中国編(1)

04.4.21

不三不四    

後藤守雄

敗戦となり、中国人から受けた嘲笑、不三不四。
04.4.21

処刑場に燃ゆる怨霊の火

近藤 一 

全身を震わせながらの刺殺訓練、処刑場には生々しい死体、雨の日の動哨中に青白い火の玉に金縛りとなる。
04.4.21

中国慰安婦の身の上

川本晃 

日本軍に父と姉を斬られ、慰安婦となった女性の話し。
04.5.7

孫呉開拓団の8月9日

村西義孝 

ソ連戦車に逃げまどう開拓団員、暴徒と化した満人、阿鼻叫喚の孫呉。
04.5.27

心に残る傷あと

平山新平 

潜水艦を撃沈したのだが敵艦だったのか?
04.6.1

乳色の壁の病院

久田二郎

常徳からの苦しい撤退行軍中終に倒れて野戦病院に入る。
04.6.7

拉夫   

佐藤 貞

拉致されて来た良民が荷物運搬や雑役に酷使され、家に帰った者は何人いたか。
04.7.4

悪運つよく 

久田二郎

衡陽で敵機に狙われた。常徳作戦で友が身代わり。沙市への撤退で腸チフス。
04.7.11

首切り 

匿名

昭和17年頃までは懐かしい慰問袋があった。
04.7.11

慰問袋

福岡重勝 

昭和20年3月10日都民12万人の犠牲者が出た大空襲の実態
04.7.13

軍馬たちの末路

佐藤 貞

生きている兵器も敗戦でガタガタに痩せた、またその固い肉を食べた
04.7.13

上官にしごかれて自殺した兵達

佐藤 貞

理不尽なしごきに死を選んだ兵達の無念。
04.7.13

軍隊まんだら

佐藤 貞

臨時召集された痩せ男の悪戦苦闘物語り。長いのでホ-ムペ-ジに繋ぎます。
04.7.16

私の従軍記録 

友野九郎

 

中国編(2)

04.9.5

元日本軍隊懺悔物語1

本郷勝夫 

苦力は日本軍に奴隷として使役されたが敗戦で戦争協力者の彼らはどうなったか。
04.9.29

元日本軍隊懺悔物語2

本郷勝夫 

日本軍は徴発と言う略奪で生きていた人も徴発。コレラ患者は家ごと焼き捨てた。
04.10.28

元日本軍隊懺悔物語3

本郷勝夫 

野戦病院では米糠を薬にした。糧秣受領の途中歩兵古参兵の婦女暴行を上官は黙認していた
05.04.14

我が青春の真空時代(1)

本郷勝夫

赤紙が来た、即入隊、ブラインドを下げた列車に閉じ込められて下関へ
05.05.11

我が青春の真空時代(2)

本郷勝夫 

漢口から空襲をうけながら衡陽に辿り着き、悲惨な大作戦となった。
05.06.07

我が青春の真空時代(3)

本郷勝夫 

衡陽陥落後桂林まで進撃する。敵機襲撃、高熱に悩みながらの病院開設
05.07.01

我が青春の真空時代(4)

本郷勝夫 

桂林からの反転作戦、途上敗戦、九江で捕虜、懐かしの故郷に帰る
05.07.01

鬼哭啾啾   

藤倉勝三 

軍隊のリンチを解剖する。古参兵に殺意を抱かなかった兵はいるだろうか。
05.11.29

中国戦線従軍の記録

久田二郎 

徴兵検査が済むと召集。死体にも無感覚、敵前渡河、尿の色は行軍のきつさを示す。
05.12.9

戦友

井ノ口金一郎 

戦死した戦友の腕を切り落として首に掛けて行軍、蛆がわきやがて枯れた。
06.01.05

長台関の悲惨事

井ノ口金一郎

雨中行軍、やっと見つけた宿舎、入れなかった他所の隊の兵は死んでいた
06.02.16

戦争とは英霊とは

本郷勝夫 

コレラ患者は手当てもされず、移動の時は家ごと燃やされてしまった。
06.04.12

農民拉致 

井ノ口金一郎

部落を夜中に急襲し不審者を拉致し拷問。八路軍は日本軍捕虜を優遇したとか。
06.05.01

日本軍前線部隊の内実

井ノ口金一郎 

欲しい儘の略奪、塩無しの食事、病農夫刺殺、三光作戦、屈辱の内務班。
06.05.01

中支戦線参戦記

渡辺健二

夢の様なホタル集団、蚊の大群、赤痢とマラリヤで苦しむ、暴れ馬で命拾い。
06.12.31

肝だめし

三神 高 

山東省で中国人農夫を刺殺させられた兵の苦渋の加害体験。
06.12.31

海行かば 

高橋武男

村松陸軍少年通信学校を卒業し乗船したが潜水艦に狙われやっと上海に辿り着く。
07.10.10

大東亜戦争の真相 

井ノ口金一郎

農夫を刺し殺す。味方を捕虜にさせず撃った。

中国編(3)

08.07.06

鉄東安病院(虎林線)最後の日脱出記(その1)

大田 収

終戦間際の満鉄東安病院の方々の脱出体験記 徒歩で7000キロの逃避行、密林、荒野で次々倒れた。終戦時満州東北部の消息を伝える貴重な資料。第一次死の行進迄
08.07.06

鉄東安病院(虎林線)最後の日脱出記(その2)

大田 収

第二次死の行進、 一家揃って内地に帰ったのは殆ど居ない。
08.07.06

虎林線最後の救援列車東安機関区 

後藤 景雄

満鉄虎林線最後の脱出列車はソ連機の攻撃の中命がけで邦人を脱出させた。
10.02.01

中国人民に詫びる

佐藤 貞

徴発した食料を食い、クリーを拉致して荷物を運ばせ、家を薪にした。敗戦後南京で捕虜作業の私達に老婆達が毎日食べ物を恵んでくれた。
10.02.01

泥濘膝を没する

佐藤 貞

泥濘膝を没するとよく言いますが、実態はこんなものでした。
13.03.19

生きたまま焼き殺された兵士

本郷勝夫

部隊長はコレラ患者の収容家屋に火を放つように命じた。
13.06.01

日本に協力したと知られれば殺される」と泣きわめく苦力の少年

本郷勝夫

「日本に連れて帰って」と懇願しましたが敗戦兵には何もできません。
13.08.15

『慰安婦派遣方』の電報を打った

今津善一

軍に慰安婦の派遣方の手配の依頼の電報を発信した記憶がある。

中国編(4)

13.08.31

以徳報怨  

後藤守雄

中国残留孤児″のような世界でも例をみない善行が生れた。孔子の教え徳を以て、怨に報いよ。大陸にとり残された兵たちは、当時、蒋総統の言葉として受けとっていた。
13.08.31

慟哭の満州1.2

橋口 傑

私達が歩んだ、こんな愚かな戦争への道を、決して、若者達の時代に二度と再び歩かしてはならない。敗戦で義勇隊開拓団は子を捨て、親をすてる悲惨な逃避行をした。
13.09.30

一山砲兵の追憶

永井 潔

山砲隊はどんな戦いをしたか、不運な部隊はインパール作戦で悲惨な最後になった。
13.09.30

慟哭の満州3

橋口 傑

捕虜収容所の屈辱と空腹、悲惨な有り様、毎朝冷たくなっている仲間。
13.10.31 慟哭の満州5 橋口 傑 味方によって退路の鉄橋は爆破、ソ連軍による資産略奪、収容所で飢えと寒さで皆死んだ、死んだ仲間の肉を貪った。嗚呼。

中国編(5)

13.11.30

憲兵隊の日々

安藤浩実

戦争中の従軍慰安婦は、兵隊四十名につき一名の割合で配属され、総数は八万余名であったとか。鬼畜のような水責拷問の実態、女性性器への辱め。
13.12.31

赤い夕日を浴びて

久保木康勝

モンゴル国境近くの大平原で落下傘降下の命がけの訓練を繰り返した
13.12.31

赫い夕日の下で

橋口傑 

謝文東は人民の為に戦ったが後で敵に寝返って人民を苦しめた。そして人民裁判で処刑された生々しい記録。
14.03.01

戦場の一齣

木橋富與

中国山西省太原での山砲隊の馬との喜怒哀楽、馬は帰れ無かった。
14.04.01

乳色の病院

久田二郎

常徳から沙市迄の200キロ余りの苦しい退却、赤痢と腸チブスで沙市野戦病院に入院、奇跡的に助かった。

中国編(6)

14.06.01

軍馬考

佐藤 貞

旧日本軍では軍馬を生きた兵器として軍馬補充部の馬や、農家から徴発した馬を戦地に送つた。徴発馬の数は支那事変から終戦までの間だけでも60万~70万頭になったそうだ。しかし程んどの馬は故郷に帰 ることなく異国の地で果てたそうだ。
14.07.01

蚊と兵隊

佐藤 貞

蚊を防ぐ唯一の方法は草を燻して戸を閉め切って蒸し風呂のような部屋に寝ることです。それも効くのは始めだけです。あまり酷い時には雨外套をすっぽりと被ります今度は暑さの為に眠れません。その為に兵はいつも睡眠不足でした。下士官は頭に被る提灯のような蚊帳を持っていました。
14.07.01

大晦日の夜行軍

佐藤 貞

先発した幹部候補生の大和田ら数名が宿営地を設営することになっていた、大和田らが軍公路に迎えに出ていた。軍公路を逸れて細い道に入ったが、案内にたった大和田が、設営した宿営地を忘れてしまって丘をいくつ越しても見つからない。日は高くなる、腹はへる。よその隊は落ち着いたのだろうか、わが隊だけが当ても無くさまよっていた。とうとう大和田が大きな声で泣き出した。
14.08.01

少年兵物語

滝口一男

輸送船団が台湾海峡で魚雷とグラマンの襲撃で沈没した、台湾出身の陳少年兵は故郷の目の前でグラマンにやられた。
14.08.01

眼鏡と兵隊

佐藤 貞 

ビンタで飛ばされる眼鏡、眼鏡無しの行軍は辛かった、壊れた蔓を針金で造った。
14.09.01

溜池の水を抜く   

佐藤 貞 

兵は溜池の土手を切ったり水を流したりして魚を取った。
14.09.01

南京の町を彷徨する大部隊

佐藤 貞

大部隊が行く先が分からなくて彷徨したことが3回ある。部隊の連絡方法は無いに等しかった。
14.09.01

マラリアで狐憑きになった兵

佐藤 貞 

マラリアで高熱になって狐憑きみたいになった兵。

中国編(7)

15.03.01

虜(とりこ)物語

後藤守雄

終戦直後から、復員完了するまで、中国で体験した実話である。 自分史中心に申し上げると、昭和19年の12月23日、我が家の長男誕生か ら、翌々年の昭和21年3月25日わが故郷岐阜駅に上り列車から降りた時点が背景。