戦陣訓の呪縛

練馬区 加納 一和

 昭和十六年 陸訓第一号(戦陣訓)「名を惜しむ」項に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すなかれ」とある。この一文の呪縛により、死に至り又は至らざるを得なかった青年が如何に多かったことか。

 ジュネーブ条約も知らず、勿論『捕虜の処し方』など分かる筈がない戦前教育の純粋培養で育った私には部隊が無為無策のまま捕虜となり、しかも強制労働をさせられることに我慢が出来なかった。

 昭和二十年九月四日、部隊(満州鶴岡の独歩・通称七二八「浪花」部隊)に入り、それから一週間後ビラに到着し、更に各中隊毎に分けられ、山で伐採する中隊と町で材木の貨車積みする中隊に分けられた.

 ビラの収容所の少し離れた所にはビラ河が流れアムールに合流し、作業現場からはソ満国境の稜線が見える.二重の鉄条網に囲まれ、四隅の望楼にはマンドリンと呼んでいた自動小銃を肩から下げたソ連の立哨兵の厳しい監視。

 くる日もくる日も山から積んでくる材木降ろしと夜間の貨車積みの明け暮れ.寝入りばなに引込線に入る悲鳴に似た汽笛と同時にソ連の歩哨の「ベストレー(急いで)」「ダワイ」(さあ早く)」の怒声で鶏小屋の鶏でも追い出すようにかりたてられるる。シベリヤの深夜の寒さ、慣れない仕事で灯のない暗闇の深夜作業、食糧事情の悪さ、これらが重なって仕事は想像以上の苦しさであった.

 とりわけ旧軍隊組織がそのまま生きており、我々初年兵には内務仕事がそのまま要求される。又食事が古参兵の分配で差をつけられ、少ない上にも少なく随分ひもじい思いをした.同年兵の中川(大阪出身)が栄養失調で病死し、又、下痢患者が夜間鉄条網に近付いたということで射殺された事件もあった.

 ちょうど、そんな状況下に野呂曹長(伊勢出身・神官とか)の逃亡計画を知った。氏は温和な人柄で壮士風のところもあり「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」を常に部下に訓していた。作業に出ても監督よりソ連の兵士や地方人と話しながら、しきりに地形や地理を聞いていたようである。又満州国境に陣地構築をした経験もあって対岸の黒河方面に着けば何とかなるといった考えだった。

(今にして思えば随分無謀であるが・・・)

 しかし逃亡計画は隠密に進められた.彼は人事責任者のほかに炊事の責任者となり、二日毎に受け取る食糧から少しずつ抜き取り隠匿し始めた。一方鍛冶職人を一般作業から外してドスを作り始めた。(そのサンプルは私が京都で買った「真一文字」で大事にしていたもの) 初年兵での参加者は当番の村井と私だけで総員三十七名であった.

 下準備としては自分の毛布を切って防寒用の手袋と靴下を作っておくように.決行はビラ川の結氷を見て定める.具体的な行働は歩哨交替後に宿舎を放火し、歩哨を殺し川の方向に向けて逃げる。

 詳細は後日指示を行う。

 やがて1ケ月位経過し、その決行は十一月二十四日十時に決まった。

 その当日の作業を終えると、すぐ準備しいつになく早目の夕食を済ませ、その後一人ずつ炊事場へ食料とドスを取りに行き、隣の戦友に気付かれないように寝ながら靴を履き脚絆を巻いて出発の声がかかるのを待った.

 しかし、この計画が決行寸前に密告され、驚いた中隊長がすぐソ連兵に通告したため夜の静寂を破って非常呼集がかかった。

 凍てついたような冬の星空のもとで所持品が全部調べられ、刃物頬は小さな挟までも取り上げられた。将校室からは野呂曹長の悲痛な男泣きが聞かれ回りの幹部が押し止めるのに躍起になっていた。

 その声を聞きながら私の張りつめた気持ちが一瞬に萎み身体の力もなくなっていくような気がした。

 翌朝、点呼の際ソ連の中隊長が首謀者七名を名指しに呼び出し全員の前で小突きながら連行して行った。

 その後の七名の消息は分からない。

 一行が収容所を出て行った後、中隊長が全員に何か話をしたが私の耳には入らず涙だけが止まらなかった。

朝風1号掲載 1988.2月

終戦時の満州

練馬区 加納 一 和

 昭和二十年八月九日早暁、非常呼集によって叩きおこされた。

「ソ連が国境を突破して満州に侵入してきたぞ!」一瞬誰もが緊張し、引きつったような顔になった。

かねてから覚悟していたものの遂にきたるべきものはきた、身の引締まるのを覚える。「早く整列しろ」「ぼやぼやするな」下士官の怒声の乱れ飛ぶ中で、あたふたと営庭に整列しかける。ひんやりとした夜明け前の空気が一層緊張を昂ぶらせた。

 とその時、遣か東方上空にカン高い金属音の爆音が聞かれたかと思うと、ソ連機(カーチス)がこちらに向かい、機首を下げ、我々に向かって機銃掃射をしてきた。寝ているところを枕を蹴飛ばされて、なぐられたようなもので、何んら為す術もなく右往左往し、ただ怒鳴っている声もよく分らない。直ぐに飛行機は去ったが、兵舎内はそれからが大混乱で、その後「飯上げ」、実弾や糧株の受領やら、いろいろな指示命令が矢継ぎ早やに行なわれ、身廻り品を手早く片付け完全武装が出来て宮庭に整列出来たのは八時過ぎだったと思う。

 当時、部隊の主力は陣地構築に出動しており、ほんの三ケ中隊位が留守していた。部隊の主力といっても関東軍においては昭和十九年五月構成された第百七師団が一番古く、それ以後の新設兵団である。我々もやっと一期の検閲を終わったところで、その後全満州の根こそぎ動員が行なわれ、七月頃に朝鮮(当時の呼称)から来た新兵も入隊してきた状態であった。やがて我々の中隊も人事係曹長の指揮のもとで、ともかく完全武装をして激励とも命令ともつかない辞を開いて、あたふたと営門を出た。最早や立哨兵の捧げ銃もない。もう二度と戻ることはないだろうこの地。さまざまな思いを残して兵舎を出る。支給された乾麺包(乾パン)五食分で足りるのだろうか。なんだか変な心配をしながら、忘れ物でもしているような気持で初めての戦場に向けての出発である。

 やがて日が高く昇るにつれ真夏のカンカン照りになると、背負った背嚢が肩に喰い込んでくる。

「まだ歩き始めたばかりじやないか」と自ら励しているが、だらしがなかったのは皮肉にも内務では「神様」のように威張っていた古年兵だった。街を離れ小高い丘から市街を振り返ってみると、兵舎辺りに黒煙が上がって燃えていた。

 部隊がどうやら隊形を保ち行軍していたのは当日位で、その後は団子状態で、一週間位歩き続けた。「落伍したら殺されるぞ」と云われ、私は何度も先頭を切って歩いた。何処へ向って歩いているのだろうか、真夏の炎天下、喉の渇きを「とうきび」の芯を齧りながら、食事は乾パンを喰べ、途中大雨でずぶ滞れになると北満特有の土質は人馬が通るために壁土をこねたようになって軍靴の踵が取れる始末である。途中何回かソ連機の機銃掃射に見舞われる。ミシン針がリズミカルに布地を縫うように道路添いに土煙を立てて弾がくると軍馬が悲鳴を上げて倒れた。兵士は高梁畑に散開するが遮蔽物もなく全くの無抵抗で、敵さんの去っていくのを只待つばかりである。敵機は繰返し繰返し念入りに弾丸を浴びせ、勝ち誇ったように引揚げていくのを歯軋りして見送った。

 古年兵の銃をも担ぎながら水しぶきの中を歩くと、ふと『麦と兵隊』の一節やら「どこまで続くぬかるみぞ‥」と歌の文句が去来する。その間行軍途中で休憩したが、疲れ切っているため出発の号令がかかって歩き出して暫くして防空マスタを忘れたことを気付くようなヘマもあったり、又ある村落で宿泊した際に徴発と称して家畜の強奪の使役にも出され農民を威すこともあった。

 三日目位だったろうか、途中開拓団の避難者に会った。女子供と年寄りが多く、殆どが小さなグループに別れ手荷物も少なく、泥まみれで裸足でふらふらと歩いている。中には道端に座り込んで虚ろな眼で我々を見過しているだけの者もいる。我々の中隊がその前を通りかかった時、突然這うようにして出てきた老婆が、その孫と思われる四~五才位の男の児の手を引いて私の足にすがりついて、

「兵隊さん!私はもう歩けない、この孫だけでも一緒に連れていって下さい。お願いします!お願いします!」と哀願した。見れば男の子は泥まみれで今にも泣きださんばかりである。一瞬戸惑ったが、所詮二等兵の私に何が出来よう。

「お婆さん、我々は今から戦場に行く身でとてもお孫さんを連れてゆくことは出来ない。元気を出して皆さんと頑張って下さい。」これだけ云うのが精一杯だった。聞けば長野県出身の開拓団で南へ向かって歩いているのだと去う。雨上がりの日射しがヤケに照りつけた日の一コマである。

 それから二~三日して我々の部隊が到着した処は三江省方正である。前線へ移動していたと思った強行軍が何と退却であったのである。方正に着くと兵站地だけに流石に食べるに事は欠かさなかつた。然し本隊と合流した時には部隊長もいないし、我々より後に入隊した朝鮮の新兵の殆どが逃亡していた。

 十六日、重大な発表があるというので、全員整列して中隊長の話を聞くと停戦だという。仲間はいや敗戦だという。その証拠には満人(当時の呼称)がそう云ったし、又彼らの態度が今迄と全く違うと云う。嘘だ!弾丸の一発も撃たないで敗戦もくそもあるものか。方正には弾丸も食糧もあるではないか、何故最後まで戦わないのか!と怒鳴りたくなった。その日、武装解除となり丸裸となる。満人が口汚く焉しり石を投げてきた。張り切っていた力が次第次第に萎えていくような気がした。

 戦後四十年過ぎて、時にはいろいろと回想することがある。又未だに点呼や非常呼集で起こされる夢をみる。いつも走ったように銃が見当らず、靴が片方しかないような夢である。でもあの道端のお年寄りはどうしたであろう。あの男の子は、若しや残留孤児の仲間入りしているのではなかろうか…。それにしてもせめて名前位は聞いておけばよかった。俺はあれだけしか出来なかったのであろうかと痛恨の極みである。

 戦史にこう書いてある。「五月三十日、大本営示達、朝鮮方面対ソ作戦計画要領は満州に侵入する敵を撃破し概ね京図線以南、連京線以東の要域を確保し、持久を策し全般の作戦を有利ならしめる」と。又「佳木斯方面は、松花江に溯航した敵は富錦に上陸し、第一三四師団の一ヶ大隊が戦闘した後、方正方面に後退した。同主力は方正地区にあって陣地構築中であったが戦闘を交えることなく終戦となった。」と。

 軍は、何十万人の一般人には何らの手立ても講ぜず、正に棄民政策を執りながら、無責任にも幹部とその家族が一早く撤退したのだ。残された一般人の苦悩と、下級兵士のシベリヤ送り---この史実は、何時までも消え去ることはないだろう。

       1988.7月 朝風3号掲載

私の昭和史

練馬区 加納 一和

私の反抗

 最近「週刊読売」から発刊された「シベリヤ捕虜収容所の記録」を戦友が送ってくれた。そして彼は、呟くように言った。我々のいた処と違って、こんないい収容所もあったんか」と。ベットもいい。シャワーもある。休息所もあって、なによりもそこに写された兵士の体つきがよい。これは捕虜生活の後半のものだろうか。

 一方、昨年末にはソ連より、現地で死亡した捕虜名簿の一部が公開され、いろいろな反響があった。総じて死亡者は下級兵士が多いことが指摘されていた。私の経験においても、一番先に倒れていったのは補充兵といわれた年配者であり、次には比較的若年で、体力がありながら非命に倒れた初年兵だったと思っている。

 旧軍隊組織を引きづったままにソ連に入り、只でさえ乏しい食糧をピンハネされれば、その末端が一番影響が大きいことは言うまでもない。シベリヤの捕虜生活で多大の犠牲者が出たことについては、勿論ソ連の不当な取扱いは責めねばなるまいが、日本の軍隊機構もその一因であったことを是非記録されたいと思っている。この、生死を分けるような地獄を潜って生まれたのは所謂反軍運動、民主化運動だったと考える。

 さて一九四五年九月三日、松花江を遡上して黒河の対岸のレニンスキーに上陸した。索漠とした初秋の河畔に大きな女が洗濯しており、彼女のスカーフが日の丸の旗であったことを覚えている。村外れの馬小屋の廃屋に、草を集めて寝藁とし、毛布にくるまって、夜空を眺めながらの一夜を過ごし、翌日、黒パンがあてがわれると、随分惨めな気持ちになった。

 そこで二~三日いてから、有蓋貨車に荷物のように分乗させられ、座ったままで寝るような空間でシベリヤ鉄道を一昼夜走った。「東に向けば日本に帰れる。西に走れば捕虜だ」と、誰かがしたり顔で話したが、実際には西か東か全く分からなかった.

 翌朝、貨車が停まって降ろされた所はビラという町で、駅舎らしきものはないが、構内とおばしき所に材木が山積みされていた。駅前でしばらく人数の割当てか収容所の割当てか、ソ連の将校によって定められ、中隊が連れて行かれたのは町外れの収容所で、三方の望所があり、二重のバラ線で囲まれていた。ここで改めて整列させられ、数えられながら中に入れられた時に、囚人が獄に入って施錠されたような、形容のしようのない気分だった。

 部隊は我々の中隊以外は分散して山に入り、伐材の仕事をさせられ、我々には貨車積みの仕事が待ち受けていた。部隊は武器こそ持たなかったが、将校はみんな日本刀を下げており、軍隊組織がその侭生きており、初年兵には内勤が続いていた。

 十月に入ると、シベリヤの冬は駆け足でやってきた。夜中に悲鳴に似た汽笛が鳴ると、ソ連兵の「ダパイ、ビストレ」(さあ、早く急いで)の叱声がかかり、銃床でこずかれ仕事に出された。貨車棟みといっても、直径三〇~五〇センチの二メ-トル材や六メ-トル材を無蓋車に積込み、夜明けまでに積込まなければならない。灯のない場所で馴れない仕事、夜中の空腹、肌を刺すような冷え込み、これに加えて、帰舎すると舎内での雑務で、私の周りの初年兵がみるみる内に体力を無くしていった。

 大阪出身の中川が下痢を続けで栄養失調で死亡、山形出身の小山田も人院してしまった。初年兵にば内勤と食料の差別がひどかった。馬穴を焼いたのかと思われるような黒パンを分配するのは古参のT上等兵で、自らの分を隠し取り、班長の分に我々初年兵の分量より一目で分かるくらいの量が大きく、スープの中身はこれ又少ないので、それを見ながら初年兵同志で歯ぎしりした。

 もはや初年兵の食物の配給は、意地汚いとかガツガツしているとかいったような生易しいことではなく、命にかかる切実な問題だった。この間、中隊の一部の逃亡計画未遂事件(前に書いたが)もあったが、この問題を解決する為に、分隊の中間的存在だったS一等兵に頼ろうとした。彼は平素は上等兵に諂い、幾分自分の分け前を取ることに汲々としていたが、一方初年兵には威張って、先輩ポーズをとっていた。

 思い余って、私が初年兵の代表として、或る晩、S一等兵を舎外に呼んで、今まで見てきた上等兵のことや、特に食事の分配が不公平で、他の分隊ではもっと公平に分けられているので、我々の意を班長に話して、とりなしてくれるよう頼んだ。私は言った。

 「乏しい食事をK上等兵殿の分配で、更に減らされては、初年兵はみんな倒れてしまいます。どうか班長殿にとりなしてもらいたいのであります」。これに対しS一等兵は「ここは軍隊であって、お前らの如き初年兵の口出しすることではない」

私「然し軍隊といっても今は捕虜の身で、満州にいる時のように、米の飯が喰えません。僅かのパンと薄いスープも殆ど我々の倍近く分けられる不公平さを見せられ、また作業や内務作業まで初年兵扱いされると、このままでは皆がバテてしまいます。現に栄養失調で倒れた同年兵の現実を見て先輩として進言して欲しいのであります」。そうするとS一等兵は

 「初年兵のお前ら如きの説教は受けん」

 途端にS一等兵のビンタが飛んできて、私の眼鏡が吹っ飛んだ。私も余りにも口惜しいので、襟の階級章を思わず千切って叫んだ。

  「これさえ取れば階級はないだろう。これなら対等だろう」。私とS一等兵の取っ組み合いの喧嘩が始まった。

 どのくらいの時間が経っただろうか。週番のK班長がたまたま通りかかって、決着のつかない二人の間に割って入って治まった。幸いに班長は私の初年兵教育係であった為、寒い夜空の下で、お説教を受けて許されたが、少なくとも私の肩を持っていたような気がした。

 然しその晩のトラブルは班長の裁きで一応終わったかに見えたが、次の日から先輩一同の反動は凄かった。直接手は下さなかったものの”作業で気合いをかける"軍隊のイメ-ジが容赦なく振りかかってきた。而も彼等同年兵は北海道出身の肉体労働で鍛えられた連中だけに、私の体力では全く歯が立たなかった。

 生木を二人で担ぐ時も、一番意地悪古年兵の相手をさせられ、使役と称する雑役も一番さいしょに当ってきた。私にのしかかってくる周囲の圧迫感に加え、切れ痔と今まで経験のなかったヘルニヤに悩まされ、重量物を担ぐたびに、手で患部を押さえ込まねば動けなくなった。治療する術もなく、ソ連の軍医に診せる時には、時間が経過しているので外部からは分からず「ニチオウー、ラボータ」 (異状なし、作業)で、次の日から又作業に出された。

 シベリヤの秋は短く、朝夕の寒さが一際厳しい。冬の寒さも未だ嘗って味わったこともない厳しさだ。昭和二十年の暮れには倒れる寸前で、体力気力がすっかり落ち込んでしまった。

 翌二十一年患者部隊の仲間に入れられ、山の伐採収容所に移ったが、この編成替えで救われたと思った。患者部隊は、食糧は最悪だったが軽労働だった。そのお蔭で痔やヘルニヤが治まり、今迄のような上からの圧迫もないので、漸時気力が回復し、軍隊組織の崩壊の流れの中に在る自分を覚えた。(つづく)

   1991.10月 朝風9号掲載

シベリヤの吸血鬼

                           小山市 高橋 荘吉

或る抑留下級兵士の証言

 最近の激動する東欧情勢は只目を見張るばかり、世界社会主義勢力の城塞と称されたソ連に於ても、且って神格化されたスターリンの偶像が地に落ちて、今まで一党独裁にて下からの批判が一切封殺されておったのが、ベレストロイカの旋風によって吹っ飛び、百花騒鳴の感がある。

 

 民主々義の原則から言って、誰でも差別されることなく、その人々が独自の見解を公然と発表出来る自由を得たということは喜ぶべきである.「シベリヤ抑留」について、今までいろいろな立場から体験記が出版され、それぞれに個性のある貴重な読み物となっておるが、何れもが「ソ連の不法」に対し強制労働。食糧不足等その酷しさを記しておるが、在ソ抑留五ケ年の体験ある筆者は、別の角度からシベリヤ捕虜生活を描写したく思う.即ち下級兵士の視点から記した体験記である。

 

 入ソしたのは敗戦後満州海林収容所に集結してから二ケ月を過ぎた十月であった.ダモイ(帰国)と喜んだのもつかの間、列車は西へ走り、窓外には未だ且って見たこともない異国ソ連の風景が展開されるに至り、初めて我々は瞞された事を知った。

 このあたりから、部隊の中の人間関係は変化して行った。今までは、敗戦になっても上官も部下も仲よく故郷の土が踏めるものと考えておったのが、一変して、果たしていつ帰れるかも判らないソ連の捕虜となったのだ。 帰国の希望は一転して絶望へと変わり、その気持ちの揺るぎは如何ともしがたく、希望のない心理状態は徹底した利己主義となり、古参兵や下士官による初年兵酷使へと転化して行った。下級兵士を酷使し自分達は楽した方が得だ、の気持ちが強くなった。

 

 シベリヤ鉄道を何処まで走ったか、夕方或る地点(駅はない)の森林の中で列車は止まり、雪林の中を行くと天幕が張られ、下は凍土だった。あたりの細い木を伐採し、その丸太を横に並へて寝床とした。ドラム缶にて薪を終夜燃やして暖をとるのだが、寒くて眠れたものではない。

 暫くしてこの生活から別れをつげ、幾日雪原を歩いたことか、二昼夜も歩き続けて、辿りついたのは、元ドイツ人捕虜の収容所であったのか荒れ果てた宿舎であった。二段の棚になっており、上段に寝る者は、室内でストーブを燃やすと暖かいが、下段の者は寒さに震えた。私の位置の処の壁は割れ目があり、そこから隙き間風が入って来た。寒さの中、毎夜シラミの襲撃を受けた。

 

 当時は食堂の設備はなく、食糧(黒パン)は中隊から小隊へと人数により目方をソ連人が計って配給があった。小隊二十人位の分を毎日係が受領して持参すると、隊付きの兵長で塩沢と言う男が上段の薄暗い処で二十人分に切るのであるが、捕虜規定で一食三五〇グラムとあるのを、下士官と古兵には五〇〇グラム位に切り下段の初年兵には二〇〇グラム位に切って下げ渡すのである。その中には、切りクズを握り固めて一人分としたものもあった。

 薄暗い上段で塩沢兵長の切った二〇〇グラム程の黒パンを、板の上に六個程が下げ渡されると、六人の中で一番の古参兵が第一番に手を出して取る。階級と年次によって逐次取るのであるが、この一片の黒パンをとる時は正に眦(マナジリ)を決するが如く真剣そのもので少しでも大きい方をとろうとする。さもしい根性と笑う勿れだ。極限の飢えの中にある時、人間は、生きるため食欲を満足させる為、一グラムでも大きいパンを取ろうとするのだ。生きる為の本能であろう。肉体を維持する為に、この毎夕の小さな二〇〇gのパンが如何に貴重な食物であったのか、それはシベリヤ体験者のみぞ知る当時の心境である。

 そして毎夜、上の段では同胞の血肉を食うに等しい大きいパン(五〇〇g以上)をむさばり食う塩沢兵長一味が存在したのである。初年兵が栄養失調でバタバタ死んでいった真因は此処にあったのである。

 近眼の若い初年兵だったが、いつも最後に残った一番小さいパンを取り、雑用は一番多くやらされているうちに栄養失調となり遂に亡くなった。朝鮮人白川君も、いつも終わりにパンを取る身分であった。彼は「私は朝鮮人だからこの様にイジメをうけるのです」とも語った。

 

 毎夜毎夜、このような差別配給がなされたシベリヤ抑留第一年目は地獄の生活であった。内心、早く編成替えになり他の中隊へ転属にならないかと希った。

 天は見捨て給わずか、翌年三月、ソ連女医により一斉に身体検査が実施された。全裸になり尻の肉をつままれ、骨と皮になると「オーカー」となり、重労働は免除され保護収容所に転入する命が出た。天にも昇る気持ちとは正にこれであった。差別配給から別れの時が来たのだ。

 同胞の血肉を食ったこの塩沢兵長は今頃どうしておることだろう。小才のきく男だったから若し健在ならば町会の有力者にでもなっておるだろうか。そのエセ人格者を世間は認めておるのか。極限の中の投げ出されたとき、紳士ヅラした人間は一変して悪鬼と化す現実を、私はシベリヤ抑留の中で体験した。口先で立派なことを言っておっても、一度び環境が変化し窮状に陥入る時、紳士は一変し悪鬼と化す。権力を持つ者はフルに権力を行使して弱者を食いものにするのだ。

 

 入ソ当時、水汲み、新割りの雑用労働は若い初年兵であり、室内でアグラかいてる古兵、下士官は大きいパンを黙って食するのである。私の隣には朝鮮人の若い特別幹部候補生の白川君がいた。彼が薄噌い片隅で「高橋さん、私は毎晩この小さいパンを食へる時が一番悲しいです」と述懐したことが、今でも鮮烈に記憶に甦ってくる。入ソ当時は電気は勿論無く、夜の明かりは白樺の皮を細長く帯バンドの様に切って、それを灯芯にして灯火とした。世に「奇跡」の二字あるなれば、これで日本へ帰れたら「正に奇跡」と思ったのもこの時であった。

 

 この薄暗い部屋の中で毎晩、夕食時には、上段の下士官達は大きいパンをむさばり食い、下段の若い兵士は小さいパンを食ベさせられても、一言の不平も不満も許されない天皇制軍隊であった。シベリヤに入って捕虜となっても、厳然として「上官の命は朕の命也」は生きておったのである。

 米粒ひとつ自由にならぬシベリヤ異国の地で、同じ同胞でありながら、苦しみを分かち合うどころか、血肉となる一片の配給の黒パンを、軍隊階級制度の権威によって掠め取り、自分だけよければ下級の者はどうなっても構わない、とするのが彼らの本質なのである。これが世界に誇る精強関東軍の戦友愛の実態なのである。

 

 一時が万事、この様にして下級兵士には苛酷な運命がシベリヤ抑留生活には待ち受けておったのだ。この時、共に苦労した初年兵仲間が懐かしい。それは、共にいじめられ共に迫害を受け、お互いに励まし合い、語り合った仲間であったからだ。この一片の黒パンが血肉となり、衰えた肉体を支えたのだが、当然配給を受ける べき権利のある黒パンの量を、毎晩毎晩奪い取っておった彼等こそ吸血鬼でなくて何であろうか。この時に栄養失調でバタバタと初年兵たちが死んで行った。

 

 誰も書かない入ソ第一年目の冬のシベリヤ日本人捕虜収容所において展開されておった赤裸々な実態を、敢えて発表するというのも、人間とは一体何なのか、「善」か「悪」か、口には立派な事を平常言っておっても、極限の環境の中に投入されると、平然として悪鬼となる事を、私の体験を通して申し上げたかったのである。

 と言って私は、人間性悪説に加担するものでもない。それはこの中隊の中で、伊藤という軍曹の小隊では、上投の暗闇でパンを切ることをせず、白樺の灯火の下に軍の天幕を広げて、隊員の眼前で糧秣係が公平にパンを切り、いつも順番に配給した。そして伊藤氏は、一番最後に配給を受けていた。実に胸のすく様な爽やかな人物であった。多くの人間の中には極めて少ないが、良心に恥じない素晴らしい人物も実在したのである。伊藤氏には今でも、お会いして当時を語りたい衝動にかられる。正にシベリヤ捕虜生活は、極限とも思われる酷寒と飢えの生活の中に於て、日本人の「魂」が試される機会であったのだ。

 

 この様な軍階級制度による下級兵士への酷使迫害下にあって、民主々義の啓蒙教育がソ連当局の指導の下になされ、その有力な武器ともなったのがハバロフスクで発刊された「日本新聞」であり・民主グループの結成であった。今まで、どのシベリヤ体験記にも、ソ連当局の「不当連行」「強制労働」「ノルマの強要」等々は語られていても、日本人が同じ日本人(下級兵士)に対しての私的制裁や、下級兵士の食糧収奪を語ったものは無い。

 私は敢えて、己れの切実な体験から、この事実を明かにしたい。その体験から、「軍階級制度打破なくして民主々義なし」とする民主運動の先頭に躍り出たのも必然の動きであった。今まて大尉が収容所の長であったが、選挙によって所長(作業大隊)を選ぶことになり、収容所は捕虜兵士によって選ばれた人物が指導者(委員長)となるに至った。勿論ソ連所長(ナチャネコ)の管理下である。と申しても、この様な民主化運動が一朝一夕に完成したのではなく、幾多の紆余曲折の展開があった。軍階級制度がもの申す雰囲気は一挿されただけでも頭上の重しがとれた思いで、正に解放の喜びに浸ったのである。ソ連共産党政治部は、この反軍闘争を利用して、日本人を共産主義者に洗脳し、その闘士として日本に送り込もうとした意図があったかも知れぬが、少なくとも私は軍階級制度の打破に力をかして呉れたソ連当局に対して、好感を持ち、正義の味方であるとの印象を強くしたのである若し関東軍階級制度が持続したら下級兵士は殆ど生きて還れなかったであろう。

 当時を思うと、余りにも短路的で単純であった様な気もするが、今でも一貫して不変な信念は、天皇制軍階級制度は絶対に復活してはならないと言う事である。茫々四十有余年の歳月は夢の如く流れ去ったが、悲憤の中にシベリヤの凍土と化レた下級兵士の悲しい叫びが心耳に響く。

 

   (当時に詠みし歌)  還るまでは只ひたすらに生きんかな

                       還る日までは只ひたすらに

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(註)収容所が民主運動の展開により軍階級制度が打破されて、桎梏から下級兵士は開放された時の喜びは、正に革命によりて解放された奴隷の喜びに似たものであつた。今まで横暴だった上級者の態度も豹変したのも痛快だった。食事も従来の如き分配でなく、キチッと食堂で計量されて配給されるに至った。食事内容も規定通りに配給を受け、明るい収容所に変革された。シベリヤ民主化運動につき批判もあるが、数ある中で闘争の過程に於て行き過ぎもあったろうが、大勢として、下級兵士にとって民主化運動若し無かりせば今日の帰国(幸福)は有り得ないと断言出来るのである。(元東部二十九部隊工兵幹部候補生)

     1990.10月 朝風8号掲載

シベリヤ民主運動を総括する

 小山市  高橋 荘吉

1、民主運動の功罪

 前篇で述へた如く天皇制軍隊組織その侭でシベリヤに抑留されて強制労働に服した日本人にとって最大の問題点は何であったか。それは酷しい自然条件の中即ち酷寒のなかでの労働でもあるが、下級兵士にとり最大の苦痛は労働そのものよりも、軍階級制度による重圧であった。

 

 同胞が異境の地に捕虜となり生きて帰るまで「お互いに助け合って困難な環境の中で生きてゆこう」というのではなく、階級章に物言わせ下級兵士を酷使し自分丈が大きいパンをかすめとり、下級兵士が如何に空腹と重労働に倒れようとも一顧だにしないと言う、極端な利己主義のムキダシの弱肉強食の地獄図の展開であった。

 

 勿論広大な全シベリヤに分布した地域により、その土地に於ける労働の種類や質、又隊長の方針や人間個々の性格の差により、千差万別と思うが、少なくとも私が体験した部隊では、一片の戦友愛のカケラもなく、初年兵や年とった階級の低い召集兵は、犬猫の如く抑圧冷遇を受け、栄養失調と体力消耗によりバタバタと死んでいった。

 ラーゲルの一角にある炊事場からは、炊事係の直属の上官である曹長という下士官が、飯盒を両手に四個も持ち、病弱者甲の白米飯を山盛りにして運びだしてゆく姿を見ても、何一つ文句言う事の許されない天皇制軍階級制度であった。

 それ故極めて一部の者は階級に物言わせてヌクヌクと腹一杯食ベている反面、水の様なスープをすすり、栄養失調で倒れる兵士もおった。それは入ソ第一年目、即ち昭和二十年の冬の出来事である。

 

 下級兵士の死んだ数が一番多かったのがこの第一年目であり、この事実を具体的に知らされず只シベリヤでの死者云々、又は墓参団云々と言うが、之れでは死者は浮かばれない。

 何故死んだか?。

 墓参団の中には、自分がこの様にして、下級兵士を事実上死に追いやった元凶が絶対おらないと断言できない。

 今でこそ紳士面しておっても最大の逆境時に下級兵士のことを本当に暖かく通した将校、下士官が存在したらお目にかかりたい。「ウランバトールの暁に祈る」は、自らの体験を通じて真実と思う。

 

 下級兵士をバタバタと死に追いやった元凶は一体なんであったか。

 ズバリ申して天皇制階級制度であった。一言の抗議も許されず、上官の命は朕(天皇)命であるとして、シベリヤでも絶対服従が実行されておったのだ。

 この鉄の体制に対してハバロフスクで発行する「日本新聞」が、先駆的啓蒙の役割を果たし軍階級制度の運動の原動力となり、各所のラーゲルに狼煙が上がったのであるが、この民主化運動の道は決して坦々たるものではなかった。

 当然階級制度の上にあぐらをかく者にとっては、己の地位が足元より揺らぐことであり、必死の抵抗をするのは当然だ。

 

 レーニン曰く、「発展とは反対物間の闘争である」と、正にしかりだ。この反軍闘争は熾烈極めた。燎原の火の如く全シベリヤのラーゲルに反軍闘争は燃え上がったのだが之も又ケースバイケースにてそのラーゲルの力関係によりて強弱はあったと思われる。

 とにかく天皇制軍隊の階級制度打破はシベリヤ民主運動の最大の功績であり、日本新聞社の存在意義も此処に存ずると思う。前編で編集の頂点にあった副編集長浅原正基氏について述べたが、氏の努力たるや大なるものがあったと思う。

 毀誉褒貶は世の常であり浅原氏に対して色々な角度から批判する人もあるが、私は誰が何と言おうとも彼の日本新聞編集に情熱を傾注し関東軍下級兵士救出のために果たした役割は偉大であったと思う。

 勿論人間だ。欠点もあるかも知れぬ、然し乍ら、もし、シベリヤの地で天皇制軍階級制度が永続し、階級章の権威がまかり通っておったなら、下級兵士はその殆どが生きて帰れなかった事は事実なのだ。しいたげられた者の悲痛な叫びを誰が知ろうか。

 

 酷寒の中の重労働。その上に情け容赦ない上官の私的制裁。今でも眼前に彷彿する暗夜の中に唸る帯革ピンクの音、初年兵は、栄養失調に水ぶくれとなりてその場にうずくまってしまったが、尚その上に雨と降る皮バンドの鞭。 之れが皇軍。「大君の辺にこそ死なめ」の天皇の軍隊の戦友愛なのだ。

 私が今此処に語らざれば一体維が語る事だろう。シベリヤの生き地獄から生き返った者のみが語り得る実話なのだ。

 何が「人間性善説」か。人間は環境が支配する。どんな紳士面をしておったとて、愈々ギリギリの極限の世界に入ると鬼畜と化するのだ。然し乍らこの様な鬼畜の世界であっても、泥中の蓮花の如く、実に素晴らしい人間性の持ち主も実在した事を私は知っている。それは本誌第8号に記した如くである。

 

 シベリヤ民主運動を蛇蝎の如く攻撃する者もある。そのような人に限って天皇制軍隊では階級の上にあぐらをかいておったのではないか?疑いたくなる。下級兵士にとって民主化運動こそ天の助け、救い主であった。

 「功」に対して「罪」と言うなれば、それは反軍闘争の余り、勢いに乗じて闘争の対象を、「軍階級」のみにせず、天皇制を維持する役割を果たしたとして、教師、警察官、坊さんまでも敵視した、セクト主義が一時期に横行したのも事実であった。私は内心このような行き過ぎに対して疑念はあったが、余りにも熱烈な盛り上がりの渦の中にあっては、私一人ではどうする事も出来なかった。

 之れと言うのも、日本人は民主主義に対し全く無知であり、反軍闘争の勢いに乗じた一つの行き過ぎ現象であった。

 試行錯誤の中でシベリヤ民主運動も、指導者の交替、刷新もあり、落ち着くベき処に落ち着いてきたとは思うが、何としても捕虜と言う特異な環境の中での民主運動であり、回顧する時狭い視野に立ったものであった事は否定できない。

 

2、ノルマの矛盾等について

 シベリヤ捕虜の強制労働の中で、一番矛盾に感ずるのは、ノルマの労働に対する、基準の曖昧さだ。

 穴掘りをする場合、柔らかい土の処も、岩盤の地質の処も同一視して、深さの結果のみを測って「質」を考慮しないのだ。

 又、捕虜に対して、労働をいくらやっても貸金の支払はないが、入ソ三年目になり、ラーゲルの出入りの際の守衝所から、捕虜の人員の掌握、点検をするのはソ連兵ではなく、自主的に日本人が歩哨となったのだが、之を「ベスカンボーイ」と言うが、この者に対しては、貸金が毎日支払われた。

 作業せず、只人員のみ数えておる者に金を支給する制度に対し、「労働は神聖なり」をモットーとする社会主義の国で、何たる矛盾なのかと思ったが、誰一人として抗議する者はなかった。

 

 作業についてのノルマの完遂は実に峻厳を極めた。ラーゲルの入口には各作業隊(小隊)毎に名前が出されてパーセンテージが提示される。あたかも保険外交員が、毎日のノルマをグラフに張り出される様なものだ。

 労働の環境条件を無視したノルマの押しっけに、どれ程泣かされた事か。

 之に対し一言も抗議できないシベリヤ民主々義は、言うなればスターリン体制下に於ての盲従的民主々裁と言うへきものであった。

 全抑協会会長斎藤六郎氏の言に依れば、氏はシベリヤ抑留中に休日の労働を強制された時、之に反対し、強行にソ連当局に抵抗し拒否したことを語られたが、それが真実であるならば、この様な捕虜独自の、主体的運動の展開こそが、正しい勇気ある民主運動というベきである。

 私の知るかぎり正面きってソ連当局に対して捕虜の要求を掲げて闘争した例を知らない。

 シベリヤ民主運動の目的は、世界民主勢力の城塞ソビエット連邦を強化する為、生産を増強する事が至上命令であり、目前のノルマ完遂に反対する者は反逆者と言うのである。

 天皇制下に於て日本でも、戦争に対して疑念をもち反対する者は「非国民」のレッテルを張られて、大衆の中で孤立し白眼視され異端者となって、社会から葬られるのと全く同一であった。

 

3、ニセ(偽)民主々義者

 シベリヤ民主主義運動の組織の全容はよく判らぬが、知る限りでは中心はハバロフスクの日本新聞社であり、各地区に民主委員会(後に反ファシスト委員会となる)があり、地区委員長が指導の中心人物だ。そして各ラーゲル毎に委員会があり、教育機関として地区に講習会を受持つ講師団が存在した。

 この講師団はマルクスクーニン主義。ソ連共産党史、史的唯物論の講義と日本天皇制の矛盾について熱弁を振ったが、この講師は過酷な労働はせず教育のみである為、シベリヤ捕虜の労働の実態は、余り知らない者でもあろうが、然し中には誠実で、人間的には生涯の友として尊敬できる人物も存在した。

 

 この他に文化運動の一環として「創団」も創設され、歌、踊り、そして劇の上演により、各ラーゲルを巡画し大きな慰安を与えつつ思想の変革と生産意欲の向上に貢献したが、この様にして労働しないで民主運動をする者達の中には酷寒の中の労働から逃避する為にニセ民主々義者となり、その中にもぐり込んだ者がおった事も又事実である。

 

4、ソ連崩壊について感想(省略)

 

1992.11月 朝風11号掲載

屈辱

豊島区 木橋 富与

 或る商事会社の外務員T氏の話である。

 外務員には饒舌家が多いが、T氏の場合は事、軍隊の話になると俄然口を噤んで語ろうとしない。漸くにして、断片的に聞き出した事は彼が召集されたのは、大東亜戦争たけなわの頃で、任地は中国東北部(旧満州)であったらしい。一日でも早く帰りたいと思っている彼の願いとは逆に、終戦と共に「ソ聯兵」に依って連行され抑留の身となり、収容所の生活を余儀なくされた。

 いくらジタバタしても、どうにもならない。当然乍ら使役(苦役)に狩り出されたが、その中でも彼は、幾分幸運を掴んだらしい。どのよう仕事かと興味を以って彼の言葉を待ったが、ナカナカ答えてくれなかった。

 漸く語ってくれた其の仕事は「ソ連軍」の隊長の家の雑役夫に指名され、真面目に働いた事と、彼の姓が割合呼び易かった事が幸いして、毎日指名され其の仕事が復員迄続いた。

 他の者のように、森林伐採とか石切場で働く事は無かったが、掃除や薪割りは良いとしても、洗濯には泣かされた。

 それも彼が最も屈辱を感じた事は、隊長夫人の着用した肌着(パンティ-も含めて)類の洗濯であり、隊長の所へ出入りする女兵士達の物も含まれるようになった。

 「日本男子として、女房の腰巻まで洗濯をしたくない」と思っているのに、相手が露助の女とあっては、腸が煮え返るように感じたそうである。でもやらねばならない。

 此の事は、細君にも語っていないそうだが彼のみでなく、日本人男性としたら、気軽に語れる事ではないかも知れぬ。

 仕事の量は増えても食糧の配給は少ない。「何か欲しいものがあるか」と聞かれたので、「パンが欲しい」と答えたら「パンはやれないが‥」と黒パンのミミを呉れた。

 それでも有難く貰わぬと生命が保てぬ。吾乍ら浅ましい乞食根性に成り下ったものだ‥と其の時も涙が出たが、それを感謝の涙と受け取られたそうである。

 彼の家は東京の旧家で地主であるが、抑留中の彼は心身共に屈辱に泣かされていた。

 彼がナカナカ語らなかったのはその為である。

 彼は「軍隊の事は忘れたい。それ等の書物も読みたくない。戦友とのツキアイもすべてお断わりしている」との事である。

朝風28号掲載 2000.6月

復員の思い出

酒田市 友野 九郎

 今年も敗戦から五十五年目の八月十五日がやってきた。私ら大正の一桁組では忘れることの出来ない懺悔の日である。齢が八十才を越えて余命がいくばくもない老体になると、つい過去の行動について振り返る事が多くなった。特にあの太平洋戦争に従軍した八年半の行動は、現在に至るも総てが鮮明に描ける程脳裏に焼きついている。恐らく私の頭の中に終生住みつくであろう。私はあの当時に北方軍の部隊に召集され、北千島の最北端に位置する占守島に配置して、カムチャツカのソ連軍と対じしていた。

 

  連日米軍機の空爆を被りながら、近くアツツ島の二の舞かと覚悟の中で、極度の緊張と厭戦が交錯していた時に、突然敗戦を宣言した戦争終決のラジオ放送は、これで先ずは助かつた思いの喜びに溢れ、もう確実に無事故郷へ帰れる話題で兵舎内が沸いたことを思い出す。

 しかしそんなに巧く問屋は卸さなかった。それから三日後の十八日未明に、突然ソ連軍がカムチャツカ半島から占守島の国端岬に侵攻して戦闘となつてしまった。戦争が終結と共にすっかり里心を抱いてた私ら兵隊達、この違法侵入には吃驚仰天し、失望落胆やるせない状態であつた。しかし出動命令には全員が素直に服従し行動したが、流石は関東軍精鋭の現役部隊であつた。この戦闘は二十三日に停戦協定締結まで続行されたが、この不本意な戦闘での戦車連隊長始め多数の犠牲者には、誠に気の毒なことで心からご冥福をお祈りしたい。ソ連軍はこれを突破口にして占守島から千島列島を次々と南下し、ついに我が国の領土である幌筵島など北方四島まで、全島をソ連の占領下にされてしまった。

 

  昭和二十年の十一月下旬、いよいよ故郷への夢を乗せて千島を出航した復員船は宗谷海峡を通過するやどんどん右舵を取り、あれやあれやのうちにシベリアのナオトカ港に運ばれてしまった。これで総ての夢が破れて万事休すとなる。

 そして間もなく問答無用に囚人炭坑の地下構内に押し込まれ、それ以来約二年四ケ月間、異国の地下で強制労働し、最後にウラジオの第十収容所に移送された。これがシベリア民主運動発祥の地と自負するヤカラの収容所で、それは当時のソ連式そのもので、反動者を捏造して吊し上げて総括し、自己反省を強要するのが日常化されていた。それが同じ抑留同胞のヤツラの仕業だから腹がたつ。

 

 昭和二十三年の十一月、この収容所でも全員が復員することになった。この復員目的は天皇制日本国に敵前上陸することで、全員が復員と同時に日本共産党に入党を確約させられた。この入党の踏絵には断腸の思いだったが、復員という餌の為には目を瞑り、こんな馬鹿らしいこと日本へ上陸すれば総てが解決されると確信し、何が何でも乗船を果たしてナオトカを離れることであつた。

 

 私達が抑留されているウラジオの第十収容所は、民主運動発祥の地と自負するだけあつて、あの常識では想像し得ないオルグ達の狂態は、恐らくソ連には一級品と評価されたと想像される。その為に私達グループをソ連式共産党勢力拡大のモデルケースとして、日本国へ敵前上陸し、民心攪乱をソ連から厳命された復員と推定される。「このような異様な復員者は昭和二十三年十一月に始めて現れた」と。(若槻泰雄氏のシベリア捕虜収容所二四五頁から)

 復員の為に収容所を出発するに当たり、今まで非協力者や反動的な人物と睨まれた同胞の篩いをかけて、勇躍?乗船地のナオトカに出発した。このナオトカには最終チェックする偽強者が待ち受けていたが、私は旧下士官だつたことを密告されないかと、乗船を果たすまでの三日間は針の延に座るが如く緊張したが、良き友に支えられて無事乗船出来たのは本当に有り難く思った。

 

 無事乗船を果たしたけれど、今までの復員船なら一挙に仕組みを解体して、ソ連の犬達を追放したらしいが、私達には益々締め付けが厳しくなってきた。それは復員と同時に全員を共産党に入党させるよう、ソ連からの厳命が背負わされてるからであつた。彼らも同じ抑留者でありながら同胞を苦しめた狂態を、間もなく故郷へ上陸が迫るにつれどんなに悩んだことか察せられる。

 

 舞鶴港に着岸したのは十一月二十三日であつた。これからの行動が彼らの腕を試される試金石であつたが、舞鶴から東京までの集団臨時電車を強要したあたり、流石は知能犯揃いのオルグ達だつたと敵ながら感服させられた。これも共産党に入党が帰還の条件だつたことと、意外と洗礼された人達が多かつたことから、造反なく出発以来一糸乱れず最後の某駅まで全員が拘束されてしまった。

 集団電車では指定された座席からは、東京の終着駅までトイレ以外には立たないよう厳命された。これは途中停車駅からの脱落者を防止するためで、車中には責任者が厳重に監視していた。これでは最後の手段として終着駅に下車してから、如何なる状態であれ断固として入党阻止の行動を起こすことを友と密約し、下車後に二人でチャンスを狙うことにした。

 

 集団列車は東京の某駅に全員が下車し、全員駅前広場に整列し歓迎の人々には目もくれずに、 威風堂々入党するために行進をする直前、咄嗟に隊列から二人で強行離脱を決行し、歓迎者の群れに潜り込んでしまった。あの強行離脱が私の人生の方向を決断されただけに、自分の事ながら拍手喝采をしたくなる。各々が齢八十才前後になつた当時の復員者達、不本意ながら入党を強要され本当に気の毒でならない。そんな事を思うと彼らリーダー達こそは万死に値いするはずだが、現在高齢になつた彼らはどんな心境でいるだろうか。    

朝風31号掲載 2000.9月

ナターシャのこと

町田市 村西 義孝(七十七歳)

 私は十七、八才の少年期、極北の地、シベリヤ「バーム」の捕虜収容所で重労働の作業を課せられた。昭和二十・二十一年の冬、収容所から零下四十度の厳冬のツンドラの大地ヘトラックで運び込まれ、森林の奥深くで伐採の作業をさせられた。鳥の影さえ見られない虚無の密林で、ふた抱えもある大木を、友と二人で鋸で切り倒す。飢え、寒さ、望郷、いつ祖国へ帰れるか・・・見通しのないまま、死と背合わせの日々が続いた。

 

 その作業中、私たち捕虜の監視にロシヤ人三人が付き添った。二人の男は元囚人で、その面構えも獰猛さを秘めているようで、銃を持ちながら私達の逃亡を監視し、大声をはり上げ作業の促進を促した。

 もう一人は女性の「ナターシャ」である。ナターシャは漆黒の髪、丸顔で瞳が澄んでいて理知的な顔立ちであった。背もそんなに高くなく、一見日本人かと思われる容姿であった。

 年は三十才前後で、その物腰は捕虜の我々にも優しく、その言動に何となく労わりの心情が読み取れた。

 

 そんな或る日、ナターシャは作業の休憩時、最年少で十四才の埼玉県出身の「上条」を木陰に呼んで、黒パンの一かけらを手渡すのを垣間見た。当時、ロシヤも独ソ戦で疲弊困億、食糧の乏しい時であった。

 私は伐採の僅かな休憩時間に彼女に聞いた。 言葉少なに彼女は言った。

 母は日本人で父はロシヤ人だ、と・・・

 私は言葉も通じなく、それ以上聞き出すことは出来なかったが・・・

 彼女のお母さんも数奇な運命をたどった人だったようだ。

 

 春三月、伐採最後の日。ナターシャは上条に新聞にくるんだ黒パンを手渡し、真っ白な雪原の彼方に消えた。

 今、ナターシャが生きていれば八十才くらいの老人で、来し方を偲び静かに瞑想しているか…死亡していれば凍てつくシベリヤの大地に眠り、ロシアの行く末を見つめているだろう。生を受ける国によってその人の運命が決まる・・何とも不思議な気がしてならない。

 

 確かに名誉は金では購えぬものであるが・・と考えさせられる。

 命もいらぬ名もいらぬ・・・と言った人もあったが、勲章や地位を欲しがる人も少なくない。在隊中に、精勤章を貰えるように上司に対し、胡麻摺りをした奴もあったが…。

記念文集あさかぜ掲載 2003.12月

シベリヤ抑留生活(1)

栃木県  藤倉 勝三

 

 凍てつきし馬糞を噛みしこの歯ども

       遠き日の夢か今抜かれゆく

                   一九九三年二月二日 朝日歌壇掲載

                          生駒市 中尾 五郎

 

 収容所の高い板塀の外側は暗く、疲れ果て、うなだれて、炭坑から帰る夜道は粉雪で堅く踏みしめられており、夜目にも判ります。収容所に馬橇で運ばれる泥のついたジャガイモが、よく落ちていることがあります。馬糞もよく見受けられます。私も同じような経験があり、喜び勇んでポケットに入れて、自分のベッドまで持ってきたのはよかったのだが、そのうち馬糞の臭みが漂い出し、うろたえて、ひそかに処分したことがあります。

 ジャガイモと黒パンは共に、シベリヤで生きた者にとって終生忘れ得ぬシベリヤ生活のシンボルだと思っています。

 私は毎年六月十五日をシベリヤ生還の日として、ジャガイモを茹でトースト状にしてスプーンで食べます。私の見たシベリヤの人々は、このようにトースト状のものを食べました。

 

 私達は南満州の錦県(錦州)飛行場跡地で武装解除を受け、敗戦の年十月六日に、ここを出て約二カ月、ようやく十二月八日にケーメルポ市に着きました。貸車を上下二段に分け、五十ぐらいの人間が押し込められました。身動きも容易でない程でした。いわば家育列車の移動でした。ロシヤ人の歩哨に何度聞いてもダモイ(帰国)としか言いません。小さな窓が少しあるだけで、走行中は何も見えません。

 

 仲間の一人が下痢のため、窓から尻を外に向けて排便できるように、私が下から上に押し上げ、見事?排便に成功しました。普通は列車が無人の広野に停止したとき、用を足します。列車が坂にかかってスリップし、動きがとれなくなったことがあります。車輌数は四〇位だと思います。少なくとも一五〇〇人ぐらいの者が、全員下車して、列車押しをしました。今思えば一種の奇観とも云うべきでしょうか。空腹をかかえて、あの長大な広軌式の車輌群の後押しをしながら、私は思わず、にやりとしたことを今もはっきりと思い出します。今にしで思えば、ちょっとしたユーモラスの風景に見えたからでしょう。

 

 途中、パイカル湖をウラジオストック港と思い、多くの者が狂喜しました。その波頭の高さに驚きました。岸辺に打ち寄せては又高く夜空に波の激しさは、まさに、大海のそれそのものと誰の目にも映りました。「万才」と叫んだ者がいたのも当然でしたが・・。やがてこの湖が絶望の湖に転じるのには、あまり時間を要しませんでした。これ迄に、どれ程、多くの時間をかけて、この列車の行く先を話し合ったか。私達は始めて、来たるべきものが来たと覚悟しました。

 

 ケーメルポ市は、モスクワとウラジオストックを結ぶシベリヤ横断鉄道のほぼ中間にあり、北はエニセイ川からやがて北極海に通じ、南に進めば、天山山脈、崑崙山脈に達し、やがてインド洋に至ります。

 最初の冬は、特に凄まじい生活でした。高梁を食べさせられ、多くの者が下痢をし、また伝染病で苦しんだ人もいました。高梁は消化されず、そのまま排便され、離れて見ると赤飯のように見えました。零下三〇度、時には四○度を超える厳寒の夜中でも便所には行かねばなりません。私達は便所を止り木と呼ぶこともありました。高さ六〇cm幅一五cm位の横木の上に足を乗せ、用を足します。背後には五〇cm位離れて垂直に立っている板があります。用を足している姿が丁度、鳥が止り木に止まっている姿に似ているので止り木の言葉が使われたものと思います。ブース式ではないので、お互いの尻はまる見えです。慣れないうちは、この仕切りの中に落ちた者もいました。冬は糞はすぐ凍結しますので、糞塗みれになることは比較的少なかったようでした。

 

 食堂も夜遅くなると、薄暗い、冷えきった片隅に人が点々とたむろするようになりました。ねずみ取りをするのです。食堂には穀類等が貯蔵されていますから、かなり大きなねずみがいたようです。この点私たちよりねずみの方がはるかに良い待遇を受けていたことになります。食堂で捨てたジャガイモの皮を焼いて食べる人達の中に私もいました。食堂と云えば、そこで働いている人達は、捕虜の中でも一種のエリートなのです。収容所から選定された特定の人でないと、そこでは働けなかったようです。ある時、私達仲間で珍妙な議論が真剣に討議されました。「朝起きて性欲を感ずる者がいるだろうか。いるわけはない。あの食堂で働いている連中だけだ。そうだ、そうだ」と。

 

 あれは良く晴れたさわやかな日の事でした。坑道の入口を取巻くジャガイモ畑は見渡す限り続き、新緑のその葉は太陽の光を一杯に吸いこみ、巨大な緑のじゆうたんに変じて見事なものでした。そしてその時、私はF中尉に頼まれてジャガイモを失敬したことがあります。彼はジャガイモの泥を取るのも、もかしく、むさぼるように食い、「藤倉、有難う、うまかった」と、うめくように云いました。ロシヤ語で云ったのは、将校のプライドもあったので、日本語で云うより気が楽だったのでしよう。尚、ソ聯政府は政策上、階級制を収容所内では維持させ、将校の制服を着用させていました。(続く) 

朝風46号掲載 2002.1月

シベリヤ抑留生活(2)

栃木県 藤倉 勝三

 収容所の塀の内側は有刺鉄線が張り巡らされてあります。食堂に捨てた残飯を拾おうとした一人の者が、この線をくぐろうとして、見張り台上の若い警備兵に狙撃され天空にこだまする一発の銃声と共に若い命があえなく消えていきました。入ソ当時は特に逃亡を恐れて若いロシヤ兵は、簡単に発砲したようでした。逃亡といえば、凄い人がいたものです。あの極寒の夜、遥か何千キロの彼方の日本に向かって絶望的なシベリヤの荒野の中に忽然と姿を没しました。かなりの数の腕時計を所持していたとのことでした。数日後、彼は、頭部に血の滲んだ包帯を巻いて戻って来ました。私は彼の姿を見て、これで良かったと、ほっとしたことを憶えています。私は、帰国後このKに会っています。でも無表情で多くを語ろうとはしませんでした。埼玉県のある裁判所内のことです。

 

 シベリヤの冬の白樺の木の肌の白さは、誠に印象の深いものでした。ときたま、薄日がもれた時は、その白さは眩しい程に輝き、迫ってくるようでした。でもやはりその白さには、一種の厳然たる冷酷さを秘めていました。

 ああ、文化も果て、時も止まらんとする最果ての極寒の大地に、白樺の木々に守られて、正視に耐えられないほどに変容した同胞のなきがらが、素裸のまま-このようなやり方は後に改められたが-埋葬されようとは何人も想像し得ないことでした。

 私達は埋葬の作業に駆り出されましたが凍結した大地は岩のようで、数センチ堀った所で中止になりました。雪の中に仮に埋葬し、春に土葬する方法もとられたようです。

 

 シベリヤから帰国後、二十七年間、シベリヤの絵を描き続けたシベリヤ作家、香月泰男のNHK放映が以前ありました。この作家の「私のシベリヤ」の一節がその時、引用されました。「収容所では、過酷な労働と飢餓のため多くの戦友が亡くなりました。軍隊毛布に包まれた仲間の遺体から霊魂だけが抜け出し、戦友達に別れを告げながら故郷の空に向かって旅立とうとしています。残された者には、先の分からぬ苦しみが続く。今の苦悩から解放された死者を羨ましいと思わずにはいられなかった」と。

 

 何と凄惨な、そして悲痛な告白でしょう。NHKスペシヤメ「立花隆のシベリヤ鎮魂歌」の放映で、この多才な作家は、いともお粗末な墓標の前にたたずみ、墓標に酒を注ぎながら、大粒の涙を流していました。さすがだなと、深い感銘を私は受けました。

泣いたからではありません。人の心は誠に移ろい易いものです。ひとときの世の大きな関心ごとも、やがてはすべて忘却の彼方に追いやられるのが世の常です。半世紀にもならんとする、知られざる、記憶されざる一兵士の死の悲しみに深い共感を示し得る豊かな人間性に対して私は敬意を表せざるを得ませんでしたのです。

 

 最初の冬は、虱と南京虫の猛攻撃を受け大変苦戦しました。私達が使用したバラックの先住者はドイツの捕虜でした。中は、あく迄も薄暗く、建物の基礎は地面より低くしてあり、屋根は普通の建物ほど地面から突出していません。点々としてついている裸電球の明りは誠に弱々しく、もの悲しくもあリました。

 寝る時は、勿論、平生、着用している衣服そのままで休みますが、顔は帽子をかぶり、尚皮膚の露出している部分には、適当なものでおおって、夜襲に備えますが、このときほど、衆寡敵せずの感を深くしたことはありません。かまれるとすごく、かゆく、憎しみを込めて、つぶすと、すごい悪臭で最後の抵抗を試みます。逃げ足のスピ-ドもすごいものです。南京虫というと、北海道出身のKさんのことを思い出します。

 

不思議なことに、この人だけには、寄りつきません。わきがの強い人てしたが、そのことが南京虫に何らかの影響を与えたか、どうかは、私にはわかりません。

 今となっては虱もなつかしい思い出のものとなりましたが、入ソ前の二カ月に及ぶ貨車生活で発生していました。下着には数えきれない虱とその卵がいました。特に休日のときは、虱取りで、その空腹感をまぎらしてくれました。あの緩慢な、ねちねちした白っぽい姿態からは、一種の不気味さと、なまめかしささえ感じます。初年兵のとき、あまり、からだが、かゆいことがありましたが、理由が分かりませんでした。

何か病気にかかったのかと思って班長に申し出ると、彼は即座に私の着ている下着を調べ、その卵を見つけました。その卵を見たのは初めてでした。

 

 内地にいるとき、毛虱は見たことはありました。同年兵と同じように洗濯はしているはずでしたが。そのため、えらく恥をかき、初年兵係りからは、大いに気合を入れられました。ある時、屯長の家で御馳走になり、御機嫌で帰ってきて見たら、すごく大きいのが一匹、下着におりました。列車に乗ったときも、私だけに、この憎むべき奴がよく私の下着に侵入していました。何故、こう迄、虱に好かれるのでしょうか。

 

この生き物の好きなにおいを私が体臭として発散するとでもいうのか分かりませんが私にとっては迷惑千万の話しです。でも休日のひとときの虱取りはむしろ無心になれるので、決して不快なことではありませんでした。一匹ずつ、つぶすたびに、ブシユとかプスとかいうような音をたてます。そのたびに、私の親指の両方の爪に、執拗に冴えない赤色のマニキュアが不細工に繰り返されていきます。

 

 ある曹長さんは周囲からどんな冷笑を浴びても怒らなくなりました。ズボンの外側の股間部が、白い虱の卵でぎっしり敷きつめられていました。そこの部分まで、繁殖させた人はあまりいないようでした。

 最初の冬も終わると、収容所にも、浴場洗濯所、洗面所、湯沸所、滅菌所、その他の設備が逐次、作られ、虱や南京虫とようやく、縁が切れました。

(続く)

朝風47号掲載 2002.2月

シベリヤ抑留生活(3)

栃木県 藤倉 勝三

 入坑前は、よく深夜、貨車の材木卸しに狩り出されました。長大なこの資材を卸すことは危険な作業です。皮膚に突きささるようなあの寒気、絶えず蓄積されつつある疲労、執拗に迫り来る空腹感に喘ぎながら、両足は絶えず、足踏みを続け、凍傷と闘います。

 この仕事で凍傷になり、両足指を切断した人がいました。歩き始めたばかりかも知れませんが、とても痛ましく、とかく鈍化し勝ちな私の心情に、言い知れぬショックをあたえました。私は戦後、ずっとこの人のことを思い出しては、その健闘を祈っていました。こういう方が他にも二・三人いたとかの話しでしたが・・・・・。

 

 炭坑内の仕事には色々ありましたが、一番危険なのは、採炭夫の仕事でした。入坑(1946年4月)して程なくロシア人のチ-ムに入りました。その一人はアメリカの西部劇のヒ-ロだったジョン・ウエンによく似た風貌の男で、当路「私は178cm近くありましたが、更に大きな男でした。当時、炭坑には若い男は余り見受けませんでした。多分あの凄絶な独ソ戦争の結果が影響していたのかも知れません。もう一人のロシア人は、背の低い顔のしわだらけのそしてしゃがれ声の男でした。彼はよく冗談を言ったりして、まわりを笑わせました。そして何故か、私に日本に帰らずロシア娘と結婚するように強く勧めてくれました。彼だけです。あの暗黒の、深い深い坑道の奥底で、回りを見渡しながら、スターリンの大馬鹿者め!!と罵ったのは。私はこの時一種の感動を覚えました。密告の多い社会と聞いていましたから。彼は無断で病欠して処罰されたことがありました。もう一人の男はルーマニア人の若者でした。

 

 私はこのグル-プでは中国人だとされました。日本人はみな小さいという偏見があったせいでしょうか。少なくとも、-般庶民の間では、私が、おかしなロシア語をしゃべる迄は皆私をロシア人だと思っていました。夕夕-ル人の娘さんはとても印象的でした。日本人そっくりですが、もっと小柄で、赤い頬をして愛くるしく、わたくし達を取り囲むようにして、友好的に話しかけてくれました。戦争中、日本に来た異国の捕虜を見て「お可愛相に」と言った日本の婦人が、新聞紙上で激しく非難されたことがあったと思います。私たちが初めて収容所に向かったとき、群集の中の年配の婦人が、私選に向かって、十字を切りました。何故か私は、はっとしました。でも、これからの日本人の受難を思いやり祈ってくれたものと思いました。

 

  私が働いた坑道の一つは斜坑でした。地上から人間が垂直に下りられるようにニ・三十米の鉄製の円筒の中に階段が取り付けられてあります。下りた所が炭層の最上部になります。傾斜度は十五度か二〇度ぐらいと思いましたが、場所によっては三〇度位の所もあったと思います。というのは私が、喘ぎ喘ぎ、足を滑らしては支柱に何度も掴まりながら登った記憶がはっきりしていますので。炭層の高さは二米ぐらいでした。本坑道のトロッコが待機している所までは百米ぐらいだったでしょうか。

 長さ三m、巾六〇cmぐらいで、内側に凹んでいる鉄板を連結し、これが前後に作動するようにした装置に、採掘された石炭が投入されます。この石炭は、やがてコンペア-に入り、そしてトロッコに達します。 採炭は天井の岩盤が低いので、膝をついたり、中腰になったりする上、シャベルが日本の物より大きく、重く、背が高い私は腰痛で苦しみました。

 

  私の脇に例のジョンウエンに似た彼が居た時の事です。直前の炭層が瞬時にのしかかって来ました。未だ経験したことのないような激痛を足部に感じ、のた打ち回ったという記憶がありますが、実際は下半身は石炭をかぶっていたのですから、のた打ったという感覚は錯覚でしょう。でも、頭部に打撃をうけなかったのが幸いでした。着用していたヘルメットはお粗末な物で、金属製ではなかったからです。彼は無事でした。ベテランですからいちはやく難を逃れたのでしょう。彼は無口ですが、穏やかな男でした。でも怪我した当時は、あいつが何か叫んでくれたら良かったのにと勝手なことを思っていました。天井の岩盤がバラバラと落ちた時は、注意しろとは教えられていましたが。

 

 あの時、あの狭く低い坑道を、どのようにして、私を搬出してくれたのか、全く分かりませんでした。気が付いた時は馬に引かれた橇の上に、頭から毛布をかぶされ、仰向けになっていました。そして毛布の端から、暗黒の空を眺めていました。いつもなら粉雪の降りそそぐ夜が多いのに、珍しく雪が止んでいました。そしてこの時、私は入ソ以来、初めて、いい知れぬ安堵感を味わいました。痛みもかなり引けた感じでしたが、それは明日からの重労働が、しばらく免除されるという心の安らぎによるものだったのでしょう。人はよく、喰えなくなったら、土方でも何でもやると言いますが、でも、何時も、何でもいいから腹一杯喰べたいとしか考えていない、栄養失調、又はその気味の者にとって、重労働というものが精神的・肉体的に如何に過酷なものか、知る由もないのは当然なことです。

 

炭坑の作業は二十四時間、三交替で行われました。組交替の時は仮眠もロクに取れず、食事して又入坑ということになりがちでした。バラックの中は、人の出入りで何時もある程度ざわついています。作業から帰ってきた者、作業に出る者、食堂に行く者、帰って来る者、その他の事で絶えず人が動いています。疲労したから眠れるというものではありませんでした。労働への嫌悪感、恐怖感が募れば募る程眠れなくなります。

 軍隊の時から起居を共にした東北地方出身の栗原さん、熊谷さんも、私とは坑道が違いましたが、二人とも落盤で亡くなりました。熊谷さんは、よく祖父のことを話してくれました。私は軍隊当時、一度、彼を激しく殴ったことがあり、彼が死んでからそのことを後悔していました。 

 

 私達の隊長だった方は落盤で片足に重傷を負いました。東北出身の須藤さんは職業軍人でしたが、どちらかというと、からだのきゃしゃな人でした。私が病室を訪れたとき、「藤倉、俺はもう駄目だよ」と言つて弱々しく苦笑していました。もうすっかりやつれていました。私は返す言葉がありませんでした。あの時の顔を戦後、何度思い出したことでしょう。夕方になると、微熱が出るのです。朝37度以上、夕方38度以上でないと病人と認められなかったのです。普通の栄養失調程度では、炭坑労働は免れても、地上勤務には服します。体感温度がマイナス40度に達すると作業が中止になったようです。

 

 強制労働と言えば、敗戦の年六月に起きた秋田県花岡鉱山での花岡事件を忘れることは出来ません。然し、あのような残虐な行為はシベリヤにはなかった筈です。あれが、教育勅語で道義心を涵養し「博愛衆ニ及ホシ」た結果でしょうか。それは中国人に対する、言語に絶する強制労働だったのです。

  (続く)

朝風48号掲載 2002.3月

シベリア抑留生活(4)

栃木県 藤倉 勝三

  「鬼の第六坑道」と恐れられた所で働いたことがあります。地下水が雨のように降り、溜っている水は股まで達します。その中を木材をかかえて運んでいる自分の姿を時たま思い出すことがあります。

 その時の隊長は吉田さんという方で、私が最初に会ったとき開口一番「藤倉君この坑道で体が半年もてぱ大したものだよ」と笑いながら言われたときの温顔を今でも覚えております。

 率先躬行の立派な方でした。だが三月足らずでへぱり、地上に戻られました。

 

 私は坑道内で、ある曹長と口論したことがあります。体のしっかりした人でした。働いているロシア娘を殴り、二五年の刑罰を受けたと聞いて暗然としました。

 又ある兵隊が、頭にくることがあって、トロッコの軌道に板を投げ付けて、やはり二五年の刑罰を受けたと聞き、いい知れぬ憤激さえ感じました。異国の刑務所で、あまつさえあの苛酷な環境の下、人はどうやって生きる意欲を維持できるでしょうか。自殺さえ辞さない人がいても不思議ではないと思いました。でもまた、そのうちにきっと、減刑等の措置があるに違いないと、私は自分に言い聞かせておりました。

 

 私はある幹候出の少尉と坑内で激しい口論をしました。私は激して、思わずシャベルを強く握り返しました。 炭坑で一番苦労しているのは兵隊だ、と主張しただけの話です。ある夜、見習士官のSが、私の所へ飛んで来ました。「今M大隊長がウオッカ (ロシア人が愛飲するアルコール分四〇~六〇%)を飲んでおり、タポール(炭鉱で使う鋭利な鉈)を振り回し、お前を殺すと言って騒いでいる。呼び出しが来ても絶対に行くな」と彼は言いました。

 結局、酒飲みの例の空騒ぎに過ぎませんでした。多分口論したあの少尉が私の事をこのM大尉に御注進?に及んだのでしょう。Mは小柄ですが、きれいに手入れした航空長靴を履き肩をやや振るようにして、こぱやに歩いている所を何回も見掛けていました。

 

 炭坑で一番元気だったのはロシア娘だっと思いました。そして元気のありすぎる子がいました。

 坑内に入る前の事です彼女は、まだあどけなさの残る少年兵の上にまたがり、なんと男子のシンボルをがっちりと握り、もう一方の手は彼の胸を押さえています。

 彼は声を上げて、助けてくれえともがくだけで、跳ね返せないのです。まわりの日本人もロシア人も皆大爆笑というところでした。誰も怒る人はいなかった筈です。

 

 ある時、「オッパイが、先に出てくる、街の角」と詠んだ人がいました。

 多くの日本人から「ほう!」という同じ感嘆詞が期せずして飛び出し、皆、顔が綻びました。

 私が目にした多くの娘さんたちは、背もそれほど高くなく、骨太で肩巾もあり、がっちりとしており、何よりも立派なのは、胸を張って颯爽と歩く姿です。

 ソ聯は戦勝国とは言えど、私の見たシベリヤの人々の物資的困窮の度合いは、当時の日本のそれより遥かに惨めなものであったと言う感じでした。

 それにもめげず、炭鉱や集団農場での彼女たちは溌剌としていました。

 

 勿論内に秘めた悩みは色々と有ったことでしょう。特に死闘を繰り返した独ソ戦では、ソ連全土にわたって数多くの愛する人達が死んでいることでしょう。

 恋人達の無事帰還を祈り続けていた人々も多かったでしょう。

 私達がひとたびゲルマンスキーの語を発すると多くのロシア人は長い呪いの言葉を言ってから、ドイツ人を非難します。如何に独ソ戦が激しかったかを物語っています。

 

 ある日、衝撃的なニュースが収容所内を駆け巡りました。自ら腕を砕いた者が出たというのです。

 多くの者が唸りました。いざとなると仲々出来るものではありません。

 その人が、傷癒えて再び炭坑に行く姿を見ています。中背の人で両肩のがっちりとした人でした。肩を振るようにして歩き、少しも臆する所がありませんでした。

 左腕の肘間接部は伸びきらず、明らかに湾曲していました。「働かざる者は食うべからず」かと私は、思わず自嘲気味に呟きました。

 

 私は今でも、凄い人だと思っています。

 私達のいたケ-メルボ地区の引揚者の会が、戦後早くから活躍していて東京にありますが、私が、この会に紹介しましたら、この会が一、二年前に会合を開いたときもこの件が大きな話題になったとの事でした。

 

 カールーマルクスという炭坑がありました。そこは横坑で、地中に水平に穿った坑道で天井も高く、落盤もあまり気にせず済みました。

 一九四七年五月頃だったでしょうか、私は下肢の極端な倦怠感に苦しんで、歩行も難儀していました。

 トロッコ押しも、押すというより、それに凭れ込むというほうが正ししかったと思います。

 仲間の一人が心配してくれました。

 その頃、私の隣に寝起きしていた者が、突然、私に「「俺はやってやる」と、思い詰めるように言いました。

 彼は自分の胸を指差して「ここに書き残してある」と伝えました。

 これを聞いた私は、止めろとはいいませんでした。

 でも、この時、彼はトロッコで怪我をする気だな、と直感しました。

 

 北九州出身で一人息子と聞きました。小柄で細身でした。東京のN大学を出たと言いました。そして私は、ある漢文の教師が、朗々と読み上げ、私達生徒たちも、これに負けじと声を大にして反復、朗読したあの[節を思い出しました 「身体髪膚これを父兄に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」と。

 戦前、多くの日本人がこれを耳にし、口にしたものです。然も、彼の決意を知らされた時、この一節に、なんらかの感慨にふける事もありませんでした。

 彼に積極的態度がとれなかったのも、己の肉体の困憊による精押の鈍化、無気力に因るものだったのでしようか。

 幸い、彼はその月の身体検査で無事、帰国できました。私も次の月の身体検査で一応帰国組に入りましたが、二次検査で、はねられました。

 珍しく蒸し暑い夜でした。

 私は自分の骨太を恨み、期限の知れぬ望郷の念との闘いを思い、深く悲しんだ。

    (以下次号)

        朝風49号掲載 2002.4月

シベリア抑留生活(5)

栃木県  藤倉 勝三

 身体袱査は月一回行われます。女軍医の前に全裸で立ちます。頭は丸坊主、脇毛から、しもの毛まで剃られてあります。

 かつて「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」と戦陣訓で鍛えられた私達の姿です。

 瘠せて水腹の目立つ者、大切な所が一層、茶褐色の度を増し、萎縮している者、殊更に肩を落とし、背を曲げて、哀れみを乞う者もいました。 私も他人を嘲る資格のない一人でした。

 

 「回れ右」と彼女は日本語で言って、尻を指でつまみ、その肉付きの程度を感知し、炭鉱作業の適否を決定します。 ある身体検査の時、珍事?が発生しました。

 例によって回れ右をした者が、彼女にガスを一発見舞ったのです。御本人がご愛嬌で放屁したものかどうか、定かではありませんが、彼女にすれば天下の一大事だったのです。その擬声音を大声で発しながら、激しく彼を罵りました。

 日本人と違って大きな、力にあふれたジェスチャーを交えての非難攻撃で、彼はひたすら恭順の意を表して、ますます小さくなりました。私達は皆。彼が気の毒だとは思いませんでした。これで炭坑行きが必ず増えると確信したからです、

 

 作茉を休むのには医師の許可が必要です。ロシア人も同じと思いました。診療室に入る前に、あたためた煉瓦を肢下に入れておいて体温を上げ、休みをとる者が出てきました。これが、バレて病欠のための体温の数値が厳しくなりました。体温の低く目の人は泣きました。

 

 収容所生活も一冬を越すと、逐次、所内に、必要な諸設備が整つてきました。食堂劇場、理髪所、浴場、洗濯所、洗面所、湯沸所、減菌所、乾燥所、営倉、鍛冶屋、木工所、パンエ場、靴屋、縫工所、修理工場等々です。食堂は二〇〇名ぐらい入れるだろうとのことでした。頑丈な粗削りのテーブルと、紅茶色のまずいお湯は常時、飲めました。

 主食は黒パンで一食三五〇gでした。一個の黒パンは煉瓦状てすが煉瓦より一回り大きく、二Kgぐらいはあるとききました。特にその一面は黒茶褐色に焼け他の面より堅くなっていました。

 

 多くの者が何時もこの黒パンを腹一杯食べてみたいと思い続けていたものです。食堂で受取る黒パンは、端の部分の堅い所が多くあるのが喜ばれました。その方が咀みでがあって多く食べた気になるからです。このパン独特の強い酸っ味は慣れてくると、忘れ得ぬ味となるようです。唯入ソ当時の黒パンは、燕麦の籾殼が非常に多く、吐き出されたその殼が沢山あちこちのテーブルの上に見られました。これが歯肉にささり閉口しました。

 スープは大きなドラム缶に入っていて、炊事係が、かき回して具が均等になるようにして配るわけですが、どうしても底にたまってしまいます。

 誰もが自分の容器に、こってりとしたのが入ってくれることを祈っています。ドラム缶のスープがだんだん終わりに近付くにつれ、自分の番が回ってくる者は皆、固唾を呑んでその喜びの一瞬を待ちます。が時には低い落胆の声が上がることもあります。

 係の素早い動作で、新しいスープ缶が出現した時です。列から離れようとする者さえ出ます。怒号が飛びます。「お前取れー」。

 具は季節によっても当然少しはちがいます。ジャガいも、にんじん、粟、キャベツ、きゅうり、ごぽう、あかざ、羊肉、鮭、鱈等です。

 

 黒パンと言えば、思い出すことがあります。私が中学二年生の頃です。一九三七年 (昭和十二年) 一月ヽ全国的に有名な女優の岡田嘉子が恋人と手を携えて、雪の降りしきる樺太からソ聯に亡命したという事件が、新聞紙上に大きく取り上げられました。

 「恋の逃遊行」とかの見出しの記憶があります。当時の日本人の頭には、スターリンの支配するとても恐ろしい国という印象が強かったと思います。勿論私もそう思いました。何故あんな国に逃げるのかと考えたものです。共産主義という言葉ほ体を日常会話の中に出すということさえ、憚られたと思います。

 この頃私の住んでいる所の町内に旧制高校生がおりました。彼が共産主義に共鳴したとかで警察に逮捕されたという噂が流れました。町の人々は、あちこちで、何か自分が悪い事でもしたかのように小声で、恐ろしいことだと話しているのを見聞きしました。

 一般国民にとっては唯々日本は神の国で有り難い国だと信じ込まされ、超国家主義体制の下に生きているなどとは一般の人には夢想だにし得ない頃の私のささやかな心象風景でした。

 岡田嘉子の事にもどりますが、彼女はその後、ソ聯で生活していましたが晩年、日本にもしぱらく滞在し、テレビに出演してしきりに黒パンの味を恋しがっていました。

 

 食券は、朝、昼、夕という形で支給され朝食は、粟粥にスープ、昼食は黒パンとスープ、夕食は燕麦粥にスープが一般的だったと思います。パン券は換金(ルーブル)に欠くべからざるものとなりました。

 仲間に新潟県出身の者がいました。彼は自分の食券を積極的に売ってルーブルを貯え利息を取って仲間に貸しました。

 「体がもつか」 「これぐらいの事に耐えられなくては、日本に帰ってから金は残せないよ」これが彼と私とのやりとりでした。

 

  彼の凄さに私は言葉を失いました。私達も食券を売ることはありますが、主としてマホロカという煙草とこれを巻く新聞紙を買うためでした。これは味も香りもなかなかのものでした。多くのロシア人も好んでこれを吸いました。

 食堂内に設けられた劇場から流れてくる 「国境の町」「誰か故郷を想わざる」等々の歌を聞きながら、何度、炭坑に向かったことか。絶叫したくなるような痛切な望郷の念に如何に苦しみ、泣いた事でしょうか。

 

 岩塩が支給されるので、これを何時も所持しています。私は岩塩を使用しているうち、ある方法を知りました。仲間に話したことはありません。身体検査の前夜、湯茶に大量の岩塩を入れて飲みました。女医は私を見て、「オーチンニハラショー」と唸りました。私は、むくんだ顔になり、待望のコルホーズ行きを仕留めました。

       (以下次号)

         朝風51号掲載 2002.6月

シベリア抑留生活(6)

栃木県 藤倉 勝三

 シベリヤにもようやく夏が訪れると、身も心も凍てつく冬の陰欝さを嘲けるかのように、緑の大地に花、花。そして花が一挙に咲き出して、その美を競うかのように我が世を謳歌します。

 薫風駆け巡る広野を行けば、痩せさらぱえた我が胸の内、深くまで青一色に染まる思いです。

 あれから五十年有余の歳月が流れましたが、自然に接して、これ程の心の高鳴りを感じたことは他にありませんでした。

 

 日曜日は行動が自由でしたので、あちこちと人家を訪れています。

 減菌されたシラミのたまごの外皮だけがあちこちに目につく袴下(ズボン下)を持って、とある粗末な家を訪れました これで黒パンを手に入れようとしました。出てきた初老の農婦が私の意向を心良く引き受けて呉れました。彼女は、はだしで出掛けました。私はちょっと驚きましたが、これは珍しいことでなかったのです。見事な黒土地帯なので、小石というものが非常に少なかったので、怪我はしなかったのでしょう。

 農場で働く人は別として、一般には底の薄い貧弱なズックを履いていたようです。

 

 昼時、彼女に会いました。「サルダート(兵隊)」と呼び掛け、午前中一杯、あちこち歩き回ったが駄目だったと、ジェスチャーを交えて話し、まるで自分の責任でもあるかのような悲しい顔をして、その袴下を返しました。肩幅のあるガッチリした両肩、そして太く逞しい首をしていました。

 

 捕虜で、そのうえ風采もあがらないこの薄汚い日本人に対してのこの親切さに、感激の情も押さえ難く、いつしか私の視線は、彼女のうなじの方に向けられていました。

 そこには、日本人より太く長い白色の産毛が何本も日に当って輝いていました。その部分はひときわ、日に焼けて、肌も荒れて、むさ苦しかったのですが、私にとっては終生忘れ得ぬ心象であり、悲しいまでのなつかしさを伴う追憶として、私の脳裏に生き続けて呉れることでしょう。

 

 「戦時期日本の精神史」 (一九三一~一九四五) 〈鶴見俊輔〉では「極光のかげに`(高杉一郎)に触れ、『高杉は捕虜に割り当てられた労働を監視する役人達のずるがしこさ、それと対照的にロシア人が捕虜達に示す、ケタはずれの親切とを併せて描いています。

 過酷な官僚制度とは別に、ソビエト体制などというものを乗り越えて、超時代的に生きているロシア人民がそこに存在することがわかります。長く待っていた祖国への帰還がかなったとき、高杉は彼の仲間の捕虜たちに、日本へ帰ったら食事のためにここでつくった長い長い列のことを懐かしく思い出すだろうな、と話したそうです。というのは、言いつけられなくとも必ず列をつくるという習慣の中には、彼の想像するところ、日本ではまだ不足している平等の精神が宿っていると彼は信じていたからです。この平等の精神は彼の見るところ、ロシアの社会生活の岩床としてそこにしっかりと存在していました。

 それは高杉の信ずるところによれば、革命がロシアにもたらしたものでした』と評しています。

 

 又「白きアンガラ河-イルクーツク第一捕虜収容所の記録」 (伊藤登志夫)にも言及し、「捕虜達はロシアの女性が当時キャベツの芯までかじっていたということを見るだけの現実把握をもっており、そのキャベツの芯は固くて、あまり食べやすいものでもないし、おいしくもないということから、当時ロシア人全体が栄養失調や食糧不足に苦しんでいたのであり、日本人捕虜だけがそうであったのではないということを認識しています』と述べられております。

 

 ある若い夫婦の家庭を訪れたことがあります。幼い男の子が一人いました。夕方近く、曇った日でもありましたが、家の中がうす暗く、すでにカンテラが一つ灯されていました。農場には電気は引かれてないので夕食が早いのかも知れませんでした。

 貧弱なテーブル上には主食として黒パンとゆでてペースト状にしたジャガイモがありました。私の経験した限りでは、ジャガイモは皆こうして主食として食べていたようでした。おかずはキャベツの漬物、もう一品は魚か羊肉の煮付けたものが少し皿にありました。若い夫はまことに無愛想でした。

 

 石鹸を出すとニナーダと言って取らず、黒パンを少し渡して呉れました。でも私を見下ろす風は感じられませんでした私は彼がすごく内気な男だと思いました。

 一度、ノックもせず人家に入ってしまったことがあります。大きな悲鳴が聞こえ、簡単なベッドの上に小柄な娘が坐っていました。パンツーつでした。家の人は誰もいません。彼女はノックをしない私の非礼を責めたが、すぐに椅子をすすめて打ち解けて、ああお前はヤポンスキーかと言って笑いました。

 

 話しはまた炭坑に戻りますが、その時の坑道長の一人にザベリンというロシア人がいました。年齢は五十歳前で、ちょっと細目ですが精悍な面魂、引き締まったすらりとした体躯を備えており、その内股気味の立ち姿は今でも鮮やかに私の脳裏に甦って来ます。顔が長いので私達は馬と呼んでいました。ダワイダワイと常に叫び、日本人に喝を入れました。彼が優良労働者のうちの一人として私を選んで呉れたので、百ルーブルを貰ったことがあります。坑道が変わってから、彼に坑道外で偶然会いました。

 

 私の急激な体力の衰えに驚いて「藤倉、ポリショイーナチャニックの署名を得て早く日本へ帰りなさい」と言いました。彼の赤い頬、やや甲高い声の早口も今となっては忘れ得ぬものの一つとなりました。

 

 村の一隅に小さな集会場風の建物がありました。何か授業をしているので中に入ったところ、中年の紳士風のロシア人が青年たちに英語を教えていました。

 私はひどく心を打たれました。独ソ戦で疲弊しきったこの巨大な国の大地の果てに、電気もなく一点とも言える所で、戦後直ぐに外国語を学習しているのです。そして私達が初めて収容所へ向かう途中で「カランダッシーイエス」という声を少年達からしきりに浴びせかけられて驚いたことを私は思い出しました。鉛筆を必死に求めていた彼等の顔はまことに印象的でした。

         (以下次号)

       朝風52号掲載 2002.7月

シベリア抑留生活(7)

栃木県 藤倉 勝三

 農村に点在する家の多くは箱形をして、その最上部はコークスが敷かれていました。私は、あんなことでは雨漏りが心配だとよく気にしました。家屋の最上部に設けられる、覆いの部分に当る屋根がないのです。

 家の外側は粗削りの板を無雑作に取り付け板の内外は石灰を水で溶かして塗りつけてあります。家に入ると石灰の臭いを先ず感じたものでした。簡単な窓でしたが、あの寒気を防ぐために当然二重窓にしてあります。

 入ってすぐ左側にペーチカ(暖炉)があります。すぐ隣りに豚一頭分が入れる木の枠があり、冬は豚もここで同居?します。

 その部分には何も敷かれてありませんが、清潔になっており、匂いを全く感じませんでした。

 

 私は一度、ロッジ風の家の建築の雑用に使われたことがあります。あれだけの木材を豊富に使うのですから、かなりの権力を持っていた者だったのでしょう。外壁になる太い丸太を積み重ね、これをかすがいで固定します。丸太間の隙間は苔で塞がれ釘は全く使われませんでした。ただ、場所は忘れましたが、木の釘を使っていたのを目にしています。

 

 夏も終りに近づくとコスモスの花が見事に咲き出します。「極光のかげに」の著者が「帰国のために九月、ナホトカの丘を下って埠頭へ向かうとき、丘一面にコスモスが咲き乱れてきれいでした。今も忘れられません」と、ある雑誌で言われていました。

 

 農村の一隅で偶然、赤、白などの清楚なコスモスの花に固く抱擁された小屋に触れたとき、私は思わず立ち止まりました。僅かに垣間見ることの出来るガラス窓からは人の気配は全く感じられません。ぐるりは静寂そのものです。

 私はいい知れぬ安堵感に満たされ無心に立ち尽すのみでした。

 

 遠くに人家が点在する小道で、私は立小便をしました。前方に女性がこちらに向かって来るのは分かっていましたが、私に接近する迄には用を足せると思っていましたが意外に早く来てしまいました。

 背の高いすらりとした三十歳前後の婦人で明らかに農婦ではありません。注意の仕方が最初から威圧的です。

 私が無視したので、彼女は激怒しました。なぜ立小便でこれ程、怒るのかと思った程です。私は少し恐くなりました きっと組織の幹部の主婦だと思いました。私の方から逃げるようにその場を離れました。

 戦後になっても老齢の女の人がよく立小便をしていたのを目にしましたが今でも外回りの会社員が交通の激しい町外れの道路脇で用を足しているのを見ることがあります。

 

 私は春になると、一寸した山草を採るために山に入ることがありますが必ず周囲の状況を見て用を足します。

 遠い、遠い何千キロも彼方の文化の一滴も及ばぬような僻地での、あの一件でも、他者に対して何らかの羞恥心や嫌悪感を与えた事は明らかであり、日本の都会の至る所で酒で醜態を演じている人達の行動も本質的には同じ様なものと私は考えています。

 

 私はシベリヤから帰って三十年間ぐらい、よく変な夢を見るようになりました。それは前夜、夕食を食べ過ぎた時です。なんと排泄行為です。間に合いそうもなく、する場所を必死に捜し回っているという誠に馬鹿げた話です。

 原因は明白です。集団農場での生活中、二つの場所に住みました。最初の家は棟割になっており、隣りは私達と同じく二十名足らずのロシアの娘さんがいます。朝食後→排便して直ぐ仕事に出ます。

 

便所がありません。家の周りの草叢が共同便所です。皮肉にも目的を達したいと思う場所の選定は同じなのです。私は今でも、はっきりと感心したことを憶えています。

 「人種は違っても、あれを出したいと思う場所はほんとに似ているものだ・・・」

 誠に臭い、くだらない話です。そして少くも二、三回、しがみこみますが、すでに健康的で逞しいものが既に占拠しています。

その度に、あれをこらえて必死に場所を求めてうろたえました。

 

 広大な農場ではコンバインを使って燕麦などの刈入れと脱穀を同時的に行います。

 待機しているトラックにそれを積み込むのが私達の役目でした。大きなフオークを使って乾草を高く積み上げる作業は大変にきつく、私達にはそれ程の体力は残っていなかったようです。

 九月中旬に雪に降られたことがあります。

 風があるのでマッチを使って煙草が吸えません。カチュウシヤと呼んでいた火打を使いました。あんな簡単に火がおこせるとは想像しませんでした。

 ヤスリの破片と綿は、すぐに手に入りました。硬度のある適度の大きさの石を黒土の中から探すのは少し骨が折れました。小川にはアサリより大きな貝が非常に多くいましたがロシア人は食べなかったようです。

 みぞれの落ちる夕方、葉もわずかにしか残っていない一寸とした木立に沢山のきのこを見つけ、料理係りが出してくれたその味は今でも忘れられません。

  (以下次号)

  朝風53号掲載 2002.8月

シベリア抑留生活(8)

栃木県足利市 藤倉 勝三

 羊飼いといえば詩情もあるでしょうが。へどろしか食わせてやれない豚の一群を追いながら寂寞たる原野を一日歩き廻る仕事を与えられるとは、未だかつて想像だに出来ない事でした。

 朝、村の一角に、私は立ちます。農婦達は一頭ずつ連れて来ます。

 

 十五、六頭集まると出発します。ボス役の豚が必ず現れ先頭に立ちます、村の外れから名ばかりの細い道が伸びていますが、やがては広野に吸収されて消滅してしまいます。

 右側は進むにつれてゆるやかな丘陵地帯がますます盛り上がり、帰路に向かう頃は右側の視界は、天空以外は完全に遮断されています。左側は平坦な原野です。

 

 まだ広大なジャガイモ畑が緑一色の大海の如く光り輝いている八月中のことです。

 夜の九時頃です。村に駐在していた若い兵が私達の小屋にやって来ました。まだ部屋に唯一のカンテラの火が灯されていました。

 「豚がI頭帰っていない。係りは誰だ」と言います。そして所有者の農婦が一人そこに立っています。これから探せと言うのです。

 私はがっくりしました。睡眠不足になれば明日の労働はとても無理です。

 一体電気も通じてない漆黒の闇の中をどうすれば良いのかと思いました。でも彼女は慣れたもので私の通ったコースをどんどん歩いているようです。その間しきりに豚の名を呼んでいます。豚に名前があるんだと私は少し感心しました。

 二、三十分たちました。なんと飼い主の呼び声に応じて仔豚が飛び込んで来ました。

 彼女は若き母親がいとし子を抱き上げ頬摺りするかのように二、三度、キッスをしました。日本では一寸、考えられないことでした。私は感激しました。

 朝、私が豚を連れ出す時、この仔豚は明らかに居なかったので、後になって母豚を追ってジャガイモ畑に入り、動きがとれなくなったのでしょう。

 

 九月になると冬に向かうスピードが次第に速くなります。曇りの日、雲の暗さ、その厚みが何れも増えてきて、重く私にのしかかります。

 豚は大きな沼に着くと必ず岸辺のへどろに猛然と襲い掛かるように食い付きます。

物凄い食欲です。ほんとうに豚が羨ましいと思いました。

 豚は満州でもそうでしたが黒の斑点がありました。寝ている間、入が何か夢を見ているような言葉を発することがありますが、豚も何かそんな感じの声を出すことがあるので、私は豚も夢を見るんだろうかとその時思ったことが何回もありました。

 豚は小一時間程でブウブウ言いながら立ち上がります。それまで私は豚に密着するようにして僅か二〇㎝前後の枯草の中に顔を突っ込むようにして寒風を防ぎます。

 頭は戦闘帽、上衣はフハイカと呼ばれる刺子織りで綿入れの作業衣、ズボンは軍袴、靴は炭鉱で働いているとき使用レたゴム長靴を膝下まで短くしたようなものを、それぞれ着用しました。

 冬は勿論、頭の天辺から足の爪先まで、ロシア人と全く同じ服装になりますので、外観からは日本人と区別はつきません。

 その上、東洋系のロシア人も多くおりますから。真冬の服装になると外での私達の仕事は当然限定されます。

 

 私は豚追いをしているとき、狼に襲われるのではないかという恐怖心を強く持っていましたが、それは全くの杞憂でした。

 そして地の底の炭坑で働いている時も、豚と共に行動している場合でも、特に疲労の度が激しい状態の下で生ずる幻想とも言うべきものに時々悩まされました。

 日本という国が果たして遥か彼方に存在しているのだろうかという誠にたわけた思いでした。

 

 美術評論家、山口泰二氏の評論の一部を引用させて戴きます。「シベリヤ抑留は。過酷だった」などという言葉は実際に体験したものにとっては言葉の空虚さを意味する以外の何ものでもないだろう。

 厳寒のもとで、心身ともに反応は衰えた。衰弱した戦友を葬るのさえ硬く凍った大地が拒否した。

 いっさいの希望を捨て、その日その日が過ぎるのに身を任せなければ、精神の摩滅を防げなかった。」私は特にこの最後のくだりに深い共感を覚えざるを得ません。

 

 再び豚の件に戻ります。へどろをたらふく食べた、私に言わせれば幸福な動物達は、むちに追い立てられるようにして北へと進みます。

 突然、先頭のボスが頓狂な声をあげたことがあります。驚いて私は周囲を見回しましたが外敵と思える物は皆無です。

 彼は一転して帰路に向かって脱兎の如く走り出しました。子分達も瞬時に続きました。豚の俊足に唖然としました。

 

 シベリヤの豚でもやはり豚なみに脂肪を付けています。然も、あのきゃしゃな短足です。

 それなのにあのスピードには圧倒されました。予期したように二、三の農婦から激しい怒りの言葉を浴びせられました。多分、猫の額ほどの畑の農作物が豚に荒らされたからでしょう。彼女達からすれば当然の言動だと思います。

 皆とても貧しいからです。

 二度、農婦から豚の世話をよくしたと言って牛乳を飲ましてくれたことがありました。

濃原飼料を全く使っていないので、雑草の臭いが強すぎて飲むのに苦労しました。

 

 シベリヤから帰国して五四年になります。

集団農場での生活で、よく思い出す、特に忘れ得ない光景もありました。

 雄大な地平線の彼万に正に没しようとする夕日に向かつて、合唱しながら帰途につくロシア娘達の姿はあまりにも見事でした。

 頭から頬にかけてスカーフをかぶり、上衣はフハイカ、厚手の木綿のスカート、脛の中程まで達する靴を着用し、互いに腕を組み、大股に、しかも躍動的に歩きます。戦勝国といっても、あれ程貧しかった国です。

 炭坑でも農場でも一番元気だったのは彼女達でした。

 

 尤も何れの職場でも若い男性は非常に少なかったと思います。かつて多くの日本人も恐れた独裁者のスターリンはまだ存命中でした。

 でも彼女達の士気の高揚を目にするたびに、この国は、人として自由な精神の根源まで抑圧した神の国ではなかったという思いを強くしました。

                     (以下次号)

  朝風54号掲載 2002.9月

シベリヤ抑留生活(9)

 栃木県 藤倉 勝三

 十月に入り、やがて農場を去る日が来ました。約五〇キロ離れた収容所からのトラックが着いています。 二重、三重にそれを取り囲むように村人の人垣ができました。 私がまだこの輪の外側にいた時です。突然歓声が上がり拍手と八ロショーの言葉が噴き出しました。

 何事かと思い背伸びをして顔を突っ込むと、なんと、仲間の一人とロシアの娘が、しっかりと抱き合い、熱い口付けをしているのです。

 一瞬、目を見張りましたが、やがて、いい知れぬ感動に転じ、あばら骨も見えた私の胸底に静かに滲み出て来た心の温もりは、長い歳月を経た今も忘れ難いものとなりました。

 

 このようなシーンが、当時、日本で生じたら、どんな反応が生まれるでしょうか。

 勿論、抱かれているのは日本の娘さんで、相手は外国の捕虜です。

 教育勅語で徹底的に教育された日本人でしたから「博愛衆ニ及ポシ・・・」の実践として日本人は二人を祝福するでしょうか。

 それとも、大和撫子も地に墜ちたりと悲憤懐慨して国賊呼ばわりにするでしょうか。

 

 私達が住んでいた農場の近くにドイツの捕虜達が住んでいました。ドイツ人に接した多くの日本人が、その手記でも触れていますが、ドイツ人としての誇り、団結心の強さ、に感心しています。

 作業上の事で、そのグループの長が激しくロシア人の現場監督と遣り合う舌鋒の鋭さに圧倒されます。

 

 ロシア語が堪能な指揮者が多かったと思います。場合によっては現場から引き上げたという事も耳にしました。

 私が収容所に入って間もない頃でした。ドイツ人も近くのバラックにかなり居りました。

 空腹に耐えかねて、私は襦袢を持って黒パンと交換するためにそこへ行きました。

 入口から出て来た男に交換条件を話すと彼はすぐ戻ったまま、何時になっても出て来ません。

 おかしいと思って出て来た将校にその一件を話すと彼は即座にゲルマンスキー(ドイツ人)はそんな事はしないと極めて強い口調です。

 彼が繰り返した語の中にルーマニア人を意味する英語の発音に一部似ている点があったので、ドイツ軍の捕虜になったルーマニア人が犯人かも知れないと私は考えました。

 

 私が言葉を交わしたドイツ人の多くから出て来た第一声は「パパー、ママーイエス」でした。初対面の異国人にその両親の存否を問う彼等の精神文化とは如何なるものなのでしようか。私にとっては非常な驚きでした。

 シベリャの日本人からすればその両親は何次的存在になるでしようか。

 

 あるドイツ人は上衣の裏側からやや変色した小さな写真を優しく取り出しました。なんの変哲もない家の前に家族全員が立っています。

 この一葉の写真がシベリャで悲境に立たされている愛する肉親の唯一の生甲斐になっているとは家族の誰もが、恐らくは夢にも想像しなかったと思います。

 (以下割愛)(終)

  朝風55号掲載 2002.10月

鎮魂の旅 1

《埋葬地に建造物 密林に露出する遺骨》

                                                                                   北茨城市 石森 武男

☆悪夢にうなされる日々

 引き揚げてきたばかりなのに、町役場の人が手紙を持って釆た。書面には『寒さに慣れた貴方に、もう一度シベリアに行ってください』とある。どこかの港から乗った船はシベリアに看いた。

 

 雪に埋もれた大陸の岸壁から大きな貨物船に乗った。船室に防寒帽を目深に被った兵隊がひしめき合っている。この兵隊を連れて帰ればいいのだ。船は荒海を弾丸のように走る。あっと言う間に我が故郷の沖合に到着した。

 何処もかしこも真っ赤に錆びたこの船は錨を下ろしたまま、兵隊の降りる様子がない。其のうちに背中を向けた兵隊が一人、二人と下船してゆく。彼らの後に下船しょうとする私の荷物がない。荷物を探しているうちに、船室にひしめいていた兵隊が音も無く消えていた。

 

 慌てふためく私の耳にひびく異様な呻き声は、亡者(亡霊)だったのだ。私の周りから離れない。私を恨んでいるかのように亡霊は恨めしそうに、何かを訴えたいのか私の目の前を舞うようにす-つと横切って天井の彼方に消えていく。私は叫んだ。

 「みんなが命亡くしたのは俺のせいではない。たしかに見殺しにしたのは申し訳ないが、おれだって死ぬか生きるかの境にいた。仕方なかったんだ。恨まないでくれっ」

 「南無阿弥陀仏」を唱えようとするが声がでない。

 

 いっしょに乗った兵隊は亡者だったのか? 私はその妖気が漂う暗い船室にいた。そこに得体の知れない大勢の兵隊がいる。みんな痩せこけて目がドロンと鈍く光っている。

 青ざめた頚、どす黒いくちびるは声を発しない。荒海の船底に転倒して這いつくばる私は、必死で亡者の船から脱出した。私は腰に巻いた荒縄にすすけた飯盒をぶら下げて、吹雪の中を収容所にいそいだ。その背中に亡者の追う気配がする。亡者は執拗に追ってくる。必死で逃げるのだが金縛りにあって足が動かない。

 なおも襲ってくる亡者に怯えて絶叫する私は、「ひ-ひ-つ」と首を締められる断末魔の声を発するだけ。その悲鳴に家内が驚いて私を揺り起こす。夢から覚めた私の心臓は早鐘を打って肩で息をしている。こんな夢にうなされる夜が度々ある。

 

 地吹雪の中、前方から馬横が二台雪を蹴って近付いて来た。馬が吐く息で栗毛が真っ白に凍ってタテガミのツララがカチカチと音を立てる。橇に向かって、「収容所まで乗せてくれっ」と叫ぶと、「ルルーツ」馬棲は止まった。御者が、 「ベストラ、早く乗れ 」と急かせるので、慌てて荷物の上に飛び乗った。すると、荷物の中で「ボキッ」と何かが折れる音がした。

 御者は構わず橇を走らせた。逆戻りになるが、御者に任せるしかない。荷物が気になって被いの中を覗いてみると、何と下帯一本の凍結した裸の死体が三体横たわっている。仲間の遺体だ。

 あの音は骨が折れた音だった。

 

 「許して」手を合わせて謝った。埋葬に行く橇だった。橇は凍った大河の真ん中に停った。御者が「水葬だ。手伝え」と言うので、先の尖った金棒で厚い氷をザック、ザックと水面に貫通させた。無念にゆがむ仏たちの顔はみんな髭面だ。目をばっくりひんむく亡骸を足の方から氷の穴に滑らした。瞬間、亡者の手が私の足にからみ付いた。地獄へ引き落とされる、例えようのない恐怖に怯えて絶叫する。

「ひい-、ひい-つ」と断末魔の悲鳴に驚く家内に、私は強く揺さぶり起こされて、翌朝、「ゆっくり寝させて」とこぼされる。

 夢が私を苦しめるので「何の罰か」と独り悩んでいた。

 

☆兄弟以上の親友

 伐採事故で命失った中山君と披の相棒だった大野君は、私にとって無二の親友であった。友を失った衝撃に打ちのめされ、心に痛手を抱えたままノルマ伐採を続けなければならなかった。

 収容所の裏山に中山君の亡骸を埋葬に、ただ一人立ち会いを許された大野君が丸太を片面斧で削って「中山 仁」と墨書きした碑を建立。それから間もなく大野君は帰国したが、私だけ帰国に漏れた。

 中山君は軍人でなく満蒙開拓員だった。事故で死亡した時十九歳だったと記憶している。彼と同じ満蒙開拓員だった大野君は、俳人でもあり絵も描いりした。

満州での句誌『俳句満州』に、

 

 雲鎧う深山に赤き

              ぶどうかな

 

 高粱に鞭音高く

            秋澄めり

 

の句を遺している。熱血で一途な性格だった彼は晩年病に倒れた。病床に臥せ、己れの余命を悟ってか、

 

 八十の坂月見えれど

    ついに届かず

 

  この句を詠んで間もなく、八十歳の誕生日を目前にして永眠された。

 ご夫人が披の句集を作り、私の家まで届けに来て下さったが句集にはシベリア関係のは一句もない。事故死した友を想い、触れたくなかったに違いない。

 コムソモリスクに三年を過ごし、ナホトカから再び沿海州奥地に逆送され、大野君と組んで伐採を一年余り、寝食を共にした兄弟以上の仲であった。

 晩年お互いにご無沙汰がちで、披が二度日の病床に臥せったのを知らずにいて悔やんでならない。

 

☆悪夢に悩む人が他にもいた

 シベリア抑留体験者である御前山村の子森酒造さんから頂いたお手紙によると、

『私たちのシベリア抑留は何の為だったのか。私もソ連に抑留されてあんな酷い目に合って、よくも生きて帰れたと思っています。同じ境遇に合った者同士でなければ分りません。

 三年余りの抑留期間は無我夢中でした。あれから五十年余り、生還の幸せをかみしめて、今は夢のようです。

 満州撫順の警備中にソ連が侵攻し、シベリアに連行されました。抑留体験記を読んだ私は、何十年も前の抑留生活が瞼に浮かぴ、それが事もあろうに夢に現われ、ニ晩も続けて悪い夢にうなされてしまいました。

 

 体が覚えていたのか、とっくの昔に忘れていたはずなのに、頭脳のどこかに刻まれていたのです。あの恐ろしさは抑留された者にしか分かりません。現代の人にいくら説明しても理解して頂けないのが歯がゆいのです。私たちは死ぬまで忘れることはできません。

 

 奉天、新京と経由してソ連に連行される時、形ある物資は紙l枚まで貨車に積み込んでソ連に運んだ。その積み込み作業に夜も昼も休みなくこき使われました。それから貨車の中に閉じ込められ外から施錠されて、小便はわずかなすき聞からやった。そうして貨車は何日も走り続けました。

 やがてムール河沿いの野原に降ろされ何名かずつ小船で河を渡り、ブラゴエンチスクの町外れで、l週間ほど野宿したら、急に雪が降り出してきて夜、寒くて眠れませんでした。

 小さなテントに十五人ほど重なるように寝て、食料は切れ、飲む水もなく、寒さをしのぐ燃料もなく、心細い日が続き、飢えて干乾しになって、凍死するんじゃないかと、とても心配でした。

 

 そしてまた、貨車の旅が始まったのです。文字通り真っ白な粉雪の広野を十五日間も走り続けて、やがて四棟ばかりの小さなラーゲルに入りました。約千人ぐらい居たと思います。片側に小さな窓があって中は薄暗く、夜は裸電球-個だけで薄暗く、食事分配はほとんど手探りでした。

 バラックにニメートルぐらい雪が吹きだまり、宿舎の入り口の扉が開かない時がしばしばありました。ダモイ、ダモイと嘘をつかれ通して、やっと四十七年七月、本当の帰国命令が出て汽車に乗ったはいいが、ナオトカの北東のセルゲイフカに入れられたのです。そこまでの移動中は一日一食でした。二人一組になって二人挽きのノコギリで大さな木を倒す、初めての伐採体験でした。

 腹がへってタボール(斧)振るにも、ビラー(ノコギリ)引くにも力がなくてホントに苦労しました。それがついこの間のように思えてきて、辛さが込み上げてきました。

 

 『この手紙を書いているうち、自分がみじめになって嫌な気分になってきたので、この辺でやめます。その年の十一月、雪の中の伐採をやめて今度はホントにナホトカに行きました。そこで仕事をしながら船を待ち、吹雪に追われるように帰国船の遠州丸に乗ることができました。

 あとは涙・・・涙・・・涙・・・たいへん失礼しました。』と悲壮な文面であった。

 

☆鎮魂「凍土に眠る我が戦友よ」(省略)

   

(続く)                                        

朝風82号掲載 2005.2月号

 

鎮魂の旅 2

北茨城市 石森 武男

◆四十六年目の基参

 とつぜんシベリア墓参旅行が決まった。福島で鉄工場を営む戦友の関根君からの連絡である。

 彼は上野駅新幹線のホームで私を待っていた。私は復員後初めての訪ソだが、彼は前年にハバロフスクで開かれた日本物産市に出向いており、今回は二度目であり、態度に余裕が見られた。

 

 新潟行列車の予約席に着くと、彼はこの墓参の発端について語ってくれた。

 「二度と来る機会はないと思っていた。終戦でコムソモリスクに連行された時は一面雪野原だった。気温は零下三十、四十度と日増しに下がった。いくら寒くても屋外作業を強要された。空腹と寒さに耐えながら力尽きて次々と仲間が死んでいった。その頃自分もついに栄養失調に倒れた。軽作業所に入れられて、ある程度元気を取り戻した時、街中の第五収容所に転属になった。 

  水道工事の穴掘りなどを約半年くらいやった後、街から二十キロほど山奥の小さな収容所に移された。人員百名ほどの伐採専門の収容所で、伐採初体験のため、能率が上がらず皆に敬遠された。なぜなら栄養失調あがりのやせ細った身で、危験を伴う超重労働の伐採作業をしなければならない。

 

 そんな中で、富山県出身の鎧塚正吾という古年兵がよく面倒をみてくれた。もちろん彼を兄弟の様に尊敬して親しくなった。

 鎧塚氏は、家業の船舶機械工場を継いで運営していたが、召集で兵隊にとられ終戦でシベリアに連行された。自分は早稲田に在学中、学徒挺身隊として中島飛行機製作所で、制作部門を経験した技術屋同士として意気投合。「絶対生きて帰ろう」と誓い合い、いっも故郷の話題になった。

 ある時、作業の邪魔になるブルドーザーを俺が動かした。それを知った収容所長が、「ブルド-ザとトラックを使って、収容所に入る湿地に自動車道を作れ」と我々に命じた。所長の指示に従ってブルド-ザーを運転、鎧塚がトラックを運転して工事を進めた。

 

 湿地帯に橋を渡すように太い丸太を渡し、その上に細い丸太を横にぎっしり並べて、その上に採石砂利をトラックで運び入れて道の形を作った。その路面を車両で踏み固めて立派に完成させた。それまでは収容所の食料や燃料などはぜんぶ人力で運転したから、所長も誰も大いに喜んだ。

 二人の技量を見込んだ収容所長は、今度は、建築経験もない我々に宿舎の増設を命じた。丸太を積み上げるログハウス式だ。幸い助手に器用な人がいたので助かったが、大工道具など何もない。タポール(斧)とノコギリだけだ。作業班に手伝いを受けて無事完成にこぎつけた。

 

 約十坪の新居に早速ひっ越して喜んだものの、この収容所には電気がないんだ。暗闇の部屋に、白樺の皮を燃やした明りで食事の分配をしたり、食事の後片付けをしたり、寝る所には皮を燃やす油煙が部屋に充満して、日の周りも鼻の中も、耳の穴まで真っ黒けだ。喉が苦しくて手拭いでマスクしたが、唾や痰が黒い塊になって、真っ白な雪がグロテスクに染まった。「これじゃ病気になってしまう。所長にお願いして自家発電を作ろう」といぅことになり、二人で密かに投計図を作った。発電機さえあれば送電するまでの自信もあった。だが、発電機や必要な資材をどうやって入手するかが問題だった。そのうち思いついた。「前に働いたことがあるアムルスク-リ製鋼所のスクラップの山を、満州から運んだ機械類を探せば可能性が高い」と判断した。

 

◆自家発電

 さっそく収容所長に設計図を見せて発電計画を進言した。言葉は通じなくても二人の熱意が伝わった。所長もそれが懸案だったと言って直ちに許可をくれた。

 所長が同意したトラックで街のアムルスターリ製鋼所の、スクラップ置き場に直行した。山積みした戦車や装甲車の下積みになっている、小物機械を取り出すのも腕力たよりで大変な作業だった。一日がかりで探したが、手頃な発電機が見当たらず作業は行き詰まった。

 

 「仕方ない。こうなったら大変だけれど、手頃なモーターで発電機を作ろう」ということで、計画を変更した。一方の鎧塚君は、幸いに焼き玉エンジン発動機を取り出すことに成功して、何とか道が開けた。

 全く資材の乏しい国で、捕虜がスクラップで発電設計を作るという、全く無謀な計画だった。電線には鉄線を使い、工具のスパナーもない。スパナーは手頃な鉄材を炭火で焼いて自分で作った。

 

 ハンマー一丁とタポールを使って作業を開始したが、かなり不安はあった。ただ一筋に、電気を灯すという熱意だけが二人を作業に没頭させた。

 工具を作ったり、作業小屋を作ったり、準備に手間取って、肝心な発電機の形が見えないのに、所長は困難な状況を分かっていながら急き立てた。言い訳の言葉も通じないもどかしさ。

 

 「意地でも完成させてやる」と意気込み、連日焚き火の明りで残業もやり、忙しさに空腹さえ忘れさせた。

 すでに予定日は過ぎて、冬は目の前に迫っていた。凍結前に完成させねば苦労が水の泡になってしまう。伐採仲間たちの手前、面目にかけて頑張り通し、やっと完成させた。

 そして原生林の中に、焼き玉エンジン音が快調に「ボンボン」とこだまして、収容所長が調達した裸電球が、室内に明々と灯ると、宿舎の中から拍手と歓声のどよめきが起こった。

 

 「その時に味わった、達成感というか、誇らしい気持ちは今も忘れない」と話は続いた。

 発電所の完成を待つかのように、山は雪に包まれ魔の冬が訪れた。再び命を与えられたボンコツ機械は、時には駄々こね、ネオンの様についたり消えたりしながらも順調に送電した。そこで、機械当番を鎧塚君に任せ、自分は雪山の伐採作業に出た。しかし、室内温度に慣れた体で、急な雪中伐採作業は長続きせず、診療所の軍医に事情を訴えたところ、パン工場勤務を指示された。

 

◆さいはての子守歌

 俺の昼食分のパンを鎧塚君にやって、俺は手ぶらでパン工場に出勤した。工場の昼食は柔らかいパンを好きなだけ食べられた。帰国するまでずっとここで働きたいと思って一生懸命働いた。そして仲間に少しでも持って帰ろうとしたが、帰る時番兵の検査があり、見つかったら出勤停止だ。でも何とか持ち出そうとして、工場の近くの小川の岸の草むらに黒パンを一本隠しておいた。

 なんと、そのパンが維かに見つかって盗まれてしまった。次の日は警戒してずっと離れた所に隠した。やはり同じ者の仕業なのかそれも盗まれた。匂いがしたのか? 自分は工場内の匂いに慣れて無感覚だったから。で、一本丸ごとは諦め等分に切り布に包んで隠した。これは盗まれなかった。

 

 パン工場の日本人は自分一人だった。ある日、仕事を終えて帰りぎわ、箱詰めの鮭を積んだトラックが一台入ってさた。工場長が、「荷降ろし、手伝って帰れ」と指示して帰った。荷物をロシア人運転手と二人で倉庫に運び入れ、最後の箱を運転手の指示で、地面に叩き壊し、中で鮭を山分けにした。運転手は座席の下に隠したが、自分は腰の周りに紐で四本もくくりつけ外套で隠して帰った。消灯時間過ぎたが、顔馴染みの歩哨に一匹献上して、門を堂々と通過した。

 

 宿舎に寝ている鎧塚君を叩き起こし、「新鮮な鮭だ、食って寝ろよ」と、凍った鮭を丸ごと渡した。彼は噛み付いたが凍って歯が立たない。そこで、「待て、包丁借りてくる」と言い、無人の炊事場から包丁を持ってきて、切り身を作った。包丁を返しに炊事場へ慌てて入った為、暗闇の中でつまずいて叩っき転んだ際、ガラスか何かで右手の親指の付け根をパックリ切ってしまった。

 

 暗闇に、生ぬるい血がバシッとはじいた。慌てて腰の手拭いでぐるぐる巻きに、青くなって部屋に戻った。驚いた鎧塚君と二人で診療所に軍医をたたき起こした。寝ばなを起こされて少しご機嫌悪い軍医は、麻酔もせずに傷口をぷつりぶつりと縫いはじめた。一針一針と縫合するあまりの痛さに失神してしまった。治療を終えてから、「弱虫だなあ」と軍医に大笑いされてしまった。

 

 その頃、所内に民主運動が盛んになった。民主運動を唱える奴が、「電気当番なんか誰でもできる。交替でやるべきだ」と言い出した。みんなも、そうだ、そうだ。平等にやるのが民主主義だ!」と呼応して電気当番は輪番制になった。しかし、故障の場合はやはり、二人の技術に頼るのだった。

  「これが奴らの平等か」吐き捨てるように言って、鎧塚は翌日から雪山伐採に出場した。

 

 二人で苦労して作った発電設備を、訳も分からない「平等」主義者に乗っ取られてしまった。その屈辱を跳ね返そうと鎧塚はがむしゃらに働いた。室温に慣れた披の体に無理が崇って倒れてしまった。「体の節々が痛い」と訴えながらもそれを耐えて作業に出ていた。

 高熱に呻き苦しむ鎧塚君を抱えて、またも深夜の診療所の扉を叩いた。軍医は、「ソベリア感冒で、肺炎を起こしている。薬もないし、街の病院に行くしかない」と言うので、自分は夜明けを待たず馬橇を仕立てて彼を毛布と皮外套で幾重にも包み、雪明りを頼りに街の病院へと突っ走った。

 

 力なく病院のベッドにあえぐ鎧塚君を見て軍医ば首を傾げて、「手遅れだ」とつぶやく。薬も無く、手立てがないのだ。目をうつろに、乾いた唇をふるわせて、「たのむ」と言っている。無意識に震える手で、懐からお守り袋を出す。その手を握って、そっとお守り袋を受け取った。

 中に、産まれて百日日の息子の写真があった。よく見せてくれた。その度に、「裏に自宅の電話番号がある。もしもの時にはここに連絡たのむ」と、彼はよく言っていた。

 

 苦しい息の下から、「うらに・でんわ・ある・もしものとき・たのむ」と言った後、心安らいだのか、そのまま深い眠りに入った。

 軍医が、「肺炎が悪化して重症だ。後は体力だ。奇跡を待つしかない」という軍医の切ない言葉を背中に、「おれは山に戻るから、早くよくなって来いよ」と枕元に言い残して、後ろ髪引かれる思いで病院を後にした。

 

 帰りは馬橇に身を任せて、鎧塚君が作った子守歌を口ずさんでみた。

 ねんねん-坊やのおっ父-は-

 あの海-越-えて山越えて-

 遠-い地の果て-北の果て-

 オーロラーかがやく-シベリヤに-

 流氷-溶-けて-春がきて-

 ねんねん-坊やと-会えれるよ-

 坊やの-おみやげ-何やろな-

 おっ父-がみやげだ-ねんころり-ん

人一倍に子煩悩な彼は、息子の写真取り出して、語りかけるようにいつもこの歌を唄っていた。愛しい息子への思いをこの歌に託し、心は常に故郷へ馳せていたに違いない。    .

 病院で鎧塚と別れてその二日後、『鎧塚正吉死亡』の通知が収容所に届いた。悔しいことにこの後間もなく収容所に、《全員帰国》が発表された。帰国寸前に命落とした彼の無念は計り知れない。

《不運》というだけでは余りにも残酷過ぎるではないか。

 

 彼から託された(お守り袋)はナホトカで乗船する時、ソ連軍の厳重な検査が怖くなって、岸壁から海中に投げ捨てた。このほか彼の毛布に付いている注記(自筆の名札)の布切れを靴の底に押し込んで、これは検査をくぐり抜けたが、それも舞鶴に上陸した時アメリカ兵に見つかって没収されてしまつた。あとは自分の頭の中に記憶した電話番号だけとなった。

 

 形見の品を無くし、何と連格したらよいか悩んだ。自分だけ生きて帰って申し訳なく思い、恐縮しながら電話すると、彼の夫人がでて、「夫の無念を今日までずっと背負って来られ、本当に辛かったでしょう」との言葉にやっと肩が軽くなった。

 

 その後、彼の伯父さまが福島の私の会社までお礼に来られたが、どうしても鎧塚君への無念の思いは消えず、今回の墓参となった訳、との事だった。

 

 一方私の方は、前号でも述べたように、悪夢に悩まされた犠牲者の亡霊を弔うための基参である。墓参と言っても、いきなり墓参りできる状態ではない。現地コモソモリスクは軍事秘密都市であって、一般社会から閉ざされてきた。このたぴ国の改革開放政策によって、ようやく現地の閉鎖が解かれた。といっても自由に撮影はできない。単独行動もできないと言う。完全開放には程遠い。

 四十六年も白本人未踏の地に行くのだ。まして犠牲者の埋葬場所を誰も知らない。例え覚えていても長年放置されたまま密林化している筈。それを覚悟して各人はこの場に臨んでいる。

 

 新潟空港に集まった一行は、凍土に眠る仲間たちを思う元抑留者たちと通訳を含む十四人で、元同地区劇団「あかつき」のハモニカ奏者だった目黒秀雄氏を団長に『コムソモリスク墓地調査団』を結成。ソ連国営アイロフロート旅客機に搭乗、ハバロフスク空港に向かった。

 ハバロフスクまで約二時間。そこから目的地コムソモリスクまで列車で十時間。こんな近い所にあった抑留地が、方角も分からない当時は「地獄の果てほど遠い所に拘束されて」と嘆いていた。

 

 我々を拘束して、罪人扱いにした現地の人間は、どんな対応をするだろうか。この時、ソ連社会主義が崩壊寸前にあったので、生活物資は欠乏し国民は最低生活の状態にあった。旅行会社が「手土産にストッキングや電算機、ボールペン、ノート、ライターなど調査作業の足しになる」というアドバイスで荷物ばかり多くなった。何としても埋葬地は一カ所だけでも探し当てたい。しかし、面々の年は七十歳前後と高齢者ばかり。この先はどんな展開になるのか想像もつかない。

              (つづく)

朝風83号掲載 2005.3月号

シベリア抑留の後遺症

須釜 友月

はじめに

 戦争は生命の根源である性をも損傷した。その事実を恥を忍んでここに証言しよう。純情無垢な青年が軍隊という地獄に陥り、戦場を駆け抜けてシベリアに囚われ、極限生活を強いられて性の根源を歪められた。やがて性機能は完全に停止してしまった。

 

 体験者のみが知る屈辱的な事ゆえ、誰も言及を嫌い、世間にはほとんど知られていない。しかし誰かが証言すべきだと考え、勇気をもって恥を晒しつつ暴露する決心をした。現象は正確には性障害といえる。シベリアの極限生活の過酷さに耐えきれず、人が死に至る過程で起きた必須な現象だったと分析する。

 

 筆者がいたコムソモリスク収容所の体験者が通った過酷な道である。収容者二〇〇〇人のうち五四二人が死亡した数字からしても、人々は死と紙一重の環境たる事を証明している。以下要点のみを具体的に述べてご理解を乞う。

 

(一)

大正一四年生まれの私は兵隊に憧れる教育で育ち、いざ憧れの軍隊に入ってみると、

~いやな上等兵にいじめられ、泣き泣き暮らす日の長さ~

と初年兵哀歌そのものだった。

 終戦の年の一月、軍国最後の現役兵として会津若松に入隊、三日後に列車で本土を南下、下関から玄界灘の荒波で船に酔い、血反吐を吐きながら半死半生で北朝鮮羅南兵営に入った。

 

 待ち構えた古年兵たちは、血反吐を吐いて衰弱した我々を「たるんでる!」と容赦なく殴った。これが発端で毎日朝から晩までビンタ生活。「銃の手入れが悪い」と対抗ビンタを強要。高梁飯一膳に命を託し、昼夜上級兵の惘喝と暴力に怯える。極度の緊張と恐怖で精神が萎縮し、その頃から男性機能は麻庫していた。異性も性欲も過去の遺物として忘れ去り、その状態で戦場に送られた。まもなく戦争になり、戦友ら三〇名が戦死して、終戦となる。

 

(二)

ソ連軍の指揮下に死体収容もならず、武装解除され夏姿のままシベリアに連行された。血反吐の後遺症と過激な兵営生活で、生態バランスが崩れ私は夜盲症に陥った。その上中隊の飯上げ当番で飯の食缶三本も紛失し、週番古年兵に大型飯ベラで殴打され、鼓膜損傷。片耳の難聴が抑留生活にも支障を来した。

 

 蛇も蛙もいない不毛の凍土に、慢性飢餓と厳寒の中で極限状態に陥ったときの人間は、野生化して気が荒み、仲間の食べ物を盗んだり、あちこちで飯泥棒が横行した。

 炊事で受領した雑穀粥を二人で運ぶ途中、陰に待ち伏せして食缶の粥を飯盆で掻っ払う事件。無理もない。朝夕は雑穀粥と塩スープカップー杯だけ。昼食は百グラム程の黒パンー切れ。それを朝に食べてしまう。これで一日の重労働だ。

 

(三)

 隣席に転入してきた棚谷という年配男が夕食後必ず出かけた。ある夜の消灯後に寝ている私に「これ食え」と熊の皮のような黒い硬い焦げ飯の塊を私の胸元に押し込むのだ。喜びはずんだ私は息を殺してむさぼり食った。炭を食うようなものだが空腹を充分に満たした。彼が時々くれる焦げ飯は炊事の知人に貰ったというのはまっ赤な嘘で、本当は炊事のゴミ捨て場に残飯を捨てるのを待って、闇に隠れて素早く拾ってくるのだと告白した。

 

 満州で特高警察だった彼がまさかの残飯漁りに驚いたが、まもなく国家機関ゲーペーウーに連行された。別れ際「どうせ銃殺だろう、もし死んだと聞いたら線香代わりにタバコでも供えてな」と苦笑いした彼の消息は知れない。せっかく授かった命の泉を絶たれた私は再び飢餓のどん底に突き落とされた。

 

 狂おしい程ひもじくても夜盲症と難聴の私は他の人が炊事の外で残飯を漁るのを知りながら、いつも実行できないで腹を空かせていた。しかし作業の往復には路端に落ちてる食べ物を拾ったり、住民のゴミ捨て場にさしかかると我先に駆け寄って、パン屑や野菜屑キャベツの芯などを奪い合って腹の足しにした。

 

 病気で入院したときのこと。病院が満員で歩ける者に患者食券を配布し退院させた。私はその食券を使い終えたのにひもじさに負けて配膳口に並び、発覚して中に引きずり込まれ、丸太ん棒で没り殺されかかった。その時現れたソ連女検察官に救われて宿舎に逃げ帰ったが、殺人鬼は執拗に追ってきた。幸い夜勤で宿舎にいた親友の安原君らの機転で、命の危ないところを助けて頂いた。恩人安原君は数年前同県内で癌のため他界された。

 

(四)

 極寒は精神力を砕き思考力を奪った.暖炉を焚いても室温は上がらず寒くて服を着たまま寝る。疲れはとれず冷えて小便に起きて外の便所に通うから寒風に冷えて余計眠れない。寝不足のまま五時起床。形式ばかりの朝食。七時に作業出勤、悪くすると十時間使われる。過労で朝マラも立だないのが常識だった。

「朝マラも立だない奴に金貸すな」と古語にあるが、「いつかおっ立つさ」と悲壮感もない。「おっ立たねば種付けもできねべ、帰ったらカカアの奴嘆くべな」年配の須藤さんが嘆く。

「家ちや帰ってよめ貰ってもサョナラされべ」「第一、立たねっけ男でねえべし、女でもねえべし、こういうの中性人間て云うんだべ」若い安原は冗談に云っているが、顔は深刻だった。

 

 これは抑留最初の頃だったが、ひもじさゆえに仕事場で仲間とソ達人が食べているところへ行き、「マーロダイチ」(少し分けてくれ)と臆面もなく物乞いした事を決して忘れない。笑顔でくれる者はいいが、軽蔑の眼でくれる者、最悪はツバを吐きかけて背を向ける。そんなときは底知れぬ自虐の念に苛まれた。

 

 「こんな思いをして!」と哀しくて夜具の中で涙した人はたくさんいる筈だ。誰にも云えないし家族にも話さない。生きるために人間の尊厳さえ犠牲にしてきた事を誰が知ろう。この極限環境が性機能障害をもたらした。生物は己の体力が乏しければ、生殖機能は自ずと停止または抑制する。人間とて同じだ。私は帰国の際ナホトカで一緒に働いていた女性左官から「日本に連れて行って」とせがまれたが、異性感覚が全く起きないし、欲情も湧かない。これが機能不全を現す何よりの証拠だろう。

 

(五)

こんな状態で帰国したが、内地では食料も配給制で健康は容易には回復しなかった。でも「嫁をとれば治るかも」と思い結婚したが、依然不能が続き、失望のどん底にあえいだ。男として役に立だない程惨めな事はない。夫は信頼する妻に喜びを与えたいのが人情だ。懸命に尽くそうとするが、逆にそれが強迫観念となって肉体を頑なに縛りつけた。あせればあせる程萎縮して行為が成就しないのだ。その辛さは言葉に現せない程だが、いかにつらくても言わねばならない。この紙面で言うべきか随分迷ったが、吐かねば真実を葬る事になる。笑われても仕方がないと決心。

 

(六)

夫が不能のゆえ、人しれない苦労をした妻が、心の隙を突かれて「不義」という重大な過失を冒してしまった。愛する妻から苦しみの告白を受けた衝撃で、信頼していた妻をあらん限りの言動でなじり、軽蔑して八つ当たりした。

 

自殺未遂

 妻の告白で動転した私は、飲めない酒をがぶ飲みし、愚かな死を考えて白宅近くの常磐線に飛込み自殺を図った。酔っぱらった勢いで線路の縁に立ち、突進してくる汽車に飛び込もうとしたが、猛烈な風圧と汽車の轟音に驚き恐くなって死ねなかった。

 懲りずに二度目の飛び込みを図ったがやはり死ねず、夜の街に出て、さまよい歩いた。あげくに夜更けの道端に酔い潰れていると、眠れぬ妻は壊れてしまった夫を連れ戻そうと、仕事疲れの身で探しに来てくれた。

 

 その心情もくめないで何もかも拒否した。心から愛した妻か密通をしたなんて受け入れられない。それゆえにことごとく嫉妬した。正常心をすっかり失い、妻を半殺しにしたい程憎んだ。妻が差し伸べてくれる手を「うっさい!」と払いのけ、追い返した。涙ぐむ妻の後ろ姿は、何程に忙びしく哀れだったことか。何もかも嫌になった。さりとて家に戻っても、「汚らしい」と妻を執拗にいびり、罵った。じっと耐える妻は、翌日の夕食後黙って家を飛び出していった。

 

 心配になってすぐ後を迫ったが見つからず、家に戻って周辺を探し回ったら、裏の木小屋の梁に妻の腰紐が下がっているのを発見、懐中電灯で小屋を照らすと、隅の方にうずくまる妻を見つけた。首を吊って死ぬ気だった。

 衝撃で体中の血が一辺に引き去り、足がガクガク震えた。心臓が割れるかと思う程驚いた。冷静につとめて考えた。・・・ 妻も好んで不義をした訳ではないのだ。相手の強引な威圧に身が竦んでしまったという。部屋に連れ戻して妻の前に座り、己の不甲斐なさを謝った。しかし密通の事実は拭えない。でも、妻を愛している。「夫を愛すればこそ告白したのだ、許せ」と自分に言い聞かせた。悪夢だと割り切って、ようやく妻を許す気になった。

 

(七)

 時々燃え上がる嫉妬の炎が時間の流れと共に、少しずつ、薄らいでいった。不能がゆえに降って湧いた災難、誰を恨めばいいのか?威力で冒した相手に反抗もできない立場にある己の運命を呪うしかない。哀しく、情けない。不能を早く克服したく思う中で巡り会った催眠療法にすがって、たゆまぬ努力を二年間続けるうち功を奏して、曲がりなりにも男児第一子を得た。そして二年後第二子、第三子と男児を獲得した。万感の喜びもつかの間だった。

 

 顛難辛苦を乗り切った愛妻が癌に冒され、三人の幼児を遺し、三六歳の若さで逝ってしまった。そのショックで私の魂が壊れてしまった。父親の顔を見て悲しみ、泣くのを我慢する子たち。子と一緒に泣きたい衝動に涙する。夜具を濡らし、泣き明かした。立ち直れないで、酒に溺れる日々。遺された子らの哀しむ顔に心洗われて立ち直る。家事に励んだ。寡暮しも三年目、建築ブームで忙しくなり、工務店を立てて、再婚を決意。

 

 その妻と早四〇年。人の心の温かさに背中を押されて八十路を生き長らえているが、シベリア抑留の後遺症の責任をどこに問えばいいのか?以上が自伝的になってしまったが、一体験者が血涙を以て世に訴えるものである。

       (了)

付記

私と同様な後遺症に苦しんでいる方が見つかった。

平成八年に近代文芸社から出した抑留体験記「最果ての流れ星」を読まれた福岡県安達郡の農家のご婦人から感想のお手紙を頂いた。

 「・・・主人は抑留三年目に帰国しましたが、衰弱していて仕事ができず、家でぶらぶらしていましたが、約半年後に亡くなりました。」という文面だった。

お電話で話を聞くと「あちらでは相当酷い目に遭ったんですね、恥ずかしい話ですが、夜の営みはぜんぜん駄目でした・・・。」と笑っておられた。でも心の中ではきっと泣いておられたに違いない。

北朝鮮国境に戦う(第1回)

石森 武男

(一)

 私たちの羅南歩兵第二九一連隊は、奏二一一五四部隊と改め、ロ号演習と称し羅南兵営を出発して北朝鮮の慶源に向かったのは、終戦の年の七月十日ごろだった。

 一月に会津若松連隊に入隊三日後に羅南に転送され六ヵ月間の訓練で鍛えた筋骨で行軍、ソ連国境に近い慶源部落を抱く月明山に入り、ここを根拠地にして山岳地帯に陣地構築を行った。我が五中隊は月明山裏の窪地に、先発隊が掘っ建てた粗末な草葺き小屋に居住して、真夏の暑さをものともせず洞窟壕(あなぐら)掘りに連日汗を流した。

 

 洞窟掘削はあくまで「実戦を模した演習」と言われたが、上官の双眼鏡を借りて覗くとソ連軍の兵舎がうっすらと見える。直線で十キロぐらいしかない地点だから、もし戦争になったら、我々の陣地は一発触発の危機をはらんだ場所だった。

 

 洞窟は高さ幅とも七尺ぐらいに掘り進む。中野次男、関根敬二郎両戦友と私の三人組で、他の組と昼夜交替の突貫作業である。体力的には骨が折れたが、気分は解放されてまるで土方人夫のような気楽さで、軍隊にいるという感覚をもすっかり忘れさせた。

 

 しかし、連日の重労働で手持ちの食糧はたちまち底をつき、休憩時間にセリなどの野草を摘んで糧にし、雑炊飯を作って空腹を満たした。作業が順調に進むにつれ、多少自由時間ができるようになり、タバコやセッケンを携えて、二、三軒固まる朝鮮人民家に押しかけ、言葉しらない我々は身振り手振りで大豆などと交換して急場をしのいだ。

 

 だがどの家に行っても、住民は我々日本兵に対して好意的な家はなかった。特に年長者は反日態度を露骨にして対処するので、食料の交換は思いのほか難儀した。

 そんなとき、陣地へ送り込まれてきた朝鮮入兵士を連れて、民家に物交の交渉をさせたのだが、彼らはなぜか反抗的態度をむきだしに言うことを聞かないのだ。同行したS戦友が腹を立てて朝鮮人兵をぶん殴った。殴られた兵士たちはなおさら頑として抵抗した。

 

 我々が羅南兵営から出発する直前に入隊した彼らは、すごく従順で素直だった。家から大ぶろしきに包んで持ってきた一抱えもある水飴餅(中皮飴)を、寝台を並べる私たちに惜しみなく分配してくれた、とても純真な青年たちだと思っていた。

 先輩として我々はビンタ教育する立場にあったが、自分の過去のビンタ生活を教訓に、兵営生活の時は彼らを一度も殴ったこと無かったし、むしろいたわる方が多かった。

 十六、七歳で純情だった彼らが、なぜか陣地へ来て手のひら返すよう急に態度を変えた。

 「燃料の木を集めろ」とか「水汲んでこい」と言っても全然働こうとしない。彼らの心に反日感情が隠されていたのか、それともただの臆病だけなのかは計り知れなかった。

 

 部落を訪問して、もっと不可解なことがあった。私と中野戦友と二人で物々交換に行ったその家には、三歳ぐらいの男児と三〇歳くらいの母親らしい女がいた。その女はなぜか日本語をすらすら話せた「兵隊さん今日はお休みですか、どうぞ中で休んでください」とお世辞を言いながら我々を室内に案内してくれた。

 部屋の床は朝鮮特有のオンドル式で真夏なのに床はほんのり温かかった。女は、どんぶりみたいな大きな器に、焦げ飯の味がする朝鮮お茶をなみなみ注いで出した。砂糖をまぶした妙り豆とコンペ糖を茶菓子に出したり妙に待遇よくするのだ。

 

 何となく女の身のうえを尋ねると「去年まで満州で暮らしていたが、実家の年老いた親をみるために戻ってきた」という。信じ難いが上手な日本語からして真実とも思えた。

 ただ、我々のことに強い興味を示し、現在の身辺のことをいろいろ質問してきた。そして要求もしないのに「ご飯食べてください」とまっ白い粟ご飯と朝鮮ミソを出してくれた。

 粟飯とは言え、炊き立ての熱々のご飯に(家伝だと言う)朝鮮ミソがすごく美味しくて、飯ビツが空になるまで女はお給仕してくれた。あんまり待遇がいいので何か気味悪くなった。ともあれ久しぶりに家庭的な気分を味わって、中野君と私はすごく得した気分だった。

 ところが、好意的な態度で我々に接したこの女は、ソ連側に情報を流すスパイの一味だったことを、後で聞かされ仰天したものである。

 

 そんなある日、移動歩哨の任務に当たっていた福島出身のK一等兵が空腹に耐え兼ね、町外れの某輜重隊の外に野積みしてあった馬糧の豆カスを盗み、山のくぼみで火を燃やし妙って食べてる所を、巡回中の週番士官M少尉に見つかってしまった。

 観念したK一等兵はM少尉の後ろに従い、我が中隊に連行される途中「小便が詰まって」と立ち止まり小便するふりをして少尉をやりすごし一目さんに逃げてしまつった少尉の追求を振りきり姿をくらましそれきり中隊に帰って来ることはなかった。

 

 捜索に駆り出された我々は、Kをさんざん捜し回ったがとうとう発見できなかった。元船乗りだったKは泳ぎが達者なことから、小銃を豆満江に投げ棄て急流を泳いで満州側に逃亡、民家を襲って家人を脅迫し衣類を強奪して変装、飯を強要して腹を満たし家人を縛り付けて、変装した姿で満人になりすまして逃走をした。

 だが自力で繩を抜け出した家人が憲兵に通告、Kはあっけなく捕った。だが観念したように見せかけて隠し持ってた刃物で憲兵を背後から突き刺して逃走しようとしたが、不審な動きを察知され、今度は厳重に捕縛されてしまった。この憲兵隊からの連告で、K一等兵が逃亡で犯した数々重罪の全容が中隊に通達されてきた。(以下省略)

  

 さて、洞窟を4メートルも掘り進んだ八月の初め、頼みの食糧と大量の実弾が到着した。その車両が泥地に埋まり荷物だけ洞窟まで担ぎあげた。肝心な食糧を得てひと安心したが、洞窟に積まれた実弾の山を見て、緩んだ気持ちがいっぺんに吹っ飛び、得も知れぬ緊張と不安に包まれた。

 

 それに輪をかけるように、その日の夕方陽が沈むころ、電線を巻いたドラムを背負った電信兵たちが、山の斜面をススキかき分け電線を敷きながら登ってきた。我々の五中隊本部へ急ぐ彼らに、訳を聞こうとして話かけたが何も答えてくれなかった。

 さもあろう。部落内に置いた部隊司令部が、月明山の向こうの雲霧零山中に移動していたから、司令部の命令で動く彼らにしては秘密事項だったのだから。

 

(二)

 そして間もない日、国籍不明の黒い怪飛行機が夜空に飛び交うようになった。みんな、「アメリカの飛行機だべか、まさかソ連の飛行機でねえべな?」と不安は募るばかり。

 そのまさかだった。爆音が去ったあと山間に非常呼集ラッパが鳴り響いた。

 林中隊長が、「ただ今『ソ連が宣戦布告してきた』と本部から電信があった」

 「敵は目前にいる、我々は直ちに戦闘体制に入いる」 「敵の斥候はすでに潜入しているかも知れん、各自充分に警戒して任務に当たってくれ」 戦争になったって俺は敵兵を殺せるだろうか?つい先日食料難に、野良犬を殺そうと銃の床尾板で一撃したが血まみれで逃げる姿におびえた臆病者が人を殺せるだろうか?

 

 戦争と聞いたとたん己の体が緊張して鋼のように硬直した、次々に命令は下る。

 「石森、中野両名は今までの一号洞窟の弾薬食糧を交替で警備せよ、直ちに配置につけ」

 第一線の警備歩哨だ。自分らが掘った洞窟だ死守せねばならない。洞窟は山の右先端にあって敵の方向に一番近い場所だ。意志薄弱と臆病は人に負けないが、何事も率先して行う気持ちは変わらない。

 

 自分はいま究極の戦場に立っているのだ。「滅私奉公」の固い気持ちは揺るぎない。第一小隊の軽機関銃射手である立場が、当然のように立哨の一番乗りを命ぜられた。

 銃に実弾を装填し、着剣して歩き慣れた暗い山道を手探りで洞窟へと急いだ。誇り高き第一線の歩哨に初めて立ったのである。

 洞窟の前に立っても臆病が先に立ち、闇の中に息を殺しじっと辺り凝視するのが精一杯、動哨だというのに硬直した足が釘付けになったきり動けないのだ。

 そう。入隊してから夜盲症になって、夜の視界はゼロで全く何も見えない。おまけに、兵営当時、週番兵に飯ベラビンタで強打されてから片耳がよく聞こえない。

 

 それでも聞き耳を立てるとススキの葉が、カサカサと風にそよぐ音に、十九歳の弱兵は、「すわ敵兵!」とおびえて、やたらと武者震いして止まらない。

 「この場を敵兵に襲われたら、とても銃剣で相手を突き殺す度胸はない」 「反対におれは殺されてしまう、それでも名誉の戦死になるだろうか?」 何やかにやで頭が一杯の所へ、中野一等兵がハギの葉をカサカサと暗闇から不意に目の前に現れた。

 とたんに想像していた敵兵と信じ込み「誰かっ、誰か」とうわずった声が彼の耳に届かず返答がないので銃剣で彼を刺し殺そうとした。

 一瞬殺意を感じた彼は、「危ない、おれだ中野だっ、銃剣引っ込めろっ何のまねだっ!」彼は青くなって怒った。恐怖と緊張のあまり歩哨交替をも忘れ去っていた。初めての敵前歩哨の失態である。

 

(三)

 翌日から、豆満江をふもとに見下ろす月明連山稜線にタコツボ壕を掘り戦闘配置に付く。陣地右端のタコツボに軽機関銃をにぎりしめ、ソ達軍の現れるのをずっと待ち続けたが一向に現れる気配はなかった。ただ、交戦になったら勝たねばならない、負けたらば死ぬ、みんな死ぬのだ、名誉の戦死!」心では何らかの格闘していた。

 

 人より背が高く常にのそっとしているように見えても、射撃には自信があった。射撃演習でいつも上位を争った腕だ。壕に身を沈め銃撃戦になったときの、何やかやを想像していると、伝令が飛び込んできた。

 「戦車攻撃隊員は直ちにA地点に集合せよ」との伝達である。

 そうだった。陣地に来る直前に羅南から『戦車爆破特攻隊』に選ばれ、会寧部隊に出向し特訓を受けていたのだ。勇猛果敢な任務をおびていつでも戦える心構えを要求されていた。

 

 路側帯に掘ったタコツボに身を沈め、敵の戦車が近付くのを待って、強力な黄色火薬で作った急造爆雷を棒の先にくくりつけて小脇に抱え、敵戦車の死角を狙って飛び出し、キャタピラの下に放り込むのだ。訓練の腕前をみせる時期が到来した。

 戦車爆破特攻隊に選ばれたことは、軍人としてこの上ない名誉なことである。その為には完全爆破をしなければならない。その行為に生存することは約束されていない。

 完全な自爆行為なのだ。どんな上手やっても生存率は皆無と言っていい。死ぬことが名誉なのだから死ぬが当たり前だけどど本当にお国の為天皇陛下のために死ねるのか。

 心の隅では、両親や弟妹の顔、許婚の顔が頭の中を駆けぬけていく。

 「敵の戦車が来たら娑婆とはおさらばだ、でもまだ死にたくない」 ここで死ねば真珠湾特攻隊のように軍神に祀られるだろうが、帰りの燃料も与えられず敵艦に自爆するしかなかった空の特攻隊も、我々戦車爆破隊もみな肉弾大和魂戦法だった。

 

 戦車爆破と同時に五体は粉々に飛び散るだけ、決して生き残れるはずがないと考えながら、壕の中で聞き耳を立て、いくら待っても敵戦車は来そうもない。すると、複数の靴音がするので偽装網の隙開から覗いてみると、斥候から戻って来た深谷候補生たちだった。

「慶源橋を爆破して落下したのを確認してきたから、敵の戦車はもう来ない」というので、戦車爆破隊はその場を引き払って元の稜線陣地に戻った。敵が攻めてくる様子もないので、先に急いで掘ったタコツボが窮屈なので、横穴を掘り広げ隠れられるようにした。

 

 満州側の遠くで関東軍がソ連軍と交戦してるのか、絶え間無く砲声がきこえる。そしてまもなくのこと、目の前の豆満江に沿って対岸を走る道路に、右手のソ連領の方から敵戦車の大軍が現れ、隊列が左手の奥地「渾春」方向に驀進してゆく。

 

 我々の陣地にはぜんぜん気づいていない。おもちやの戦車のように小さく見えるから距離はかなり遠い。まるでニュース映画でも見てるように、ぼんやりと敵の行動を見ていた。

 戦車群のあとから機関銃を据えた小型ジープや装甲車などがつづき満州側の奥地ヘと突進していく。敵の機甲部隊は想像以上に大規模なものた。たまにサイドカーが驀進していく。我が軍はいぜんとして沈黙したままた。 空に星もない闇夜のときたった。敵兵は闇夜に乗じ豆満江を何かの方法で渡っていた。とも知らず私は、タコツボの中の側壁にもたれて軽機関銃を抱いたまま仮眠していた。

 

 朝になって日が昇るころ、山のふもとに現れたソ連軍の散兵が、四中隊が守る馬乳山陣地の方に進撃を開始した。我々から敵との距離は一キロほどか。射撃に自信あるが遠すぎる。準備だけはと思い敵の散兵に照準を合わせていると、後方から我々の小隊長が大声で怒鳴った。

 「撃つなーっ!命令あるまで誰も絶対撃つなっ!みんなに伝命しろっ!」 こんな逼迫した状況の最中に、左の方のタコツボで突然銃声が鳴った。

 「馬鹿者!撃つなという命命分からんのかっ!」 小隊長の怒声が作裂した。幸い敵に気づかれずにすんたが、これはB一等兵が小銃の操作を誤って暴発事故を起こしたのたった。ともあれ、私たちが敵との交戦が避けられ、命が牧われたのも、この号命のおかげなのである。

 

 我々の第一小隊長は内島見習士官たったが、部下の吉田洵君を連れて敵陣斥候に出ていたため、彼の代替えに羅南兵営から朝鮮人学徒兵を陣地に引率してきた将校(准尉?)が我々の第一小隊長に赴任したわけた。したがって名前の記憶がないのた。

 

 進攻するゾ連軍を迎え撃つ第四中隊の馬乳山陣に、敵戦車は壊滅的砲撃で地上軍を援護し猛攻撃を開始して大激戦となった。山麓の日本軍施設がある部落めがけてめくら砲撃してきた砲弾が油タンクに炸裂して黒煙が天空を被った。頭上に敵機の轟音飛び交うたび首をすくめる。

 宵闇の渾春上空に舞う敵機を高射砲が撃ちまくるが夜空の花火のように炸裂するだけで全く命中しない。敵の大機動部隊に対し、我が軍はちっちやな山砲だけだ。戦車もない、飛行場があっても飛行機がない。勝つ見込み無くても戦わねばならない。精神力で勝つということなのだ。

 

(四)

 開戦直前に各小隊に配属された朝鮮人学徒兵が、戦争を嫌って数人づつ逃亡を繰り返した。彼らの心理は解るが黙認はできない。毎日脱走をする彼らを捜し出て死刑の宣告をした。

 「貴様を見せしめにこの場で死刑にする、遺言あったら言えっ!」 「嫌だーたすけてーアイゴーアイゴー」中隊長は、泣きわめく学徒兵の頭上に日本刀を振りかぶり、気合一喝に切り下ろした。

 「ぐわあっ!」すわっ袈裟切り!かと思いきや、悲鳴をあげた彼の手が、無意識に己の首を押さえてブルブルふるえている。

 

 剣道五段の林中隊長の見軍な峰打ちで、見ていた我々はほっとしたものだ。「今度逃亡したら本当に死刑にするぞっ」 以来逃亡者はなくなったが、この学徒兵の何人かが数日後に戦死してしまう。

 中隊長は、残酷と知りつつ彼らを脅し付けたのだった。 そして数日後の八月一六日夕刻、林の中に作った炊事場へ飯受領に行ったそのとき、西本見習い士官が率いる第二小隊三〇名が、馬乳山で苦戦している第四中隊の援軍に出陣する悲壮な場面に出くわした。

 

 それぞれの頭には、墨も鮮やかに決死隊と記したハチマキをしている。あたかも決死隊を手期していたかのように、日の丸を記したハチマキが準備してあった。

 西本小隊長は素焼きのカワラケ(土器)に注いだ酒に武運を祈って、一気に飲み手した器を地面に叩きつけて割った。この世に未練を残すまいとする厳かな儀式である。

 隊員も同様に器を地面に叩き割る、という悲壮な場面を離れたところから目撃したとき、若松から一緒にきて厳冬の荒海、機雷が浮遊する玄界灘をわたり、羅南で半年間戦闘の猛訓練をなして、いま友軍を救うために、ソ連軍の猛攻撃の真っ只中に飛び込んでゆくのだ。

 覚悟したとは言え、死ぬことが確実と分かっていても拒否できない兵隊たち。死地に向かう彼らの武運を祈り、私は五本のゆびを組み合わせ、思わずその場にへたり込んでいた。

 

 誰よりも生真面目な性格で軍国主義の塊りのような西本見習士官は、軍の空に向かって抜刀した抜き身を顔の正面に捧げ持ち、 「祖国にっぽんに向かって捧げ~銃っ!これより西本以下何十名は決死隊として、四中隊の救援に出発します」

 西本士官の真一文字の口元に、近眼のメガネの間からきらりと光るものが見えた。忠勇無双の皇軍兵士であるはずが、どの隊員の顔も蒼白に引きつって哀しさがにじみでていた。このとき自分だったら、やっぱり同じ気持ちでうろたえたに違いない。

 

 いざ死に直面してしまうと、兵隊ほどむごい立場はないと思うようになった。これが彼らの決死隊という「死の門出」の偽ざる姿だったのである。 天皇陛下のためならばなんで命が借しかろう~と歌い、天皇陛下ばんざいと叫んで死ぬことが皇軍の勤めなのだと教わってきた兵隊たちの前途は・・・     (つづく)

朝風102号掲載 2007、3月

北朝鮮国境に戦う(第二回)(完)

石森 武雄

 苦戦する第四中隊支援に決死隊の使命をうけて出発した西本小隊の中で、特に二人の強烈な印象が脳裏に焼き付いて六十余年の歳月を消えることはなかった。

 その一人、戦闘の要となる、軽機関銃手の渡部久一は新兵では数少ない妻帯者で、隊内では極秘にしたが古年兵に知れて「生意気」と眼をつけられこっぴどく痛めつけられた。

 私と同じ軽機班に教育をうけ零下二〇度の寒さも厭わず、軽機関銃という鉄の塊を抱えた戦闘訓練は、膝まで没する雪の82高地山野を、毎日のように駆けずりまわったある日、膝まで没する雪の野山を夢中で駆けずっていた彼の機関銃の、把手を支える一センチほどの小さなネジを紛失した事に気づき教官に報告すると、教官は顔色を変えて怒った。

 「陛下から預かった兵器の部品を失くしたとは兵器手入れの怠慢で全体責任である、罰として全員でそのネジをシラミつぶしに見つかるまで徹底的に探せ!」と苛酷な命令だった。

 所詮無理なこと、大海に落とした針を探すようなものである。靴で蹴散らして汚れた雪の上に横一列に這いつくばって、雪に顔を押っ付けるように素手で雪をかき分け、冷気で手は真っ赤に凍え、血眼になって暗くなるまで飯も食わず探したが見っからなかった。

 

 その渡部久一が、小隊長を先頭に道なき道を、足取り重く死地に向かうなかで死を覚悟して、毛糸の腹巻きを外し、同郷の深谷候補生に「形見」として託した。

「おれは生きて帰れない、深谷、お前がもし生きて帰れたらこの腹巻き家へ届けてくれ」悲壮な言葉で託す渡部久一の眼がうるんでいた。

〃天皇陛下の為ならば何で命が惜しかろう〃

〃戦する身はかねてから捨てる覚悟でいるものを〃

とずっと心に誓ってきた。そしていま死地に向かう彼らは心の中は、誓いとは裏腹に真実は死にたくなかったに違いない。

 たかが腹巻き一枚だが、渡部久一は出征前に結婚していた新妻が、大切に育てた羊の毛を紡いで、愛する夫のために毎晩夜なべをかけて編んだ愛情のこもった腹巻きである。

 もちろん渡部久一は壮烈な戦死を遂げるが、生き残った深谷候補生は形見を携えてソ連に拉致され腹巻きは強奪されてしまい、渡部の家に届けることが叶わなかった。そのことは復員したあと深谷君から明かされたものである。

 

 もう一人は、西本小隊の最後尾を、列から少し遅れてもくもくと歩む男、兵営では新兵の気合係りで(ガマ上等兵)とあだ名された神館三好上等兵である。鬼瓦のような怖い顔に幾筋も涙を流して拭いもせず、誰に言うとなくかすれ声で訴えていた悲壮な姿である。

「おれは死んでは駄目なんだ、ぜったいに死ねないんだ・・働けねえ年寄り抱えて、べらっ子四人もひきずって百姓してる噂、おれが死んだら家族はどうやって生きて行くんだよ」両手に飯のハンゴウぶら下げた私は、彼からつかず離れず彼の愚痴をうなずいて聞いてやった、言う言葉もなく途中から私は自分の壕にもどったが、彼はなおも叫びつづけた、

 「おれは何でかんで生きて帰んねえば駄目なんだ、誰か代わりに行ってくんねえかなあ」行けば死ぬこと間違いない、死ぬの分かっていて銃弾の中に入って行かねばならない。

 

 男泣きする神館上等兵は、なんべんも同じことを吐き散らすように訴えていた。兵営では神館のグローブのような手でビンタに明け暮れた、その彼の口から泣き言を聞いて、いかに軍律は厳しくも死に直面したときの心理は、やっぱりただの人間だったと思った。

 

 「死にたくないのは皆同じだ」と妙に納得しながら見送ったのが最後となった。それは〃明日は我が身が死出の旅〃と覚悟した八月一六日の夕暮れどきであった。

 戦えば生きては帰れない、死出の旅路の三里塚、死ぬことが分かっていながら上官の命令に従わなければならない儚い命の兵隊。銃の先に着けた剣で「やあー、やあー」と叫んで敵兵を刺し殺す白兵戦、〃なんて無謀なと思っても命令だから仕方がない〃

 

 こもごも考えながら一夜を明かした翌一七日朝、明け方のモヤが早々に晴れ上がって視界良好、砲音もなく豆満江対岸を渾春方向に進攻すると見た敵の機動部隊は、馬乳山陣地を含む付近の陣地の掃討戦に総攻撃をかけていたことが後で分かった。

 

 砲声が途絶えて陽が傾くころ、司令部から中隊本部に「終戦」ではなく「停戦命令」の電信が届いた。しかし、決死隊という片道切符の西本小隊は一人も帰ってこなかった。

 停戦命令で事態は急転、中隊本部は慌ただしくなり集まった我々は、この先どうなるのかも不安のまま、夜空の星明かりの下で残った銃弾や手榴弾、被甲(防毒面)などを壕の穴に埋め、暗闇の野戦炊事場に入って米や塩などを背嚢に詰め込み、ハンゴウに飯を詰めて中隊の幕舎にもどった直後、とつぜん暗闇の中クマザサの薮をかき分けて朝鮮服に身を包んだ成田、五十嵐の両古年兵が息を切らして現れた。羅南の兵営に残留した彼らである。

 

 「間に合ってよかった、みんなと会えなかったら大変だった、誰か水飲ましてくれ」

 気が付くと幕舎の入り口に酒樽が置いてある。炊事班長の羽賀古年兵が「この先死ぬか生きるか分からないが一口飲んで元気つけよう」と持ち込んだものだった。

 二人は水代わりに口に運び「羅南で残務整理中戦争になり、ソ連軍が清津に上陸した直後に羅南の火薬庫を爆破して、中隊の重要書類など全部焼却してから、貨物列車にもぐりこみ南陽まできたら鉄橋が爆破されて列車は立ち往生になった。仕方なく民家から衣類を失敬して変装し、人目につかぬよう山の中を夢中で歩いて命からがらやっと辿り着いた」と報告すると中隊長は「ちょうどいい、下山するところだった、君たちが登ってきた道を案内してくれ」と言う。

 

 二人は息も絶え絶えにしゃべりまくった後、休憩する暇もなく、のぼってきた獣道を再び折り返して道案内をすることになった。だが彼らとて獣のようにはいかない、暗闇とヤブに遮られ行方はたちまち深い森林に迷い込んだ。暗闇を手探りで進む私は夜盲症が災いしてソ軍に破壊された大隊砲の残骸につまづいて叩っ転んだり、放置された弾薬箱に足をとられて叩っ転んだりの連続、暗闇に前の人の進む気配さえ失う。人の何倍も這いずりまわって仲間の存在をやっと捉えて進む。

 

 「停戦でも敵陣の中だ隠密行動をせよ」の指示で声も音もだせない。落伍しないよう夢中で進むと木の枝が顔に容赦なく炸裂する、敵に発見されないよう息を殺して進む。

 一晩じゅう歩きまわった末に、小高い崖から転落、その下に谷川のせせらぎがあった。耳をすますとジャブジャブと仲間が川を渡る音がする。あわてて川に入ると大きな岩石が進行を阻み深みに足をとられて転倒、ずぶぬれになって無我夢中で川を越えると細い道にでた。待っていてくれたその人に「自分が一番最後だ」と告げ先を急いだ。

 

 道を下ると大河にでた、豆満江の支流だ、胸まで水に浸り、重い軽機関銃を両手で宙に支え大河を渡って土手をよじのぼると、幅員四メートルほどの往還道路にでた。

 我が中隊はそこで本隊を待って合流し夜明けがたまで休憩することになった。みんな座ったまま銃にもたれていびきをかいている。その数何十人か何百人か黒いじゅうたんを敷いたように音もなく静まりかえっている。

 

 私は停戦という展開に興奮してまんじりともせず、ぼーっと夜明け前の空を眺めていた。次第に眼が慣れて目の前に深い大きな戦車壕が掘られ道路が遮断されているのが分かった。

 すると、目の前の戦車壕の向こうから、コツ、コツ、とかすかな靴音が聞こえてきた。うっすらと白みかけてきた暁の空に透かしてみると、コツ、コツ、と人影がゆっくりと近付いてくる。長い銃身のライフル銃を、無造作に肩にかけたロスケ(ソ連兵を以下ロスケと呼ぶ)が一人、戦車壕の縁に立ち止まって、じーっとこっちを見つめている。

 

 白んできた夜明け前の路上に、得も知れぬ日本兵集団の大きな塊を見つけ、恐る恐る首をのばして確認しようとしている。我が方の黒い塊の中からとつぜん、〃白旗〃がぬーっと揚がった。ロスケはおどろいて飛び上がった。同時に緊急合図か、銃口を空に向けて乱射し一目さんに逃げていった。ユーモラスな格好はずっと心に残っている。

 

 そのロスケが去った後を追うように南陽方面に向かって出発した。太陽が高くなった頃、前方から馬に乗ったロスケ将校、下士官ら三、四人我々の隊列の前に立ち塞がって何やら大声でわめきたてる。実物のロスケを見るのが初めてである。背丈がニメートルはたっぷり、がっちりした体格は百キロもあろう怪物のような大男ばかりだ。とっさに思った、「戦場で遭遇したら力ずくでは到底かないっこない、俺はとっくに殺されていたろう」と。

 

 不精に生やした赤ひげに仁王様のような威圧感を感じる。腰に拳銃を下げ自動小銃を抱えて銃口を向け威嚇している。青い目玉で睨みつけペラペラとわめきたてるロスケの奴らは勝ち誇って威張っていることは確かだ。

 

 大隊長がでて「ロシア語分かる者前に来て通訳してくれ」と大声で叫んだ。すると通訳らしき兵士が二人前にでた。そして大隊長に通訳した、「抵抗するな、抵抗すると全員死ぬことになる、このまま都門に集結せよと言ってます」ロスケたちはそう言って立ち去った。都門まではかなりの道のりがある。真夏の太陽はがんがん照りつける、河を渡ってびしょぬれになった服装はかぱかぱに硬くなって重たい。軍靴の中は濡れたまま歩くから足はたちまち豆だらけになる。

 

 〃停戦〃だと言うが、日本が負けたというのはデマではないようだ。上官たちは日本が負けたことを一言も言わない。だが、道沿いの民家には赤旗が建って壁には「赤軍万歳」と漢字で書いた赤いビラが貼ってある。

 民家の軒下に、避難先からもどってきた朝鮮人住民の男たちが、誇らしげに立ち並んでニワトリの丸焼きをかじっている。我々がそれらに視線を向けると、食うのを止めてそばまできてッバを吐きかける。たちの悪い男はわざわざ足で蹴ってツバをかけていく。

 

 部落のどの家も競って赤旗をひらめかせ、軒下には「労働者農民万歳」とか「解放軍万歳」と書いた赤いビラがやたらに貼り付けてある。もう疑う余地がない、日本は確実に負けたと判断した。とたんに軽機関銃がやたら重く感じられて鉄の塊が肩に食い込んできた。

 「仕方ない交替してもらおう」と思い弾薬手の中野君に「銃交替」と言ってノッポの肩から小柄な中野の肩にドスンと渡してしまった。「もっと静かに渡せよ」彼は怒った。歩きながら高い肩から低い肩へ、加減して渡したつもりが、それは自然の成り行きだった。

 

 「勘弁しろよっ」不眠不休と夜盲症で限界だった。言い訳はしないが謝った。

 どうせ武装解除でロスケ側に渡すと分かっていて捨てられないのだ。午後一時すぎ、都門橋が架かる南陽町に着いた。昨夜から何も口にしてないので腹ぺこだ、道の土手に腰おろして休憩。ハンゴウの飯にかぶりついた。

 

 気が付くと、あれほどいた朝鮮人学徒兵が一人もいない、いつの間にか隊列からぬけだして姿を隠したのだ。はやる気持ちでわが家へ突っ走ったのだろう。

 「分隊の中には『関根さん、お世話になりました、携行食の缶詰さしあげます』と手渡して挨拶してから脱走した感心な、いや変わった学徒兵もいた」と関根君の話だ。

 

 ソ連兵に急がされて都門橋を渡っていたら橋の中央あたりで隊列が停止した。橋の下の豆満江でソ連兵がノーパンツで泳ぐのを見て驚いていると、大隊長が大声で叫んだ。

「きさまら悔しいと思わんかっ、捕虜になったんだぞっ、悔しかったらこの橋から飛び込んでみろ、そんな勇気ある奴は居らんのかっ」

〃とんでもない!戦争は終わったんだ〃

〃死んでいられるかよ、ばかげている〃 心の隅で反発心がうずいた。

〃何十人もの部下を戦死させて、よくも平気でそんなこと言えるな〃

〃自分が飛び込んで見ればいい、兵隊を何だと思っているんだ、消耗品じゃないんだ〃

 後ろの方で口々に罵っているのを大隊長は知らない。

 

 橋を渡りきったすぐ右側に都門広場がある。広場には他の部隊が群をなして広場の中央に武器が山をなしている。陛下より預かった兵器がゴミのように無造作に投げ捨てられている。我々もソ連兵にうながされて、命より大切にしてきた武器を、ずっと俺の命の主護神だった軽機関銃を放り投げるのだ、そのときは涙がでるほど悔しかった。

 その一方で「戦争がやっと終わった、軍隊も解散して普通の人間にもどれる」そう思うと、張り詰めていた力がいっぺんに抜けて放心状態になり心が空っぽになった。

 

 小隊長など将校たちがソ連軍の指示でどこかへ姿を消した。残された下士官の号令で一列横隊に並べられロスケから身体検査がはじまった。

 最初、初年兵らしいロスケが、恐る恐る日本兵の体にさわって拳銃とか手榴弾を隠し持っていないか、念入りに調べて行く、怖いのだろう若いロスケの手が震えているのがはっきり分かる。彼の立場になって考えれば、怖い気持ちがよく分かった。

 その後から駄目押しに検査してきたロスケ下士官の両腕に、日本兵から強奪した腕時計がいくつもはめてある。それは、取り戻すことのできない戦争に負けた証拠であった。

 

 自分の腕時計も有無を言わさずむしり取られた。ついでに胸のポケットに差した万年筆も強引にむしり取られた。背嚢も雑嚢もぜんぶ検査されてお守り袋までとられた。「軍隊手帳も、戦陣訓の本も、手帳や筆記具もスパイの道具になるから全部焼却せよ、というソ連側の命令だ」と言われたので言われるままに焼き捨てたのが失敗。軍隊手帳にはさんでいた家族の写真も許婚の写真まで焼いてしまった。

 

 雑嚢の中に手榴弾を隠しもっていた仲間がいて、両腕に強奪した時計をはめたロスケ下士官をかんかんに怒らせた。

「ロスケの奴らを脅かすつもりで入れておいた、使うことは考えてなかった」と言いわけするのは命しらずの管野薫戦友だった。たちまち分隊長白沢軍曹のビンタが管野の横面にとんだ。するとどうだろう、あんなに怒っていたロスケ下士官が、こんどは白沢軍曹の面前に人差し指を立てて「ストイ(止めろ)何とかかんとか」とビンタを制止した。我々は複雑な気持ちで見ていたことが深く印象に残っている。

 

 勝者であるべき我々がそれまで考えたこともない敗者の惨めさを噛まされた。背嚢雑嚢の中に収めた所持品のうちロスケの検査で残ったものは、軍足(綿靴下)一足に詰めた米、若干の岩塩、私物の針と糸に小さな握りバサミ、マッチ、折りたたみナイフくらいだ。これらの小物がこの先の破天荒な行状やシベリア生活に大きな役割をはたすことになる。

 

 親戚の人や友人たちの誠意が詰まった寄せ書き日の丸も、千人針の胴巻きも強奪され、歯磨き粉や歯ブラシ、印鑑も朱肉までむしりとられた。彼らにしては珍しい物なのだ。

 命だけは助かったが、何もかも強奪されてまるで追いはぎに遇った境地で放心状態になる。さすが、背嚢にくくりつけた毛布一枚と外套一枚は強奪しなかった、これがこの先の寒さ地獄から身を護ったことは言うまでもない。

 

 ともあれ武装解除されて、鉄の塊の重量地獄から解放されて生き返った気持ちになる。正直ほっとしたものだ。このまま早く日本に帰りたいと思うが、何やかや右往左往して不安がつのるばかり。この先には思いもよらない苦難が待っているなど知る由もなかった。

 

 武装解除した場所の百メートル先、豆満江に沿って広場端っこに並ぶ満鉄職員住宅の空き家に宿営となった。ガランとした室内に残る懐かしい畳の上で、久しぶりに娑婆の空気を味わった。戦争で部屋のガラスも戸締まりもないが望郷の思いが強まったのは確かだ。

 戦争になってあわてて避難したのか共同浴場のタイル張り浴槽に水が張ってある。賢いやつはその湯を沸かして早々と入浴をすまし足をのばしている。と言う仲間の情報に自分も後から入ったが、すでに浴槽の底二〇センチくらいのぬるま湯で、ひざ小僧もかくれない有り様、野戦のドラム缶風呂のほうがよっぽどましだった。

 

 爆弾や砲撃で水道管は爆破され飲み水がない。外にあるボウフラの泳ぐ防火用水の水で炊さんして食事をすませた。五十嵐古年兵ら数名が「豆満江泳いで朝鮮側に渡って逃げよう、希望者は付いてこい、今夜一二時出発だ」だが返事をする者はいなかった。

 結局彼ら数名だけで実行した。宿舎の庭の先が川幅約二百メートル、満々と緩やかに流れる豆満江を彼らは無事対岸に泳ぎついたと思うが成功したかは不明である。

 

 他の部屋で炊さん中に大やけどをした仲間がいた。深谷戦友が負傷者を背負い都門市内病院を探してかつぎ込んだ。そこに奇しくも西本小隊で重傷を負いながら奇跡的に生存していた遠藤一君に深谷君はばったり遭遇した。

 

 ここではじめて西本小隊の激戦の模様が判明したのだ。遠藤一は腰部から大腿部に貫通銃弾をうけながら痛みを堪え独自に止血を行うが気を失う、ある時間が経過して気が付いたとき銃撃戦は途絶えていた。なおも出血する傷口を布で巻き棒でねじり締めたままかなりの距離を這ったり歩いたりして友軍に事態を報告再び気絶し病院に担ぎこまれたと言う。

 遠藤君は話をつづけた。

「敵の存在地を迂回して友軍の陣地に向かう途中敵に察知され、至近距離のしかも背後から一斉射撃をくらい、猛烈な銃撃戦を展開した。西本隊長は顔面および全身蜂の巣に撃ち抜かれ、日本刀で体を支え仁王像の姿で壮烈な戦死を遂げた。

 

 銃撃戦の要となり敵の標的になった軽機関銃手の渡部久一は敵の砲弾で爆死する。近くにいた阿部嬉学兵長が代わって射手を努めたが銃弾の嵐を浴びあっと言う間に戦死。戦友の死体をのりこえて脱出中、虫の息でいた神館上等兵が、苦しい息の下から『衛生兵呼んでくれー』悲壮な声で叫んだがそれが最後だ。それをふりきるように這て進むと、腹部に銃弾が貫通し呻き苦しんでいる分隊長の遠藤章軍曹が声を振り絞り、『俺にかまわずに早く行け友軍に報告しろ』と言ったまま目の前で息絶えた。どうやって、どこをどう逃れたか気が付いたら友軍に介抱されていた」。

 

 ソ軍の指示でここから延吉へ終結し日本に帰すと言うがその道はシベリアに続いていた。

 この先の事は以前の朝風に記述してあるので省略します。 (完)

朝風103号掲載 2007.6月

シベリア抑留記 1

橘 惣三

はじめに ―弟への思い―

 ふるさとは遠くにありて思うものと言われるが、青年学校を中退し軍の学校に進み二年、しかし家や親を思う心は断ち切れなかった。そんな中で、弟には限りない親への孝養の代理人であって欲しいと密かに思っていた。だがその弟も私が卒業の前に海軍を志し入隊。かくして兄も弟も戦列に加わった。

 

 太平洋戦争終結の「玉音放送」を私は北方戦線で、彼は奈良天理で聞いたという。戦争の悲惨さは今も語り継がれているが、シベリアに抑留された私は何時帰れるのか、それは全く予想もつかない、音信不通の四年余りであった。

 奈良で終戦処理にあたった彼は、多忙ながらも軍の物資の配分にあたり、周辺地域に喜ばれていた。戦後もずっと現地の方々と交流をし、復員後は関係上司の紹介で大阪商船に就職も決まっていた。翌年帰郷した彼は、父の説得と要請の前に大阪での就職を諦めざるを得なかった。兄が帰らない、ということだけで。

 

 終戦直後の混乱からやや落ち着きをとりもどした昭和二十四年暮れ、あまりにも成長した弟たち、いとこたちの出迎えに、裸一貫の私は一瞬戸惑った。それが私達二人の新しい出発であった。帰るのかそれとも帰れないのか全くわからなかった兄、今浦島のお帰りであった。両親も兄弟たちも喜びと併せて新しい局面の展開に今こそそれぞれの確かな生活設計、人生航路の開拓を迫られたのではなかったかと思う。

 

 そのころ村役場に籍をおいた弟は、町村合併による栃尾市誕生の業務担当していたようである。各界地域の皆様のご理解ご協力を得ながら、四十数年にわたるご愛顧を賜りましたことに私も今限りない感謝の気持ちで一杯です。

 栃尾まつりの花火大会に例年のようによばれ、平成五年も彼と杯を重ねていた。花火は突然の雨で中止となり見物半ばで部屋に帰り再度の杯を傾けた。堀愛泉先生の書や冊子を持ち出して、先生と栃尾のかかわりなど、誇らしく話続けていた。そんな何げない話の中で、俺もこうして長く勤めていると生涯現役ということになるかもと言った話を交えてまつりの夜は更けた。何か思い当たることが彼にあったのかどうか、今は知る由もない。

 

 花に十日の紅なく、運命のいたずらは如何ともし難い。それから約半月九月十四日夜、突然「弟倒れる」の知らせ。駆け付けた郷病院レントゲン室の前は既に急を知った多くの皆さんで埋まり深刻な面持ちで容体の知らせを待っていた。ごあいさつも尽くせない私であった。検査や診断の結果は予断を許さない状態であることに全身の力が抜けて行く思いがした。 

 集中治療室で院長はじめ医局員や家族の必死の処置看護が続けられ、意識の回復もないまま更に高度の医療をとの計らいで、長岡日赤に転院、詳細な検査治療が進められたが、主治医からは病状の詳しい説明はあっても、慎重な言葉を選ぶ厳しいものであった。

 

 病名も不詳のまま一ケ月余りも意識の戻らない状況に、付き添いの家族や職場からのご援助、涙ぐましい闘病の日が続いた。その甲斐あってか十月末漸く快方に向かい、大相撲十一月場所の頃には喜んでテレビ観戦も出来るほどになった。そのころから再度転院の話があり、日赤で出来ることはやったので今後は時間をかけての治療とリハビリを続けるようにとのことで、十一月末、郷病院のお世話になることになった。

 

 自宅に近く、そして健在だった日の思い出多い市庁舎の見える部屋に帰ったことを夫人に聞かされて微笑むなど期持のもてる日々であった。しかしそうした日も長くは続かなかった。十二月五日いつものように朝食の粥も牛乳もとり、歯もみがいてもらい何も変わった様子はなかったというが、この時突然襲った心原性ショックに再び目を開くことはなかった。

 

 あれからもう五年目、光陰は矢の如く人の命は草葉の末に転ぶ露のように空しく感じる。大きな菓子は兄、小さいほうは俺と分かち合った日々、父の実家前で弟が池に落ち、二人で泣いて救いを求めた幼いころの数々の思い出、晩年のうつむきかげんで通勤するコートを着た後ろ姿など忘れることのできない事ばかりである。

 誰にもまして頼りにしていた弟の他界は寂しい。だが彼も生涯の使命は全うしていったのだろう。今はただ安らかに眠れと祈るばかりである。

 

極限の頃                 

 一九四五年八月の北方でも異様な暑さを感じさせる夏の一日が過ぎて行った。本土決戦、一億玉砕、神州不滅のスローガンが破滅的なひびきで人々の胸に食い込んでいた。 

 戦訓は出ても広島、長崎の新型爆弾の惨劇をよく知らない私共前線でも、終末観的な思いは色濃く染み出ていた。

 十五日の玉音放送は隣接の北方軍通信隊の無線機で雑音の混じる中で聞き取ることが出来た。しかし北千島占守島では二十一日まで激しい戦闘が続けられていた。同じ二十一日我々の松輪島にもソ連軍の進駐に白旗を掲げた軍使が大発動艇で洋上に向う屈辱的な光景は、軍使の一員として加わった市内出身の某氏(故人)のことと共に今なお忘れることは出来ない。

 

 軍は天皇の命により武装解除するのであり敗戦の連続としての投降ではない。両軍協議のうえ紳士的に行われるべきとの方針は守られた。港から程近い夏草が繁るなだらかな丘の上に全員集合し、中小の武器は全てその場に集められていた。ソ達軍の兵士が二重三重に吾々を包囲し銃口を一斉にこちらにむけている。そこへ指揮官らしい将官が十数名の将校を従えてたった。通訳を通じ一通りの訓示のあと「あなた達は武装解除が終ると、すぐ日本に帰れる、だが船が到着するまで定められた場所で待機することになる」と、こうして各本部中隊等はマンドリンと呼ばれる自動小銃をもつ彼等の監視下で引揚げ船の到着を待つ毎日であった。

 

 軍需物資の引渡しでは食料や燃料を地中等に隠匿もして置いた。見つかれば大変なことになるとは思いながらも復員までの島暮しが長期化することへの懸念であった。夜になると遠くで威嚇射撃だろうか、毎日のように機関銃の音が響く。丸腰で、精神的な支えを失い無気力な日々が続く中、ソ連兵がよく言っていた「ベーストラ、トウキョウダモイ」(もうすぐ東京へ帰れる)と、ただその一言が聞きたくて監視兵に近づくことも度々であった。

 

 確かな情報もあるはずのない彼等の発言にもふれて帰郷へのはやる心を癒したかったのだ。緊張の糸がブッツリと切れ放心状態の者も、十年、二十年後には必ず見返してやると語り合う若者も薄暗い山あいの三角兵舎の中でなすこともなく約一ケ月が過ぎていった。

 夢に見る故郷の山や川、守門や粟ケ岳、父や母、祖父の顔を今一度見たい、そんな思いが日増しにつのる中、沖合に姿を現した。赤く錆びた吃水線の高くあがった輸送船、一万トンは優にあるのではないかと思われた。当時のソ連にそのような船は不足しアメリカからの傭船だった。

 

 九月二十五日乗船は完了、出航。

 一年有余、半艦砲射撃に堪え、空爆、地上掃射にもじっと堪えてきた。そして水際作戦で一挙に敵を撃滅しようと固く守り続けて来た。松輪島守備隊、独立混成第四十一連隊外飛行場大隊、海軍守備隊等々の思い出も多い島との決別の時であった。現地自活のため豚や鶏を飼い荒天のあと浜辺に昆布を拾い、トドを追った裏浜も忘れ難く、島のシンボル芙蓉山が見えなくなるまで甲板に立ち続けた。

 

 輸送船内は艤装も全くされていない、船倉内の、我々から接収した軍需物資の梱包の上に起居するという将に荷物扱い、広くて天井の高い、凹凸も甚だしく、大声で話せばこだまする変り果てた雑居生活が始まった。その中にだれが言うともなく積み荷の中に食料品のあることを知り密かに失敬、鱈肝の缶詰を抜き取り、たらふく食べた美味しさは又格別であった。

 北海道出身だったろうか、沖田准尉の奏でるバイオリンの響きが殺伐とした船倉内に流れこだましたとき、美しいものへの心が呼び覚まされたような一時もあった。しかし早く内地の港に入りたい思いでの毎日の我慢であった。 

 

 船は確かに南下していった。武装解除の際、担当の一員だった私は磁石を隠し持っていたので星空を見なくてもそれくらいは解っていた。南下して西へ、みんな北海道上陸への希望をつないでいた。しかし出航して一日余りと思うが航路は北西に転じていた。そんな情報を流しても尚師団司令部のある稚内に行くかも知れない、そうすればまだ解らない等々希望的な観測は続いた。

 

 九月二十八日晴、今日は村では鎮守様の秋のお祭りだ。今年の作柄はどうだろうか、あのおいしい赤飯が腹一ぱい食べたい等、村祭りの話題もつきない戦友との会話中だった。甲板からの話によると、すぐ近くに島が見えるという、急いでタラップを昇り上甲板へ。

 紺壁の海は凪ぎ、空はあくまで青く、風はやや冷たい、右に島(樺太)左に大陸だろう(沿海州)岸壁の青松が美しく映える海峡を低速で北上する。北辺の秋は日の落ちるのが早い、三時頃だったろうか、日は傾きかけていた。船は投錨、万事休す。着いた処は北海道ではなく、沿海州のひなびた港ソフガワニーの沖合であった。接岸も勿論出来ない上陸用舟艇での揚陸は暗くなっても続けられた。

 この港ではドイツの捕虜が既に働いていた。揚陸が終り暗闇の中、薪を焚く機関車に引かれた貨車に乗せられ何処へ行くとも告げられず、上り坂にかかると坂を上りきれない汽車を、下車してはみんなで押しながら夜の沿海州を奥地へと向かった。

 斯くして五年目に亘る酷寒と飢えと重労働、そして屈辱の抑留生活へと運命の歯車は回っていった。

 

有蓋貨車の旅            

 二〇〇〇年までに領土問題を解決して平和条約を締結する、と当時の橋本首相と約束したエリツィン大統領とロシア政府のその後はどうだろう。言を左右にして領土問題は又もや肩透かしとなるのではないだろうか。北方領土の返還なくして日ロの真の友好関係の進展は望むべくもないだろう。今日までの事態の推移は我々をして再度対ロ不信感を深めさせている所以でもあるだろう。

 『同信』前号で終戦から入ソまでの記憶をたどり、続編として又認めた。その後に続く収容所生活の入口まで述べてみる。何万入とも知れぬ同胞が永久に凍土の中に埋められていったことを思うとき、戦争を二度と繰り返さないよすがともなればと思い鉛筆をとった。

 

 一九四五年九月末、「トウキョウダモイ」と死ぬほど待ち焦がれていた我々に、いよいよ乗車命令が出た。駅舎などどこにあるのか分からないが、引きこみ線に山のように大きな有蓋貨軍が延々と続いて入ってきた。日本の有蓋貨軍の殆どが十五トン車であるのに比較すると、その三倍以上はあるようで、巨大な貨物船のように見えた。レールの幅も世界最大を誇るだけあって、日本の鉄道に比較すると大人と子供のように大きな違いである。巨大なこの貨軍を四十両も引く機関車もまた圧倒されそうな威容であった。

 貨軍には一両に四、五十人かそれ以上の者が、文宇通りすし詰めにされ乗車した。家畜が貨軍に積み込まれると、その殆どの行き先は屠殺場に決まってるが、家畜ならぬ我々の行き先はいったいどこになるのだろうか。今となっては我々の運命は一寸先は真っ黒闇である。これからどこでどうさせるのか皆目見当もつかない。絶望、そんな真っ黒い雲が皆の上におおいかぶさっていた。

 

 列車の出発寸前、ソ連兵が慌ただしく貨軍にやってきて、かつて日本軍が携帯食料にしていた乾パンの空き箱を配り、一言ロシア語でしゃべって立ち去った。空箱は全部の貨軍に配っているようだった。乾パンの空箱は二百リットルも入る内側を亜鉛で張った立派な箱である。日本陸軍の軍人なら誰でも見馴れているこの箱を見て誰かが言った。「ロスケめ、てめえら中身を平らげて俺たちにはその空箱を便器代わりにしろというのか」吐き出すような口調であった。

 便所のない貨軍の中に便器が必要な事は当然考えられることだった。それから間もなく貨軍の扉がガチャンと重い金属音をたてて閉められ、外から固く錠がかけられた。一瞬貨車の中は暗黒の世界に変わってしまった。そして間もなく列車は動き出した。貨車の中は「黙して語らず」万事はあなた任せの状態で行く先の分からない旅路へと出発した。もう「トウキョウダモイ」の彼らの言うことを信じる者はいなかった。

 

 輸送船以来食料も変わり、水も変わるために体調を崩している者も多くいた。やがて時間も経ち生理的現象が現れると、例の乾パンの空箱が役に立つようになった。用便に立つおのおのが暗い貨車の中を手探りで便器に近寄って誰に憚ることなく用を足す、トイレとの共同生活で臭いとか汚いとかいうことはもう、どうでも良くなっていた。ここまでくると人間らしい感覚は麻痺してしまったのだろうか。

 下痢患者になっていた多くは下痢のしぶり腹をしぼる排便の苦しみにもがく唸り声をあげる。ねていても眠れたものではない。

 

 列車はある時は快調にある時は坂道をあえぐように走る。夜から明け方になると貨車の床の冷えは酷くこたえてくる。体を寄せ合ってうとうとしているだけだ。やがて夜が明けたらしく引き戸のすき間から明かりが差し込んできた。もう日が出ていることを推察するだけである。夜中に三回ばかり停車した感じがしたが確かではない。それから間もなく停車して乗車以来初めて扉が開けられた。眩いばかりの太陽の光が貨車の中に飛び込むと同時に異臭の充満した車内の空気は入れ替えられた。「下車してもよい」と命令が出たので、健康な者は荷物をかかえ争うようにして下車した。辺りには駅舎は勿論民家らしい建物も見当たらない。沿線一帯は白樺や落葉松の樹海が広がっているだけであった。西へ走って来たのか東へ向かって走ってきたのか文字通りの闇夜行路であった。今考えるとウルガリからヤクドニヤ付近に移動したのではなかったかと思われるが、全員の下車が終わると夏草の茂る広場へ誘導されて人員点呼、六〇〇人を迎える収容所は下車集合地点から程近いと聞かされた。仮編成の中隊ごとに東京ならぬシベリア路を、絶望と疲労の足どりも重く監視兵の後に続いた。そこには飢えと酷寒苛酷な重労働が待ち構えているのであった。

 

 到着した三十人収容所、それは収容所の形態をなしていない朽ち果てたソ連の囚人ラーゲルであった。既に廃墟、人の住めるような施設ではなかった。しかし、代わるべきものもなくその建物の掃除や整備にあたらなければならなかった。掃除をするにも箒も雑巾もない。私たちの中隊はかつての食堂の建物だったらしく寝台はなくペーチカも外されていた。五メートル×十五メートル位の広さだったと思うが、百人の起居には狭くてどうにもならなかった。

 九月の末ともなれば遠くウラルの山々には既に白雪を望む頃、夜の冷えこみは激しく携行した毛布は一枚宛、敷布団など勿論ない板の間でペーチカもない仮住まいでは、冷え込みを防ぐことはできなかった。全員が手足を伸ばすスペースも勿論ない。五人でまず毛布の二枚を下に敷き、三枚を掛けて寝るそれも皆で同じ方向に横向きに寝ないと入り切れない。間もなく場所取りが終わり疲れた体が眠りにつこうとする頃になると、又あちこちで動き出す者がいる。トイレ通いが始まるのだ。トイレから帰ると自分の寝る場所はなくなっている。寒さから、そして水や食べ物の変化から下痢患者も多いのでその出入りが朝まで続く。目刺しのようになっての横寝では、ぐっすり眠れる夜もなく、むしろ疲れてしまう。夜半に母を呼ぶ元志願兵のつぶやきも空しくシベリアの朝を迎えなければならなかった。

 

 二日目から収容所の建設作業が始まった。我々の小隊は材料運搬の担当であった。六、七キロ離れた山の製材所まで行く。鉄道の枕木を作った残りの外側に皮のついたままの板材でガルベラと言っていた。これを山を上り坂を下ってかついでくるのだ。足は疲れる、肩はしびれる、でも作業監督を先頭に、監視兵が付添いでは勝手に休憩することもできなかった。この材料が寝台となり、屋根裏となって少しずつではあるが住まいも整えられていった。

 シベリアの収容所の殆どはソ連の囚人収容所を利用したもので、衛兵所のわきにレールの切れ端を吊し、ハンマーでカンカン叩いては起床、人員点呼、作業整列等の時刻を報せた。これなども日を追って整ったが、逃亡を防ぐ外柵や四隅の高い望楼の修理になると伐採作業や運材の仕事がはじまり炊事、ペーチカ用の薪作りも欠かせない日課であった。

 

 住まいの整備は進んでも一日三〇〇瓦の黒パンと飯盒のふた一杯くらいのうすいカーシャ(かゆ)やスープだけではとても体力を維持できるはずもなく、わずかに身に付けていた品々、靴下や鉛筆、万年筆、時計に至るまで作業先で黒パンと取り替えて食ってしまった。中には空腹に堪えきれずに、朝分配される昼食用の黒パンを作業に出る前に食い、あとは水だけ飲んで我慢する者さえいた。また、その昼食用の黒パンを腰に下げて、出入り口の混雑の中ですり取られた者もいた。

 空腹と酷寒、厳しい労働はやがて同僚の体を蝕み、東京ダモイの望みも空しく異国の丘を永遠の墓場とする者が続くのだが、後日、機会を得ることができたら再度記憶をたどりたい。

  朝風05号掲載 2007.12月