横浜市 安藤 皓美
1.巡察
初めての巡察「面通し」が終わってから、分隊長に中尉の訓示があり、緊張もしたが、Y上等兵とー緒なので気安さもある。巡察は四組二日乃至三日間隔であるらしい。憲兵隊の表□で夫々組別に別れた。特別の指示も無し、一番手近の慰安所からと、あとは巡察がてら街内外の見学でも午後は三興里を見回りますかとY上等兵。慰安所では、慰安婦をめぐって順番争いから、兵隊同士の喧嘩も時にはあるらしい口ぶり。
憲兵隊の正面表通りの直ぐ左に四つ角があり、それを南に二百米程、道路に沿って左側に幅三米程のクリークがあり(クリークと云うより、街中の堀をゆるやかに流れる小川の感じ)向う岸が道路より一尺ほど高く傾斜にかけられた俄作りの丸太三本で組まれた橋を渡ると慰安所であった。 鄭州占領直後に開設したらしく、応急のままの建家で、四面屋根とも全て薄いアンペラー枚で囲われ、要所を羽目板で補強した、長屋作りの仮小屋であった。仮小屋の長屋は、各個室ごとにー坪許りの広さに、これも薄アンペラー枚で間仕切りされ、入口にドアもあり、戸数にして二十戸はあったろうか。
入□正面に軍の定めた「慰安所規定」が掲示されていたが。慰安婦(売春婦)は、すべて朝鮮の若い女性「朝鮮ピー」である。(当時、彼女らをそう蔑称していた) 各人口には三人、五人、多い処は十数人の兵隊が並んで順番待ち、我々が近付くと「憲兵」の腕章に気づいたのか、兵隊同士の下卑た話し声も静まり皆表面は神妙そう。順番待ちの行列の中の一人背丈の低い一等兵を指差して近寄ったYが「貴様今日もか、ほどほどにせよ」と云って舌打ちした。
巡察時によくYと顔を合わせる兵隊らしい。浅黒く引き締まった顔つきの一等兵は上目使いにYをみながら「上等兵殿、巡察御苦労さんです」と御世辞の積もりか、見えすいた心にもない言葉を。
真夏の太陽が照り輝き眩しいほど。粗雑に編まれたアンペラの隙間から、性交し絡みあってる半裸の男女の姿態も見える。性交を済ませた慰安婦が、甲高い声で「お次の兵隊さん・・・」と呼ぶ声が聞こえてくる。
慰安所を一巡して、私は唖然とした。この光景は人間の性欲処理などというものではない。作戦も一段落した野戦とはいえ、性欲というより獣欲そのものではないか。皇軍の行く処何処に到るも慰安所ありか。聖戦(征戦)のある処、何処の果てにも慰安婦ありか。内心気恥ずかしく、見るに耐えぬ想いだ。
私はこの時以後、Y上等兵と何回か慰安所を巡察したが、何時も丸木橋を渡らず、慰安所の巡察を終えたYが戻るまで道路上で待った。
(近代国家を自認する軍隊で、慰安婦を戦場にまで帯同したのは日本だけであろう。戦時下軍から国民に公式に発表された事はない。東洋平和の為の聖戦とは裏腹である征戦の所以だ。
戦陣道義を高揚した「戦陣訓」が慟哭していよう。「戦陣訓」を体得、そのままに実践している帝国軍人も居ようが少数であろう。前述した「帝国陸軍の最後」の3「死闘篇」の第六章「大陸の二つの玉砕」の中で、ビルマ国境に近い雲南省の拉孟、騰越、平憂、芒市などで、十数倍の中国軍と死闘、玉砕した日本軍の勇戦敢闘ぶりを、敵将・蒋介石総統も「日軍を範とせよ」と全軍将兵に布告した事が賞賛されているが、その騰越、芒市で、軍と運命を共にせざるを得なかった朝鮮人慰安婦については一行も記述されていない。
包囲され孤立するまで、何故慰安婦を帯同しなければならぬのか? 軍の御都合悪い事は記さぬのが、こうした戦記物の常だ。それにしても孤立し玉砕するまで相当期間もあった筈、慰安婦だけでも後方に避難させる機会はあったろうに死出の道連れにするとは?何故なのか。
別の本で、玉砕した部隊の一部と終始行動を共にした日本人慰安婦が、同行した朝鮮人慰安婦を説得し、敵側に投降させた後、全員自決した美談も伝えられているが・・・。
戦争中の従軍慰安婦は、兵隊四十名につき一名の割合で配属され、総数は八万余名であったとか。)
鄭州の街中は表面上活気に溢れているようであった。目抜き通りは穀物を運搬する一輪車が軋り軒を並べた商家の店頭には、葡萄、梨、西瓜、黄瓜、青菜など季節の果物や野菜が豊富であった。
店先には姑娘の姿も見えた。路傍に店を展げた床屋で散髪をしている兵隊、人だかりがしているので背伸びして覗くと、天神髭の老頭児占者が神妙な顔つきで箆竹をしごいていた。
「大人、棗饅頭用、不用?と、手提篭一杯の棗饅頭を売買しようと声をかける物売りの小孩も人懐こく愛嬌があった。
街中は日本兵の姿も多かった。市内や郊外に駐留している兵、兵姑で連絡係をしている兵、通過部隊の兵なのであろうか。
占領間もない時期でもあり、規格された兵営など無く、軍で接収した公共の建物や民家を適宜修築、宿泊しているのであろう。入隊直後参戦した初年兵やその教育関係者定められた勤務者以外の行動は自由なのであろうか。
酒気を帯びて半袖襦袢のボタンを外し胸を開け広げたまま声高に話しながら歩いてくる三人連れの一等兵は年輩らしく応召兵か。
果物が並べられた店頭で、それと判る卑猥な言動で店番の姑娘を執拗にからかっている古年次兵らしい二人の上等兵。何れにも注意したが、彼らは直ぐ服装を正し態度を改めた。
「憲兵」の腕章が物を云っているのだ。些細なことながら、それだけ兵隊は解放気分に浸っているのかも知れない。(憲兵の若僧が生意気な、併し本心は連行されては叶わぬと思っているのだろう。)
陽柳の並木がとぎれた郊外近くに瀟洒な赤煉瓦作りの病馬廠の建物があり、その傍らにB二九の爆撃で戦死した十二名の兵士の真新しい木の墓標があった。その横に、かつての西北軍閥の巨頭、湯玉祥将軍が筆太に記した「抗戦将士碧血之墓」の大きな石碑があった。
憲兵隊に赴任する前、石家荘で、成都あたりを発進したB二九が北九州の工業地帯を爆撃したらしい噂が流れたが、鄭州にも飛来、爆撃したことを墓標が物語っていた。
Yによれば、鄭州飛行場にあるのは囮りのアンペラ製の飛行機ばかり、友軍機の機影は一機も見ていないと… 三ヶ月前の河南作戦時には偵察、戦闘、軽爆撃機も相当機数が地上部隊に協力飛翔していたではないか。一体何処へ? それだけ大陸の全戦線も急変して来たのではないのか。
巡察の道すがら問わず語りにYから色々話を閲いた。Y上等兵の郷里は北茨城、歩兵出身、野戦に来てから直接銃を手にしての流血の闘いが性に合わず憲兵を志願したとか。併し今は憲兵の在り方にも懐疑的な□吻、何故と反問したがYは「いまに分かるよ」と言葉を濁した。
それから彼は続けて次の様なことも。戦地から内地の家郷、友人、知己宛に出す軍事郵便のうち封書は全て野戦郵便局で憲兵によって開封、検閲されるから、文面内容には注意すべきだ。
没収、破棄で済めばよいけど、時にはそれ以上の事も……
(私は封書の検閲は知っていた。野戦に来て丁度一年半、軍事郵便はがきを四、五通出したのみで封信は皆無。軍務に追われ封書の手紙を書く暇は無かった。
克(六の下に兄と書く字)州駐留の四ケ月、捜索隊長M大尉以下主力は八路軍の討伐作戦に常時出動していた。帰隊しても長くて十日、三日も体養すれば又出動した。出動の都度、残留を命じられた二年兵の一部や我々初年兵は、弾薬、燃料の受領と補給に駆使された。時には兵器庫から「赤筒」を受領充足した事もあった。
「赤筒」・・・・・内部にクシャミのガスを包蔵。 国際的に禁止されている毒ガス兵器であるのか否か知る由もなかったが、中隊が八路軍討伐に出動する時、防毒面と共に携行するのは常識であり疑念も持たなかった。
初年兵教育中も防毒面を着用した戦闘訓練もあった。教育係のひとり四年兵のH上等兵は、浙額作戦に参加した自慢話と雨期の行軍で軽装甲が如何に難行したかを我々によく話したが、おなじ教育係で作戦にも参加したA兵長は、作戦より八路相手の討伐の方が「辛苦、辛苦」と笑っていた。
捜索隊にE、W、の見習士官がいた。Eは私の卒業校を知ってから私と同窓で一つ年長のHと四平街の戦車学校で起居を共にし士官教育を受けた縁もあって、個人的に親しみを感じてか在隊時相互の軍務の合間を見計らい、内地の様子を聞かせて欲しいと見習士宮室へよく呼んでくれた。
部屋にいつもWも同席した。Wは元小学校教員、寡黙だが討伐体験を語る時、正義感が言葉の端端に溢れる様な人柄。我々が集寧の戦車十七連隊に転属した時、Wは単身包頭の整備隊に。
Eは二月少尉に任官、河南作戦を前に我々が南□に集結、猛訓練中、他中隊へ配属されたEが連絡要務で南□に来た整備隊の将校が伝えてくれたとして私に話した事。
Wは任官せず作戦にも参加出来ず残留隊にとどまるとか。Wの家郷への音信の封書が検閲され問題になったらしい。
封書の文面、内容が尭(六の下に兄)州当時の討伐に触れ、「赤筒」の事も書かれてあったとか…… 実相は知る由もないが、Wの行為が軍に不利益をもたらすからであろう。検閲はそんなものかとその時心に銘じていたが。
戦争が終結してから半世紀近く経過した現在、新聞紙面は湾岸戦争の記事で溢れているが紙面の片隅に小さな記事が・・・・
旧満州や大陸の各所で敗戦時、日本軍が証拠隠滅の為埋設したイペリット其の他の毒ガス兵器が発見され、中国政府はそれらの回収処分措置を日本政府に申し入れたことが・・・
帰隊すると他の組より遅かったらしく厨子人の定東山、宗重慶が「大人、辛苦、辛苦」と洗面所で汗拭き用にと水を運んでくれ、すぐ昼食も整えてくれた。二人共四十年輩、憲兵隊が雇用した雑役夫だが陰日向なくまめまめしくよく働いた。
午後も巡察、鄭州の街も大方回り、四時頃三興里へ。興里と言えば日本の色町、遊廓の類。兵隊が言う「チャンピー」の居場所、売笑婦の屯している処だ。三興里は性病感染の恐れもあり、敵側政治工作員や密偵の出入りもあって危険性も多々。軍人、軍属の立入禁止が通達さているという。
それでも密かに出入りする者が後を絶たず。拉致される恐れもあるので、隊外に居住している便衣の古参憲兵が時々見回るとか。
三興里は慰安所と道路を隔てた真向かう民家が軒を並べる裏側にあった。慰安所を遠目に見ると相変わらずの賑わいぶり、興里に近い場所に何故慰安所を設置したのか不思議だ。民家の裏は二百坪ほどの広さに庭園風の石畳が敷かれ、それを囲むように男女の遊び場所の小じんまりした建家が並んでいた。その石畳に売笑婦(チャンピー)が三十名くらい各自の小机や椅子を並べ化粧台を置いて夜を迎える化粧に余念がない様子。
まだ真夏日の直射する時刻で、全員海水浴でもしている様な上下別の海水着姿。十四、五歳からせいぜい二十歳前後の、売笑婦というよりあどけない顔だちの姑娘達。Yが古参憲兵から聞いた話として、彼女たちの三分の一は性痴患者であり梅毒症状もすすんでいる者があるという。Yの案内で三、四の部屋を覗いて見た。カーテンを引くと女物の衣類、調度品、装飾品などがあり、胡弓もあって、それなりの雰囲気が漂う。
彼女たちの相手客は金持ちの旦那衆とか街の顔役、治安維持会のボスなどで、若者は夜通し遊ぶ物金が足りず、屋外で黄酒でも一緒に飲み、西瓜の種をつまみ談笑するのが精一杯と。
七月末頃であったか、私とYガ日中勤務で不寝番をしている時であった。憲兵隊の正面入□左側に小さな出窓があり、それを半開きにして風を入れ、ランプの明かりで勤務日誌を整理し終え、慰安所を管理している軍属から毎朝届けられる人員表に目を通していた。(人員表は軍属が雑用に雇用している小孩によって毎朝届けられ分厚く綴じられていた)
「楓」とか「紅葉」とか慰安所の戸別毎に屋号めいたものが記され、屋号毎に「花子」「美子」「吉枝」・・・と慰安婦の源氏名らしいものが書かれその下に一日相手にした「客」の人数が記されていた。七人、十人、十五人、二十人、中に三十人を越える慰安婦も。併し人数は一割程度は割り引いて報告されているのが常識だそうだ。
Yは後でアンペラに毛布を敷いて仮眠していた。夜中一時を過ぎた頃、人□を足音もなく人って来た者が「大人、火給、給火」と窓□から、煙草を指に挾んだ手を私の目の前に差し出した。突然の出来事でびっくりし、小窓から首を出して暗がりを見ると、垂布付きの略帽を被っているものの越中揮に布靴をつっかけただけの裸体の兵隊姿の男、とっさに男の右手首を掴み「ここは憲兵隊だ。
今頃何用で来たのか。所属部隊、宮姓名を名乗れ」と声を荒げると、相手は私以上にびっくりしたらしい。酔いも醒めたか「憲兵」の腕章も目に入れた様子。街灯も無く暗がりで表の憲兵隊の表示も見えず、ランプの灯に商家がまだ起きていると勘違いしたに相違ない。
仮眠していたYも目を覚まし起きると憲兵らしく動作は素早かった。仮眠室左横のドアを開けて表に回り、人□を塞ぐ形で男の背後に立ち拳銃を構えた。男は私が掴んだ手を離すと、観念したのか、それとも虚勢を張って此の場を逃れる積もりか、大きな声で「○○警備隊長、歩兵少佐、△△××」と名乗った。
男は少佐殿か。こちらに落度はないが、俄か憲兵の私には、どう対応しいよいか分別がつかぬ。
Yは少佐と名乗られても慌てず動じた風もなく、男が三興里で遊んでいたナと直感したらしい。
「今の言葉に嘘詐りはないな」と念を押し、男と対決し真顔で言った。「十二軍司令部も近いし、宿舎のS法務少尉殿を起こし、裸のまま軍司令部へ同道して貰うか」 男は(少佐殿は)軍司令部と聞いて観念したのかヘナヘナと腰を折り曲げ「それだけは御勘弁を」と哀願調。それでは遊び場所へ案内せよとYがたたみかけると男は応諾した。
宿舎のH上等兵を起こし、委細を話し、一時の受付業務の代行をたのみ、Yと私は男を中に挾み三興里へ。男は「少佐殿」の御威光も先程来の経緯から我々に通用しないと知ってか神妙であった。 夜更けても蒸し暑く石畳に椅子を出して涼んでいる男女も何組か。灯の漏れる部屋あたりから胡弓の音も。男の遊んだ部屋に案内されると灯が点り敵娼はまだ起きていた。
敵娼はすらりと背の高い細面の裾の大きく割れた濃紺の衣装が似合う遊女であった。Yが遊女と二言三言。男は馴染みの客らしい。
土間には長靴が部屋には男の軍刀と衣類が。白酒をしたたか飲んだか、酒器類もそのまま。酔い覚ましと夕涼みに裸で街へ出たのか。
男に身支度させると紛れもなく「少佐殿」であった。軍装を終わると少佐は、きまり悪るげに照れ笑い。Yは△△少佐に言った。「夜が明けたら今夜の事は憲兵隊から連隊長殿へ通報される。後日関係書類も送付されるだろう」と・・・。
最後にYが支払はと声を掛けると少佐はズボンから財布を鷲掴み、そのまま遊女に差し出し、そそくさと暗がりに消えていった。
八月末、任を解かれ憲兵隊を離隊する時、△△少佐が責任を問われ二階級降格されたことをYから聞いた。
(戦陣訓本訓其の二に第五として「率先躬行」がある。「幹部は熱誠以て百行の範たるべし。
上正しからざれば下必ず紊る。戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。」と。戦陣に限らず地方人社会にも通用する立派な訓だ。△△少佐の徒輩ならまだいい。山東省あたりの辺地、局地へ派遣された警備隊長や分遣隊長など一部の隊長は、傀儡軍の保安隊幹部や治安維持会のボスと結託、軍の威光を嵩に住民や農民を脅し、徳川時代の悪代官もどきの事をやり、民衆の怨嵯の的になってる徒輩がいるのだ。
だから八路軍に望楼ごと爆破されて分哨がそのまま壊滅したり、油断した警備隊本部が急襲され、捕虜にされる者もいるのだ。)
2.拷問
巡察中昼食に帰隊、午後巡察に出かける間、また内務勤務中、古参憲兵による敵側の政治工作員や密偵の拷問を見た。見たというより見せつけられた。独房や取調室への立入りは許されずそこでどんな取調べがあり拷問が行われたかは知らない。我々が見たのは「水責め」の拷問であった。
宿舎前の広場に大きく頑丈な寝台が運ばれ、取調べる工作員を寝台に仰向かせ、手首、足首を勤かせぬよう四個所共ロープで厳重に縛りつけ、一人が顔を押さえ一人が大薬缶から水を飲ませるのである。
憲兵は二人とも便衣、支那語の会話は達者。工作員は「水責め拷問」と知って、□を堅く閉じても、否応なく鼻□から水が入ってくるし、呼吸に詰まり□を開けばすかさず水が注がれる。
大薬缶の水が尽きると厨子入の定東山や宗重慶に水嚢の水を運ばせる。拷問に苦しむ同胞を目の辺りにして、それに手を借す水運び、彼らの心中も辛かろう。
工作員の腹は少しづつ膨れてくる。水を吸い込む力が尽きると、タオルで□、鼻を覆い、さらに一滴二滴と水を注ぐ。手を休めては訊問し自供を強いる。
工作員が苦痛に喘ぎつつも自供せぬと見るや、一滴二滴と更に続ける。一時間、二時間近く、腹は膨らみを増して、それは力士に見られる太鼓腹の比ではない。肌色をした大きなゴム毬が腹の上に置かれている感じである。
水嚢にして一杯半か二杯近くの水量であろう。そして一時間もそのまま置く。よく命が尽きぬものだ。
憲兵は寝台の傍らに立って呼吸が絶えぬのを確かめ、それから腹を上方にゆっくりとさすって少しづつ水を吐き出させる。小一時間もして全部吐き出させると又訊問、自供せねば三日間ほど間をおいて又水責め。
工作員の中には精も魂も尽き果て、息絶える者もあれば、自供する者も。
自供した者で見どころがある者は、裏切りを強いて、今度は遂に日本側の工作員、密偵として活用するという。(戦争の裏側の戦果ともいうべきか)
野戦倉庫や糧秣廠などの使役で一斤の小麦粉でもくすねた者が連行されれば、(同じ使役の苦力仲間でも僅かな報奨金欲しさに仲間を売って、自分だけ良い子になろうとする奴がどこの世界にもいるのだ。
憲兵から見れば、鼠賊は虫ケラ同然、虫ケラ以下。取調べもなく竹刀や棒で、ところ構わず滅多打ち。額は割れ足腰は曲がり立てず最後は自白。こんなことは日常茶飯事の光景・・・・。
女性の政治工作員に対しての拷問はどうか? 以下Y上等兵が語った事をそのまま記す。
取るに足りぬ所業で検挙された女性は別として、日中戦争中頃まで取調べ中の拷問はあった。
局部への辱め、蝋燭で頭髪や乳房を焦がしたり焼いたり……惨烈な拷問の数々。
工作員の大半は延安の抗日軍政大学や女子大学で政治教育された女性。拷問に耐えられぬと見極めれば自決。(人間、極限状態になれば自ら呼吸を絶ち死を選ぶ事も、舌を噛み切って自決もできるのだ)自供せず裏切り行為も皆無。女性政治工作員に対する拷問は中止され、鄭州憲兵隊でも行われていない。
独房に留置されている個々の女性に対し、特定の古参憲兵が指定され、一人対一人の関係で「女中」や「僕」が主人に仕える様に彼女らにかしずき、朝ター切生活の面倒を見るのだ。
誠心誠意。 取調べ訊問はせず、かしずくのみの有り様。三月、半年、一年:・二年―、根気強く気長に辛抱して。そうした生活を相互に続ける中から、人間的真情にほだされるのか、自ら憲兵に声をかけ、問わず語りに身の上話をする者が出てくるという。少しづつ二回にも三回にも分けて・・・・
身の上話の中から憲兵は求める情報の一つでもキャッチするのだ。
当面の戦局はどうてあれ、私達は最後に勝利すると、帝国主義の軍隊は大陸から敗退する、これが彼たちの共通の信条、信念であった。
(1991・3月記)
須賀川市 久保木 康勝
九二式落下傘は命懸けだった
昭和十六年七月。満州国竜江省平台、白城子陸軍飛行学校練習部に到着した。四平街からチチハルに至る鉄道の中間点に白城子がある。ここを起点にモンゴルとの国境の街ハロンアルシャンヘ向う白ア鉄道が走っている。白城子から数駅目に練習部の兵舎があった。ここが、第一・第二次練習員三百七十余名の降下訓練場である。
平台は地名通り高さ二十メートル程の平坦な台地で八里四方人家が無い大草原である。この台地に六つの飛行隊と関東軍の射爆場があった。草原は腰までの高さの潅木と雑草に覆われていた。大体の位置関係は大奥安嶺の南東の端、中央アジアから続いたステップ地帯の東端にあたるのだ。赤い太陽が地平線から昇りそして沈むところである。満州に来たことを実感した。
練習部の兵舎は草原のただ中にあり、格納庫一棟と兵舎が群れている。兵舎の周りから飛行機が自由に発着出来た。降下場は、兵舎の西方千メートルにある。そこに、一辺二千メートルの田の宇形の正方形が白線で画かれている。田の字の中心点に三重丸印。一辺千メートルの四つの四角の、それぞれの中心点に十字印が画かれていた。
兵舎の前から飛行機にのり、上昇して直ぐ前方の降下場に落下傘降下出来る。実に能率の良い訓練場で、さすが、広大な満州ならではの絶好の場所である。
我われ第二次練習員より三ケ月早く応募した第一次練習員の降下訓練が始まっていたが、不開傘事故で初宿軍曹が殉職。訓練が中断していた。練習部は異様な雰囲気に包まれていた。やはり、懸念した通り落下傘は開かないこともあるのだ。
太平洋戦争開戦半年前。陸軍は落下傘部隊創設を急いでいた。全軍から三百七十余名の練習員を集めたが、肝心の降下部隊用落下傘と服装が整備されぬまま見切り発車をしたのだ。とりあえず、九二式同乗者用落下傘を使うことになった。この傘は、補助傘式胸掛形の主傘一個の救命具である。
第一、二次練習員は、この傘で四回の基本降下を体験したので、その構造と折り畳み技術を肝に銘ずるほどたたき込まれたので、今でも当時の状況を再現出来るほど記憶が鮮明に残っている。
九二式傘は、輸送機(この時は九七式AT型)の天井に張り渡したパイプに、自動索のナス環を引っ掛けて離脱すると、先端のピンが傘袋の留め金具から脱ける。傘袋は十字形の花びらのように開く。中から直径四十センチの小型補助傘がバネ仕掛けで飛び出して長大な主傘体をスルスルと引き出す。主傘のスソ縁は直径三十五センチほどの木環にゴム紐で挟みこまれている。人体は秒速五十メートルで落下中なので、木環の穴に風圧が加わり主傘体内に空気を取り入れ、その圧力で木環がはじき飛ばされて傘が開く仕組みとなっているのだ。離脱から三秒間の仕事だ。
九二式傘は、開傘までの時間が長いこと、木環が脱げ難い欠点があるため、離脱高度は安全を見て八百メートルであった。初宿軍曹の事故は、補助傘の紐が体操靴の止め金に食い込み主傘を引き出す機能を失ってしまったから起きたのだ。練習部は訓練を急ぐあまり、降下用装具が未着のまま飛行服に体操靴を着用して訓練を始めたため起きた事故だった。
間もなく、保護帽、降下服(つなぎ服)、降下靴が到着した。靴はナメシ皮製でスネの半ばまである編上靴で、踵のゴムの土踏ず側の角をそぎ落とし紐が引っかからない細工がしてあった。これで服装が整ったが、落下傘は九二式のままなので大きな不安を残したまま訓練を再開した。
練習部は、九二式傘の開傘の仕組みを再検討して、それに適応した訓練を強化することにした。それは、人体が飛行機を離脱した後、真逆様になって万歳の姿勢で体形が少し右によじれた時、主傘が飛び出すのが理想のパターンだとした。したがって、その姿勢を確実に取れるようにと、機胴体の離脱訓練が猛烈に繰り返された。命が懸っているのだからそれこそ真剣にやった。
私たちが、仕事や勉強に立ち向かう時、よく必死とか命懸けという言葉を安易に使うが、白城子で体験した訓練は、そのような修飾的な形容詞では表現出来ない真剣なものであった。目の前で起きた不開傘事故死は、明日の我が身であることを自覚した恐怖感の中の訓練だったのだ。
とにかく、九二式傘に関しては安全度の拠りどころになる降下の実績と統計資料は何も無く、それを我われが身を挺して作っていたのである。
不開傘の恐怖感から逃れるには、自分の運動神経を研ぎすまして、異変に対応出来る敏速な体力を鍛えるしか方法が無いのだ。
白城子での基本降下訓練四回は無事比終了した。降下部隊用一式落下傘は、とうとう、間に合わなかった。一式傘は、九月、我われが宮崎県新田原基地に移ったころ整備されたので体験降下を実施した。
一式傘は、主傘(背負式)と予備傘(胸掛式)が一対になっている。予備傘は九二式傘と同じ構造だが、主傘は全く違う型式である。自動索が主傘を引き出し傘体が伸び切り、ある重力が加わると切断して開傘する仕組みである。したがって、降下者の姿勢の良否に関係なく強引に開傘してくれるのだ。また、開傘時間も早く、万一主傘に異状が起きた時、予備傘を使える安心感は絶大であった。折り畳み技術もうんと簡略になった。
さて、降下訓練中の死の恐怖感について色いろ考えたことがあった。戦闘中の死は突然向うからやってくるので、銃弾が体に命中する瞬間まで死ぬとは思っていない。例えば、自動車が衝突して大事故を起こした時の恐怖感は衝突寸前の、ほんの一瞬間だけだろうと思う。
落下傘降下前の死ぬかも知れない恐怖感は、向うからやってくるのではない。傘が開かないことは死である。開かないかも知れない恐怖感の中へ向かって行くのである。降下前夜あたりから逃げ場のない恐怖感へじわじわと近づいて行くのだ。そうして、飛行機から離脱する瞬間が最高調になる,その時は、もう、どうにでもなれっ。という、絶望感でわめき声のような掛け声を吐き出して落下して行く。
我われは、落下傘兵の先駆者だ。意地と死に対する諦観と美学のようなものが支えになっていたのではないかと思う。挺進第一連隊が第一次南方出動時、乗船明光丸が火災を起を起こした時輸送指揮官の命令一下全員が海上に避難したが、高い甲板から跳び込むことをためらった者は一人もいなかった。
また、戦争末期。特攻隊員として多くの若者が死地に赴いたが、この時の心境は我われと同じであったと思う。義烈空挺隊は編成後、再三再四攻撃目標が変更され半年間も待期させられたが、この間一糸乱れぬ統制が保たれたのも、落下傘降下による死の恐怖に耐える訓練があったからだろう。さちに、天雷特攻隊が編成された時、中隊長以下全員が通常の編成のまま出撃しようとしたのである。
第一、二次練習員三百七十余名は、四回降下を体験したが、その間、骨折、脱臼、ねん挫などの負傷者が数名出たが、初宿軍曹の外に不開傘事故は起きなかった。しかし、あわやという危険な状況は数え切れないほどあった。その主な原因は、木環が脱けず主傘が長い帯状のままヒラヒラ落下する状態である。これをフンドシと呼んだ。集団降下の際、何人かの傘がこの状態に陥った時地上の我われは、ただ、アアア・・・・と息をのんで見守っていたものだ。なかには、地上数十メートルで開く者もいた。彼らは、真逆様に落下しながら吊素を二、三本手操り寄せて反動をつけて二、三度強く引いて木環をはね飛ばして開傘させたのである。もう、神技のような動作であった。
八百メートルの高度で正常開傘すると、滞空時間が二分半ほどあり下界の風景を楽しむことが出来た。満州の夏があんなに暑く、どう猛な蚊が多いことに驚いたが、こんな乾燥した台地に、なぜ蚊が多いか不思議だったが、上空から眺めて納得した。台地を外れた満州人の集落に大小様々の沼が散在していたのだ。
大草原のただ中の兵舎に三ケ月間いた。兵舎の周りを形ばかりの有刺鉄線の柵が囲っていた。遥か地平線まで障害物は無い。満州のこの時期、酒保に酒、タバコ、缶詰、甘味品など潤沢にあった。休日、営外居住資格者はトラックを仕立てて白城子の街へ外出したが、下級者は行くあてが無いので酒と缶詰を特って柵外の草原に車座で酒盛りをした。有刺鉄線を越えたことで外出の気分を味わっていたのだろう。
満州の秋は八月下旬のある日突如やってきた。それは、内地の晩秋を思わせる冷涼さである。白城子は降下訓練場として理想的な場所だが、厳寒期の訓練が困難なため、九月、宮崎県新田原基地へ移駐した。ここに、陸軍挺進練習部と呼ぶ独立した空挺部隊が誕生したのである。
(74歳)
朝風9号掲載 1991.10月
富士市 橋口 傑
人民裁判とは、本来、暴力の行使は禁止されているものと思う。しかし抑圧され続けた民衆は興奮し、後手に縛られ段上に座らされた被告人に対し罪業を叫び始めると制止も効かなくなる。
石を投げたり、蹴ったり、殴ったり!
判決が、死刑と決まると、近くの空地に引き摺って行き、即処刑が実行された!。
勃利の街では、ようやく平静が定着したようだ!銃声は全くしなくなり、街を歩く民主聯軍の数は嘘のようにすくなくなった。それは
「謝匪が殲滅された!」
「謝分東が捕らえられた!」
とのうわさが真実であることを示しているそれは寒さも一段と厳しくなった十二月の始めだった
「グワーン、グワーンー」
「ピーヒョロ、ピーヒョロー」
鐘、鼓、チャルメラ、鼓弓、などなど、ありとあらゆる音の出るものを持ちだしてのにぎやかな一団が街を練り歩き始めた。
「何だ!正月の踊りにしては早ずぎるな!」
「それに、踊りと違うよ!やけに騒々しいよ!」
病院の塀の上に身を乗り出して街の方を見ると、
「打倒、人民的敵人!と大書した幟りを押し立てている、それを先頭にして、その数も数百人の群集が大騒ぎをしながらやってくる。道路沿いの民家から飛び出してきた人達も、申し合わせたようにその行列に加わって行く!ここから見ているだけでも次々と人が増え、道一杯になってやってくる。歓喜のあまりなのか、沢山の人達が踊っている。中国では正月などに街頭を練り歩くあの踊りである。
行列に加わった群衆が、皆、拍子を取り、なにかしら喚きながら、僅か五百米ぐらいを三十分ぐらいもかかってようやく目の前にやってきた!
先頭の幟りのすぐ後に、両手を縛られた男が、前から引っ張られ、後ろからこずかれながら、よろよろと、よろめきながら足を引き摺っている。
「あーーーーあれは謝文東だ!」
あのピエロそっくりの長さも一米ぐらいもある三角帽子を冠せられ、まるで死人のように蒼白な顔をしている。始めて着たであろう、汚れて破れた満服を身につけ、ただあの当時そのままなのは鼻の下の独特の髭だけである。先頭を歩いている保安隊長の声に合わし、
「全員、集まれ!」
「今から裁判を開くぞ!」
「打倒せよ、人民の敵!」
「謝文東匪を処刑せよ!」
などのスローガンを叫ぶ、それに呼応するかのように群衆はその数を増す。
病院横の広場になだれこんできた群衆の数、数千。たちまちにして高さ一米程の被告席が作られた。壇上には、保安隊長を始め、陪審員であろうか、十人ほどが椅子に腰掛けて並んだ。その前には大きな机がー個置かれ、その机の前に、群集から一番見える位置に被告(謝文東)が座らされた。その途端群衆の中から声が上がった。
「槍庇!(銃殺)」
「打ち殺せ!」
たちまちにして、
「同意!(賛成)」
の声があがり喧騒の渦と化していった。
壇上には保安隊長を中心にして陪審員が並び、保安隊の人は隊長を含めて三人であるその中の一人が立ち上がって、謝文東被告の横に立った。
「静粛に!静粛に!」
と叫んだ!そんなに大きな声とも思えぬのに、これまでの喧噪がうそのように。ピタリと静まってしまった。
「同志MEM!(同志たちよ)」
この群集に向かって。同志たちよと最初に叫んだ。そのとたん「パチ、パチ、パチ」と一斉に拍手が湧いた。ややしぱらくして両手を広げ、静かに拍手を制した後、「皆さん。本日は、日本帝国主義者の走狗であり、長年に亘って我々農民など、無産階級からの搾取を続けて来た男。謝文東の我々人民による裁判を行います!」
この時もの凄い拍手!そして次第に、全員が調子を揃えた拍手に変わり止まることを知らない。
「さてこれからの裁判の進行は、議長であり、更に勃利地区の治安工作をしている王保安隊長が行います!異議はありませんか!」
「同意!(トンイ)」
一斉に挙手で答える。なんにも組織されていないはずのこの群衆がなぜこうも同じ行動をとるのであろうか、まるで名演奏会における指揮者に従うように、議事進行者の言葉や身振りでピタッと動くのである。
「さて同志達!今日の被告謝文東は一九三九年までは抗日戦争の星?とまで言われたことがあります。依蘭、七虎力、佳木斯、勃利、鶏西方面で確かに抗日戦の一指導者でありました。抗日戦と称するゲリラ戦は表向きで、実は、その間にも貧しい人達から、食糧、金その他ありとあらゆる物を掠め奪り、ぬくぬくと肥っていった」
王保安隊長の話し方は、内容とうらはらに至極穏やかであった。
「そうだ、そうだ、その通りだ!」
「俺もひどい目にあったことがあるぞ!」
「俺もだ!」
「私もだよ!」
あっちでもこっちでも無規則にワイワイ騒ぎ始めた。王議長(保安隊長)は両手を挙げてこれらを柔らかく制止して、そして、
「独軍のポーランド侵攻以後、日本軍の力に屈し、一九四〇年には偽満州国に従属した。その後は全くの日本帝国主義者の走狗になりさがり、無制限に我々の搾取を続けて来た!」
「そうだこいつが、日本憲兵に売ったので、もの凄い拷問を受けて無惨に殺されたのを何人も知っているぞ」
身振り手振りをまじえて話す議長の言葉には、人の気持ちを引き出す力があるのか? 群衆の間には言うに言われぬ熱気と被告人謝文東に対する怒りの炎がどんどん焚きつけられていく感じがする。
「同志達よ、昨年の八・一五に我々は侵略者日本鬼子を打倒しようやく自由を獲ち取った。而るに、蒋介石を首領とすると国民党軍は厚顔にも解放区に対し攻撃をしかけてきました。四平に、長春に、吉林に、そして通化にも。彼等は、あの日本鬼子にとって代わって解放軍に進攻し、略奪を開始したのであります。」
群衆は一瞬ンーンと静まりかえった。
「これに対し、我々、東北民主聯軍は、この解放区を守るべく勇敢なる戦いを開始しました。そして各地で国民党軍に対し多大な損害を与えております。」
「好!好!」
一斉に拍手が起こった。
「この国民党軍に加わるべく、ここに居る謝文東を首領とする巣匪集団は、各地の地主や、反動分子の援助を得ながら、さかんに南下を画策したのであります。それを二道月子で七虎力で、鶏西で 七台月で次々と打撃を与え、そして逐にこの十月この巣匪集団の残りを壊滅し、首領の謝文東を捕虜にし、同志達の面前に引き出すことが出来たのであります。」
大拍手の渦、手拍子とともに足を踏みらし、狂気のようにドラも太鼓も一斉にうち鳴らす。
「謝文東巣匪を壊滅したことには大変な意義があります。当時三万人いた謝文東巣匪が国民党軍と合体し、重装備をしていたら、これは解放区にとって重大な脅威にもなったでありましょう。またそれを期待していた地主や反動分子遠の望みを断つことにもなります。」
「この謝文東の悪虐の数々は、我々の方でも大体の調査がなされてあります。それだけでもかなりの極刑はまぬがません。が、本日はここに集まって下された同志諸君が主役で皆さんたちが偽満州の時代や、八・一五以後に受けた被害の数々を集合していただいたおよそ二千人の人々の前で、直に、全部曝け出して話してください。誇大帽子は避け事実をあげて下さい。」
「俺に言わせてくれ!」
「俺にも」
「私にも言わせて下さい!」
何とも凄まじい光景となった。被告席の前にどお-っと集まったのである。被告席に上がろうとする者もいる。壇の周囲を警戒していた兵士が十数人、壇上にどかどかと駆けあがり謝文東被告の回りを固めた、群衆の方に銃□を向けたのである。
「おーっ人民の軍隊と言いながら、俺遠に銃を向けるのか!」
「謝文東を守って何になるんだ!」
「そうだ!謝文東を殺せ!」
執拗に壇上に上がろうとする。
「待て!壇の上にあがってはいかん!」
兵士遠の制止も素直に聞こうともしないかのように見えたとき。
「待て!よく聞け!私のいうことをもう一度最後まで聞くんだ!」
議長(保安隊長)が始めて大きな声を出した。漸く平静になりかけたところで、
「同志MEN(同志たちよ)私の言うことを聴不聴(聞くか聞かないか))!」
「聴!(聞きます)」
一斉に手があがる。
「謝々!(ありがとう)だったら、壇から離れて元の位置に戻りなさい!」
議長の厳しい言葉に会場は静かになった。
「実は、私自身この謝文東に対しする怒りで胸が一杯です。謝文東奴に、言うに言われぬひどい目に遭っているし、多くの部下も失っおります。だから、出来ることならあんた達よりも私の方がよっぽどこいつを殺したい。しかし冷静になって考えて見て下さい。自分の意思だけでそれをやったら、あの日本鬼子や国民党軍と全く同じぢゃありませんか!そうじゃないですか!」
「‐‐‐‐‐‐」
「こんなことをしたら勃利の住民は。東北民主聯軍は、問答無用で謝文東を処刑した!と後々の世まで言われてもいいですか?皆んなはどうですか!」
王議長は人差指を群衆の方に向け、右、左に動かす。あれほど意気まいていた群衆もシーンと静まりかえってしまった。どのくらい時間が経ったろう。群衆の中程から一人が手をあげて。
「俺に言わしてくれ!」
と叫んだ。
「来叱!ここにきて話しなさい」
議長の招きで雛壇に向かうその男は、もう六十才以上だろうか、ボロ服を纏ったヨボヨボの老人だった。ヨロヨロと雛壇に向かう老人に、群衆は道を開け、手を貸した。壇に上がる時は議長自ら手を貸し、抱きかかえるようにして中央の椅子に座らした。
「貴姓呼!(貴方の名前は)」
「我姓、陳方!(私は陳方と言います)」
「ところで貴方は何を言いたいのですか」
議長の問いに答えず、陳方じいさんは群衆の方を向いた。
「みんな!わしの言うことを聞いてくれ。保安隊長(議長)はわしらに、謝文東が、今までやってきたことを、本当のことをここで喋れ!といいるのと達うか?」
「陳じいさん、その通りだよ!」
議長はようやく、ホッとした表情で陳じいさんに頷いてみせ会場の人達にも改めて説明した。
「皆さん私の言いたいこと、聞いてください」
壇のすぐ前にいた若者が、壇上に飛叫んだ。
「じいさんが話し終わるまで、聞こうじゃないか、お-い、皆んな!どうだ!」
群衆から盛んな拍手が湧いた。この若い男は、我が意を得たりと思ったであろう、陳じいさんに向かって、「よし陳じいさん、ゆっくり話しな!」
「私は小五姑で僅かな畑を耕している百姓だ!その前は七虎力に住んでいた。父と母それに息子の五人がまあまあ食べていけるくらいの畑は耕していたんだよ。それが考えても腹が立つよ。たった一夜で、私の土地の全部を強奪されたんだよ!武装した日本鬼子どもがやって来て言うんだ「ここは俺達の土地だ、これからこの土地に立入ることはまかりならん」とね!わしの親父の小さかった頃から営々として耕してきたんだよ!皆んな!わかるかい、こんなことってあるかい」
「陳ぢいさん、わかる、わかるとも、俺達だって多少なりとも、そんな経験はあるよ。後を続けてよ!」
この時陳じいさんの顔には、涙が流れ、僅かには生やしている□髭には白い氷が垂れ下がっていた白い息を吐きながら続ける。
「その名は開拓団だってさ!わしらの考える開拓ってのは未開の原野を耕して畑にすることだ。そうだよなあー!」
「そうだ、そうだあれは開拓団ではなくて怪盗団だよ!」
「わしの代になって無一文になって親父夫婦には本当に申し訳なくて泣くにも泣けない。親父はろが病気で死んだ後『お前たちの荷物になりたくない、少しでも身を軽くしてやりたい』とくちぐせに言っていたが。私達夫婦の油断した隙に首をつって死んでしもうたよ!」
「俺達百姓もただ黙っていた訳ではないんだ!俺達も武器をとって立ちあがったよ、青龍刀を、槍を、日本人から奪い取った武器で勇敢に闘ったよ!でも、なにしろ正規の日本軍を先頭にして完全に武装した開拓団なんだよ。日本人にも犠牲が出るかもしれんが、俺達百姓の方の犠牲者は、どんどん増えてゆく。おまけに!おまけにだよ!」
と言ったきり肩を震わして泣き出してしまった。兵士は慌ててかけより抱きかかえるようにして
「どうした!陳じいさん、泣いていないで話を続けな。おまけにどうしたっていうんだよ」
流れる涙を拭きもせず、陳じいさんの話は続けられる。
「おまけに、地主達がよう、積極的に日本の手先になって、俺遠を脅したりするようになった、そのうちに、俺達の仲間のふりをしていながら、その裏で日本軍の走狗になって俺遠の積極的な仲間を売る奴が出て来た。俺達の仲間が次々と日本憲兵に拉致されるようになった!村の若者達が次々と憲兵に引張られて行く時、決まって村の出入□には私服の特務と、それとわかる走狗が見張っていたよ!」
「打倒!植民地主義!」
「打倒!日本的走狗!」
「築成!我MEN的自由!」
次々と、保安隊兵士の音頭によるスローガンが繰返し繰返し連呼される。唱和している群衆も次第に熱をおび、拳を振りあげ、有りったけの声を張りあげて叫ぶ議長の両手をあげての制止がなければ止まるところをしらない!
「こうして、土地をめぐる反抗闘争は、全く、手も足も出ないように武力と、同胞ですら信用できない深い猜疑心を植えつけられて押さえられていったんだよ!胡南言は千振に、永豊鎮は弥栄と名前を変えられ、この周辺には一九四〇年までに、合計二〇もの開拓団ができ、わしと同じようにたくさんの人達が自分で拓いた土地を追われた。」
「あくまでも抵抗を志す者は抗日戦線の地下組織に参加していった!」
陳じいさんは、大きく息を吐いた。
「その頃、ここにいる謝文東は、抗日の志士である!と、わしは思っていた。事実、謝文東は馬占山、張字良などと並ぶ、東北の一角の雄でもあった。それが一九四〇年に偽満州国に帰順して以来、彼のなすことは一変した!」
「陳じいさん、どう変わったんだ!」
陳じいさんは、感情の昂ぶりのためか、頭痛なのか、頭を両手で押さえ、目をつぶって何回も横に振っている。兵士達も議長席の人達(立会人)も心配げに体を支えようとする、と。
「不要慎、有難うよ!」
というと又も話を続ける。
「謝文東は、日本軍にも一目おかれた人物!世間でも認められた存在!と思ったんで、奪われた土地についてお願いに行ったんだよ。それがけんもほろほろでね『不運とあきらめな、没法子!』だと言うんだ。ところが、俺遠の村の地主、王も同じようなめに遭ったのに、これは謝文東の働きかけもあってであろう一畝の土地も手放さずにすんだよ!。地主等は侵略者とも、何とかうまくやって、犠牲は全て貧乏な俺達百姓に払わせ、自分達はいつもぬくぬくと過ごしていやがった謝文東だって、あの匪賊といわれた抗日戦の時代にも、一九四〇年以後の偽満時代も豊かな暮らしをしていたのは、それもこれも喜んで差上げた物と、絞り奪った物との違いこそあれ、貧しい百姓達の血と汗の結晶であったことに間違いはない。あれや、これや、とりとめなく□から出てきたが、この間にも最愛の妻と、一人の息子とも病気で斃れてしまった。今の俺は天涯孤独だ、しかもこの年だ、残りも僅かだよ。今日!という日が、もうすこし早く来てほしかった」この広い会場が割れんぱかりの拍手である。
「この俺の手で、この謝文東を始め我々を搾り尽くしてきた地主共。そして日本鬼子と、その手先になっていた走狗共をことごとく殺してやりたい。しかし民主聯軍はじめ、ここにおられる皆んなが今日の裁判で、公正に裁き、わしも納得出来るように処置してくれる!と言うんなら全てまかせたい。会場の皆の衆」の老人が、勇気を出してこれだけのことを言ったんだ。納得出来るように裁いてもらうために、皆んなの知っていることを全部、□から吐き出そうや!私の話を聞いてくれて謝々!」
再び鐘や太鼓を打鳴らし太拍手喝采の渦、その間に大勢の人達が陳じいさんにかけより握手を求め、
「陳じいさんよく言った!俺達も言うぞ!」
と、労をねぎらい、自分の考えを示していた。陳じいさんの何の飾りもない言葉、それもたどたどしく、時に言い直したり、懸命に過去を想いだしながら話す姿、下手くそなその話には真実がうかがわれるし、真剣さが汲みとれる!それだけに、ここに集まっている群衆に与える影響は大きくたちまち。
「滝にも言わしてくれ!」
「俺にも!」
「私にも一言、言わしてくれ!」
「議長!私にも発言さして下さい!」
議長席の前には発言を求めて壇の板を叩きながら指名を要求している。陳じいさんの話を聞いて
「若しや、あれは謝文東と日本鬼子が地主がぐるになってやったことでは?」
「日本鬼子がやったといっても、謝文東やその手下どもが動いていたのでは?」
など過ぎし日々に日本人や、地主、謝文東から受けた仕打ちの色々が一つのものとして映ってくるのである。地主や謝文東の背後にあるものが肯ずける気がするのである。
「よし、俺もこれを発言して、事の真偽を正さなければならない」
そんな激しい胸の中の思いが押さえ切れないものとなって精一杯に床板を叩く!
「静粛に!静粛に!」
議長はおもむろに。
「皆さんの胸中は、先程申しましたように、解りすぎるほどわかります。しかし、何人も一度に話せるもんでもありません。当初に申したように受付た順序に発言してもらいますが、今の陳老人の訴苦!私も思はず拳を握りしめました!こんな事実を飾りなく話すようにして下さい」
「では王克祥老人!ここえあがって話して下さい」
陳老人とにた年頃のこの王老人、やはり貧しい暮らしをしているらしく見える。
「わしは王克祥です陳老人も言っていたが、わしが住んでいた八虎力でも、開拓団という盗っ人共が、一畝一円というとんでもない値段で、俺達中国人が祖先から受継いできた大切な土地を無理矢理取上げてしまった。」
「そうだ、そうだ!」
「議長、王とっちゃんの言ってることは本当です!」
次第にガヤガヤと騒がしくなってきた。
「静粛に!」
「ここで発言する人の言っていることが、正しいか。正しくないかは、ここに居るみんながよ-く検討した上で決めることであります。そのためにも、何回も言いますが、この体で受けた圧迫や確かにこの目で見た出来事を、間違いなく皆んなの前に発表して、皆んなに判断を仰ぐことです。重ねて言います。誇大帽子はいけない!事実を、ありのまま発表することです」
「王老人、話を続けて下さい。」
「わしらは、この土地接収に反対し、土龍山、舵(鳥へん)腰子、樺南などを根拠に、開拓団や警察署を襲撃したり、勇敢に反日闘争をしたもんだ!会場の人達よ、考えてみてくれ、わしらの中国にやって来て『ここは俺の土地だ!出て行け!』と言われて『ハイ、そうですか』と、祖先伝来の土地を捨てられますか!みんなはどうだ!」
「そうだ、そんなこと許してなるもんか!」
再び怒号にもにたスローガンの嵐!
「そうだろう‐だから抗日義勇軍などに参加して皆んな闘ったんだよ。始めは公然と反対闘争を展開した!こんなこともやった。開拓団のやつらが、わしらの土地に麦を蒔いた。わしらは、これを夜間に全部ひつくり返して芭米(トウモロコシ)を蒔いた。なかには何回も繰り返したこともあったよ!わしらの仲間にもたくさんの犠牲者が出たが、あいつらにもかなりの被害を与えた。わしらは決してあいつらに屈する気はなかった。それなのに抗日義勇軍が、遂に地下活動に戦術転換をしなければならなかつたのは何故か、それは走狗野郎のためなんだよ!謝文東一味もその中の一部分だ。日本軍だけでは。どこの誰がとわかるはずのないことまで全てお見通しなんだよ。掃討作戦’と称して抗日義勇軍の殲滅を狙って山奥の小さな部落にまで、わしらと同じ中国人が、中国人がだよ!
中国人を先導にして入り込んで行ったんだよ。日本鬼子に媚を売ったこの犬どものおかげて抗日義勇軍は大打撃を受けた!それにもまして、中国人自身がお互いを信じられなくなってしまった。何しろ、中国人が中国人を売るようになってしまった。偽満州では、少しでも反日的な話をすると、何日か後には憲兵に呼び出される。少しでも応じない素振りでもあると検挙される。その結果によっては、一族に災いが及ぶ。
憲兵隊は千振に分隊があり、勃利と佳木斯に本隊があった。どこかに苦力として送られるか全く酷いのは連行の途中で射殺されてしまっている!」
王老人、どんな思いに胸がつまったのか、目頭を拭い、目を限り暫し言葉を閉した。議長が慌てて近寄り抱きかかえるような気遣いを見せた。
「王老人、大丈夫か?」
「不要慎!もう少しだけ言わして下さい。」
「好!継続叱」
「対不去呼!つい息子達のことを思い出してね! わしの息子、その時二十と二十三才だった。村の若者達と十八名、憲兵、特務に拳銃に囲まれ連行された!追い鎚って必死に哀願していた母親私の妻は憲兵に軍靴で蹴上げられたよ。わしの妻の胸のところには、今だに軍靴に蹴られた痕が残っているよ、それは息子を失った悲しみと同じで、死ぬまで消えることがないであろう、と思っているよ。わしの息子達十八人は隣の村との間の林の中で、残らず殺されておったよ、その半数ぐらいは首を切られて。あの憲兵の奴等が軍刀で切ったんだろう。 八、一五以後、その日本人らはいち早くにげてしまった。わしらは憲兵隊を襲ったが、もう誰も姿を隠していた。
「それがついに居たんだよ、一人見つけた、謝文東匪団の中にね。!謝文東匪団の中に居たんだよ!
それを知った村の若いもん達が「謝文東にかけあう」と意気まいた。しかしわしら年寄りは必死に制止した。」
「なぜだ!そこで仇をとれぱいいのに!」
「そうだ!」
「そうだ!」
「待ってくれ。みんな、わしら年寄りは、何回も嫌な経験をしているんだよ。すぐ飛びついて、それでいいのか?それを考える余裕というか、ずるさを持っているんだ、永い間の経験がそれを教えてくれたんだ、よく考えろ!とね。みんなで話に話したあげく、村の若いもんは、進んで民主聯軍に参加して行った「俺達の村を苦しめたあの走狗どもを葬ることはそれらを庇護している謝文東を倒すことである。彼等と闘うことで村や家族を守らねばならない』という答えをだしたんだよ―-初めて本当のことがわかってきたんだ!謝文東とその手下どもは、日本鬼子とー緒になってわしら貧しい農民を苦しめ、その日本鬼子がいなくなったら、今度は集団で、それも各地の地主達の応援もあって暴徒と化して、わしらの解放区を荒らし回っていた。つい十日程前に村の若者が民主聯軍の軍服を着て立ち寄り、「王じいさん、息子さん達の仇はとったよ!残るは謝文東の処罰だけだ」と語ってくれた。
皆の衆!わしらの敵の中でも大物が、目の前に居る謝文東だ!とわしは思っているし、謝文東匪団の全滅を聞いた時は飛び上がって喜んだし謝文東の裁判を聞いて「わしの生涯で最良の日」と胸わくわくでやって来た!本当に、その通りの日になりそうだ!
議長!この謝文東は、日本鬼子とー緒になってたくさんの人々を殺し、その何倍もの人々を飢餓の苦しみの中に追い込んだ犯人として極刑にするよう要求します。」
忽にしてスローガンの嵐がまきおこった。
「槍庇!(銃殺にせよ)」
「絞首!(絞首刑にせよ)」
「打死!(打ち殺せ)」
スローガンと怒号とが凄まじいものになってたいった。議長団の全員が立ち上がって制止する。
漸やく収まったところで、
「村の若者も、わしの考えも、最後の大物ということでは間違いを犯していた。のうー、皆の衆!先程議長が言っていたが。将介石が解放区への進攻を企てている!と言う。将介石軍が来たら、一体どうなるんだ。わしらの暮らしはどうなるんだ!」と言った時、この言葉で会場は騒然となった。会場のあちこちで何やらガヤガヤと話始めた。人々に不安でも湧き始めたのであろうか?王老人は、これは次の言葉が出せないでしきりに議長の顔を見る。議長は腕組みをし、目を瞑むってじーっと座ったままである。立会人も何か心配そうにコソコソ話し合っていたが、隣の席の立会人が議長に問いかけた。
「議長、どうしますか!かなり動揺しているようですが」
「もうすこしこのままにして勝手に考えさして見よう。それからでよい」
「はいわかりました」
議長に、何か思うところのあるのを知ったのか、こんどは立合人達、きちんと座って正面を向いた。
王老人は何か言いたいのか□をモグモグしているが、この会場の人達の変化にどうしたらよいのかわからず、議長に助けを求めているのである。ややあってやおら立ち上がった議長は、
「静粛に!」
と驚くほど大きな声で喧騒を制止し、ピターッと静まった群衆の前で、王老人に尋ねた。
「この後、何を言いたかったのですか」
「こんな、こんなことになるとは思いもしなかった。わしは解教区を守るためにどうしたらいい
のか?を言いたかったのです」
「そう、ではもう一度話して下さい」
この時には議長の判断に全てをゆだねるしかない雰囲気ができあがっていた。
「先程の王老人の発言で気持ちの中にかなりの揺れがでたようですね。でもこれは無理もありません。解教区だのなんだの、と言ってみてもみなさんにとって始めての経験でありますし、将介石の力を恐ろしがるのも当り前のことです。しかし王老人は少し違うようです。その気持ちを実は皆さんに伝えたかったようです。引き続いて王老人の話を聞きましょう」
「会場の皆さん。国府軍将介石の軍隊がここに進攻して来たら、一体どうなると思う。
それは、はっきりしてるじゃないですかここにいる謝文東の奴の何十倍も、何百倍も大きくしたほどの大地主大財閥の軍隊が来るんです。この勃利にも七台河にも、七虎力にも刃阿鎮にも、いやどんな小さな集落にも、その大地主の手先が来るんだよ。
みんなよーっく思い出してみなあの八、一五以前の、あの暗い、暗い、まっ暗い、貧しい生活がまた始まるんだよ!みんな!あんな生活にもどってもいいんかい!」
「いいわけないぞぉ-!」
「解放区を守れー!」
「そうじゃよ! 将介石軍を、これ以上解放区に入れてはならないんじゃよ!そのためにも謝文東をはじめ、その一味や、解放区を広げることに反対している反動分子や地主どもを打ち倒して、永久に平和な解放区にせにゃいかん!ちがうか!」
「そうだ、その通りだ!」
王老人は、最後のしめくくりをした。
「わしはもう年や、直接将介石車と戦闘に参加することはできないが、せめて、精一杯食糧の増産に精だして、米の一粒でも多く、解放の為に闘っている民主聯軍の兵士連に送れるよう努力するよ!みんな、見ていてくれよな!これで、わしの腹の中のうらみつらみの何分の一かを話せたことを感謝する!」
再びスローガンの連呼と王老人の勇気を称える大歓呼!が延々と続く。議長もしきりとウンウンと頷いている、その頬に涙が伝っている。
議長はやおら立ち上がった、自ら両手を挙げて拍手をしながら壇の中央に歩を達んだ。壇上も群衆も一斉に調子を揃えて拍手が始まった。王老人と握手を交わし壇から降りるのを自ら手助けをする!拍手は一段と高鳴り延々と続く。
議長が両手を前にあげて制止をするとピタッと止まる。この場合の聴衆はもはや訓練された集団のように、議長のタイミングのよい一つの挙動によって完全に指揮される演奏者のようなものである。
「では次の人発言してください」
「我是!(私は)曹仁栄といいます。五十才です。七虎力に住んでいます、王老人が話したのと全く同じように、日本鬼子やその手先たちのために、沢山の人達が拉致され、そのまま今だにその行先さえ判りません。このことは王老人が詳しく申し述べましたので重複をさけます。
こんなにたくさんの人の前で話すなんて始めてのことでどう話していいかわかりませんが、王老人も感情が昂ぶったものか、もう一つ大事なことを忘れたようです!というのは。拉致されたのは男だけではなかったということであります。女性!特にまだ若い女性達が狩出されていった、女性達は何のために狩出されたと思う!驚くなよ。慰安婦だよ!日本軍の居るところへ次々と送られていった。
一九四二年以降は、南の方比島(フィリッピン)や馬来(マレー)にまで送られていった。
この勃利にも慰安所があったのを知っているかい!」
「おー知ってる!」
「日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が居た。同じことなのに、日本ピー、朝鮮ピー、中国ピーと区別してさ、日本人は将校及び偉い人、朝鮮人はその下、中国人は更にその下の兵隊用とされていた。こうして日本鬼子の性欲の餌食にされていたんだよ!みんな腹がたたないか!」
「そんな馬鹿な、そんなことってあるかよ!本当かよ!」
まだ若い男が壇上に飛び上がった。
「議長!本当にそんなことってあったんですか!」
「本当だよ!もう少し曹さんの話を聞こうじゃないかね」
「はい、すみません」
たしなめられて若い男は急いで降りていった。
「村の有力者が、県公署の役人と称する日本人を連れて、若い女性の居る家を回って歩く。
『いい働き場があるんだけどなぁ、どうかな。女だけの仕事で苦労しないでうんと金儲けができ
るぞ」と、募集してまわった。
開拓団に土地を奪われ、耕す土地もなく、極貧の生活を強いられている農民連にとってこの話は願ってもないことで、若い娘達だけでなく、まだ若い主婦ですら応募する有様で、なにしろ極貧の農民達の間にはまだ十四、十五の子供を注水斯や勃利の遊女街に売った者も数多く、それに比べれば働いて金が貰える!となると喜こんじゃって飛びついた。
金百円也の支度金を押し戴いて娘を、若い嫁を送り出したものだ!行く先は牡丹江だ!と言うことだったけど、その後、誰一人として行方がわからなくなってしまった。もちろん、その後唯一人を除いて誰も戻って来ませんし、娘から金を送って来たとの話も聞かない。
わしら中国人は、なぜこんなにまでよその国の人間にひどい目にあわされなければならないんだろうか?わしらは、なにかあるとすぐに。没法子とあきらめてしまったもんだ。
だから外国人、特に日本人は、中国人はなんでも。没法子(仕方がない)とあきらめる国民性を特っていると思いこませたもんだ。
本来、無益なこと無益な争いを避けるための没法子であったものが、同じ中国人でありながら侵略者の片棒を担ぐ奴等もいたために国土は蹂躙されてしまった中国人は、無茶も承知で譲らざるを得なくなったのであります。本当の中国人は歴史的に見ても最も勇敢な民族であるのに!
「そうだ、そうだ!」
「我々は光栄ある中国人である!」
スローガンの嵐、拍手の嵐が長い間つづく。
「会場の諸兄姉達よ。わしらの中国は、過去何百年いや何千年にわたって中国人の中国をと、常に努力してきた。その度にわしらの国土は、侵略者たちによって踏みにじられてきた。
それもこれもわしらの中国が一つに統一されていなかったからだ!
なぁ皆の衆!今度こそ、中国は一つになるんだ!中国人による中国を作りあげねばならないんだ!それも、あの地主共の支配する中国ではなく、わしらの、働く者の中国をだ!頑張ろう!」
と、結んだ。
「オー頑張ろう!」
「打倒!地主の支配」
「謝文東を処刑せよ!」
繰り返されるスローガン、そして、謝文東被告の罪状告訴はますます熱を帯びてきた。
この時、おそらく零下二〇度以下と思われる酷寒の中で壇上に上がって熱弁をふるう者と、その話に時には呼応して拳を振り上げ怒りを表はす者と、喧騒の中にもこれまでの支配に対する憎悪の深さを測ることができる!。
笛や太鼓の賑やかさに釣られて会場入りした者達も、告訴を聞いているうちに謝文東や地主、それに日本鬼子とその手先達の極悪なやりくちにあらためて怒りが噴き出してくる。
終には自分があたかも、その主人公、被害者のような感情にとらわれてくるのか、憎悪の鬼になったように拳を振り上げスローガンを連呼する。
その時間にも、まだ会場に入ってくる人達がある、この酷寒の吹きっ晒しの会場で、これで一時間余り、そしてこれから後、まだどのくらいの時間を必要とするのかわからないが誰一人として立ち去る者がいない。
本人や一族と謝文東との関わり、日本人と謝文東との関係、日本軍との共謀、謝文東自身或るいはその手先遠の悪業の数々を告訴する人々が次々と壇上にあがり声を張りあげ、或るいは鳴咽し、声にならぬ声を震わせて切々と訴える老婆など五人、十人と息つく暇もない。
「議長並びに会場の皆さん、先の告訴者によって、たくさんの真実が語られましたが、私も全く 同感です!」
に始まった或る女性の告訴はこうだ。
「告訴の殆どは力による暴力でした。力ずくで土地を強奪された!
力によって反抗する若い力を拉致され消された。力、力、力、侵略者の意に沿わぬ事は力で押さえるぞ!と思い知らされた。
もう一つは金、物、その他心の弱い者を犬のように飼い慣らし、中国人が中国人を信じられない世の中にした。
それと共に思想的に日本帝国主義に隷属させようと学校教育、刊行図書、新聞、映画などを通じて、日本民族の優秀さそして満州国のために如何に努力しているか承知させるための宣伝にこれつとめた!
ついには日本のやっていることを、正しい!と信ずる者さえ出てきたのは皆さんもご存じですよね、思想と言えば、若い者の目を曇らせたものの一つに映画があります。
皆さん、よく知っている。李香蘭’あの白蘭の歌を始めたくさんの映画に出演して、日本人と中国人のロマンを主題に、当時の若者達の憧れのまとでありました。
これは撮影の場所が殆ど千振弥栄地区であったため私には殊に印象が強いのですが、関内関外を問わず放映されていますのでその影響たるや甚だ大きく、日本人男性と中国人女性のロマンを美しく、劇的に描き若い者の反日感情の懐柔策として最大限に利用されていたものであります。
こんな映画の撮影を見た人は割合少ないかも知れません。ロマン映画だけでなく、開拓団入植時の抗日戦闘の模様もたくさん撮られています。あの地区の人達が強制的に狩り出され、開拓団を襲う状況など。
紅槍を振りかざして襲ったものの、最後にはたくさんの死体を残して逃げる。つまり日本人が勝つ、日本人が正しかった!
と見せる形を作らされる。狩り出された人達は悔しさに泣きながら歩かされたものです。侵略者を追払おうとして闘った人達の事を。匪賊として画いています。ここに座っている被告謝文東もかってはそうした反日活動の匪賊のーグループの一人でしたし、ここにいらっしゃる議長も、実は当時の闘士の一人なのです。どうです!この人も匪賊に見えますか?」
ワアーッという思いがけない明した身分に対する囃しと拍手が湧きあがった。
「匪賊ならそこに居るぞーー」
一人が叫んだら、一斉にそれを唱和した、二回、三回、何回も復唱される。
「そうです。私達の国に来て、勝手なことをしている日本鬼子こそ匪賊です、そして、この日本鬼子に追随していた謝文東たちこそ正真正銘の匪賊であります。
このようにして作られた映画によって毒された若者は数知れず、あの李香蘭。そしてこれらの映画を作った奴ら。それに、この映画制作に積極的に協力してきた走狗共の責任は大きいこれらのことも、きっと正してほしいと思います、最後に、李香蘭!この女性、中国人だと、つい最近まで私は思っていた。
それは私だけではない、多くの人が今でもそう信じているでしょう!実は李香蘭は日本人だったのです。ですから、なおさらのこと徹底した追求をお願いいたしまして私の告訴を終わります」
万雷の拍手、そして次々に絶叫されるスローガンの嵐がようやく収まった頃、頃合いを見計らったように議長がやおら立上がった。
「皆さん!静粛に!今までに、二十名程の方にそれぞれ責重な体験、いや、これは体験など一言で片付けられるものではない!何千人、何万人もの犠牲のうえの体験ですから!
話していただいた、その一人一人の苦しみ、憎しみ、聞けば聞くほど涙が出ます。腹が立って仕方がありません!
この壇の中央に、蒼白な顔で座っている謝文東。『思いっきり叩いて殺してやりたい』と、訴苦の中で叫んだ老人が幾人もいました。
『やれぇー』と許してやりたい気持ちに捉われながら『いや、俺だけは冷静でいなくちゃならない!』と、私のこの胸の中の怒りを押さえるのに懸命でした。
私だって人の子、人一倍、感情的になり易い人間なんです。それに私も、この十五年間の抗日闘争の間に何十人もの同志をうしなっているんです。奴らに対する恨み憎しみは誰よりも強いのです、さて、会場にお集まりの皆さん!本日は、日本帝国主義者の走狗、謝文東が犯した売国行為、中国人民に対する裏切り行為などについて、事実の告訴大会を開きました。
今までの発言と重複しない犯罪の事実を知っている人はありませんか!
発言したいたい人、有、没有!」
「没有!(ありません)」
「今までの発言で皆さんの言いたいことを、全て言い尽くしました!」
「完了!全て言い尽くしたぞ!」
「処分を決めろ!」
そうだ、そうだ!と又しても会場が喧かましくなり始めた。と思ったとたん、大喝一声! 「静粛に!」
「皆さんからの新しい発言もないようです。したがってこれから謝文東の処分について皆さんの
意見を伺います!この謝文東奴は、どんな刑が適当だと思いますか!」
「槍疵!(銃殺にせよ)」
「絞首刑にせよ!」
「みんなで叩き殺せ!」
「斬殺にせよ!」
手をふり絶叫しながら要求する!銃殺!それは死刑、人を殺す!ということなのである。
それをいとも簡単に要求するというのである。漢人(中国人)たちはこんなにも残虐性のある人間違であったか!といささか驚いた。
終戦以前の中国人は温厚そのものであったと思っていただけに、今日見る中国人の裏面は恐怖さえ感じたのは私一人ではあるまい。
(数日してこのショックも和らいだ時に冷静に考えてみると、偽満州国時代に、二十人余りの人達が切々と訴えていた事実があったとすれば「ぶっ殺してしまえ!」といった気持ちになるのは当り前のことかも知れない。と思うようになってきた。)
いろんな人が、声を限りに主張する。これが。裁判といえるのだろうか。ここでは議長がいてこれが裁判長の役目であろう。そして立会人が六名いる。聞けば農民代表二名、工人代表一名、商人代表一名、民主連軍軍人一名それに隣の樺川県代表一名と間く。この立会人は殆ど発言らしい発言はしていない。
議長が立ち上がって立会人(陪審員)と向き合って何事か話していたが。
「好!」
と答えると壇の中央に進み、両手を上に高々と挙げ。
「静粛に!」
大声で呼びかける。この声に潮の引くように話声が消えてゆく。
一人の若者が壇上に飛び上がった。
いきなり右手を振り上げ、「打倒!日本的走狗!」
大声で叫んだ。いきなりやったことでも群衆は練習していたかのように見事に唱和していく。 これも主催者の意図なのか、議長も立会人も立ち上がって唱和しているじゃないか。
「日本の狗を打倒せよ!」
「帝国主義の侵略に反対!」
「地主階級の搾取に反対!」
「地主共も引っ張り出せ!」
「解教区を守れ!」
「将介石を打倒せよ!」
「謝文東を処刑せよ!」
「槍殺!銃殺にせよ!」
「銃殺にせよ!」
怒号の渦である、声を揃えて拳を振り上げ、長い年月の抑圧に耐えてきた者遠の爆発の姿であったのだ!。
「静粛に!」
「今、立会人の人達とも相談いたしました!日本鬼子の走狗であり、抗日闘争の反逆者、そして地主の代弁者でもあった謝文東の処刑方法について、会場の同志達の意見を伺いたいと思います」「賛成’・賛成!」
「その前に、同志達は自分の胸に聞いて自分が挙手する唯一の処刑方法を決定して置いて下さいこれまで二十人余りの人が告訴された内容を纏めて申し上げますと、第一に彼は、日本帝国主義の走狗として進歩的な友人達の挙動を監視し、その情報を日本軍官憲に流していた、これにより、進歩的な人達のみならず、中国人の受けた迫害は、筆舌にては言い尽くせないものである。
第二に謝文東は反逆者である。一九三九年までは、私達と目的の違いはあったとしても一応は抗日運動の地方の雄であった。それが一九四〇年には偽満政府に寝返り、一転して積極的に偽満政府並びに日本侵略者に協力し、中国人民に多大の犠牲を強いた、彼の為に犠牲になった人達の数、事例は、先程の発表をその一部と考えればよい。
第三に謝文東は地主共の代弁者である。地主達を擁護して貧しい農民、工場その他の労働者、善良な商人などの搾取を続けてきた。その実例はこの会場の同志達の発言だけでも二十件以上もありました。謝文東の歩いた範囲を調査したと考えると、恐ろしい数になることは必至であります。この為に土地を略奪されたり、果ては土地を売り、愛する子供をも売った者も、今日の発言や私が知っているだけでも十指にあまります。
第四に公然と、中国人民に対して銃□を向けた! 人民の軍隊である民主連軍に対して多大の損害を与えた。更に各地の地主共と結託して、地域住民の人心撹乱につとめたのみならず進歩的な人々を多数殺害した。
この中国人に銃□を向けた、ということは、何としても許せない重大犯罪である。地主達と一緒になって、日本帝国主義の崩壊によってやっと獲得した自由をぶちこわそうとしたことは許せない。
以上、四つの項目について述べました、が、その一つ一つの項目に当てはまる実例は皆さんの発言の中にたくさん出てまいりましたし、我々民主聯軍には各地の農民、工人、商人など広い階層の人達からも沢山の投書が寄せられておりまして、その中には、これまた沢山の地主や謝文東らが犯した犯罪の事実が切々と述べられております、それらの事を考慮した上でこの謝文東がどんな刑に相当するか?考えて下さい、 この私が
一無罪
二、拘禁十五年
三、終身刑
四、死刑
以上四つについて同意を乞いますから、挙手で自分の考えを表明して下さい。!
「いいぞ!すぐやれ!」
「死刑だ!死刑しかないんだ!」
の怒号の後、すぐに、
「槍庇!槍庇!槍庇!槍庇!」
のシュプレヒコールが始まった。最初から死刑!と決めこんでいるらしい。
何十回も槍庇!とシュプレヒコールされると、考えの決まっていなかった人達もその気になってしまうのではなかろうか?
「では決をとります!いいですか!」
「可以!(いいです)」
「では謝文東被告は無罪!謝文東被告は無罪!と思う人、手を挙げて下さい。」
「・・・・」
シーンとした沈黙が流れる、一人の挙手もない!ただ黙って壇上を凝視している。
無罪に同意の人は誰もいないようですが、これは個人の意見ですから、思ったままを表明して下さい。何にも心配無用です。いいですか?」
「・・・・・・」
これにも一人として挙手しない!沈黙をしている。
「十五年の刑にも同意の人はいないようです! それでは、無期刑即ち終身刑に同意の人!手を挙げて下さい!」
「‐‐‐‐‐」
終身刑と言っても一人の同意者もない。”死刑””銃殺”のシュプレヒコールは、ただ、音頭を取る人につられて唱和しているだけ、と思っていたのに、この様子では謝文東の。死刑を本気に望んでいるのか!と思われてきた。
「それでは死刑!に同意の人は、手を挙げてください!」
「同意!」
全く、申し合わせたように、一斉に。同意’と叫び、拳を高々とあげるのであった!
普通裁判というと、時間をかけて証拠固めをし、もちろん訴える人がいて、犯行犯罪を証明する証拠品や犯罪の事実を証人などによって申し立て、訴えられた方も、それなりに弁護する人がいて論戦を交わし而る後に裁判長が検討を重ねた上で求刑するものである。
この常識である弁護はもちろんのこと、本人の弁明も一言も間いてない。ただ、もう一方的に民衆の意思を聞き刑を決定しようとしている。こんな恐ろしい裁判ってあるのか!事実、今多数決による即決裁判の幕が下りようとしているのである。議長は、立会人たちと向かい合ってなにやら話し合った後。
同志men!売国奴謝文東を死刑に処することを決定いたしました。これから市中引き廻しの上、刑を執行いたします」
「ウワーー」
喚声と拍手の中に再び若者が壇上に飛上りスローガンの連呼が続く。
「反対!外国侵略!」
「起来!(起て)無産階級!」
「殲滅せよ、地主階級の搾取!
「打倒将介石!」
「解放せよ中国人民!」
「支援せよ民主聯軍!」
「築成(打ちたてよ)中国人民的勝利!」
などと何回も何回もコールされる、この時のスローガンには既に謝文東の名が出てこない。
ややあって保安隊兵士数人が壇上に上がり、謝文東の両腕を抱えあげる。
この時既に謝文東の足はダラーッとしたままで、抱えられても足を伸ばして立つことができなかった。これは恐怖とかいうもんではあるまい。この酷寒の中に、二時間余りも板の上に座らされて凍ってしまう寸前であったのではなかろうか、手も動かず顔も蒼白、特に鼻の頭は完全に凍ったらしく真白である。もう謝文東の体は凍傷で回復不可能の状態になっている。両腕を抱えられたまま壇の下に引きずり降ろされるとともに、
「ワアーッー・」
と喚声を挙げた群衆によって頭上高く差上げられたり、引き摺られたりしながら勃利駅の方に向かいはじめる。チャルメラを吹き、ドラや太鼓を打ち鳴らして行く群衆の何とも歓喜に満ち満ちていることか!とても一人の人間を処刑場へ引っ張って行く姿とは思えない。
旧県公署と勃利駅間のメイン道路の中間点までの間を道路一杯になって行列が続く。
旧自動車修理工場横の荒地の一隅に謝文東を引据える。見ているともう座ることもできない、すぐ倒れてしまうのである。兵士達が木箱を特って来て支えにしてようやく座らせる!
十米ほど離れたところに保安隊の兵士が五名、横一列になって膝打ちの姿勢をとった。
ふとあの横道月子近くの山中で同じ日本人の下士官を五名で撃った時のことが頭をよぎる。
撃たないでくれ!と絶叫しながら転ぶようにして逃げようとした。それは本人にとっても、撃った私達にとっても瞬時の出来事で、考える時間もなかった。
だけど今日の謝文東の場合は達う!長い時間をかけて裁判にかけられ、死刑を宣告される。その恐怖と寒さ!いやひょっとしたら、その意識すらも定かではなかったかも知れないし、今の彼には銃殺されずとも凍傷のために余命いくぱくもないかもしれない。ただの置物見たいな感じさえもした。
物音一つしない静寂の世界になった。一人として身動きもしない。謝文東と五人の兵士、それに指揮官!何百人か何千人か半円形にに幾重にも取り囲んだ群衆の目はただ一点に集中される、わたしも懸命に瞬きを我慢した!
「用意!」
五人の兵士が銃を構えた。
「打!(撃て)」
「バ、ババァーンー」
五つの銃□から火が吹いた! ビクーッとわずかに腰が動いたかに見えて、支えた木箱もくずれて仰むけに倒れた。汚れた綿服を染めて真っ赤な血か流れた!二度三度ピクーピクーと痙攣して動かなくなった。
「完了!(終わった)」
一呼吸おいてどよめきが起こった。初めて見た公然の処刑に立合った興奮だけでなく、我々をいじめ抜いて来た元凶の一人の最後を見届けようと死体のそぱに集まり始めた。
「皆さん!解散して下さい。謝文東の屍体は、後日、何らかの方法で市民の皆さんの目に触れるよう処置します!」
そして昭和二十一年十二月初旬の或る日だった。あの処刑からー週間めにショッキングな出来事を目のあたりにしたのであった。
「オーイ謝文東の曝首だってよ!」
「まさか、そんなことって!」
「とにかく行って見ようよ!」
第八陸軍病院に働く日本人の大半が見に出掛けた。
あった本当にあった!勃利駅前の電柱、高さ二米ぐらいのところに謝文東の頭が吊されてあった。両眼を見開き頬の肉もそげ往時を偲び難い表情となっていた。切りはなされた胴体は素っ裸にされその電柱の下に横たえられていたが、胸部には銃弾の痕が!そして、もう既に野犬によって噛まれたあとが見るも無残であった。
これだけでは済まなかった。その翌日、今度は小盗児市場(街の中心部にあった市場のことをこう読んだ、私も十九年に外套を盗まれ、翌日、この市場に行ったら、堂々と売り物になっていたことがある)
に謝文東の抗日時代からの右腕と言われた陳隊長、それにもう一人、見たことはあるが名前を知らない謝文東匪団の幹部の一人それに地主二人、計四人の名前と罪状を認めた立札と共に曝してあった。
高さ一米六、七十糎ぐらい、ちょうど目の高さの台が作られてあり、幅三十糎ぐらいの白木の板の上に四つ並べられている。ここは市場である野菜はもとより、肉も魚も売られている日本の各地に見られる朝市と異なり、一日中開かれており、その市場の入り口に曝首されているのだから行き帰りにはいやでも目につく。
「これでも、いつものように買物ができるのか、肉、魚が買えるんだろうか!」
と中国人の神経、いや、時の為政者、民主聯軍の指導者達の心底を疑はざるを得なくなる。
時代小説、日本の歴史でも中国の歴史でも死体を放置する、曝首にするなど、よくあった事実だが昭和の現代になっても、この科学の発達した時代になって、まさか、こんな残酷なことが起ころうとは!
頭と胴を切り離して電柱に吊り下げたり、野犬の餌食にさしたり、人通りの一番多いところに曝して見せ物にするなんて、とても正常な人間の為すことではない!
当時の日本人にとってこれほど恐ろしいことはない!常に死の恐怖に曝らされている!といっても過言ではない。同じ中国人ですら問答無用で即決銃殺される状態である。
日本人の我々が過去ばかりでなく現在でもあらぬ嫌疑をかけられたとしたら、それこそ言訳は無用で処分!はあり得る!だとしたら余分なことは見ざる、言わざる、聞かざるを生き方とする人が多くなっていった。
偽満州国時代の日本人高官、(例えば省次長、県次長など。省長、県長は中国人であった)憲兵、警察官などで捕った後処刑はかなりあった。
この点からいうと、ソ連軍に捕虜となった最高級官吏、高級将校達は戦争犯罪人としてシベリヤ抑留生活を送ったものの、一般兵士と違って、強制労働はなく、待遇はよく幸せであったと思う!
大混乱の満州に残っていたとしたら、生き残ることは不可能であったのでは?
中華人民共和国での審判を受ける為に再び旧東北の地を踏んだのであるが、この平穏な東北でも、この日本人戦争犯罪人に対する憎悪が爆発しそうになったこともあった。
このような人民裁判は、この民主聯軍が東北人民解放軍になり、そして中国人民解放軍になるまで正確には昭和二十三年の秋、即ち、中国人民解放軍の総反攻、国民党の総くずれが決定的になるまで各地で開かれ、多くの地主、資産家、官吏、その他日本帝国主義者に協力し中国人民を搾取したなどにより血祭りにあげられた。身の危険を予知し、いち早く行方をくらましたり国民党軍について逃げ出したり、身内が民主聯軍に参加することにより難を逃げようとしたり。とにかく人民裁判の旋風を避けることに懸命だった。
このほか、謝文東を知るうえで忘れられないのは土竜山事件である。(続)
(六十六歳)
朝風12号掲載 1993.5月
東京都 本橋 賞典
「馬は生きた兵器だ。愛馬心即愛国心」
こんな札がブラ下がった厩舎へ連れて行かれたわれわれ初年兵はズラーッと並んだ馬の尻を見て、明日から、いや今日から、この馬どもと軍隊生活をしなければならないのかと思い馬の「ウ」の字も知らぬ私だが、覚悟をした。
北支山西省大原市郊外の、独立混成第九旅団砲兵隊第一中隊即ち山砲中隊の厩舎には、支那馬ばかり百頭近くが繋がれていた。
小さい馬だなアーというのが、第一印象だった。
薄汚ない馬が多くて、白・黒・茶という斑の三毛もいる。
日本馬とは違う感触である。こんな小さな馬で、と思っていたら、「この馬はからだは小さいがなかなかの力持ちで、かつ歴戦の勇士であり、お前たちより先輩である。」と言い渡された。
白馬は月毛、黒馬は青毛、茶色の馬は栗毛と称し、同じように長い顔をしていても、それぞれ違っていた。
星・流れ星・鼻白もあり、毛ムクジャラの奴もいる。相貌はかりでなく、脚首四本白いのや、前脚だけ白いのもおり、また、全身同一色のもいる。
これを見分けて、馬の名と一致させることになるが、初年兵のわれわれには当分の間、馬名をプラ下げて、記憶させる処置がとられていた。
人間は感情の動物と言われているが、われわれは、馬もまたそうであることを、後日ゴッテリ体験させられる羽目になる。しかし、そのときはただ、説明を聞くに止まった。
各馬の馬房の柱に、「毛付者(けつけしゃ)」という、手入れ坦当者の名前が書かれていた。古年兵と初年兵の二人の名前で、馬の名は、と見ると、「豊天」「豊孫」「豊玉」など、「豊」のついた名前が多い。
説明によればヽ豊台の補充馬廠からの受入れ馬なので、そういう名前がつけられているという。
私の名前は、「白馬」の「天国号〕の下に書かれていて「乗馬」となっていた。
かつての討伐作戦には、討伐中隊長が、この馬に乗って、何度も出陣していたという。
初年兵掛の班長(助教)の説明は、「今日から馬をお前たちの戦友として、朝昼晩の手入れをして、戦友愛を深めて行け。ここにも書いてあるとおり、馬なくして山砲はない。馬あってこそ、山砲の威力を発揮できるのだ。殊に、この馬は、調教訓練も行き届いている。即ち、お前たち初年兵より遥かに大先輩であり、歴戦の勇士でもある。
もしこの馬が傷ついたり、病気をしたり、痩せたりするようなことがあったら、お前たちの成績にも影響する。という厳しいものだった。
ズーッと見渡しても、どの馬もみんな同じように見えて、「まず馬の名前、そして毛並み・特徴を覚えろ。」と言われても、とても覚えられそうもないと、まずは気の遠くなる思いだった。
起床喇叭で飛び起きて、蒲団や毛布をキチンと畳んで日朝点呼。そのあと厩へ早馳け。まず馬を曳き出して、「水飼い」(水を呑ませること)を行なう。
馬に蹴られたり踏みつけられたりせぬかと及び腰で水槽の前へ曳いて行き、馬の咽喉に手を当てて、水を何回呑んだかを調べて、週番上第兵に報告する。「豊友二十一。」「豊玉二十。」などと、あちこちから声がかかると、厩当番は水飼表に記入していく。支那馬は、二十回以上だった。
蹄洗桶に水を満たし、左前脚から左後脚・右後脚・右前脚の順に蹄を洗うが、鉄箆で蹄鉄・蹄叉の馬糞を掘り取り、きれいに洗って蹄油というものを塗るのだが、モタモタしているわれわれ初年兵の動作に、馬の方がくたびれて脚を下ろしてしまう。
冬でも湯は使わせない。
一頭洗うのにも大度なのに、古年兵はパヅパッと手際よく二頭も三頭も仕上げてしまう。
水を呑ませる際も、古年兵はただ見ているだけのようでも、チャーンと飲水量を数えていて、われわれ初年兵は、ただ感服するばかりである。
厩舎内の寝藁出しも始まって、古年兵はシャベルを使うが、初年兵は腕で抱えて運び出すと、古年兵は箒できれいに掃いて、塵っ葉ひとつ残さない。寝藁は真四角に、平らに乾す。
細かくなった寝藁や馬糞は、担架型のモッコで担って馬糞捨て場へ運び出すが、行きも帰りも早馳け競走である。常に機敏な動作を要求されるのである。
各班とも、全員、頭のてっぺんから湯気を出して走る。他の班に負けるとビンタである 馬の手入れ中に当番は餌の配合をして、飼葉桶の中へ分配するが、飲水量の少ない馬には、「滅飼」という処置がとられる。
そうなると、毛付兵は、馬の口の中へ塩を入れたり、曳馬して営庭をともに走って水を呑ませたりして、工作をする。
飲水量の少ない馬に、定量の給餌をすると、「疝痛」という糞詰まりをおこす心配があるので、こうした涙ぐましい努力をするのである。
厩当番の「飼い付けーツ」という声に、馬は一斉にヒヒーンと噺き、ガツガツと地面を蹴って、一刻も早く自分の馬房へ連れて行けと催促する。支那馬でも、日本語を知っている。
「飼い付けっ」の意味は、馬がチャーンと知っているのである。
馬房に曳き入れると、馬はすぐガツガツと食べるが、このときが最も危険なのである。
馬は、自分の餌を取られると思い、われわれを早く馬房から追い出そうとして、噛みついたり、蹴ったりすることがある。馬は利口な生きものだが、こと食物に関すると、とたんに野牲を発揮する。
朝昼夕と消燈前の四回の水飼い、三回の給餌、二回の蹄洗塗油、そして馬体の金櫛毛櫛の垢摺りをする他、雑巾で顔はもちろん、尻の穴まで拭いてやる。
われわれは、一般歩兵部隊より三十分早く起床し、夜も三十分遅く就寝する。すべて、馬優先である。
こうして愛馬心を発揮しても、噛む・蹴る・放馬でわれわれを悩まし、ときには駄々をこねる奴もいる。
駄馬は、分解した火砲を背にして、山また山を越すのが任務だが、ときにはこれに乗馬することもある。支那馬用の乗鞍があって、鞍下毛布を置き、四条の手綱で馬術の教育も行なわれる。
ところが、小さい馬と悔っていたが、とてもスムーズには乗れない。尻を押してもらって、やうやく馬の背に跨ってみると、意外に高いのである。
長靴につけた拍車を入れても、勤かない。教えられたとおり手綱を握っても、馬の腹を挟んだ両脚が拡がって力が入らない。
とたんに鐙に深く入って助教からドヤされ、それで鐙に注意が行くと、手綱が留守になる。その瞬間、馬が首をひょいと下げたから、みごとにスッテンドウと落馬! この際、手を放すと、馬は一目散に自分の馬房に駆け込んでしまう。
助教の佐藤軍曹(東京四谷出身の応召兵)の号令「前ヘススメー」で馬はポコポコと歩き、「分隊、トマレー」で馬はポコポコポコと、三歩で停止した。
馬は、まさに佐藤軍曹の号令で、前進停止しているのだ。
五頭の馬をグルリと並べ、輪の中に入った軍曹は、乗り手のいない馬に号令をかけた。「前へ!」と言う声に、馬は耳をピンと立て、次に「ススメ!」でポコポコポコ、そして「分隊、トマレー」で、ポコポコポコと、三歩できちんと停止した。一同は、顔を見合わせた。
後かろ説明されたところによると、馬の目は縦についている。そのため、馬の目には、人間は、物凄い大入道として映るので、曳馬をするときは、馬にとって、われわれ兵隊は、実に大きな物として感知されるのだ。
乗馬の際は、この大入道が背中にいるから、馬は観念して、その命令に従わざるを得ないが、曳き馬の場合は、その大人道が自分の前に立つのだから、馬は怖れて後退する。
そして、それが癖になってしまう馬もあるという。
佐藤軍曹は、新馬調教の苦労も語ってくれたが、それによると、たった一尺ほどの高さの棒を越えさせるだけで、三か
月もかかった馬があったという。
「馬鹿」ということばは、馬を源にして作られたものだと思っていたら、実は人間から起こったものだと聞かされたが、ここでは、その話は省略する。
わたしは、馬に、人を見る目が発達しているのに驚いた。
そして、また、われわれ将兵は、みんな既製品の軍靴を履いているのに、馬の場合は、全部がそれぞれ注文の蹄鉄をつけているのを知って驚いた。蹄の形が、一頭々々違っているからである。
入隊半年近く、われわれも一期の検閲を終え、何人かが一等兵に進級し、馬の名前も毛並みも性格も一応全部覚えたが、相変らず兵隊より馬優先で、みなわれわれより大切に飼育されていた。
馬も支那馬から日本馬に変わり、訓練も厳しくなり、いくたびも討伐に参加して、馬とのツキアイの度も、一段と深まった。
一年間の下士候隊分遣も終わり、伍長任官とともに、私にも乗馬があてがわれた。「藤金号」という牝馬だが、牝のわりに気が強く、そのクセ、障害飛越をひどく嫌う馬で、その調教には苦労した。
私の任務は「兵器掛下士官」で、作戦の場合は、この馬に跨って参加したが、寒いことと尻の痛いのに閉口した記憶がある。
この馬に落とされたことはないが、「岩松号」に初めて乗ったときにはみごとに振り落とされた。この馬の性格を知らなかったからである。
ある日、運動を兼ねて乗って、並足から速歩に移ろうとしたとたんに、スッテンドウ。
「コンチクショウ。おれを舐めやがったな!」と、今度は脚を締め拍車と鞭でトコトンまで攻めて、汗びっしょりにさせてやったら、それからは実におとなしくなった。
毛付兵に聞いてみたら、この馬は意地悪で、初めて乗った人間は必ずストンとやられるし、おまけに夜も放馬の名人(名馬)だと知らされた。
この馬は片目が悪く、清水次郎長の例の子分になぞらえて、「石松」と呼ばれていたらしい。
愛情を以て接すれば、たいていの馬がなついてくるが、特に甘いお菓子を与えると喜んだ。そして、どの馬も、人参・黒豆・麦などを口の中へ放り込んでやると、その喜びを顔全体で表現する。
馬とのツキアイは三年だけだったが、お互いに苦労をかけたりかけられたり、助けたり助けられたりの、生涯忘れられない貴重な経験だった。
これらの馬たちは、一頭も復員することなく、いずれも大陸の土と化し、永久の眠りについているものと思う。大きな図体はしているが、細心の注意力があり、主人に対しては従順な生き物だった。
将校用の乗馬でも、競馬に出られるような駿馬・駿足はいなかったが、さすがに肌の色はよく、毛並みはピカピカに光り輝いていた。もちろん、日本馬である。
山砲隊の主力馬は駄馬だが、「駄馬」とは、駄目な馬という意味ではない。
分解した火砲は、それぞれ九十キロ以上の重量があるが、それを馬の背に積んで運搬するわけで、これを「駄載」という。「駄馬」とは即ち「駄載する馬」のことで、いずれも力持ちだった。
兵隊も逞しい強者ぞろいだったが、馬たちにはそれ以上の逞しさがありみな黙々と働いてくれた。
われわれは、この馬たちを愛情を以て飼育し、戦闘行動間でも、常にその健康状態に注目し、手入れを怠ることは許されなかった。それが、馬部隊の宿命だった。
行軍中「小休止」の逓伝があると、急いで火砲を卸下し、鞍下・脚・蹄鉄を点検し、疲労回復のために束藁で摩擦するのは駁者で、砲手は井戸を探して水を汲み、馬に与えた。片時たりとも、水なしは許されない。
他の兵科、特に歩兵は、「小休止」の声と同時に横になって休めるが、山砲兵は、小休止なして、まず馬の手入れをしなければならない。
水汲みの作業中に「出発準備」の号令が伝えられるのは、毎度のことで、なぜこんな苛酷な兵科に編入されたのか、と何十度、身の不運を歎いたことか。
連日の索敵行では、さすがの馬たちも疲労困憊して、将棋の駒を倒すように、真横にプッ倒れることがある。
直ちに卸下して馬を助けると、馬は立ち上がる。そこで改めて駄載すると、また倒れる。こうなると、もう駄載は無理だから、砲手の力で運ばなければならない。
こうした臂力搬送については、日ごろ演習でかなりやっているつもりでも、馬が倒れるような状況の際は、当然ながら兵隊の方でも疲れ果てている。でも、そんなことは言っていられないから、歯を食いしばって火砲の臂力搬送ということになる。
そんなとき、屯営で、「馬は活きた兵器だ」「愛馬心即愛国心」などと教えられたことが、シミジミと思い出されるが、そうなってからでは遅い。まさに「馬なくして山砲はない」。
馬は愛すべき動物だが、それに関わって味わった山砲兵三年の苦労には、まさに表現すべき言葉がない。
その後、戦車師団への転属となって、馬と別れたが、戦後五十年を過ぎても思い出されるのは、苦楽を共にした馬たちのことである。
私の初年兵時代の毛付馬「天国号」は、山西省の討伐で戦死した。 南無合掌
沼津市 久田 二郎 76歳
昭和十八年の暮れ、中支派遣軍は「常徳作戦」を発起しました。
私が所属したのは第百十六師団(秘匿名「嵐」)隷下の工兵第百十六連隊でした。
私は入隊してから一年半ほどでしたが、まだ一等兵でした。体力も気力も乏しい、虚弱体質の兵隊でした。分隊のお荷物のような私でしたから、班長は私の扱いに迷惑をしたことでしょう。
意図的になまけたわけでは勿論ありません。仲間のほとんどは、奈良・滋賀・三重の、農漁村の出身者で、体格もすぐれていました。都会生活者であった私には到底たちうちは出来なかったのです。
いま思うと、自分の命を守って、必死にみんなの後をついて行った、というのが実感です。
去年、私はこんな短歌を作りました。
「自分だけは死なぬと腹に決めていしかの日必死の我れがいとしき」
さて、常徳作戦が始まると、私達の嵐部隊(約二万名)は作戦の中核となり、戦闘部隊の最前線に配置されたのです。
これは日本軍隊の通例で、置かれた立場(序列)が処遇に影響しました。と云うのは、この作戦は第十一軍への下命でしたが、補強の為に第十三軍から嵐部隊が抽出され参加したのでした。ですから我々は、雇い部隊の扱いで、危険な部処へやらされるのです。
常徳の街は「戦史叢書・防衛庁刊」に次のようにあります。「湘南省の東部に於ける長沙に対して西部に於ける軍事・政治・経済の中心であり、重慶軍の補給命脈のかかる所、また、我これを占有すれば南東方面に対しては長沙・衡陽の地を、西方に対しては四川省東堺を窺って重慶を脅威する戦略上の要衝である。」
反転、苦しい行軍
七個師団、四十五個大隊を投入して苦戦の末に攻略した常徳城でしたが、重慶から続々と救援部隊が近付いてきます。戦い疲れた日本軍には新たな戦闘に入る余力はありません。すぐに反転(撤退)の行軍が始まりました。
揚子江岸の沙市まで二百粁余の苦しい行軍でした。
在支米空軍の襲撃を避けて、ほとんど夜行軍でした。大部隊の行軍ですので、続制がとれません。だらだらと歩いたり、また時には走るような状態でした。大へんな埃が立っていたのですが、夜のことでそれも分からず、鼻や口に扱い込んでしまいます。ロはカラカラに渇きます。
私は、細い棒を拾ってその先に、缶詰の空き缶をくくり付けて、それで道端のクリークの水を飲んだりしました。
発病、必死の行軍
そのうちに、腹が痛くなってきたのです。体じゆうが熱く、熱が出ているようです。そして下痢も始まりました。
下痢はだんだん激しくなって、たびたび道を外れて田畑にしやがみ込みました。見かねた戦友が銃を持ってくれました。下痢便は白く、中に血が混っています。体力は極端に落ちて、もうフラフラの状態でした。
行軍の後尾には重慶軍が迫って来ているようで、小休止も無く、暮れ方から夜明けまで行軍は続くのです。なだれを打つような行軍でした。このような時に、行軍に落伍したら、もうお終いです。端末の一人の兵隊を軍医が診察するなどは、到底望めないことです。
私はもう死にものぐるいになって、必死に歩きました。
意識かおるのかないのか自分でも分かりません。ただ足を前へ出すだけが精一杯でした。
その時ようやくのことで部隊は目的地の沙市に着いたのです。私は倒れる寸前であったでしょう。あと半日も行軍が続いていたら、命は絶えていました。そして私は指一本を切り取られて、常徳街道の道端に埋葬されていたと思います。
野戦病院に入院
すぐに沙市野戦病院に入院しました。白いシーツのベッドと日本の看護婦を見た、わづかの記憶がありますが、そのまま意識を失ったのです。昭和十八年十二月三十日のことでした。
正月五日に病院部隊長の検診があり、衛生兵が私の顔を叩いたのです。そこで意識を取り戻しました。私は死の淵から這い上がったのでした。よくもこの生命力があったものと、いま不思議に思います。
あとで衛生兵が「お前は昭和十八年の最後か十九年最初の戦病死になると思った」と云いました。 病名は、赤痢と腸チフスでした。
三十人程の病室で、内務班のような配置にベッドが並んでいました。二階でしたが、三階があったか記憶にありません。
夜は二本の蝋燭の灯りでした。朝になると鼻の穴が煤で黒くなっていました。
衛生兵は関東の部隊で、感染したりして死ねば戦死になるのだと云っていました。
一人悪い衛生兵がいて、粗相をする患者を殴るのです。夜間に死者がでると飛んで来て、その私物をまさぐっていました。
作戦問に徴発した金品が目当てなのです。
一人の兵隊の死
私の左隣りの兵隊は、病気が悪化して日に日に衰弱しました。ある日の朝、私に「僕の顔おかしいでしょう。もう駄目ですよ」と云います。その日の午後彼は死にました。
自覚して死んでいく彼が何とも哀れでした。
名前を忘れたのですが<釈国劇の俳優だと云っていました。三十位の年齢でしたので夫人がいたかも知れません。遺族が判れば、彼の最後の様子を知らせてやりたいと思ってきましたが、四、五年前「新口劇七十年史」という本から名前だけは刊りました。
「丸茂三郎」という二枚目俳優でした。新国劇は解散して今は無いので、遺族は判りません。
病院での生活
私は幸いにも快方に向かいました。虚弱体質の私が瀕死の意識不明の状態から蘇生した、この回復力があったのは不思議なくらいでした。自由に歩けるようになると、リハビリの為でしょうが、使役がありました。郊外の牧場から牛乳を運ぶのです。2分の1位のドラム缶に牛乳を満タンにして、相棒の患者と祖ぐのです。引率の衛生兵がー人付きます。
途中で一度小休止、衛生兵はドラム缶に顔を突っ込んで牛乳を呑むのです。我々にも呑ませてくれました。
この病院は街の外れにあって、元キリスト教会でした。外壁は一面乳白色で、そのあたりでは目立つほど綺麗な建物でした。沙市は大きな街で、日本の居留民も居ました。
退院の日のこと
三月の末、私は退院しました。三か月の入院生活でした。
その退院の時、病院の門を一歩出たそのときに、胸に思ったことを、不思議に今も覚えています。
それは、そのときから四年程前、東京で観たフランス映画「格子なき牢獄」の中のーシーンのことです。
感化院に入れら以ていた一美少女が、刑期を終えて出所の日が来ます。彼女は歓喜にあふれて感化院の門を飛び出すのです。
これを不法脱出とみた巡察の警官が追いかけます。彼女は尚も走りますようやく捕まった彼女は、笑いながら出所許可証を見せるのです。ここは名場面と云われました。
このシーンを私は沙市野戦病院退院の日に、その門を出るときに思い出したのです。そのことを、五十何年経った今も覚えているのですから、人間の記憶というものは、時に奇妙な働きをするものと思います。
この綺麗な乳色の建物は、再びキリスト教会となって、沙市のあの場所に現在も有るのではないでしょうか。出来ることなら訪ねてみたいものと思っています。