満鉄東安病院(虎林線)最後の日 脱出記(その一)

大田 収

 今さら、戦争を追憶するのも、どうかと思うが私の七〇年にあまる生涯で、思い出といえば、やはり、あの悲惨な終戦時の経験である。

 それに、終戦後、各地の真相が多数活字になっているのに、満州東北部に関する消息を伝えたものは、あまり見ないようである

 このたび、執筆を依頼された機会に、禿筆を駆使して、その一端を思い起こして見たいと思う。

 

(1)東安市を中心とする東安省の状況

 満鉄幹線として、大連から奉天新京・ハルピンヘ北上する線があり、また、ハイラル・チチハル・ハルビン・牡丹江・綏芬河と東西に走る線があったことを、大方の皆さんは御承知であろう。

 そのうちの牡丹江を通って、南北に走る鉄道が図佳線で、朝鮮国境にある図們から北上して牡丹江’林ロを経て佳木斯に連していた。

 さらに、この図佳線の林口から分れて、東方に延び、東安・虎林・虎頭に連する線が虎林線である。三〇〇㎞の平原を走る、この虎林線の沿線地帯が、東安省と称されていた。そして、虎林線の南方五〇㎞は、ソ連との国境線になっていて、その一部に白砂の興凱湖がある。

 東安省の呼称は、昭和十四年頃牡丹江省の一部を分割して生まれた。

 私は、昭和十五年八月、満鉄東安医院(関係者は病院と呼んでいたが、正式には医院であった。中国語では、病院は病のそう窟であり医院は病を治療する所という意である)に赴任し、終戦まで在職したが、その時点での東安省を概観すると、この地は農耕の適地としておびただしい開拓団が入っており、その中心地が東安市であった。

 また、東安市には軍司令部がおかれていて、軍家族も相当いたようである。

 このような事情で、東安市はかなり大きな構想を以って、新興都市として建設されつつあった。医療機関としては、満鉄のほか、省立病院がありそこでは、名大出身の加藤三九朗氏が活躍しておられた。

 要するに、東安市と東安省は、日本が大陸連出の夢を果すために、無ふら有を生じようとした 「申し子」というべきで、東安市とその周辺には軍官民含めて、数万の日本人が佳んでいたと信じられる。

 

(二)運命の八月九日

 昭和二十年八月九日午前三時、外科医長・庶務長らとともに、貨物列車に便乗して、東安駅から東へ、斐徳・興凱・やんこう・湖北と四つ目の湖北駅へ向った。これは、早朝、湖北駅近辺の沼沢で釣を楽しみ、正午過ぎ駅で予防注射を行う予定であった。予防注射のついでに、釣をしょうというのだ。教えられた場所で始めたところ噂にたがわず餌を針につける暇もないほど大きな鮒が釣れるのである。用意した南京袋が忽ち半分程鮒で充されてしまった。

 一体、北満の地は、内地で想像できないほど未開の処女地であった。病院の前庭に雉がいるのをしばしば見たことがある。少し郊外に行くと鹿に以たノロが、悠悠と歩いている。北満ならではの風景であらう。

 このような具合で、鮒の大漁のため、自参した弁当を忘れていたほどであった。そり時である。おそらく午前九時ごろであっただろう。南方から北方に向って数機の編隊を組んだ飛行機がキーンという金属音の余韻を残して飛んで行った。その余韻から、あれはソ連機ではないか、期せずして三人は同時に口走った。これは、ただごとではないと直感じ、釣をやめて、いそぎ駅へ帰った。駅について聞くと、果せるかな、ン連戦車隊が虎頭の日本軍を制庄して、満州領に侵入したということであった。事態は正に急変したのである。

 折よく、東方から物凄く長い列車が到着した。聞くと、これが最後の引揚列車であったのだ。その列車に乗って東安へ着いたのはもう夕方近くであった。

 それにしてもこの運命の瞬間に悠悠と釣を楽しんいるとは、何とうかつなことであっただろう。夜明けごろには、すでにソ連軍の侵入が東安市に伝わっていた筈だ。病院関係者や家族たちの周章狼狽ぶりが想像できるのである。

 案の定、東安駅ぱ狂乱の坩堝と化していた。東安脱出には、どうしても満鉄に依存しなければならないため、殺気を帯びた全市民が、駅前に殺到して収拾できそうもない混乱であった。

 満鉄では、先刻われわれが乗ってきた列車の外は、二本の列車を新たに編成して、三本の列車を同時に発車させる考えのようである。しかし、列車の編成は、我々が思う程簡単ではできないようだ。

 出発は明十日早朝五時と決定し、その旨広告された。

 病院関係者は、家族諸共、院内に集合して、最後の晩餐を共にしたが、こういう間にもソ連の戦車隊が刻刻東安市に近づいているという沈痛な感じをふり払うことができなかった。食事後、薬剤長は勿体らしく、各個に一包の薬を手渡して、捕虜になった時は、日本人らしくこれを服用せよと言いわたした。もっとも、この薬は偽物であったらしく、その後苦しい行進の途中、死んだがいいと思って服用したところ何んのこともなく死ななかった、と告白する看護婦があり大笑いした。

 このようにしてその夜、一同は院内で、仮眠をとった。

 翌朝早く起きでて見ると、付近にある満鉄の各建造物が、もうもうと火煙をあげて燃えている。引揚げた後、ソ連に利用されることを嫌い、放火しているのだ。病院も、急遽それにならって、玄関の広場にマキ木を積み重ねアルコ‐ルを注いで火をつけた。

 このように深刻の度合は、だんだん実感として脳中に刻みこまれていくのである。

 無残に燃えさかる病院を後にして、一〇〇米ばかり前方の駅構内に入り、割りあてられた無蓋車にしかも、すし詰めにして積みこまれた。

 

(三)爆発騒ぎ 

 引揚者たちは、一家について、せいぜいトランクニ個分ほどの必要品を持参したに過ぎない。そのとき、私の家族は、妻と長女(九才)・長男(六才)・二女(一才)三人の子供達であった。

 列車はなかなか出発しない。五時の予定が、かなり遅れているようだ。一体、どうしたことか、と話し合っているとき、それは午前七時ごろであった。突然、耳をつんざくような爆音とともに、東安駅舎の一部が爆破されたのである。その爆発は、次から次へと、数分間も統いたであろうか。

 引揚列車は、忽ち阿鼻叫喚の地獄となってしまった。そのときの死者は、優に一五〇名を越え五・六百名が負傷した。

 病院勢の無蓋車は、幸い爆破箇所から遠かったため、被害といえば外科医長が手に軽傷を負った程度であった。

 後で聞くと、駅付近に軍の弾薬集積所があり、この弾薬は、引揚列車の発車三時間後に、憲兵の手で爆破する手筈になっていた。

 それが、どういう手違であったか。発車のベルが鳴りはじめたとき、’爆発したのだ。悪いときにはどこまでも、悪い影がつきまとうものである。何とも縁起の感い前兆であった。

 とにかく、曲りなりにも、列車は徐徐に進行し始めた。これで、ソ連の戦車隊から、少しでも離れるはずである。それにしても、この列車の速度は連結車が多いせいか、特別ゆるやかのようだ。

 気がついて見ると太陽はジリジリと照りつけ、やけつくように暑い。

 満州の夏は、内地の気温に劣らない程高いが、温度が低いため、日陰にいる限り、凌ぎにくいということはない。

 ところが時は正に盛夏、天気晴朗であり、しかも無蓋車である、人間の生涯に変調を来すものも止むを得ない。突然、ギヤーギヤーと泣き叫ぶ幼児があるかと思えば、排便をせがむ小児もある。時には、心労と暑気のために、失神する大人もある。しかし、すし結の無蓋軍では席を移動することすら出来ない。したがって、すべての小椿事に目をつぶるよりほかはなかった。

 なにしろ、敵の戦軍隊は、すぐそこまで来ている可能性もある。この列車が走るかぎり、われわれの生命は一纏の希望をもっているし、もし止っしまえば、やがて列車諸共、敵の軍靴に蹂躙されなければならない。一時間で早く、一キロでも遠く、東安を離れねばならない。それがわれわれにとって最大唯一の願望なのである。

 

(四)波状空襲

 と、突如、はるか西南の上空から数機の飛行機が、われわれの列車めがけて飛んで来た。それは十日正午ごろで、東安駅を出発してから連珠山・黒台・永安の各駅を経て、東海駅にさしかかった時である。

 あれはソ連機だと思った途端、列車は急停車した。爆撃を予想して、われ先にと貨車の下側にもぐりこんだ。果せるかな、飛行機は一斉に機銃掃射を行った。銃丸が無蓋車の床にあたると、ブスンプスンという音がする。しかし、幸いに銃丸が床をぷちぬくことはなかったので、車の下にひそんでいさえすれば、大丈夫であった。

 しばらくして、敵機は姿を消したこれで助かっと無蓋単に乗ったところ、又、同方向から敵機が襲来した。今度は、しかし前のようには慌てなかった。間合をはからって飛びおり、同じようにかくれた。このような波状空襲が数時間に及び、薄暮になって漸くやんだ。

 後で考えると、あの機銃掃射には、客車に乗るよりは、むしろ無蓋単の方が便利であった。すし結めの客車では、空襲時、車外に脱出するのが大変で、そのために犠牲になんた人も、かなりあったようだ。

 また、もし、あれが機銃掃射でなく、爆弾投下であったら、甚大な損害をうけただろうが、結局そのことがなかったのは、せめてもの幸いであった。それにしても相当数の死傷者を出した、ことはまちがいない。

 病院関係者は爆弾投下をおそれて、三回目の攻撃をうけた直後線路からーキロばかり離れた高梁畑に身をひそめていた。

 さて、戦いすんで日は暮れたが列車の動く気配はない。さりとてわれわれは、この地に、便便と止まっている余裕もない。

 引揚者の中に、唯かの指示をうけたらしく、列車を拾てて、勃利方面に行進するよう呼びかける者があった。急いで無蓋車に戻り、荷物をひっくり返して、当座の必需品をえり分けようとした。今後行進するとすれば、重い荷物は持ちきれないからである。ところがあたりはますます暗くなるし懐中電灯の用意もない。どこに何があるか見当もつかない。

 ようやく、ある程度のものをまとめて、出発することにした。医師免許証・学化記・重要書類などはそのままおきざりにして。

 私はリックサックを背負い、妻は二女を背負った。長女と長男は、それぞれ僅かな衣類を風呂敷に包んで、背負うという、いで立ちである。列車から降りた一万前後の人々が、このようにして敗残の兵よろしく、陸続とつづいた。これが東海・勃利間、約七千キロの行進である。

 後日聞くところによると、立往生した三本の列車は、空襲のため、機関車に故障を生じたのだ。その後、応急修理に成功し若干の満鉄社員を乗せて、無事牡丹江に達した。

 

(五)第一次死の行進

 勃利は、林ロから北上して佳木斯方面へ古城鎮・亜河などを径て七つ目の所在地である。したがって、牡丹江へ脱出するわれわれにとって勃利へ向うことはむしろ大きく後退することになる。

 なぜ、このような迂回作戦をとったか、その当時疑問であった。しかし、その後の経過を見ると必ずしも無意味ではなかったようだ。

 満洲といえば、はてしなき荒野というイメージを連想しがちであるが、事実はそうばかりでもないハルピン・牡丹江を結ぶ線路の北方は、広大な原生林の密林地帯を形成していた。そこには、虎のような猛獣さえ楼息することが知られていた。

 そして、牡丹江から林ロ・勃利に至る線路は、その密林地帯の東端に沿って走っていた。

 そこで、勃利から密林に潜入すれば、敵の攻撃をうけることなく南下てきるし、あるいはその間に、日本軍が反撃に転ずる可能性もあり得たのである。

 ソ連車隊は、虎頭から鉄道線路に沿った軍用道路を一路林口に達し、さらに牡丹江に進撃してこれを制圧するのが、当然の戦略であらう。

 したがって、われわれは、敵の追撃を殊更にさけて勃利に向い、密林地帯に潜入を試みたのである。

 日はとっぷりと暮れた。しかし前後の人びとは途方なく、とぼとぼと歩いている。われわれもそれにならって、重い足を運ばねばならない。

 病院関係者の先登を行く、若い庶務員は、ときどき、大声で、東安病院は皆居るか、と声をかけ又家族も、それぞれ、名を呼んだり、手をつないだりして、互いに確認しあった。この暗夜の行進で、はぐれたら、それこそおしまいである。

 夜半を過ぎたころになると、流石に行進はまばらになった。道路に座りこむ者もあり、満人農家の軒先にのたりこむ者もある。

 病院勢は、折よく空家を見つけ、その夜は揃って野宿同様の一夜を過ごした。

 十一日の朝起きると、かなり疲労を感ずるようである。しかし、街道を見ると、ぼつぼつ行進が始まっていた。われわれも、それに続かねばならない。

 昨日用意した弁当で、どうやらカロリーの補給が出来た。ところが、今日からは乾パンがあるだけだ。病院から持参した乾パンを人頭割に分配したのである。そこで、近くの満人農家に行き、たら服水をのむとともに乾パンをかじった。そして大小二個、用意してあった水筒に水を充した。

 このようにして、十一日、第二日目の行進が始った。

 この行進が大失敗であったのは何分突然であったため、東海・勃利間の街道に関する予備知識が全然なかったことである。

 十一日の行進から、勃利に至るまでは、軍用道路であったせいか、衝道すじに一個の人家も発見でぎなかった。人家がなければ、勿論井水はない水と食料のない行進が、十一日から十三日朝までまる二日間続いたのである。正に死の行進というべきであらう。

 行進は相変らずえんえんとつづいている。今日は曇り空であるが、何といっても、真夏であるからあせがでる。のどがかわく。二つの水筒は昼ごろなくなってしまった。こんど人家を発見したら又、水を貰えばよいと安易に考えていたのだ。

 しかし、行けども行けども、広漠たる荒野があるだけで、たのみの人家は見つからない。川を見ることもない。

 水がほしいのは私だけではない。行進に参加した人びとは、一様に同じ思いなのである。

 午後になると、だんだん、同僚の一団は生気を失い、歩行意欲をなくしてきた。私の家族でも同様だが、その中で最も元気なのは長女であった。子供も小学枚三年生になると、これほど強くなるのであろうか。それに反して、最も意気消沈しているのは、長男と私自身であった。私は昨日来の強行軍で。足に「まめ」ができて痛かったが、それにもまして、咽のかわきに耐えるのが苦しかった。ないと思うと、よけいに欲しくなるのが、凡夫のあさましさであろう。

 昼食時は、多少の水が残っていたため、どうやら、二、三個の乾バンが咽を通った。しかし、夕食時は、一滴の水もなかったのでどうしても食べられなかった。

 日はすでに暮れていた。もうだめだ、といううめくような声が同僚のそこここで聞える。唯かが水だ、と叫んだ、よく見ると前方の道端に白ぽいものが見える。近づいて見ると、それは先進者の落して行った布地であることがわかり、大笑いした。ひどく咽がかわくと、道端の泥水でも見さかいなく飲むんではなかろうか。

 ふと見ると。このあたりではめずらしく数本の喬木らしいものが立っている。ここで休もうと誰かが叫んだ。まっていたように、同僚たちは、木の根元へよろよろとよろめいていった。そして、ここがその夜の宿になった。

 夜半ごろであろうか。思いがけなかった雨が、かなりはげしく降りだした。一同立ち上って、歓声をあげながら天を仰ぎ、雨水を口に入れようとした。これは、まことに慈雨であったが、しかし何分にも野宿であるから、衣類はびっしょり濡れてくる。わが家の子供たちは、毛織物の下着を用意していたので、幸いであった。雨は小ぶりになったが、なかなか止みそうにない。寒さを訴えるものさえ出て来た。

 どうせ、ここにいても、雨を凌げるわけもないし、寝られるわけもない。というので、未明のうちに、十二日、第三日目の行進を始めた。幸いなことに、雨でふやけた乾バンは、たやすく咽を通るのである。

 行進の人びとは、誰しも充分な携行食を持っていなかった。一夜列車で寝れば、翌朝は牡丹江に到着することを疑わなかったのだ。したがって、われわれ同様、飢えと疲労のため、体力の限界に達していた。

 明けぎらぬ道を行くと、一米先も定かでない。雨にぬれたまま道中に坐りこむ人もあり、ごろごろと街道を埋めている。それらの人々を踏みつけないように注意しつつ前進した。修羅のちまたとは、このような光景をいうのであろう。

 やがて、夜が明けると、人びとはよろめきながら立上って、ぞろぞろと歩きだした。うつろの目で、もくもくと、まるで奈落の底に吸いこまれて行くように。

 午後になると、ようやく雨がやんで、太陽の光が、雲間から、のぞきだした。

 夕やみがせまって来た頃のことである。同僚たちが、ちょうど行進のとぎれた所を歩いていると十台の軍トラック隊が、荷物を満載して通りかかった。ところが病院関係者は、当然若い女性が多し看護婦たちが、のせて下さい、と金切り声で哀願した。

 その声に関心をよせたのか、先登のトラックが止まると、勃利まで乗せてやろう、と叫んだ。正に地獄で仏様に出あったようなものだ。お願いしますといいつつ、我先にと助手席へとつめかけた。助手席の兵隊は、わざわざ荷物の上に移ってくれたが、助手席に坐れるのはせいぜい三人である。それでも同勢は幼児も含めて、三〇人だから、乗れるはずだ。皆乗せて貰えと、いいつつとび乗った。

 前の車に妻と長男が乗ったのは、知っていた。しかし、長女がどの車に乗ったか、暗さのために確認できなかった。いや、全員のれたはずだ。乗ったにちがいない、と不安をうち消しつつ、トラック始動に身を任せた。………後で検討すると このとき病院勢は三班に別れた。第一班は軍トラックに便乗した組、第二班は院長夫妻と私の長女 第三班は外科医長一家三名と薬剤長一家五若である。

 数日来、悪戦苦闘した身体には、トラックの助手席が、いかに高貴で、優雅なものに感じられたことか。加うるに、流石は軍である。米飯こそなかったが、パンあり、菓子あり、飲料水ありで、腹一杯御馳走に与ることができた。そして一挙に体力が快復したように思えた。

 それにしても、同僚は全員乗っただろか、長女はどの車にいるだろうか。気がかりに耐えられなかった。幸い一時間ほど走った所で小休止した。急ぎ下車して、全車輛を点検したが、悲しいかな十一名の脱落者を確認した。長女も勿論その中に入っている。

 さあ大変だ。今更車を降りて、探しに行くことは、この夜半に絶望である。

 長女は、比較的元気であったから、迷惑をかけることはないと思うが、何せい、小学三年生である。勃利まで歩ききれるだろうか。再び逢うことができるだろうか。これは一生の不覚であった。と、地団太踏んだがもう遅い。無事を祈るより外はなかった。

 八月十三日昼すぎ、トラック隊は勃利駅前に到着、兵隊さんにお互いの無事を祈りつつ別れた。

 勃利は思いのほか静かである。もちろんソ連兵の姿はない。満鉄の建造物も、そのまま保存されていて、社員も、かなり残っでいるようだ。その社員の中に光石氏を発見した。氏は東安以来の知人で機関区に所属していた。光石氏の好意で食糧の調達に成功しただけでなく、機関区の倉庫を開いて毛布二枚と被服類とを恵んでいただいた。

 そして、この毛布は、その後の脱出行に大きな役割を果した。

 そこで、光石氏に院長以下別離組の救出方法をはかっが、これはどうにもならなかった。明十四日早朝、最後の列車が牡丹江へ向って出発するから、それまでに到着されればよいが、ということであった。駅前へ、ぞくぞくと到着する後続隊に注目していたが、別離組の姿は遂に発見できなかった。

 午後七時ごろ、一応列車に乗って休息するよう 指示があった。掛りの社員に促されて乗車したがこんどは客車である。しかも、すし結めでなく、 ゆっくり席に坐れる。

  このまま、南満まで行けば、どんなに楽だろうと同僚だちと話し合った。

しかし話をしている間も別離組と長女のことが脳裏をはなれず、悩みは、ますます募るばかりだ。長女の鮮烈な影像が走馬灯のように、まぶたを横切っていくのである。

 お父さんたちは私を捨てて、南満へ逃げたという長女のうらみ言に対して、親として、耐えられるだろうか。実に断腸の思であった。

 八月十四日早朝六時、予定通り列車は動き出したが、別離組は遂に姿を見せなかった。 通り過ぎる駅駅で何人かの日本人が乗車した。

  もしや別離組がと眼を皿のようにして見るが無 駄であった。

  勃利から五つ目の駅にあたる亜河駅についたときである。ちょうど、われわれの車輛が停ったその所に、一際高い院長の姿が見え、つづいて長女の姿を発見した。自分の眼をうたがって、さらに凝視したがまちがいない。

  いたぞッ、と思わず、あるだけの声をしぼって叫んだ。同僚たちもそれを見付け、どっと歓声をあげた。早速車中に呼びいれ再会を喜びあった。

  長女は案外ケロツトしていたが、私にとって、この再会は実に劇的で生涯忘れることできない惑動を覚えた。

 しかし、石田外科医長一家と、大塚薬剤長一家は、再び逢うことがなかった。

 石田氏は阪大出身で、昭和十三年、四年位の卒業であるが、現在も消息不明である。大塚氏一家は、その後、大塚氏、母親、二女が現地で亡くなり、奥さんと長女の二人だけが、無事内地へ引揚げたことを、奥さんの通信で確認した。

 院長の話しによると、院長夫妻と長女三人組は勃利に向わず、途中から亜河への道を行進した。その間、長女は元気であったようだ。

 ところが、亜河に通じる道は、虎頭・林口間の軍用道路に、かなり接近していた。そして行進中ソ連戦車隊が林口方面へ向うのを、目撃したという。これは重大な証言である。もしソ連軍がすでに林口を占拠しているとすれば、われわれの列車は果して林口を突破して、牡丹江に行けるのであろうか。

 その後の情報によると、病院勢が亜河で再会を喜んでいたその時刻、勃利では大事件が勃発した。われわれの列車が、早朝勃利を出発した後も、後続隊が、そくぞくと勃利駅に到着していた。昼ごろには、その総数が幾千にも達したと推定される。

 そこで、この後続隊に対し、正午ごろから三時間に及ぶ波状空襲が、ソ連機によって行われたのだ。後続隊は、当然密林に脱出しようと試みた。

 ところが、土民軍と反乱した満軍とが共同して後続隊の日本人を追撃し虐殺をほしいままにしたのだ。その犠牲者は二千名に達したといわれる。

 これは勃利の虐殺事件として、在満日本人に強い衝撃を与えたのである。石田氏一家と大塚氏一家が、この事件にまきこまれた公算は、きわめて大きい。

 思えば、われわれは、早く勃利に着いて列車に乗れたからこそ、この事件の災害から逃れたのであるし.院長以下三名は、亜河への道をとったかこそ、この事件を免れて再会がきたのである。

 このように考えると、私の一家は奇せきの連続によって無事再会できたというべきで、運命の機微に深く感動しないわけにはいかない。

 列車はなかなか出発しない。やがて、列車の先登に有蓋貨車が連結され、それに重装備の兵隊が秉った。

 各客車にも、銃剣をもった兵隊がバラバラと乗り込んでいる。このようにして、林口を突破するつもりらしい。列車は、まもなく出発した。

 しかし、次の駅古城讃で、また停車して動かなかった。

 ソ連の林口占領軍が案外優勢であのに気づいたのであらう。今度は亜河の方へ逆戻りしていった。万事窮す・・・。

 明朝の形勢を見た上で、密林地帯に入り、浜綏線の横道河子を目途として脱出することとなった。

 第二次死の行進が始まるのである。

朝風106号掲載 2008.3月

満鉄東安病院(虎林線)最後の日 脱出記(その二)

大田 収

(六)第二次死の行進

 翌八月十五日朝まで待機したが、遂に林口突破の見込みがたたず、密林潜入が指示された。第一次の行進に失敗したわれわれは、昨夕来、古い社員から密林の知識を吸収することにつとめた。水のこと、食糧のこと、野獣のこと、順路のこと等等。そして、たまたま、近くの客車に乗りあわした電気区・機関区・工務区を主体とする東安勢を結成し、それにホテル・配給所・病院等の勢力が追随することになった。このようにして、一五〇キロに及ぶ密林の行進がはじまった。

 まず、軍隊が先導役をつとめ、それに一般民衆・満鉄・満州国関係開拓団などが順不同に従った。……考えて見ると、十四日には日本がボスダム宣言を受諾し、翌十五日には天皇の放送が行われて終戦が決定していた。したがって、われわれが密林に入ったころには、終戦になっていたことになる。脱出行の人びとは、これらの事実を知る由もなく、たたひたすら、ソ連の追撃を免れて、北満を脱出する一念に燃えてたのだ。しばらく平坦な道を歩いたのち密林地帯に入った。そこには道があるはずがない。しかし、幸いなことに、何千という先進者が通るため、自ら道らしきものができる。

 山は、かなり急な上り坂である。雨の多い夏であったた、しきりに滑って転ぶ。’泥だらけになって、潅木につかまりながら、一歩一歩よじ上って行った。

 これは、大人にとっても精一杯の難行で、とても子供に、できることではなかった。長女や長男は青年社員が交互に担ぎ上げてくれるのである。

 満鉄東安勢はー〇〇名ばかりであったが、東安に在職した全社員から見れば、ほんの一部に過ぎなかった。現場で働くかれらは頑健でありしかも青壮年のものが多かった。由来満鉄社員には一家意識が旺盛であったように思う。国家のため、異国に使するという使命感を持っていた。その満鉄スピリットが、この脱出行で発揮されたと思わる。少くとも、わが家に関する限り、満鉄社員の援助がなければ到底、密林だっ出に成功したとは思えない、ようやく急坂を上りつめて、山の斜面に出たと思うと急に空が明るくなった。大木が伐採されているのだ。太陽は、ほぼ中天にあるから昼ごろだろう。しばらくこの斜面を歩いたころである。突如三機のソ連飛行機が遠くから飛来するのを見た。そら機銃掃射と行進の人々は右往左往と狼狽し、遮蔽物を求めて散った。しかし、不思議なことに近づいても一向射撃する様子がない。そのまま飛びさっていった。

 それもその筈である。モの時点では、すでに戦争が終っていたのだ。そのことを知らない行進の一行は、一つの災厄が無事に終ったことを喜びあい、二度の再飛来を警戒しながら再び歩きだした。二時間ほども、この斜面行進がつづいただろうか。やがて、再び昼なお暗い密林に入った。ここでは、険しい坂がなった。しかし、大木の根っ子を何回となくまたいだり、水を湛えたせせらぎを渡ったり、小さな山を上ったり、下ったりして進んだ。何よりも、これは第二次行進最初の日であっから、疲労はなく食糧に不足はなかた。何よりも水に不自由しなかったそれに加え社員の励ましの言葉が聞えたり、歌声すら聞こえる。夕方近くであったが、四、五〇米幅もある川にでくわした。

 この川は牡丹江の支流と思われるだく流が滔滔とと流れている。

 先進者を見ると肩まで水に浸っているようだ。これでは、とても渡り切れそうもない。ましてや子供らに渡れるはずがない。

 そこで、届強な青年社員らが、まず、長女と長男とを肩車にのせて難なく渡っていった。そして私と妻とが渡るときは、上と下とに二、三人づつ青年社員らが附添ってくれた。

 川を渡って集結した東安勢は、簡単な食事をすませて、さらに山道を進んだが、先進者の踏みならした道は、なぜか、平地へと連なっている。そして、山添の既成道路へ出た。

 林口・牡丹江間の軍用道路は、鉄道に沿って、南北に走っていたそこで、行進順路が軍用道路に近づいて、ソ連兵に見つかってはおしまいであるし、さりとて、あまりに密林深く入ることは、行進が困難になる点で得策といえない。

 したがって、期待のコースは、ソ連兵に見つからない程度の距離を保ち、しかも、あまり密林深く入らない程度の地形を行進することである。そして、このような地形事情を、最もよく知っているのは精密地図や磁石をもって、先登を行く軍隊であっただろう。われわれは、ただ軍隊の足跡に従えばよかったのだ。

 山裾の既成道路を一時間ほど歩いた所で、十五日の夜を過ごした。日がとっぶり暮れると、平野部のかなたに、燈火が点点と見えだした。それらの燈火が実に近く見えるのである。しかも、それらの二、三が勤いているようにさえ見える。

 さては、敵に察知されたか、あるいは、土民軍の急襲に逢うのではないか、人々は一斉に、その方を見やって固ずをのんだ。どこからともなく火をたくな、声を出すな、という指示がとんでくる子供を泣かすな、泣き止まねば、やむを得ないから殺してしまえ、という厳命さえ伝わらてくる。一晩中、まんじりともせず、気を配っていた。

 朝方少しウトウトと居眠ったが明けて見ると、昨夜の心配は、どうやら杞憂であったようだ。ここが林ロの近辺であったことと、夜の光が案外近く見るという錯覚を、計算にいれなかったからであろう。

 前方を見ると、一団の人が土を堀返している。どうやらジャガイモを堀っているらしい。われわも、急いで探しにいった。これらの畑は、先進者が堀散らした跡らしいが、それでも小粒のものが相当とれた。

 幸い、そこで軍用鉄カブトを拾ったこれは鍋の代用として重宝であった。

 たまたま、東安勢にいた工務区の田中助役は、東安以来じっ懇にしていた。かれは、どこで手に入れたのか、塩を相当量持っていて、一握りあまりを、ひそかに手渡してくれた。このような耐乏行進で塩分が必要であることはいうまでもない。

 私は勃利の食糧調達でうっかり、このことを忘れていたのだ。爾後の行進にこの塩がどれだけ役立ったか、測り知れないものであっただろう。

 やがて、十六日の行進が姶った。昨日来の既成路を南に進むわけだ。

 この道は、軍用道路から十キロほど隔っているらしく、軍用道路はもちろん、鉄道もどこを走っているか、見当もつかない。昼食で休止したとき東安勢の一部から動議が出された。現在のコースは敵軍に近いため、又漢人部落に近いため、発見される恐れが多分にある。だから、もっと密林の中へ入って南下すべきだ。というのである。

 それに対して異議はなかった。そして、午後の行進は、東安勢だけが密林の中へ入っていった。軍隊の誘導するコースに満足出来なかったのである。

 今までの密林では、先進者の踏み固めた応急の道路があった。したがって、後進者はその道に追随すればよかった。ところが今度入った密林にそのような道があるわけはない。ただ、先導者のカンによって進むほかはない。先導者は精力的に歩きつづける。追随者はそれに遅れてはならない。ここではぐれたら、永久に密林から出られないだろう。このようにして、疲労は加速度的に亢進していった。

 行進に不慣れなわれわれには、体力の限界に達してきた。それにしても、東安勢の健脚ぶりには驚かざるを得ない。

 長男は、早くから青年社員の背中におんぶされている。しかし、大人が青年社員に、おんぶは許されない。五〇才を過ぎた、大柄の院長は、すでに気息奄奄である。

 少し歩度をゆるめるようにと叫んだが、先導者の耳には入らないほど隔たりがある。このような苦闘が五、六時間もつづいただろう。

 

 夕方近くなったころ、急に空が広がって、密林を抜け出したと思っら、そこに道路がある。これでよかっと思いながら、よく見ると、何と、その道は昼ごろ密林に入った時と同じ道ではないか。皆呆然として声が出ない。つまり昼ごろ、一つの入口から密林に入って、夕方には、二粁ばかり離れた。他の出ロヘ戻ってきたことになる。数時間の苦闘が、徒労に帰したわけだ。

 この日、八月十六日は、私の三九回誕生日にあたっていた。何という皮肉な回り合せであろう。

 道路では、相変らず、とぎれとぎれながら、行進がつづいている。それにしても、半日の空費でわれわれの行進位置は、かなり遅れていることであろう。

 東安勢は集合して、先刻から討論が行われている。しかし、依然として、密林に深くわけ入る強硬論が圧倒的に強い。明朝を期して、再び密林に入るよう申合せた。

 院長と私とは、相談の結果、東安勢に決別することをきめた。しかし、他の病院勢は、東安勢に同行し、脚力に自信のない二人の社員が、われわれと行を共にした。

 まだ、日没までに、多少の時間があったので、訣別した九名は、通り行く行進の間に挾まって歩いていった。

 暗くなってきたので、宿るべき場所を物色するが、なかなか見付からない。適当な場所は、すでに前進者が陣取っているのだ。やむをえず、道端にあった橋の下で寝ることにした。脱出行が始まってから、毎夜、蚊軍の攻撃に悩まされたが、この橋下のベットでは、特別ひどく、まるで、蚊の中に埋まって寝ているようなものだ。そこで、各人帽子の上から薄い布地を冠り、首から下は毛布で全身を包むのである。満州の夏は、夜になるとかなり涼しかったため毛布で包んでも、それほど苦にはならなかった。

 このように、われわれの毛布は防寒用であり、防水用であり、防蚊用でもあった。

 十七日が明けた。朝起きても、歯を磨くではなし、顔を洗うこともない。朝食といっても、各自燃料を拾い集めて、リュックサックのジャガイモトウモロコシなどを若干とり出し、水とともに、鉄カブトに入れてゆでるだけだ。それに多少塩味でもつければ上等の方である。

 さあ出発というころ、数十人の青年が隊伍を整えてやってきた、聞くと、開拓団の青年義勇隊でこれから横道河子へ脱出するとのことであった。九名の同勢は、その隊に隨うことにした。

 隊員の話によると、このあたりは行進の最後尾ではないが、かなり後尾にあたっているらしい。そして、目前を行進するグループはどうやら開拓団関係者と見うけられた。

 この開拓団関係者に、お構いなく、開拓団の青年義勇隊がどんどん、追抜いていくわけである。

 開拓団の家族は.、多くのばあい、三〇才前後の夫婦と二~五人の末就学児童で構成されていた。

 そして農業は、ようやく軌道に乗ってきた。ところが、戦争が苛烈の度を加えるに従って、大黒柱の主人が、ぞくぞく牛ぼう抜きにして召集されていった。残された妻と幼児たちが、こうして脱出行に参加したのだ。

 背中に幼児をおんぶし、両手で二人の幼児の手を引くなどは、平均的な姿である。中には、母と七才位の女児が、それぞれ、幼児を背負い、更に二、三人の子供の手を引く例もある。食糧を携帯する余裕などあるわけがない。

 行進はすでに二日が過ぎた。しかし、横道河子へ達するまでには尚七~一〇日を要するはずだ。

 このようなことで、脱出できるだろうか。このうちの何%かは疲労と飢のために死ぬのではないか。又何%かの幼い于供たちは路傍に捨てられるのではないか。いや、捨てざるを得ない破目に立だされるのではないか。何とも悲惨な、光景である。

 その上、悪いことに食糧の問題があった。行進のコースには満人の畑が点在していて、作物が裁培されていた。これらの食物を無断徴発することによって、行進中の食糧は支えられたのである。したがって、先進者ほど豊富な食糧にありつけただろうし、後進するほど欠乏したことは止むを得ない。

 また、満人たちは、折角の作物を、ねこそぎ盗まれたのだから当然怒ったにちがいない。そしてかれらが報復を狙う相手は、後進で、しかも弱体なグループであったことも当然てある。これらの分り切った危険に対して、救助すべき手段が脱出行にはなかった。

 何はともあれ、おれわれは前進しなけれぼならない。

 ここ、山裾の既成道路であるから、昨日の午後彷徨した密林にくらべ、まるで雲泥の差があるほど楽だ。義勇隊の歩度にあわせてぐんぐんと開拓団ダループを追越して行った。

 昼食をすませて進むと、行進のコースは、再び密林の中へつづいている。随分追越したはずであるが、このあたりになっても、婦女子の此率がかなり高いようだ。密林内での追越しは、道が狭いため容易ではなかった。しかし、義勇隊が隊伍を、整えて進むと、勢いにおされてか、行進の人びとは、わざわざ道をよけるのである。われわれも隊に随って、通り抜けるという次第であった。

 このような密林の行進が、二時間もつづいただろうか。その時、路傍で呻吟して、うずくまる女性があり、四、五名の女性が、心配そうに、見守っている。近づいて様子を見ると、分娩が始まっているのだ。

 これは職業柄、私も見ぬふりをして、通り去るわけにはいかなかった。産婦は既に排臨の状態である。早速、二女を背負ったままの妻を相手に、分娩の用意を急いだ。

 残念乍ら、義勇隊には訣別したが、九名の同勢は待って貰うことにした。炊事用の鉄兜は、この際分娩用のたらいであり、手洗鉢である。私のと院長持参のものとが二個使われた。四、五人の付添う女性を督励して湯がわかされた。このようにして、難なく分娩は終了した。

 おそらく新生児は一五〇〇グラム、妊娠九ケ月の早産であらう。産後のことを注意して出発したがさてその後、どのように経過したか、知るよしもない。

 お産のために、二時間ほど費しただろうか。義勇隊は、すでにはるか前方を行進しているにちがいない。この行進で見る人はすべて日本人であるが、それにしても九名の同勢では、何とも心細いと思って歩いているとき、後方から、東安機関区・電気区に所属した十名余りの道中が、追いかけるようにやってきた。これらのメンバーは、昨日まで同道した東安勢と別の顔ぶれである。

 この脱出行のあいだ、東安の満鉄社員は、一丸となって行動したのではなく、幾派にも別れてそれぞれ独自の行動をとった。

 しかも、各派は組んでは別れ、また別の派と合流するというように離合集散を繰り返した。 もちろん全部の社員、お互いに面識があったとはいえないにしても、二○名位の社員か集まったとすれぱ、その中の一人や二人には、必ず面識があり得たといえる。

 したがって、何かの拍子に、グループからはぐれたとしても、後続する他の社員グループに、抵抗なく合流できたのである。

 このように、親近感を持っていたため社員は社員だけで行動し、異分子と合流する事はなかったであろう。とくに、病院は全社員が出入れする場所であったから、先方は結構こちらの顔を知っていて、面倒を見て貫えたのである。

 ,新たに東安勢を形成して、勇気百倍したわれわれは、脱出行以来のことを語りあい、情報を交換したりして、足元軽く行進をつづけた。

 夕刻近いころ、だく流のうず巻く一つの川に出くわした。この川は、一昨日渡った川にくらべ半分ほどの幅だが、かなり急流である。

 現在渡っている人はたいが、向う岸に渡った先進者の足跡があるから渡れるにちがいない。しかし、何分にもだく流であるから深さが分らない。

 行進の人びとは、川岸に大勢たむろして、ぼんやり川面を見やっている。誰かが先鞭をつけるのを、待っているようである。

 この空気を察知した。わが東安勢の若者が、ざんぶとばかりだく流中に飛びこんだ。ところが何のことはない。立った姿を見ると、水は腰ほどまでもないではないか。難なく、かくは向う岸に辿りついた。

 川岸で見守っていた人びともやっと安心して、つぎつぎと、川の中へ入っていった。私の長女や長男が届強な社員の背中を借りたことはいうまでもない。考えて見ると、一昨日の川も、今日の川も着衣のまま渡ったのだ。

 一応紋っては見たが、びしょ濡れり衣類であることに変りはない。この衣類を、外気の暑さと体温とで、歩きながら乾かして行くのである。夏ならではの、又流離の民ならではの風景である。

 川を渡って見ると、コースは、この川の左岸を川に沿って下流の方へ走っている。

 行くほどに、漸くあたりは暗くなってきた。しかし、宿るべき適当な場所が見つからない。なお進むと、どうやら密林を脱したようだ。

 そして左前方に、かなり大きい満人部落らしいものが見えてきた。そして右側では、先刻の川が音をたて流れている。

 同勢は、このあたりで野宿することにしたが、今夜は、どうやら雨になりそうだ。いくらかでも雨を凌げるようにと、小高い所で、枝の張った喬木の下をえらんだ。

 案の定、ボツボツ降り出した。夜半ごろには、かなりはげしくなってきた。われわれ夫婦の衣類は濡れたままであるが、子供らの衣類や毛布は乾いている。そこで二枚の毛布を最大限に利用しで雨をしのいだ。

 八月十八日の夜はあけた。雨はやんで晴天である。しかし、ぬれた毛布は重いものだ。この日は重い毛布を背負って歩かねばならなかった。

 道は、再び既成道路につながっている。行進はとぎれとぎれの連続であった。

 と、後方からつぎつぎと、伝言が伝ってくる。それらの伝言を総合すると、昨夜雨の中で、後進する部隊の数ケ所が、土民軍に襲撃され、多数の死傷者をだした。そして相当数の幼児が戦利品として連れて行かれた。というのである。

 このために、今後は、なるべく大集団で野営するように、という警告もつけ加えられていた。 心配していた予想が適中したのである。

 これは大変だ。そこでわれわれは、後進してくる部隊に合流するよりは、できるだけ早く前進してより前方の部隊に合流することがのぞましい。歩度を速めて行進することにした。

 幸いにわが一家は、行進なれたせいか、勃利の食糧調達がものをいったのか。それとも田中助役の恵んでくれた塩が効を奏したのか全員すこぶる元気である。しかも、行く手のコースは、再び既成道路である。

 この道は荷車が、通る程度の幅で案外整っていた。

 さあ行こう。と足早に前進し、追越グルーブ毎に、土民軍襲撃の情報を伝えながら、行進して行った。

 トボトボと歩いていた脱出行の面面は、この情報に衝撃をうけたらしく、いずれも足どりが活発になってきた。

 このょうにして昼前までに、かなりのグループをおい越したようである。ふと見ると、前方を行く人に見覚えがある。よく見ると、生計所長加藤氏であった。生計所は駅の東隣りにあり、日用品を社員に売っていた。

 その加藤氏を含む、生計所・ホテル・列車区など、十数人の社員グループが行くのである。やあやあ、といいながら合流が成立した。

 男同士の話は一応終ったが、生計所は当然女性に関係が深い。加藤氏は、院長夫人と私の妻の所へ行って、愛想をふりまいているようであった。後で聞くと、加藤氏は二人に、一合ほどづつ大豆の炒ったのを下さったそうだ。モの炒豆のうまかったことも、忘れられぬ思い出である。

 しかし、こういう間にも、ただ行進するだけでなく、食糧の補給もしなければならない。このあたりは、畑が広く統いていた。存分に荒された後であったが、それでも、幾ばくかのものを、手に入れることができた。こんなに、ねこそぎとってしまうと、来年の春、蒔く種がなくなるのではないか、と心配しながらも、根こそぎとらねば、こちらの身が持たないのである。

 その時、突然、鉄砲の音がした。思わず、身をかがめて、その方をうかがうと、そこへ人びとが走っていくようだ。おそるおそる、行って見ると兵隊さんが馬を銃殺したのだ。このあたりになると、落伍した兵隊をボツボッ見るようであった。

 この馬も、おそらく途中の満人部落で徽発したのであろう。このようにして、その肉を行進の人びとが食べるのである。われわれも持参のナイフでこれを切りとり、若干の肉片を手にいれた。これを灼いて食べたが、そのうまいことこれも忘れ得ぬ思い出である。その灼肉に塩味がつけられたことは勿論である。今日は十日ぶりに、たっぷりと蛋白質を摂取できたようだ。

 そして、十八日は暮れていった。

 このような、密林の行進と平地の行進との繰り返しが、その後も、十九日から二十一日までつづいた。ごの間のことは省略したいと思うが、ただ一つの事件を挿入する必要がある。

 八月二十日朝からはげしい雨で、折よく道端にあった、六坪ばかりの小屋に入って雨やどりをした。ところが、行進の人びとはいりかわりたちかわり、この珍道な小屋に入って雨やどりをするのである。立睡の余地もないほどの雑踏ぶりであった。午後になっても、雨脚は衰えなかった。しかも今朝来かなり涼しく、寒ささえ惑じられる。

 北満の秋は、日本内地で想像できないほど早いのだ。

 折角乾かした衣類を、又濡らすことになると、 風邪を引く心配もありうる。わが一家は、人がいれかわる毎に、奥の方へ移動し、遂には、雨のもらない恰好の場所に陣取ることができた。そのに、院長夫妻は、いつごろか、雨の中を出ていったらしく、その姿を見失ってしまった。夜になって、やや小降りにはなったが、尚やみそうもない。殆どの人びともいなくなった。 わが一家は、止むを得ず、その夜、十名ばかりの社員と共に、そこで過した。そして、翌二十一は晴天で明けた。 

 院長とは、その後、九月十四日拉古収容所で、はからずも顔を合せ、しばらく立ち話をした。しかし、収容所はソ連の管理で、勝手な行動は許されなかった。そして、再び同行する機会がなかった。聞くところによると、院長夫妻はともに、ハルピンで病没されたという。十五日に亘る、苛烈な耐乏の脱出行、それにつづいた、一ケ月の過酷な収容所生活で、心身共に疲れはてておられたのであろう。

 院長は川名精一といい、新潟医専出身で、そのとき五四才位と記憶する。六尺豊かの堂堂たる体かくで碁の実力は、その当時の満鉄で、五指に入るといわれていた。私は五年間、東安で一緒だったが三子か四子おいて、よく碁の相手をした。

 脱出行のときは、夫妻二人だけだったが、たしか南満に二人の嬢さんが居たようである。

 二十一日夕刻、鉄道線路が見えてきた。この路線は、横道河子から北上して、六〇キロに達するもので、伐採した木材を運搬する森林鉄道であった。終点を二道河子といい、横道河子と二道利子の間には地名がなく、二二粁地点、四〇粁地点などと、横道河子からの粁数で表わす地名になっていた。

 八月二十四日昼まえ、一一粁地点に達した。ここは森林鉄道の心臓部であったらしく、平地が広がっていて畑が多い。また、営林署がおかれていて、社宅もー〇戸ほどあるようだ。十五日ぶりに畳も見た。その畳にひかれて、恰好の場所に一室を占領し、畳の上に寝ころがった。

 偵察の結果、水もあり、農作物としてジャガイモ・大豆・なすび・ねぎなどが一部残っている。また、ミソの貯蔵してあるのも発見した。

 これらを集めて、まず数日間の食糧を確保できた。

 しかし、ここへ来ても、まだ終戦の事実が分らなかった。牡丹江や横道河子が、ソ連軍に制圧されていたことは、大体想象できたが、新京・吉林以南の日本軍は、なお健在で、遠からず反撃に転じて、北満のソ連軍を掃討するであろうと信じて擬わなかった。

 そのために、二二粁地点に到着した日本人は、ここで、二派に別れることになった。その大半がここで改めて勢揃いし、夜陰に乗じて横道河子を突破し、古林方面へ脱出していったのに対し、体力に自信のないものは、白旗をかかげて、昼間横道河子へ向うのである。 わが一家は、当分ここに止まり情勢を見極めることにした。これ以上だっ出行をつづけることは体力が許さないし、さりとて、敵の捕りょになることは、日本人として耐えられないからである。

 午後になると、ぞくぞくと到着し、たちまち、ニニ粁地点は日本人で充満した。そして、一応休息した上で、脱出か降伏かの決断をしなければならない。われわれの最後の東安勢では、わが一家を除くすべてが脱出を表明した。

 このようなことが、この数日間繰り返されたことであろう。そして先進者ほど脱出組が多く、後進者ほど降伏組が多かぅたのは当然である。

 今日の到来者でも、半数以上が今夜脱出し、残りの降伏組は、今夜ここで一泊し、明朝横道河子へ向うのである。そのために、各社宅は満具になって、わが家族も、一畳のスペイスにとじこめられた。社宅に入りきれないものは、もちろん戸外で野営した。

 このようにして、二十四日から三十一日朝までここで滞在した。毎日、多くの到来者を迎えたが面識者も少なくなかった。そして、それらの人びとを送り出した。

 二十八日の午後、十六日に密林をほうこうした後訣別した最初の東安勢が姿を現わした。…… これは、この数日間、私が、ひそかに待望したグループであった。それには、庶務長と四名の看護婦が参加していた。 看護娘たちは、私の顔を見ると、 わっ……と泣き伏したのである。 彼女たちの行進が、如何に困難であったかは、その衣類が証明している。 よくも、密林を説出して、ここまで辿りつけたものだ。 しかし、病院関係者のうち、四名が脱落したとのことであった。

 三十一日早朝、庶務長、看護婦四名、工務区の田中助役、東安放送局長山田氏、同所属西田氏、それにわが一家が一団となって、横道河子に至り降伏することになった。 森林鉄道が幹線道路に達する所を、七粁地点と称していた。そこには、ソ連兵二名、満人三名が待機していて、われわれの携帯品を調べ、めぼしい物は、全部剥がれてしまった。 そして、海林収容所へ向うよう指示された。海林は、牡丹江と横道河子との間にあり、横道河子から、二日行程の所であった。収容所に向う途中朝鮮部落に入って供応をうけたが、その時、はじめて十五日終戦の事実を知ってがく然とした。

 

 この脱出記は、私が日記風に書き残したメモによったもので、フィクションはない。ただ、文章がつたないため、事実を充分に表現できなかたうらみはある。東安病院の同僚で、曲りなりにも、一家揃って内地に帰ったのは、私だけであった。以ってその凄絶さを想像願えると思う。

 日限の関係で、八月十九日以降を簡略にせざるを得なかったことは残念である。文中の満州は、現在の中国東北部で、満人は、満州に居住した中国人を意味している。 両者とも、当時の普通呼称に従っただけで、別に他意があるわけではない。

心よりご冥福をお祈り致します。

 ○ 最後に誤字等間違いケ所が多々あると思いますがお許し下さい。

   二〇〇四年(平成十六年)二月十日

              元満鉄西鶏寧検車区 

朝風107号掲載 2008年6月

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 ※ 太田先生のなまなましい体験記によって、終戦間際の満鉄東安病院の方々のご苦労が、手にとるようにわかりました。残念な事に、二年程前(九十七才)で、お亡くなりになったそうです。

 心よりご冥福をお祈り致します。

                              水野昭造

虎林線最後の救援列車

東安機関区 後藤 景雄

 8月10日午前6時頃東安駅で編成された避難列車(東安駅編成第九列車)と思われるに私が乗務して、東安駅を出発した。永安駅近くになって、先行の避難列車(東安で編成された第七列車)がソ連機の機銃掃射を受けて、機関車のボイラーが射ち抜かれて運行不能になっていた。永安駅まで推進し、永安駅で列車の組成替をおこない、第八列車を運転していた私がレバーを握って運転した。

 

 東海駅近くになって、又しても先行列車(東安駅編成の避難第六列車)が被弾し、ボイラーが射抜かれて運行不能となっていたので、その列車も合併して運転して行った。

 東海駅を出て約3㎞進んだ哈達河駅の中間に差し掛った時、ソ連機の反復攻撃を受け第七輌目に被弾炎上、線路も破壊された。かくして後続列車の運行も不可能となった。

 ソ連の攻撃も下火になった。幸い、私が運転していた機関車は無事であったので、前部の六輌を牽引して鶏寧駅まで行き、救援列車を編成して現地に戻り、残余の避難者を収容して、午後一時鶏寧駅に帰った。

 昼間は、ソ連軍の攻撃を受ける可能性もあるので動けず、駅にあった貨車14輛と客車2輌を推進運転で再度事故現場に赴いた。この救援列車に乗務したのは、運転助役の井川一郎、機関士井出清治、篠田智の三名であった。

 

 列車の運行に先立って線路の状態を調査するため、鶏寧保線区員の協力を得て、現場まで30㎞を推進運転して、現場に到着、汽笛を鳴らして、救援列車の到着を知らせ、暗闇の中で女・子供を苦心の上無事乗車させ、現地で三時間停車して、出来るだけ多くの人を収容し午後11時頃現場を雑れた。

 

 平陽駅は焼失しおり、途中、ソ連兵が進出していないかと気が気でなかったが、さらに鶏寧駅に到着したものの駅員は一人もおらず、機関車の水も乏しくなっていた。仕方なく、バケツなどの容器を集めて、滴道駅附近の小川の水を汲んでタンクに入れた。二時間半余ののち、午前三時頃漸く発車した。麻山駅に到着して見ると給水塔があったので水を補給し、林ロまでの35kmをー気に走り抜け、午前5時虎林線最後の脱出列車は、無事林ロ駅に到着した。林口駅では、虎林線は全滅したものと考えていたので避難列車が無事に到着したのに驚いていた。

 

 林口駅到着後、林ロ機関区の乗務員に引継ぎようやく肩の荷をおろした。

 

 ◎8月9日、ソ連軍が侵攻して来た時には、日本兵は、何処に移動したのか、佳木斯、れん江口地区には姿を見なかった。

 

■  この貴重な体験記をお書きになった後藤さんは、現在85才。引退後、故郷の九州鹿児島県姶良郡姶良町で、永いこと町議会議長をお勤め後、現在は悠悠自適の生活をして見えます。最近は、少し足腰が弱くなったとかで、遠出はなるべく控えていると言われました。私は、同じ満鉄虎林線にいた一人として、どうしてもこの美談を後世に伝えなけれぱと思い、ご本人の承諾を得て、あえて載せることにしました。

朝風107号掲載 2008.6月

中国人民に詫びる

佐藤 貞 87歳

 私は中国の湖南省、江西省、広東省などの戦地で食料を度々徴発しました。この徴発つまり、略奪した食料のお蔭で 蛇やトカゲを食わなくも生きてきました。生きる為には止むを得ないと言っても何か釈然としないものがあります、民家に勝手に寝泊りするのも当然でした。おとなしく寝泊りするだけなら未だしも、燃えるものは皆薪にし、壁だけの家にしてしまいました。そして出発、火の不始末で部落や町が燃えます、行軍して振り返ってみると燃えている部落の煙が高く上がっていることも度々でした。日本軍の通過した後は草木も生えないと言われたそうです。

 

 婦女子への暴行などは幸いにも見たことは有りませんが、男は牛馬の代わりに強制使役されました。捕まった男は、その場で荷物を担がされて動けなくなるまで重い荷を担いで兵について行軍することになります。軍公路に点在する死体は使い捨てのクリーだと古参兵が言っていました。私らも鍋釜食料などを担がせたこれらのクリーと伴に行軍を続けたのです。

 

 外にも戦争の必要悪のようなものが沢山あります、兵の良心でカバー出来るものは微々たるものです。良心的なことをしていると古参兵に睨まれます。このような理不尽なことに私達兵にも悔恨の情はある筈ですが、お詫びするまでの思いは出てきません。然しこのように酷い目に遭わしたことに頬被りしていても、神の怒りにも触れないでここまで生き延びてきました。

 

 敗戦後南京で捕虜作業をしていた時、空腹の私達に老婆達が毎日食べ物を恵んでくれたことがありました。彼女らには、南京大虐殺も日本軍の侵略も思慮の外だったのか、或いは、私らは知りませんでしたが蒋介石総統の「以徳報怨」が浸透していたのでしょうか。無事帰国した時、加害を欲しい侭にした中国と、こんなにお世話になった中国人に何か尽くさなくてはと言う思いを深くしました。

 

 帰国してはや63年となりました。87歳になった今、出来ることは如何に中国人民に迷惑を掛けたか、如何に中国人のお世話になったかを語り次ぐことだと思っています。

                               2009、08、03

 

参考

「以徳報怨」

「恨みに報いるに徳をもってす」のこと、老子が述べたとされる。

今次戦争で最も被害を受け最大の犠牲を払った中華民族の蒋介石総統は、終戦に際して「全国軍民及び世界人士に告ぐ」の告文を発表し、怨みに酬いるに徳を以てせよと言われ二百数十万に及ぶ日本軍将兵並びに在留邦人が無事、短期間で日本内地に送還された。

泥濘膝を没する

佐藤 貞  87才

 泥濘膝を没するとよく言いますが、私らも文字通りの泥濘膝を没する悪路で難儀しました。

 

 昭和19年8月中支の武晶を出発した私ら本隊への追及部隊は、長沙を通過しどんどん南下して衡陽方面に行軍した。

 途中から何十年振りとかの長雨になって、軍公路は軍馬の蹄や車輌に荒されて酷い悪路になっていた。

トラック隊は勿論通れない、駄馬と輜重車、それに徒歩だけとなる。朝から歩いても何キロも進めない、酷いときには4キロにも達しない。悪路を歩いたとはとても言えない、泥道を捏ね回していたのだ。

 

 湖南省はなだらかな丘陵が多くて、坂の手前の低地が難所となる。輜重隊へ補充する為の一輌の輜重車を曳いていたが、車輪直径1.2メートルもある輜重車が橇のようになる所もある。

 老練な会津の古川が自然と御者になっていた、古川で無ければとても輓馬を御して悪路を通り抜けることは出来ない。

 難所になると荷を全部卸して輜重車を空にする、古川は輓馬に気合をかけて一気に通り抜けようとする、馬が止まってしまうと私らは後押しをしたり車輪を回したりして何とか通り抜ける。

 古川が転んだことがある、車輪の下敷きになったが幸い下が泥だから怪我もしなかった。 

 難所を通り抜けて丘に上がると直ぐ戻って、降ろしたドロンコの荷を担いで来てまた車に積んで進む。

 次の丘の手前でまた列が止まる、前の部隊が同じように難渋しているのだ、辺り一面泥だらけで腰もおろせない、立ったまま長時間待つことになる。

 雨降りのときには特に辛い、故郷のことを思い出してはじっと辛抱した。

 私らの通過する番になってまた荷を降ろし同じようなことを繰り返す、雨の時には難渋が倍加する。

 これが何箇所もあると一日行軍しても四キロ位になってしまうのだ。

 徒歩なら泥の浅い所を選んで歩けるが車の通れる所は深い所しか無い。  

 古川は苦労したが後で馬の事故で命を落とした、坂道を馬と共に駆け上がった姿が眼に浮かびます。

合掌。

 

 大學出の海老原は小さくて、ど近眼でよく転んだ、生きているアンコ餅と言うところだ。起こしてやるのに掴むところが無くて困った。

 私の眼鏡も泥壁を塗ったようでいつも夜みたいだった、この泥を拭く物が無くてフンドシを引き出して拭く、これが一番泥の付いていない物だ。

 いつも着ている雨外被の裾の方は厚い泥の膜が固まってバリバリだった。

 

 これが何日も続いて流石の軍も一ヶ月の行軍中止令を出した、皆歓声を挙げて喜ぶ、皮肉なことにこの休養に入ると直ぐ秋晴れとなったが命令の変更は無かった。

 只、天気が良いと敵機が飛来するので洗濯物を出さないこと、炊事の煙を出さないこと、等に気を配った外は甕風呂を据えて垢を流したりした。

 風呂当番は馬に蹴られてビッコを曳いていた私の入浴時間を長くして労わってくれた。

 気の合った友と大きな木の下に寝そべったりもした、話しは決まって故郷のことだった。

 

 追及中なので引率の下士官と古参兵が数名いるだけで教練も無く体操くらいだった、仕事は馬の草刈程度で軍隊生活中一番のんびりしたのがこの天の与えた一ヶ月だった。

2009.11.01

朝風113号掲載 2009.12月

生きたまま焼き殺された兵士

仙台市 本郷勝夫 85歳 無職

 戦争では、作戦を行うため仲間の兵士を殺すこともある。

 

 1944(昭和19)年、私は中國であった湘桂作戦で陸軍第13師団の野戦病院に配属された。傷病兵を世話する衛生兵だった。

 行軍中であり、地元民の大きな民家を野戦病院にした。

 

 そこへ、コレラ患者の兵士約150人が、運び込まれてきた。しかし、敵機の襲撃は厳しく、物資補給は途絶え、薬も食料も飲料水も不足していた。

 

 コレラにかかった患者は「水をくれ」と衛生兵に飯盒を差し出す。だが、上官からは「患者への接触は厳禁」との命令が出ていて近づけない。

 

 我々が感染すると部隊全滅の恐れがあるからだという。患者はしだいに顔面にしわがより、コレラ患者特有の表情になってゆく。「衛生兵や軍隊の本分は何なのか」と自問した。

 

 その後更に残酷なことに、夜間、部隊に前進命令が出た。患者を搬送する部隊と連絡がつかず、部隊長はコレラ患者の収容家屋に火を放つように命じた。

 

 放火する兵が何人か選ばれた。行軍しながら後ろを振り返ると、家屋のあたりが明るくなっていた。生きたままの火葬である。

 

 そうした理由は、後続の部隊にコレラを感染させないため、とのことであった。 遺族の方々には申し訳なかった心が痛む。戦争は人の命を軽んじる。

 

 今はただ、合掌あるのみだ。

  2013.3,19 朝日 声 語り継ぐ戦争掲載

「日本に協力したと知られれば殺される」と泣きわめく苦力の少年

仙台市 本郷勝夫 85歳 無職 

 中国で桂林作戦に参加し、罪なき住民に迷惑をかけたのが今も気が咎めます。皆、軍命令という鉄則の上だったのです。

 

 作戦中、住民を拉致し荷物運搬に使いました。「苦力 クーリー」と呼び、男は老若所構わず連行し部隊と行動、弱ると捨てます。

 

 その中にある少年がいました。彼は我々衛生兵らがいる湖北省の野戦病院に出入りし、片言の日本語で談笑していました。

 

 まだおよそ一五歳で日本兵になつき、他の「苦力」との通訳をして行動を共にしました。

 

 片眼が悪い彼を「森の石松」になぞらえ「石松」と呼び可愛がりました。が、敗戦、武装解除で彼を開放する必要が生じました。連行した荊門からは遠く離れています。

 

 彼は「日本に連れて帰って」と懇願しましたが敗戦兵には何もできません。少々の米をやり開放しました、「今ここで開放されても帰る道が分からない。日本に協力したと知られれば殺される」と泣きわめくのでした。

 

何と罪深く身勝手な日本軍でしょうか。その後の彼について知る術もありません。      

『慰安婦派遣方』の電報を打った

山口県 今津 善一

 朝日新聞十二月二十三日付、私の見た皇軍慰安婦について、拝見して「私の慰安婦」とは…

 

 私は昭和十四年一月十日、山口聯隊に入隊、一期の検閲を終わり、広島五師団無線電信教習所ヘ暗号教育に派遣され教育終了後帰隊。

 

 その年十月、広島偕行社にて新設師団第三九師団編成、(村上啓作中将)の参謀部電報班要員として漢口に上陸、第十三師団のあった黄波の師団司令部に入る。現役満期するまで電報班で各作戦に参加致しました。

 

 昭和十五年五月一日、宣昌作戦に参加致し、宣昌入城は十三師団にゆずり、反転を準備中「作戦部の命令として」軍(第十一軍阿南惟幾中将)より電報ありて第三十九師団は荊門地区第一線の警備に位置すべし。「蒙泉・龍泉」名づくる二つ泉あるそばの、文明楼を師団司令部に使用されたのは六月中旬と思う。

 

 まず地区内の警備と宣撫に力がそそがれ、軍に慰安婦の派遣方の手配の依頼の電報を発信した記憶がある、慰安所は大隊本部所在までか? 兵、下士、将校と外出時間も規定ありて、のべつまくなしに行われていない。

 

 荊門は部隊本部が多くあり、慰安婦の人員も多くて半島、支那、内地出身などで、軍より一部の援助はあったが内他人で経営されていた。

 慰安所が敵の銃火に攻撃された報告は一度も通電された記憶はない。

 

 派遣当初に黄波より聯隊本部の連絡自動車に慰安婦が同乗し、帰路迫撃砲の攻撃を受けた事が一回あるが別に被害はなかったと入電されたことがある。慰安所は婦女暴行防止の為にさけられないことでありましょう。

                         朝風1号掲載 1988.2月