け」、男の背後にまわり銃剣をつき付け、〔ヤイヤイ手前は教官の処へ行くんだ」、重い足を運ばす夫に、妻は必死で行かすまいと取りすがり、大声で泣き出した。

「クソーついて来るとぶち殺すぞ」と私は妻の方に銃口を向けた。男は泣きすがる妻の千を握り、二言三言何かつぶやいた。そして子供の頭をなでながら何かささやいた。妻と子供は追いたてられる夫の姿を悲しい想いで見守っていた。

 

農民への拷問

「教官殿、こいつ農民に化けて網の目をのがれようとしていました」。「おおようし、座らせておけ」。教官は分隊長と何か話していたが、「初年兵、準備しろ」、その声に飼いならされた犬の様に銃剣でまわりを囲んだ物々しい警戒の中で農民の拷問が始まった。「何、知らない。うそを言うとお前の為にならんぞ。八路軍の行方を知らせることはお前の為になることだ」。チョビ髭の教官はニタリと笑いながら一歩前に出た。 

 

 そして煙草を一本出し「一服吸え、そして知っていることは全部言え」。「不要」、いらない。「良いか、何も恐れることはない。日本軍はお前たちが平和に暮らせるようにこの暑いのに討伐しているんだ。八路軍の行方を知らせることは皇軍に協力することであり、妻や子供の為なのだ」。

通訳の酒井上等兵が切々と話したが、農民は何も答えなかった。「何とか言え」、分隊長の革帯が農民の背に喰い込んだ。「畜生、強情者。」パンパン「言わなきや言わせてやる」、何回となくバンドが飛んだ。「こら民兵だろう」、「我老百姓」、又ひとしきりバンドが飛ぶ。皮膚が切れ血がにじみ、切れた唇から鮮血がたらたら胸に線を引いて流れた。「我不知道」、私は知らない、ぐっと歯をくいしばった百姓の射るような眼が光っていた。

 

貴様が真先だ

私は手に汗を握り見守っていたが、ゴクリとつばをのみ込んだ。農民の体はさっと力が抜けた様にその場に崩れ、苦しいうめきが兵隊たちを抑え付けた。

 「突かせますか?」、分隊長の声にチョビ髭の教官のあごが上下に動いた。そして教官の眼が私に向けられた。

 私はこんな頑丈な奴うまく突けるか?もし突きそこなったらどうしよう。いやそんなことはない。不安と動揺が去来する私の脳裡にうす暗い晩秋の庭先で薪割りしている親父の姿、日の丸を振って送ってくれた子供たちや村人たちの顔が幾重にも重なり合ってかけ巡った。

 

 「三神、貴様何をもたもたしているんだ、貴様が真先だ」教官に怒鳴られはっとした瞬間、頭のてっぺんから足の爪先までかっと熱くなり眼先がグラグラした。

「そうだ、こんなことで御奉公がにぶったら親父に申し訳ない。親孝行することは国に忠義をつくすことだ」そう考え、また進級のこともあるし、やらない訳にはゆかぬ。そこへ分隊長の声がした。

三神、その男を向こうの棗の木の下へ連れて行け、お前に殺させる」、やっぱり来たか?私はおどおどしながらも自分が特別優秀であると考え、同僚を見まわし農民を追い立てた。すると農民は汗のしみた襦袢の中から良民証を取り出し、眼の前で八つ裂きにして大地にたたき付けた。

教官は「とうとうあきらめたか」と大笑いしていた。林の中央に一本の太い交通壕がある。その中心地から少し南に寄った処に五つ六つの穴が準備されていた。その横に何年経ったか判らない古い大きな棗の木が一本、枝を確り広げ赤い実を結んでいた。農民はふと立ち止まり、私に「殺されることは恐れぬ。最後に煙草を吸わせろ」と言った。

 

 驚いた私は眼を白黒させながら教官に問うた。チョビ髭の教官の少尉はギロツとした目を吊り上げ軍刀をにぎりしめたが、兵隊の前で慌てる素振りを見技かれてはと思い、「ヨーシ、武士の情けだ。吸わせてやれ」と言った。私は歯ぎしりしながら「このどん百姓早く吸やあがれ」と怒鳴り、農民に飛び掛り、破れ軍靴で肩先を蹴り上げた。

「馬鹿野郎、勝手なまねをするな」教官に怒られた。「意気地なし、慌てることはない」、平静を装った声に、私の体がどんどん固くなっていく様な気がした。農民は相変わらずズバズバ吸っては吐き、タコだらけの掌の上で煙草のほくをころがし、次のがん首に押し付け肩で大きく呼吸していた。

節くれだった指掌を何度も見て、ついに大粒の涙が乾いた大地にしみ込んでいった。ちょうどそのとき、東の部落外れの方向でダダダダッとけたたましい重機の音と共に、ワハーワハーという歓声がおしかぶさってきた。

 先刻までの晴天は急に雨気をおびた入道雲に変わり、真賠くなってきた。「ワッハハー、機関銃中隊でもやりおったか」、教官が言った。

 

 兵隊たちもその方向を眺めた。農民も立ち上がり右のこぶしを握りしめ大きな足を一歩前に踏み出し歓声の方向を眺め涙をふるった。「馬鹿者、早く目かくししろ」、分隊長の声がした。私は本物の人間を、と思うと体がわなわなふるえ出した。四人がかりで棗の木に縛り付け、そして血のしみた襦袢を引き裂き目かくししようとした瞬間、男は、 「不柏鬼子必順復仇」、こわくない、お前ら必ず仇を敢ってやると叫んだ。恐れを知らぬ闘魂が兵隊たちの心胆を貫くように見据えていた。

教官が軍刀を引き抜き空中で躍らせながら、「突込め」と命令した。ファー私は真先に無我夢中で突っ込んだ。だがその銃剣が狂い、肩先にカツと剣先が二寸ほど刺さった。

 「何だ、その突き方は」、分隊長の帯革が私の頭に飛んできた。二本目も失敗。 「馬鹿者、胸を突くんだ」、「ハイ判りました」。農民は引きしまった顔に真一文字に結んだ口、燃える様な眼で兵隊たちを睨みつけていた。

 私は半ば泣き面で恥も何も考えず飛び込み、二本目で左胸部にズブリ、薄気味悪い音をたて、同時に銃剣と軍服に血しぶきを浴びせかけられ、あたり一面に飛び散った。「それ突込め……」、大林や他の初年兵も一斉に突込んで見る見るうちに蜂の巣の様にした農民が最後に残した一言は「日本鬼子」たった。

「初年兵全員の度胸試しだ、次々突込め」、血まみれの農民の腹の皮が破れ、肉と大腸がえぐり出された農民の眼が何時までも睨んでいた。教官も恐れたのか「目玉をえぐり取れ」と言った。

五、六本の銃剣がおそい掛かり、頭、顔、胸、ところきらわずズブズブ突き刺した。チョビ髭教官もやっと安心したように「とうとうくたばったか」。

 ああ、俺は初めて人間を殺した:・:・、血のしたたる銃剣が私の両手の中でガタガタふるえていた。いや俺はもっと強い兵隊になるんだ、これくらいのことで震えているなんて、そう自分に鞭打って分隊長の方へ振り返ったとき、「やいやい手前ら何をもたもたしていやがるんだ、早く片付けろ」、おたおたしている初年兵に、分隊長の柳のムチがピシピシ音をたてた。

慌てて初年兵が農民の体を引きずり血だるまの体から流れる鮮血は黒々とした大地に吸い取られていった。やっとのことで棗の木の下に掘られた穴に引きずり込んだ私たちは顔を見合わせた。その穴の中に熟れた棗が一粒ボタンと落ちてきた。「ワハハハ……、初年兵どうだ」教官の声がした。

 

罪行と悔恨

 私は今、六〇年前の極悪非道きわまりない実録をつづるとき、純真な農民親子に対して行った滔天の罪行を見つめ、悔恨の情を抑えることが出来ない。

私は、愛する夫、父を奪い家族を無惨に引き裂き、平和な生活、労働を愛した農民の生命を何の理由もなく殺害し、牛をかっぱらい、後に残した母子の生涯を台無しにしてしまった。同じ農民の子として生まれ、土に生きる人間ということを忘却した、全くけだものに等しい自己の前半生を悔い、日本帝国主義が行った侵略戦争を呪わずにはいられない。このような罪悪行為は何処の部隊でも日常的に行なわれていた。

 

 これが日本帝国主義の本質であった。私たちが中国を侵略し、犯してきた数知れぬ残虐な行為は、今までほとんど語られていない。私は許されて帰国して以来、中国帰還者連絡会の一員として、自己の体験を語り、反戦平和・日中友好を訴えてきた。

 私たちの犯した罪行の事実を一人でも多くの人々に伝え、日中友好を生涯の使命として活動していきたい。

朝風101号掲載 2006.11.12月号

海行かば・・・ -戦陣の記憶-

高橋 武男

繰上げ卒業

 命令も下り明日、昭和十九年十一月四日ついにこの村松陸軍少年通信学校を卒業する日が来たのだった。今まで厳しい訓練、訓練に明け暮れしたこの学校、この練兵場、この通信講堂等すべてが母のごとく、しっかりやって来いよと言っているようだった。

 

 ノートには同期生諸兄から激励文、格言メモなどを記入してもらう。被服も新しい物と交換される。また日の丸の旗には白地が無くなるまで残留班員から寄せ書きをしてもらう。更に待望の『兵長』の階級章も付けてもらう。

 

 自分でも凛々しくなったことを自覚したものだった。そして残留班員に励まされ、またおだてられて、嬉しさと一面恥ずかしさが感ぜられた。

 またこの日には全員が外出をゆるされると共に、まだ家族と面会をしていない者には家族に面会に来る様に連絡するようにと達しがあり、各自連絡したために繰上げ卒業者の家族が全国から面会に来校した。

 

 そのため村松町内の旅館は満員となり、学校の周りや練兵場、公園等で面会している者で一杯だった。

 既に母との面会を済ました俺はもう何の未練もなく書店などを回って帰営す。午後より生徒集会所内にて全校八百名の大会食が聞かれた。上下なしで最後の懇親会となった。紅白の菓子に果物、赤飯とあらゆる材料によるご馳走がでる。明日は卒業式なのだ。もう総べて準備は出来ていたが、只一つの心残りがあったのは、靴下が一足紛失していた事である。戦友の佐々木君に後は頼むとして一切を任したのだった。佐々木君も気持ち良く引き受けてくれ、『心配するな』と逆に励ましてくれた。

 

晴れの出陣式

 明けて十一月五日聞き慣れた起床ラッパで目が覚める。今日はいよいよ出陣式、そしてこの兵舎さらに戦友とも別れる日である。教育総監代理も列席して式が開始され、生徒隊長の訓示があった後閉会となる。閉会後舎前に立ち帰り、出陣組、残留組が向き合って二列となり残留組より「ラバウル小唄』と『ああ堂々の輸送船』の歌を歌ってもらう。自然に頭が下がり目頭が熱くなるのを感ぜずにはいられなかった。

 

 何時も鬼の如く厳しかった壱岐区隊長も卒業者の前『もう何も言えない、唯元気でやってきてくれ』と言い、さらに『貴様らの任地は秘密で言えないが、敢えて言えば南十字星の見える島だ』と言い残し立ち去って行ったのだった。この情景を俺が歌にして、

 貴様らの任地は言えぬ みんなみの十字の星の見ゆる島なり

 万歳三唱の後ラッパの音も高らかに母校を後にする。

 

夜行列車で一路東京ヘ

 外はもう寒い。途中三条、長岡と過ぎ、清水トンネルも夜中に通過する。

 群馬県の山峡の地を川の流れに沿い列車は任務重き三百余名を乗せてひた走った。埼玉県に人るや夜もようやく明け始め、時折霜の置いている所を通過する。熊谷、浦和、大宮と次々に通過し十一月六日の朝七時ころ上野駅に着いたのだった。省線にて品川駅まで行きここにて各種少年兵を待ち合わせ、軍用列車を組み立てたのだった。弁当を食べている間に列車が到着、乗車する。

 

南方要員出港地 下関港へ直行

 品川駅で少年野砲兵、少年高射砲兵、少年戦車兵、少年兵器兵そして我々少年通信兵の五校の卒業者が集合して下関ゆきの直通列車に乗車して、東京を後したわけであった。横浜、小田原、熱海と次々に過ぎて行くのであった。

 途中沿線に二、三人の子供らが手に手に日の丸の小旗を持って万歳、万歳と叫んで居るのが見えた。こちらからも半身乗り出して、千を振ってやったものだった。三島に停車したときに警戒警報が入る。てんでに畜生、畜生と言うだけだった。

 

 沼津駅を通過するときに、帰省したとき、弟が勤務してる富士製作所が遠くに見えた。そしてまた走る。

 やがて静岡辺りから日も暮れ、豊橋、名古屋は夜となる。この頃より昨夜の疲れでうとうとし始める。列車が停車したのに目覚め、駅名を見たら京都駅だった。その後また寝入りどれ程経ったのか、気がついたら夜も明けていて兵庫県に入っていたのだった。

 何処の駅か判らなかったが、列車が停車したので、ホームに居た人に次のような内容で手紙を発送してくれとお願いをした。それは、『現在下関に向かっているが、二、三日の内に内地を発つ』として頼んだものだった。そうすれば家族も俺が内地を離れたと言う事を知るだろうと思った。

 

 その頃雨が降り出して、段々激しくなり、窓のガラスに当たる雨が後ろヘ流れていくのだった。やがて時間も午後七時となり、いよいよ終点の下関駅に入り、駅の端に停車する。どうしたわけか駅と言うのに人気が全くなかった。ホームに降りて桟橋に向かう。桟橋を歩きながら右側を見ると大型船が停泊していた。聞いてみると関釜連絡船だときく。桟橋を降りて船着き場ヘ集合する。やがて門司へ渡る連絡船が来て乗船し、関門海峡を始めて渡る。

 十分もすると門司港の岸壁へ着く。今出てきた下関の灯がきれいだった。

 門司の岸壁に着いてすぐ比島行きと台湾行きが別れたのだった。そして我々台湾派遣組は夜の門司の街を十分位歩いたろうか、着いた所はコンクリート建の建物に入り、その二階へ泊まることになる。泊まる部屋はコンクリートの土間で寝ることになる。寒くてろくに寝られなかったことを覚えている。

 明けて七日乗船場へ移動する。はやそこには何千とも知れぬ乗船を待つ兵員でごった返していた。荷物を下ろして休憩する。

 

軍用船神州丸ヘ

 港内には十数隻の大型船が停泊していた。兵站の構内の物品販売所にて、輸送船が沈没した時に筏に体を結付けておくのに使う『命綱』を二束、三束とわれ先と購入して腰に下げるのだった。やがて乗船する輸送船が決まる。

 「し」と呼ぶ船だと言う。聞いただけでも『えんぎ』の悪そうな船だ、船名を聞いたら『神州丸』というのだそうだ。秘密を守るめ、船名の頭文字を○で囲んだものだった。

 

 十一月八日いよいよ乗船することとなった。それはさきに決められた『神州丸』で、その船まで小形の連絡船で神州丸に横付けして乗船するわけだった。後で判ったことだが、ここでも運命は良い方向に向いたわけだった。この巨船の右舷側の入り口より乗船する。

 船内に入った瞬間ムッとする臭気が鼻をついた。階段をあがって上甲板のすぐ下になるという部屋に入る。もうごたごたしていて自分の部隊が何処へ行ったのかさっぱり判らなかった。初めて乗った輸送船だが珍らしいどころか驚くことばかりだった。天井の高さは頭と天井の間がわずかに空くくらいで、広さは畳二畳くらいで、そこに十一人が現地へ着くまで起居することとなったわけだった。

 

 座るに座れず、横になって寝る事は勿論できなかった。仕方なく交替ごうたいにて外へ出る。その間に食事をしたり、寝たりしたのだった。船内は埃でもうもうとしているし、臭気は鼻をつくという状態で地獄そのものだった。

 しかしこうした状態でもこの船は一向に出港しそうもない。便所へ行くにも一時間位前から列をつくって待っていなければならない状態がしばしばだった。水汲みも同じことで、食事は一日二回、それも飯倉の蓋に平に一杯だけという毎日だった。そのひもじさは例えようもなかった。やがて本船が出港するようなので、甲板に出て見ると、港を出るには出るが、夜中の知らぬ間にまた港に戻っているということを繰り返していた。何故だろうと間けばスパイを欺くためといわれた。

 こうして五日間を門司港内にて過ごす。十三日の夕方いよいよ出港と決まった。この巨船が動き始めた。陸上の家並がだんだん遠くなる。この時から申し合わせたように誰もが最後の内地を見んとて上甲板に集まる。見る目は皆同じ方向で言葉を交わすものはー人もいない。

 これこそ感慨無量というものだろうか、この感じはなにものにも例えようがなかった。八幡製鉄所を後ろに見ながら港外へ出る。そして九州の山々を同じく左に見つつ、九州の沿岸を南下する。

 日もとっぷり暮れて、誰いうとなく船内に入り、又狭い船内で雑談をするのだった。この神州丸に乗船している兵員は実に七千八百人だときく。一寸とした町の人口に匹敵する数だということに気付く。それ故船内の空気の汚れ具合は一通りでなく、外は十一月中旬だというのに船内は蒸し返るような暑さだった。明けて十四日、名代の玄海灘に入る。波が荒いといわれていたが.今日は事のほか静かである。船窓より見える海面は日の光を受けてきらきら光り、後ろへ走っていく。やがて九州も遠くかすむようになりこの日も何事もなく暮れたのだった。

 

最初の魚雷攻撃 目前で秋津丸撃沈さる

 明けて十一月十五日、海は相変わらず静かだった。船団は全部で十三隻、我々の乗船している神州丸が最後尾の左端を航行していた。堂々たるこの船団、見るからに頼母しく思われた。すでに九州の山陰も見えなくなり、波また波となってきた。船内にいると退屈故後甲板に出て、万一本船が攻撃を受け沈没するような事があったとき、筏として兵員を救助するために山と積まれていた青竹があったので、これを割ってホークを作っていて、一人気を慰めていた。

 この時既に昼食は済ませていたが、この後まもなく対潜警報が入り、一寸緊張して周りを見ると、この神州丸は船団の左後尾を航行しており、その右則に秋津光と言う空母に改造した七千数百トンの巨船が平行して航行していたのである。

 神州丸は対潜警報が人るとまもなく、船団の中へ中へと回り込み、秋津丸の右側百メートル位になり、船尾が秋津丸の船尾と並んだと思った時、突然轟音が起きた。本船がやられたと思ったが、衝撃がないのですぐ左側をみると、秋津光の左舷に水柱が立っており、驚いて立ち上がるとまた一発轟音と共に水柱が立っていた。この出来事はほんの二、三秒間の事だったが、同時に他の各船から一斉にボー、ボーと警笛が発せられると同時に、蜘の子を散らすように四方に全速力で航行するのだった。この時秋津丸は既に船尾から沈み始めていた。即ち轟沈だった。余りの恐ろしさに自分の為すべきことを知らない状態だった。

 

 これを知った別の空母からは飛行機が飛び立ち爆雷を投下する。駆潜艇は走り回って爆雷を投げ込む。腹に響く爆発音、船体はぴんぴんと鳴り響く、この時から急いで船内に入り上司からの命令をまつ。これは既に演習ではなく実戦である。ひっきりなしの爆雷の爆発音に身の縮む思いであった。時に十二時十五分で秋津丸の乗船兵員は昼食の最中だった。従って船内にいた大部分の兵員は秋津丸と共に海底深く沈んでいったのだった。攻撃を受けてから沈没までわずか三分前後だったという。

まさに轟沈だった。かくて我々村松同期生と併せ、他の兵員は任地へも着かずに最後を遂げていったのであった。

 

 さらにこの攻撃により、船団は南方ヘ向けての航行を、逆に北方へ向けたのだった。日もとっぷり暮れるとこの夜は沈没と言う二字が頭から離れず、爆発音がする度に、今度こそは、今度こそはと脅かされて、不安の中に一夜を明かす。夜が明ければ幾らか気が太くなり、甲板へ出て果てしない大海原を見つめていたのだった。海は『昨日の様はどこえやら』という程静かであった。各船は朝鮮へ向けて航行中だという。案の定朝鮮の木浦へ入港し、すぐ出港して仁鮮港に入港する。

 

 港にいると全く親の懐に入ったような安心感があった。昨日からの疲れが一度に出たのか、何時の間にか寝入ってしまった。そして夜も明け静かな仁鮮港を出港する。時に十一月十七日だった。ここから中国上海港へむけ、船団は突切る事になるという。何事もなく上海港までついてくれれば良いがと心に念じたものだった。昼間は無事過ぎ、夕暮れとなる頃よりまた不安が身に迫ってくるのだった。

 

再び敵潜水艦攻撃 船団大損害を受く

 日もとっぷりと暮れた頃、再び対潜警報が人った。来るなと思うまもなく轟音がおきる。皆船内にて総立ちとなる。誰からか『うちの船ではないぞ』と怒鳴られると、皆安心して座り込む。

続いてまた轟音が起きるとまた兵員は総立ちとなる。間もなく上司より、今度は油槽船がやられて沈没したという。

 時を移さず爆雷攻撃が始まる。爆雷か魚雷攻撃か見当がつかず皆総立ちとなったまま言一ついう者は居なかった。

 轟音が続いておきる、また油槽船がやられたと、誰かが告げてくる。

 今度こそこの船か、今度こそばと緊張の連続である。退避口は前後と甲板への出口の三ケ所しかなく、ここへ七千名余が退船するため押し寄せたらどんな状態になるだろうか、逃げ出す間に本船は沈んでしまうであろう事は明白である。七千数百名の兵員の各々が皆われ先にと本船から飛び出そうと考えている訳である。

 轟音は相変わらず続いている。まるで魚雷が本船に命中したような振動で、天井につるしてある装具がぱたぱた落ちる。鉄板一枚上の甲板では高射砲を、海中の敵潜水艦宛に打ち込む発射音ががんがんして兵員の言うことは全く聞き取れない、全く断末魔であった。

 苦しい時の神頼みとはこんな時の事を言うのだろう。この間に今度は空母がやられて炎上中と連絡が入る。甲板へ出てみれば、後方三百メートルところで炎々と燃え上がって夜の海を真っ赤に写しだしていた。艦載機を十五機乗せていたというが、どうなったことか、と思う間もなく摩耶山丸が攻撃を受ける。続いて沈没したと連絡が入る。

 轟音はだんだん近くなってくる。友艦の投下する爆雷の爆発音が、恰度本船に魚雷が命中したかのような、ぴんぴんする轟音の連続だった。

 何も考える余地もない、ただやられたら、どう退船したら良いかと言うことのみが頭の中を駆け回る。攻撃され始めてから一時間も過ぎたであろうか、漸く爆発音も遠のいてきたのだったが、時折投下する友軍爆雷の爆発音が気をひき締める。敵潜の攻撃を防ぐ方法が無いため、友艦はーキロおきに爆雷攻撃をして来たと間いた。

 漸く船内は静かになってきたのだったが、船は相変わらず全速力で走っているため、船体のきしみが止まらない。遠くでゴーン、ゴーンと時をおいて爆発音が起きる。と間もなく上司より達しありて、今より機雷原を突破するとの事、また緊張する。もし一歩間違えば本船は海底深く沈むことになる。外はもう闇夜で真っ暗である。もし本船が沈んだらと考えている間に船はどんどん走る。

 

我が軍に大打撃 一夜で六隻を失う

この夜の敵潜の攻撃で我が方の損害が分かった。摩耶山丸を初め、油槽船二隻、空母神鷹、海防艦二隻の六隻を失うという大損害を被ったのだった。これは後から判ったことだが、運悪く敵の潜水艦群に出遭ったのだと聞く。

 友軍の爆雷攻撃もなくなってからのこの夜も、何か気が落ち着かず、一睡もできなかった事を覚えている。

 明けて十一月十八日、甲板へ出てみると僚船は一隻も見えず、ただ水平線遥かに肉眼ではやっと見える程度に船らしき物が見えた。それと一つ気がついたのは、海水が黄色に濁っていたことであった。支那人陸に近いとのこと。

 すると前方上空より友軍機が一機、護衛に来たらしく、低空で本船に近付き、真っ白な手袋の手を機上より振る姿がみえた。皆わあわあと手に持った物を振ってこれに答えたのだった。

 

船上での奇跡 同郷の知人と会う

 それから一時間も走っただろうか、甲板にいて海を見ながら、昨夜の戦闘を思い出して居たとき、近づいてきた兵員の一人が、同郷の知人に似ていたので声を掛けると、まさしく笹本君だった。彼も気づいて、俺の名を呼び、お前もこの船だったのかと言って出身学校の事や、繰上げ卒業となった事、特に郷里の事をお互いに思い出として話し合い、任地先を知らせ合って、健闘を祈り合い別れたのだった。

 復員後間もなく、近くの山で作業をして居るとき母親という人から任地先を聞かれ、比島だと教えた。その後戦死が判り葬式に写真をもった事が思い出される。

 やがて上海の港外だという所に着く。水平線上に平らな陸地が見えた。これが中国大陸だと聞く。甲板から見える海面の水は日本では見られない程の真黄色だった。やはり中国だなと感じたものだった。

 そして此処に本船は停泊する。その日の午後から僚船かどうか判らなかったが、一隻、また一隻と本船の近くに来て停泊するのだった。

 これらの船と本船は船団を組み直して十一月十九日から同月二十一日までの三日間停泊していた。ところが一昨夜の敵潜水艦の攻撃によって撃沈させられた船の兵員のうち、救助された者が先に上海に到着していたのだった。そしてその者達が本船に乗船してきた。

 その者の話によると、やられたなと思った途端、船が傾き、甲板に居た者だけは、甲板を滑り降りて海へ飛び込み泳ぎ始めたのだった由である。その時すぐ近くを敵の潜水艦が浮上して悠々と通過していったとの話も間いた。

 この兵員達が乗っていた船が沈没して救助された数はわずか二百名足らずであった事も判った。本船へ乗って来る者すべてが、重油で真っ黒になり何一つ所持品はないものの、弾薬のみは身に付けていたと言う事を間いてさすがと思った。また顔も真っ黒で目もぎょろぎょろしてるのが印象的だった。

朝風101号掲載 2006.11.12月

元兵士が語る「大東亜戦争」の真相

証言者 井ノ口  金一郎

                                        取材編集 尾崎 吉彦

 「下士官を長とする兵四名は、苦力(クーリ)十人を捕らえ、本部へ運行せよ」。連隊本部の命令が下り、井ノロ金一郎さんは、銃を布で包み、足音がたたないよう地下足袋を履きました。星明かりを頼りに目的の部落へあぜ道をたどりました。

 

奴隷のように

 湖南省の「火田(かてん)」という村落に駐留していた時のこと。一軒の農家を取り囲みました。土塀の上で何かが動く気配。「見張り」だと直感した井ノ口さんは、家の住人が門からとび出してくると判断し、門の方へ走りました。ところが相手は土塀を乗り越えて川の方へ逃げました。川に入ることを逡巡(しゅんじゅん)しているうちに、相手は向こう岸へ着こうとしています。井ノロさんは空に向けて二発撃ちました。

 

 井ノロさんが小走りに元の農家に戻ると、伍長が怒声を浴びせました。

「ばか者。なんで勝手に銃を撃つんだ。おまえのおかげで、部落中の農民は逃げてしまったぞ」「苦力」は、肉体労働者をいうことばですが、日本軍は、中国の農民などを捕まえ、奴隷のようにこき使いました。

 「行軍のときは、連隊本部の荷物を駄馬がわりにかつがされ、何百㌔も歩かされます。その悲惨さを中国人は知っており、近くに日本軍が駐屯していると、昼間は山中に逃げ、夜、家に戻って食事をする生活を何日も辛抱強く続けていました」

 

 部落を外れた一軒家で、五十歳を過ぎた男が土間で寝ており、少年が寄り添うように、腰を下ろしていました。話しかけると、少年は片言の日本語で、南昌で農業をしていたが、日本軍に捕われ、三カ月以上も部隊の荷物を運ばされたと答えました。父親が病気で倒れ、部隊は若干の金を払い、解放。父親が発熱し、この一軒家で昨日から休んでいたのでした。

 

 「員数だ、この二人を連れていく」と言う伍長。兵士二人がせきこむ父親を両脇を支えて歩き出しましたが、足元が定かではありません。業をにやした伍長は「その農夫を置いてゆけ」とどなり、少年だけ連行して出発しました。

 

農夫を刺せ

 父親は、転んでは起き上がりながら追ってきました。その様子を見た伍長は、「井ノロ上等兵、農夫を刺してしまえ。」「作戦が失敗に終わった原因が私にあったとはいえ、こんな命令は聞けない。返答をしないでいると、再度、刺せと命令が出た。脇に居た一等兵が見かねて『上等兵殿』といいながら、伍長の表情をうかがっていました。伍長は『刺せ』と命令しました」

 

 一等兵は、井ノロさんから銃を受けとり、自分の帯剣を取りつけて、農夫の左胸部をひと突き。 農夫は脇の深田に腰からくずれるように沈み、頭から泥水をかぶってもがいていました。一等兵は再び突きました。

 

捕虜にさせるな。撃て!

 語り始めてから四時間。井ノロさんは、「まだ話したいことはたくさんあるが、これだけは」と言って、所属した連隊の行動を記録した『連隊史』を取り出しました。

 

 ――前カラ来ルノハ友軍ダ。皆怪我ヲシタリ重病デ木ノ枝デ作ッタ杖ヲ頼リニヨタヨタト数人ガクルガ、ナカナカ前へ進マナイ。…ソノトキ背後デ「撃て」ノ命令ガ出タ。コノママデハ彼ラハ捕虜ニナル。生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ、ダ。

 

 「信じられますか。仲間を撃てというのですよ。戦争体験のない人にとって『まさか、そんなこと』の連続でしょう。それが日本軍がおこなった『大東亜戦争』でした」

                                              2006.11.27 「赤旗より」