日本は戦争に負けたのか

浜松市 吉岡 芳郎

 

 私の軍歴は昭和十八年十二月から二十年九月までで、航空通信のある中隊の乙幹出身の軍曹として、最後の半年間を東京の吉祥寺に駐屯していた。現在の成蹊大学(当時は高校)の校庭の隅にある通信壕に入って、関東地方各地の小飛行場との無電連絡をする通信班の分隊長であった。

 宿舎は吉祥寺にあった武蔵野第四国民学校の二棟ある木造校舎のうち、西側校舎の一階を兵舎として接収したところで、そこに中隊全員が起居していた。下士宮室の窓の外側には植込みがあり、すぐ一般道路だった。

 

 敗色濃い昭和十九年以降、国民生活は難渋を極め、敵機の空襲が頻繁になった昭和二十年に入ると、更にその窮迫度は増加した。常時と言ってよいほど頭上を乱舞するアメリカ機のために、交通輸送網は遮断され、ただでさえ乏しい食料の配給も絶え絶えになり、私たち兵士の関知しないところで、一般国民は衣食住の欠乏に喘いでいたのであった。

 

 そんな或る日、立入りを禁止されていた児童達のいる東側校舎を何気なく覗いた私は、数入の子供たちが食べている物を見て驚いてしまった。

 そのとき彼らは何を食べていたのか。それはわたしが見たことも聞いたこともない物だった。

 今ここにそれを描写するに忍びない。人間の食べる物とは到底思えない、得体の知れないしろものだった、とだけ記しておこう。

 とにかく、未来を担う日本の小国民に、もはやこんな物しか食べさせられなくなって、何が戦争か、何が本土決戦かと、私は会ったこともない日本の指導者層に向かって、烈しい怒りがこみあげて来たことを今もはっきりと覚えている。

 

 翌日、私は私の班から中隊の炊事場に出ている兵長に頼んで、握り飯を+個ばかり持って未てもらった。朝食の残飯である。勿論、軍隊といえども白米を食べていたわけではなく、半分以上も雑穀の混った赤黒い飯だった。

 正午を過ぎると、児童達は窓の外の道を三々五々帰り始めた。彼らを手招きすると、七、八人の子供達が下士官室の窓の下にやってきた。

「これを食えよ」

と私が手箱のふたにのせた握り飯をさしだすと、歓声をあげて飛ひついて来るものと予想していた私の期待に反して、子供達はお互いに顔を見合わせ、もじもじしている。

「どうした。早く食べなさい」と私か重ねて言うと、その中の最上級生らしい男の子がいみじくも言った。

「お国のために戦っているんですから、兵隊さんこそ食べて下さい」

 あゝ、なんたる言葉。

 私はこの言葉がそれを言った男の子の本音か、或いはそのように教育され躾けられていたがための儀礼的な言葉だったのか、本当のところは今もって判らない。多分、それは後者だったのだろう。

 なぜなら、更に強くすヽめた私の言葉に

「じゃあ頂きます」

と言った彼らは、遂に手を伸ばし、態度だけは慎ましく、しかしがつがつと黒い握り飯を平らげて行ったから。中には涙をうかべている小さな女の子もいた。

 現在、平成二年春。

 日本中に物が溢れ、食料品などは単に腹を満たすだけの役目を失い、如何にして美味い物を選別して食べるかという、一種の贅沢品になった感さえある。調味料ひとつ着いていない黒い握り飯など誰ひとり見向きもしないだろう。

 然し私は言いたい。東京都、武蔵野第四小学校に学ぶ現在の子供さん遂よ、四十数年も昔のある初夏の日兵隊の食べ残した一個の黒い握り飯に対して流した先輩達の涙の本当の意味が判るかと。

 

 今、私は次のように思う。

 日本が戦争に負けたなんて、本当にあったことなのだろうか。

 惨憺たる敗戦の現実に直面して、日本国民の誰もが迫り来る餓死におびえながら、血眼になって食料を探し求めていた日々があったなんて、本当だったのだろうか。

 汽車の切符一枚買うために、三週間も毎朝欠かさずに駅へ行って、購入順番の点呼を受けなければならない、などということが本当にあったのだろうか。

 

 日本の全国民が、あまりにも悲惨な体験を強いられた結果として、二度と戦争はしない、そのためには陸・海・空軍などというものは今後絶対に持たないということを明記した第九条をもつ新憲法を、朝野を挙げて歓呼して迎えたなどということが、本当にあったのだろうか-と。

 

 現代の、戦争の何たるかを知らない年齢層の人々がよく□にする言葉を、私も見聞きすることがある。「なぜ戦争に反対しなかったのですか」という言葉を。

 この人達に、あの当時それを□にすることは、心身ともに死を意味したことなど、百万言を費して説明したところで、到底わかってはもらえまい。

 

 然らば私達もその人達に反論する。

「では貴方達は戦争に反対しているのか」

と。戦争に反対ならば、明らかな憲法第九条違反である自衛という名の軍備を際限もなく増強し続けようとしている政治家の集団が衆議院選挙で過半数を制するなどということがある筈はないと。 近い将来、自衛のための戦争とやらを、日本はまたやってみるとよい。敗けて新々憲法を作り、また軍備を放棄する宣言をせよ。然し元来が勤勉な日本人の努力によって国力が恢復したら、それにつれてまた好戦的な政府を選び、再々軍備をして、その結果、また戦争を始めよ、またまた敗けてそれを反省し、新々々憲法を作り:・……。

 

 まるで、昔、いろりの端でおじいさんが孫達に聞かせた「きりのない話」のように、日本は永久にこの繰り返しをやるのだろうか。日本は国力、資源、環境その他いづれをとっても、絶対に戦争に勝てるようにはできていないのに。

 敗戦だけはー度きりでよい。破壊は極めて短期間でできるが、再建は気の達くなるような長い年月と努力を要する。

 

 我々はこの貴重な敗戦という体験をした。男女を問わず、前線と銃後を問わず、戦争とその悲惨さとは如何なるものであるかということを、当時の日本の無能な為政者によって徹底的に教えて頂いた。学業を奪われ、青春を奪われ、生命を奪われた。これらの数少ないかなり部も、今や年々歳々、滅少しつよのる。

 

「朝風」に集う語り部の皆さん!

 黙せずに語って下さい。戦争の悲惨な真相を包み隠さず聞かせて下さい。我々の愛すべき子孫遠の永遠の平和を守ってやるために。

 お願い致します。

                          (六十六歳)

朝風7号掲載 1990.5月

東京大空襲

松戸市 後藤 守雄

 去る八月十五日の午後二時から五十分間、松戸市立博物館で、同名の記録映画を観た。編集はNHKで約半分の画面は、アメリカ空軍側の撮ったモノの複写である。

 ただ今、当会で話題になっている焼夷弾を落とす前に、どのような方法で東京都内、主として下町の屋根にガソリンを散布したか?

 B29三百三十四機がそれぞれコース目標別に爆装して離陸するまでが問題である。どのB29もガソリンをドラム缶に詰めて飛行機に載せるシーンはなかった。合計一千七百八十三トンのナパーム性M69=油脂焼夷弾やエレクトロン・黄燐などの焼夷弾であった。

 

 アメリカ空軍は、この東京大空襲の実績で十数年あとのベトナム戦の教訓を得ていった。

 ガソリンは非常に軽い比重の液体である。しかも引火点はきわめて低い。仮にB29の胴体に穴を明け、ガソリンを空中散布したら、たちまち高々度では気流となって、後からつづく友軍機にガソリンがかぶり、誘爆して全機目的を果たす前に墜落してしまうだろうというのが私の考え方である。それともあの日、B29が東京上空に達する前に、地上で別動隊が待機して、ガソリンを各家々に散布していったとすると、話は通る。

 

 かねてから東京には、三月十日の陸軍記念日には、大空襲があるのでは?と街の噂は合った。

 悪い時には、ねるいことが重なるものだ。三月九日は昼すぎから北北西の強風が吹きはじめ、夜十時三十分に第一回の空襲警報がなったが、すぐB29は房総半島をゆっくり旋回しただけで退散してしまった。

 やれやれ、ここで一旦、警報を解除した。都民は翌日十日の朝に向かってほっとして眠った。十日の午前零時八分、三百三十四機が、東京湾を真っすぐ北に上がって、深川木場に第一弾を落としてごく低空で浅草万面をねらって爆弾を投下していった。

 アメリカ空軍兵士の談話として日本の高射砲の弾丸はB29の飛行進路よりはるか上空で破裂していた。

 (それまでのB29は一万メートル上空を侵入していた。この逆をやったわけだ。戦争の駆け引きを日本軍は誰も気付かず、米軍のなすままだった)

 

 ナパーム弾と小形の焼夷弾は、百五十メートル間隔で落とす計画であったという。

 地上では一瞬に千数百度の高温になる。もちろん木造の家などすぐ出火する。路上を逃げている人は、瞬時炭化して、後、数時間あとにはセミのぬけがらのようになって、下町の路上を風に吹かれていったと、これは日本側の記録である。

 

 これだけの高温になると地上の酸素は一瞬にしてとんでしまって、消防ポンプのガソリンエンジンは酸欠で全て使いものにならなかったそうな。

 この米空軍の作戦指導者はまだ健在だが、その自宅玄関には昭和天皇から贈られた大勲位旭日章の勲章が、ガラスケースに入れて飾ってあるのが不思議なムスビの映画だった。

 『朝風』八月号の二十二ヘージに三月十八日東京大空襲とあるは、明らかに誤りである。

 正しくは昭和二十年の三月十日である。同人諸士の記憶を訂正乞う。東京都民の十二万の犠牲者の霊魂よ勲章の件は、ご納得されるや?。

                     朝風32号掲載 2000.10月号

勝手に食った軍隊初夜の夕飯

須賀川市 佐藤 貞

 昭和19年4月、赤紙を受けて仙台つつじケ岡の東部30部隊に入った。裸体での身体検査最中に時ならぬボタン雪に見舞われた。枝垂れ桜満開だと言うのに天は無情。夕方やっと兵舎に入れて貰った。

 

 すぐ飯上げ使役に5名出ろとの指図。40名程が皆人の顔を窺っていて、結局気の弱い者が出るはめになった。炊事場から大きな桶に入った飯を担いで来る。

兵が来て、かねの食器に盛りつけて黙って引き上げる。

裸電球がついても誰も来ない。皆食器の前に腰を降ろして待つこと一時間以上。そのうちに社長然とした恰幅の良い仲間が「どうです、皆さん頂きましょうか」と提案した。皆一斉にかき込み始めた。赤飯ならぬ高梁飯だ。

 その時、カツカツと靴音高く伍長がやって来て、大喝一声「貴様ら、誰が食えと言った。」

 

 皆、口一杯の飯を飲み込むことも出すことも出来ず誠に無様なことになった。

 罵倒は誠にご尤もだが「ガツガツしやがって食ったのを出せ」には参った。フグのようにロを膨らまして社長も平も見られたものでは無い。散々地方人のだらし無さを罵られてやっと初の軍隊飯を頂戴`した。

この時、一緒に食べた仲間にも帰らぬ人となったのがいる。

                                            合掌。

                     朝風36号掲載 2001.4~5合併号

神戸大空襲の夜

昭和二〇年三月一六日

                                                                                            篠山市 上畑敦子

 その時、向いの眼科から猛烈な火が吹いた。焼夷弾はだんだん多くなり、早く逃げなければどうなるか分からない。 防空壕は満員で入れない。あちこちで人が倒れる。

 上へ走る。宮本さんが倒れている。即死だ。

 男性が倒れている。鉄兜に穴があいている。 即死だ。

 家々はもう全焼だ。爆弾がドカンと落ぢた。もう少しで直撃だった。

 伯母さんが「湊川トンネルヘゆきましよう」そうだ。いいかも知れない。やっと近付くと「満員だ、帰れ、帰れ」の声。

 驚いた。人間は最後まで味方と信じていたのに……。

 気の毒に此の人たちは全員窒息死であった。両方から煙ではどうしようもない。

 

 私たちはひたすら山へ向かった。上は焼夷弾。そして焼けたトタン板が三月の春風に乗り私達を目がけて飛んできた時は「恐ろしい」としか思えない。やっと交わす。

 もうすぐ平野だ。山だ。嬉しさに気がゆるむ。と、焼夷弾が私の足元へ。それは狂つたように火花を散らしクルクルと舞う。

 

Y子ちゃんは咄嵯に横の家に飛び込む。私たち三人はトイレの横で、どうしようもなく立ちつくす。畳が燃え出す。ああ、もう最後だ。Y子ちゃんと則子と三人で死のう。

 「ナムアミダブツ」と三人が唱える。

  「あ、子供の声だ。門を叩き割れ」と、大人が門を壊してくれた。「さあ早く逃げなさい」 「ありがとう、おじさん」三人は山へ逃げた。

 

 山へ着いた途端、ヘナヘナとなり、三人は呆然とした。とうとう助かったのだ。親はどうなっているのだろうか。下から顔が真っ黒に煤けた伯父さんが自転車でやってきた。「伯父さん、下はどうなの」と聞ぐ。

 「全滅や」。これでは親は生きておれないだろう……と愕然とする。

 ではポツボツ下に降りてみようか。辺りは火事の跡ばかり。区域は焼け跡と死体と物凄い惨状で、頭はポーつとなる。我が家の辺りに、焼けた毛布にくるんだものが三ケある。「何んだろう」と毛布をめくる。

 

 隣のY子ちやんの親ではないか。お互いに口もきけない。涙、涙で。

 父親は「お前ら生きとったか。わしは諦めていた」と涙声。母は口もきけない。おぱあさんも当然のこと。なにがなにやら判らない。

 

 ふと、後を見る。子供らしい。裸で焼けて、お腹から下は無い。可愛そうに。何ということか。愕然とする。

 父親が焼け跡の遺体を見る。「敦子、これがスズランのおっちやんやで」見ると人間らしい黒いものが両手を天にふりかざしている。

 彼は「逃げてはいけない」の言葉を忠実にまもったのであろう。

 

 水を溜めている「桶」では、五十人位の人が溺死している。女郎さんは鎖で足を繋がれていたそうです。防空壕では全員が蒸し焼き。私たちの住んでいた兵庫区は壊滅状態であった。

 

 味方の「迎え撃つ」状態は子供でも頼りない。ボーン、ボーンと大蔵山から撃つが当りもしない。

 「頼口ないなあ」と思う。

 

 神戸駅へ、疎開先へ帰るため行く。ホームはごった返している。と、その時、軍用列車が通過する。

 兵隊さんたちは窓から身を乗り出して「皆さIん頑張って下さーい」と力づけてくれる。

 あの人たちは何処へ行くのだろうか。今にして思えば、広島か沖縄だったと思う。

 

 軍用列車が通過した後、私達を乗せる列車が来た。それは神のように見えた。人々が争うように乗る。

 それは何というか、我先に窓から乗る者や、子供を窓から放り投げる人や、父母は、あれよあれよという間に奥へ詰められる。「敦子、則子、乗ったか」「うん、大丈夫」と答える。

 

 すしづめであるから、妹をしっかり抱いておく。息もできない程だ。妹は無言。なにを思っているのだろう。

 私も無言、途中から乗ってくる人たちは、驚きの目をしてボロボロの姿の私達を見る。

 やっと岡山へ着いた。片時も離れなかったY子ちゃんとお別れだ。

 胸がつまる。「あつちゃん、お別れね。お手紙書くわ。お元気でね」「美志子ちやんもね。お手紙書くわ」。

 寂しかった。家も焼かれ、これからどうするのだろう。父親も亡くなっているのに……。

 

 さあ、広島の西条だ。片田舎であった。

父は大きな家を二戸買っていた。だけど何も無い。お茶碗もお布団も。先に疎開していた父親の生家へ兄と姉、妹を迎えに行く。

 みんなは、びっくりして声も出ない。お茶碗とお布団を借りて荷車で線路伝いに帰る。

 

 田舎の家は、松の木、白梅の木、さざんかなどが咲いていた。今迄はお花を見るなんて夢のように思えた。

 今度は『飢え』との闘いであった。朝は大豆が十粒、昼はお芋かお粥さんのお弁当。

 お粥さんはカバンの中に入れることが出来ないから、手でソロリと持って学校へ行く。

 

 お昼が来るとヒヤリとする。広島のお弁当は四角にそろえ卵とサンショの葉にピンクの粉のようなものが乗せてある それは私にとって、夢のようなお弁当だった。当然私はサッサと食べ、運動場へ出る。姉もそうだった。

 家が大きいので、瀬戸内海の因島から兄の友人を二人預かった。それでも朝は大豆が十粒だった。おとなしく食べる彼等の横顔が目に浮かぶ。

 とうとう姉が倒れた。田植えや芝刈りの折り、しんどそうだった。

 姉は別の部屋に寝ていたが、「おなかがすいた。もう一膳お粥さんをちょうだい」と声がした。みんなはドキンとして、お鍋の底をガリガリ鳴らし、「お姉ちゃん、もう無いの」と言うと、黙った。

 お鍋を見せてやれば良かった、と今も思う。私の宿題の 「ゆかた」を作ってくれたりした、やさしい姉だった。

 姉の日記より

  今日、私が帰ると父が松の木を切ってられた。びっくりして「どうするの」と聞いたら「これはなあ、飛行機の燃料に  なるのや」びっくりレた。

  最後に先生は「頑張りましようね」と。どこまで人を闘わせばいいのだろう。

  私は燃料がないのだ。どうする気なのだろう。

 

 姉は、空腹でたまらなかったのだろう。

 私たちが学校から帰ると野草を摘みにすぐ出かける。田舎町だから畑が出来ない。どんなに悔しかったか。

 ある日、父の友人が 「赤い卵」を十個持ってきて下さった。気が動転する程いまぶしい思いであった。

 母が「これはお姉ちやんにね」と同意を求めた。むろん異存はない。お姉ちゃんの嬉しそうな顔を思うと、卵を持参して下さった父の友人が神以上に思えた。あれ以来。赤い卵を見ると、涙が出てくる。

 

 父と母が買い出しに出かけた。ピピピーと不吉な声で捕まる人がいた。そうならないように、家で祈る気持ちで待っている。

 「ただ今」の声に、あ、どうだった。みると「さつまいも」がほんの少し。飛びつくように撫でる。うまくいった?と聞く。

母はニヤニヤ笑い、「検察官に捕まったのよ」と言う。「それ見ろ、やっぱり芋やないか」と声をあらげる。

 「そしたらね。お父さん、プーつとガスを出したの。そしたら検察官がプーつと吹き出して、えい、もうええわ、持って行け、と勘弁してくれたの」。

 私は涙が出てきた。こんなにまでして親は芋を持ってきてくれたのか。親子七人、芋が五コ。

 

姉は亡くなった。言葉もない。焼けた骨を見たとき、春風が一瞬吹いた。私はしっかりと息を吸い込んだ。この日を絶対忘れまいと。

 翌日からまた野草探しである。何かいい草はないかと妹と探した。笹があった。とても食べられない。茎は御馳走だった。

 

 私は目の前がピンク色に見えるようになった。ガーゼをぶら下げていた。母は、栄養失調ではないの、と案じてくれた。カルシュームでも飲んだらどうかしら…隣の駅までテクテクと歩いた。

 養鶏場があったからである。そこで、雛がかえると空を捨てる。それを貰って粉にして食べた。卵なんてくれない。

 

 ニュースはどんどん悪化してくる。いよいよ、日本は戦場だ、と書くようになった。

 女学生は槍で練習している。私は本当にそうなるのかと思い足がすくむ。玉砕に次ぐ玉砕で、早く負ければいいのに…・と思うようになった。

 いよいよ本土決戦だ。どうして迎え撃つのか。本土は焼け野原だそれでも敵は上陸するのか。なにが欲しいのか。天皇陛下は国民が守るのだ。いや今に神風が吹く。

心配いらない。闘うのだ、が結論であった。

 

運命の八月六日、学校へ行こうと裏口から出た。小高い地形の上に建つ我が家は、広島の上空が見える。

飛行機が一機飛んでいる。「あれ、敵だろうか味方だろうか」

見ていると、白い箱のようなものを落とした。エノラゲイ号である。何んだろう…・ピカッと、ものすごい閃光。むくむくと湧き上がる雲。それがピンクに燃えている。

 

 文草にすると、これだけの事だが、下では地獄であった。その証拠に、飛行士は、その後、自殺した。

 学校へ行く。みんなは大騒ぎ。先生が、「新型爆弾」かも知れないから、家でジツとしていなさい、と言う。

 帰りに駅に寄ってみる。被爆者がタンカで次々運ばれて来る。それは、人形を焼いたようにしか見えなかった。

 人間ではない。

 

 その人達から「お水を下さい」と聞こえた。

 私は、お水を探しに行こうとすると「水をやっちやいけん。死ぬけん」と、おじいさんに止められた。

 つぎつぎ亡くなってゆかれた。黒い色は放射線を通すのか、体はケロイドだったが、白い色はケロイドも残らず、無事だった。私の従兄弟は顎にひどいケロイドが残った。

 いつまで戦争は続くのか。つくづく嫌になった。   

   朝風54号掲載  2002.9月

召集令状に纏わる話

須賀川市 佐藤 貞 81歳

 私は「赤紙」と言う本を大事に持っている。これはある村役場の兵事係が敗戦 時、焼却しないで保存していた戦時中の機密書類を元に書かれたものである。召 集令状が出される迄の経過などが詳しく書いてある。

 今回、私の徴兵検査の時に引率してくれた故郷の村役場兵事係を訪ねて昔の話 を聞く事が出来た。今92歳の老齢だが健在で昔の話を言葉少なに語ってくれた。 然し、赤紙と言う本の内容以上のものには口が重くなった。

 

 小寒村の私の村からも今次大戦に890名余りが赤紙で徴集された。当時の1 所帯から1名が徴集されたことになる。 そして帰らなかった者は270名、これは出征者の約3人に1人が死んだことに なる。彼は空でこの数字を上げた。頭にこびりついているのだろうか。そして昭 和53年に有志と図って「戦没者冥福之塔」を小さな社の境内に建立した。命令 を伝達するだけの役目だったとしてもやはり心中わだかまるものが有ったのだろう。 赤紙と言う本によると、召集令状は、連隊区司令部と言うのが各所に有ってこ こで名簿に基づいて出すことになっていた。この名簿に付いている身上書は兵事係が関わっていて、此れが決定に大きく影響したようだ。だから兵事係は後味の悪い思いをしなければならなかった。 事情を知らない村民から赤紙は兵事係が出すのだと、影口を言われることにも なった。

 

  我が村ではどうだったか。連隊区からは町の警察署に赤紙が送られ、それを村の巡査が受け取って村役場に届けた。村役場では予め決めてある村人を使って届 けさせた。 多くても1時に来る村内の赤紙は10枚位だったようだ。赤紙受領についてのトラブルは無かったそうだ。戦死公報は役場の主立った人が何名かで届けた。これは一番辛い役目だが何ともしようが無いことだ。

 

 村では馬も昭和13年と15年、2回徴用されて37頭出征した。約15km離れた郡山市まで早朝出発して届けたそうだ。300円から350円の支払があったが、後で出征者の家には500円に増額されたそうだ。この金を元に北海道まで代わりの馬を買いに行ったが最初は安かったが段々高くなったそうだ。勿論復員馬は1頭も無い、冥福を祈るだけです。

 

 私は当時町の郵便局の電信係をしていた。大量の動員関係の電報に忙殺されて、一区切りついた途端、どっと汗が流れ出したことがある。一心不乱になれば汗も出ないことを経験した。また、郵便係の応援をしていた時、深夜逓送便で届いた警察署当ての分厚い速達を、召集に怯えていた先輩が電灯にかざして中身を確かめようと無駄な努力をしていたことも有った。

 

 郵便局勤務時代の余談だが、上部からの秘密文書で、ソ連当ての郵便物は別の封筒に入れて新潟のさる所に別送する指示だった。信書の秘密は戦時中踏みにじられていた。兵事係がまた復活するような事は絶対させてはならないが、衆愚の選挙結果によってはどうなるか分からない。恐ろしいことです。

(2015.03.01)

復員引揚地、浦頭訪問記

須賀川市 佐藤 貞

 私の復員引揚地は佐世保と思っていたが、この度訪問したら浦頭と言う所で佐世保からかなり離れていた。ハウステンボスと言う変な名の駅で降りて大きな橋で早岐瀬戸を渡った。此処が元の引揚援護局の有った針尾島で、大きな日航ホテルが有ったが満室で泊まれなかった、引揚記念館に行く方法を尋ねたらタクシーが良いと親切に連絡してくれた。

 

 タクシーの運転手さんに引揚記念館や上陸地に行きたいと頼んだら「あなたもここに引揚げたのですか」と言われた。立派な道路で山を越したら海が見えてきた、海岸に下りたら 「引揚第一歩の地」と言う碑が立っていた。港の設備は何も無い只の海岸だった。遥か右手に佐世保が見えた。湾岸を暫く進んで左右の岬の間から遠くの海が見える所まで行って引き返した。当時岬から信号灯が忙しげに点滅していたのだが今はひっそりとしていた。

 

 湾内には桟橋も無く、一般の船も浮かんでいない只の石だらけの海岸だった。赤錆びた巨大な航空母艦が二隻浮かんでいたのも嘘のようだった。左手に丸い石油タンクが3つ程並んでいた。

 

                            ☆

 

 浦頭検疫所の在った辺りは何も無い荒地で、船から見た沢山の木造の建物やこの後ろに見えた建物よりも長い軍用機なども嘘みたいだった。

 

 ここから後の高い所に「浦頭引揚記念平和公園」が在った。ここからは海が一目で見渡せた。こじんまりした引揚記念資料館があってパノラマなどで当時を再現していた。運転手さんが写真を撮ったり、説明をしてくれた。裏の高い所には平和の像が聳えていた。

 

 昔歩いた山道は誰も通らないのか草茫々で、別の立派な道路が峠を越していた。田圃の中の細い道を運転手はわざわざ通ってくれた。何日か過ごした佐世保引揚援護局跡はハウステンボスとかのテーマパークに変わっていた。

 

 引揚列車に乗った南風崎駅まで行って貰った、モダンな駅になっていたが、ホームは石積で昔のままのようで、橙色のカンナの花盛りだった。運転手さんの世話で駅の向かいの商い所のハウステンボスが一目で見下ろせるホテルに落ち着いた。

 

 翌日は大村線で長崎に出て船で五島列島の福江島に行った。島には別に用は無いが、復員船から見た五島列島の緑の山々が強く印象に残っていたので行って見た。当時の様に山は緑に見えなかった、黒ずんでいた。中国大陸は茶色の風景ばかりだったので新鮮な緑に見えたのかも知れない。兎に角、島々を眺めて満足して帰って来た。

 

 今回の訪問で思い違いをしていたのは、南風崎駅は丘の上と思っていたのが平地に在ったことだ。坂を登って辿り着いたのでそう思っていたのかも知れない。

 

 当時の事で印象に残っているのに次のような事があります。

旧海兵団宿舎は物凄く大きくて、トイレの扉が数え切れない程沢山並んでいた。ノックすると「おう」と男の様な返事だが、出てくるのは虎刈り頭の女たった。いつでも自由に人れるトイレが沢山あるのは嬉しかった。

 

 建物の板壁を剥がして飯盆炊さんをしていたら、係員が飛んできて剥がさないでと言う、そんなら薪をよこせと乱暴なことを言ったら争わないで持って来た、荒れすさんでい復長兵とは争わなかったのでしょう、済まないことでした。薪は生で燃えなかったが、何でも燃やした戦地との違いを悟らされました。

(本当は飯を炊いて作ったお握りを、転がっていた自動車の鉄板の上で焼いていたのです。遠く新潟まで帰ろ仲間と数人でやりました。米は上海でIキロ程支給されたの持っていました。真っ先に食べ物を確保する戦地での習性だったと思います。)

 

 戦地では焚物が少なくて、家具湯具、次は戸、窓枠、屋根の垂木、土間に用意してある木棺までも燃やトました。現地人のように枯れ草の根などは手間暇が掛かるので間に合いません。 家を壊して燃やすなど当たり前と思っていました。兵が泊まった農家は土レンガだけになります。本当に申し訳の無いことでした。

 

 宿舎と向こうの陸との間に大きな太鼓橋みたいのが架かっていて、夕方になると地元の子供達が集まって懐かしい唱歌を歌っていた、引揚者を慰める歌だったのかもしれない。有難う御座いました。

 

 南風崎駅のホームで仲間の飯盆を盗んだ男がいた、ここまで来ても員数を付けた男は心から軍隊生活に馴染んでいたのですね。

 

                              ☆

 

 援護局に入ってからは皆一階級昇進した、解数式は無かった。500円と兵籍証明書などを貰って引揚列車に乗ったが誰の指揮で駅まで歩いたのか思い出せない。援護局の人が引率したのでしょうか。

 

 四国の人は、途中列車から降りて行ったが、皆挨拶も無く忙しく立ち去った。私達もしごかれた古参兵達に挨拶する気は無かった。考えてみると、兵を苛めたのは僅かの古参兵で、あとは普通の人達でした。只、虐めを制止することは出来なかったようです。良識の有る人も制止出来なかったのが、致命的な日本軍隊の欠陥と思っています。

 朝風104号掲載 2007.9月

千社参り

須賀川市 佐藤 貞

 書類を整理していたら「百社参り」という葉書大のカードが出てきました。中央に大きく「拝百社」右に「武運長久」、左に「身体強固」と少し小さく書かれ、下に増山秀蔵、石川栄と連名で印刷されていました。

 

 これは昭和32年に山の中の小さな神社の高い所に貼ってあったものを、記念の為に剥がして頂いてきたものです。敗戦後10年余り経っていて、このような札も殆ど風化消滅してしまいましたが、この一枚だけが残っていました。戦時中、出征兵士の家族が百社参りとか千社参りをして武運長久を祈りました。百社参りは村内外の神社に武運長久身体強固を祈って、その印に神社の柱や外壁などに張り付けてきました。

 

 千社参りは石仏でも記念碑でも何でも神仏臭いものに貼り付けて祈りました。そのために札も短冊型の小さな和紙などが使われました。これは消滅してしまって有りませんでしたが、頂いてきた百社参りの裏に付いていました。恐らく先に貼ってある千社参りの上に重ねて貼ったものでしょう。 戦時中、神社の建物は、表も裏も周り一面に隙間が無い程大小のお祈りの札が貼られて、まるで蓑を纏っているようでした。

 

 千社参りの札は家族や職場の人たちが筆で書きました。一人で何枚と決めてせっせと書きました。心を込める暇も無いほどたくさん書きました。そして親戚や近所の人に頼んでお参りに出かけます。受け持ちの地域を決めて、お握り持参で随分遠くまで出かけます。辺鄙な所に石仏などが有るので、自転車か歩きになります。夕方には帰って来た人を、労を労うささやかな酒盛りをしました。

 

 千社参りは暇と金がかかるので、度々は出来ませんが、一家から何人も招集された家では無理をして何回もやったようです。千社参りのお陰か私も無事復員したが、お礼参りは未だやっていません。やったという人の話も聞きません。どうやら神仏は見捨てられたようです。

 

 谷田川・註 最近は「評論」的な投稿が 多く、投稿をためらう方もあるかもしれませんが、佐藤さんのこのような文はとても有難く貴重です。「お礼参りは未だ ……」の言葉の重さを十人十色の思いで 受け止める文を、私は「さすが佐藤さんだなあ」と感動しました。

                       朝風82号 2005.2月号掲載