総合編

14.02.01

許し難き奴ら  吉岡芳郎

軍上層部の独善無能の為に幾多の兵が無駄死をした、指揮官らを糾弾する

許し難き奴ら(1)

浜松市 吉岡 芳郎

 

 牟田口廉也と荻洲立兵。戦争中の、日本の代表的な傲岸不遜な陸軍指揮官の典型である。

牟田口廉也は、かの有名な惨鼻を極めたビルマ敗走に際しての総指揮官である。

 なんらの合理的な勝算もないのに、印度のインパール攻略作戦を強行し、あたら数十万の日本の若く優秀な将兵を彼の地で太死せしめた。インパール攻略作戦が検討されたとき、どうしてもこの作戦を強行したいビルマ派遣第十五軍司令官、陸軍中将牟田口廉也は、その攻略軍に対する武器・弾薬・食糧の後方補給の困難さを合理的に指摘して、作戦の中止を必死に勧告する小畑信良孝課長を罷免し、「いちいち補給なんか気にしていて作戦ができるか。皇軍は飯など食わんでも戦えるんだ」と一喝した。

 

 なんたる暴言。牟田口は一体、部下の兵士のいのちをなんだと思っていたのか。あの太平洋戦争中、日本軍の首脳陣は重大な作戦の決定に当って、合理的に不可能な場面に遭遇すると、いつでもこうであった。慎重にことを運ばんとする態度は弱腰と冷笑され、合理性を無視した勇ましい主戦論が勝ちを占める。

 敵の戦力を希望的に下算し、おのれの実力を過大評価し、それでもなお作戦実施の不可能を知ると、あとはお得意の「精神力」を強調して、「不可能を可能にするのが光輝ある皇軍の伝統」とうそぶいて、あたら忠勇な日本の若い将兵を大量に死地に投じて全滅させ、なんの反省もしなかった。いくら日本の兵士が優秀だからと言って、不可能は不可能なのである。

 

 ここに笑うに笑えない哀れな話がある。

 牟田口はさすがにインパール作戦実施にあたり東京の大本営に自動車中隊と駄馬輜重中隊あわせて何個中隊かの派遣を要請した。

 折り返し大本営から「快諾」の返電が届き、牟田口は大喜びしたが、結局、大本営からとどいたものは一通の電報だけで、あとのものは何ひとつ送ってはこなかった。当りまえである。あのころ、そんなものはとうの昔に日本には皆無になっていた。よし、百歩を譲って仮りに自動車や馬が日本内地にまだあったとしても、制海・制空権を完全にアメリカ軍に奪われてしまっている日本内地からビルマまでの長い魔の海域を通って、一体どうやってこれらをビルマまで連べるのか。

 

 「快諾」の電報を打つ方も打つ方である。その電報を打ったのは大本営の後宮津大将である。後宮さん、なかなかやるねえ。一応、承知しておいて何も送らなければ、牟田口はインパール作戦を中止するとでも思ったのだろうか。何もないのを承知で「快諾」の電報を打った後宮。糠喜びをさせられた牟田□。なんともおかしく、また哀れな話ではないか。物量の奥付けがないのに無謀な大戦争に突入した日本の、当然の報いであった。

 

 戦後、この神がかり的な牟田□の無謀な作戦の犠牲になり、豪雨降りしきるビルマ白骨街道を敗走する、傷つき、飢え、病み衰えた日本兵の鬼気迫る状況を、戦史作家、高木俊朗氏が九州のある地方で講演中、聴衆の中の一人の老人がすっくと立ち上がり、「そんなことはないっ。皇軍は連戦連勝したんだ」と、高木氏に向かって拳をふりあげて絶叫したそうである。しかし私はこの老人を憎めない。戦争が終わって二十年も経過した後でさえも、なおかつ日本の田舎の老人をしてこのように叫ばしめた教育を、戦前に何十年にもわたって日本国民に強制実施した奴らこそ、断じて許せない輩である。

 

 日中戦争、ひいては太平洋戦争の引き金となった昭和十二年七月七日夜の、中国盧溝橋における一発の銃声。あの一発を放った兵士の所属していた連隊の連隊長こそ、陸軍大佐、牟田□廉也であった。だから牟田□は太平洋戦争中もしきりに、「この戦さはおれが始めた。だから決着もおれがつける」と豪語していた。

 なるほど、その言葉通りに決着はつけた。しかしそれは輝かしい勝利のそれとしてではなく、惨憺たる敗戦という結着であった。

 牟田□はインパール作戦の失敗後、東京へ呼びもどされて参謀本部付となり、その後敗戦を迎えて戦後も長く生き延びた。昭和二十年八月十五日の敗戦の詔勅が放送される前夜、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と書き残して自刃して果てた最後の陸軍大臣、阿南惟幾陸軍大将の真に武人らしい潔い責任のとり方に比して、牟田□のなんたる醜態!

 

 おのれの無知無謀な作戦の結果、おびただしい日本壮丁の白骨をビルマの山野に野廼しにして、おのれ一人、のこのこと中央にもどって来て身の安全を確保し、敗戦後もなんらおのれの責任を恥ずることなくのうのうと天寿を全うしてよいのか。

 許し難き奴らの一人である。

 

 昭和十四年に起こったノモンハン事件は、日本軍が近代戦を闘った第一回戦であった。結果は見るも無残な日本軍の惨敗に終り、日本陸軍がそれまで金料玉条として来た歩兵の肉弾突撃戦、いわゆる白兵戦なるものが、巨大兵器を駆使した近代物量戦の前には、もはやなんらの効果もあげ得ないことを、極東ソ連軍の機械化兵団の攻撃によって徹底的に教えこまれた戦いであった。

 

 ノモンハン事件は人跡まれな満州と蒙古の国境のノモンハン付近の越境事件に端を発したのであ った。国境と言っても、それを示すような標識の類は何もなく、先に越境したのが蒙古軍か日満軍かそれもはっきりしない。両軍の主張が全く対立していたからであった。古今東西、「おれの方が先に越境した」と言うようなバカ正直な国は一つもないのである。

 

 ただここに厄介なことが持ちあがった。関東軍(満州駐屯の日本陸軍)には昭和十四年に定めた「満ソ国境紛争処理要項」(ソはソ連)というのがあって、その最後の部分に次のような件りがある。「・・・(略丁・・。国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官は自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、苟も行動の要ある場合に於ては、至厳なる警戒と周到なる部署とを以てし、万一衝突せぱ兵力の多寡、理非の如何に拘らず必勝を期す」と。

 

 要するにひとたびソ蒙車との戦いが開始されたら、いかなる困難な状況下にあろうと、ぐずぐす言わずに必ず勝てと言うのだ。理非の如何に拘らず、とはよく言ったものだ。当時の思いあがった陸軍上層部の傲慢さが文面に躍動している。

 この処理要項に基づいて、たかの知れた蒙古兵など鎧袖一触の思いで出動した日本軍の前に立ちはだかったのは、蒙古軍の背後にいた極東ソ連車の大部隊であった。

 

 日本陸軍が建軍以来初めて相まみえた強大な火力をもった大機械化部隊であった。鉄と肉の戦いでは、肉は鉄の敵ではない。いかに周到な訓練を施された精強無比の日本兵と雖も、頼みとする主兵器が歩兵の銃剣であって、夥しい敵の大口径砲の砲弾の猛射を浴びながら、草原を埋め尽くさんばかりのソ連車の巨大戦車を相手に火炎瓶で応戦などしているようでは、所詮はどうにもならない。遂に惨憺たる敗北を喫し、ノモンハンの砂漠と草原は、日本の前途有為な若者の鮮血に染まった戦死体によって埋め尽された。

 

 資源に乏しく国力の貧弱な日本が、その軍隊を指導する根本的な方針として来たのは「精神力」であった。神々の子孫たる天皇を有し、その天皇が大元帥として統率する日本軍は。皇軍’であって、神様を頭に戴いている軍隊が戦争に敗れるはずはないという、およそ合理性の一片も感じられない空虚な観念であった。平時ならばそれでもよい。古代神話をもっている歴史の古い国は世界にいくらもある。しかし科学の発達した二十世紀の今日、それを大戦争を遂行する上での最大の武器として押しつけられては、弾丸雨飛の第一線で闘う日本兵はたまったものではない。

 

 そのような虚飾に彩られた化けの皮を、初めて、そして徹底的にひっぺがされたのが、あのノモンハン事件であった。事件などと呼称するとたいしたことには聞こえないかも知れないが、実態は第一回日ソ戦争であって、その戦争に日本は完敗したのだ。

 捲土重来ということばがある。一度ぐらい負けてもいい。問題は、その敗因を謙虚に反省し、それを爾後の教訓として生かそうとする真摯な姿勢が日本陸軍の首脳陣にあったかどうかということである。しかしノモンハン戦に敗れた日本軍の上層部には、そんな気配は微塵も見られなかった。

 

 反省どころか更に強がりを重ねて、ノモンハン事件当時のソ連軍よりさらに数倍、数十倍の実力を有するアメリカ軍を相手に、太平洋戦争に突入していったのである。

ノモンハンでのソ連軍による実物教育も高慢無知な日本軍首脳陣には些かの反省にもならなかった。なんの根拠もない精神力重視の戦法を以て、なんの値打ちもない満蒙国境という地の果ての紛争に対して、「兵力の多寡、理非の如何に拘らず必勝を期」した結果、関東軍の指導者層は、何万人という日本の前途有為な若者の大集団をあたら大死させた。そればかりか、上層部の命令を忠実に守って、少い兵力と劣弱な武器で悪戦苦闘し、辛うじて全滅を免かれて第一線を撤退して来た戦闘部隊の大隊長、連隊長クラスの中堅指揮官に対し、紛争終結後、拳銃を与えて無言の強圧を加え、自決させて敗戦の責任をとらせた。日本軍大敗の情報がもれるのを恐れたのでもあろうか。

 

 なんという唾棄すべき軍上層部の根性であろう。話が全く逆である。拳銃で自決すべきは、おのれらの無知無能のために、なんの意義も認められない地の果ての紛争に、それこそ何万という「天皇の赤子」を殺した関東軍の首脳陣のほうではないのか。彼らこそ全責任をとって自決すべき立場にあるのに、事件終結後もなんの処罰も与えられなかったばかりか、軍の中央の要職に栄転したりした。

 あゝ、なんたる不合理! なんたる理不尽!

 

 その中の一人、ノモンハンの戦場の第六軍司令官、陸軍中将荻洲立兵は、昭和十七年の靖国神社の例大祭に参列した遺族団に向かって、「この中にノモンハン事件の遺族がおるか。おれば名乗り出よ」と、大音声で呼ばわったそうである。

 恥を知れよ、荻洲立兵! 本来ならぱおのれら関東軍上層部の無知無能によって、死にたくはない地の果ての戦場に屍を晒した無念の若い日本兵士の多勢の遺族を前にして、大祭の式典終了後は顔をそむけてこそこそと逃げ去るのが普通の人間の感覚であるのに、この軍国主義の権化のような名前を持った男は、臆面もなく遺族の前にしゃしゃり出て、「名乗り出よ」とは何事か。遺族が名乗りを挙げたらどうしょうというのか。元最高指揮官づらをして、ふん反りかえってみたいのか。

 「すまなかった。おれの指揮の至らなさから、皆さんの大事な働き手を殺してしまった。どうか気のすむまで、おれを存分に非難してくれ」とでも言ったか。

 ノモンハン戦争のご遺族のためにも、こんな奴を許すわけにはいかない!

即ち、許し難き奴らの一人である。

許し難き奴ら(2)

昭和十九年、比島方面、第四航空軍司令官富永恭次。多勢の部下を特攻攻撃に飛び立たせながら、おのれ一人のみ台湾へ飛行機で逃走した男。

 比島(フィリッピン諸島)は特攻隊発祥の地である。あゝ神風特攻隊。それこそはなんらの勝利への目算もなしに大戦争に突入した日本軍が、我れに数百倍する物量と科学を有する大敵に追いつめられた結果、半ば自暴自棄的な日本軍の首脳陣が最後にたどり着いた、悪魔の着想の姿であった。

 生還への道が全く閉ざされた特攻攻撃。日本以外の世界のどこの国にこんな着想をする国があろうか。一体、こんな無謀な攻撃を実施した軍の上層部は若い兵士のいのちをなんだと思っていたのか。 そこまで追いつめられて、更に戦争を継続する必要があったのか。

 

 特攻隊作戦が開始されたころ、いよいよ特攻機に乗り込む直前、その特攻隊員の辞世の声をラジオは日本全国に放送した。当時、首都防衛航空隊にいた私は、なんとも言えない思いでそれを聞いた。その特攻隊員の飛び立つ基地の名も階級も氏名も伏せられていたが、その声は肉親の耳に届き、親や兄弟は断腸の思いでそれを聞いたことだろう。なんたる悲劇! なんたる残酷!

 特攻攻撃を知らされたとき、ときの昭和天皇は沈痛な面持ちで、「それほどまでにやらなければならないのか」と言ったそうである。しかし天皇の□から。それならば、もう戦争はやめよ、の一言は遂に聞かれなかった。

 

 比島特攻第一陣、関行男海軍大尉を指揮官とした敷島特攻隊。以後、続々と後に続く陸海軍の特攻隊の出撃を見送るにあたり、陸軍の第四航空軍司令官、陸軍中将富永恭次は、「諸士のみを殺しはしない。いずれこの富永も必ずや諸士の後に続いて特攻出撃する。どうか安んじて皇国の礎になってほしい」と訓示していたそうである。

 然るにである。この富永恭次は、比島戦線の戦況が絶望的最終段階にさしかかると、比島方面陸軍最高指揮官、山下奉文大将にも無断で、さっさと比島に別れを告げ、安全な台湾へと飛び去ってしまった。

 

 昭和二十年八月の終戦の日。「これでよし 百万年の昼寝かな」という豪快な辞世の句を残して沖縄の空を目指して最後の特攻機に乗って去った海軍特攻の親玉、宇垣纏海軍中将の天晴れな潔さに比べて、この富永恭次のなんたる卑劣! なんたる裏ぎり! 比島や沖縄の海空に散華した純粋な若き特攻隊員の愛国の赤誠に対して、この男、許せない。断じて許し難き奴らの一人である。

 

 私は本年八月のある日、評判の映画「月光の夏」の有料試写会に招待を受けた。全て事実に基づいて製作されたこの映画のあまりの素晴らしさに陶然となった私は、以後一週間ほど、何も手につかなかった。平成の今日の日常生活におけるすべてが、なんの価値もないように思えてならなかった。

 何事もどうでもよくなってしまったのである。それほどの映画だった。

 

 この映画に次のようなシーンがあった。

昭和二十年の春、鹿児島知覧基地から沖縄へ向けて飛び立った六機の特攻機の中の一機が、途中でエンジン不調を起こし、黒煙をふきながら飛び続けるその機に対する指揮官機の、「基地へ引き返して再起を期せ」との信号命令を受けて、辛うじて特攻基地へ帰投した。

 

 ところがこの機に乗っていた二十一歳の若い少尉の特攻隊員は、九州福岡の査問委員会のような所へ出頭を命ぜられ、参謀肩章を吊った少佐に散々に罵倒されるのである。

 「貴様、いのちが惜しくなって帰ってきたな。その証拠に基地にはちゃんと戻って来たではないか」と。

 

 自らは絶対安全の地位にいて、国のためと信じて純粋にいのちを棄てて飛び立った若い特攻隊員の、万やむを得なかった措置に対して、威丈高にののしる資格がこの参謀にあるのか。それは冷酷無残な軍上層部の方針なのだったろうが、若者の神々しいまでの純真さに泥をあびせるような、あの思いあがった参謀の詰問の態度。この参謀野郎、許せない。それならば富永恭次はどうした。陸軍中将なら不問に付されてもよいのか。

 

 そもそも故障が来ないほうが不思議なような、がたがたの単座機の下に二百五十キロ爆弾を抱かせて、護衛戦闘機の一機すらも付けずに特攻機を飛び立たせておきながら、乗機のエンジン不調で引返した者に対するあの罪人扱いの態度はー体なんだ! 

 しかし日本軍、特に陸軍は、あの参謀のような小悪党が主流を占めていたのである。陸軍にも良心と良識のある軍人が皆無ではなかった。

 しかしながら少数派のそのような人たちは、陸軍部内にあっては常に陽の当らない閑職をあてがわれ、軍の中枢にもどることはなかった。これこそは太平洋戦争があの惨憺たる結末を迎えた最大の要因のーつであった。

許し難き奴ら(3)

昭和二十年に入って、日本の対米戦争はいよいよその敗色を濃くし、太平洋戦域の各所では日本軍の玉砕が相次ぎ、切羽つまった日本軍の上層部が考え出した人命無視の特攻攻撃も、戦局を好転させるに足るはかばかしい戦果を挙げることができず、日本は国の内外で終局の土壇場に追いつめられていた。

 ここで日本は歴史に残る一大エラーを犯すのである。日本政府は元総理大臣、近衛文麿を特命全権大使としてソ連邦の首都モスクワに派遣し、アメリカをはじめとする連合国側との和平工作の斡旋をソ連に依頼しようと試みたのである。なんという浅はかな、哀れな、またソ連側から言わせれば虫のよい提案であろう。

 

 そもそも極東ソ連軍こそは、何十年にもわたった日本陸軍の唯一最大の仮装敵であって、日本陸軍の訓練と目標は常にこの敵を打ち破ることにあった。

 それだけではない。ソ連邦の国家体制、即ち社会主義(いわゆる共産主義)は、天皇親政の日本の国家体制とは絶対に相容れない不逞の思想として、日本政府は日本国内の進歩的な思想に目ざめた学者や文化人や政治家を十把一からげにして「アカ」という呼称で徹底的に取締り、弾圧した。それはそれでよい。国によって体制が異なるのはざらにあることである。問題は日本の官憲が仇敵のように忌みきらっていた「アカ」の大本山であるソ連邦に、いかに困窮したとはいえ、戦争終結のための仲介の労を依頼しようとしたことである。

 

 「貧すれば鈍する」という諺がある。貧乏すると苦労が多く頭まで鈍くなるという意味であろう。このときの近衛特使派遣の構想こそ、まさにこの諺の見本であろう。仮りにソ連がどんなに人のよい国であったとしても、この日本のあまりにも虫のよい依頼を受け入れてくれるはずがない。

ましてやソ連は、その正反対の国だったのだから。東京の駐日ソ連大使は言を左右にして日本の要請に応ぜず、じんぜんと日を送るうちに、ソ連のモロトフ外相からモスクワ駐在の日本の佐藤尚武大使に、日本に対する宣戦布告の通知書が突きつけられた。

 

 昭和二十年八月九日、極東ソ連軍の大部隊は、ソ満国境を各地で突破して、一挙に満州領内になだれ込んで来た。これこそがあまりにも虫のよい日本の依頼に対しての、ソ連側の回答であった。

   

 日本の関東軍は、もしソ連の対日参戦があるとしても、それは昭和二十年の仲秋以降であろうと憶測していた。日本側の希望的観測より三か月も早いソ連の満州侵攻に対し、新京に在った関東軍の首脳陣をはじめ、在満の有力な各部隊は、ソ満国境付近にいた日本の開拓民や、ソ連軍と真っ向から激突する運命となった国境付近の小部隊を置き去りにして、いち早く逃走を始めたのである。

 

 いったい、日本が昭和六年に始めた満州事変や、それ以後に起こった上海事変等に派兵するに際して掲げた大義名分は、「邦人保護」ではなかったのか。

 これ以外に他国たる中国の領土に軍隊を派遣する名目はなかったはずである。その邦人が外国軍の大部隊の侵攻の前にみな殺しにされかかっているのを尻目に、日ごろの大言壮語にも恥ずる気色もなく、さっさと逃げ出すとは何事か。許せない。自国民の危急存亡に際しての軍隊の執るべき一切の責任を放棄して、憶面もなくおのれら自身のみの安全を図ろうとした、あのソ連軍侵攻に際しての関東軍の首脳陣の奴ら。許せない,これまた断じて許せない奴らである。

 

  私は戦後、そのときの関東軍の首脳陣の一人、作戦参謀、陸軍大佐草地貞吾氏に会ったことがある。同氏の、「その日、関東軍は」という著書の中で、ソ連軍の侵攻と同時に、関東軍が辺地の開拓民や出先の弱小部隊を置き去りにして逃げた理由を、同氏は次のように述べている。

  「軍の主とするところは戦闘である。関東軍がソ連軍の侵入と同時に第一線を撤退して後方にさ がった理由は何かと問われれば答はただ一つ。それは作戦上の要請からと申しあげるのみである」 作戦作戦と偉そうにおっしゃるが、思うに参謀の作戦上の指導が宜しきを得て、戦闘軍が勝利を収めることができるのは、彼我の戦力が五分五分、悪くとも四分六分ぐらいの比で味方が劣勢の場合までであろう。

 かつては日本陸軍の最強軍団を呼号した「無敵関東軍」も、南方戦局の悪化とともに逐次戦力を引き抜かれ、昭和二十年春ごろには、もぬけの殼のようになっていた案山子同然の関東軍が迎え撃つのは、対ドイツ戦争の勝利を収めた後に、ソ満国境に集結して来た一五〇万人の強大な極東ソ連軍の大機動部隊である。

 根こそぎ動員によって七〇万人と兵隊の頭数だけは揃えても、満足な訓練さえも受けていない兵士と、その兵士達に与える小銃にさえもこと欠いて、持たざる国の指導者によって、「精神力」という世界一安上がりで世界一頼りにならない武器のみしか与えられていなかった関東軍に、一体、どんな作戦があったと言うのか。

 関東軍の秀才参謀の集団がどんなに頭脳を絞って作戦を考えてみたところで、関東軍には万に一つの勝ち目もなかった。

 このことはソ連軍侵攻後の関東軍の壊滅ぶりを見れば明らかである。

 

 日本の陸軍刑法には「敵前逃亡罪」というのがあって、文句なく銃殺刑に処せられた。下級兵士には過酷な刑罰をおしつけながら、関東軍の首脳陣は作戦上の要請などという尤もらしい名目をこしらえて、集団敵前逃亡をしたのだ。

 □では作戦作戦と偉そうなことを言いながら、関東軍と極東ソ連軍の戦力のあまりにもかけ離れた実態を熟知していた彼らは、戦闘開始と同時にいち早く逃亡して、彼ら自身のみの安全を図ったのである。

 

 戦争は彼らの商売であるが、それさえも自らの生命があって初めて成り立つのであって、生命を失えば商売も糞もありはしない。だからその生命のほうは一銭五厘で徴集した兵士に提供させ、自分らはさっさと必死の危険が迫る戦場を離脱したのである。

 戦争が商売ならば、商売人こそ真っ先に戦って死ぬ模範を示すべきではないのか。それこそ彼らが下級兵士に対して常日ごろから□を酸っぱくして訓示していた、彼らの大好きな「大義」のために。

 

 そして頼みとする軍隊に置き去りにされた、武器もない、老人、女、子供のみの開拓民や、巨大なソ連軍戦車に銃剣のみで立ち向かわなければならなかった第一線の日本兵士の末路が、いかに悲惨なものであったかは想像に難くない。

 

 あゝ、あのときの軍隊に置き去りにされた哀れな日本開拓民の死の逃避行の結果として、親兄弟から真にやむを得ない事情で棄てられた頑是ない子供たちが、五十年後の平成の今日、中国残留孤児という悲しい名称を付けられて懐かしの祖国日本を訪れ、まぶたの裏の肉親を捜しているのである。                                         

 五十年という歳月は、当時の関東軍の指導者層の大半を黄泉の国に送ってしまったことだろうが、汝ら、もし心あらぱ、墓場から蘇って残留孤児の皆さんの前に土下座をし、両手をついて謝れ、謝れ、謝れ!

 さすれば、許し難き奴らなれど、その大いなる罪業をほんのちょっぴりでも許してもらえるかもしれない。

許し難き奴ら(4)

日本のポツダム宣言受諾とともに第二次世界大戦は終了し、その宣言に基づいて、連合国は国外にいた日本軍の日本本土帰還を許し、日本兵は復員船に乗って続々と懐かしの祖国への帰還を始めた。しかるに他の連合国とは全く逆の措置をとった国が一つあった。「ソビエット社会主義共和国連邦」である。

 だいたい第二次大戦中に日本が戦った主たる相手は、中国とアメリカである。ことに中国に対しては第二次大戦の始まる四年も前の昭和十二年から侵略戦争を開始し、昭和二十年に日本が降服するまでの八年間、日本軍は侵略した中国各地でやりたい放題の非人道的蛮行の限りを尽くした。

 

 にも拘らず、ひとたび戦争が終結するや、中国の最高指揮者たる蒋介石総統は、「仇に報ゆるに恩を以てせよ」との寛大な布告を中国軍全軍に伝え、中国在留の全日本軍、全日本人を救ってくれた。 戦争中の日本が中国で行った非行の数々と対比して、ただ恥じ入るばかりである。さすがは孔子・孟子を生んだ「仁」の国である。

 □では「東洋平和、五族協和」を唱えながら、その実は徹底的に中国民衆を虐待した日本兵に対して、戦争が終結して、それまでとは逆に絶対優位の生殺与奪の権を握った中国が、日本が戦争中に唱えた空念仏にすぎない「東洋平和、五族協和」を直ちに実践してみせてくれた。この一事に関する限り、日本は中国に対する尊敬と感謝を永久に忘れてはならない。島国根性の度量の狭い日本人の到底まねのできないことであった。

 

 それに対して、終戦時のどさくさに紛れてのソ連のとったあの汚い行動はー体なんだ! 終戦直前の一週間かそこらしか日本とは戦っていないのに、それも「日ソ中立条約」を無視して一方的に満州に侵略して来たくせに、戦争が終わるや、満州の工業施設やその他を解体して自国に持ち去るという火事場泥棒をやったばかりか、本来ならばボッタム宣言に基づいて直ちに日本へ帰還させねぱならないはずの何十万という日本兵をシベリヤに連行し、奴隷のように酷使して、多数の日本兵捕虜を彼の地で憤死せしめた。

 

 どんなにか無念だったでしょうね。望郷の念に駆られながら戦争の犠牲になってシベリヤで果てた人々,なぜそんな所で死ななければならないのか、尽きることなき疑問と無念の思いでこの世を去られたのでしょうね。

 真冬のシベリヤの想像を絶する寒気。明けても暮れても過重な重労働。それに全く伴わない栄養と休息、あゝ遂に生きるすべての望みと気力を費い果たして、ぱったり、枯木の朽ち果てるように倒れてシベリヤの土に還った人々。

 

 一体だれにこの人達をこんな苛酷な目にあわせる権利があったのか。シベリヤで死んだ日本人捕虜の人達が、こんな目にあわなければならないどんな悪業をしたというのか。何もしていない。ただ、日本の国の法律に基づいた「召集令状」という一枚の紙きれによって、平和な市民生活を棄てさせられて軍隊に引きづり出され、たまたま関東軍に所属していたというだけではないか。

 

 日本に散々に痛めつけられた中国が、戦争終了後は率先して人道の範たる立派な態度を全世界に示しているのに、スターリンという二十世紀最悪の暴君に率いられたあの当時のソ連邦の、この身の毛もよだつ非人道的行為。許せない。日本兵捕虜に対するシベリヤ抑留を企画実行した、当時のソ連邦の最高指導者の奴ら。許せない。それと、満州に暮らしていた平和な日本人市民層の男子を根こそぎ動員して、ろくな武器も訓練も与えずに第一線に起たせ、結果的にシベリヤで大量に虐殺した日本軍の指導者も、断じて許し難き奴らである。

 

 戦争終了後五十年近くが経過した平成の今日、更に更に驚くべき事実が判明した。

 敗戦後関東軍の上層部は、なんと驚くべきことに日本兵捕虜の使役をソ達に申し出たそうである。 そんなことを、おべんちゃらに申し出れば、おのれら上層部へのソ連軍の取り扱いが少しは緩和してもらえるとでも計算したのだろうか。これではソ連側に、「日本側から日本兵捕虜の使役随意との申し出があったから日本兵捕虜をシベリヤで使用した」との、彼らの非人道的ポツダム宣言違反の行為を言い逃れる絶好の□実を、彼らに与えてしまったことになるではないか。

 

 こんなことをソ連側に申し出た関東軍の上層部とは、一体どんな奴らか。許せない。いかに一銭五厘で徴収した下級兵士とはいえ、同胞のいのちを、自分らの立場を少しでも有利にしたい一心で鬼畜にも似た奴らに売り渡すことを申し出た奴ら。断じて許し難き奴らである。

許し難き奴ら(5)

戦前の日本の指導者達が「千古不磨の大典」と自画自賛した、旧大日本帝国憲法。

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(侵すべからず)(第三条)

 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)

 「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」(第二十条)

 

 現在の日本国憲法からは悉く削除された右の条文のうち、特に第二十条の「兵役の義務」は、当時の日本国民の頭上に、半世紀以上にも亙って重くのしかかっていた。

 日本国民、特に男子は、二十歳以後の自分の針路を自分で決めることができなかった。

 なぜなら二十歳になったら国の施行する徴兵検査を受け、よほどの虚弱体質の者か、又は犯罪者でない限り、それに合格させられて兵士となり、戦争に参加しなけれぱならなかったからである。

 ひとたび戦場に赴いたら、戦死するか、無事に生還できるかは、その人の以って生まれた運命が決めることであって、自らの力では如何ともしようのないことであった。しかも生還よりも戦死の確率の方がはるかに高いようであった。しかし当時の日本の若者は、黙々としておのれの運命に忠実に従い、日本の兵士にさせられるために兵営の門をくぐった。この点、徒らに遊び惚けている平成の現代の大半の若者に比べ、誠に立派であった。心の中はともかく、表面は国家のために死と対決した雄々しく美しい姿であった。

 

 だれでも死ぬことは怖い。天寿を全うした自然死ならばまだしも、未来に無限の可能性を秘めた二十歳かそこらでこの世を去ることは耐え難い無念であった。

 しかし日本にそのような法律がある以上、それには従わなければならなかった。心身ともに正常な男子が兵役を拒否することは、当時の日本では強盗殺人以上の大犯罪と目された。だから当時の若者は二十歳が追ってくると、否でも応でも受けなければならない徴兵検査に脅えたのであった。

 平時ならまだしも、国家が戦争をしている最中に兵士になることは、確実にやってくる死と対決する覚悟を決めなければならなかったのである。

 

 しかし断っておくが、当時の日本の若者が決して臆病だったわけではない。外国の軍隊と戦って死ぬことが、それほど怖かったわけではない。兵士になる上で恐ろしかったのは外国軍に非ず、外ならぬ日本軍そのものであった。

 噂に聞く、日本軍内部で行われているというかの悪名高き私的制裁に対してであった。もちろん、建て前上は、軍はそれを禁じていた。東条首相もそれを禁じた。

 私の入隊した仙台歩兵第四連隊の連隊長亀井大佐も私的制裁を厳禁していた。第一日本陸海軍の金科玉条として守らなければならない「軍人に賜わりたる勅語」の第二条「礼儀」の項にも、次のような趣旨のことが述べられている。

 上級者が下級者に対するときは、公務のため威厳を旨とするときは格別であるが、その他は努めてねんごろに取り扱い、少しでも軽侮倨傲の振舞いがあってはならない。

 もしそのようなことを行って軍の上下一致の団結を乱すような者は、ただ軍隊にとってだけでなく、「国家の為にも許し難き罪人なるべし」と。

 

 この文句などは、建前の最たるものであった。二言目には「天皇の御命令」を持ち出す軍隊は、都合の悪いことはすべて無視していたのだ。この項に当てはめると、日本軍隊はまさに「許し難き罪人」の集団であった。

 私的制裁とは公的制裁に対するもので、上級者の下級者、特に軍隊に入りたての新兵に対して行われたいじめであった。

 不動の姿勢をとっている無抵抗な初年兵をなぐるのである。もし少しでも抵抗をしようものなら、峻厳な軍紀を乱す者として、はるかに恐ろしい公的制裁が待っていたから、なぐられるほうは相手の気がすむまで、ただ耐える外はなかった。それも制裁を受けるべき理由があるのであればまだしも、身に覚えは何もない。難くせをつける方は、「動作がたるんでいる」とだけで充分なのであった。  私的制裁で鍛えなければ、兵隊は強くならない、短期間で精強な兵士に仕立て上げるのに最も手っとり早い日本軍独特の方法として黙認されていたのが、この私的制裁であった。それは日常の訓練の場でよりも、日常生活を営む内務班で、夜の日夕点呼の終了後から消灯までの三十分ぐらいの間に、毎晩、きまって行われた。こんな無法な暴力に毎日耐えなければならない兵士の心に根づくものは、「こんな軍隊のために死ねるか」という反抗心のみであった。暴力を振るう鬼のような古歩兵も、軍隊へ入るまでは純朴な農村の青年だったろう。日本軍隊の教育はその純朴な青年達を悪鬼に変えたのだ。

 このような、まるで敵どうしのような醜悪極まる上下関係をつくりあげ、それを以て「光輝ある皇軍の伝統」などとうそぶいていた日本軍の上層部の奴ら。許せない。お前らこそ正に国家のためにも許し難き罪人ではないか。

 

 戦時中の中国の最高責任者だった蒋介石総統が、若いころ、日本の陸軍士官学校に留学し、その修業過程を終えて、新潟県高田の歩兵連隊に見習士官として赴任したとき、新兵が毎晩のようになぐられて負傷したり卒倒したりしているのを見て、「この軍隊は強くならない」と直感したそうである。蒋総統はそれを見抜いていたから、日中戦争であれだけの徹底抗戦をしたのだ。

 

 しかし、私的制裁は内務班で古参兵が初年兵をなぐるだけではなかったのである。それは日本全軍の隅々にまで瀾漫していた悪習であった。

 戦史作家、高木俊朗氏の著わされた「戦死」という題の本の中に、次のような描写がある。

 ビルマ派遺軍第五十五師団長、陸軍中将花谷正は、かの牟田□廉也に輪をかけた暴君で、部下を階級の如何を問わずにやたらとなぐるのである。

 その花谷の暴力の最大の被害者の一人は、師団の兵器部長、人見重吉大佐であった。師団の兵器庫が英軍の爆撃を受けて若干の被害があったことを花谷は人見大佐の責任とし、師団長室に人見大佐を呼びつけては、毎日のようになぐるのである。「

 

 天皇の兵器をなくした国賊」とののしり、なぐる、蹴るの暴行を加える。人見大佐が床に倒れる音 が一時間も続く,漸く釈放された人見大佐がドアを開けて、よろよろと司令部に戻って来る。

 頭に白いものが混じった五十歳直前の老大佐の顔面は何百匹ともしれない蜂にでも刺されたように膨れあがり、目ぶたはふさがり、腫れあがった顔面からは不気味な色をした汁がしたたっていた。  「人見大佐殿、こらえて下さい、こらえて下さい」

 と司令部員は、休憩のゴングが鳴ったボクシングの選手を介抱するように、どっと人見大佐のまわ りに集まり、懸命に大佐を介抱するのである。

 初年兵じゃあるまいし、陸軍大佐といえば連隊長を務める一国一城の主である。その大佐が日本軍のどんな初年兵でさえも恐らくは受けることはあるまいと思われる私的制裁を、この気狂いの陸軍中将から毎日のように受け、声をしのんでただ泣くのである。肉体的苦痛よりも、精神的屈辱に耐え難かったのだろう。

 

 悲憤した兵器係の軍曹が、「あの気ちがいを殺してやる」と、地雷を持ち出そうとして止められ る。さらばと司令部の少尉が、密林の中にある手榴弾集積所へ手榴弾をもらいに行くと、「手榴弾 で魚を捕ることは禁じられておりますが」と、掛りの古参の准尉が意地悪くからんだ。

 「魚を捕るのではない。司令部にいる鬼を一匹、退治するのだ」と少尉が答えると、准尉はにやりと笑って、少尉を集積所に案内し、手榴弾を一束出してくれた。しかし、このクーデターは成功しなかった。

 人見大佐がピストルで自決して果てたからである。

 人見重吉大佐。享年四十九歳。昭和十九年八月二十五日、ビルマ、アキャブ県において、頭部貫通銃創のため戦死。三重県三重郡大矢和村出身と、戦死の公報に記載される。

 戦後十一年も経た昭和三十一年、漸く陸軍少将に進級。

 人見大佐を殺した花谷正は、戦後の昭和三十二年まで生存した。東京都港区のお寺で行われた花谷の葬儀におくられた花輪の中には、ときの岸信介総理大臣からのものさえあった。

 

 実に実に私的制裁こそは日本軍のガンであった。この鬼畜花谷正をはじめ、それを建前上は禁止したポーズをとりながら、本音ではそれを必要悪として黙認し実行して、何十年の長きに亙って同胞たる日本兵を苦しめた軍の上層部の奴ら。許せない。永久に許し難い奴らである。

許し難き奴ら(6)

戦前、戦中を通じて日本の庶民に暴威を振るった「憲兵」と「特高」。

 これまた許し難き奴らである。

 特高とは「特別高等警察」の略称で、昭和の初期に新設されてから戦後にアメリカ占領軍の指示で解散させられるまで、政府の指導方針に反対する日本国民、特に「思想犯」の取締りに猛威を振るい、悪逆の限りを尽くした庶民の敵である。特高も憲兵も個人では何の実力もないのに、おのれらの背後にある国家権力を自らの実力と過信して、無力な一般庶民に情け容赦のない弾圧を加えて権力者の強権政治を扶助する一翼を担った。

 

 「主権在民」、「侵略戦争反対」、「男女の本質的平等」、「大地主の独占する農地の小作農への解放」、「天皇の神格化の否定」その他、今日では日本国民の誰もが当然と思っていることが、戦前の日本では天皇親政を謳う憲法を根本から否定する「危険思想」と見なされ、官憲によって徹底的に弾圧された。その国家権力による弾圧の第一線に立っていたのが憲兵と特高である。

 

 憲兵とは英語のM・P・(ミリタリー・ポリス)で、憲兵の特徴をまことによく表している言葉である。要するに軍隊を背景にした武力と警察を背景にした権力とを一身に兼ね備えた恐ろしい存在で、日本の庶民は聞いただけでも震えあがった悪魔の象徴であった。もちろんどのような集団の中にも良心と良識をもった立派な人は必ずいるもので、憲兵にも人格と識見を兼ね備えた立派な人はいた。しかし、やはりそのような人々は少数派で大部分の憲兵どもは人間の姿をしたこの世の鬼であった。 戦時中、海軍少年兵だった渡辺清氏の著した「海の城」という本の中に、次のような描写がある。

 

 あるとき、乗艦が横須賀軍港に停泊中少年兵達にも何班かに別かれての交替の外泊の休暇が出た。 五泊六日の休暇が終わっても、渡辺氏の同年兵で福島県会津若松在のある村の出身だった少年兵がー人帰艦しない。大騒ぎとなったが、翌日、その少年兵は帰艦を拒み、郷里で自殺したことが判明した。 日本に旧憲法による陸海軍があったころ、よく聞く話であった。私的制裁が荒れ狂う日本軍隊に二度ともどる気がなくなった下級兵士は、気の強い者は逃亡し、気の弱い者は自殺を選んだ。それほど軍隊という所は下級兵士にとっては恐ろしいこの世の地獄なのであった。

 

 野暮ったい陸軍に比べ、どことなく垢ぬけしたスマートな海軍は、陸軍ほどには陰惨な私的制裁な ども行われてはいないのではないかという、一種の期待感とも羨望感ともつかぬものを私は持っていたが、事実は全く反対であった。逃げ場のない海の上で、下級兵は毎晩のように暗い下甲板の人目のない所に整列させられ、下士官や兵長などの上級者に棍棒で尻をなぐられるのである。プロ野球の打者がアウトコース低目の球をバットで打つようにして棍棒を下級兵の尻に叩きつける、と何かの本に書かれていた。棍棒の一撃をくらった方は、一瞬、気が遠くなるほどの痛さで、青いあざができるそうである。しかも自分の順番が来ると両手を頭の上に組んで「お願いします」と叫んで出て行かなければならない。

 

 戦時中、日独伊三国同盟に反対し、対アメリカ戦争に反対し、開戦後は見事に戦い、そして敗色濃厚となった戦争末期には生命を捨てて一日も早い終戦工作に奔走して、今の世までも名将と謳われている海軍大将、米内光政さん、山本五十六さん、井上成美さん。あなた方はこの海軍各艦艇で行われていた棍棒の制裁のことをご存知なかったのですか。まさかご存知だったのでしょうね。知っていてなぜ止めなかったのですか。自殺という最後の手段に訴える他にはもう逃げ場のないほどに罪のない下級兵を追いつめた海軍の悪しき伝統と称するものを、なぜ改めようとはなさらなかったのですか。

やはり強兵養成のための必要悪とお考えだったのですか。

 

 こと、この一点について、日本海軍に名将などというものは存在しなかった。

 残念ながらー人もいないのである。こんな非人道的行為を放任しておいて、なにが名将か。

 後日、渡辺氏は遺品を受け取りに横須賀にやって来た、自殺した同年兵の父と姉に、同年兵を代表して遺品を届けに行き、横須賀海岸の小さな旅館でその父と姉に会うのである。

 そして彼の自殺の詳細を聞かされる。その二人の話によると、明日休暇が終わるという最後の晩、彼は隣村まで行って来ると言って普段着のまま家を出て行き、そのまま一晩中帰って来なかったそうである。

 翌朝、心配した家族が探しに行くと、彼は村外れの大木の枝に縄を掛け首をくくって死んでいた。 入隊前に抱いていた夢や希望とは、あまりにもかけ離れていた日本海軍の実態に絶望した少年兵は、棍棒の世界へ帰って行くのを拒否して死を選んだのである。哀れな死を。

 

 この少年兵の父親は村の小学校の校長で、その少年兵も高等小学校を卒業したら師範学校へ進んで将来は父と同じ小学校の先生になるつもりであった。ところがその村の小学校にも軍当局から海軍少年兵への志願者の割当てが来て、どうしても割り当てられた人数に一人足りないことに苦慮した校長は、やむを得ず自分の息子に因果を含めて、師範入学を諦めさせて海軍に応募させ、戦時下の教育者としての責任を果たしたのである。その結果、田舎の小学校の先生になって平和な一生を過ごすはずだった一人の人間が、日本軍国主義のいけにえとなって、まだ十五歳の若い命を無惨に散らしたのである。

 

 駆けつけた村人達が遺体を木から下ろし、会津若松の憲兵隊に届け出た。間もなくサイドカーに乗った曹長と伍長の二人の下士官憲兵がやって来た。拳銃を腰に吊し、長剣を提げ、茶色の革の長靴を履き、白地に赤で「憲兵」と墨書した腕章を左の腕に通した、見るからに他を威圧する物々しいいでたちのその二人の憲兵は、サイドカーを降りるや、足早やに彼の遺体に歩み寄り、

 「この不忠者!」

と叫ぶなり、遺体の頭といわず顔といわず、長靴で滅茶滅茶に蹴とぱしたそうである。

 それを見ていた人達はあまりのむごさに息をのみ、彼の母は気を失ってその場に昏倒した。

 「だって、弟はもう死んでいるんですよ。それを、それを・・・あんまりひどい」と泣きくずれる彼の姉。

 

 やりやがったな、この憲兵の鬼ども!

 しかし当時の憲兵なら、こんなことは平然とやるだろう。さもありなんと思うだけである。

 何もかも狂っていたあの当時の日本は、世界一の非文明国であり、世界に冠たる野蛮国であった。 そんな天人ともに許さざる暴虐行為を自国民に対して平然と犯している国が、世界中を相手にした戦争に勝てるはずはないのである。神が許さない!

 この二人の憲兵はその後どうなったろう。戦後はなに食わぬ顔をして日本社会の一隅でのうのうと暮らしたのだろうか。こんな奴ら、ただじゃおけない。草の根をわけても探し出し、失神したその哀れな母親に代わって、それこそめちゃくちゃに殴り倒してやりたいと思うのは私一人だけだろうか。

 

 戦前、戦中の暗黒の時代、ときの権力に便乗して暴威を振るった庶民の敵、かの憎むべき憲兵と特高警察。許し難き奴らとして看過できない、時代の生んだ悪魔の落とし子であった。

許し難き奴ら(7)

許し難き奴らとして最後に特筆すべきは、戦前、戦中、戦後の日本の政治の中枢にいた多数の妖怪どもである。

 我々戦前派が幼き日々に受けた小学校の教育は、長じて日本の兵士になる為の準備教育であったと言っても過言ではない。

 修身、国語、国史、唱歌といった教科の、文部省が発行する教科書の至る所には、長じて日本の兵士となって、一身を国家に捧げるべき心得が繰り返して述べられており、教師もまた懸命にそれを生徒に教えたのであった。当時の義務教育の教科書は文部省自体が発行する唯一種類のものに限られていて、従って現今のような検定もへったくれもなかったのである。

 

 小学生と言えば、まだ十歳かそこらの頑是ない子供たちである。まだどんな色にも染まっていない清廉で純白な心をもった子供たちである。それが小学校を卒業する頃には、いっぱしの軍国少年に育てあげられていた。六年間の義務教育で、尊敬する先生から徹底した軍国主義教育を受け、かつての純白だった心は軍国色一色に染め上げられてしまったのである。

 

 修身、国語、国史の教科書には、日本は神国であり、神々の子孫である天皇が現人神である所以が実しやかに述べられており、そして数々の国難に際しての日本の先人が、勇ましく君国に殉じた話が次々と掲載されていた。また唱歌の教科書にさえも、軍国主義を賛える歌の数々が収録されていた。 実例を挙げる。

 

 昭和七年十二月十日、文部省発行、新訂尋常小学唱歌、第四学年用にある「靖国神社」、第五学年用の「入営を送る」、同第六学年用の「出征兵士」、その他多数。

入営を送る (旧仮名づかいのまゝ)

 

 ますらたけをと生ひ立ちて

 国のまもりに召されたる

 君が身の上、うらやまし

 望めどかなはぬ人もあるに

 召さるる君こそ誉なれ

 さらば行け、国の為。

 

  征矢を額に立たすとも

 背には負はじと誓ひたる

 遠き祖先の心もて

 みかどの御楯とつかへまつり

 栄あるつとめを尽せかし

 さらば行け、国の為。

 

 この小学唱歌を小学校で習った方もおられよう。この歌詞を読めば、戦前の教育とは如何なるものであったか、もはやなんの解説も不要であろう。

 戦前の政治家は、その意を受けた戦前の文部省は、まだ十一歳かそこらの純真な子供である小学校の五年生に、こんな歌を小学校の正規の授業で教え、歌わせたのである。そして、こんな教育を純粋に信じて、長じて国のためにと勇躍して日本の陸海軍に馳せ参じた彼らを待っていたものは、軍隊内務班の私的制裁の嵐であり、死屍累々たるノモンハンの原野であり、ビルマ白骨街道であり、ガダルカナルやニューギニヤの死の密林であり、生還の望みの全くない神風特攻隊であり、比島や沖縄での血と鉄の暴風であり、寒風肌を剰す厳冬のシベリヤの死のタイガであり、死してなお遺体を足蹴にする憲兵の長靴であった。

 許せない! 戦前の日本国民に対して、幼い小学生の頃からあのような欺瞞教育を実施して、遂には勝てもしない大戦争へと駆りたてた政治家の奴ら。許せない。

 

 また、戦死者の遺族に対して、英霊が凱旋すると称してこれを出迎えさせ、白木の箱の中に石ころや紙きれを入れたものを遺骨と称し、仰々しく白布で包んで戦友の首にかけさせて、物々しく戦死者の郷里の駅に届けさせた戦時中の日本の指導者層の、なんという姑息、なんたる欺瞞!

 殺されてから神様扱いにしてもらって、そんなことが何になるか。殺された側は嬉しくも有難くもない。命を返せと叫びたいのである。

 

 許せない。思想を統一されているために、政府のやることに対して一言の抗弁も許されていない、か弱い庶民の立場をよいことに、こんな手段を以ってしてまで表面を糊塗し、国民を戦争にひきづりこみ協力させた戦時中の軍上層部と政治家の奴等。許せない。

 

 そして現代日本の最も憎むべき許し難き奴ら。かの悪名高き汚職政治家の奴ら。

 おのれの公的地位が選挙民の神聖な負託によるものであることを忘れ、それをおのれの私物であるかのように錯覚して、地位を悪用して公共事業の上前をはね、パートタイムで働いているか細い主婦の財布の中にまで手をつっ込むようにしてむしり取った税金の一部を自分の懐ろに入れ、バレるまで平然と紳士の仮面をかぶって首長室でふんぞりかえっていた奴ら。

 許せない。政治家の汚職こそ、他のいかなる犯罪にもまさる巨悪である。許せない。絶対に許すわけにはいかない奴らである。

 

 以上が許し難き奴らのすべてではない。他にもいる。例えば終戦直前の御前会議で、気息奄々たる日本国民を巻き添えにする本土決戦を呼号して、戦争継続を主張した奴ら。

 しかしその中に陸軍大臣たるの立場からそう主張せざるを得なかったのだろうと思われる、陸軍将星の中の数少ない尊敬すべき価値のある人々の中の一人、阿南惟幾大将がいたから、私は敢えて割愛した。

 

 また、いかに許し難き奴らであっても、目上の者に敬語を用いるのが普通の人間の良識というものであろうが、私も年齢を重ねて、もはや当時の彼らの年齢を越してしまったので、敢えて敬語は用いなかったのである。

 

 最後に、この原稿中の史実その他にもし誤りがあったら、どうか遠慮のないご指摘、ご叱責をお寄せ下さるようお願いして、終わりと致します。

  (注,タイガーーシベリヤの人跡まれな針葉樹の大密林地帯)

                           (七十歳) 終わり