私の太平洋戦争 嗚呼ペリリュー島

東京都 室井 幸吉(八十一歳)

 昭和二十年八月十五日、この日天皇は敗戦の止むなき旨放送ありし日という。我れ南方の離島に戦いおり敗戦をしらず。

 敗戦を終戦と書き、天皇の声を玉音という。民草こぞりふれ伏しその恩情に涙し、或る者は二重橋前にて切腹し詫ひるありと。

 八年の長きにわたり戦いに斃れたる兵士、民草の数四百万と。今もなおジャングルに或は洞窟に深海に屍を曝しつつあり。

 一枚の赤紙は無情にして親子、妻子、兄弟と別離を余儀なくし、再会し得ず。祖国の山河を踏み得ず。誰か彼等の心境を憂う。人日く、靖国の神となれりと。彼等日く、神とは為政者の偽満手段の神なり。我れ願わくば凡人として郷里の土を踏みたしと。終戦の玉音に涙する民草よ。戦うべからずの玉音こそ涙すべきにあらずや。

 平和という座にある若者よ。徴兵制が迫りくるを知らずや。将軍はいつも後方にあり。汝等勇敢に戦えと叱咤激励す。弊るる者は前線の兵士のみ。この鉄則は今も変ることなし。深海にジャングルに今なお屍を放置されおる戦友は、靖国に帰るを拒否し、霊魂は無言にて彷徨す。彼等に死を与えたるは誰そ。彼等その答えを求めさまよう。

 戦いを宜したる深淵を知らず。終戦を宜したる者を知る。

 骸骨挙りて我が行くべき道を求め彷徨し慟哭す。生き残りたる民草よ。汝等は今、何をなすべきか自らに問い、そして答えよ! ああ、我もまた彷徨う骸骨なるか!

 親もなき、子も泣き妻も泣く。哀れなり、八月十五日に想う。

   =五八・八・一五・日記にあり 十七年前の走り書きなり=

 

ペリリユー島

 ベリリユー島の攻防戦に参加して、辛くも生き残った将兵達は、これは最早戦争などと言うものではなく屠殺であったと、□を揃え証言する。

 強力な敵空軍が制空権を奪い、続いて制海権を握った戦艦軍の艦砲射撃。そして海兵隊の上陸という孤島攻略戦の公式は、昭和十八年十一月十二日のマキン、タワラ戦から始まった。

 

 珊瑚礁に囲まれた東西わずか三粁。南北五粁の芥子粒ほどのペリリユー島攻略に際し、米軍は一平方米あたり一発の艦砲射撃と爆弾を叩きこんだ。ために、緑に覆われた南海の楽園は一瞬にして岩石むき出しの島と化し、地獄の形相を呈し、守備隊将兵は一戦も交わすことなく三分の一は戦死した。将兵の無念は察して余りあろう。

 米軍の指揮官は、いかに部下を失うことなく、より多くの敵を斃せるかを徹底的に研究し、損害の少ないほど良い指揮官と評価された。そのために孤島攻略に敵の補給を絶ち、自滅を待つ戦法もとった。中部太平洋における蛙跳び作戦。パラオ島やメレヨン島などがその好例で、補給を絶たれた将兵は飢餓という大敵と戦わなければならなかった。

 

 日本軍の作戦について、米軍は、日本軍は過去の作戦の過ちを反省することなしに、馬鹿のよう機関銃の前に突撃してきた。我々なら作戦の失敗を検討、方法を変えて戦う、と言っている。

 日本軍上官は、部下の死骸の山を築こうがおかまいなく遮二無二突撃する将軍こそ優秀な将軍と称えられた。ここに日本軍と米軍との、人間の尊厳に対する根本的隔たりを感じ取ることができる。また、日本軍が、奴隷的軍隊と評価されるのも、ここに起因するのではあるまいか。

 

天皇の島(ヒロヒトの島)

 ベリリユー島の戦闘は、太平洋戦における単一戦闘で最大の被害を米軍に与えた戦闘である。中川大佐以下ペリリユー島守備隊に対し、天皇は十一回にわたり御嘉賞の言葉を陽わっている。

 

 これも日本陸軍史上類をみない記録である。そして攻撃した米海兵師団はこの一戦で甚大な損害を蒙り、その後の太平洋戦局に主戦闘力として再登場することはなかった。いかに激戦であったかは、海兵隊がペリリユー島を「ヒロヒト』の島と呼び、今なお恐怖と賛嘆の辞を捧げていることでも納得できる、とベリリユー戦に参加した米兵は、このように評価している。

 

 ペリリユー島攻略作戦は、ルパータス少将の綿密な作戦計画によって実施された。一九四四年五月三十日に始まり、七月二日、三日、二十六日、二十七日、八月二日と、パラオ島、ペリリユー島の航空写真を撮影,その間六月二十三日~二十八日にかけて潜水艦による接岸撮影も行っている。

 さらにサイパン陥落の際、押収した機密書類はパラオ地区集団がその指揮下にあったので、パラオ第十四師団の配置も、その書類で判明した。

 また、上陸直前においても、ダイバーにより上陸地点の対策も研究がなされていた。

 米軍が入手していた情報によれば、ペリリユー守備隊は、水戸歩兵第二連隊三千二百八十三名が中核で、約一万七百ないし一万一千五百人。このうち約二千五百人ないし三千人が朝鮮入労務者と、ほぼ正確な情報を掴んでいた。パラオ方面には九百四十七機、うち軽爆撃機二百七十六機が存在するはず、とあるが、これは過大評価で、実際には百機そこそこの航空機しか存在していなかった。日本海軍はサイパン戦で甚大な打撃を蒙っているので出撃の公算は少ないと判断。上陸開始前に空襲によった叩いておく、と敵を知り己れを知れば百戦危うからずの例え通り、研究し尽くしていた。

 

 作戦通り、米空軍の奇襲攻撃により日本空軍は全滅し、爆薬、糧秣、港湾設備等に甚大な被害を蒙った。

 石橋を叩いて渡る米軍作戦に対し、日本軍の孤島作戦の場合、どこでもそうだが、制空権がなければ制海権がなく、制海権のないところ輸送の安全はなく、輸送路が確保されねば基地建設ができない。基地がなければ制空権が望めない。という悪循環を断ち切る術を日本軍は持つことができなかった。

 

 根本をつきつめると、航空機の生産力の差に突き当るが、一銭五厘でいくらでも補充できるとした人間尊重の精神的欠如が、数百時間の訓練を必要とする空軍パイロットの救助を怠った付けが、日本空軍弱体化に繋がったように考えられる。

 この点、米軍は多大な犠牲を払っても救助努力を尽くしていた。

 

 その頃、大本営では日本軍の華々しい戦果もなく落ち込んだ雰囲気の中にあって、ペリリュー島の勇戦奮闘のみが話題になり「ペリリューはまだ大丈夫か」が朝の挨拶になっていたという。

 天皇もまた、ペリリューの戦闘を度々ご下問されたと間く。(『天皇の島』より) しかし、ペリリュー島救援や航空隊による反撃について作戦を計画した話は耳にしていない。

 連合艦隊司令官は、空軍の援軍を送れないと打電してきた。結局は捨て石であった。こうした補給も望めない絶海の孤島に、半年分くらいの食糧と一会戦分くらいの弾薬を持たされて送り出される将兵こそよい災難であった。

 敵の戦力は過小評価し、味方の戦力は過大評価視、武器兵力の差は精神力、即ち大和魂で捕えるとし「腹がへっては戦さはできぬ」の肝心な教訓を無視、弾薬・糧秣の補給を怠った大本営の参謀達の作戦は、アツツ・サイパン・ガダルカナルで立証されていたに拘わらずペリリューでもこの悪癖は反省されることはなかった。しかし「ペリリューはまだ大丈夫か」などと自分達の責任を恥じる気配すらなかった。

 

昧万に殺されたと将兵

 戦争に戦死、戦傷死、戦病死の犠牲者のあるは止むを得ないことを兵士らも覚悟していた。しかし、補給を怠り、数十万の餓死者を出したのは、今次大戦の持異な体質を物語っているのであるまいか。これら参謀達の責を負った話はまだ耳にしていない。

 日本軍は戦死者は勿論のこと、勇敢に戦い傷付いた兵に看護の手を差しのべるどころか、手榴弾による自殺を強要したり、軍医によって殺された話が多い。俘虜の辱めを受けるより潔く死を選べとした勝手な戦陣訓により、我が身を抛っって戦いに傷付いた兵士は、敵にではなく味方に殺されたのである。自国兵士の負傷者を殺したという戦争の歴史を私は知らない。

 

 補給を絶たれた孤島の将兵は、消耗品として使い捨てられる運命にあり、命令のまま全力を尽くして戦った。「数日間絶食状態にある兵に、弾丸も持たせず死にに行けというような命令を下すときは断腸の思いだった」と話した将校談がわずかに慰めであるが、その将校すらも死ななかった。

 

 天皇の島と評価(多分米軍のお世辞)されたペリリュー島の戦闘も例外でなく、上陸に先立ち四千トンの砲爆撃を実施した。これに対する手立てのない日本軍は一万的に殺されるのみであった。米軍は戦争の勝利を確信し、有り余る砲弾や爆弾をパラオという好演習地を得て全弾を叩き込んだのではあるまいか、との逆上陸に参加した鈴木兵長談がある。これは最早、戦争ではなく屠殺であったと言わしめたのは、この一万的な米軍の攻撃にあった。

 

 昭和十九年九月十五日、米軍は攻撃開始に先立ち、世界最強を自負する第一海兵師団に陸軍第八十一師団の兵力を加え、兵力に於て日本軍の四倍、戦車十倍、重機関銃六倍、火砲三、五倍の他、戦艦、空軍の援護を得て、日本軍に圧倒する戦力を保持していた。

 迎える日本軍守備隊一万余、重機関銃五十八、各種砲二百門であった。

 

 上陸攻略戦は敵の三倍が原則とあるが、米軍はその鉄則を上回る周到の準備を怠らなかった。ルパータス将軍は上陸開始に当り「この戦闘は二~三日で終る」と豪語したのも、この裏付けがあったからであろう。

 敵の上陸前、これら火砲、ロケット砲、艦砲の斉射に加え、空爆によって島が変形するまで叩き込んだ上陸開始の攻撃に、日本軍守備隊将兵は、敵のなすままの一方的攻撃に戦死傷者続出、甚大な損害を蒙った。米軍海兵隊は水陸両用車を先頭に上陸を開始した。

 生き残っていた守備隊将兵は,戦車爆雷を抱え飛び込み、手榴弾、銃剣による白兵戦で敢然と立ち向かった。思わぬ反撃に敵も多くの戦死傷者が続出した。ルパータス将軍の、二~三日で終るとした豪語を見事に打ち砕いた守備隊の奮闘に敬意を表さねばなるまい。

 

 殺さなければ殺される、白兵戦以外手段のない日本軍の反撃に、敵も意外な損害を蒙ったが、我が軍の損害はさらに甚大で、敵の上陸開始以来七日間の戦闘で三分の二以上が戦死傷し、弾薬の消耗も多く、殊に火砲の損害が多く、以後の戦闘は洞窟に拠点を求め敵の攻撃を避け、夜間少人数による肉攻斬り込み戦法に徹した。

 

 斬り込みに出陣した将兵の多くは帰ることなく、消耗する守備隊救援のため、パラオ本島西地区隊歩兵第十五連隊第二大隊(飯田大隊)を敵の背後に逆上陸することに決定し、戦局逆転を画策、海上機動第一旅団輸送隊に海上輸送命が下令された。しかしこの時点でペリリュー守備隊は少人数の斬り込み反撃で辛くも陣地を確保するのが精一杯であり、わずか一個大隊の増援軍を送ったとて、海・空軍の援護の望めない現状では、戦局の逆転は不可能なことは明白であり、ペリリュー島を包囲警戒している米軍が、,逆上陸部隊を容易に見逃す筈もなく、逆上陸の成功率は極めて困難視され、強硬な反対意見があった。

 

 ペリリュー守備隊長中川大佐もその点を指摘、ペリリューにこれ以上の兵力を注ぎ込んでも無駄であると反対の無電が師団司令部に伝えられた。(米軍と対等の武器を持たぬ兵力を注ぎ込んでも徒らに兵力を消耗するのみと、暗に武器の差、弾薬等の補給皆無を仄めかしている)

 しかし、逆上陸作戦は強行された。四個舟艇隊に編成され、歩兵三個中隊、砲兵一個中隊、工兵小隊、作業小隊及び通信・衛生分隊の一個大隊が編成され、四舟艇隊に分散分業し決行された。

 各舟艇隊に出発日、出発時刻、出発地点に差があり従って各舟艇隊により戦況、損害に格段の差を生じたのは止むを得なかった。

 海上輸送命令を受領した海上機動輸送部隊の、その時の情況は、隊長の命令伝達があるというので、全員集合した。いつもの隊長と違って緊張している様子が隊員に伝わった。悲壮感すら漂っているように感じられた。

 

死の逆上陸開始命令

 「命令」=苦戦を伝えられているペリリュー守備隊救援のため、米軍の背後に高崎歩兵十五連隊の飯田大隊八百三十名が逆上陸を敢行する。その海上輸送が我が部隊に下命された。敵艦隊が跳梁し、哨戒機の厳重な監視下の海上四十五粁は幾多の困難が待ち受けているだろうが、隊員は必勝を期し、任務遂行に邁進するように=。という主旨であった。

 一瞬、隊員の間にドヨメキの声が上がったが、すぐシーンと静まりかえった。制海空権のない海上、味方の援軍もないまま敵の厳重な監視網を突破する危険は末端の兵士にも分かっていた。まして、敵と遭遇した場合、戦う武器もない丸裸同様であり、更にリ-フに囲まれた水路は複雑を極め、昼間ですら座礁する危険のある水路を、暗夜の隠密行動である。

 

 参加人員として自分の名を読み上げられたとき、緊張していたためか、寒気のような戦慄が背筋を通り抜けたように感じた。

 分隊に帰ると、この逆上陸が死に場所になるだろうと意見が一致した。新兵も古兵も区別はなくなっていた。それそれが決意を固め、病気などでの不参加に、家族への伝言を依頼する者もいた。しかし、その遺言すら家族の許に届くことは期待できない戦況にあることを私達兵隊も承知していた。

 

 もとより生きて故国の土を踏むことを期待し得ない身ではあるが、実際その場に立たされたとき、戦陣訓のように立派に振る舞えるか自信はなく、一発の砲弾で「アッ」という間に終わることを望んだし、弱虫と言われようが自分なりに潔く死ぬ覚悟を決めると、家族の顔が浮かんで消

えた。

 敵に発見されることを極度に警戒し、隠密行動により、出発地点は三ケ所に分散、出発日時も一日の差を設け、ペリリュー逆上陸戦は決行された。

 第一舟艇隊長高橋少尉、大発五、小発一。先遣隊長打堀中尉指揮する歩兵第五中隊、配属工兵小隊の二百十五名は九月二十二日二十二時三十分、福井遣隊長以下の激励を受けてアルミズ桟橋を出航した。散の上陸開始から一週間後である。

 三ツ子島までは順調に進んだが、ゴロゴツタン付近で指揮艇が座礁、懸命な努力により三時離礁に成功、直ちに前進開始、ガラガシュール西方で再び座礁、四時すぎ離礁に成功。ペリリューガルコル桟橋への水路を求め前進を開始した直後、突然敵駆潜艇が目前に出現、アッと息を呑んだ。

 

 敵も我々の出現は予期していなかったらしく、一発も射ってこないばかりか、わが艇が前進すると彼等は後退する。幸いガルゴル桟橋まで二粁もない。運を天に任せ全速力で桟橋に前進した。

 後退までした敵艇は、この時になって猛射を開始、機関砲、機銃弾がピシピシ命中、二号艇は左舷に砲弾を受け大きな穴があいた。幸い戦死傷者はなく機関に異常もない。二十三日五時三十分頃ガルコル桟橋にのし上げるように到着し、駆潜艇の執拗な攻撃が続くなか、歩兵隊は素早く上陸したが、到着十分後、駆潜艇と連絡がとれたのか敵戦闘機が来襲、銃爆撃が加わり舟艇隊の避難も終わらない間に全艇撃沈され、十四名の戦死者がでた。

 

 出合頭に敵が射ってこなかったのは、突如の出現に気が転倒したことも原因であろうが、わが艇も船首に砲兵隊の野砲を備え付けていたことも敵の砲撃を躊躇させた原因でなかったか、と舟艇隊の奇跡的生還者の飯田伍長は言う。

 

 空襲を退避すべく防空壕を見つけ飛び込んだ飯田伍長らは、民間人が一人おり彼も心細かったのだろう、ジュースの歓待をうけた。一時間近く経って爆撃がやんだと壕を出た途端、一発の砲弾が壕に命中、民間人は即死したが、飯田伍長らは間一髪命を拾った。

 

 第二舟艇隊長堀江中尉、大発五、小発一アルミズ桟橋二十三日二十時三十分出航。飯田大隊長指揮する大隊本部、砲兵小隊、作業隊、通信分隊分乗、輸送隊長金子中尉以下百四十七名、出航の時刻が迫ってきた。逆上陸部隊の海上輸送命令を受け、秘匿下に万全を期し整備した愛艇の機関の調子も気懸りだが、上陸部隊の集合の遅れが心配だ。三十分も遅れ、やっと集合すると、「君が代」のラッパ吹奏、皇居遥拝、隊長訓示と延々と続く。上陸地点到着時が満潮になるよう計画された作戦が干潮になる怖れがある。輸送隊長の意見具申もあったであろうが完全に無視されている。

 

 舟艇隊員の苛立ちがつのる。一時間近く遅れやっと出航命令、遅れを取り戻すべくスピードをあげる。パラオ~ペリリュー間約四十五キロは熟知している水路だが、リーフに囲まれ複雑を極め満干によって航路が異なる。殊に干潮時の航路は座礁の危険があり、まして暗夜で航路標識もなく、そのうえ完全軍装の将兵と弾薬を満載している。敵艦艇や哨戒機に発見される公算が大きく、その場合戦う武器がない。その虞れが常時頭を離れなかった。

 

不運! 全艇座礁

 舟艇隊員の心配が悪い方へ的中した。二十三時三十分ごろ三つ子島付近を通過した。この頃から米軍は昨夜以来の我が増援部隊を察知していたのか、厳重な警戒体制を敷いていた。照明弾が発射され前進は思うに任せず、ついに二十四日零時四十分頃、ペリリュー島に二粁付近で全艇座礁という最悪状態に陥いった。直ちに離礁に努力するが、全速力で乗り上げたため、艇はりーフに食い込み、剰さえ折りからの干潮に艇の吃水線まで現れる仕末で艇は動こうともしない。

 

 敵の哨戒艇が気付いたようだ。シュルシュルと不気味な音を立て空中に高く照明弾が打ち上げられ、青白い光が海上を白昼のように照らしながらゆっくり落ちてくる。同時に周辺の敵艦艇からすさまじい十字砲火が集中し、炸裂する砲弾は空気を引き裂き、水柱を吹き上げ、リーフを打ち砕き爆発する。その都度、幾名かの戦死傷者がでる。

 

 耳は爆音で痛みガンガン鳴っている。自分が今何をすべきか頭の中は真っ白になり、離礁しなければと艇にしがみついているのは確かだがどうすべきかの判断がつかない。照明弾は次々と打ち上げられる。探照灯まで加わり海上を這うように照射する。同時に機関銃の掃射に、バタバタと薙ぎ倒される将兵が続出、このままでは無抵抗で戦死者が増大すると判断したか、上陸部隊は座礁した艇に見切りをつけ、「徒渉上陸」を開始した。

 

 「畜生!」あんな出陣式など延々とやっていなければ無事上陸できたのに、と歯ぎしりし、斃れた戦友の屍に憤りを感じ、中隊長の艇を振り向いた。隊長は抜刀し、離礁の指揮をとっていたような微かな記憶がある。瞬間、至近弾が作裂、海中に叩き付けられ、失心した。

 何時間経ったのか、気がついた。体中が痛むが、幸い傷はない。隊長艇も隊長の姿もない。何番艇か、盛んに爆発しながら炎上している。上陸部隊の弾薬か対戦車用地雷であろう。飛散した舟艇の破片が波間に漂っている。戦友の屍がある。千切れた手足があり、海水は戦死傷者の血潮で真っ赤だ。

 

 徒渉を開始した逆上陸部隊も、リーフ上に海中に、点々と屍を残しながらペリリューに向かっている。泳ぐのに邪魔なのか、雑嚢、水筒が捨てられている。薬盒がある。銃も銃剣もある。体だけで島に辿り着くのが精一杯なのだ。

 舟艇も戦友も見失った。上陸部隊の後を追って、泳いだりり-フに掴まって体んだり、一寸刻みに前進、砲弾の作裂音に海中に潜るたびしたたか海水を呑む。怖いとか恐ろしいとかは既に超越し、ひたすら島へ辿り着こうとしていた。

 

 何時間経ったのか。時間に対しての感覚が失われていた。疲労困億し、ペリリュー島の一角に辿り着いていた。力尽きてか海岸線に友軍の戦死体が累々と横たわっていた。

 間遠になっていたが照明弾は相変わらず打ち上げられていたし、砲撃も続いていた。機銃の曳光弾がビュウピュウと身辺を掠め、岩石に命中するとパパパパと音を立てて削り取ってゆく。弾丸が全部自分に集中しているようだ。

 

 慎重に匍匐前進、砲弾の穴に転がり込んで、やっと自分を取り戻した。独りでいることに無性に心細さと恐怖を感じた。誰か居ないか、耳を澄ます。砲弾にガーンと鳴っている耳に唸り声が入った。前方の道路方向だ。「オーイ、誰か」「作業隊○○、助けてくれ」と答えが返る。負傷しているらしい。助けたくても、機銃の掃射が集中して、穴から出るのは危険だ。

 

 「頑張れ、助けにゆくぞ」と激励した。この応答を聞いていたのか、案外近くから「オーイ大丈夫か」と田中上等兵の声だ。「こっちの穴は深いぞ」と怒鳴ると、しばらくして息を弾ませながら頭から滑り込んできた。「負傷は」「大丈夫」と、二人になるとなぜか恐怖から解放されたように心強く感じられた。群集心理からだろうか。

 

 夜明けが近いのか明るくなったようだ。砲声は途絶えたが、集中砲火を浴びた舟艇付近は時々爆発音と黒煙が上がっていた。

 他にも戦友が上陸している可能性がある。捜そうと二人で穴を出た。作業隊と言っていた兵は腹から大量の血を流し絶命していた。

 戦うにも丸腰の二人、細心の注意を払って前進、二百米も進んだとき、砲弾に倒された大木の間から話し声がする。紛れもない日本語だ。こんなときは一人でも多くの味方が欲しい。幸運にも昨日先発の高橋少尉以下の生存者十数名の戦友だ。

 

 「オー、元気だったか」と、互いに手を握り合い涙が止まらなかった。「此処に止まるのは危険だ。我々の任務は完了した。動く舟を捜しパラオに帰る」と高橋少尉。三、四名に分散し桟橋方面に遠む。ペリリュー南部は激戦中か、遠く砲声が轟いていた。

 桟橋に着くと幸運にも離礁に成功した二隻の大発が人員器材を卸下し終わったところだ。直ちに分乗帰途につく。二十四日三時ごろだった。

 

 帰途再び敵に発見され砲撃をうけ、一隻は不運にも敵弾が命中撃沈され、生き残った幾名かの戦友が泳いでペリリューに引き返す姿があった。敵弾集中の状況下ではどうしようもない。全速力で砲火をくぐり抜けるに精一杯だ。中隊が座礁した付近と思われるあたりに、焼け焦げた大発がくすぶり続け、戦死体が累々と横たわっていた。その辺りからペリリューに向かって逆上陸部隊の将兵の屍が見うけられ、銃や薬盆まで散乱していた。

 危険区域をようやく突破、艇はパラオに着いた。砲弾に斃れた戦友、ペリリューに逆戻りした戦友の安否が気遠われ、生還したことを喜ぶ心境になれなかったし、何か悪夢を見ていたように感じられてならなかった。

 

死傷続の逆上陸部隊

 第三艇隊長田中中尉、大発五、小発一。歩兵第六中隊桑原中尉。砲兵の一部と二百二十三名。護衛中隊長井中尉の指揮する大発五、九八式高射機関砲二、三七粍速射砲三の護衛を受け、アイミリーキを二十三日二十一時四十分発、二十四日零時三十分頃ペリリュー水道に入り、護衛艇隊は第三艇隊と別れ、デンギス水道付近の警戒につく。

 

 ペリリューに向かった第三艇隊はペリリューに四、五粁の地点で指揮艇座礁。続いて第二艇隊の座礁した付近で一番艇座礁。敵の砲火により大破炎上。上陸部隊は徒渉上陸を決行。離礁に成功し追及していた指揮艇も再びガラカシュー付近で座礁。やむなく桑原中尉以下渡渉によりペリリュー島に向かった。

 

 二、三、四番艇は機関不調のため遅れて五時三十分三ツ子島に寄島し、機関調整のうえ護衛中隊の援護をうけ十九時三ツ子島を出発、米艦艇の集中砲火綱を突破しガルコル桟橋に到着したが、うち一隻は被弾し航行不能に陥ち入り、止むを得ず逆上陸部隊は徒渉上陸を開始した。

 

 第四艇隊長小野寺伍長、大発五、小発一。歩兵第四中隊須藤中尉以下二〇〇名は二十三日二十一時アラカベサンを出発、敵の警戒綱を巧みに潜り抜け、同日二十四時無事ペリリューのガルコル桟橋に達着し、須藤中尉は直ちに中川大佐の指揮下に入った。

 

 逆上陸に参加した舟艇のうち大発八、小発二が撃沈され、辛うじて任務遂行後帰航せんとした九隻のうち更に五隻が撃沈され、輸送隊長金子中尉以下八十五%の尊い犠牲者を出した。

 再度撃沈という悲運に遭い、ペリリューに逆戻りした戦友達は守備隊と運命を共に玉砕した。

 

 逆上陸部隊将兵八三〇名も上陸までに約三〇〇名が戦死、砲の揚陸に失敗した砲兵隊約一〇〇名は、上陸早々不運にも米軍と遭遇し全員戦死、上陸に成功した四〇〇名のうち銃、弾薬を携行した者は約半数に過ぎなかった。丸腰の兵隊が到着したとて近代戦の装備された米軍を相手に、戦局の逆転はおろか戦力になり得たかさえ疑問であった。

 

 飯田太隊長は玉砕時、中川守備隊長と共に自決した報があるが、逆上陸部隊奮戦の記録は伝わってこなかった。

 勝ち目のない戦争が明らかな戦局に、多くの兵力を注ぎこみ、尊い将兵の命を失った、その命令を下達した者の多くは戦後も巧みに生き抜き、下命された者は祖国の土を踏み得なかった。この冷酷な「命令」という二文字を我々は肝に銘じ忘れてはならない。

 優秀な装備、万全な準備、豊富な補給を受け、海空の援護を受けて戦う米軍に対し、銃剣で立ち向かう戦争を戦争と言えるだろうか。それは屠殺であったと参戦した者は言う。

 「我れ太平洋の防波堤とならん」と絶叫した将軍がいる。防波堤となり、何を守らんと欲したのか?

 国体維持のため、敵に対抗し得る武器も与えられず弾薬、糧秣の補給もせず、援軍もない孤島に置き去りにし、戦闘のみを強要し、玉砕を強要する軍上層部の真意は那辺にあったのか、私には理解てきなかった。

                 

空しい電文の応答

 戦後、ペリリュー戦記を読み、次のような事実を知ることができた。

 歩兵二連隊付 村井少将の発した無電「平仮名の部分は片仮名)

  1. 重なる御嘉賞、感状に将兵一同ひたすら感激しあり、また集団司令官の心からなる配慮を感謝しあり
  2. 敵は十月三日以来力攻に努め、新たに海兵師団と替れる新陸軍部隊は十七日以降あるいは熾烈なる砲爆撃あるいは慎重なる幾多攻撃手段を尽し攻撃し、最新式戦法なきも深刻苛烈軽視を許さず、新道路構築、残存戦車制圧特に狙撃、飲料水源妨害のため、数線の鉄条網、機関銃を準備しある等その例なり。
  3. 地区隊長以下壕内に於て陣頭指揮に徹底し将兵の士気旺盛にして全員飛行場に切り込こまんとする状況なり。水筒は三~五日まで制限、食い延し、塩と粉味噌をもってする忍苦の生活を送ること既に幾十日、この間進んで忍苦に堪えこれを克服せんとする意気と闘魂の沸る所蓋し集団の意気にして生命なるべし
  4. 地区隊は既定の方針に基き邁進しありて固く天祐神助を信ずるも最悪の場合に於ては軍旗を処置したる後おおむね三隊となり全員飛行場に斬込む覚悟なり。
  5. 将来のため、集団に於て地区隊の結集を命ずる企図なきや承りたし。

 以上の無電に対し集団司令官井上中将は、

  1. ペリリュー地区隊が忍苦を重ね難局に堪え、寡兵克く衆敵に対し健闘を続けつつあることは全軍讃仰の的にして、特に昨七日畏くも八度にわたる御嘉賞の御言葉を拝したる、一にこれが為にほかならず。
  2. 比島方面の主決戦もようやく有利に展開しつつあり、また我が航空兵力による在「ペリリュ-敵機の徹底的撃滅敢行の日も近付きつつやに判断せらる」
  3. 地区隊の損害逐次累積し、弾薬、糧食、飲料水また逐次窮迫する実情察せざるに非ざるも、地区隊がいかほど小兵力となるも軍旗を奉じてペリリューの中央に厳乎健在あることにより、いかほど我が作戦の全局に貢献し全軍を奮起せしめ、一億の敢闘精神を鼓舞し得るか、これ何人も疑う余地なし。即ち赫然の闘魂に拍車し、あくまで持久に徹し万策を尽して神機到るを待つべし全員斬り込みは易く忍苦健闘するは難かしかるべきも、よろしく村井少将、中川大佐心を一にして全戦局を想うて右苦難を突破せんことを期すべし。

 

 この無電応答に感ずるところは、村井少将は、ペリリュー地区隊将兵は闘うに既に武器、弾薬もなく、糧食も尽き、飲料水も節水し限界に達している。これ以上将兵に戦闘を継続させるに忍び難い「軍旗を処置したる後、武人の最後を飾る総攻撃を実施したいので許可して頂きたい」の訴えと共に「地区隊の集結を命ずる企図なきや承りたし」とは「此処まで闘った将兵をパラオ島に撤退させる考えはないか」の二つの訴えがあった。

 「直ちにパラオに撤退すべし」

 「勇戦感激す。心置きなく全員斬込むべし」

 のどちらかの返電を期待した返電に対し、数重なる御嘉賞もあり、比島方面の戦局も有利に展開している「嘘」、飛行機も近く飛来し、敵を撃滅する日も近い「嘘」、斬込みは易く持久は困難だが、神風が吹くまで頑張れ、撤退の意志は全くない。糧食、弾薬の補給についても全く触れていない。血も涙もない無電であった。御嘉賞が返って仇になった。

 

 このように、嘘をまことしやかに書く名作文は、どこの教育だったのか。信じて死んでいった将兵の姿が浮き彫りになってくる。

 これが日本軍の本質ではなかったのか。

 

無謀な戦争、責任は誰か

 食わせず飲ませず、弾薬の補給すら怠り、戦争のみを強要する作戦は誰が発案し命令したのか。愚かな作戦も「命令」となると、絶対的に厳守せざるを得なかった。三二〇万余の戦死者と、民間人七〇万と称される死者、アジア諸国民二千万人に対する責任は誰か。

 戦後五十年を経過し、責任者のいない世にも不思議な物語りである。

 戦争は、或る日突然やってくるものではない。人間が無関心という心の隙間から、いつの間にか、この戦争は正義の戦争だ、避けて通れない、世界の孤児になるなどと、まことしやかに宣伝され法律が制定され、戦場に駆り出される。

 我々戦争体験者は、「戦争に訴えねばならぬ戦争」などあり得ないことを訴え続ける義務があるように思うのです。むかし聖戦、いま国際貢献が歩き出した。

 

 地図省略 

慰安婦と兵隊

静岡県 秋元 実

 昭和十七年六月四日、ビルマのラングーン市北郊の野戦重砲兵第三連隊の駐屯地、コカイン兵舎を出発し、雲南省拉孟にいる第二大隊を目指して北へ走った単独行の軍用トラックは、寺本見習士官に率いられた十名の追及兵を乗せて、夕方トングーに着いた。

 トングーは、ラングーンから三百キロ、シッタン河畔の小都市だが、わたしたちが着いたとき、戦火のために徹底的に破壊されて一面の瓦礫の原と化しており、傾いた北緯十七度の太陽が、崩れかけた家々を照らしていた。

 

 古参召集兵の藤原上等兵を先頭にトラックを降りた追及兵たちが、ひとつの街角を曲がったとき、すでに三十歳をいくつか越えた上等兵が、「おっ、ピー屋だ。ピー屋だぞう!」と、年に似合わない弾んだ声を発した。

 見ると、るいるいたる瓦礫の間に木造のバラックが建てられ、門に横文字で「うれしか楼-皇軍将兵慰安所」と書いてあり、その根元にくたびれたシャツとロンジー(腰に巻くスカート)のビルマ女たちが、五、六人かたまって立っていた

 これが、戦場に投げこまれた弱兵のわたしと、「慰安婦」(兵隊の俗語で「ピー」)と称する幸うすき女だちとの初めての出会いだった。

 

 大日本帝国陸軍が、将兵の欲求の処理のため「慰安所」の開設を決意したのは、南京攻略後の昭和十二年だが、その主な動機のひとつに、大正七年から十一年にわたるシベリヤ出兵で、出征兵士七万二千人のうち、実に一万人を超す性病患者(私娼その他から感染したもの)が出て、大いに戦力を消耗したという苦い経験と、中国派遣軍の将兵による現地人婦女への暴行の多発という目前の現実があった。

 

 陸軍は、その道の業者を介して女を集め、昭和十三年、中支にまず「陸軍娯楽所」と称する施設を作った。木造バラック、四畳半に土間という小さな部屋が、その後の慰安所の原形になった。

 

 ここに送りこまれたのは、北九州でかき集められた百人のプロの女たちで、その中には出嫁ぎに来ていた若干の朝鮮女も含まれていた。

 軍直属の娯楽所は、やがて民間経営の慰安所に変わり、しだいに大陸の各地へ、そして太平洋戦争開始後は、南方の広大な占領地域へ広がっていくのである。

 

 集められた女たちは、そのほとんどが、いわゆるクロウトの娼婦や芸妓たちだったが、中には甘言に釣られて応募したシロウトの女たちがいた。その過半数が学歴最低の尋常小学校卒で、みんな家庭の貧困を背負っていた。

 

 初め慰安婦になったのは日本の女たちだったが、彼女らはほとんど使い古された年増女だった。軍がこうした女たちに替わって、将兵の要求に応えられる若い娘たちを集めようと考えたのは昭和十八年からで、目をつけられたのは植民地・朝鮮の女たちだった。

 

 朝鮮総督府の命令で、半島の隅々から「挺身隊員」という名目で、十二歳以上四十歳迄の未婚の女二十万人が強制徴収され、その中から、十八歳以上二十二歳ぐらいまでの女十万人が選ぱれて、いやおうなく慰安婦にされた。命令を拒否すると家族まで処罰され、女が逃亡すると、家族に重い罰金が課せられた。連行の途中、自殺した娘もいた。

 

 こうして集められた女たちは、戦線の各地に配給され、ときには、一日に数十名を相手にする苛酷な奉仕を強いられた。

 業者はさらに貧しい占領地の現地人子女に目をつけ、甘言で釣り、金で縛って無数のいわゆる「現地ピー」を作った。ビルマ・フィリピン・タイ・ベトナム・インドネシア・マレーの女たちそして、中国の女たち、南方各地のハーフカス(混血女)たちも、日本兵と日本人軍属にからだを売った。

 

 わたしたち、雲南最前線への追及兵がトングーの焼け跡で出会ったのは、第五十五師団及び第五十六師団と中国軍の精鋭第二十八師団との戦闘終了後、軍と業者がいち早く集めた貧しいビルマ娘たちだった。

 帯剣をはずし、巻脚絆を解いてきちんと巻き、靴をぬいで上がった女の部屋で、しかし、結局、わたしはなにもしなかった。生まれて初めての経験で、なにをどうしたらよいかわからなかったからである。

 女はいろいろと挑発したが、わたしはしだいにむなしくなっていき、そしてやがて立ち上がると、けげんな顔をしている慰安婦の枕もとに軍票二枚(ニルピー、つまり二円)を置き、外へ出た。

 

 慰安所「うれしか楼」の上には、淡い黄昏の空があった。

 焦土の上にひろがった、表情のない空だった。

 さて、六十五歳になったわたしの胸中に、今も鮮烈に生きている風景がある。それは、雲南省拉孟の陣地から見た地の果ての山々の寂しい姿である。ヒマラヤに続く高黎貢山系・保山山系の山々が、その荒涼とした貌を見せて、今のわたしの視野につらなっているのだ。

 

 トングーで初めてビルマ人慰安婦と出会ったわたしたちは、六月八日、国境を越えて中国雲南省に入り、サルウイン川(怒江)の岸に九六式十五糎榴弾砲の放列を敷いていた第二大隊の各中隊に配属され、ここに正式に野戦軍の兵士となった。

 わたしは、同年兵の渡辺高雄とただ二人、第六中隊の荒くれ男の中に投げこまれ、最下級兵としての苦難の日々を歩むことになった。

 しかし、一か月後、突如大隊は陣地を撤収して、ビルマ中部の小都市メイミョーに移ることになり、私と辺境の山々との縁は切れ、かつ、命拾いすることになるのである。

 

 中国の雲南遠征軍が怒江を押し渡り、拉孟の日本軍守備隊に攻撃を開始したのは、昭和十九年六月二日で、このとき拉孟にいたのは、野砲兵の大隊長金光恵次郎少佐を長とする各兵種千二百八十名だった。

 十二門の大砲しか持たないこの少数の兵が、四百三十門の大砲を持つ四万八千五百名の中国軍に対し、九月八日の玉砕まで実に百日間にわたって死闘を展開し、軍司令部への戦況報告のため脱出した木下昌己中尉と兵二名の他、ことごとく戦死したのである。

 

 わたしは、わたし自身も兵隊としてそこにいた拉孟で散華した将兵のことを思うたび、胸を締めつけられる痛みを感ずるのだが、もうひとつ、あわれに思うのは、当時そこにいた十数名の慰安婦のことである。

 彼女たちは、金光部隊長の脱出の勧告を断わって兵隊の戦闘に協力し、玉砕のときが迫ると、七名の日本人慰安婦は、他の朝鮮人慰安婦に白布を掲げて投降することを勧め、自分たちは傷病兵といっしょに、青酸カリをあおいで自殺した。

 

 拉孟から直線で五十キロ離れている騰越を守備していたのは、歩兵第四十八達隊長蔵重康美大佐以下二千二十五名だが、これも一名を残して玉砕。そのとき、やはり、朝鮮人の慰安婦を逃がして、日本人慰安婦数名が戦死している。

 

 拉孟の砲側にいるときも、北ビルマの広漠とした山岳地帯を行軍しているときも、トングーの廃墟でめぐり会った痩身のビルマ人慰安婦の幻が、わたしのどこかに生きていた。

 

 そんなわたしが、現実に童貞を捨てたのはメイミョー駐屯中、火砲と牽引車の整備のために出張したラングーンの日本人女性の慰安所においてである。

 しかし、「市丸」という源氏名の日本人プロ女性はきわめて無愛想で、わたしのいのちを賭けた童貞との別れのセレモニーは、何の色彩も感動もなく終わった。

 

 中国軍が退却するとき焼き払っていったビルマ第二の都市マンダレーにも、朝鮮人の女たちを集めた、かなり大きな慰安所があって、一望の焦土の中に店を開いていた。

 

 わたしは、ラングーンヘ往復の際や、カローでの実弾射撃のときにそこへ寄って、日本人とほとんど区別のつかない半島の女と親しんだ。

 朝鮮の女たちには、どこか毅然としたところがあり、兵隊たちにけっして唇を許さなかった。それは、あるいは、自分たちに売春を強制した日本官憲への、意識的な抵抗だったのかもしれない。

 

 わたしが買った朝鮮人慰安婦は、「ニッポン チョーセン テンノウヘイカ オンナチヨ」と言い、天井を向いたまま、やがて朝鮮語で、「アリラン」の唄をうたい始めた。

 わたしは、少年のころから、この朝鮮民謡が好きで、よくハーモニカで吹き鳴らしていた。その旋律は絶妙で、深い悲しみに満ち、わたしの胸をうった。わたしにからだを寄せ、おさえた低音で慰安婦の口ずさむ朝鮮語のアリランは、少年のわたしが心を込めて吹奏した旋律よりも、もっと生々しく曲折した悲しみにあふれていた。それは、自分の祖国を亡ぼし、自分からまともな青春を奪った侵掠者たちに、やむなく身を任せている薄幸の女の、せつせつたる望郷と孤愁のバラードだった。

 

 ガダルカナル逆上陸の作戦が中止になったわたしたち第二大隊八百名の将兵は、ニューギニアの西側にあるチモール島の第四十八師団(土橋兵団)に配属されることになり昭和十七年十二月二十二日、霧雨に煙るテナウの港に到着し、以来終戦直後まで二年十か月を、この飢餓と爆撃の島で送ることになるのである。

 

 今、野戦重砲兵第三連隊(三島市)の戦史を回顧するとき、軍隊は「運隊」であることを痛切に感ずるのである。

 第二大隊がガダルカナルヘ行くと分かったとき、わたしたちは、平和なビルマに残留する連隊本部・第一大隊・連隊段列を大いに羨ましがったものである。ところが、昭和十九年になって状況は急変し、ビルマ残留組は、インパール・アキャブ・イラワジ河畔等の作戦に軍砲兵として酷使され、千二百名のうち八百八十四名が戦死したのに比べ、チモールに上陸した第二大隊は、戦病死その他で九十六名を失うにとどまったのだった。

 

 チモール島の飢餓地獄で生きのびたわたしたちに、武勇伝はない。だから、戦争の話をしろと言われても困るのである。九十六名のささやかな墓標を、南半球の島に残してきたわたしたちの胸にあるのは、被爆と熱帯病と飢えと、執拗な雨との暗い記憶だけである。

 

  しかし、そのいやな島にも、慰安婦たちがいた。そして ほんのすこしばかり、いい思い出を残してくれたのだった。

 はじめ、野戦重砲兵大隊(島の東北部のラウテンに分駐した第五中隊を除く)は、廃都クーパン(といっても、人口数千の小さな町)の郊外に駐屯していたが、兵隊たちは日曜になると、クーパン・バクナシ・オエプラの慰安所へ出かけていって女を抱き、食堂に寄って、わずかに飢えを満たした。

 

 慰安所は四か所あって、朝鮮女のいるクーパンの慰安所以外は、ことごとく、色の黒いチモール女に占められていた。兵隊たちは、そうした女たちの部屋の前に列をつくり、順番を待った。中には待ちきれず、戸をどんどん叩いて、「おう、まだかア」などと催促する者もいた。

 わたしは、チモール女のやさしさと素朴さが好きで、よく通った。どの女も、ジャングルを叩く雨や野に咲く花や貧乏のにおい、生活のにおいを漂わせ、中には、疹廊の痕を白く肌に残しているのもいた。

 

 オエプラには、オランダとインドネシアの混血女もいたが、その異国風の美女は大繁盛で、下士官などには、かなり熱をあげているのがいた。大東亜の盟主などと言いながら、日本の兵隊は、白人の女に弱かった。チモールヘ来る途中寄港したスラバヤでも、ハーフカス(混血女)が商売していると聞くと、目の色を変えて飛んでいく兵隊がいた。

 わたしは、そうした兵隊たちの中に、どうしようもない黄色人種の劣等感を見た。白人を「毛唐」などと言いながら、貧しい日本人たちは、白人をひそかに畏敬し、肌の黄色い自分にコンプレックスを抱いていた。

 

 昭和二十年、わたしたちは、チモール島中部の、ポアスという辺境にいて、ボロボロのシャツやズボンをチモール人の目に曝し、飢え、痩せ細り、ときどきマラリアの熱を発し、何人かの戦友を葬り、辛うじて生きていた。

 そんなところにも、どうしたわけか、やっと暗い雨季も終わった三月、十名のインドネシア慰安婦がやってきて、大隊本部の近くに二棟の小屋を立てて、商売を始めたのである。

 わたしは、休日にさっそく出かけて行って「糸子」という小柄な慰安婦と親しくなった。

 私は、チモールに来てから独学でマレー語(つまり、インドネシア語)を学び、いくらか会話もでき、ずっと中隊の通訳のようなしごとをしていたから、このジャワ島生まれの糸子とは、かなり話が通じたのだった。

 

 わたしはすでに四年兵で階級も兵長になっており、いくらか自由もきいたから、糸子の部屋に入ると、この女を何時間か独占し、その横に寝そべりながら、いっしょにインドネシア民謡の「ブンガワン・ソロ」や「サプ・タンガン」などをうたったり、とりとめもない雑談に、時を過ごしたりした。

 糸子はわたしに、いろいろなインドネシア民謡を教えてくれたが、それらをうたうたびに、わたしはこの小柄なジャワ女を、今もなつかしく思い出すのである。

 

 六十五歳になった老兵のわたしは、今もときどき思うことがある。荒涼とした戦陣生活の中で、わたしたちを慰めてくれたあの女たちは、今、どうしているだろう、またどこかに生きつづけているだろうかーと。

 

 わたしは思うのだが、おそらくその大多数は、慰安婦だった前歴のゆえに、日のあたる場所を大手を振って歩くこともなく、ひっそりと暮らしてきたのではなかろうか。

 わたしたちが、戦場で出会ってせわになった二種類の女たちの中で、従軍看護婦にはやっと若干の国家補償がなされたというのに、同じように将兵に奉仕した慰安姉たちになにかの心づくしがなされたということは、かって聞いたことがない。

 

 ときに、最近、どこかに「従軍慰安婦の碑」が建てられたということを耳にした。

 もしそれが事実なら、わたしはその場所を聞きだして、ぜひ一度訪れて花束を捧げたいと思っている。

 拉孟・騰越で玉砕した女たち、ビルマやチモール島で、わたしによくしてくれた女たちに、無量の思いを捧げながらー。

(昭和六十三年記)

島嶼守備 1

長野県  依田 貞寿

 コロニヤの町に上がり、まず軍装を解き身軽になった。 半月ぶりに土を踏んだ感慨に耽る。やっと生き返ったような気持ちになる。

 本船から艀で送られてくる貨物(兵器・食糧・被服の類)の陸揚げ。大方は民間の作業員が手伝ってくれた。行軍が始まる。南洋の風物はただ珍しい。赤茶けた道路にカタツムリの大きなのが這っている。

 余り多く居るので除けていたのでは行軍にならない。気持ちのいいものではないが踏みつぶしていく。

 こりゃ死骸累々だ。空の蒼さも雲の白さも内地とは違うな。榔子の木は高い。青い実が或いはやや黄ぱんだ大きな実が鈴なり。

 急に汗が吹き出して来た。なまっている身にはこたえる。

 榔予の水はうまいものだと聞いてはいるが経験がない。あちこちから、飲みたいなあの声。

 隊長は目的地に着いたら一杯飲ませるから待てと。

 

 歓迎の島民は道々、天水ですよとサービス、生温かかったが南方でのまず一飲み、忘れがたい。坂もあり、着いた所はナンポンマルという飛行場のある海軍宿舎。

 築後未だいくらも経っていないようだ。材料は内地から持ってきたもののようだ。木材のほか金具は屋根の波板、ボルト、釘だけ。

 

 床が高く窓も広い。本当に雨露をしのぐだけのもの。でも頑丈には出来ていた。飛行場は広い。山よりの方に格納庫が大きかった。零戦が二十機居た。滑走路のほかは痩せた草原。

 次の日から訓練、作業が始まった。作業はニキロほど離れたテアン山麓の斜地に退避壕を掘る工事だ。

 (テアン山はこの島の中央に位置する高さ約六百米の山)

 

 わが隊は旅団司令部の直轄中隊となる。

 司令部との距離はジャングルの中二三百米はあるか。毎日の作業は交替勤務で、坑道の入口に基点を設け、今日は何十センチ進んだと記録していった。

 他に衛兵勤務は通常の三交代で司令部に出て行く。

 

 このナンポンマルに二十日の上居たが、下番の兵隊が休んでいる昼、突然の空襲警報、海軍機が上がる。空中戦だ。

 グラマンは強い。海上に煙を吐いて落ちてゆく。一時、敵機だと喜んでいたら左にあらず、わが零戦の不敗の大和魂の強さを信じていたのは一朝の夢と消えた。

 この後二度ほど空中戦を見たが、わが方の損害の方が多かった。

 

 次いで我が兵舎もコッパ微塵にすっ飛び、我々はこの廃材をジャングルに運び上げ、班ごとに仮の舎屋を造った。幸い大工も屋根屋も土工も皆そろっている。釘は海軍の在庫(これは大部分爆撃で燃えたが残りがまだ樽で山をなしていた)があり助かった。

 小屋は材料運びに時間がかかったが忽ち出来た。ジャングルに覆われ空からは絶対見えない。舎屋は壕の直前にある。毎日深くなり広くもなっていった。

 

 空中戦のあと七・八機の零戦はどこへ引き上げたか、この島に友軍機は無くなった。

 誰も言葉には出さないが、兵隊の心は淋しくなっていった。そんな時、東方に在る島タワラ・マキン(五千四百人)が玉砕と伝わってきた。

 毎日毎夜、無差別に目ぼしいものはと爆撃、人の動きと分かれば低空から銃撃、制空権を取った敵は行動自由自在。

 

 一日に空襲警報は何回鳴ることやら。そのつど銃剣、軍靴、鉄帽を持って壕の中へ。

 警報解除を待って小屋(舎屋)へ戻る。こんな夜昼がどれほど続いたか。

 

 十八年の年を越したか否か記憶にないが、ある夜中、コロニヤの町が火の海、と言っても、もう燃えるものはない筈、後で分かったが後続の部隊が揚陸、時の隊長は人情部隊長で、貨物(兵器弾薬被服糧抹一切)の運搬は明日にしようと海岸に山積みのまま。敵の情報探知は進んでいた。

 その夜に爆撃、弾薬が爆ぜる、火災と爆音、一晩じゆう続いた。

 山裾の高い所からはよく見えた。

       朝風50号掲載 2002.5月

島嶼守備 2

長野県 依田 貞寿

郷子の水

 当初に書くべきだったが、ポナペ島へ上陸の日、ナンポンマルの海軍兵舎に軍装を解き、たしか翌日だったと思う。島民が数人椰子の実を担いで来た。

 皆見て歓声が上がった。島民はうまいもの、この実を左手に載せ、右手に刀(我々はこれを蕃刀と呼んだ)を持って椰子の実(実は外側が厚い繊維で覆われ中に固い核がある。この中に水が一杯)を剪るのであるが、これがまた見事、繊維と核の間スレスレに胚芽の所が現れる。そこを刀の尖端で抉り小さな穴を開ける。幾人もで演じるこの作業は周りの兵隊の喝采を。

 

 この完成品を次々と兵隊に渡す。待望の椰子の水だ。記念する日になるぞ。口に付けるやいなや大方の者が、これは臭くて飲めん。と下におく。中に経験があるのか体質に合うのかほんの二三人、俺によこせと二つも三つも飲んだのもいる。

 

 間もなく食料の欠乏が始まり、飲み慣れてくるとこんなうまい物は何処にもないと言い出す。椰子にはいくつかの種類があるようだ。

 これはココ椰子のことだが、この林に入ると鬱蒼として昼も暗い感じ、地面は湿潤自然に落ちた実が芽を出し伸びてゆく。これをその侭にしておくと成木になってゆくのだ。芽が三四十センチ程に伸びたのを採ってきて、中の核を割ると水はいつしか海綿状のポクポクとした、いくぶん甘みもある。周りには黄みがかったクリーム色、これを都子林檎といった。

 

食料欠乏

 上陸の時、陸揚げした糧秣は十九年の二月まではあったが、上層部からの伝達では明日からは芋(甘藷)が常食になるとのこと、仲間の者は芋など食べていたら胸やけがして困るだろうと気楽なことを言っていた。

 これが軍の杓子定規。前日まで米飯支給、規律一点張り、笑止千万。ところが笑いごとではなくなった。

 形をなした芋は数日で、後は芋の雑炊、、一兵が考えても解り切った食い延ぱしをなぜしなかったのか。これから一年十ケ月、米の飯には一粒も有り付けないことになるのである。

 芋は島民に供出を強いるものだが、前々からの計画ではないので島民も当惑、サトウキビやバナナ・パイナップルが主要作物のようだった。

 そこで芋の供出が計画通りにはいかない。軍はやむなく芋を小さく塞の目に切り、芋の葉を入れて雑炊に作る。

 手遅れと言うか、これから食料増産に取りかかっていった。椰子は水の飲み頃を過ごして木に置くと、核の内面にコプラと言って厚さ五ミリ程の白く固い油質の物が出来る(これは消化は余りいい物ではなかったようだが他日空腹を満たしてくれて助かった)尤もこのコプラになる前の段階には、柔らかい薄い言わば烏賊の刺身のように思える時期があって楽しんだもんだ。

 

 南の国で暖かいこと、衣と住とは楽にしのげるが、食べる物のないのには方法がない。制海制空ともに敵に取られ、加えて兵糧攻めとは皇国も神兵も、いずこの国いずれの時代か、衣食足りて礼節ありだ。

 これからのニケ年近く、餓鬼道に落ちてゆくのである。

 

 椰子について見聞のものを次に記してみます。

 ポナペでみた物、その後私は幸い健康で仕事としてベトナムに行きアフリカはガーナに行き、椰子にはお目にかかったつもりですが、学者でないので詳しいことは解りません。しかしなんとか名前は覚えてききました。

 

 ココヤシの他に、大王・扇・徳利・アブラ・サトウ・ナツメ・旅人・サゴヤシ・オトコ郷子(これはポナペ島で実の成らない種類で我々がつけた名前。この頭部の僅か五十センチ程の中に竹の子に似た部分があって、生で食べられたが、良く煮て食べて生命を保ってきた)も命の恩人。

   朝風51号掲載 2002.6月

島嶼守備3

長野県 依田 貞寿

食料調達

 ちいさな円いままの芋(甘藷)が二つ三つずつ渡ったのが三日とは続かなかった。

 飲むように腹に納め、あとは各々自給といっても班(分隊単位生括なので十二三人になっていた)暮し、食を得るための結束は堅かった。

 十九年の二月ごろまで給料は支給されたと思う。お金を使うことがないので兵隊は金持ちになって居た。

 初めのうち島民は喜んで芋を売ってくれた。とはいっ ても島民にすれば軍に供出しなけりやならんので、いくらでもという訳にはいかない。

 

 それでもお金は島民の所に集まってゆき、札は島民の所にゆき山になっていった。島民は金持ちになっても買うものが無い。金の価値というものが全く無くなっていることに気が付き、兵隊さん、もうお金は要らないです、品物と交換しましょう、と言い出す。まだまだ軍規は厳正、官給品は大事に整頓棚の上に保管し、私物を持ち出して毎食の食べ物と交換(命の代償は大変なことだ)手拭い、着るもの、石けん、タオル、便せん、ノート、風呂敷、鉛筆等日用品が喜ぱれた。

 これも忽ち底をつき、自分達の員数だけは確保し、隣の隊からおんまわしてくる(この言葉は泥棒してくること)、員数合わせのため次々と回ることから自然発生したらしい。

 

 この自給で助かったのは上陸時邪魔だったカタツムリ(アフリカマイマイと言った)

 爆撃てふっ飛んだトタン板でバケツを作り針金で柄を付けてカタツムリを拾って歩いた。

 陸海軍設営部隊から島民まで万からの人海戦術、忽ち取り尽くし、生れたばかりの小指の頭ほどのものまで採り絶やし見えなくなった。

 

 歩哨勤務の行きかえりジャングルの中を根気よく探すと、稀に大きなものを見つけることがある。そんな時、まるで貴重な宝物を得たような気がしたものだ。

 当初この島ではアフリカマイマイに農作物を食害され、打つ手もなく、子供などに奨励して一個一銭で買い上げていた由。それでもどうしょうもなく人海戦術の偉大をつくづく思うのである。

 

 (戦後もう二十年以上になるか、北陸原隊の呼びかけでこの島を訪問したことがあった。島民は歓迎してくれ、気がついてみたら、あれほど跳梁跋扈したマイマイは全然姿をみせなかった)-それにしてもこのマイマイの繁殖力の旺盛だったのと、人海戦術にも今驚いている次第。

 

 隊から渡る雑炊は誰も当てにすることなく、カタツムリは焼いて食べ、また大釜で煮て食べた。椰子の実はたまに配給されたが中には黒玉になって腐っているのがあって、それに当った者は運が悪いこと、木の芽草の根、なんでも口に入れる。裸でいるから胃袋だけが膨らんで、腕も足も細くなり、あぱら骨が出てくる。

 

 上陸当初は南洋の珍果もたまには口に入ったが、この頃は全然お目にかからない。器用な兵隊がいる。ゴム管でパチンコを作り、小鳥やトカゲを捕ってくる。その分隊だけのご馳走だ。

 

 一間だけの小屋に勤務員(この勤務員には特別ここでは上等な弁当を持たせて出してやる)を除いて兵員は十人くらいになるか。大きな蚊帳を吊って寝る。鼠も食べる物がないので、たまにはこの蚊帳の中へ入ってくる。一人がそれに気ずき声を掛ける。

総員で蚊帳の裾を押さえる。この鼠は大きかった。早速明かりをつける。明かりといっても焼夷弾の不発(不発が多かった)の油を抜いて灯芯に火を灯したもの。

 水を汲みに走る者、まな板で料理する者、火を燃やし鉄板を焼き、こま切れの肉が焼かれるいい匂いがする。旨かった。何十日ぶりに肉にありついたことが、あとで考えてみたら旨いわけだ。充分とは食べられぬから振り返りみて今、鼠を食べる気がしないのは、どういうことか不思議だ。

  朝風52号掲載 2002.7月

島嶼守備 4

長野県 依田 貞寿

生きることは食うことだ

 生きるために食う、食うことが人間最高の本能だ。生物はとにかく生きねばならぬ存在だ。理屈も真理も何もない只生きねばならぬのだ。まさに衣食たりて礼節ありだ。まず生きるために食う。その食を得るための手段が、段々に厳しくなって行く。日毎と云うほどに。

 旅団の方では、開墾し畑を作り自給を奨励、まず適地を選定、木を伐り耕し、畝を盛り、島民から供出後の畑の芋蔓をもらい受け、これを三〇センチ程に切って差(植える)しておく。作業は簡単だ。

 若い盛りの者と言っても痩せ衰えている兵隊たちの作業は、慣れないこともあって捗らない。

 

 スコールが日に三回程は来るので、潅漑の手間が助かり苗の活着はいい。しかし作っても作っても、芋は食べられるようにはなってくれなかった。

 ジャングルに敵が落とした爆弾跡は掃いたようにきれいな空間ができる。百平万米くらい或いはもっと有るだろう、同じ所に二度とは爆弾は落ちないという。

 迷信を信じるのも弱い者の願いだ。兵隊は喜んで此処を畑にして芋を植えた。

 

 芋はなかなか育ってくれない。待ち達しい、普通でも三ケ月はかかるんだから、速戦即決に教育された兵隊の気持ちが解る。

 待ってるのは永い辛苦多々、作っても作ってもである。野山を駆け巡り口に入るものは何でも腹に収めた。勇者がいて、俺が食ってみるから死ななかったら皆んな食べろよと、裸でいるから皆の胃袋だけが膨らんで、手足は棒のように細くなっていた。

 

 まだらな林の中に「から松茸」に似た茸があった。これを飯倉に押し込んで煮ると、底のほうにベッタリ幾度も継ぎ足して、やっと飯倉に半分位になったところで腹一杯になる。栄養など全く無かったであろう。木の芽草の根などなんでも渉猟、この島には大きな動物は居なかった。

 

 昼間巡察を装って島民の畑を偵察してくる。夜になるを待って二人一組それぞれに携帯天幕を持って出ていく。例の芋をごっそり戴いてくる。天幕はいい、収納袋になった。みんなは寝てはいるが眠っては居ない。空腹では眠れない。 喋ることも嫌だ。体力が要るのにそれが極端に消耗してる。

 

 話すことも絶対必要な時だけ、頭が働かないのだ。みんな夢遊病人になっている。

 そんな時、芋の荷がとどいた。言わず語らず、火をたく者、水を汲みに行く者、芋を洗う者、一杯蒸し上がった所でみんなの胃袋は満足、やっと眠ることが出来る。

 

 こんな日がどれほど続いたであろう。島民にしてみれば、供出は厳しい軍の命令、芋泥棒のこと、部隊に陳情しても実効が上がらない。彼等は自分で自分を守る自警団組織を作って夜警に当る。

 兵隊は草原に伏せて自警団が行き過ぎるのを天空に透かして待っている。それっと素早い作業、こっちも真剣だ。天幕一杯の芋は、あっという間に堀り採れる。

 

 こんな時の力は今思い出しても不思議に感じる。ただ食うために必死だ。悪の観念のない平常心だ。眠ることができない、喋ることもいやだ。生きる限界をさまよっている。そんなとき爆撃に来る敵機を見るとおのずと身を隠す、これも本能か。

 

 初め爆撃が始まった頃、上陸以来堀りあげた横壕にその都度避難した。装具一切を身に着け我先に入ったもんだ。そのうちずるい者から一人二人と、どうせ死ぬんだと小屋に寝ている者がだんだん増えて、僅かな間に誰も入らなくなっていった。

 

 作っても作っても芋は食べられるようにはならなかった。その原因が分かってきた。

 芋蔓の葉が元気を見せてくると兵隊は、その蔓を引っ張って、まだ地下茎が僅か箸程に膨らんだものを洗いもせず泥だけ手で落として食べてしまうのだ。後のことは考えない。今の今を生きるだけだ。

 

野生となった鶏、猫、豚も、いつの間にか居なくなっていた。惨め、羞恥、勝っていれぱこその皇軍神兵だ。浅ましい限り。落傀の身を感ず。僧俊寛は個であった。我等は同僚部隊としての社会を持っている。

 

 社会と言っても機能も、従って政治もないようなものだ。唯部隊長が国際法を重んじ、あくまでも安寧秩序に心がける人(金沢出身)だった。唯なんとなくこんな社会になっていったが、生きる極限を彷徨い、栄養失調症で多くの友が逝った。

 辛うじて命ある今、ものが言えることの有り難さをしみじみと思う。これがシベリヤだったらどうなっていたであろう。衣食住共の不自由さを思い、ポナベ島よ、ありがとう。

  朝風53号掲載 2002.8月

島嶼守備5

長野県 依田 貞寿

皇軍・神兵は遂に

 体質というものはあるようだ。ろくなものは食べていないのに、人により、まあ比較的に肉付きのいい者と、痩せ衰えている者とが一つの小屋に暮らしている。

 裸で居られるから(越中揮一つで)はっきりと判る。肉付きのいい者は何となく皆から恨まれる。

 貴様、何食うとるんや。隠れてうまいことやっとると違うか。栄養失調になったら最後、薬品はない、施設もない。これをみんな恐れたが、分隊の中からも幾人かの犠牲者が出た。

 

 勤務以外の者は小屋にただ寝まっているが、交替で食料探索に出る。ジャングルの中、実のならない椰子の木がある。これを我々は男都子と呼んだ。学名があるだろうけれど、そんなことはどうでもいい。

 これが高い遠い山奥に行くほど沢山あるようだ。

 

 この木の先端、約五十センチほどの部分が皮をむくと柔らかで、丁度竹の子に似ており、生でも食えるし、よく煮て食べた。だがこれを採るのは大変な苦労、十数米の木を根元から伐り倒すのだ。この外側部分が何とも固い質なので鋸が貴重な存在。

 分隊には入隊まえ各種の職人がいる。大工職も幾人かいた。彼等は鋸を研ぐところの鑢を各自大事に保管していた。

 

 この鋸と網・縄などを持って男郷子を伐りに二人が組みになって出て行く。軒並みに伐っては敵に見られるので間引きとなる。

 ところが木は互いに支え合って、うまく倒れてくれない。やむを得ない。そのままにして他の木にかかる。こうして一人十五六本できると束ね背負って帰ってくる。

 

 あるとき、こんなことがあった。斜めに倒れかかった木に、猿を真似て這い上がり揺すっているうちに急に落下、戦死という痛ましい事故があった。 (これは言うまでもなく、ある日ある所で敏爆撃による戦死扱い)

 

 男郷子はだんだん遠くに行かねば採れなくなってきた。小屋の回りはさすがに慎重、最近まで密生させておいたが、一本伐り二本とまぱらになっていき、青空が見えるようになってきた。明日は死ぬと判っていても今日を生きねばならぬ処まで追い攻められてきているのだ。まれにトカゲ(緑鮮やかで三〇センチ)を採ってきた者が居た。

 

 殊勲甲と喜ぱれ大変なご馳走にありついた。盆と正月が一緒に来たと子供のようだ。

 前にも書いたアフリカマイマイは殆ど絶滅、鰻も採りつくし鼠も居なくなった。野生化した家畜も絶滅、全島人間以外の動物は何も居なくなった。

 島民と兵隊全員が芋作りに励む。こんな時、敵が上陸してきたら一日として持たない。運命は、敵は先を急ぎ無駄な時と犠牲を避けてサイパンに向かっていった。そして爆撃も気のせいか少なくなったようだ。でも食糧はどうしようもない。ますます苦しい。

 

最後の手段

 最後の手段の時となった。あらゆる手を尽くしても食にありつけない。寝ても眠れない。思うことが考える力が出てこない。

 夢遊病者のようだ。でも食う気だけはある。

 

よく食糧難で聞く話に、あれが食べたい、これが食べたい、銀飯を食べてから死にたいなどと言うが、その思いが湧いてこないのだ。

 頭脳が疲れきっているのか。粗末な栄養のない物でも胃袋一杯になると、不思議に悪知恵が出てくる。

 芋泥棒もうまくいかない。兵器は持っている。最後の手段だ。

 二人が三人になり四人となって銃器を持って出てゆく。昼間は駄目。夜間に限る。強盗にまで成り下がってしまった。

 

 各隊からこんな情報が伝わって来てから間もなく、幸いにやっと芋が出来るようになってきた。今考えて、この時期が僅かでよかった。落ちるところまで落ちてしまった。これが長く続いていたらこの社会は敵に手を上げる前に、動乱自滅へ向かっていただろう。今にして思う。むしろもっと早くに敵が上陸し、魂魄とどめ花と散っていった方が良かったとも考えるのである。

 こんな考えが当時日本国の若い者いや大方の思っていた処であったことを伝えたい。

 

 ここ半世紀、変わったな環境が・人間が・思想が。でも人類が文明が進歩したと言い得るだろうか。別な憂いが生まれて来た。

  朝風54号掲載 2002.9月

島嶼守備6

長野県   依田 貞寿

平和が来た   

 八月十五日十六時というのにもう日が西に傾いている。此処は東経百六十度、内地に時計を合わせているので(内地では東経百三十五度に太陽が南中した時をもって正午と決めている)太陽に比ぶれば二時間も違う。

 参謀本部や軍令部は全戦線時計を統一しているのだ。隊長は勤務以外の兵全員を裏の台上の広場に集合させた。

 分隊毎の小屋は間隔が十五米もあるか、解放的な建物は窓から隣分隊の兵隊と話しができる位、集合命令は逓伝で忽ち伝わる。重大な伝達だと言う。

 

 中隊長の口から戦争が終わったことが伝えられ。軽挙妄動を戒める様にとの旅団長の言葉が添えられた。わが隊にとてもそんな意気などありはしない。それでも中には神国を尊び最後の勝利を誉じて、天に向かい働哭した兵隊が居た。

 これを聞いて呵々大笑した兵隊も居た。混乱と言えばこんな一幕で終わったが、大かたの者はこれでほっとした様だ。

 兵站線の無い近代戦など一兵が考えても有り得ない。輸送が絶え友軍機が一様も来ない。乞食暮らしも平常の世、牢獄も平和な社会、それ以下に成り下がり我を張って居たところで滅び行くより他に道が無い。

 

 大和魂はどこに、皇軍は神兵は、かつて日本に武士道が有った。相手に屈服した時、潔く降参し、参ったと謝したものだ。兜を説いだのである。この武士道はどこに行ったのであろう。

 焼土となっても、たとえこの民族が一人となってもと。こんな精神、こんな教育はどこから来たのであろう。

 今日ではもっと早く兜を説ぐべきだったと、みんな悟っている。けれど当時の為政者には言い分が有るであろう。

 しかし多くの同胞何百万を殺した罪は誰が負うべきか。結局国民全体で負うことになってしまった。

 

 不思議に思うのは昔神風が吹き、国を救って来たことを。

 その思想を学校で習って来た、即ち日本は神国だと。最近も神の国だと発言した大臣が居た。今子供にも笑わせるなど言われる、そんな世の中だ。裸の王様ではないが、昔戦争に負けるとは、誰も言わないし、また言い得なかった。兵隊は負けることを知っていた。為政者が指導者だけが知らなかった。

 

百八十度反対に

 皮肉なことに、戦争が終わって飢餓彷徨の底をついた所で、芋が出来るように成ってきた。敵機は来なくなり空はきれいだ。

 雲が白い。太平洋を渡ってくる風が椰子の葉を揺する。みんな澄んだ空気を吸った。漁師は平常心に戻り沖へ落ち着いて漁に出かける。鰹鮪の真ん丸いのが分隊毎に配給される。こんな山奥の小屋にも何年ぶりだ。

 

 やあ正月だ盆だ。兵隊の顔色が良くなってきた。芋の皮も厚くむくように成った。器用な兵隊がいて、餅に搗いて舌ざわりのいい団子に造った。

 そのうちに芋を発酵させることを考えた。蒸留し焼酎を取ることを考える。盛りの時に出る度は七十度も有るそうだ。蒸留機の蛇管など良く造ったものだ。有無相通じると言うが、物が有ってこその工夫発展だ。

 物が絶無ではどう仕様も無い。無からの有は無い。又、有の種を見つけたい。その種を育てて実を取ることを知る。

 

 今、貧も苦も飢餓も忘れ、思い起こすのは故山の風光・親族・故旧、老父や妻や妹はどうしているだろう。走馬灯の様に帰国の日が映る。毎日そんな話題に平和な日が過ぎて行く。飢餓・空爆の日が実際に有ったのか、とそんな錯覚さえ覚える。

 

 焼酎を飲み高歌放吟、人間とは何と度しがたい者であろうぞ。乞食に劣り囚人にも及ばず、そんな暮らしから困却辛苦を忘れ一転、生まれながらの王侯貴族の育ち然として毎日を空しく送る。これが何と青春の一時とは。然し僅かな反省も有った。無事に帰れたら、一年に一度一日はせめて、芋だけの生活をして、この島での生活を思って頑張ろうよと、話してきたものだが、あれから何十年未だに実行出来ないでいる。それどころか、この頃は日々贅沢三昧に耽っている。これでいいだろうか。只そんなことを思うだけで、今日も暮れていく。自分自身が度しがたいのである。

     朝風55号掲載 2002-10月

島嶼守備7

長野県 依田 貞寿

敗戦(終戦)

 負けたことのなかった日本が遂に負けた。

 大和魂がほんのアッと言う間にすっとんだ。

 神州不滅と教育され、神がかりに大和民族の誇りを信じてきた。日清・日露・シベリヤ・第一次戦争と連戦連勝、そんな中で教育されてきた。そして我らは亦、忠君愛国そのもの、世界無二・万世一系、日の丸の国を信じてきた。

 

 九月に入ってからと思う。アメリカ軍の統治に切り替わる儀式をやるという。即ち今日からは戦勝国アメリカの星条旗が掲げられ、アメリカの統治に服すというのだ。

 星条旗が上がったその式場、我が軍により保護されていた欧州の宣教師が、星条旗の挙がるのを見て感激のあまり思わず「おお懐かしの我が星条旗よ」と、あたり憚かることなく叫んだ。

 これを聞いた最高司令はすかさずその宣教師に向かって、この儀式はアメリカだけのものではない。破れたりとは言え日本の皆様の心中を思わぬか。

 しかもあなたは日本軍の手厚い庇護のもとに今日あるのに、失礼千万であると戒めた。

 

 こんな式典の日の模様が、その日のうちに伝えられてきたのである。我らは流石アメリカだと感心し合ったもの、「水師営の会見」はいいとして、昭和十七年シンガポールでのあのイエスかノーか「山下奉公とパーシバルの会見)、何と傲慢な態度、ひと時の虚勢以外の何ものでもないではないか。

下位の一兵すらも恥かしく思うのである。

 

昨日の敵は今日の友

 前に書いたと思うが米機を一機撃墜した時、敵兵の遺体を丁重に弔い墓も整備してあり、アメリカ軍は好意を持ったようである。その後、戦死者についていろいろと問い合わせがあった由。所持品について母の写真・恋人からの指輪・レターなど、それらの中には出てきた物もあったが、全く不明のものもあった。そんなことから米軍は 「戦闇中のことだから在り得ることで仕方がない」と、理解を示したと言うことで又アメリカそのものの評価が高まっていった。

 

 平和はいい。戦争は怒り・恨み・憎しみ無駄なエネルギーを使い、悪鬼以上の何物でもない。平和は友好親善、万葉の古歌に「生まるれぱ遂にも死ぬるものなればこの世なる間を楽しくあらな」と。

 人類は親しみたい楽しみたい。我々は直接には米軍を見ることが少なかったが、上層部(旅団本部)の情報は大小漏れなく伝わってきた。

 

 やはり民主々義の国だ。急にアメリカの偉大さ、先進の文明に感心するようになっていった。

 しかし我らは決して屈従ではない・奴隷根性ではないとの自覚はもっていた。

 一歩進んだ国と戦争などして、との反省を言うものも居た。

 

戦友よ、泰らかに

 食べるものは足り、平和が戻ってきた。

 今度は故郷へ帰れることが問題だ。食料が足りたといっても、芋が食える以外栄養はと疑問を言う者が居る。若さの盛りの者の集団だから、何とか生きてはきたが、専門家が生理的に診たら、大変偏っているであろうことは誰が見てる解ることだ。

 戦死した仲間のことを思えば、贅沢は言えない。

 ジャングルの中、粗末な墓地ではあったが誠意清掃し花を捧げ、生前の功を瞑想するよりほか手だてがなかった。

 

 懐かしの故国に帰り、ああも仕たい、こうも仕たいなどと言い得ることの申し訳ない気持ち、だが思いは故国へ。これから何十年夢を追う人生が在るのに、若い命を君国のため異国の土にとは、国を、為政者を責めても、どうなるものでもない。遺族の心は何ものによっても慰められるものではない。「塚も動け、わが泣く声は秋の風」と詠んだ先哲があった。

 

 我れらここに島護りとなり二年有余、戦い破れ平和な世を迎う。今日も固い芋(さつまいも)と塩だけは在る。でも平和という、なにものにも優る宝に浸ることができたのだ。

     朝風56号掲載 2002-11月

島嶼守備8

長野県 依田 貞寿

終戦処理

 小さな島ではあったが、本部(旅団、陸海から設営部隊まで一万位は居たか)の事務引き継ぎはたいへんだったようだ。

 すなわち地理・交通・通信・統計等また部隊の装備即火力の配置等、中には全く機能していないものもあったようだ。現況の報告説明は数日で終わったようだ。旅団での責任者遠の苦労話もまま聞こえてきた。

 

 沖に停泊の米駆逐艦上での会見が行われた際、旅団長以下が艀で向かう。当方は正装で舷門から乗船しようとしたところ、番兵はすかさず腰の日本刀を一時預かりますと、取り外してしまったとのこと、どんな会見が行われたのか知る由もないが、渡辺閣下は丸腰で帰って来たともっぱらの評判だった。

 

 翌日になって米軍は丁重に彼の軍刀を返しに来たと聞いた。末端の我々兵隊は旅団長が丸腰で帰った事を笑い話に乗せる気楽さであったが、温厚実直なそして国際法を守る旅団長を思えば、武人として当然死を覚悟してのものだったろう。

 乃木将軍と対将ステッセルとの会見が思い出されるのである。たいへん緊張したものであったろう。

 

兵器弾薬の処理 

 帰還に際しては帯剣さへ佩びること罷りならぬとあって、この小火器から大火砲その弾薬まで、コロニヤの港一か所に集積された。我らはその際小火器の小銃を誰も一発も撃っていない。初年兵などはおそらく実包射撃の訓練さえしていない。

 若者にただ軍服だけを着せ、数を集めて戦場に送るの愚を今笑う。菊のご紋章の新銃が塗油手入れされてピカピカ、米軍はこんな旧式の物は一切不要という。

 兵器は軍人の魂、・我らは一介の民草と洗脳され、本日を境に東から吹き来る異なった神風に変わる。

 戦後の処理というか昭和の十八年上陸当初、島の奥地に分散疎開させた弾薬(この時は勇気凛々体力もあった)逆に今度はこれを港まで人肩運搬(しかも被服・編上靴は敵の上陸時に備えて、今では内地に復員のため、ここは年中暑いが日本は寒気迫る候)木の皮で鞋・草履を編んで履いた、痩せた裸に砲弾の大きな物は一箱に一個、山道は良くない、肩に縄が食い入る。爆撃の音を聞いて小屋に寝まっていた方が良かったなあと冗談も出る。現実の苦役はいかに辛いものか、現実逃避は人間の性か。

 山から運び出す使役は幾日も続いた。

 

 一か所に積んでみると山になり、まあ良くもこんなに在ったものだと、昔自分達がした事に驚く。以前は山へ担ぎ上げたのに今は海岸に降ろすのにたいへんな苦痛を感じるのである。弾薬のその薬莢は真楡の鮮やか錆び止めの塗油でピカピカ。

 米軍は全く惜し気もなく、沖遥か深海の藻屑と捨てて惜しげもなし。命在って欲望の萌しかこの薬莢の一つを花立てに欲しやと、裸中揮一つ苦役の弾薬運びは、とても門に凭るの白髪には見せられたものではなかった。

 

 既に芋(サツマイモ)は出来るようになり、腹一杯に食べられる満腹感が愚痴を言わなくなった。いつ頃だったか兵隊は栄養を言うようになった。

 軍医の話とか芋だけで十分の養分を摂るには三貫目(十一キロ)必要との事、これでは胃袋が持つまい。まあ偶に魚も配給されるようになり、話はひたすら故郷に帰る日のこと、直ぐにも帰れるものと、それこそ大海を知らずの蛙だ。

 船が無いのだ、戦域は地球の半ばに及び、敗戦国日本には船が皆無の状態。でも米軍の戦略も在り、南の島守りは食糧事情も在って、早く帰らすらしいとの情報も流れて来た。

  朝風57号掲載 2002.12月

島嶼守備9

長野県 依田 貞寿

平和がおとずれた

 島民は部隊が上陸前の平和な暮らしに戻った。然し芋がゆっくり食えるようになっただけで、戦前のような僅かでも余裕のある生活には程遠いものがあった。相変わらず自給自足創意工夫の暮らしだ。それでも将来が明るい希望が湧く。我らには故郷がある、父母親族が待っている。こうなったからには一日も早く故国の土を踏みたい、老いた父母を慰めたい、青春を取り戻さねばならぬ、生活の設計、人生はこれからだ。

 

 いろいろ噂が飛ぶ。いわゆる流言飛語だ。この島に上陸した三年前金沢での待機は四十日を越えていた。出発の命令が出ない船が無いのだ。そんなこととは知らず兵隊は夏服で朝晩ふるえながら一日千秋、今日は今日はと輸送船を待ちつづけた。

 九月の初めに召集を受け馳せ参じたが、いよいよの出発は十一月に入っていたと思う。その間訓練演習ほかに大事な準備があった。輸送船がやられた時の筏にと竹や樽を買い集め、それぞれ兵器弾薬用・被服糧抹用・人員用にと山をなす準備。

 軍は既に万策尽きていた。最後の最後、虎の子を出してきた感じ。艦隊の出動を余儀なくされ、南洋の要衝にということに相成ったのであろう。

それは戦艦山城・伊勢を含む軍艦八杯の艦隊、お陰で我らは幸い無事に目的地に上陸することが出来た。後続補充の輸送船は敵の攻勢もあって、その何パーセントかが着の身着のままで、やっと島に辿り着くことができた。

 まことに幸不幸の分かれ目、人生雄図の緒、有為な若者の何と無念なるや。

 

 旅団では部隊兵員みな健康に留意するよう気を配ってくれた。盲爆の中よくも生き延びてきた事を思えば、死んでいった仲間が哀れでならない。急に悲しみが込み上げてくる。健康留意は有難いがやりようがない。

 結局精神力ということになった。なるほどそうだと皆納得した。自らを律するより他ないと。粗食ながらも一応腹に充ち、部隊も島も全体の安寧秩序が整い、平和な日が続いていった。でも何時まで経っても迎えの船ぱ来なかった。

 戦域は全世界に及び当方の船はおそらく零、戦勝国でも少なくなっているだろう。

 

 戦争が終わってみれぱ、なんと愚かな事をしたもんだ、物・体・心の消耗戦、希望も成長も皆無、パンドラの箱ならず、希望さえ残らないではないか。でも我らはこれからの人生だ、故郷がある、親兄妹が居る。それぞれに燃えるものを持っている。人生のやり直し、何としても落ち込んだどん底から這い上がらねばならぬのだ。

 親族故旧を助け励まし、共に築いて行かねばならぬ社会があるのだ。島には学ぶ材料が乏しい。情報も伝わって来ない。思えば兵員それぞれに個性あり人徳もある。互いに学ぶべしとの大発見、故郷の風物話題、個人の経歴思想、要は学ぼうとする意欲、志に有りだ。

 

 話の中から、相手の行いから、学ぽうとするもの即ち教科書は無限にある。日々を愉快に楽しく暮さねばならぬ。一日一日が長く感じる者、或いは短く感じる者、寸陰を競えと言い合い、意気に感じ生き甲斐を思い自己を磨き、価値ある人生たらしめよ。

 命あってよかった、死んだ友が哀れでならない。どうすることも出来ないのだ。ただその生前の行動を考えを後世に賛え冥福を祈るほか手段がない。

 今や八十年の人生と言うを、若干二十とは天も神をも恨みに思う。

 

 旅団長は、敗れたりとは言え日本武人の嗜み、せめて兵隊に帯剣だけでも着用させたいと米軍に懇願したとの話だったが、遂に寸鉄も帯びること罷りならんとの解答だったと。ただ階級章だけは団体の秩序の上から船中だけは着用、上陸と同時に脱廃とのことで話を付けたことが伝わってきた。上に立つ者の苦労が察せられる。だが船は何時来るのか、何時乗船できるのか、一日一日が明けそして暮れて行く。予測は皆目不可解だ。

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(事務局・久田・註) 依田さんの戦記は、よくぞここまで克明に書かれ、その記憶力に驚嘆した。広い戦域の中での一断面であり、貴重な戦場の記録と言える。   

朝風58号掲載 2003.1月

島嶼守備10 さらばポナペよ 帰還 復員

                                      長野県 依田 貞寿

一日千秋

 十二月になった南の島では冬を感じないが、兵隊はそれぞれ故郷の四季を思い出す。立冬だ小雪だ冬至もあったな、蒟蒻を食べたっけ、池には水が張りつめ、雪の坂道では橇滑りも楽しんだ。

 今頃は甥や姪が楽しんでいるだろうよ。校庭での雪投げ(戦争、と言った。今でも言っているかどうか)も懐かしい。

 

 異郷での生活は単調に過ぎて行った。戦線何干キロ、いや何万キロ。世界中に船が殆どと言っていい程、なくなっているのが、戦後の情報により我々にもよくわかってきた。戦勝国と敗戦国と折衝しているからであろう。そのことはよく解って居る積もりながら迎えの船は何時やらと一日が千秋だ。

 

 十二月が一日、一日と日を刻んでいく。

 長い、長い一日だ。裸で暮らして居る兵隊に生気が感じられる。はっきヽりは思い出せないが、たしか十日を過ぎて居たろうと思う。ついに待望の命令が出たのである。明日の午後、携行食二食を持ってコロニヤ桟橋に集合との命令だ。

 

 愈帰るとなれば、二年有余住んで来た島にも、親しみが湧くというもの。身辺何もない筈が急に忙しくなってきた。

 内地は寒さに向かう時期。まず被服、靴の手入れ。多少の見回り品も持って行きたい。常夏の南洋に慣れて二年有余。急に厳寒に向かう。そんな事も心配になる。

 

 携行食といっても、堅芋(雑炊食が長かったのでヽ形のままの芋をこのように呼んだ)三、四個だ・幸い塩は(自給)十分持った・貧弱な体に汗が吹き出す。

 夏服とはいえヽ裸暮らしに着装ときては慣れない事も有って窮屈だ。船はどんな船か・何を食わせてくれるのかな。パンか米の飯か。待望は楽しみ。明日が待ちどおしい。明日は米軍の検査も有るだろう。思い切って捨てる物を多くし、これで手荷物軽しだ。だが、これも惜しい、あれも欲しい。悟り切って居るようで居て、何と煩悩がまた追いかけてくる。人生とは煩悩との競争か。自分自身がいやになったりする。

 

身回り品    

 雑嚢と風呂敷包み一つ。中身には枇槨樹の外皮部分が固い竹に似て、白黒の紋様有り。箸に作れば格好の物。もう一つ椰子の実。この中の種の部分、固い核に脂み有り。磨けば茄子に似て光沢有り。

 印籠代用になる、これまた見事。こんな物の幾つかが家への土産といえば土産。

 欲を言ってはいけない。命を無くして居る者も居るのだ。こんな時私は千宇文中にある「尺璧非賓・寸陰可惜」の句を思い出すのだ。

 

 私の部隊は旅団指令部の直轄護衛なので山地深く入り込んで居たから、海岸と違い、珊瑚や貝の類にはお目にかからない。よって爆撃目標にも成らず、この点では大分助かって居た。

 島民には大部迷惑をかけぱなし。申し訳ないと思いながら、どうすることもできない。

 海岸戦に駐屯していた隊では、島民と共に暮らして居たようで、懇意な者もできており、別れを惜しんだようだが、我々にはそういう情宜も無いあっさりといえばあっさり、別れを惜しむ者も居ない。ただ、山や入り江、リーフに寄せる太平洋の白波だけが脳裏に有る。南洋のこの山河、迷惑をかけたな、誰に言うとも無く詫びる心が湧いてきた。

 

 愈今宵一夜の縁、さらばボナペよ。悪かったな、許してくれよ。明日は故国へ。

 北国は今寒烈の冬枯れの野だ。だが、ここが故郷だ。ほかに帰る所は無いのだ。

 太平洋の真ん中の島、みんな元気に幸せになってくれ。

 地味肥沃、気候温暖、平和な世、産業も文化も興れ。     

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谷田川・ 註

 この原稿のワープロを打っている時、大学の教え子が訪ねてきました。

  「先生、私ポナペヘ行ったことあります」と、この記事を熱心に読んでいました。戦争体験の継承者がこんなところにもいます。その時、菊地さんからのファックスがきました。

  「この原稿みんな先生がワープロに打つの?体こわしちゃうよ」と心配してくれました。パソコンだと楽だからと、強引にヨドバシカメラに連れていかれて買いました。使わずにいますが。  

  朝風59号掲載 2003.2-3号

島嶼守備11 さらば ポナペよ 帰還復員 乗船

 長野県 依田 貞寿

 島での最後の一夜が明けた。みんな元気だ。かつて子供の頃遠足の日の気分。

 だが見送ってくれた父母の姿はない。この情景この心故山に届け。だが衣袴も軍靴も身につかない(二年有半の空白)。

 ただ汗だけが吹き出してくる。大陸ではかつて銃を持ち背嚢を背負い弾薬糧抹の重装備、これを思えば心に何だと言い聞かせても体が動かない。

 

 コロニヤの桟橋まで四キロ余有ったと思う。見るとどこから集まってきたのか久かたに見る大部隊だ。

 時折点呼が有る。

 艀ぶねが幾つか待機している分乗し各自発進。リーフに開けてある水道を超えて外海に出る、遠ざかり行くテアンの頂き又ジョカージの巌、戦中爆撃を受けるばっかりの島のジャングルも去るとなれば、なぜか寂しい気が涌いてくる。

 

 沖遥かと見た本船に近づく。何処からともなく上陸用の舟艇母艦だとの声、やがてはっきりと船客が見えてくる。舟は前向きか後ろ向きか壁(船腹)に当たる部分が広い厚い鋼鉄板、外側に開いて人間は勿論重車両でも容易に出入りの出来るように出来ている。我らの艀は横づけられた。

 

 乗員(豪州兵)の指示により高い低いが無いので(輸送船で縄梯が思い出された)楽々乗船出来た。

 船中は広く天井も高く大きな体育館か講堂のようで、ただガランドの空間だ、聞けばこの船は上陸用に戦車など重装備の車両や重火器を敵前に上陸させる為のものの由、LSTと云った、日の有るうちに乗船を終わり船は出発したらしい。

 

 この広い鉄の床に携行の毛布を敷き各自の居住区何日かかるか、故国に向かっているのは事実なのだと自分に言い聞かせる。

 一日の時聞か永い仲間との会話はかつての戦場、故郷の情景ああ、故山は幼少喜戯せる山や川、繰り返し繰り返してのくどい話、そしてひと日一日を刻んで行く。

 夜が明ける携行のまず第一食、食べ慣れれたポナペの芋もあと一食、船中の食事はどんなものか好奇心が募る。明日の食事から船中食だ。

 

 夜が明ける最後の芋食よく噛み締めてなど冗談もでる。船は太平洋の真ん中に只一艦、来る時のようなジグザグは無い。

 

 昼近く食事受領の指示、携帯天幕はいい収納袋となる。分隊(十名~十四名)ごとに受けてくる。何を食わせてくれるのだろうと皆目を皿にして開けて見る、各自三食分か一時に渡る朝・昼・夕と厚紙の箱に色分け、緑・土・空色の識別だ、この箱は幾重にも蝋曳きされて有り野積みして置いても、変化しないように出来ているには感心、恐らく水に漬かって居ても数日開持つであろうと思われる。

 

 一日分の携帯食だ、珍しがてらに早速開いて見る、缶詰・ペーパー・煙草・パン或いはビスケット・チーズ・バター・クリーム・缶詰には三食の識別あり(魚・卵・ハム等)、このバターとチーズには大概の者は□に合わず枕元に山積みされていった。こんなだったらもっと芋をたんと持ってくるだったと、ジャングルの中の生活が懐かしい。

 

 二、三日はお客扱い野宿のような、ただゴロ寝生活にも交代で作業が回ってきた。みんな退屈で居るので喜んで出ていった。作業は看板みがき(手入れ)だ。

 そのうちに我々の居住区まで未て兵隊を指名する。彼は体を壊して居るのでと言っても聞かない。この原因が後で解ったのだが、アメリカ兵は時計をはめて居る者を見て指名、しゃにむに連れて行く、作業終わり聞いて見ると、個室に入れられスタンダップ時計を取られ金も全部盗られたと言う、これは大事小中隊長に報告、この被害は二日ほどで止んだ、この事件が何十年今に忘れないのは、余がその事件の始末に立ち会ったからである。

 

 隊長は余にその被害を調査し被害者に返してやり、事件を収めようとのことだった。被害金額、強奪された時計を各人毎に調査、時計については各自を確認金銭については額の案分で納得してもらった。

 時計もお金もほぼ七割ほどが還ってきた、戦場の余熱去らず未練の兵には奢りの心の高まり、戦勝と戦敗の悲劇の一幕が講和成ってもなおあつかったのだ。影で届かぬ所で何を言っても無駄と知りつつ、これは海賊船だ忘れまいとその船名LST一一八

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谷田川・註

「・・・・こんなことなら、もっと芋を持ってくるんだった」とジャングル生活を懐かしんだ依田さんの戦争体験を現代っ子に聞かせたらどんな反応をするでしょう。

 何を食わせてくれるかな、興味津々の船中食、蝋引きの包装紙、これなら数日間水につかっても大丈夫

など読みながら、日本の軍隊の補給線の貧しさ、兵隊さん達のご苦労(というより惨憺たる生活ぶり)や、作戦の無謀さを考えました)    

朝風60号掲載 2003.4月

島嶼守備12 さらばポナペよ 帰還復員

長野県 依田 貞寿

船中

 船中での一夜が明けた。甲板に出てみる。太陽の位置からして北に向かっているのはわかる。太平洋は名前のとおり穏やかな海、何も見えない静かな波のうねりだけだ。単調に過ぎない航跡など見あき、集まって皆で雑談した方が退屈しのぎだ。

 下士官兵は同居だが将校は別室の待遇、うちの少隊長(H)が来て、私に君の隣村の軍医さんが来ているよと、名前を聞くと平賀軍医中尉だという。

 隣村は春日村といった。そこには平賀医院というのがあった。田舎のことで名前は知れていた。その息子かなと直感。

 H少隊長は「一度将校室に来てみたら」と言って帰った。小さな島で各隊それぞれ守備に張り付いているので、部隊の交代は殆ど行われなかった。暇で持て余しているので早速行ってみた。

 

 初対面の若い顔だ。親子で医者をやっており、平賀軍医は其の弟の方だと穏やかな性格が読み取れた。

 いろいろ話した中から今に脳裏にあるのは、福島県の平市(現いわき市)の病院に行って二、三年勉強し、将来は故郷の近くで開業したいとそんなことを言っていた。戦勝国アメリカの船は敗戦の兵を載せて其の母国へ、船中若者の希望を開いて自分の胸の晴れ行くのを覚えた次第。

 

 復員してからの氏は暫く自宅で父の手伝いをしていたが、間もなく中山道は望月の宿本陣だった大森家に養子した。そしてすぐに開業し内科専門に、今では子供も成長医院を続けている。

 

 アメリカの携行食は口に合うもの合わぬもの、運動もしないので、空腹も余りには感じない。そんな時、珍しや米の粥食がたった一回切り渡った。飯盒は持っていたので、それに分けて何年ぶりかの米の飯だ、銀飯じゃないがむしろ直接白米など食わせたら、強過ぎて胃腸を壊さぬかとの親心だと言う者もあった。皆そうだそうだと自分に言い聞かせている。

 

 我々はこの年まで米の飯から離れたら即病気になるなり、死んでしまうじゃないかと大変に思っていたが、良くしたものだ、何を食べても生きられる。まして昨今は地球上のありとあらゆるものが身近に迫っている。認識を改めようとさらに文化や政治思想、高邁な理想も。

 でも忘れられないのは帰還船中只一回、あの粥の味塩をふりかけーロ啜った粥だった

 

黒潮に流される

 普通一週間ほどで故国に着けるとの話だったが、とうとう黒潮に流されたとのこと、茨城県の東あたりを流され脱出できない由、このLSTは軍艦でいつも戦車や重量の兵器車両を積んで敵前にての揚陸目的のもの、積み荷が人間だけでは軽過ぎて流さればなし、戦乱は止んだがこれも非常時だ、それでアメリカも船舶損失のところ目的外に、この南方は食糧事情からいっても亦占領政策からいっても、この方面の部隊を優先に帰したのであろう。

 潮が弱まった所で穏やかな太平洋に抜け出し浦賀に人るんだという。そのため普通の倍の時間がかかったのではないか。

 

軍隊が嫌いだった将校

 金沢出陣の時からこの将校は(先の少隊長H)英和、和英とコンサイス辞典を持っており、時により、折りにふれて英語を勉強していた。

 かつての島守りの折り、指令部は米英と書くのに、(けものへん)をつけて情報を各隊に流していた。

 Hはこれを見て嘲笑った。こんな感情で、こんな非科学的で戦争に勝てるわけがないと米軍に知らせて嘲笑ってやろうとまで言った。

 指令部では反戦思想の持ち主とは知っていたようだ・当時ヽ外国語は敵性語といって、特に陸軍では極端に嫌ったもんだ。(海軍ではそんなことはなかったようだ)

 

 数日が経って、珊瑚礁の外洋で、米駆逐艦上にて、島が軍政に代わる会議を行うという。ここでHは通訳に選ばれ、一躍一線に躍り出た面目躍如。

 後日談になるが、その後Hは何回も逢っている。氏はつくづく述懐して言った。「旅団長がお前ほど戦地では役に立たなかった将校も無かったが、終戦後お前ほど役に立った将校もなかった」と。

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谷田川・註

 故国に向かう帰国船の状況や、兵士たちの動き、判断など、よくもこれほど正確に覚えていらっしゃるものだと驚きます。

 淡々とペンをすすめていらっしゃるようですが、依田さんには終生消えることない強烈な体験の日々だったのでしょう。この体験記録は子どもさんに、お孫さんにご家族すべての方々に素敵なプレゼントだと思います。

 小山市の天野道有さんが初孫さんの一歳のお誕生を祝って「平和の使徒」の詩をお贈りになったように。

 会員の皆さんの大切な命の記録集にしていただきたいと思います。読み終わったら知らない間に、古新聞の束の中にまぎれしまう『朝風』ではなく、何年後、何十年後になっても「これがあなたのおじいちゃん、おばあちゃんだよ」と語り継がれるものであったら嬉しく思います。

 依田さんや小沢さん(戦場よさらば)にお願いしたいことは、故国に帰還したときが終りではなく、その後の生き方のようなことに少しでも触れていただけたら嬉しいです。

    朝風61号掲載 2003.5月