せきはんとおこわ

相模原市    浜田源治郎

 昭和二十年五月、兵役法改正による繰りLげ徴集で東寧の第一国境守備隊第四地区(満州第七七七部隊)に入隊した私は、一期の険閲を了した七月末に石門子に編成された第一方面軍第三軍独立混成第二二二旅団挺進大隊に転属させられ、開戦を迎えた。

 

 戦闘状況は省略するが、東京城で武装解除、液河での「トウキョウ・ダモイ・ハラショー」の声を信じ乗車したのが裏切られ、到着した処はビロビジャン地区チョープロオーゼロ収容所だった。 ここに収容された抑留者は、戦闘した部隊で夏服のままの軍衣は破れ、九月末のシベリヤの寒さに耐えうるものでなかった。

  私は液河で生水を呑んだため赤痢にかかっていたが、入院すると帰還できないとの流言に惑わされ無理して乗車したが、既に身体は衰弱し夜盲症になっていた。これに加えて、入ソ先の馬糧高梁の分配、古年兵による初年兵の使役(水汲み、薪とり、死体運搬)による酷使が拍車をかけ、足はヨロヨロ、肩に担う重さの肩骨への重圧、夜盲症状態での便所へ行く途中での排便、排便は粘液、拭う用に使った歩兵操典も尽きてしまった。

 

 殆んどが栄養不足と塩分不足で、顔色は青白く、体に浮腫が出始める。肌は恰も鶏の毛をむしったあとのようになり、毛穴は全部、茶色のカサブタで埋っている。虱が湧く。寒さが身に泌みる。胸は洗濯板のように肋骨がむきだす。この状態を私の筆力ではいい表わせない。

 いま、アフリカの飢餓状態の映像がテレビで放映されているが、それをヒントに想像してもらうしかない。戦友の記憶によると、この状態でのこのラーゲルでの死亡者は四、五百名ぐらいだとのこと(私は後記の次第で人数を確認していない)

 

 この状態で、私は二十一年の春、ついに心身とも疲労困意の末に倒れてしまった。

 チョープロ病院に収容され、しかも診察した軍医大尉が肺浸潤と診断して伝染病棟に入れてくれた。これが、飢餓地獄から救ってくれた神の手だった。

 私自身、ツベルクリン反応は陽性になったことはあるが、その病名の症状はー切なかったからである。栄養失調は全部の入がなっていたので、私を助けるために、私からききだして口シヤ人の嫌う伝染病に診たて入院さしてくれたのであろう。そのお名前は大森と記憶していたが、戦友は 最近になって佐藤大尉だと教えてくれたが、どこの出身なのか聞いたことがないので知らない。

 

 こうして、私は地獄から脱出したが、この病院でも、医薬品や設備が十分でなく、栄養失調で浮腫みが昂じ痩せ始めると死をまつのみで、それも金隠しに掴ったままでこと切れたり、今まで横になって話していたのが何時の間にか死んでいると、全く「コロッ」という表現しかできない死に方をするのをみるにつけ、明日は我が身かなと思うが、幸いにも死にまで到らなかった。そして、明りは松明で、食事も十分とはいえないが、天国だった。

 この天国では、一刻も帰郷したいという熱望の反面、本当にソ聯側が帰してくれるだろうかとの不安感、それよりそれまで身体がもつだろうかとの入院者の死亡を目のあたりにしての挫折感の入り混じる錯綜した心理状況の中で、一刻であれ、これらの心情を慰めてくれたのが、つぎの話題だった。夜になる。月光のさす藁蒲団に身体を横たえての話題がくりひろげられる。いろんな職業の人がいる。物識りがいる。

 話題は食物のことばかり。ドジョウ豆腐の作り方など、とめどもなく繰り展げられる。  その時の一部を、復員直後にメモった私の手記から、ぬきだしてみてみる。

 

 俺の故郷では赤飯は、もち米七合にうるち米三合に小豆をいれて蒸すんだ」イヤ、違うよ、それは強飯というもものだ」「それも違う、強飯は粳米七合に籾米三合に小豆をいれて炊いたものだ」それは強飯でなく小豆飯というもんだ」と話は進む。

 要するに、材料を炊く方法のいかんによって、赤飯・強飯・小豆飯の夫々が違うものらしいという結論で話は結着する。

 

 私の、赤飯とおこわは同じであり、地方によって呼び名が違うだけではないかと異論をいったが到々ききいれてもらいなかった。

                        朝風1号掲載 1988.2月

シベリヤの吸血鬼 ~或る抑留下級兵士の証言~

栃木県 高橋 荘吉(六十七歳)

 最近の激動する東欧情勢は只目を見張るばかり、世界社会主義勢力の城塞と称されたソ連に於ても、且って神格化されたスターリンの偶像が地に落ちて、今まで一党独裁にて下からの批判ガー切封殺されておったのが、ペレ・ストロイカの旋風によって吹っ飛び、百花騒鳴の感がある。

 民主々義の原則から言って、誰でも差別されることなく、その人々が独自の見解を公然と発表出来る自由を得たということは喜ぶべきである。

 「シベリヤ抑留」について、今までいろいろな立場から体験記が出版され、それぞれに個性のある貴重な読み物となっておるが、何れもが「ソ連の不法」に対し強制労働・食糧不足等その酷しさを記しておるが、在ソ抑留五ケ年の体験ある筆者は、別の角度からシベリ捕虜生活を活写したく思う。即ち下級兵士の視点から記した体験記である。

 

 入ソしたのは敗戦後満州海林収容所に集結してからニケ月を過ぎた十月であった。

 ダモイ(帰国)と喜んだのもつかの間、列車は西へ走り、窓外には未だ且って見たこともない異国ソ連の風景が展開されるに至り、初めて我々は騙された事を知った。

 

  このあたりから、部隊の中の人間関係は変化して行った。今までは、敗戦になっても上官も部下も仲よく故郷の土が踏めるものと考えておったのが、一変して、果たしていつ帰れるかも判らないソ達の捕虜となったのだ。帰国の希望は一転して絶望へと変わり、その気持ちの揺るぎは如何ともしがたく、希望のない心理状態は徹底した利己主義となり、古参兵や下士官による初年兵酷使へと転化して行った。下級兵士を酷使し自分達は楽した方が得だ、の気持ちが強くなった。

 

 シベリヤ鉄道を何処まで走ったか、夕方或る地点(駅はない)の森林の中で列車は止まり、雪林の中を行くと天幕が張られ、下は凍土だった。あたりの細い木を伐採し、その丸太を横に並べて寝床とした。ドラム缶にて薪を終夜燃やして暖をとるのだが、寒くて眠れたものではない。

 暫くしてこの生活から別れをつけ、幾日雪原を歩いたことか、二昼夜も歩き続けて、辿りついたのは、元ドイツ人捕虜の収容所であったのか荒れ果てた宿舎であった。二段の棚になっており、上段に寝る者は、室内でストーブを燃やすと暖かいが、下段の者は寒さに震えた。私の位置の処の壁は割れ目があり、そこから隙き間風が人って来た。寒さの中、毎夜シラミの襲撃を受けた。

 

 当時は食堂の設備はなく、食糧(黒パン)は中隊から小隊へと人数により目方をソ達人が計って配給があった。小隊二十人位の分を毎日係が受領して持参すると、隊付きの兵長で塩沢と言う男が上段の薄暗い処で二十人分に切るのであるが、捕虜規定で一食三五〇グラムとあるのを、下士官と古兵には五〇〇グラム位に切り下段の初年兵には二〇〇グラム位に切って下げ渡すのである。その中には、切りクズを握り固めて一人分としたものもあった。

 

 薄暗い上段で塩沢兵長の切った二〇〇グラム程の黒パンを、板の上に六個程が下げ渡されると、六人の中で一番の古参兵が第一番に手を出して取る。階級と年次によって逐次取るのであるが、この一片の黒パンをとる時は正に眦(まなじり)を決するが如く真剣そのもので、少しでも大きい方をとろうとする。さもしい根性と笑う勿れだ。極限の飢えの中にある時、人間は、生きるため食欲を満足させる為、一グラムでも大きいパンを取ろうとするのだ。生きる為の本能であろう。肉体を維持する為に、この毎夕の小さな二〇〇gのパンが如何に貴重な食物であったのか、それはシベリヤ体験者のみぞ知る当時の心境である。

 

 そして毎夜、上の段では同胞の血肉を食うに等しい大きいパン(五〇〇g以上)をむさぼり食う塩沢兵長一味が存在したのである。初年兵が栄養失調でバタバタ死んでいった真因は此処にあったのである。

 近眼の若い初年兵だったが、いつも最後に残った一番小さいパンを取り、雑用は一番多くやらされているうちに栄養失調となり遂に亡くなった。朝鮮人白川君も、いつも終わりにパンを取る身分であった。彼は「私は朝鮮人だからこの様にイジメをうけるのです」とも語った。

 

 毎夜、毎夜、このような差別配給がなされたシベリヤ抑留第一年目は地獄の生活であった。内心、早く編成替えになり他の中隊へ転属にならないかと希った。

 天は見捨て給わずか、翌年三月、ソ連女医により一斉に身体検査が実施された。全裸になり尻の肉をつままれ、骨と皮になると「オーカー」となり、重労働は免除され保護収容所に転入する命が出た。天にも昇る気持ちとは正にこれであった。差別配給から別れの時が来たのだ。

 

 同胞の血肉を食ったこの塩沢兵長は今頃どうしておることだろう。小才のきく男だったから若し健在ならば町会の有力者にでもなっておるだろうか。そのエセ人格者を世間は認めておるのか。極限の中の投げ出されたとき、紳士ヅラした人間は一変して悪鬼と化す現実を、私はシベリ申抑留の中で体験した。

 □先で立派なことを言っておっても、一度び環境が変化し窮状に陥入る時、紳士は一変し悪鬼と化す。権力を特つ者はフルに権力を行使して弱者を食いものにするのだ。

 

 入ソ当時、水汲み、薪割りの雑用労働は若い初年兵であり、室内でアグラかいてる古兵・下士官は大きいパンを黙って食するのである。私の隣には朝鮮入の若い特別幹部候補生の白川君がいた。

 彼が薄暗い片隅で「高橋さん、私は毎晩この小さいパンを食べる時が一番悲しいです」と述懐したことが、今でも鮮烈に記憶に甦ってくる。入ソ当時は電気は勿論無く、夜の明かりは白樺の皮を細長く帯バンドの様に切って、それを灯芯にして灯火とした。世に「奇跡」の二字あるなれば、これで日本へ帰れたら「正に奇跡」と思ったのもこの時であった。

 

 この薄暗い部屋の中で毎晩、夕食時には、上段の下士官運は大きいパンをむさぼり食い、下段の若い兵士は小さいパンを食べさせられても、一言の不平も不満も許されない天皇制軍隊であった。シベリヤに入って捕虜となっても、厳然として「上官の命は朕の命也」は生きておったのである。

 米粒ひとつ自由にならぬシベリヤ異国の地で、同じ同胞でありながら、苦しみを分かち合うどころか、血肉となる一片の配給の黒パンを、軍隊階級制度の権威によって掠め取り、自分だけよければ下級の者はどうなっても構わないとするのが彼らの本質なのである。これが世界に誇る精強関東軍の戦友愛の実態なのである。

 

 一時が万事、この様にして下級兵士には苛酷な運命がシベリヤ抑留生活には待ち受けておったのだ。この時、共に苦労した初年兵仲間が懐かしい。それは、共にいじめられ共に迫害を受け、お互いに励まし合い、語り合った仲間であったからだ。この一片の黒パンが血肉となり、衰えた肉体を支えたのだが、当然配給を受けるべき権利のある黒パンの量を、毎晩毎晩奪い取っておった彼等こそ吸血鬼でなくて何であろうか。この時に栄養失調でバタバタと初年兵たちが死んで行った。

 

 誰も書かない入ソ第一年目の冬のシベリヤ日本人捕虜収容所において展開されておった赤裸々な実態を、敢えて発表するというのも、人間とは一体何なのか、「善」か「悪」か、口には立派な事を平常言っておっても、極限の環境の中に投入されると、平然として悪鬼となる事を、私の体験を通して申し上げたかったのである。と言って私は、人間性悪説に加担するものでもない。

 

 それはこの中隊の中で、伊藤という軍曹の小隊は、上段の暗闇でパンを切ることをせず、白樺の灯火の下に軍の天幕を広げて、隊員の眼前で糧秣係が公平にパンを切り、いつも順番に配給した。そして伊藤氏は、一番最後に配給を受けていた。実に胸のすく様な爽やかな人物であった。多くの人間の中には極めて少ないが、良心に恥じない素晴らしい人物も実在したのである。伊藤氏には今でも、お会いして当時を語りたい衝動にかられる。正にシベリヤ捕虜生活は、極限とも思われる酷寒と飢えの生活の中に於て、日本人の「魂」が試される機会であったのだ。

 

  この様な軍階級制度による下級兵士への酷使迫害下にあって、民主々義の啓蒙教育がソ連当局の指導の下になされ、その有力な武器ともなったのがハバロフスクで発刊された「日本新聞」であり・民主グループの結成であった。今まで、どのシベリヤ体験記にも、ソ連当局の「不当連行」「強制労働」「ノルマの強要」等々は語られていても、日本人が同じ日本人(下級兵士)に対しての私的制裁や、下級兵士の食糧収奪を語ったものは無い。

 

 私は敢えて、己れの切実な体験から、この事実を明かにしたい。その体験から、「軍階級制度打破なくして民主々義なし」とする民主運動の先頭に躍り出たのも必然の動きであった。今まて大尉が収容所の長であったが、選挙によって所長(作業大隊)を選ぶことになり、収容所は捕虜兵士によって選ばれた人物が指導者(委員長)となるに至った。勿論ソ運所長(ナチャネコ)の管理下である。と申しても、この様な民主化運動がー朝一タに完成したのではなく、幾多の紆余曲折の展開があった。軍階級制度がもの申す雰囲気は一掃されただけても頭上の重しがとれた思いで、正に解放の喜びに浸ったのである。ソ運共産党政治郎は、この反軍闘争を利用して、日本人を共産主義者に洗脳し、その闘士として日本に送り込もうとした意図があったかも知れぬが、少なくとも私は軍階級制度の打破に力をかして呉れたソ運当局に対して、好感を持ち、正義の味方であるとの印象を強くしたのである。若し関東軍階級制度が持続したら下級兵士は殆どが生きて運れなかったであろう。

 

 当時を思うと、余りにも短絡的で単純であった様な気もするが、今でも一貫して不変な信念は、天皇制軍階級制度は絶対に復活してはならないと言う事である。茫々四十有余年の歳月は夢の如く流れ去ったが、悲憤の中にシベリヤの凍土と化した下級兵士の悲しい叫びが心耳に響く。

 

    (当時に詠みし歌)   帰るまては只ひたすらに生きんかな

                      帰る日まては只ひたすらに

 

 (註)収容所が民主運動の展開により軍階級制度が打破されて、桎梏から下級兵士は解放された時の喜びは、正に革命によりて解放された奴隷の喜びに似たものであづた。今まで横暴だった上級者の態度も豹変したのも痛快だった。食事も従来の如き分配でなく、キチット食堂で計量されて配給されるに至った。食事内容も規定通りに配給を受け、明るい収容所に変革された。シベリヤ民主化運動につき批判もあるが、数ある中で闘争の過程に於て行き過ぎもあったろうが、大勢として、下級兵士にとって民主化運動若し無かりせば今日の帰国(幸福)は有り得ないと断言出来るのである。

(元東部二十九部隊工兵幹部候補生) 平成元年七月八日記

朝風8号掲載 1990.10月

私の昭和史

東京都 加納憲

私の反抗

 最近「週刊読売」から発刊された「シベリヤ捕虜収容所の記録」を戦友が送ってくれた。そして彼は、呟くように言った。我々のいた処と違って、こんないい収容所もあったんか」と。

  ベットもいい。シャワーもある。休急所もあって、なによりもそこに写された兵士の体つきがよい。これは捕虜生活の後半のものだろうか。

 

 一方、昨年末にはソ連より、現地で死亡した捕虜名簿の一部が公開され、いろいろな反響があった。

 総じて死亡者は下級兵士が多いことが指摘されていた。私の経験においても、一番先に倒れていったのは補充兵といわれた年配者であり、次には比較的若年で、体力がありながら非命に倒れた初年兵だったと思っている。

 

 旧軍隊組織を引きずったままにソ連に入り、只でさえ乏しい食糧をピンハネされれば、その末端が一番影響が大きいことは言うまでもない。シベリヤの捕虜生活で多大の犠牲者が出たことについては、勿論ソ連の不当な取扱いは責めねばなるまいが、日本の軍隊機構もその一因であったことを是非記録されたいと思っている。

 この、生死を分けるような地獄を潜って生まれたのは所謂反軍運動、民主化運動だったと考える。

 

 さて一九四五年九月三日、松花江を遡上して黒何の対岸のレニンスキ-に上陸した。

 索漠とした初秋の河畔に大きな女が洗濯しており、彼女のスカーフが日の丸の旗であったことを覚えている。村外れの馬小屋の廃屋に、草を集めて寝藁とし、毛布にくるまって、夜空を眺めながらの一夜を過ごし、翌日、黒パンがあてがわれると、随分惨めな気持ちになった。

 

 そこで二~三日いてから、有蓋貨車に荷物のように分乗させられ、座ったままで寝るような空間でシベリヤ鉄道を一昼夜走った。「東に向けば日本に帰れる。西に走れば捕虜だ」と、誰かがしたり顔で話したが、実際には西か東か全く分からなかった。

 

 翌朝、貨車が停まって降ろされた所はビラという町で、駅舎らしきものはないが、構内とおぼしき所に材木が山積みされていた。駅前でしばらく人数の割当てか収容所の割当てか、ソ連の将校によって定められ、中隊が連れて行かれたのは町外れの収容所で、三方の望所があり、二重のバラ線で囲まれていた。ここで改めて整列させられ、数えられながら中に入れられた時に、囚人が獄に入って施錠されたような、形容のしようのない気分だった。

 

 部隊は我々の中隊以外は分散して山に入り、伐材の仕事をさせられ我々には貨車積みの仕事が待ち受けていた。 部隊は武器こそ持たなかったが、将校はみんな日本刀を下げており、軍隊組織がその侭生きており、初年兵には内勤が続いていた。

 

 十月に入ると、シベリヤの冬は駆け足でやってきた。夜中に悲鳴に似た汽笛が鳴ると、ソ連兵の「ダバイ、ビストレ」(さあ、早く急いで)の叱声がかかり、銃床でこずかれ仕事に出された。

 貨車積みといっても、直径三〇~五〇センチのニメートル材や六メートル村を無蓋車に積込み、夜明けまでに積込まなければならない。灯のない場所で馴れない仕事、夜中の空腹、肌を剰すような冷え込み、これに加えて、導者すると者内での雑務で、私の周りの初年兵がみるみる内に体力を無くしていった。

 

 大阪出身の中川が下痢を続けて栄養失調で死亡、山形出身の小山田も入院してしまった。初年兵には内勤と食糧の差別がひどかった。馬穴を焼いたのかと思われるような黒パンを分配するのは古参のT上等兵で、自らの分を隠し取り、班長の分に我々初年兵の分量より一目で分かるくらいの量が大きく、スープの中身はこれ又少ないので、それを見ながら初年兵同志で歯ぎしりした。

 

 もはや初年兵の食物の配給は、意地汚いとかガツガツしているとかいったような生易しいことではなく、命にかかる切実な問題だった。この間、中隊の一部の逃亡計画未遂事件(前に書いたが)もあったが、この問題を解決する為に、分隊の中間的存在だったS一等兵に頼ろうとした。彼は平素は上等兵に諮い、幾分自分の分け前を取ることに汲々としていたが、一方初年兵には威張って、先輩ポーズをとっていた。

 

 思い余って、私が初年兵の代表として、或る晩、S一等兵を舎外に呼んで、今まで見てきたT上等兵のことや、特に食事の分配が不公平で、他の分隊ではもっと公平に分けられているので我々の意を班長に話して、とりなしてくれるよう頼んだ。

 私は言った。

  「乏しい食事をK上等兵殿の分配で、更に減らされては、初年兵はみんな倒れてしまいます。どうか班長殿にとりなしてもらいたいのであります。」これに対しS一等兵は 「ここは軍隊であって、お前らの如き初年兵の□出しすることではない」

 私「然し軍隊といっても今は捕虜の身で、満州にいる時のように、米の飯が喰えません。僅かのパンと薄いスープも殆ど我々の倍近く分けられる不公平さを見せられ、また作業や内務作業まで初年兵扱いされると、このままでは皆がバテてしまいます。現に栄養失調で倒れた同年兵の現実を見て先輩として進言して欲しいのであります」。

 そうするとS一等兵は「初年兵のお前ら妁きの説教は受けん」

 途端にS一等兵のピンクが飛んできて、私の眼鏡が吹っ飛んだ。私も余りにも□借しいので、襟の階級章を思わず千切って叫んだ。

  「これさえ取れば階級はないだろう。これなら対等だろう。」私とS一等兵の取っ組み合いの喧嘩が始まった。

 どのくらいの時間が経っただろうか。週番のK班長がたまたま通りかかって、決着のつかない二人の間に割って入って治まった、幸いに班長は私の初年兵教育係であった為、寒い夜空の下で、お説教を受けて許されたが、斟なくとも私の肩を持っていたような気がした。

 

 然しその晩のトラブルは班長の裁きで一応終わったかに見えたが次の日から先輩一同の反動は凄かった。直接手は下さなかったものの「作業で気合いをかける」軍隊のイメージが容赦なく振りかかってきた。而も彼等同年兵は北海道出身の肉体労働で鍛えられた連中だけに、私の体力では全く歯が立たなかった。

 

 生木を二人で担ぐ時も、一番意地悪古年兵の相手をさせられ、使役と称する雑役も一番さいしょに当ってきた。私にのしかかってくる周囲の圧迫感に加え、切れ痔と今まで経験のなかったヘルニャに悩まされ、重量物を担ぐたびに、手で患部を押さえ込まねば動けなくなった。治療する術もなく、ソ連の軍医に診せる時には、時間が経過しているので外部からは分からず「ニチオウー、ラボ-タ」(異状なし、作業)で、次の日から又作業に出された。

 

 シベリヤの秋は短く、朝夕の寒さが一際厳しい。冬の寒さも未だ書って昧わったこともない厳しさだ。昭和二十年の暮れには倒れる寸前で、体力気力がすっかり落ち込んでしまった。

 

 翌二十一年患者部隊の仲間に入れられ、山の伐採収容所に移ったが、この編成替えで救われたと思った。患者部隊は、食糧は最悪だったが軽労働だった。そのお蔭で痔やヘルニヤが治まり、今迄のような上からの圧迫もないので、漸時気力が回復し、軍隊組織の崩壊の流れの中に在る自分を覚えた。

(つづく)                   

 朝風九号掲載 1991.10月

暗夜に響く哀しきアリラン

高橋 荘吉

一、 まえがき

 且って朝風第八号に「シベリヤの吸血鬼日或る抑留下級兵士の証言」を記したが、それと言うのも、シベリヤ抑留第一年目即ち昭和二十年十月初旬、満州海林収容所から、東京ダモイ(帰国)のかけ声を鵜呑みにして、浮き浮きした祖国帰還の気持ちから乗車した貨物列車は、一夜明けたら南下する処か北を向かって走っておる現実に夢は破られて、「希望」から「絶望」の渕へと打ちのめされた思いであった。

 そして窓外に展開する風景は、未だ見たこともない異国ロシアの寒々とした風景であり、心中に去来する思いは、之から一体どの様な前途が我々を待ち受けておるのか、の憂いであった。

 果して生きて祖国へ帰れるのか、内心「赤魔の国」と教育を受けていただけに「人体実験」にでも?との不安があづた。然し乍ら、之程の大勢の日本人を全部殺害することはないであろう。とにかく集団から離れなければ当面は殺される事はあるまい、との一種の楽観の気分はあった。

 

二、虜囚となりて

 単調な貨車の中で何日過ごしたろうか。やがて到着したその場所は、人跡もない大森林の中であった。囚人であろうか人影を見たが、彼等は森林の中を伐採して、幕舎を幾つか点々と作っていた。

 その幕舎の中は凍土である,凍土の上に寝るわけにはいかない。与えられたノコギリと斧で付近の樹を伐って、枝を剥ぎ丸太をつくり、それを地面に横にしてデコボコした凍った丸太の床の上で、シベリヤ大地の第一夜を体むことになった。

 幕舎の中にはドラム缶が一つあって、僅かに暖をとるのだが、煙突もない幕舎の中はもうもうたる煙が充満して眠ることも出来ない。丸太の床の上に身体を横にしてまどろむ丈けであった。

 

 それでも、「朝風」の同志である大浜勇氏が、サメの海に漂流した事やポルネオで蛇やエスカルゴを食った事を思えば天国かも知れない。

 

三、孤独流転

 この幕舎に逗留するのも旬日にして部隊移動の日が続く。シベリヤ第一年目の冬は寒気が身に沁みた。行軍途中に小休止の号令かかると、雪をかき分けて枯草や小枝を集めて雪道に焚火をするのだが、太い枝のない枯草は一瞬にしてメラメラと燃え尽きてしまう。それでも知覚が本能的に暖かい火を求めるのか、何回も小休止毎にこのはかない焚火を繰返すのであった。そして夕暮れ近く一つの集落に到着し、之れから先のトラック輸送を待機することになった。

 一夜を明かし翌日、満州から来た部隊は次々と発進してゆくのだが、トラックが満員でどうしても乗りきれない為、部隊で只一人私が後続で来るよう命ぜられた。たった一人だけ、全く知らない別の部隊の傘下に入ることになったのだ。

 宿宮地の近くに囚人が住み、夜になると闇に乗じて日本人の所持品を略奪に来た。力自慢の古兵数入で棒を持って警備に当った。

 私は中隊長の前で自己紹介して、新参者として礼を尽くし仲間入りをしたのであったが、之れからどのような苛酷な運命が待ち受けているのか、神ならぬ身の知る由もなかった。

 

四、白川君との出会い

 それから何回か宿宮地を転々として結局到着した場所は阿に添った森林地帯の中にある収容所であった。之れが冬だと言うのに未完成のポロ宿舎で、零下三十度以上の寒さの中で、土を溶かし丸太小屋の中の穴をふさぎ壁塗りをして、捕虜が越冬する家造りをする始末だ。たまたま私が臥床する場所の壁には、小さな穴があり、そこから隙間風が入り込んだ。霜柱が立つような場所であった。

 私の傍に朝鮮半島出身で特別幹部候補生として徴兵されて来た、十八才の明眸白首な好青年、白川君がおった。どう言うわけか以心伝心、お互いに気心が通じ合った。彼は異邦人ではあるが。育ちがよい’とでも言うのか一種のすがすがしい雰囲気を持っておった。

 彼は初対面の私に対し「高橋さんは他の人と異なり何か温かい人間味を感じました」と語った。毎夜枕を並べて獲物語りに彼の生い立ちを聞いた,彼は村長の息子で、早く結婚し妻子もおるとの事だ。

 シベリヤでは捕虜規定によって一人一日三五〇gの黒パンの配給があり、糧抹受領の時そのように量って小隊人数に応じて配給される。だがその配給された黒パンを公平に分けるのが当然であるのに、種抹担当のC兵長が二階の暗がりの人目の届かぬ処で切り、将校下士官そして古歩兵には大きく、我々初年兵にはせいぜいニ〇〇g位に小さく切って払い下げた。その分彼等は五〇〇gのパンを食っておったのだ。一回ならまだしも、我々は毎夜毎夜この小さいパンの配給を受けたのである。

 この話をすると「それは食い物の恨みだな」と冷笑してあざ嗜う人間がおる。飽食美食にうつつを抜かしておる者にとって、黒パンが小さかった話など、何か下品な話のように思うのであろう。米粒一つ・大豆一つも自由にならない飢餓的状況のシベリヤの捕虜にとって、生きてゆく為に毎日配給の一片の黒パンは、生きる命の血肉なのだ。

 

五.黒パンと異邦人差別

 シベリヤ捕虜の楽しみとは何であろう。「帰国出来る話」と「食べる楽しみ」だ。唯一の楽しみたる毎日のパン配給が正当に支給されず、天皇制軍階級制度の権力の傘の下に文句言うことも出来ず、C兵長に搾取配分されて、彼等の半分以下の支給とは、何んたる残酷非情な仕打ちであろうか。同胞の血肉となる黒パンを権力で掠め取る人間は吸血鬼でなくて何であろう。

 白川君も私の様に若いゆえに空腹を感ずる青年だ,彼は私に「高橋さん、私がこの様に差別迫害を受けるのは人種が朝鮮人であるからです」そ七て「高橋さん私は一番楽しい筈の夕食のパンの配給の時が一番悲しい気持ちになります」とも語ったのが、爾来五十年近くなるとも鮮明に想起される。私も全く同じ思いであった。

 私は彼に対し慰め励ます意味からも「白川君よ、決して君が朝鮮民族の為に迫害を受けるのではない。どうだ、私だって毎夜毎夜この様にして小さいパンの配袷を受けておるではないか」と話して聞かせたが、鋭敏な彼は私の説得で納得する事は無かった。

 パンの小さいのは同じでも、やはり日本人とは「上官の視線が違うのです」とも語った,この様にして彼は心の中のモヤモヤした曹屈不満を私に語る事により幾分か発散出来たのかも知れない。彼は私を異邦人の中で只一人の味方と思っておった様であった。

 

六、「アリラン」哀し

 地獄の生活シベリヤにも正月を迎える事になった。収容所の中の宿舎は殺風景で、二段に板が張りめぐらされ、上級の階級の者は上段に(温かいから)、下段は下級兵士であった。当時の中隊長は秋田県出身で名を忘れたが中尉であった.

 正月らしく演芸会をやることになった。昔の軍隊なら、炊事から御馳走が出るわ、酒保では何でも甘味品も求められて鼓腹撃壌し新年を祝うのであるが、シベリヤに入り第一年目(昭和二十一年)の正月程淋しい苛酷な思いをした正月はない。それでも咽自慢の人間はこの時ばかりと歌謡を披露した。中隊長も御機嫌であった。

 そして一応ひと通り歌が出尽くしたと思われた時、誰からどもなく「白川、何か朝鮮の歌をやれ」と大声で指名した者がおった。宿舎の中の灯火といえば勿論電気もない。白樺の皮を帯状に細長く切って灯芯としたその薄明かりで識別するのであるが、私の傍にいた白川君は小声で私に「歌いたくないなー」と嘆息するように言った。

 然し室内の空気は、有無を言わさずに命令として、朝鮮人の青年白川君に、何か歌を唄わせないではおかない様な威圧的な雰囲気が流れた。賢明な彼は、この際不本意乍ら歌わないと納まらないと察知したのであろう。やおら立ち上がって歌い出した。それは朝鮮の代表的な哀愁の民謡「アリラン」であった。

 この日の夕食も彼は、おキマリの如く、ひとかけらの小さな黒パンで淋しく済ませた筈だ。到底心から喜んで故郷の歌など唄う気持ちになれる筈がない。だが威圧強要され引きずり出されたのだ。

 彼は歌った。アリランの哀調のメロデーは彼の美声によって一層もの哀しく薄暗い宿舎内に響き渡った。

  「アリラン」

アリラン アリラン アラリヨ

アリラン越えて ゆくこころ

咲けよ花よ わたしと

なみだおちた 峠に

アリラン アリラン アラリヨ

アリラン越えて ゆくこころ

誰が知ろう 私のこころ

ひとり旅ゆく このこころ

アリラン アリラン アラリヨ

アリラン越えて ゆくこころ

空は青く 雲は白く

鳥はうたう ふるさと

 

 正に歌詞にある如く、「誰が知ろう私の心」でありシベリヤで元日本軍人の中で朝鮮人はたった一人であり「ひとり旅ゆくこの心」こそ、彼の偽りない心境であった事であろう。

 時々白樺の皮を燃やす灯火が揺らめく彼の横顔が、このほのかな明かりに映し出される。彼の今の心境からして、心から喜んで歌える筈はない。この歌の心に我が身を没入させて歌ったのであろうか、哀調を帯びて暗夜のラーゲルに物悲しく響き渡る「アリランの歌声」

 

七、シベリヤの夜は更けて

 あの日あの夜の情景は、今尚私の脳裏に焼きついて好青年白川君の面影と共に消ゆる事は無い。沈々と更けゆく中でシベリヤ元旦の夜、演芸会の思い出は、無事帰国してからも新年を迎える毎に想起される。演芸会が終了して、小用に宿舎を出た時に見た、凱々の雪原を照らすシベリヤの月光の凄絶さは、大気が澄んでおるからであろうか。

 そして、あの演芸会が催されてから数日の後になって、彼は朝鮮人なるが故に突如として一人転属する事になった。「お互いに元気で故郷に帰ろうよ」と、固い握手を交わして別れたのであった。

 茫々五十年の歳月の流れの中で、彼は果して私を思い出して呉れるであろうか。生存しておられるなら、あの当時共に苦難迫害に耐え、小さい黒パンをかじった日の事、そして人間は国境や民族を越えて友情には変わり無い事を語り合いたいものである。

 歳月は流れても、若い青春時代の記憶は忘れることはない。白川君の事も決して忘却する事なく今日に至った。

 

八、麗しきエピソード

 昨年の暮れの事である。「朝日」の声欄に、昔日本統治下の朝鮮で、愛情と情熱を以って教育に打ち込んだ一日本人教師と朝鮮の教え子とが再開した感動的な記事が出ていた。当時の朝鮮の子弟達が、日本人教師への恩愛の情忘れがたく、探し求めた末遂に九州の一角に発見、朝鮮に招待して謝恩会を開催したという。

 何たる麗はしきエピソードー 人情紙の如く、ましてや異邦人で、書ての抑圧者の国の教師の恩を忘れずその報恩の思いを国境を越えて実践なさるとは、世にも希有なる美談と言うべきであろう。

 私は、この感動の恩いと共に、この誠実な方々を通じて白川君の消息が判るやとの願いを込めて、「声」気付けにてお便りを差し上げた処、次の如き懇切なる御返書を頂戴した。

 流石六十年を経ても少年時代の恩師の薫陶を忘れることなく報恩の美挙を実践する人物だけあって、文面に溢れる切々の至情は深く心に迫るものがあった。歴史的に見ても儒教の教えの浸透したお国柄と思った。

   「御返書」

 恩いがけない突然の御悪書をいただき感激に耐えません。美しい立派な文章、そして御達筆には驚きの外過去の両国の不幸な時代を正義感に訴えたお言葉に厚く御礼を申し上げます。本当に有難うございます。

 六十年振りに久米恩師をお迎えした拙い感想文をお読みになり、私にとっては当然の事でありましても、かくも激励下され返ってお恥かしい次第であります。処が御好意のお便り朝日からの転送が遅れ、ようやく今日拝読しました。返事の遅れましたことお許しください。

 顧みれば高橋様が申される如く日韓間には不幸な時代がありました。しかしさる十一月六、七両日に亘り慶州での日韓頂上会談では細川総理は率直なる過去史に対し深く反省と陳謝は勿論両国とも新政権で過去ぱかりにこだわらず両国関係の新しい転機にすること、そして未来志向に幅広く語られましたことに感銘いたしました。

 金泳三大統領は「両国の改革を成功させ新時代を開こう」と、細川総理は「国際社会に同伴関係を固く構築する」と日韓頂上基礎演説の一部の内容でありました。したがって正しい歴史認識の確立と真情のお隣りになる努力をするのです。之から日韓両国民はお互い改めて近い国であり善隣友好のきずなを固く結びました。

 高橋様は戦中、満州・北支そして満州から敗戦後シベリ申に丸四年抑留されたとの事、本当に御苦労の程拝察申し上げます。私の事でありますが、戦中は東京に留学し昭和二十年三月十日あの東京大空襲の際、目黒区役所近くの麦畑で漸やく生命拾いを致しました。その年六月帰国し、以来国家公務員生活三十余年奉職し定年退職し今無職でおります。二男五女の父です。子供らは全部大学終了、結婚も終わり各自共自立しソウルに五人、当地金州に二人の子は別々に住んでおります。

 東京は私の第二の故郷であり、去る年十一月に四十七年振りに大阪・奈良・京都・東京を観光に回って来ました。東京も全く変わってしまいました。しかし私はいつまでも日本が懐かしいのであります。

 高橋様のお手紙に対し、余りにも感動致しましたので三十通もコピーして友人らに送った処、異□同音に立派な文章に驚き、相次ぎ称賛の電話を受けました。

 本当によかったのであります。恟々切々、且っての苦境悲惨なシベリヤ収容所で白川君兵士との「戦友愛」「民族を超越した人類愛的真情」には只々感動の極みであります。

 高橋様には韓国へ観光の機会はありませんでしょうか。お会いし過去のこと談笑できたらと思います。なんとかして白川君との再会が果たせたらと思います。白川君の事につき部隊名や隊長名等と高橋様のお写真や経歴等ご一報戴きましたら幸いであります。

 とりあえず激励のお便り頂き答信に代えさせて戴きました。乱筆の失礼何卒お許し下さい。

 百皐言言

 

 上の如き御返事を戴き恐縮した。人間愛に民族や国境はない好例と思う.

 

九、「朝風」は真実を正しく

 それにしても異境万里シベリヤの抑留の地に於て、同胞の血肉となる黒パンを毎夜毎夜掠め盗り、平然として恥ざる人間も又同じ人間である現実を正しく観ずる必要がある。

 この冷厳なる事実を正しく朝風に記録せざる時、犯罪的天皇制軍階級制度打破に阪起したシベリヤ民主化運動の正当性も後世の人々からも歴史から埋没してしまうであろう。

 且ってウランバートルでは、元日本軍人が同胞を、酷寒の大地の中で「暁に祈る」の殺人行為をしたとの証言もあるが、私は自らのシベリヤ体験から真実だと思う。人間の「魔性」とでも言うべきか。或る極限の環境下に置かれると、即ち天皇制軍階級制度の中に埋没する時、善良温順の如く見ゆる人間も一転して鬼畜の如く冷酷非情となり他人の血肉を平気呈するのだ。それが私の体験したシベリ申の吸血鬼C兵長の如く、生きる為の最小限の食糧たる黒パンを軍階級の権力絶対支配機構を傘にして着服搾取して、その結果下級兵士が栄養失調でバタバタと死んでゆく姿を見ても平然として恥ない人間となるのである。

 「朝風」刊行の意義は、侵略戦争の根本的原因の究明と自から体験した戦争の実態を微塵の虚飾誇張もなく有りの侭に記録に留める事にある。その正体を天下に明白にして、二度と再び斯かる愚かなそして悲惨な戦争に日本民族が突入する事なき様に警鐘を乱打しなければならぬと思う。

   

おわりに

 入ソ第一年目の冬、天皇刺草階級制度の強圧下、下級兵士には一言の反撥抗議も許される事なく、栄養失調と病苦の身に対し「動作緩慢だ」「たるんでる」として帯革ピンタが唸りをあげて打ち下ろされた。

 数多くのシベリヤ体験記があるが、何れもがソ連の当抑留行為」や「酷寒」と「飢え」そして「強制労働」への憎悪となっている。私が言はんとする日本人が日本人に対して軍階級制度の桂怯によって迫害を加えた事実に対し、目を向けて記したものは皆無である。

 私は敢えて、このタブーに挑戦し、自らの体験を通じて、シベリヤ捕虜収容所内の実態を世人に訴えんとするものである。

 拙ない此のような文ではあるが、無念の涙を呑んでシベリヤの雪の礦野に朽ちた下級兵士のみ霊に対して、謹みて「鎮魂の譜」とする次第である。

       平成六年二月十五日

 

【追補】 望郷の歌(シベリヤ悲歌)

一,此處はシベリヤ北の国

  飢えも寒さも労働も

  耐えて生きよう いつの日か

  帰るその日が 来るまでは

二,今日も労働 斧持って

  吹雪の道を作業場へ

  歩きながらも目に浮かぶ

  故郷で待ってるおふくろが

三,めぐる歳月耐え抜いて

  待った心を誰が知る

  生きて還れるその日まで

  夜毎に結ぶ故郷の夢

     平成六年二月二十八日作詞

 

この歌は作詞家が観念上で作ったものでなく、自ら抑留四年の体験を通じて、シベリヤの凍土の上で実感した心情そのものなのである。 高橋 荘吉(七十歳・小山市乙女三-七-一三)          

中央アジアにて 1

高槻市 古平 秀数

 北京での二年半の軍隊生活は、よそに較べたら 非常に恵まれていたが、日ソ開戦で一遍に吹っとんでしまった。その後、まさかソ連の中央アジアで、地獄のような捕虜生活がまっているとは、想像もつかなかった。当時の青年の多くは、日本が戦争に負けるはずがないと思っていた。それが、戦争に負け、六十万人が捕虜となり六万人の尊い犠牲者を出す悲惨な結果となった。

 

  生き残った者も苦しい環境の中で、重労働に追いまわされ、いつ帰れるかもはっきりしない状況下で私なども四年半も残された。鳩山首相の時に日ソ共同宣言が終戦後十一年たって締結され、最終組約二千人は十一年半振りに故郷へ帰り着いた。

 

  六十万人もの捕虜達は、ソ連全土に散在する二千からなる収容所、作業所に収容された。その生活実態は千差万別ではあるが、困苦欠乏に耐えた状況は同じであり、その体験記は色々な形で多数出版されてきた。

 

 南方戦線の捕虜記には有名な『アーロン収容所(会田雄次著)』とか『俘虜記(大岡昇平著)』があるが、それらはビルマ戦線、フィリピン戦線でのことであり、収容所の監理はイギリスとアメリカであった。そこでも皆同じような苦労をしたがソ連の抑留生活は、それらの国とは質的に大きな違いがあった。それは飢餓、酷寒とノルマに縛られた重労働の三重苦のうえに、更に抑留期間が長かったことである。

 

 太平洋戦争の末期には、特に戦局が悪化して家との通信が途絶えてしまった。家からの葉書は最終昭和二十年四月十一日付であり、私が家へ出した葉書は五月が最後であった。この頃は朝鮮海峡、対馬海峡にアメリカの潜水艦が出没し、海上輸送が不能となったため、大陸と内地との通信もできなくなってしまった。

 

 抑留先のソ連から出した家への初めての便りは昭和二十二年の五月に届いていたから、丸二年間は親弟妹達は私の安否を知らなかったわけである。その上、いつ帰れるかさえ判っきりしない状態が四年半も続いた。

 

 昭和二十年八月九日ついに日ソ開戦となり、ソ連は圧倒的に優勢な兵力をもって、満ソ国境全域に亘って進攻を開始した。我々の師団は当時満州の西の中心地である通遼に駐屯していたが、開戦と同時に作戦的後退を余儀なくされ、部隊は最後の軍用列車で幸運にも戦わずして奉天(現瀋陽市)近傍まで落ちのびた。

 

 集結地まで野道、林の中を敗残兵のようにバラバラになっての行軍であった。道中いろいろ情報が飛びかよった。最前線ではいたる所で日本軍が全滅したとか、ソ連軍には女の戦車兵が乗っているとか、軍用トラックの運転を女兵士がしているとか、またソ連には女の将校が指揮をとっているとか、当時の我々の常識では想像もつかないことであった。そのようなことは、後で次第に本当であることを知った。

 

 事実、社会主義ソ連における職場への女性の進出は目覚ましいものがあった。日本も今では先進国の仲間入りはしているが、女性の社会進出では西欧、ソ連にははるかに及ぱないのが現状であろう。それでもついこの間のニュースで、日本でも女性の校長先生が二千人を越えていると報道されて、ビックリした。社会主義国の女性進出の宣伝は、五十年も昔に、ソ連での抑留生活中に繰返し教育を受けた。電車、バスの運転手、小学校の先生など殆どが女性であると。ソ連の場合は、独ソ戦争による男子の消耗は一千万人にも達したためそのような結果になったのであろう。

 

 ソ連には体が大きく力のある女性が多かった。中央アジアで働らかされていた時の作業隊の監督に二十才位のリンゴのような赤い頬っぺたをした女性がいた。その名はワーニャといい、黒い瞳に黒髪で、恥ずかしそうに話す声はかぽそく、捕虜に対して優しかった。彼女の背丈は一八〇センチ位で腕が太く、力が強かった。

 

 我々のいた地域はソ連の流刑地の一地区であって、ここに住む者は何かしらの罪状があって、市民権を剥奪された人達であって、彼女も若いのにその例に洩れなかった。どのような罪かはわからなかったが、とに角ドイツ占頷下でドイツに協力したか、または捕虜であったか、ドイツに内通していたスパイ行為か、詐欺か、窃盗か、あるいは何か間違いで濡れ衣を着せられたか、知る由もないが、我々も何となく同情していた。

 

 その頃日本政府や諸外国でも、日本兵の行き先について正確な情報を掴んでいなかった。なんと終戦から半年以上もたってから、米英記者団との会見の席上で、ソ連の奉天司令官が「奉天地区の日本軍戦時捕虜は、シベリアの収容所に送られた。どこに、いかなる目的で送られたか、正確なことは判明しない」と言明した。            

   (続く)

   朝風28号掲載 2000.6月

中央アジアにて 2

高槻市 古平 秀数

 集結地である奉天(現瀋陽市)では、自主的に武装を解除して郊外にある北陵大学に収容された。

 ここでは約一ケ月ぶらぶらしていた。時々、ソ連兵の監視のもとで、駅の貨物の積み込みや整理などの雑役に使われた。軍の糧抹廠へ食糧受領に行った時に、工業用アルコールを失敬して水筒につめて持帰り、水で薄めて飲んだりして、うさを晴らしていた。 これから先のことも色々と考えたり話し合ったりしたが、ソ連領に抑留されるとは思ってもみなかった。早く日本へ帰りたいの一心であった。

 

 ちょうどその頃市内では、在留邦人に対するソ連兵の物品強奪、婦女暴行などが、頻繁に行われていた。この年の五月にドイツが降伏したため、ヨーロッパに 張りつけられていたソ連の大部隊は息もつがせずに、遠いソ連国境へ輸送されてきた。そのため満州に侵入してきたソ連兵は服装もひどく、教育程度の低い年少者が多く、坊主頭や腕に入れ墨のある囚人部隊も混じっていた。

 

 八月十五日は日本が無条件降伏を受諾した日であるが、満州の一部では戦斗が続いていた。そして八月十九日にソ連軍側と関東軍の間に停戦協定が結ばれたが、俘虜の取扱いについては七ケ条の協定の中には明記されていなかった。ということになっていた。

 この件については、その後、事あるごとに取り沙汰されて論争の焦点になってきた。

 明治四十年に制定されたハーグの国際条約二十条には「平和克復ノ後ハ、成ル可ク速ニ俘虜ヲ国二帰還セシムヘシ」とある。日本は調印批准しており、ソ連は条約を尊重すると宣言している。

 また連合国の日本に対する終戦処理の基本方針を明示したポッタム宣言第九項に「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且つ生産的の生活を営む機会を得せしめらるべし」とある。

 にもかかわらず、スターリンの一声で六十万人の捕虜達は、ソ連に強制抑留されることになった。奉天駅から、約四十車両からなる貨車に詰みこまれて北上 した。第一車両はソ連将校、第二車両は日本軍将校、次は衛生車、糧抹車、炊事車の順で、あと一車両ごとに約五十人単位の捕虜とソ連の警戒兵一車両で編成さ れていた。

 

 貨車の中は分厚い板を二段に並べてあり、上下にそれぞれ二十名が背のうや持ち物をベッド代わりにし、毛布にくるまって寝た。

 中央にダルマストーブが置かれ、隅には用使用の穴が切りこまれており、使用しないときは木のふたをしてあるが、使用中は下から風が吹き上げてくるので閉口した。

 明かりとりの小さい窓が四ケ所にあり、重い扉には外から錠がかけられて、食糧受領の時だけソ連の警戒兵が開けてくれる。

 

 列車に乗る前から、いよいよ日本へ帰れるものと、また、ソ連側も東京ダモイ(帰る)だと盛んに言っているので、列車が北へ向けて走っているのも、ウラジオストックから船に乗れるものと思っていた。

 一般日本人の引揚げ列車ともすれ違ったが、一般人は朝鮮経由で帰るのだと都合のよいように解釈していた。

 

 満州領内で「東京ダモイ」だと思わせたソ連のやりロは、捕虜の脱走を防ぐためであったことは、後になって解った、事実はそうではないと脱走の監視をすりぬけて、日本へ帰り着いた人達のあることを後で知った。

 

 列車は満州領内を出るまでに二週間位かかった。

 奉天から国境の黒河までは約大阪から青森までの距離であるが、輸送ダイヤが目茶苦茶であった。ソ連は自国の軍隊の輸送の他に、日本軍が長期戦に備えて 貯蓄していた大量の軍需品、長年に亘って整備してきた重工業設備その他発電設備なども分解して本国へ輸送していた最中であるから、捕虜などは二の次であっ た。

 

 待避線には、機関車や雑用のための水を補給するための、大きな給水塔が冷え冷えと立っていた。そして付近一帯に先に通過していった連中の用便の後が足の踏み場もないくらいに散乱していた。乾からびたのや、やや新しいのが。

 列車が待避線に入って一日、半日位は動かないことがよくあった。停まると満人の物売たちが、饅頭や煙草を待って「コーカン、コーカン」と叫びながら群がってきた。

 捕虜達は、腕時計、石けん、布類などと交換するわけであるが、小窓を介して時計一個と饅頭いくつと交渉が成っても、いざ交換の段になり、片方が取るだけ取ってわたさないようなトラブルがちょいちょいあった。

 

 ソ連兵は満人が寄ってくると銃でおどしたりして近づけないようにするが、警戒兵は数が少ないので、蝿を追うように追ったところは逃げるが、ソ連兵がいった後に直ぐ集まってくるといった風景があちこちでみられた。

     (続く)

    朝風29号掲載 2000.7月

中央アジアにて 3

高槻市 古平 秀数

 捕虜を乗せた貨物列車が走ったり停まったりしながら国境の町黒河に着いたのは奉天(現瀋陽市)を出発してから二十日間位たってからである。

 黒龍江(アムール河)を挟んで対岸のソ連領ブラゴエチェンスクの町は、かすんで見えた。河を渡れば直ぐにでも列車に乗って、ウラジオストック経由で故郷へ帰れるものと思っていた。

 

 プラゴエチェンスクは小さな町で、凍えるような寒さの中を六日間過ごした。それもテント生活で食料の配給も少なく、民家のとり残した馬鈴薯を拾い集めて腹の足しにした。この時の馬鈴薯の甘かった味は今も忘れられない。

 

 プラゴエチェンスクで初めてソ連の町に接したわけであるが、ソ連兵に監視されて駅の雑役に駆り出される程度で、町の様子は少しもわからなかった。

 白いペンキを塗った棚に囲まれた小さな木造の家が、ポツンポツンと建っていて、中の様子は想像もできなかった。その当時は頭の中が日本へ帰ることだけで一杯であったため、共産主義や社会主義国のことは全然興味がなかった。

 

 ブラゴエチェンスクを発った輸送列車は東北に向けて走り続け、シベリヤ本線に接続された。これから東へ向かうか西へ向かうか、大きな岐れ日にさしかかっ た直後左へ折れて、列車はウラジオストックとは反対の方向に、西へ西へ速度をあげ、今まで賑やかだった車中は一瞬にして沈黙の渦中に巻き込まれてしまっ た。

 いくら磁石を振ってみても変わりはなかった。貨車は無限に続く薄暗い林の中を走り続け、小窓には粉雪が無情にも吹きつける。この時のことは終生忘れられないだう。

 

 ソ連領へ入ってからは、ソ連側の謀略「東京ダモイ」は必要なくなった。しかし、脱走ということは頭の隅にあったが、繰り返しているだけで、とても実行できるような状態でないこともよくわかってきた。

 輸送列車は何時間も何時間も林の中を走ることもあり、バイカル湖を朝見初めたのに、夕方になってもまだバイカル湖畔を走っている、何と広い国だろうと思った。

 

 ソ連領へ入っても列車ダイヤは乱れており、捕虜は二の次にまわされ、やっとのことで目的地へ到着した。

 満州の奉天を出てからニケ月間狭い貨車に閉じ込められて何処へ連れて行かれるかもわからない汽車の旅で、顔も衣服も煤で汚れ、そのうえ栄養不足で目も落ちくぼみ、かつての精鋭関東軍の面影は消えうせてしまった。

 

 目的地は奉天から約八千キロ離れた中央アジアの中心都市タシケントから、更に五十キロにある綿栽培の国営農場(ソホーズ)であった。この土地一帯はキジ ルクーム砂漠の中にあり、ソ連革命の直後に開拓された大規模な農場で、民家らしいものは見当たらず、我々が監視付きで寝起きした収容所はその一角にバリ ケードで囲まれていた。

 収容所へ落ち着いたのは十一月の二十日で、雪が少し降ったあとがあり、シベリヤほどの寒さではなかった。緯度はちょうど青森と同じ位で、真冬でも雪がせいぜい十センチ積もる位であったが、夏の日中の気温は四十五度位に達した。

 

 収容所は長いこと空き屋であったらしく、以前はヨーロッパでソ連に敗れたドイツ軍とイタリヤ軍の捕虜が入っていたそうである。収容所の周囲は鉄条網が 三、四メートルの幅をもって二重に張りめぐらされており、その間の土は綺麗に節目がつけられ、脱走などの足跡は一日でわかるようにしてあった。

 

 四隅にある看視用の望楼にはソ連兵が看視しており、夜はシェパード軍用犬を連れて時々巡視していた。 宿舎の屋根や壁は板と土で作られており、中央にペーチカがあって小さい小窓しかなく、昼間でも薄暗く、もちろん電灯などはなかった。

 一棟に百人以上は入っていたと思うが、土間の上に柳の枝で組んだ二段の寝床の上に、藁布団を敷き上下に別れて寝る。下の段の者は上段との間が狭くて潜るようにして入らなければならず、上の者がガサガサ動くと、埃やゴミが落ちてくるので閉口した。

 この藁のマットは至極重宝ではあったが、また悲劇のもとでもあった。ソ連側の持ち物検査は厳重であり、また執拗に時々行われた。捕虜には食器(飯盆)と スプーン以外は一切持たせないのが原則であった。脱走防止と防諜上、書類、日記、時計などは取り上げられてしまった。それでも隠し持っていたものは、前述 のマットの中や枕の中に縫い込んでいた。軍隊当時、家からきた手紙や友人、恋人達からの便りも大事にマットの中に縫い込んで隠しておいたが、作業にでて いる間に、ソ連側の抜き打ち検査の犠牲にあったことが時々あった。

           (続く)

   朝風30号掲載 2000.8月

中央アジアにて 4

高槻市 古平 秀数

 下の表は昭和二十年九月三十日(終戦後一ヵ月半)に関東軍幹部と極東ソ連軍の間で結ばれた食糧協定による数字を表している。(単位グラム、一日分)

 

 黒パン 350    植物油 10

 砂糖    10    味噌  30

 米      300    塩   20

 雑穀     150    野菜   800

 肉     50    茶      3

 魚      150   タバコ  5

 

 この数値は末端の我々には通達されず、日本に帰ってから知った数値であり、実際に捕虜の口に入ったのはこの半分位であった。

 黒パンはえん麦から作られており、粗製で酸っぱく砂糖をつけて食べた。

 ソ達の労働者は黒パンが主食で、上へいくとちょっと上等な白いパンを食べていた。米はほとんどなく、雑穀で補われ、お釜がないために鍋でお粥にし、一人一人に配られた。

 

 雑穀のお粥は、アワ、コーリヤン、大豆粉、キビ、ヒエに各種の麦などが入れかわり、立ちかわり食べさせられた。いくらひもじいとは言え、まずいものはま ずいので我慢して食べた。しいて言えば、アワ、大麦のお粥はまあまあであった。ソ達では白米のお粥は上等品で、たまに食べさせて貰ったときは、とてもうま かったので、日本へ帰ってきてからバターを使って、米の粥を念入りに作ってみたが当時のようなおいしい味にはできなかった。

 

 肉は羊の油の多いものしか食べられなかった。魚は勿論、生のものは手に入らず、一年中乾燥したものを食べた。味噌などは一回も食べたことがなかった。

 野菜の八百グラムは青野菜ではなく、トマトの塩漬けを年中食べさせられた。収容所の倉庫の中に大きなコンクリートの槽があって、夏に一年分の漬物として青いトマトと岩塩をゴッソリ入れて作った。毎日酸っぱいトマトが二、三ケづつ配給された。

 

 砂糖、煙草は一人一人に分配された。煙草はキザミで新聞紙を適当な大きさに切って丸め、つばで貼って乾いてから吸っていた。煙草を吸わない者は戦友に分けたり砂糖や黒パンと交換するものも多かった。

 ソ連人の生活は、戦中と戦後が最も苦しい時期であった。独ソ戦により、モスコー、レニングラードの周辺までドイツ軍が迫り、ソ連側に人的損害は軍人の死 者千百万人、一般人七百万人という大量の犠牲者が出て、物資や食物の欠乏もひどかった。何しろ石鹸、衣類、紙類等の日常品が不足していて、捕虜にねだって いるのをよく見かけた。

 

 最初の収容所長は中尉であって、ゴリラとあだ名されていた。ひげが濃く、声はシヤガレ声で、容貌も小肥りで何となくノッソリノッソリとしていたせだろうか。

 最初の一年間は、体力を落とさないようにと外の労働はできるだけさぼった。食物の量も少なく、事あるごとに日本人通訳を通じて、その改善を所長と交渉したが、馬の耳に念仏で、かえって作業の能率を上げるように、うるさく言われた。

 

 ほどなく収容所長が交代になった。新任の所長は、まだ若くスマートで、青い日にひげ剃りあとは青く、スラブ出身の貴公子といった面持ちで、見かけは前の所長とは雲泥の差があった。

 しかし、作業成績についてうるさいのは同じであった。

 そのうちに、一般人になった前の所長をバザールで見かけた者があり、色々の情報から前のゴリラは捕虜の食糧を横流ししたために首になった、ということであった。いずれにしても、ゴリラはこの地区から解放されることはないだろうと。

 

 話しは食べることに戻るが、食料の配給は炊事の窓口で一人一人に分配される方式が、帰還の日まで続いた。炊事の勤務員は、主だったものは軍隊とか、その 他で炊事の経験のあるものがなり、雑用は身体検査で衰弱しているものを使った。食べることがすべてであるような生活の中では、一番幅をきかせるのが炊事担 当者で、お粥を柄杓から飯盆にいれる時でも、飯盒の出し方が悪いと文句を言ったり、気に入ったものには手加減するなど色々あった。

 

 作業隊は大体五十人単位位で行動し、昼食は収容所から、お粥やスープを入れたビヤ樽を馬車にのせて運び、炊事勤務員は一人一人に分配する。

「昼食だぞー」と散在している作業隊員に声をかけるが、仲々集まりが悪い。その理由は、分配する炊事員は後の方にいって、ケツを割らないように初めの方は 少なめに加減するし、スープも柄杓でかきまぜながら盛るが、どうしても実は底に近い方が多い。今考えるとおかしくなるが、飢えに対して他人のことなど考え ている余裕はなかった。

     (続く)

   朝風31号掲載 2000.9月

中央アジアにて 5

高槻市 古平 秀数

 朝の暗いうちから炊事場の窓口には飯盆をさげ、食事の分配を受ける列ができる。毎日作業隊ごとに順番をまつが、戦友の分をまとめて貰うことはできず、必 ず本人が並ばなければならなかった。初めの頃は作業隊ごとにまとめて配給を受け、宿舎へ帰って個人個人に再分配する方式であったが、間もなく取止めになっ た。そのやり方であると、分けるときに若干の多い少ないが出るためである。 

 

 捕虜になり収容所の生活に入っても長い間、旧軍隊の規律にしばられて、若年兵は下士官、古参兵に頭があがらなかった。食糧の分配でも古い兵隊達は優先し て少しでも多いものを取った。階級章をつけたままで、狭い収容所内で敬礼まで強要し、ある部隊では東に向かって朝の宮城逞拝まで続いていたところがあった そうである。もちろん、ピンタも昔ほどひどくはなかったが、弱い者いじめはあちらこちらでよく聞かれた。

 

 前に戻るが、食事の配給を各隊ごとに一括して受領してきて、一人一人に配分したものを、少しでも平等にしようとクジ引きにした。これは若年兵の不満が、 少しづつ現れてきた証拠であって、一歩前進ではあった。これでは公平に分配するのに時間がかかるので、結局、班長も古参兵も一人一人炊事の窓口へ並ぶよう になった。皆同じ捕虜だから所内でも、外の作業でも差別をなくし平等にしろと、若年兵の間から反軍斗争が起こり始めた。

 

 中尉殿、少尉殿、班長殿、古参兵殿と呼んでいたのが誰々さんと、「さん」付けで呼ぶようになったのは、かれこれ一年位たってからである。

 一例ではあるが、前には草刈りの作業に出ても、軍隊生活の古い者からよい鍬をとって作業成績(ノルマ)を上げていたものが、公平に、順番に鍬を選ぶようになった。国営農場では鍬は共用であったため、良く切れるものとの悪いものとの差が大きかった。

 自分の鍬だったらいつでも整備しておくけれども、共用ではそうはいかない。

 工具の整備については、ソ連側の監督や収容所の所長にいくら言っても改善されなかった。社会主義が悪いのか、捕虜だから相手にされなかったのか、その両方だったのか。

 

 黒パンの三五〇グラムの配給は朝二〇〇、ター五〇グラムの二回に分けて配給された。パンの目方は正確であった。それはパンの窓口の方で、秤りにのせて多 ければ削り、少なければ不足分だけ揚子に挿して加えるからである。窓口で耳の多いパン特に端っこの半面が当った時には大喜びであった。

それは噛みでがあり、後でおなかが膨れたような気がするためであった。とに角、他の食べ物でも、硬くて噛みでのあるものが捕虜には喜ばれた。

 

 黒パンといえばソ連では労働者の主食である。ソ連人が大きな黒パンを裸のまま抱いている姿を見ると、喉からつばが出てくる思いだった。それこそ夢にまで 見た黒パンも日本へ帰ってきてから食べたくてもなかった。少し黒みがかったパンはあっても、少しも旨いとは思わなかった。

 

 黒パン泥棒が横行した時期があった。朝の黒パンを食べずに、夕食の時にまとめて時間をかけて堪能したいという連中がいた。そのため残したパンを宿舎内に 置いて外の作業に出ている間に取られてしまう。また夜中にちょっと宿舎の外へ出た隙に取られる。そんなことを間くたびに、周囲の者は気まずい思いをするが 誰も同情しない。

 

 日曜日は休日であったが春になると食糧補給のために使役にかり出された。冬が去り、中央アジアに春が訪れる頃になると、捕虜の気持ちも少しは和らいでく る。農場の中を流れるかん漑用水路の両側には揚柳が芽吹き、その下を行く捕虜の列を思い出すと、何となく詩的な気分にしたる。そんな中を一時間位歩いたと ころに広い野原があって、そこで食材になる亀や雑草の採集が始まる。

 亀の大きさは十センチ位で、所々群れをなして、草をはみながらのこのこ這いまわっている。それを大きな袋にとり炊事へ持ち帰る。炊事ではそれを高温の鍋 で蒸し殺し、足をもぎとってそれを羊の油と塩とでえって料理する。これは夕食のおかずとして一人五本位づつ配給される。足の皮の部分までしやぶれるように して食べるが結構旨かった。

 蛇や蛙なども補虜ににらまれると、即座に御馳走に早変わりする。蛇を生きたままで口を割いて皮をむく特技も身につけ、栄養満点と焼いて食べたことは何度もあった。

(続く)

   朝風32号掲載 2000.10号

中央アジアにて 6

高槻市 古平 秀数

 ノルマという言葉は始めの頃には何のことか分からなかったが、次第次第に肩にのしかかってきた。

 それが帰国寸前までノルマに縛られ、一日として忘れることができなかった。日本国内でもノルマという言葉が通用しはじめたのは、ソ達に抑留された日本人が帰りはじめた頃からだった。

 ノルマという言葉はもともとロシア語であって、英佛語では同じ基準とか標準とかいう意味で、スペルは達うがノームという言葉がある。

 

 抑留中、毎日曜日とメーデー日、革命記念日は休んだが、クリスマスや正月も休むことなく一日八時間労働が強制された。

 時間内にノルマが達成できなかった作業隊または、作業班は規定に基づいた数量だけ減食された。

 消耗しきった捕虜が、正常なロシア人の作業量をこなせるはずがなかった。

 減らされた配給の食事を貰って、暗いとまり本のような宿舎で食べる時は話し声さえなかった。黙々となめるようにお粥を口に入れた。黒パンも粉々になるまで噛んで喉を通した。

 

 厚生省が舞鶴港で引揚者について作業別に集計した資料によると次の通りである。

  一般土木建築       43パーセント

  鉄道とその付帯物の建設  30パーセント

  採炭、採鉱とその付帯労働 14パーセント

  生産工業         11パーセント

  その他            2パーセント

 

 中央アジアの抑留者は主として土木建築、採炭、採鉱と栽培であった。

 社会主義国ソ連における生産計画の基礎はノルマであり、また賃金の基準になる重要な制度である。

 間くところによるとノルマは国立のノルマ研究所で業種ごとに実験的に算定されたもので、さらに地域別、季節別などを考えた詳細なもので、百貨辞典位の大きさのものが何十冊もあったそうである。

 

 規定のノルマを達成すると平均賃金を貰えるが、達成率80、81セントの時は、20パーセント引きの賃金しか賃えない。

 各作業所にはノルマ係がおり出来高を計量するのが仕事であって、作業の監督を兼ねる場合もあった。

 作業条件によって数量が変わる場合はその判定も行なう。

 抑留され、はじめての作業場は綿の国営農場(ソフホーズ)であった。綿の花の収穫が終わると、畑は水を供給していた用水路に溜まった土砂搬出作業が始まる。用水路の深いところではニメートル位あり、ノルマは一人一時間何立方メートルという標準値かおり、深さによってその値に率を掛けて決められる。それは深さによってスコップで土砂をはねる労力が違ってくるからである。

 

中でも凍土の穴堀りは絶対にノルマを達成できなかった。ノルマ帖には凍土の場合の数量がのっているが、ツルハシで打ちおろしてもカチンカチンとはね返るだけで、少し位の焚火も通用せず泣かされた。

 また綿の花摘みでも、最盛期には花がよく咲いている畑では、一時間のノルマを10キログラムとすれば、一度摘んで花が少なくなった畝では3キログラムと少なくしている。我々の作業隊の監督は可愛いワーニヤであった。綿の花を摘むのにも、取り残しのないように綺麗に摘んでいかなければならない。

 

 捕虜達は汚れた軍服に軍帽を冠り、腰には白い木綿袋をひきずって、両手を交互に使って花を摘み、袋に入れる。 取り残した花が監督に見つかると、「イジスダ(こちらへ来なさい)」と後から声がかかり、袋を引きずってバックしなければならなかった。ワーニヤのご機嫌のよいときは、ご本人が後から取り残しを摘んできた花を黙って、袋に入れてくれることもあった。

 

 「スパシーバ(有り難う)」と礼を言うと、ニッコリ笑みが返ってきたこともあった。

 さて、作業時間が終る頃になると、三三五五、皆が袋を担いで計量秤の周囲に集まってくる。多くを摘んだ者は二袋も三袋も重ねて計る。個人個人の計量秤が監督の小手帳に記録されていき、収容所の方へ報告される。初めの頃は作業隊全体の成績で食糧の減配、増配があったが、あとでは各人毎に成績に応じて食糧の分配を受けた。

 どこの社会でもあることだが、極限の抑留生活では特にひどかったのは「数量」のごまかしであった。

 これも少しでも体力の消耗を防ぐためであった。秤にかけ終わった綿の花は、一ケ所に袋からほおりだされるが、中から石ころや土の塊が混じっていることがあった。あとで監督が発見してかんかんに怒ったことがあった。

 

 秤に載せた途端にインチキがばれた場面を見たことがあった。監督ともなれば、風袋と秤の目盛を見ればひどいのは経験上判るのかなあと感心した。これらのインチキもいつも間にか、なくなっていった。

      (続く) 

朝風33号掲載 2000.11月

中央アジアにて 7

高槻市 古平 秀数

 収容所にはソ連人の軍医が二人いて、診察室と十人収容する病室があり、医療設備や検査設備らしいものは何もなかった。日本の軍医が一人いたが、何の実権も持たない飾りものだった。

 この二人の軍医は中年を過ぎた夫婦であったが、いつも厳めしい軍服をきていた。男の軍医はセムシで背も低く、風采の上がらないのに反し、婦人はスマートで狗のような小鼻が可愛らしかったが、笑った顔を見たことがなかった。

 

 びっくりしたことに、聴診器は一本の竹筒であった。我々の知っている二またから二本のゴム管を通して、両耳に達する聴診器とはおよそ違ったものであった。ちょうど子供の遊び道具の糸電話のようなもので、片方の耳をつけて局部の音をきくもので、原理的には洋式のものと同じであるが、随分と原始的なものを使っていた。

 

 初めの頃は、病室は栄養失調者でいっぱいであった。やせ細って、話す元気もなくなり、うつろのまま死んでいった戦友のことが、いまも瞼に浮かぶ。

 下着のまま、戦友が掘った凍えた大地に埋められていった。どこの収容所でも、はじめ頃に病死したのは初年兵が多かったと言われている。

 たしかに初年兵は体力的に劣っていた。平時なら兵役免除になるような弱い体質の者までが、昭和二十年頃には召集令状がきた。まともな軍隊教育についていけないような体力の青年が、まだ内務班生活が温存されていた捕虜生活の中で、そのうえ強制労働を課せられたのであるから、たまったものではなかった。 

 

 病室の特別食は極上であったため、入室は羨望の的であった。作業出発前の診察室はいつもいっぱいであった。下痢などは余程ひどくない限り体むことができず、熱があっても三十八度以上なければ、いくら具合が悪くても作業に出なくてはならなかった。

 神経痛やリューマチの者は診断を受けても休めなかった。速成の日本人通訳がいくら説明しても通用しなかった。

 

 私も体調をおとし、夕方になると体温が三十七度二、三分の微熱が続くようになり、もち論作業を休むことができなかったため、作業隊の皆に迷或-をかけたことがあった。約一ケ月半位、収容所の門で点呼を受けて作業場へ向うが、現場で体んでいる事が続いた。多分、肋膜炎にかかっていたのが中央アジアは空気が乾燥していたために、自然に治ったのだと思っている。

 

 戦地の陸軍病院で、病気が治って原隊へ帰されるのがいやで、朝夕の検温の時に体温計を毛布などで擦って温度を上げ、退院を延ぱす話をよく聞いた。

 上げ過ぎて体温計を狂わせてしまった話など。同じようなことが当然収容所の医務室でも行われ、旨い汁を吸った者も、ぱれた者の話もよく聞いた。

 

 ソ連側では発疹チフスの流行を非常に恐れていた。月に二回下着類の高熱滅菌が行われ、人間もサウナの様な熱い部屋で体を拭き、シラミがたからないように腺の下や局部の毛は綺麗に剃らされた。

 全ソ連に散在した捕虜の管理の中で、必ず同じような方法で検査が行われたのは月一回の体力検査であった。我々の収容所では各隊ごとに所内の広場に集合し、女医が捕虜の一人一人の脊部をひねって、その弾力によって等級を判定した。

 

 等級には一級から五級まであると書いている捕虜記もあったが我々のところは一級(普通の作業に耐えられる者)、二級(軽作業)、三級(所内の軽作業で休養を要する者)位に別けておったと思う。

 三級は所内に残って軽作業に服していたために、炊事の残飯にありつける機会が多く、またたく間に体に肉がついてくる。検査の時は誰でも三級(オカー)になりたいと思った。

 

 女医のつまみの検査は在ソ引揚者の共通の話題であった。下半身裸で、男性の象徴を露出しなければならず、捕虜の一人一人を点検しているので、前向きになったとき厭でも女医の目に触れる。しかも手術の時のように、毛を剃ったところにポツンと男子の象徴があらわになるのであるから、これ以上の侮辱はないと、息まいても始まらないのが捕虜の悲しさであった。

 

 日本の徴兵検査では必ず性病の有無を調べられるが、相手が男の軍医であるから半ば許される。話がそれたついでにもう一言書くと、徴兵検査の時に性病で引っかかる者がちょいちょいいた。そして、彼等は大勢の前で徴兵検査官に徹底的に絞られ、最後まで検査場に残された。

 このような評判は直ちに村中に知れ渡り、恥じさらしにあった。その反面、甲種合格であったら赤飯を炊いて、親せき中にふれ歩いた時代であった。今の若い人達には想像もできないあろう。

   (続く)

朝風34号掲載 2000.12月

中央アジアにて 8

高槻市 古平 秀数

 終戦からソ連抑留へと思いもかけない環境の変化の中で、旧軍隊組織は約一年たった頃にやっと崩れ始めた。空腹とノルマによる強制労働で心身ともに疲労しきっている中で、下級の兵隊は内務班生活の延長である上下の差別で泣かされた。食糧の分配でも下士官や古参兵は上前をはねたり、作業に出ても楽な方を選んだ。

 

 棉畑は一望千里といっても過言ではない位の広さで、二年間働いたが広すぎて畑の端まで行ったことはなかった。 一畝の長さが百メートル、二百メートルという長いのがあり、朝、棉の花を摘み始めても夕方帰るまでに一本の畝を採りきれないようなところもあった。棉の花のよく咲いている畝には古い兵隊が優先的に入り、ノルマに達したらせっせと引揚げる。

 

 棉の成長期には畝の雑草刈りをするが、古年兵は優先的に使いやすく、よく切れる鍬を選んで雑草の少なそうな畝に入る。ノルマは一日何百米という長さで示されていた。

 月二回位の衣服、下着の交換の時でも、古年兵は先に好いものを持っていく。所内の雑役も下級兵が率先して出ていかないとドヤされる。

 隊によっては相変わらずピンタが横行していた。

 一年たっても階級章をつけて敬礼を強要していたしまた、ソ連側は軍隊祖織を維持していた方が、作業能率が上がると見ていた。二年間位で帰った引揚者一の中には、旧軍そのままのところもあったそうであるが、多くの収容所では下からの突き上げで、反軍闘争が自然発生的に起こり、民主化運動へと発展していった。

 

 厚生省の資料によると、抑留者の民主化運動が荒れ狂うまでの経過を次のように分類している。

 第一期懐柔時代(入ソ最初から)

 第二期増産時代(入ソー年たってから)

 第三期 教育期間(昭和二十三年当初から)

 ソ達当局は参戦前から日本人を抑留して強制労働させると同時に、政治教育を施して社会主義的人間に改造しようと計画していたことは、色々な証拠から証明できる。日ソ停戦協定が結ばれたーケ月後に「日本新聞」の第一号が発刊された。発行所はソ達の東端に位置する沿海州の主要都市ハバロフスクにあって、ここには日本人が七十名とソ達人六十名がいた。

 

 編集、印刷の他に地方に散在する収容所に行って民主化運動や教育の指導に従事していた。

 日本新聞は一般抑留者がほぽ帰国し終える昭和二十四年十二月末まで通算六百五十号まで発行された。

 編集や指導に従事した者の中には、戦前日本国内で左翼運動に参加した闘士も含まれていた。

 この日本新聞を帰国の時にソ達の検査官の日を盗んでわずかに持ち帰った例はあるが、平成三年に全号の復刻が全三巻として朝日新聞社から発売されている。これを図書館で見た時には当時を思い出して感無量であった。

 

 中央アジアの辺ぴな田舎にあった我々の収容所に配布されはじめたのは、入所して三ケ月位たってからであった。週に二、三回ぐらい五人に一部位の割合で配られた。はじめのうちは、将校に没収されたり、読んでいるところを見つかると怒られるので、隠れて読んだりした。

 収容所にソ連の政治部将校が専任されるようになってから、日本の将校は「この新聞はソ連の宣伝紙であるから」と、反対はするが没収することはなくなった。

 

 新聞の記事はソ連社会主義賛美にはじまり、米ソ対立の中の国際情勢、混乱状態にある日本の国内情勢、天皇制近代日本吏、マルクス、レーニン、スターリン主義の理論、それから各収容所における反軍闘争の実態などがタブロイド版四ページに記載されていた。

 

 初めのうちは、そんな記事を読んでも信用せずせいぜい刻みタバコの巻紙やメモ代わりに破って皆で分けていた。 長い間に培われた日本人の思想を、そう簡単に洗脳できるものではないが、旧軍隊組織の矛盾や貧しかった戦前の家庭生活、資不主義の弊害などを繰り返し教育されると、日本新聞に書いてあることも満更嘘ではないと思うようになっていった。

 

 川上肇の「貧乏物語」やマルクスの「共産党宣言」なども一部転載されるようになっていった。日本新聞の編集責任者は元タス通信社の日本特派員として、八年間の滞日経歴を持つコワレンコ中佐(当時)である。

 その後対日政策の強硬派として党中央委員会の要職にあって、昭和三十六年、ソ日協会代表として来日したのを皮切りに三十回近くも訪日している。

 

 日本軍はアジア全域に亘って、ソ連のほかに中国、アメリカ、イギリス、オランダ等の捕虜として取り扱われたが、ソ連のような徹底した思想教育は受けなかった。

   (続く)

      朝風35号掲載 2001.1月

中央アジアにて 9

 高槻市 古平 秀数

 中央アジアのカザヒフスタン共和国での、綿栽培の作業は、一年二年と続いたが、一向に国へ帰れるような気配が無かった。たまに汽笛の音がかすかに聞こえてくると、″サー、国へ帰れるぞ″とデマが飛び交う。また忘れた頃に同じようなことが繰り返される。これは綿の積み出しの列車であることを後で知った。

 労働のノルマが仲々達成されない時は、しばしば、朝の所長の訓示で、「成績のよいものから日本ヘダモイ(帰る)できるから頑張れ」と発破をかけられることがあった。我々にしてみれば、だまされだまされ働かされたとしか解釈できなかった。

 

 いつ帰れるかという見通しは全然なかったので、一生働きずめで異国に骨を埋めることになるのだろうかと思うことがしばしばあった。収容所の夜になると、暗い灯火の下でいかさまの″こっくりさん″という占いをする教祖がいた。いつ日本に帰れるかを占うわけであるが、馬鹿馬鹿しいとは思っていても、その日がくるまでは、溺れる者は藁をも掴むという心境であった。

 ″こっくりさん″は狐狗狸と書き、日本の民間で行われている占術で、明治二十年頃各地方にわたって流行したと、後になって知った。

 

 こんなこともあった。「全員、私物を持って集合」という声がかかり、それっとばかりに、今度こそは、日本へ帰るかも知れないと、半信半疑で広場に集合した。点呼のあと、ソ進の自動小銃を持った警戒兵に監視され、人家のない芒々とした道を七、八キロも歩かされ、着いたところは有刺鉄線によって囲まれた収容所であった。行先も知らされずに、前と同じような収容所へ移動させられた。こんなことが二年の間に四回位あった。作業場への往復時間の短縮のためだと後でわかった。

 

 ソ進に抑留された日本人は約六十万人で、シベリア、中央アジア、モスコー、コーカサス地方と全三十二地区二千分所に収容された。それらの収容所はほとんど、ソ進入の受刑者、独ソ戦で敗れたドイツ人やイタリヤ人の捕虜が入っていたところである。入りきれなくて、急造の収容所もあったとか。

 

 日本へ早く帰りたいの一心。労働はきつく、食事は少なく、厳しい気候の中で、体力は衰える一方で、よその収容所の脱走の噂も時折聞こえてきた。有刺鉄線を二重に張りめぐらした収容所の四隅にはソ連兵の監視塔があり、それに軍用犬を連れて周囲を巡視する警戒の厳重さからみて、とても脱走はむずかしい。我々の五百名からいる収容所では脱走者はなかった。

 

 広い線畑で捕虜が五十名単位で散在して作業している時は、初めの頃はソ進兵は三、四名ぐらいで監視をしていたが、二年目頃からは一名か二名位になった。逃亡したところで砂漠のような中で狼に喰われるか、餓死するのがせいぜい。

 

 はじめのニ年余りいたパフタラールという田舎は、カザフ共和国の南の方にあり、南緯四十一度位であるが、大陸性の気候で夏の日中には最高四十五度位まで上昇し、そんな中で畑の作業をした。しかし、空気が乾燥していたため、木陰に入るとそれ程でもなかったが、直射日光を受けての作業はきつかった。

 

 収容所には小さな淀んだ汚い池があり、その水で、炊事用、飲料用、雑用、さらには体を拭いたり、下着の洗濯にまで使った。衛生的には極めて悪かったにもかかわらず生き延びてきた。乞食が不衛生な生活をしていても何とか生きていかれるのと全く同様であった。

 

 便所ときたら全くお粗末なもので、本当に情けないと思ったが、捕虜の身ともなれば、文句の持っていきどころがなかった。丸太で骨組みをした柱と梁に藁で屋根と壁をふき、大きな深い穴を掘り、大小便は厚い板を二枚平行に渡して、それにまたがり用をたす。前後には何の仕切りもなく、全くのオープンの状態で恥も外聞もなかった。

 便所用の紙などなく、綿の花をつんだものを内緒でラーゲル(収容所)まで持ち帰り、枕の中に隠して必要に応じて取り出して間に合わせた。夏になると蝿がブンブン、冬は外気の温度と変わりなく、寒い中で早々に用を足して毛布にもぐり込んだ。

 

 夜になると藁布団毛布二枚にくるまり、夕食を済ましたら寝るより他にすることがないので、せいぜい。ペーチカの回りで駄べるか、寝台の隣り同士で昔の話を倦きもせず繰返すのがせいぜいであった。

 昔の話題になると先ず食べる話から始まる。美味しかった食物の話、料理の作り方の話など結構つきることがなかった。皆よだれを流しながら話したり聞いたりしていたと思う。

 

 やせ細り、疲れきった捕虜達の間には、エッチな話は全然なかった。年輩者といえば、急造の召集兵で中には四十才に届く位の者もいたので、家庭の話しを懐かしがってよく話してくれた。そんな人達の中にも、飢えや寒さで亡くなった人達が多かった。

 その無念さは生き残って日本へ帰れた者達には察しきれないものがあったと思う。何しろ六万人の人達が現地で亡くなったのだから。

   (続く)

       朝風36号掲載 2001.2月

中央アジアにて 10

高槻市 古平 秀数

 戦争がおわったのが昭和二十年八月、それから中央アジアのパフタラール地区で、綿の栽培作業に二年余り従事した。そして昭和二十三年一月に、数々の苦難の思い出を残して、新しい地区へ移動した。

 そこは、パフタラールより北へ約千キロメートル、北緯五十度にあるカラカンダという炭鉱の町であった。カラカンダはこの地方の中心都市であり、大勢の日本人捕虜が初めから働いていたが、少しずつ日本へ帰っていったので、その補充要員として我々が移ってきた。

 

 パフタラールの冬は、雪は降っても十センチ程度で、それほど寒くなかった。カラカンダはシベリヤほどの極寒ではなかったが、冬はマイナス三十度位まで下がり、野外の作業など、とてもできる状態ではなく、マイナス二十度になったら作業は中止になった。

 ここは我々が移動してくるまで、ドイツ人やイタリヤ人の捕虜と一緒に、日本人の捕虜も炭鉱で働いており、落盤事故で命を失った者も多数いたそうである。

 

 収容所は町の外れにあり、市民との接触はほとんどなかった。パフタラールの収容所の建物は屋根壁とも土で作られ、床板もなく土間で生活していたが、カラカンダでは木造の建物で、床は板敷きであった。また食堂や集会室なども独立してあり、パフタラールでは食事は自分も寝台の上でしていたが、ここではうす暗かったが電灯があり、机、椅子で食事ができるようになった。

 

  カラカンダヘ移って、帰国するまでの約二年間は、主として煉瓦建ての建築作業であった。実際に鏝を使って煉瓦を積むのは、日本で経験したことのある本職達であった。我々素人は、その助手として、煉瓦やセメントを彼等の手元へ運ぶのが仕事であった。

 

  実際に労力を消耗するのは手元役であって、一輪車に煉瓦やセメントを積んで、手と足に力を入れ、よたよたしながら運ぶのは大変なことであった。特に、マイナス十度以下の屋外でハーハー白い息を吐きながら二階、三階まで、勾配のついた足場を滑らないように昇り降りしなければならなかった。

 

  一日のノルマは煉瓦何個、セメント何杯ときめられており、もちろん一階、二階、三階で差はつけられていたが、単純労働ということで、ノルマー○○パーセントの達成はむずかしかった。それに引きかえ、熟練工達はいつも一五〇パーセント位をあげており、夕食は量が多かったのに反し、雑役衆はいつも、腹ペコで指をくわえている始末。

 また、熟練工達の余した食事欲しさに、群がるオヤジさん達も居ったが、捕虜には恥も外聞もなくなっていた。

 

  マイナスー○度以下になる野外作業では凍傷にかかる者が多かった。「おい、お前の鼻おかしいぞ」と云われた、戦友の鼻先は白くなりかかっている。

 そのような時に、焚火や部屋の中へ入って暖めるのは御法度で、雪で直接こするのが、良い方法であった。間違うと鼻先がただれるとか、腐ってくる。頬の少しとがっている部分なども凍傷にかかりやすい。

 凍傷になりかかった部分は一時茶色に変色するが、日数がたつと元に戻る。また足の先も凍傷にかかった者もいた。

 

 捕虜の衣服は降服した時のままであったので、次第に破損していったので綿入れのソ連兵のお古を着るようになった。冬はフェルト製の防寒長靴が支給された。毎晩乾燥室にいれるが、靴の先の方が充分乾いていないと、作業中に指が凍傷にかかることがあった。

 

 三年目、四年目になってくると、万事、要領よく、その日を過ごすようになった。ノルマの成績がよいときは僅かではあるが、月ごとに賃金が分配された。

 職場でもソ連監視兵の許可を得て、近くの売店で黒パンなどを買うことができた。捕虜もソ連人と接触する機会が少しずつ増えてきて、この土地に、一般の日本人がいるという噂がたった。

 

 それは満州でおきたノモンハン事件の時の捕虜であって、ソ連の雪融け政策が進んできた頃から、日本のマスコミにも採り上げられた。

 ノモンハン事件は、満州(現中国東北)のソ連と国境を接する西北のノモンハンで、日本とソ連が、国境問題が原因で、軍事衝突を起こした事件である。

 日本の精鋭関東軍は、ソ連の大量からなる新鋭機械化部隊と戦ったが、惨敗に帰した。中でも一万五千名の小松原中将の率いる第二三師団は全滅状態で、死傷率八○パーセントと戦史に残るような敗戦であった。

 この戦闘に参加中、軍旗を焼いて戦場で自決した連隊長が二名おり、連隊長(大佐)級で戦い利あらずして自決した幹部もいた。また、軍司令部から無断退却などの理由で、責任を問われて自刃する将校も多数出た。

 

 カラカンダの地方に住みついた日本人は、ノモンハン事件の停戦協定で、双方の捕虜は同数交換が条件となりそれからはみ出した日本兵士の一部ではないかと云われている。

 また、ソ連の捕虜になり、汚名をきたまま日本へ帰れないため、ソ連永住をきめた人達であるとか色々な説がある。

  (続く)

    朝風37号掲載 2001.3月

中央アジアにて 11

高槻市 古平 秀数

 カラカンダヘ移動してから、食事も少しはよくなりつつあった。病弱者や労働で良い成績を上げた者などが、少数ではあったが、三年目頃からボツボツ祖国ヘ帰りはじめた。その話題も日本新聞の記事にでるようになり、収容所内の空気も明るくなりつつあった。

 

 所内では色々な娯楽がはびこり始めた。まず囲碁、将棋、花札、碁石や駒は柳などの柔らかい枝などを切り、蚤を作って文字を書き、盤を作って楽しむ者がでてきた。また所内専属の、炊事勤務者、衣服修理工、木工大工などの人達は、麻雀を夜遅くまでやっていた。黒パンや砂糖、たばこなどを賭けていたようだ。

 

 その他に、短歌、俳句などは、紙に鉛筆があれば手をかけずにできるものであったが、我々の収容所では祖織されなかった。地区や収容所によっては盛んだったことを後で知った。日本に帰ってきてから、個人で、またはグループで句集を出版している。

 

 旧軍隊の制度が次第に崩れてゆき、上級者も下級者に対して「サン」付けで呼ぶようになった。それと同時に、日本新聞による各地の反軍闘争の記事なども、初めの頃は半信半疑であったが、次第に新聞を読む連中が多くなっていった。反軍闘争から身主化運動へ、この民主化は社会主義思想への入り口でもあった。

 

 カラカンダには日本人捕虜が一万人以上もいた時期もあり、我々の収容所も千人位はいたと思えパフタラールという田舎から、大きな都会へ移動してきて間もなく、この地区の指導員の一人である管李治(かんすえはる)さんが、我々の収容所に来て、ソ連の政治部将校の話を通訳した。もちろん、先進社会主義国ソ連の言伝であった。

 

 パフタラールの頃から、日本新聞の論読会などで親しくなったグループが、管さんを囲んで討論会を時々するようになった。しばらくして、この地区で政治講習会があるというので、当十九ラーゲルから三人が選ばれて労働なしの三ケ月の講習会に参加した。

 

 彼らが集合教育を受けて帰ってきたが、生れ変ったように積極的に民主化運動に専念し始めた。

彼等は、きつい労働は免除され、所丙に残って宣伝教育業務に携わった。そして、所丙にも講習芸が祖織され、彼等が講師となり、生徒は一期一ケ月二十五名が労働から免除され、朝から晩まで勉強に励んだ。私もそのうちの一人であったが、帰国するまで五期続いた。

 

 講習会の課目は、天皇制反対の歴史、ソ同盟共産党小史、ソ連社会主義、国際情勢、国際社会主義、マルクスの共産党、マルクス=レーニン主義の基盤、プロパガンダ=アジテーションの実習、批判会の実践指導その他、参考資料についての討論会など、ギユーギユーに詰めこまれた。いわゆる洗脳教育の一環であった。

 

 日本新聞社からは、川上肇の「貧乏物語」、市川正一の「日本共産党史」、スターリン伝、オストロフスキー「鋼鉄はいかに鍛えられたか」、フーチクの「獄中の記」など日本語に訳された共産主義の啓蒙書が送られてきた。

 収容所の中の民主化運動が昂揚し始めてきたのは講習会の卒業生が夜になると各バラックに飛びこんでいって、アジプロや反動分子の摘発をやるようになってからである。そして収容所には民主委員会なるものが組織され、委員会の下に組織委員、宣伝委員、作業委員、給与委員、更正委員等が選出された。また、各作業隊ごとに競争で壁新聞が張り出された。

 

 作業の方も、ノルマが上がるようになると、給与も良くなり、体力もついてくるし、良い方へ向っていった。民主化運動の積極分子は、胸に「アクチーブ」とロシア語を打ちこんだ鉛製のバッジをつけた。

 今考えると、子供じみた遊びにすぎなかったと思う、そして、更に若い者ばかりの青年行動隊なる作業隊をつくり、同門を出る時には「民衆の旗赤旗は、戦死の屍をつつむ・・・」の赤旗の歌を、その他「インターナショナル」「聞け万国の労働者」「スターリン讃歌」など労働歌全局唱しながら出発し、帰る時も同じように歌いながら門に入った。

 

 四年目頃からは、ソ連の監視兵の代りに、アクチーブが作業隊の警戒、人員の掌握を任せされるようになった。この頃の、日本、世界の情勢は捕虜に配布されていた「日本新聞」で大体の様子は知っていた。

 参考までに挙げると次のようなことがあった。

 

昭和二十三年十二月 東條元首相ら七人の絞首刑執行昭和二十四年一月中国人民解放軍北京に入城

昭和二十四年五月 帰国者達の共産党集団入党

昭和二十四年七月無入電車暴走(三鷹事件)

昭和二十四年十一月 吉田首相単独講和に応ずると答弁

   (続く)

    朝風38号掲載 2001.4月5月合併号

中央アジアにて 12

高槻市 古平 秀数

 収容所の中に民主委員会ができ、アクチーブ(積極分子)が大手を振ってまかり通るようになってから、内部の対立も日毎に激しくなってきた。その中でソ連側は政治部将校を派遣して、思想教育や内部情報の収集にも力を入れるようになった。

 

 或る日突然、政治部将校から呼び出しがあり、小さな部屋で机を介して話をする機会がもたれた。彼は色白で眼鏡をかけ、見るからに好感の持てる青年将校でしかも旅暢な日本語を話すのには驚いた。

 政治の話から、収容所内の人間関係や噂話などを聞かれた。その揚句に、収容所内の色々な情報を知らせてほしいと言うことで、次の週の日曜日の夜、医務室に来いと約束されてしまった。この事は絶対に他言してはならないと釘をさされた。

 

 約束の日が迫ってくるにつれ、あーだ、こーだと考えぬいた末、忘れたことにして、しらばくれることにした。その後いつ呼び出しがくるかと内心、情報提供を拒否したことで帰国でも延ばされるのではないかと、心配してきたが、いつまでたっても呼び出しはなかった。

 

 どこの国、どんな組織の中にも対立は存在しており、そのためのスパイ行為は、大なり小なり、中には命にかかわるようなことも内在している。特にスターリンの独裁政治のなかでは、血みどろのスパイ戦が繰り広げられ、対立相手を抹殺してきた。捕虜相手の啓蒙紙 「日本新聞」事務局の日本人指導者の間にもあった。

 

 シベリア天皇と言われた日本新聞の編集責任者浅原正基(ペンネーム諸戸文夫)氏は、昭和二十四年八月にハバロフスク地区の日本人捕虜代表団長に選ばれスターリンに「感謝決議文」を手渡すためモスクワに行くことになった。 ところが出発の直前になって、ソ連官憲に逮捕された。

 そして、内務省の捕虜管理局政治部に呼び出され、ハバロフスク市内各収容所の代表各二十名の前でソ連側から、浅原は「日本新聞」に潜入したスパイだ、という告発文を読み上げられた。

 その場で逮捕され、取り調べ用の営倉に放りこまれ、その後、弁護人なしの軍事裁判でスパイ罪を適用され、強制労働二十五年の判決を受けた。この事件は同じ日本人捕虜の密告によるものであった。

 その密告者は帰国後、日本共産党に入り、東京都委員などをした人で、すでに故人であるが、シベリア民主運動でも、ソ連忠誠派の熱心な活動家であったそうである。

 

 浅原氏は一般捕虜が昭和二十五年初めに引き揚げを終わったあと、更に六年間ソ連に残された。

 氏は東大の社会学科を卒業したが、在学中に学内の軍国主義の侵入に反対したため卒業後検挙きれ懲役二年、執行猶予五年の判決を受けている。

 

 敗戦時、五日間ほど逃亡ソ連兵を収容していた特務機関直轄の保護院の臨時衛兵についていたことが、ソ連刑法に触れ、戦犯として懲役二十五年を言い渡される原因となった。

 

 前号に通訳として紹介した節季治(かんすえはる)氏は、我々同じ昭和二十五年十一月に故国の地を踏んだが、翌年四月六日に武蔵野市百祥寺付近で鉄道自殺をとげた。服の内ポケットに入れてあった岩波文庫の「ソクラテスの弁明」と「物質とは何か」は衝撃によってひどくねじまげられていた。

 

 管氏のことについては、沢地久枝著「私のシベリア物語」新潮文庫に精しく述べられている。そもそも原因は「徳田球一要請問題」にある。

 昭和二十五年二月に、カラカンダ収容所にいた捕虜たちが連名で、当時の日本共産党書記長徳田球一氏を「引き揚げ妨害」として国会に訴えたことがある。徳田氏がソ連当局に書簡を送り、「立派な民主主義者として帰国させてほしい」といった内容の要請をしたことが「日本新聞」で取り上げられた。国会の考査委員会では多くの証人を呼び調査した。

 

  「反動は帰国させるな」といった覚えはないと徳田氏は否定した。考査委では事実だったと認定されたが、証人として考査委に出頭した一人、萱草治が再出頭の前日、自殺をとげた。

 管さんは、私の印象では、物静かな眼鏡をかけた学究肌の人で、闘士といった面影はなかった。

 東京文理大(現筑波大)出身で、北海道の高等女学校の教師をしている時に召集され、関東軍の見習士官で終戦を迎えた。

 管さんは収容所へ入った当初から将校の階級章をつけず、「五箇条の直喩を唱えず、敬礼する兵隊に対して「なぜ敬礼するんだ?」と問う男になる。

 将校団からただ一人、兵隊と一緒に屑煉瓦運搬作業にも出た。

 カラカンダの収容所にも政治運動の波が及び、管さんも「民主王義的」な講話をさせられ、壁新聞も作る。

 明治維新以後の天皇制を批判して、「カンを殺せ」と言われることもあった。帰国後、積極分子の中には共産党に入党するものが結構居たが、管さんは入党しなかった。

(続く)

     朝風38号掲載 2001.4月5月合併号

中央アジアにて 13

高槻市 古平 秀数

 昭和二十四年の末に帰国できたわけであるが、この四年目は作業能率も上がり、随って食事も少しはよくなった。民主化運動も盛んになり、反動の摘発、大衆の前での吊るし上げが公然と行われるようになった。作業隊の間ではノルマ向上の生産競争が行われ、表彰や優勝旗授与など、のんびりしていられなくなった。

 

 各収容所には劇団が組織され、演劇や音楽サークルが他の収容所と交換訪問するようになり、日曜日の半日は暇をつぶすことができた。劇の内容は必然的に進歩と反動の取り合わせで、社会主義万々歳で終る他愛のないものだった。楽器はアコーディオンがもっぱら使われ、中には何処から探してきたかバイオリンの独奏などもあった。

 

 帰国後、共産党の後援もあり、引揚者の劇団が演劇、合唱、ロシア舞踊などを目玉にして、国内を巡回したが数年で解散した。

 また野球の試合をするような余裕もできた。バットは木を削り、グローブは布で縫い合わせ、ボールは皮を見付けてきて縫い合わせ、硬球を作った。ボールはカーブやドロップの変化球も投げられるものだった。収容所の広場は狭かったが、試合の時はソ連の職員が物珍しく見に来てくれた。日本人通訳が一生懸命説明している風景が今も日に浮かぶ。

 ソ連人には有給休暇があったが、捕虜には日曜日の他には一月一日と十一月七日の革命記念日だけであった。 雨が降ったり、気温が零下二十度以下にな作業ができない時は、休みになるが、その振替に日曜日は作業に出なければならなかった。

 正月と革命記念日には、ソ連側から特別な御馳走が支給される、ということは一度もなかった。

 旧軍隊では、それでも祝祭日には赤飯にお頭付の魚とか、色々な御馳走がありまた酒、羊かんなどが下給された。

 捕虜の身分で、配給される食料を少しずつためておき、年取りと革命記念日には知恵を絞って御馳走を作ってくれた。

 

 家との通信は、三、四ケ月に一回位できるようになった。当地から出した葉書は家に保管されていたが、家から来た葉書は三通だけ帰国の時に下着に隠して持ち帰った。その中の一通は母からの便りで、葉書一っぱいに細かい宇で書かれている。消印は上田局昭二三、一二、二二でちょうど帰国の一年前のものであった。

 細かい宇で葉書一っぱいに埋めつくされており、その中から一部拾い読みしてみる。

「・・・秀ちゃんの誕生日には御餅の御馳走でお祝いしました。おそくも今年の末までには帰られる事と家中で持っていましたけれど、とうとう秀ちゃんの顔も見られないで今年も余すところ僅かになってしまいました。来春こそは帰られる事と楽しみに持っています。帰られれば御嫁さんを貰わなければ、今日本には娘さんが沢山居ます、御心配なく」

 

 いよいよ待ちに待った帰国の発表があった。旧満州からソ連に入って、丸四年余り、帰国者の発表がソ連側から伝えられた。

 第十九分所のほとんど全員であった。所内は万々歳で湧きかえった。今まで、どれだけだまされてきたか。本当に夢のようだった。

 帰国ときまってからは、収容所内の売店も賑わった。少しずつ貯めたルーブルで買った洋服の生地は、帰国してから背広に仕立てて会社へ出たら、皆からいい生地だなあと羨ましがられた。

 

 当時はソ連も日本も戦争のために貧しかった。

 カラカンダから出発するときは十一分所の戦友たちが見送りにきてくれた。列車は入ソの時と同じように貨車であったが、不平はなかった。帰れれば何でもよいという心境だった。

 十一分所の連中もいずれ近いうちに帰れるという確信からか、喜んで送ってくれた。

 

 カラカンダーノボシビリスクーシベリヤ鉄道本線-タイシェットーバイカル湖-ハバロフスクーナホトカまで約十四日間の長旅であった。

 ダイヤは順調で、入ソ当時の丸二ヶ月間の地獄列車の事などを思い浮かべていたが、気分は爽快であった。走れど走れどシベリアの森林は続き、やっとバイカル湖に出た時は一斉に車内から「バイカル湖のほとり」の合唱が始まった。

 

 いよいよ何日かあとには、四年半の間、毎日毎晩夢にみてきた祖国日本へ帰れることが確実になってきたことに、胸はふくらんだ。

 捕虜を積んだおんぼろの貨物列車は、食事受領の停車の時以外は、ひた走りに走り続けた。来た時のように、半日も一日も停車しているようなことはなかった。ソ連兵の監視や捕虜に対する接遇も丁寧であった。来る時のような貨車の施錠はされなかった。

 シベリヤの大地よ、海のようなバイカル湖よさようなら。

  (続く)

    朝風39号掲載 2001.6月

 

中央アジアにて 14(最終回)

高槻市 古平 秀数

 東へ向って長い長い貨車輸送の終点は、初めてきくナホトカという終点駅であった。

 旅行などといえる車中の旅ではなかったが、七年振りに故国へ帰れるということで、胸の内は嬉しさで一杯だった。車中で労働歌を合唱しても、革命への意識というものではなく、久方振りに親族に合える喜びの気持ちが勝っていた。

 

 ナホトカヘは次から次へ、帰還の捕虜達が集まってきた。仮の収容所はどこも満杯で、革命歌の合唱で沸き返っていた。また進歩的と云われる民主主義運動のつわもの達が、よそから乗りこんできて大衆集会を開き、反ソ的な者を引っ張りだして、吊るし上げなどが行われた。

 この勢いは、本土への敵前上陸の前夜を思わさしめるものがあった。中には乗船を目の前にして、反ソ分子とみなされ、再び奥地へ送り返された例も多かったようで、一挙手一役足にもピリピリしていた。

 

 昭和二十四年十一月二十五日いよいよ乗船。日の丸の旗がひるがえる八千トン級の船のデッキには、乗務員や看護婦さんが日の丸の小旗を振っている。

 我々を迎える姿を下から見上げながら、第一歩をタラップにかけた瞬間は、今でもおぼろ気ながら覚えている。感無量。

 

 甲板では赤旗組がスクラムを組み靴を踏みならしながら、「インターナショナルの歌」などを合唱して気勢を揚げていたが、出帆と同時に皆船倉に降りていった。

 我々の船の中では、進歩派と反動とのいさかいはなかった。後から知った話であるが、他の帰国船の中では、赤旗組と日の丸組の乱闘が数多く起きている。反動組の積もりに積もった怨みの仕返しである。

 

 現在の舞鶴市には「舞鶴引揚記念館」があり、ソ連抑留の概要が、よく解るような資料が展示されている。 六十万人の引揚者が、本土への第一歩を踏んだ舞鶴港の引揚桟橋は、数年前に新しく復旧され、昔を偲ばせている。 「岸壁の母」と言っても今の若い人達は知らないであろう。

 

 舞鶴上陸、まずは仮収容所へ到着。ほとんどの者が、アメリカの訊問調査を受け、ソ連でアクチーブと言われた赤旗組は、帰郷を一日引伸ばされて、微にいり細にわたって訊問を受けた。

 帰国したら代々木の共産党本部へ集団入党をしよう、という掛け声も上陸した途端にうやむやとなり、一時金や毛布を貰って、故郷や家族のもとへと列車に乗りこんだ。

 

 七年前に万々歳の歓呼の声に送られて、お国のために征途についた上田駅へ帰り着いた。父をはじめ、弟妹、親戚代表に友人数人が出迎えてくれた。母は家で待ってると云うことで、少々の立話のあと家ヘ向かった。駅頭での思い出は今も日に浮かんでくる。

 

 只今と、大きな声で家へ飛びこむと同時に、母の顔があった。「秀ちゃん、よく帰ってきたネー」と、あとは言葉にならなかった。自分でも本当によく帰ってきたと思った。

 

 我々が帰国したのが昭和二十四年十一月で、一般捕虜の最終引揚げは翌年四月こ一四〇人が舞鶴港に上陸した。 この時点でなお、ソ連戦犯として二四六〇人がハバロフスク附近に抑留され、これらの人が引揚げたのは、それから六年たってからである。

 

 ソ達が終戦後、捕虜をそれぞれの国へ仲々帰さなかったことは、国連でも問題になり、国際赤十字などで調査された数字によると、ソ連領内でドイツ人捕虜三一五万人、日本人六十万人、イタリア人二二万人、フランス人二万人、オーストラリア人五千人がいた。また自国民の矯正労働者が二〇〇〇万人いたこともソ連のジヤーナリズムにより証されている。

 

 ソ連での抑留体験を書いた記録は、本として出版されたものをはじめ、自分史的にまとめたもの、戦友会誌に発表しているものなど沢山出ているが、共通して書かれていることは次の点に要約されるのではないかと思う。

 

 飢餓酷寒下の強制労働、ソ連主導による共産化運動、軍隊組織崩壊までの下級兵の犠牲、日本人同士の足の引っ張り合い等々で、生きて帰った者はさて置き、異国で亡くなった六万人の戦友の無念さや、遺族の方々の悲しみは測り知れないものがある。この稿を終るに当たって亡き方々の御冥福を析ってやまない。

 

 シベリアのタイシェット(北緯五十七度)地区の日本人捕虜は、第ニシベリア鉄道の建設工事に携ったが、線路の枕木一本敷設するごとに、酷寒と疲労のために一人が死んでいったと語り伝えられている。

  (おわり)

  朝風40号掲載 2001.7月

現地人いじめ

須賀川市 佐藤 貞

 昭和十九年臨時召集されて、羅南での三ケ月足らずの短い教育期間中に次のような現地人苛めを見た。

 

 羅南の練兵場で夜間演習をしていた時、遥か遠くから提灯を下げて楽しそうに唄いながら現地人が三人練兵場を通ってやって来た。きっと宴会か何かの帰りと思います、これを隊長が咎めて、打つ、蹴る、殴る、果ては投げ飛ばして踏みつけた。

 

 隊長の言い分は、日本軍が朝鮮の為にこのように夜中まで演習をしているのに、「貴様ら酔っばらっているとは何事だ」と言うようなことでした。

 

 演習で独津峠と言う所を越して海岸の独津の部落まで行軍した。この時、峠の下から天秤を担った男が登って来て、小休止をしている私らにペコペコ頭を下げて愛想笑いをしながら通りかかった。

 これを咎めた引率の中尉は、打つ、蹴る、殴る、投げ飛ばす、踏みつけるの暴行を加えた。

 言い分は、休んでいる隊の間を横切ったと言うことだった。兵は細い山道の両側に腰を下ろしていたので、このようにしなければ通れなかったのだが気の毒なことでした。

 

 林の中で無線通信訓練をしていたら、下から四、五人の子供がやって来て私らを見ると、愛想の積もりなのでしょうか、愛国行進曲「見よ東海の空明けて」を歌い出した。

 これを見た兵長は、打つ、蹴る、殴る、の暴行を加えた。

 言い分は、「朝鮮人のくせに愛国行進曲を歌ったのが生意気だ」と言うことでした。

 

 上官がやる、このような苛めを目の当たりにして残虐行為を何とも思わない兵が育ったのかも知れま

せん。

     朝風37号掲載 2001.3月