04.7.16 |
国土を衛った最後の戦斗 友野 九郎 |
占守島は終戦3日後にソ連軍の奇襲上陸を受け水際で阻止しソ連の野望を砕いた。 |
酒田市 友野 九郎
私のもとに「流氷の海」と題する戦記本があるが、終戦当時北方軍の苦しい戦況がつぶさに記録されている。その第六章は、私達の部隊が、終戦から三日後の十八日からソ連軍との戦闘状態の記録である。もう半世紀余にもなるが、その衝撃が余りにも大きかった為に忘れ難く、戦友たちを思い浮かべながら読んでみた。
終戦の時は北千島の最北端に位置する占守島にて、カムチャツカ半島のソ連軍と対峙していた。その半島とは僅か十三粁の海峡をはさんで、ソ連軍が占守島への強襲上陸を虎視耽々と狙っていて、片や連日に亘り米軍機の空爆を被むりながら、やがてはアツツ島玉砕の二の舞かと、私らは戦々恐々の毎日であった。
それが突然、終戦と聞いた時のあの嬉しかったこととても忘れない。当時給与係だった私は関係書類を焼却すると共に、今まで蓄積した糧秣を一斉放出した。兵達は久しぶりの酒宴に緊張の糸が切れて、心は故郷への思いが広がり、すっかり浮き足だっていた。
しかし、何という不運か、終戦から三日後の十八日未明に、そのソ連軍が占守島の対岸に奇襲上陸作戦を強行し正面海岸に配置していた村上大隊との壮絶な戦闘が展開された。村上大隊の兵達も私らと同じく望郷の思いに浮かれていたろうが、突然の交戦にはどんなに驚いたことか。これを上陸前に水際で阻止すべく、師団長は全部隊に出動命令を発し直ちに応戦を指示された。
我が中隊にも出動命令が下り直ちに前線へ出発となった。すっかり戦意を失い里心になっていた兵達だったが、不満一つなく潔く出動されたが、流石は元関東軍の精鋭部隊であった。
この水際作戦には占守島の全戦カの迅速な出動と共に、在島の戦車連隊の活躍により敵は完全に水際で阻止され完敗であった。それによる敵の犠牲者は戦死と行方不明者併せて約四五〇〇名の大損害に加え、他の生存兵もずぶ濡れになり完全に戦意を失い双方が水際で足止めのまま対時すること五日間、二十三日にようやく停戦となり戦闘が停止された。即ちソ連軍の上陸作戦所期の攻撃予定は、十八日中に占守島を完全に占領し、その余勢で一挙に北海道の半分を占領するはずだったが、この五日間の足止めによりその企みは完全に崩れ、南千島に到着するのが精一杯であった。
あれから半世紀も過ぎ二十一世紀に至るも、朝鮮戦争による南北分断の厳しい抗争の現実を見て、我が国の北方四島返還要求に対するロシアの頑な姿勢の現実、又沖縄などに駐留軍による主権侵害の悲しい現実など、一度失った国家権益の原状回復の絶望的な現実を思うとき、この最終戦争の勝利が歴史的に大きな意義あることを再認識させられた。
終りに、この栄光なき戦争にて不運にも尊い犠牲になられた、池田戦車連隊長始め数百名の英霊に対し、改めてそのご冥福をお祈りして終りにする。
朝風56号掲載 2002.11月